ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:文部省

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 今日は、昭和時代中期の1947年(昭和22)に、文部省が「教育漢字」881字を発表(翌年2月16日に内閣告示)した日です。
 教育漢字(きょういくかんじ)は、義務教育期間中(1958年以降は特に小学校6年間となる)に、読み書き共にできるように指導することが必要であると認められた漢字の通称でした。1946年(昭和21)11月16日の「内閣訓令第7号」、「同告示第32号」で公布された「当用漢字」 1,850字の中から、1947年(昭和22)9月29日の国語審議会の答申に基づき、10月6日に文部省から881字(通称:教育漢字)が発表され、翌年2月16日に、「当用漢字別表」として内閣告示・訓令されます。
 その後、1968年(昭和43)に改訂された「小学校学習指導要領」では、115字が学習の対象に加えられて計996字となり、さらに1992年(平成4)より1,006字に改められ、2020年(令和2)より1,026字となって、学年別に配当されてきました。
 以下に、現行の「教育漢字」学年別漢字配当表(1,026字)を掲載しておきましたので、ご参照下さい。

〇当用漢字表(とうようかんじひょう)とは?

 昭和時代中期の1946年(昭和21)11月16日の「内閣訓令第7号」、「同告示第32号」で公布された、現代国語を書き表すために、日常使用する漢字1,850字の表です。「当用」とは、日常生活においてさしあたって用いるものとでもいう意味で、「法令・公用文書・新聞・雑誌および一般社会で,使用する漢字の範囲を示したもの」でした。
 その後、1948年(昭和23)に「当用漢字別表」が公布され、881字がいわゆる「教育漢字」とされ、続いて「当用漢字音訓表」、翌年には「当用漢字字体表」(當→当、藝→芸などの簡略字体採用)が公布されて音訓と字体が定められ、公用文、新聞その他に採用され、小・中・高の学校教育にも適用されます。また別に、1951年(昭和26)に「人名用漢字別表」が公布され、当用漢字以外でも人名に用いてさしつかえないものとして92字が認められました。
 尚、1954年(昭和29)に国語審議会が「当用漢字表補正試案 (当用漢字補正資料) 」を出し、28字の入替えを提案しましたが、この漢字制限に対し、いろいろの反対論も出されます。1972年(昭和47)に国語審議会は当用漢字改正音訓表を答申して翌年公布され、これをもとに1981年(昭和56)3月23日に「常用漢字表」を答申しました。
 そして、同年10月1日に、当用漢字にかわるものとして、当用漢字に95字を追加した「常用漢字表」が内閣告示・同訓令として公布されています。

〇現行の「教育漢字」学年別漢字配当表(1,026字)

・第1学年(80字)
一 右 雨 円 王 音 下 火 花 貝 学 気 九 休 玉 金 空 月 犬 見 五 口 校 左 三 山 子 四 糸 字 耳 七 車 手 十 出 女 小 上 森 人 水 正 生 青 夕 石 赤 千 川 先 早 草 足 村 大 男 竹 中 虫 町 天 田 土 二 日 入 年 白 八 百 文 木 本 名 目 立 力 林 六

・第2学年(160字)
引 羽 雲 園 遠 何 科 夏 家 歌 画 回 会 海 絵 外 角 楽 活 間 丸 岩 顔 汽 記 帰 弓 牛 魚 京 強 教 近 兄 形 計 元 言 原 戸 古 午 後 語 工 公 広 交 光 考 行 高 黄 合 谷 国 黒 今 才 細 作 算 止 市 矢 姉 思 紙 寺 自 時 室 社 弱 首 秋 週 春 書 少 場 色 食 心 新 親 図 数 西 声 星 晴 切 雪 船 線 前 組 走 多 太 体 台 地 池 知 茶 昼 長 鳥 朝 直 通 弟 店 点 電 刀 冬 当 東 答 頭 同 道 読 内 南 肉 馬 売 買 麦 半 番 父 風 分 聞 米 歩 母 方 北 毎 妹 万 明 鳴 毛 門 夜 野 友 用 曜 来 里 理 話

・第3学年(200字)
悪 安 暗 医 委 意 育 員 院 飲 運 泳 駅 央 横 屋 温 化 荷 界 開 階 寒 感 漢 館 岸 起 期 客 究 急 級 宮 球 去 橋 業 曲 局 銀 区 苦 具 君 係 軽 血 決 研 県 庫 湖 向 幸 港 号 根 祭 皿 仕 死 使 始 指 歯 詩 次 事 持 式 実 写 者 主 守 取 酒 受 州 拾 終 習 集 住 重 宿 所 暑 助 昭 消 商 章 勝 乗 植 申 身 神 真 深 進 世 整 昔 全 相 送 想 息 速 族 他 打 対 待 代 第 題 炭 短 談 着 注 柱 丁 帳 調 追 定 庭 笛 鉄 転 都 度 投 豆 島 湯 登 等 動 童 農 波 配 倍 箱 畑 発 反 坂 板 皮 悲 美 鼻 筆 氷 表 秒 病 品 負 部 服 福 物 平 返 勉 放 味 命 面 問 役 薬 由 油 有 遊 予 羊 洋 葉 陽 様 落 流 旅 両 緑 礼 列 練 路 和

・第4学年(202字)
愛 案 以 衣 位 茨 印 英 栄 媛 塩 岡 億 加 果 貨 課 芽 賀 改 械 害 街 各 覚 潟 完 官 管 関 観 願 岐 希 季 旗 器 機 議 求 泣 給 挙 漁 共 協 鏡 競 極 熊 訓 軍 郡 群 径 景 芸 欠 結 建 健 験 固 功 好 香 候 康 佐 差 菜 最 埼 材 崎 昨 札 刷 察 参 産 散 残 氏 司 試 児 治 滋 辞 鹿 失 借 種 周 祝 順 初 松 笑 唱 焼 照 城 縄 臣 信 井 成 省 清 静 席 積 折 節 説 浅 戦 選 然 争 倉 巣 束 側 続 卒 孫 帯 隊 達 単 置 仲 沖 兆 低 底 的 典 伝 徒 努 灯 働 特 徳 栃 奈 梨 熱 念 敗 梅 博 阪 飯 飛 必 票 標 不 夫 付 府 阜 富 副 兵 別 辺 変 便 包 法 望 牧 末 満 未 民 無 約 勇 要 養 浴 利 陸 良 料 量 輪 類 令 冷 例 連 老 労 録

・第5学年(193字)
圧 囲 移 因 永 営 衛 易 益 液 演 応 往 桜 可 仮 価 河 過 快 解 格 確 額 刊 幹 慣 眼 紀 基 寄 規 喜 技 義 逆 久 旧 救 居 許 境 均 禁 句 型 経 潔 件 険 検 限 現 減 故 個 護 効 厚 耕 航 鉱 構 興 講 告 混 査 再 災 妻 採 際 在 財 罪 殺 雑 酸 賛 士 支 史 志 枝 師 資 飼 示 似 識 質 舎 謝 授 修 述 術 準 序 招 証 象 賞 条 状 常 情 織 職 制 性 政 勢 精 製 税 責 績 接 設 絶 祖 素 総 造 像 増 則 測 属 率 損 貸 態 団 断 築 貯 張 停 提 程 適 統 堂 銅 導 得 毒 独 任 燃 能 破 犯 判 版 比 肥 非 費 備 評 貧 布 婦 武 復 複 仏 粉 編 弁 保 墓 報 豊 防 貿 暴 脈 務 夢 迷 綿 輸 余 容 略 留 領 歴

・第6学年(191字)
胃 異 遺 域 宇 映 延 沿 恩 我 灰 拡 革 閣 割 株 干 巻 看 簡 危 机 揮 貴 疑 吸 供 胸 郷 勤 筋 系 敬 警 劇 激 穴 券 絹 権 憲 源 厳 己 呼 誤 后 孝 皇 紅 降 鋼 刻 穀 骨 困 砂 座 済 裁 策 冊 蚕 至 私 姿 視 詞 誌 磁 射 捨 尺 若 樹 収 宗 就 衆 従 縦 縮 熟 純 処 署 諸 除 承 将 傷 障 蒸 針 仁 垂 推 寸 盛 聖 誠 舌 宣 専 泉 洗 染 銭 善 奏 窓 創 装 層 操 蔵 臓 存 尊 退 宅 担 探 誕 段 暖 値 宙 忠 著 庁 頂 腸 潮 賃 痛 敵 展 討 党 糖 届 難 乳 認 納 脳 派 拝 背 肺 俳 班 晩 否 批 秘 俵 腹 奮 並 陛 閉 片 補 暮 宝 訪 亡 忘 棒 枚 幕 密 盟 模 訳 郵 優 預 幼 欲 翌 乱 卵 覧 裏 律 臨 朗 論

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1559年(永禄2)戦国時代の絵師狩野元信の命日(新暦11月5日)詳細
1831年(天保2)棋士・将棋十二世名人小野五平の誕生日(新暦11月9日)詳細
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1940年(昭和15)「奢侈品等製造販売制限規則」実践のため、大阪で女子モンペ部隊が、贅沢全廃強調大行進を行う詳細
1942年(昭和17)「戦時陸運ノ非常体制確立ニ関スル件」が閣議決定される詳細
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 今日は、明治時代後期の1893年(明治26)に、文部省が訓令「小学校祝日大祭日歌詞並楽譜」を布告し、「君が代」など8曲を祝日・大祭日の唱歌にした日です。
 「小学校祝日大祭日歌詞並楽譜」(しょうがっこうしゅくじつたいさいびかしならびにがくふ)は、明治時代後期の1893年(明治26)に、文部省が小学校に祝祭日のお祝いの儀式を執り行うよう指示し、その儀式の時に歌う歌とした8曲の歌詞と楽譜の布告です。1873年(明治6)10月の「明治6年太政官布告第344号」で「年中祭日ノ休暇日ヲ定ム」とし、紀元節、天長節などの祝日が定められましたが、これらの儀式に歌うべき唱歌をどうしたら良いか、という現場からの問い合わせに対して、文部省は初めの頃、いくつかの例をあげ、現場の状況に応じて適宜判断するよう指示していました。
 しかし、混乱を無くすため、2年程かけて慎重に審議し、祝日に小学校で歌うべき曲を定めて布告したものです。その中で、①君が代、②勅語奉答、③一月一日、④原始祭、⑤紀元節、⑥神嘗祭、⑦天長節、⑧新嘗祭の8曲の歌詞と楽譜が示されました。
 以下に、「小学校祝日大祭日歌詞並楽譜」を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「小学校祝日大祭日歌詞並楽譜」(明治26年文部省告示第3号)1893年(明治26)8月12日公布

文部省告示第三号

小学校ニ於テ祝日大祭日ノ儀式ヲ行フノ際唱歌用ニ供スル歌詞並楽譜別冊ノ通リ撰定ス

明治二十六年八月十二日

    文部大臣        井上毅

文部省告示第三号別冊

 目次
 君が代
 勅語奉答
 一月一日
 元始祭
 紀元節
 神嘗祭
 天長節
 新嘗祭


・「君が代」 古歌
        林広守作曲
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君(きみ)が代(よ)は。 ちよにやちよに。
さゞれいしの。 巌(いはほ)となりて。
こけのむすまで。

・「勅語奉答」 勝安芳作歌
        小山作之助作曲
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あやに畏(かしこ)き 天皇(すめらぎ)の。
あやに尊(たふと)き 天皇(すめらぎ)の。
あやに尊(たふと)く 畏(かしこ)くも。
下(くだ)し賜(たま)へり 大勅語(おほみこと)。
是(これ)ぞめでたき 日(ひ)の本(もと)の。
国(くに)の教(をしへ)の 基(もとゐ)なる。
是(これ)ぞめでたき 日(ひ)の本(もと)の。
人(ひと)の教(をし)への 鑑(かゞみ)なる。
あやに畏(かしこ)き 天皇(すめらぎ)の。
勅語(みことの)まゝに 勤(いそし)みて。
あやに尊(たふと)き 天皇(すめらぎ)の。
大御心(おほみこゝろ)に 答(こた)へまつらむ。

・「一月一日」 千家尊福作歌
        上真行作曲
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第一章
年(とし)のはじめの 例(ためし)とて。
終(をはり)なき世よ)の めでたさを。
松竹(まつたけ)たてゝ 門(かど)ごとに。
いはふ今日(けふ)こそ たのしけれ。

第二章
初日(はつひ)のひかり あきらけく。
治(をさ)まる御代(みよ)の 今朝(けさ)のそら。
君(きみ)がみかげに 比(たぐ)へつゝ。
仰(あふ)ぎ見(み)るこそ たふとけれ。

・「元始祭」 鈴木重嶺作歌
        芝葛鎮作曲
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天津日嗣(あまつひつぎ)の 際限(きはみ)なく。
天津璽(あまつしるし)の 動(うご)きなく。
年(とし)のはじめに 皇神すめがみ)を。
祭(まつり)ますこそ かしこけれ。
四方(よも)の民(たみ)くさ うち靡(なび)き。
長閑(のどけ)き空(そら)を うち仰(あふ)ぎ。
豊栄とよさか)のぼる 日(ひ)の御旗(みはた)。
たてゝ祝(い)はゝぬ 家(いへ)ぞなき。

・「紀元節」 高崎正風作歌
        伊沢修二作曲
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第一章
雲(くも)に聳(そび)ゆる高千穂(たかちほ)の。高根(たかね)おろしに草(くさ)
も木(き)も。なびきふしけん大御世(おほみよ)を。仰(あふ)ぐ
今日(けふ)こそたのしけれ。

第二章
海原(うなばら)なせる埴安(はにやす)の。池(いけ)のおもより猶(なほ)ひ
ろき。めぐみの波(なみ)に浴(あ)みし世(よ)を。あふぐ
けふこそたのしけれ。

第三章
天津(あまつ)ひつぎの高(たか)みくら。千代(ちよ)よろづよ
に動(うご)きなき。もとゐ定(さだ)めしそのかみを。
仰(あふ)ぐけふこそたのしけれ。

第四章
空(そら)にかゞやく日(ひ)のもとの。万(よろづ)の国(くに)にた
ぐひなき。国(くに)のみはしらたてし世(よ)を。あ
ふぐけふこそたのしけれ。

・「神嘗祭」 木村正辞作歌
        辻高節作曲
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五十鈴(いすゞ)の宮(みや)の 大前(おほまへ)に。
今年(ことし)の秋(あき)の 懸税かけぢから)。
御酒(みき)御帛(みてぐら)を たてまつり。
祝(いは)ふあしたの 朝日(あさひ)かげ。
靡(なび)く御旗(みはた)も かゞやきて。
賑(にぎは)ふ御代(みよ)こそ めでたけれ。

・「天長節」 黒川真頼作歌
        奥好義作曲
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今日(けふ)の吉(よ)き日(ひ)は 大君(おほきみ)の。
うまれたまひし 吉(よ)き日(ひ)なり。
今日(けふ)の吉(よ)き日(ひ)は 御(み)ひかりの。
さし出(で)たまひし 吉(よ)き日(ひ)なり。
ひかり遍(あまね)き 君(きみ)が代(よ)を。
いはへ諸人(もろびと) もろともに。
めぐみ遍(あまね)き 君(きみ)が代(よ)を。
いはへ諸人)もろびと) もろともに。

・「新嘗祭」 小中村清矩作歌
        辻高節作曲
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民(たみ)やすかれと 二月(きさらぎ)の。
祈年祭(としごひまつり) 験(しるし)あり。
千町(ちまち)の小田(おた)に うち靡(なび)く。
垂穂(たりほ)の稲(いね)の 美稲(うましいね)。
御饌(みけに)つくりて たてまつる。
新嘗祭(にひなめまつり) 尊(たふと)しや。

   「ウィキソース」より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1734年(享保19)儒学者室鳩巣の命日(新暦9月9日)詳細
1899年(明治32)富山明治32年の大火「熊安焼」で、全焼4,697戸、半焼9戸の被害を出す詳細
1905年(明治38)ロシア南下策に対抗する為「日英同盟」の改定(第二回日英同盟協約)が調印される詳細
1957年(昭和32)朝日訴訟が提訴される詳細
1978年(昭和53)日本と中国が「日中平和友好条約」に調印する詳細
1985年(昭和60)日本航空123便墜落事故が置き、死者520人を出す詳細
1992年(平成4)小説家中上健次の命日詳細
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 今日は、昭和時代前期の太平洋戦争下、1945年(昭和20)に、勅令で、文部省に学徒動員局が設置された日です。
 学徒動員局(がくとどういんきょく)は、太平洋戦争末期に文部省において、学徒を総合的に戦争に関与させるため、総務局および体育局を廃止して設置された内部部局の一つでした。文教に関する総合計画の設定その他重要政策の総合調整に関する事項、学徒隊に関する総合計画の設定および学徒隊の運営一般に関する事項、学校における武道、教練、体育運動、航空訓練等の特技訓練その他の体育訓練に関する事項、学校における保健衛生に関する事項を管掌します。しかし、敗戦後の1945年(昭和20年)9月5日に廃止されました。

〇学徒隊(がくとたい)とは?

 1945年(昭和20)5月22日公布・施行の「戦時教育令」(昭和20年勅令第320号)において、学校で、戦時に緊切な要務に従事すると共に、戦時に緊要な教育訓練を行うため学校ごとに教職員と学生・生徒により組織されたものです。1945年(昭和20)3月18日に小磯国昭内閣は、「決戦教育措置要綱」を閣議決し、国民学校初等科を除き、他の学校は、同年4月1日から1年間、原則として授業を停止することが決められており、学生・生徒は食糧増産、軍需生産、防空防衛、重要研究など緊要な業務に総動員されました。

☆「戦時教育令」(せんじきょういくれい)とは?

 太平洋戦争末期の空襲が激化し、本土決戦が唱えられる緊迫した事態の下で、1945年(昭和20)3月18日に小磯国昭内閣は、「決戦教育措置要綱」を閣議決定し、国民学校初等科以外の生徒・学生をすべて通年の勤労動員の対象とし、授業そのものを4月1日から1年間停止するとしますが、その法的措置として、同年5月21日に「昭和20年5月22日勅令第320号」として制定され、翌日公布されたものです。この勅令には特に上諭が付せられましたが、これは「教育勅語」を引用し、「一且緩急ノ際ハ義勇奉公ノ節ヲ効サンコトヲ論シ給へり」と前提し、「今ヤ戦局ノ危急ニ臨ミ朕ハ忠誠純真ナル青少年学徒ノ奮起ヲ嘉シ」とあり、学徒に対し最後の奉公を要請、その本分を「尽忠報国」にあるとしたものでした。
 決戦下の基本的教育方針、「学徒隊」の組織、戦時生活における教育のあり方などを定めています。その中には、在学中軍人となったとき、および動員中死亡または傷痍を受けたときは学校卒業と認めること、教職員については「学徒の薫化」の任務を全うすることとされていました。
 敗戦後の8月21日に、文部省では廃止が決定され、9月12日に国民学校および中等学校に対して戦時教育を平時教育へ転換させることについての緊急事項が指示され、さらに9月26日には疎開児童の復帰が指示されています。法令としては、10月6日の「戦時教育令廃止ノ件」(昭和20年10月6日勅令第564号)により廃止されました。

☆「戦時教育令」 (全文)  1945年(昭和20)5月22日公布・施行

戦時教育令 (昭和20年5月22日勅令第320号)

第一条 学徒ハ尽忠以テ国運ヲ雙肩ニ担ヒ戦時ニ緊切ナル要務ニ挺身シ平素鍛錬セル教育ノ成果ヲ遺憾ナク発揮スルト共ニ智能ノ錬磨ニ力ムルヲ以テ本分トスベシ

第二条 教職員ハ率先垂範学徒ト共ニ戦時ニ緊切ナル要務ヲ挺身シ倶学倶進以テ学徒ノ薫化啓導ノ任ヲ全ウスベシ

第三条 食糧増産、軍需生産、防空防衛、重要研究等戦時ニ緊切ナル要務ニ挺身セシムルト共ニ戦時ニ緊要ナル教育訓練ヲ行フ為学校毎ニ教職員及学徒ヲ以テ学徒隊ヲ組織シ地域毎ニ学徒隊ヲ以テ其ノ連合体ヲ組織スルモノトシ二以上ノ学徒隊ノ一部又ハ全部ガ同一ノ職場ニ於テ挺身スルトキハ文部大臣ノ定ムル場合ヲ除クノ外其ノ職場毎ニ教職員及学徒ヲ以テ学徒隊ヲ組織シ又ハ学徒隊ヲ以テ其ノ連合体ヲ組織スルモノトス

 学徒隊及其ノ連合体ノ組織編制、教育訓練、指導監督其ノ他学徒隊及其ノ連合体ニ関シ必要ナル事項ハ文部大臣之ヲ定ム

第四条 戦局ノ推移ニ即応スル学校教育ノ運営ノ為特ニ必要アルトキハ文部大臣ハ其ノ定ムル所ニ依リ教科目及授業時数ニ付特例ヲ設ケ其ノ他学校教育ノ実施ニ関シ特別ノ措置ヲ為スコトヲ得

第五条 戦時ニ際シ特ニ必要アルトキハ学徒ニシテ徴集、召集等ノ事由ニ因リ軍人(陸海軍ノ学生生徒ヲ含ム)ト為リ、戦時ニ緊切ナル要務ニ挺身シテ死亡シ若ハ傷痍ヲ受ケ又ハ戦時ニ緊要ナル専攻学科ヲ修ムルモノハ文部大臣ノ定ムル所ニ依リ正規ノ期間在学セズ又ハ正規ノ試験ヲ受ケザル場合ト雖モ之ヲ卒業(之ニ準ズルモノヲ含ム)セシムルコトヲ得

第六条 本令中文部大臣トアルハ朝鮮ニ在リテハ朝鮮総督、台湾ニ在リテハ台湾総督、関東州及満洲国ニ在リテハ満洲国駐箚特命全権大使、南洋群島ニ在リテハ南洋庁長官トス

附則

 本令ハ公布ノ日ヨリ之ヲ施行ス

「文部省ホームページ」より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1156年(保元元)保元の乱が起きる(新暦7月29日)詳細
1864年(元治元)思想家・洋学者佐久間象山の命日(新暦8月12日)詳細
1906年(明治39)直江津町(現在の新潟県上越市)明治39年の大火「ながさ火事」で、1,041戸が焼失する詳細
1950年(昭和25)日本労働組合総評議会(総評)が結成される詳細
1962年(昭和37)日本初の国産旅客機YS-11(日本航空機製造製)が完成する詳細
1963年(昭和38)「老人福祉法」(昭和38年法律第133号)が公布(同年8月1日施行)される詳細
1973年(昭和48)小説家吉屋信子の命日詳細
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 今日は、昭和時代前期の1938年(昭和13)に、文部省「集団的勤労作業実施に関する通牒」により集団勤労作業が始まり、学徒勤労動員のさきがけとなった日です。
 学徒勤労動員(がくときんろうどういん)は、昭和時代前期の日中戦争最中の1938年(昭和13)6月9日に、文部省「集団的勤労作業実施に関する通牒」が出され、学生・生徒は長期休業中に3~5日勤労奉仕することを義務づけられたことに始まりました。それを恒常化したのが1939年(昭和14)の木炭や食料の増産運動からで、学生・生徒は正課として作業に参加することになります。
 さらに、1941年(昭和16)2月には、年間30日の授業を勤労作業にあててよいという指示が出され、同年8月には学校報国隊が結成されました。その後、太平洋戦争に突入し、軍需部門を中心に労働力不足が深刻化したため、1943年(昭和18)6月に、東条内閣は各学校の軍事教練強化を命じ、翌年1月には勤労動員は年間4ヶ月を継続して行うことが義務づけられ、3月には通年実施と決定し、どんどん拡大していきます。
 その法令上の措置として、1944年(昭和19)8月23日に公布・施行されたものが、「学徒勤労令」で、同じ日に「女子挺身隊勤労令」も出されました。その後、動員は徹底的に強化され、11月には夜間学校の学徒や弱体のためそれまで動員から除外されていた学徒の動員が拓令されます。
 また、12月には中等学校卒業者の勤労動員継続の措置がきまり、翌年3月卒業後も引き続いて学徒勤労を継続させるため中等学校に付設課程を設け、これに進学させることとしました。このような学徒の全面的な動員に対して、政府は12月「動員学徒援護事業要綱」を閣議決定し、これに基づいて動員学徒援護会が設置されます。
 以後、この勅令は、昭和20年勅令第96号および同勅令第510号により2度改正がなされて、強化されました。この結果、敗戦時での動員学徒数は340万人を超えたといわれ、学徒動員による空襲等による死亡者は10,966人、傷病者は9,789人にも及びます。
 しかし、太平洋戦争敗戦後の「国民勤労動員令廃止等ノ件」(昭和20年勅令第566号)により、1945年(昭和20)10月10日をもって、この勅令は廃止されることになりました。

〇学徒勤労動員関係略年表

<1938年(昭和13)>
・6月9日 文部省は「集団的勤労作業運動実施ニ関スル件」を通牒し、学生・生徒は夏季休暇の始期終期その他適当な長期休業中に中等学校低学年は3日、それ以外は5日の勤労奉仕に従事することを義務付けられる

<1939年(昭和14)>
・7月8日 「国民徴用令」が公布(7月15日施行)される

<1941年(昭和16)>
・2月 「青少年学徒食糧飼料等増産運動実施要項」において1年のうち30日以内の木炭増産、飼料資源の開発、食糧増産等を授業として認める
・8月 学校報国隊が結成される
・10月16日 勅令で大学・高等学校・専門学校の修業年限の短縮が通達され、文部省は省令「大学学部等ノ在学年限又ハ修業年限ノ昭和十六年度臨時短縮ニ関スル件」を公布し、大学・専門学校・実業専門学校の修業年限を三か月短縮する
・11月1日 1942年度は予科・高校を加えて6か月短縮と決定し、繰り上げ卒業がはじまる

<1943年(昭和18)>
・6月25日 東条内閣は「学徒戦時動員体制確立要綱」を閣議決定し、学校報国隊を強化し、戦技・特技・防空訓練を図り、女子は救護訓練を行なうようになる
・10月12日 閣議で、「教育ニ関スル戦時非常措置方策」を決定、全国の学生の徴集延期を停止し、徴兵検査が行われることとなり、義務教育8年制を無期延期し、高等学校文科を3分の1減じ、理科を増員し、文科系大学を理科系へ転換し、勤労動員を年間3分の1実施することなどが盛り込まれる

<1944年(昭和19)>
・1月8日 政府は「緊急国民勤労動員方策要綱」と「緊急学徒勤労動員方策要綱」を閣議決定し、学徒勤労動員は年間4か月を継続して行うこととなる
・2月25日 「決戦非常措置要綱」を閣議決定する
・3月7日 「決戦非常措置要綱ニ基ク学徒動員実施要綱」で、学徒勤労動員の通年実施、学校の種類による学徒の計画的適正配置、教職員の指導と勤労管理が閣議決定され、文部省は詳細な学校別動員基準を決定する
・4月17日 文部省は「学徒勤労動員実施要領ニ関スル件」を発令し、作業場を「行学一体ノ道場」たらしめ、学徒の「奉公精神、教養規律ニヨリ、作業揚ヲ純真且明朗ナラシムルコト」を要請し、教職員の「率先垂範陣頭指揮」を強調する
・7月10日 閣議で、科学技術者動員計画設定要綱を決定し、航空機の生産増強のための理科系学校卒業者の動員、科学技術者の短期養成計画などが盛り込まれる
・7月11日 「航空機緊急増産ニ関スル非常措置ノ件」閣議決定によって、学徒動員の強化が目指され、文部省は「学徒勤労ノ徹底強化ニ関スル件」を通牒し、供給不足の場合は中等学校低学年生徒の動員、深夜業を中等学校三年以上の男子のみならず女子学徒にも課するなどを指令する
・8月23日 「学徒勤労令」が「女子挺身勤労令」と同日に公布され、学徒勤労動員に法的措置をおこない、大学・高専の2年以上の理科系学徒1000人に限り勤労動員より除外し科学研究要員とする
・12月19日 「動員学徒援護事業要綱」が閣議決定され、動員学徒援護会が設置される
・12月1日 閣議で、中等学校の新規卒業予定者の勤労動員の継続を決定する

<1945年(昭和20)>
・3月18日 「決戦教育措置要綱」を閣議決定し、国民学校初等科以外のすべての学校において、4月から1年間の授業停止による学徒勤労総動員の体制がとられる
・5月22日 「戦時教育令」が公布され、全学校・職場に学徒隊が結成される
・7月11日 勅令で、文部省に学徒動員局が設置される
・8月16日 文部次官通牒「動員解除に関する件」により事実上の動員解除がなされる
・9月4日 「文部省官制中改正ノ件」(昭和20年勅令第516号)により文部省官制を改正、学徒動員局を廃止、体育局へと改組される
・10月5日 「戦時教育令廃止ノ件」(昭和20年勅令第564号)により、「戦時教育令」が廃止される
・10月10日 「国民勤労動員令廃止等ノ件」(昭和20年勅令第566号)により、「学徒勤労令」が廃止される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1488年(長享2)加賀一向宗門徒が対立していた守護富樫政親を攻めて自刃(長享一揆)させる(新暦7月17日)詳細
1767年(明和4)読本・合巻作者滝沢馬琴の誕生日(新暦7月4日)詳細
1896年(明治29)「山縣・ロバノフ協定」(朝鮮問題に関する日露間議定書)が締結される詳細
1923年(大正12)小説家有島武郎の命日(武郎忌)詳細
1947年(昭和22)「朝日新聞」で石坂洋次郎著の小説『青い山脈』の連載が開始される詳細
1952年(昭和27)「日本国とインドとの間の平和条約」(通称:日印平和条約)が調印される詳細
1995年(平成7)衆議院で「歴史を教訓に平和への決意を新たにする決議」(戦後50年決議)が採択される詳細
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 今日は、昭和時代前期の太平洋戦争下、1942年(昭和17)に、「国民錬成所官制」(昭和17年勅令第28号)によって、文部省に国民錬成所を設置し、中学教員に対する錬成を実施するとした日です。
 国民錬成所(こくみんれんせいじょ)は、国体の本義に基づき、実践躬行をもって先鋒たる人物を錬成する文部省直轄の錬成機関でした。1942年(昭和17)1月24日の「国民錬成所官制」(昭和17年勅令第28号)によって、中学教員に対する錬成を実施する機関として、文部省に設置が決まります。
 その後、1940年(昭和15)に実施された「紀元二千六百年式典」の式殿であった光華殿を東京小金井町(現在の江戸東京たてもの園)に移転の上、その9万坪の敷地をもって、1942年(昭和17)11月に開設されました。所内に企画課(総務班・教育班・訓練班・農場班)、庶務課(庶務掛・会計掛)が置かれ、別に錬成会議が設置されます。
 中等学校教員や校長、国民学校長、高等学校教授など、さまざまな対象者を修練生として迎え、心身の鍛錬、精神の修養をおこないました。しかし、行政整理のため、1943年(昭和18)11月1日に、先に設けていた国民精神文化研究所と合併して、教学錬成所(初代所長:橋田邦彦)となり、教学に関する研究と、教員そのほかの指導的国民の錬成に当たることとなります。

〇国民錬成所・国民精神文化研究所関係略年表

・1931年(昭和6)6月 学生思想問題調査委員会が設置される
・1932年(昭和7)5月 学生思想問題調査委員会から、「学生生徒左傾」対策として「我が国体、国民精神の原理を闡明し、国民文化を発揚し、外来思想を批判し、マルキシズムに対抗するに足る理論体系の建設を目的とする、有力なる研究機関」の創設が答申される
・1932年(昭和7)8月 「国民精神文化研究所官制」(昭和7年勅令233号)が公布される
・1933年(昭和7) 国民精神文化研究所が東京市品川区上大崎の新庁舎に新築移転される
・1934年(昭和8) 国民精神文化研究所の初代所長に関屋龍吉が就任する(それまでは、粟屋謙・伊東延吉が代行)
・1941年(昭和16) 国民精神文化研究所の2代所長に伊東延吉が就任する
・1942年(昭和17)1月24日 「国民錬成所官制」(昭和17年勅令第28号)が公布される
・1942年(昭和17)11月 国民錬成所が小金井町(現在の江戸東京たてもの園)に設置される
・1943年(昭和18)11月1日 国民精神文化研究所が国民錬成所に移転合併する形で教学錬成所となる
・1945年(昭和20)10月15日 教学錬成所が廃止され、教育研修所(後に国立教育研究所に改組、現在の国立教育政策研究所)となる
・1949年(昭和24)6月 国立教育研究所が旧教学錬成所の施設を利用して設立される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1632年(寛永9)武将・江戸幕府第2代将軍徳川秀忠の命日(新暦3月14日)詳細
1865年(元治2)長崎に大浦天主堂が完成(西洋建築の木造三廊)し、献堂式が挙行される(新暦2月19日)詳細
1869年(明治2)詩人・随筆家・評論家大町桂月の誕生日(新暦3月6日)詳細
1871年(明治4)「書状ヲ出ス人ノ心得」、「郵便賃銭切手高並代銭表」等の太政官布告が出される(新暦3月14日)詳細
1960年(昭和35)小説家火野葦平の命日詳細
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