
後半の寺内寿一陸軍大臣に対しては、軍人の政治運動に対して厳しく批判し、軍部革正(粛軍)を強く要請すると同時に議会軽視の傾きのあった軍部に対し、厳しく迫りました。また、軍部に擦り寄っていく政治家に対しても、強烈な批判を浴びせています。
この質問演説は1時間25分にも及び、都下の大新聞はいずれも第一面全部にそれぞれ大文字の標題を掲げ、演説中の粛軍に関する速記を満載して、議会未曽有の歴史的大演説であると激賞しました。その後、1940年(昭和15)2月の第75帝国議会では,東亜新秩序声明や汪兆銘政権樹立を軸とする「支那事変」処理政策を批判(反軍演説)、衆議院から除名されています。
以下に、斎藤隆夫の「粛軍演説」を全文掲載しておきますので、ご参照下さい。
東京専門学校(現在の早稲田大学)行政科を卒業し、渡米してエール大学大学院で公法・政治学を学び、帰国後弁護士を開業します。1912年(明治45)5月、郷里より国民党所属で衆議院議員に初当選し、以後13回当選しました。
戦前は、立憲国民党・立憲同志会・憲政会・民政党に所属し、硬骨な自由主義者で雄弁家として知られ、浜口雄幸内閣で内務政務次官となり、第2次若槻礼次郎内閣の法制局長官を経て、斎藤実内閣では再び内務政務次官を務めます。昭和時代に入るとファシズムに抵抗する議会活動を展開し、1935年(昭和10)1月24日の陸軍パンフレット・軍事費偏重批判演説、翌年5月7日の二・二六事件に対する粛軍演説、1940年(昭和15)2月2日の日中戦争解決に関する反軍演説は特に有名となりました。
反軍演説で、軍部を怒らせて懲罰に付され、民政党を離党せざるを得なくなり、同年3月7日に帝国議会からも議員除名されますが、1942年(昭和17)の翼賛選挙では翼賛政治体制協議会の非推薦ながら最高点当選し、返り咲きます。太平洋戦争後は、日本進歩党を結成、第一次吉田内閣と片山内閣の国務大臣を務めましたが、1949年(昭和24)10月7日に東京において、79歳で亡くなりました。著作に『帝国憲法論』、『比較国会論』などがあります。
