
鎌倉時代に、中国に於いて大帝国となったモンゴル(蒙古)から、服属を求める使者が何度か来日し、鎌倉幕府がそれにあたりました。しかし、服属を拒否したため、蒙古軍の襲来を受けることになり、それを元寇と呼んでいます。その第1回目(文永の役)は、対馬(現在の長崎県)への来襲に始まりました。
この時、蒙古の大軍約3万人の内1,000人ほどが対馬の小茂田浜(こもだはま)に上陸しましたが、対馬守護代の宗助國らが、たった80騎で立ち向かって討ち死にしました。
また、10月14日には、壱岐(現在の長崎県)の西側に上陸し、壱岐守護代平景隆は100余騎で応戦したものの敗退し、翌日に平景隆は樋詰城で自害したのです。
そして、10月16-17日に肥前沿岸に襲来、10月20日には博多湾へ上陸し始めました。その後、各地で激戦が行われましたが、蒙古軍は撤退していったのです。
〇「元寇」とは?
鎌倉時代中期に、当時大陸を支配していたモンゴル帝国およびその属国である高麗王国によって2度にわたり行われた日本への侵攻のことで、蒙古襲来ともいいます。
1回目の1274年(文永11)のを文永の役、2回目の1281年(弘安4)のを弘安の役と呼んでいます。台風の襲来による蒙古軍側の損害もあって、2度とも撤退しています。
2回の元寇の後、鎌倉幕府は博多湾の防備を強化しましたが、この戦いで日本側が物質的に得たものは無く、恩賞は御家人たちに満足のいくものではありませんでした。
蒙古軍の再度の襲来に備えて御家人の統制が進められましたが、戦費で窮迫した御家人達は借金に苦しむようになりました。やむを得ず幕府は徳政令を発布して御家人の困窮対策にしようとしましたが、御家人の不満は解消されず、鎌倉幕府に対して不信感を抱くものが増えていきました。
これらの動きはやがて大きな流れとなり、鎌倉幕府滅亡の原因の一つになったと言われています。
☆元寇関係の年表(日付は旧暦です)
<1266年(弘長元)>
・ 蒙古の使節が日本を訪れ国書を持参した。
<1268年(文永5)>
・1月 蒙古の使節が日本を訪れ国書を持参した。
<1269年(文永6)>
・2月 蒙古の使節が日本を訪れるが幕府は入国を許さず、使節は対馬の住民を拉致して帰国した。
・9月 拉致した対馬の住民を護送する使者が対馬を訪れる。
<1274年(文永11)>
・10月3日 蒙古軍が大小900の船団を率いて出航する。
・10月5日 対馬に上陸して、多くの島民を殺害する。
・10月14日 壱岐に上陸して、多くの島民を殺害する。
・10月16-17日 肥前沿岸に襲来する。
・10月20日 蒙古軍が博多湾に襲来するが、激戦の末に蒙古軍を撃退する。(文永の役)
<1275年(建治元)>
・9月7日 服属を求めに来た元の使者を北条時宗は鎌倉で処刑し、元の襲来に備え博多湾岸に石築地を築かせる。
・11月 鎌倉幕府は元の襲来を防ぐ目的での朝鮮出兵、高麗遠征計画を立てて、金沢実政が九州に下向する。
<1281年(弘安4)>
・5月3日 蒙古軍が日本に向けて朝鮮を出発する。
・5月21日 蒙古軍が対馬に上陸したものの、日本軍の激しい抵抗を受ける。
・5月26日 蒙古軍が壱岐に上陸する。
・6月8日 志賀島に上陸した蒙古軍を日本軍が攻撃して、蒙古軍は敗走する。
・6月14日 蒙古軍が長門に襲来する。
・6月29日 壱岐島に駐留する蒙古軍に対して日本軍が攻撃する。
・7月2日 壱岐島に駐留する蒙古軍に対して日本軍が再度攻撃し、蒙古軍は平戸島に退却する。
・7月27日 鷹島の沖合に停泊していた蒙古軍船に対して日本軍が攻撃する。
・7月30日 台風が襲来し、蒙古軍の軍船の多くが沈没・損壊する。
・閏7月5日 蒙古軍は撤退を決定する。
・閏7月7日 鷹島に残留する蒙古軍10万に対して、日本軍は総攻撃しこれを壊滅する。(弘安の役が終わる)