ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:新井白石

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 今日は、江戸時代中期の1716年(享保元)に、儒学者・政治家新井白石が自叙伝『折たく柴の記』を起筆した日ですが、新暦では11月17日となります。
 『折たく柴の記』(おりたくしばのき)は、儒学者・政治家新井白石の自叙伝で、3巻3冊からなり、平易な和漢混交文で記したものでした。1716年(享保元年10月4日)から起筆し、上巻で祖父や両親のこと、自己の生い立ちから甲府侯仕官までの事跡、中巻で江戸幕府第6代将軍徳川家宣 (いえのぶ) の補佐として幕政に尽力した正徳(しょうとく)の治のこと、下巻で第7代将軍家継の治績と政治的事項について記しています。
 書名は、『新古今和歌集』‐哀傷に見られる後鳥羽院の歌「思ひ出づる をりたく柴の 夕煙 むせぶもうれし 忘れがたみに」からとったものとされてきました。私的な見解・主張が記されて客観性には欠けるとされますが、儒教の理想主義を実現しようとする白石の為政の態度がうかがわれ、政治・思想関係史料としても重要で、文学的にもすぐれたものとされ、日本の自伝文学の傑作と言われています。
 以下に、『折たく柴の記』序を掲載しておきましたので、ご参照下さい。

〇新井 白石(あらい はくせき)とは?

 江戸時代中期に活躍した儒学者・政治家です。江戸時代前期の1657年(明暦3年2月10日)に、上総久留里藩士新井正済と妻千代の子として江戸神田柳原に生まれましたが名は君美(きんみ)といいました。
 初め父正済と共に久留里藩主土屋利直に仕え、寵愛されましたが、1677年(延宝5)に土屋家の内争に連座して追放禁錮の処分を受けます。しかし、1679年(延宝7)土屋家の改易により禁錮が解け、1682年(天和2)に至り大老堀田正俊へ出仕しました。
 ところが、1684年(貞享元)堀田正俊が刺殺されたため、6年後の1691年(元禄4)には堀田家を辞去し、江戸城東に塾を開いて子弟の教育にあたります。1693年(元禄6)に、師木下順庵の推挙で、甲斐府中藩主徳川綱豊の侍講となりました。
 1709年(宝永6)に5代将軍綱吉の死によって、綱豊が第6代将軍家宣となると、間部詮房とともに将軍を補佐し幕政に参画、第7代家継も補佐します。その中で、朝鮮使節の待遇改革、金銀貨改良、長崎貿易制限、司法改革などをすすめて幕政の改善につとめ、「正徳の治」と言われてきました。
 第8代将軍吉宗の就任にともない失脚して引退、その後は、著述活動に勤しみ、自伝『折たく柴の記』をはじめ、『読史余論』や『西洋紀聞』など多数の著書を著わします。朱子学を基本として、歴史学、地理学、国語学、兵学など多方面に才能を発揮、漢詩人としても高く評価されましたが、1725年(享保10年5月19日)に、68歳で亡くなります。

<新井白石の主要な著書>

・『藩翰譜 (はんかんぷ) 』 (1701年)
・『采覧異言』 (1708年)
・『読史余論』 (1712年)
・『采覧 (さいらん) 異言』 (1713年)
・『西洋紀聞』 (1715年)
・『古史通』 (1716年)
・『古史通或問』(1716年)
・『折たく柴の記』 (1716年起筆)
・『東雅』 (1719年)
・『南島志』 (1719年)
・『蝦夷志』(1720年)
・『東音譜』
・『同文通考』
・『白石詩草』
・『本朝軍器考』
・『白石手簡』
・『新井白石日記』
・『先哲像伝』

☆『折たく柴の記』序

 むかし人は、いふべき事あればうちいひて、その余はみだりにものいはず、いふべき事をも、いかにもことば多からで、その義を尽くしたりけり。我父母にてありし人々もかくぞおはしける。父にておはせし人のその年七十五になり給ひし時に、傷寒をうれへて、事きれ給ひなんとするに、医の来りて独参湯(どくじんたう)をなむすゝむべしといふ也。よのつねに人にいましめ給ひしは、「年わかき人はいかにもありなむ。よはひかたぶきし身の、いのちの限りある事をもしらで、薬のためにいきぐるしきさまして終りぬるはわろし。あひかまへて心せよ」とのたまひしかば、此(この)事いかにやあらむといふ人ありしかど、疾喘(しつぜん)の急なるが、見まゐらするもこゝろぐるしといふほどに、生薑汁(しやうがじる)にあはせてすゝめしに、それよりいき出で給ひて、つひに其病癒(い)え給ひたりけり。後に母にてありし人の、「いかに、此程は人にそむきふし給ふのみにて、また物のたまふ事もなかりし」ととひ申されしに、「されば、頭のいたむ事殊(こと)に甚(はなはだ)しく、我いまだ人にくるしげなる色みえし事もなかりしに、日比(ひごろ)にかはれる事もありなむには、しかるべからず。又世の人熱にをかされて、ことばのあやまち多かるを見るにも、しかじ、いふ事なからむにはと思ひしかば、さてこそありつれ」と答へ給ひき。これらの事にて、よのつねの事ども、おもひはかるべし。かくおはせしかば、あはれ、問ひまゐらせばやとおもふ事も、いひ出でがたくして、うちすぐる程に、うせ給ひしかば、さてやみぬる事のみぞ多かる。よのつねの事共(ども)は、さてもやあるべき。おやおほぢの御事、詳(つまびらか)ならざりし事こそくやしけれど、今はとふべき人とてもなし。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1707年(宝永4)宝永地震が起き甚大な被害が出る(新暦10月28日)詳細
1872年(明治5)官営模範工場の富岡製糸場が操業を開始する(新暦11月4日)詳細
1876年(明治9)言語学者・国語学者・随筆家新村出の誕生日詳細
1877年(明治10)詩人・医師伊良子清白の誕生日詳細
1945年(昭和20)GHQが「政治的、公民的及び宗教的自由に対する制限の撤廃に関する覚書」(SCAPIN-93)を出す詳細
1976年(昭和51)俳人・医師(医学博士)高野素十の命日詳細
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 今日は、江戸時代中期の1710年(宝永7)に、江戸幕府が漢文体から和文に改訂した「武家諸法度」(宝永令)17ヶ条を発布した日ですが、新暦では5月13日となります。
 「武家諸法度」(宝永令)は、第6代将軍家宣の時のもので、その政治を支え、「正徳の治」を実行した儒学者新井白石の起草によるものでした。本文を和漢混交文から和文に改訂し、読んで理解の行き届く表記とし、「武家諸法度」(寛永令)の条文によりながらも、内容を17ヶ条に整理統合しています。
 その中で、「武家諸法度」(天和令)の時の改訂で行われた殉死の禁等を継承し、また諸役に就いた武家が権勢に誇り賄賂に惑わされることを戒める条を新設しました。これは、儒教の仁政思想(徳治主義)を取り込んで文治政治の理念を明瞭化するなど、より具体的な条文に改定したものとされます。
 しかし、効力を持った期間は7年ほどに過ぎず、第8代将軍吉宗の「武家諸法度」(享保令)によって破棄され、「武家諸法度」(天和令)の内容に戻されました。
 以下に、「武家諸法度」(宝永令)を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇武家諸法度(ぶけしょはっと)とは?

 江戸幕府が諸大名統制のために制定した基本法です。天皇、公家に対する「禁中並公家諸法度」、寺家に対する「諸宗本山本寺諸法度」(寺院法度)と並んで、幕府による支配身分統制の基本となりました。
 1615年(慶長20)に大坂城落城による豊臣氏滅亡直後に伏見城に諸大名を集め、徳川秀忠の命という形で発布したのが最初となり、改元された年号を取って元和令とも呼ばれています。元々は1611年(慶長16)に徳川家康が大名から取り付けた誓紙3ヶ条に、家康の命によって金地院崇伝(こんちいんすうでん)が起草した10ヶ条を加えたもので、漢文体(宝永令から和文に改訂)となっていました。
 内容としては、一般的な規範や既に慣習として成立していた幕命などを基本法とし、「文武弓馬ノ道、専ラ相嗜ムヘキ事」を最初として、品行を正し、科人を隠さず、反逆・殺害人の追放、他国者の禁止、居城修理の申告を求め、私婚禁止、朝廷への参勤作法、衣服と乗輿の制、倹約、国主の人選について規定し、各条に注釈を付けています。その後、第3代将軍徳川家光のとき、参勤交代の具体的方法の規定や大船建造の禁などを加えて19ヶ条(寛永令)となり、一応の完成をみましたが、以後も時勢に応じて、寛文令(1663年)、天和令(1683年)、宝永令(1710年)と部分改訂が行われてきました。
 第8代将軍徳川吉宗のとき、宝永令を廃止して第5代将軍徳川綱吉の時の15ヶ条(天和令)への全面的な差し戻しをしてからは、幕末までほぼこれによることになります。将軍の代替りごとに諸大名にこれを読み聞かせ、違反者は厳罰に処されてきました。特に初期には、この違反を理由に、たびたび大名の改易が起きています。

☆「武家諸法度」(宝永令) 1710年(宝永7年4月15日)発布

一、文武の道を修め、人倫を明かにし、風俗を正しくすべき事。
一、国郡家中の政務、各其の心力を尽くし、士民の怨苦を致すべからざる事。
一、軍役の兵馬を整備へ、公役の支料を儲蓄ふべき事。
一、参勤の交替其の定期を違ふべからず、従者の員数其分限に過べからざる事。
一、新築の城郭私に経営する事を聴さず、其の修築に至ては、堀土居石垣等は 上裁を仰ぐべし。矢倉門塀等は制限にあらざる事。
一、大小の諸役、諸番の頭人等、権勢に依りて人を凌ぎ、公儀を仮りて私を営 むべからず。同列 相和らぎて衆議を会し、上聞を□がずして下情を通し、 偏頗なく贔負あらず、各其の職事に練習して公務を精勤すべき事。
一、貨賄を納れて権勢の力を仮り、秘計を廻らして内縁の助を求む、皆是れ邪 路を開きて正道を害す、政事のよりて傷るゝ所なり、一切に禁絶すべき事。
一、群飲佚游の禁、旧制既に明白なり。凡そ奢靡を競ひて礼制によらず、財利 を貪りて廉恥をかへりみず、妄りに人才の長短を論し、竊に時事の得失を議 す、風を傷り、俗を敗る事、是より甚しきはなし、厳に禁止を加ふべき事。
一、私領百姓の訴論は其の領主の裁断たるべし、事もし他領に係るにおひては、 或ひは両地の領主互に相通じ、或ひは支配の頭人各相会して議定すべし、事 尚一決し難きにおひては、評定所に就て採決を請はしむべき事。
一、越境の違乱犯罪の追捕等、其の余何事に限らず、私に争論に及ぶべからず、 事もし相和らぎ難きに至りては、各其の事を注進すべし。若し刑罰の事これ 有る時は、使たる者の外、私に出会ふ事をゆるさず、凡そ使として差遣はす もの、其の人の高下其の事の大小を論ぜず、敢て対捍あるべからざる事。
一、衣服居室の制并びに宴饗の供贈遺の物、或ひは奢侈に及び、或ひは節倹に 過ぐ、皆是礼文に節にあらず、貴賎各其の名分を守りて、大過不及に至るべ からざる事。
一、乗輿の制、凡そ万石以上より、国主の嫡子、庶子、城主并びに侍従以上の 嫡子に至り、其の余、年五十以上の輩の外、みだりに是をゆるさざる事。
一、婚姻は凡そ万石以上、布衣以上の役人并びに近習の輩等私に相約する事を ゆるさず、若しくは公家の人々と相議するにおひては、まづ上裁を蒙りて後 に、其の約を定むべし、嫁娶の儀式すべて旧制を守りて、各其の分限に相随 ふべき事。
一、継嗣は其の子孫相承すべき事論ずるに及ばず、子なからんものは、同姓の 中其の後たるべき者を撰ぶべし、凡そ十七歳より以上は其の後たるべきもの を撰び、現在の日に及びて望請ふ事をゆるす、或ひは実子たりといふとも、 立べき者の外を撰び、或ひは子なくして其の後たるべき者を撰ぶのごときは、 親族家人等議定の上を以て、上裁を仰ぐべし、若し其の望請ふ所のごときは、 其の濫望をゆるすべからず、しかりといへども、或ひは父祖の功績或ひは其 の身の勤労、他に異なる輩におひては、望請ふ所なしといふとも、別儀を以 て恩裁の次第有るべき事。
一、殉死の禁、更に厳制を加ふる所なり、或ひは徒党を植て、或ひは誓約を結 ぶのごとき、妄りに非義を行ひて敢て憲法を犯すの類、一切に厳禁すべき事。
一、諸国散在の寺社古より寄付の地、これを没却することをゆるさず、新建の 寺社に至りては、停止既に訖りぬといへども、若し故ありて望請ふべき事有 におひては、上裁を仰ぐ事を許す、且は耶蘇の厳禁はいふに及ばず、たとひ 古より流布の諸宗たりといふとも、或ひは新異の法をたて、或ひは妖妄の設 を作りて、愚俗を欺き惑はすの類、是又厳禁すべき事。
右の条々、旧章に由りてこれを修飾す、すべて教令の及ぶ所、遠近一つによろしく遵行すべき者なり。
  宝永七年寅四月十五日

    『御触書寛保集成』より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

571年(欽明天皇32)第29代の天皇とされる欽明天皇の命日(新暦5月24日)詳細
905年(延喜5)醍醐天皇の命により紀貫之らが『古今和歌集』を撰進する(新暦5月21日)詳細
1155年(久寿2)天台宗の僧・歌人慈円の誕生日(新暦5月17日)詳細
1716年(享保元)江戸幕府が五街道の呼称を布達する(新暦6月4日)詳細
1994年(平成6)「世界貿易機関を設立するマラケシュ協定」(WTO設立協定)が調印(翌年1月1日発効)される詳細
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 今日は、江戸時代中期の1716年(享保元)に、江戸幕府が五街道の呼称を布達した日ですが、新暦では6月4日となります。
 五街道(ごかいどう)は、江戸時代の主要陸上交通路のことで、江戸日本橋を起点とする東海道・中山道・奥州道中・甲州道中・日光道中のことをいい、幕府が直接支配をしました。当時最も整備されていた街道で、参勤交代など主として、おもに公用に使われています。
 これらの街道が定められたのは、江戸幕府第二代将軍徳川秀忠の時代で、1604年(慶長9)に日本橋を五街道の起点として定め、幕府安泰のために江戸を防衛することを目的として、街道の要所に関所を置いて通行人を取り締まりました。政治的・軍事的に重要な五街道は幕府直轄とされます。
 そして、金山奉行の大久保長安の指揮の元に、江戸日本橋を起点として、東海、東山、北陸の三道の両側に一里(約4km)ごとに一里塚を築いて、街道沿いに並木を植えることを命じました。慶長年間(1596~1615年)に東海道、日光街道(日光道中)、奥州街道(奥州道中)、中山道、甲州街道(甲州道中)の順に整備され、2~3里ごとに宿場を設け、本陣・脇本陣・旅籠・問屋場などが設置されます。1659年(万治2)以降は、新たに設置された道中奉行の管轄に置かれました。
 1716年(享保元年4月15日)に、幕府は新井白石の意見をもとに、五街道の正式名称を定める布達を出します。しかし、民間では中山道を中仙道、木曾街(海)道といい、甲州道中を甲州街道ということも慣用されて定着せず、複数の呼び名が用いられてきました。

〇「五街道の名称に関する江戸幕府の布達」 1716年(享保元年4月15日)

   五畿七道之中に
 東山道(トウセンタウ)
 山陰道(センヲンタウ)
 山陽道(センヤウタウ)
   いつれも山の字をセントよみ申候、
   東山道の内の中筋の道に候故に、古来より中山道と申事に候、
   海道と申事ハ、
 東海道
 南海道
 西海道
   いつれも海国の道筋を申候、
   海なき国と申伝へ候ハ、
 下野の国
 甲斐の国
   此道に海道と申事のあるへき事にもなく候へは、
 日光道中
 甲州道中
 右之通にて可然候、

   「御触書寛保集成」より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

571年(欽明天皇32)第29代の天皇とされる欽明天皇の命日(新暦5月24日)詳細
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1155年(久寿2)天台宗の僧・歌人慈円の誕生日(新暦5月17日)詳細
1994年(平成6)「世界貿易機関を設立するマラケシュ協定」(WTO設立協定)が調印(翌年1月1日発効)される詳細
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 今日は、江戸時代中期の1712年(正徳2)に、江戸幕府第6代将軍徳川家宣が亡くなった日ですが、新暦では11月12日となります。
 徳川家宣(とくがわ いえのぶ)は、1662年(寛文2年4月25日)に江戸根津邸にて、徳川綱重の長男(母はお保良の方)として生まれましたが、幼名は虎松といいました。父・綱重が正室を迎える前の子であったので、世間を憚って一時家老新見正信に養われ、新見左近と名乗ります。
 しかし、父・綱重には他に男子が生まれなかったので、1670年(寛文10年)に嗣子となって、甲府藩邸に戻り、1676年(延宝4年)には、元服して綱豊と名のり、従三位左近衛権中将に叙任されました。同年10月25日、17歳の時に、父・綱重が死去し、家督を継承、甲府25万石を継ぎ、翌年には近衛基熙の娘熙子と結婚します。
 1680年(延宝8年)に参議、正三位に昇り、さらに10万石を加増されて35万石を領し、1690年(元禄3)には、権中納言に昇進しました。1704年(宝永元)に第5代将軍綱吉の養子となり、家宣と改名、江戸城西の丸に入り、翌年には、従二位権大納言に叙任されます。
 1709年(宝永6)に第5代将軍綱吉が亡くなると、48歳で第6代将軍となり、正二位内大臣に叙任され、江戸城本丸に移りました。甲府藩以来の側近である側用人間部詮房や儒者新井白石を重用して、前代の悪政の修正として、権勢を振るった柳沢吉保を退け、「生類憐みの令」を廃止、「武家諸法度」を改訂するなど政治の刷新を図ります。
 儒教的徳治主義を政治の理想とし、朝鮮通信使の待遇を改め、儀礼の整備、勘定所機構改革、宿駅制度の改革、通貨改良などに着手、後世に「正徳の治」と称されるようになりました。ところが、在職わずか4年足らずの1712年(正徳2年10月14日)に江戸城内において、数え年51歳で亡くなっています。

〇徳川家宣関係略年表(日付は旧暦です)

・1662年(寛文2年4月25日) 江戸根津邸にて、徳川綱重の長男(母はお保良の方)として生まれる
・1664年(寛文4年) 生母お保良の方(長昌院)が亡くなる
・1670年(寛文10年) 綱重の嗣子となり、甲府藩邸にもどる
・1676年(延宝4年) 元服して綱豊と名のり、従三位左近衛権中将に叙任される
・1678年(延宝6年10月25日) 17歳の時、父・綱重が死去し、家督を継承、甲府25万石を継ぐ
・1679年(延宝7年) 近衛基熙の娘熙子と結婚する
・1680年(延宝8年) 参議、正三位に昇り、さらに10万石を加増されて35万石を領する
・1690年(元禄3年) 権中納言に昇進する
・1704年(宝永元年12月5日) 第5代将軍綱吉の養子となり、家宣と改名、江戸城西の丸に入る
・1705年(宝永2年) 従二位権大納言に叙任される
・1709年(宝永6年1月10日) 第5代将軍綱吉が亡くなる
・1709年(宝永6年5月1日) 48歳の時、第6代将軍となり、正二位内大臣に叙任される
・1709年(宝永6年11月2日) 江戸城本丸に移る
・1712年(正徳2年10月14日) 江戸において、数え年51歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1867年(慶応3)第15代将軍徳川慶喜が朝廷に政権返上し、大政奉還される(新暦11月9日)詳細
1873年(明治6)祝祭日を定める太政官布告「年中祭日祝日ノ休暇日ヲ定ム」が発布される詳細
1986年(昭和61)洋画家荻須高徳の命日詳細
2007年(平成19)埼玉県さいたま市大宮区に鉄道博物館が開館する詳細


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 今日は、1657年(明暦3)に、儒学者・政治家新井白石の生まれた日ですが、新暦では3月24日となります。
 新井白石は、江戸時代前期の1657年(明暦3年2月10日)に、上総久留里藩士新井正済と妻千代の子として江戸神田柳原に生まれましたが名は君美(きんみ)といいました。
 初め父正済と共に久留里藩主土屋利直に仕え、寵愛されましたが、1677年(延宝5)に土屋家の内争に連座して追放禁錮の処分を受けます。
 しかし、1679年(延宝7)土屋家の改易により禁錮が解け、1682年(天和2)に至り大老堀田正俊へ出仕しました。
 ところが、1684年(貞享元)堀田正俊が刺殺されたため、6年後の1691年(元禄4)には堀田家を辞去し、江戸城東に塾を開いて子弟の教育にあたります。
 1693年(元禄6)に、師木下順庵の推挙で,甲斐府中藩主徳川綱豊の侍講となりました。1709年(宝永6)に5代将軍綱吉の死によって、綱豊が6代将軍家宣となると、間部詮房とともに将軍を補佐し幕政に参画、7代家継も補佐しました。
 その中で、朝鮮使節の待遇改革、金銀貨改良、長崎貿易制限、司法改革などをすすめて幕政の改善につとめ、「正徳の治」と言われます。
 8代将軍吉宗の就任にともない失脚して引退、その後は、著述活動に勤しみ、自伝『折たく柴の記』をはじめ、『読史余論』や『西洋紀聞』など多数の著書を著わしました。
 朱子学を基本として、歴史学、地理学、国語学、兵学など多方面に才能を発揮、漢詩人としても高く評価されましたが、1725年(享保10年5月19日)に、68歳で亡くなります。

〇新井白石の主要な著書

・『藩翰譜 (はんかんぷ) 』 (1701年)
・『采覧異言』 (1708年)
・『読史余論』 (1712年)
・『采覧 (さいらん) 異言』 (1713年)
・『西洋紀聞』 (1715年)
・『古史通』 (1716年)
・『古史通或問』(1716年)
・『折たく柴の記』 (1716年起筆)
・『東雅』 (1719年)
・『南島志』 (1719年)
・『蝦夷志』(1720年)
・『東音譜』
・『同文通考』
・『白石詩草』
・『本朝軍器考』
・『白石手簡』
・『新井白石日記』
・『先哲像伝』
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