ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:文武天皇

masumonosashi01
 今日は、飛鳥時代の702年(大宝2)に、文武天皇が初めて全国的に統一された度量(物差しと枡)を定め、諸国に頒布した日ですが、新暦では4月9日となります。
 度量制度(どりょうせいど)は、唐の制度を手本にして、701年(大宝元年)に「大宝律令」第27篇の関市令の中で度量を定めましたが、距離を測る基準尺は土木工事用には「高麗尺(大尺)」が、そのほかは「唐尺(小尺)」とされたものの、「高麗尺」(1尺=35.6cm)は、律令施行後間もなく廃止され、「唐尺」(1尺=29.6cm)に統一されました。702年(大宝2)には、文武天皇が初めて全国的に統一された度量(物差しと枡)を定め、諸国に頒布しています。
 その後、時代とともに変化し、また地域や業種によっても差異がありました。それが統一されるのは、1590年(天正18)に豊臣秀吉が太閤検地を開始してからのこととなります。
 以下に、度量(物差しと枡)を定め、諸国に頒布した記事のある『続日本紀』巻第二の大宝二年三月の条を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇『続日本紀』巻第二

大宝二年三月の条

乙亥。始頒度量于天下諸國。

<読み下し文>

乙亥。始テ度量ヲ天下諸國ニ頒ツ。

<現代語訳>

3月8日、始めて、物差しと枡を日本全国に頒布する。

☆日本の計量規制の歴史と変遷

・701年(大宝元年) 「大宝律令」が公布され、日本で度量衡の制度が定まる
・702年(大宝2年3月8日) 文武天皇が初の全国的に統一された計量単位(度量)を全国に頒布する
・1590年(天正18年) 豊臣秀吉が太閤検地を開始、各地でまちまちだった計量単位を統一する
・1669年(寛文9年) 江戸のますを京ますに統一(10月以降京ます以外の使用を禁止)
・1875年(明治8年)8月 「度量衡取締条例」が公布される
・1885年(明治18年)10月 「メートル条約」に加盟する
・1886年(明治19年)4月16日 「メートル条約加盟」を公布する
・1890年(明治23年)4月 フランスの国際度量衡局よりメートル原器及びキログラム原器が我が国に到着する
・1891年(昭和24年)3月 「度量衡法」を公布、メートル系原器を標準とする尺貫法を制定する
・1910年(明治43年) 「電気測定法」が制定(電気計器の検定開始)される
・1921年(大正10年)4月11日 「メートル法」を基本とする改正「度量衡法」が公布される
・1951年(昭和26年) 「度量衡法」を全面的に書きかえた「計量法」が公布される
・1959年(昭和34年) 「メートル法」の完全実施に移行する
・1966年(昭和41年) 「計量法」改正で、規制対象の計量器を削減し、販売事業が許可制から登録制へと変わるなど、大規模な変更が行われる
・1972年(昭和47年) 公害計測器の検定を開始する
・1993年(平成5年) 新「計量法」を施行し、世界共通のSI単位系を採用する
・2000年(平成12年)4月 地方分権の推進に伴い、計量行政が機関委任事務から法定受託事務・自治事務として規定される
・2002年(平成13年) 「計量法」改正(ダイオキシン等極微量物質の正確計量のためのMLAP制度の創設)
・2003年(平成15年) 「計量法」改正(公益法人一括法改正)

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1708年(宝永5)京都で「宝永の大火」が起こり、1万軒以上を焼失する(新暦4月28日)詳細
1842年(天保13)日本画家川端玉章の誕生日(新暦4月18日)詳細
1919年(大正8)小説家水上勉の誕生日詳細
1954年(昭和29)「日本国とアメリカ合衆国との間の相互防衛援助協定」(MSA協定)が締結される詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

イメージ 1

 今日は、飛鳥時代の707年(慶雲4)に、第42代天皇とされる文武天皇の亡くなった日ですが、新暦では7月18日となります。
 文武天皇(もんむてんのう)は、683年(天武天皇12年)に父・草壁皇子、母・阿閉皇女(のち元明天皇)の子として生まれましたが、本名は軽(珂瑠)と言いました。689年(持統天皇3)に、幼くして父を亡くし、祖母持統天皇 (天武后) に擁護されて、697年(持統天皇11)に皇太子となります。
 同年に祖母持統天皇の譲位をうけて、藤原宮において14歳で即位したものの、祖母が後見役となりました。藤原不比等の娘宮子を夫人とし、701年(大宝元)に、第1皇子として首皇子 (のちの聖武天皇) が誕生します。
 この年に、刑部親王、不比等らに命じて編纂していた「大宝律令」(令11巻、律6巻)が完成し、翌年施行されました。他に、釈奠 (孔子を祭る儀式) を起こしたり、度量器(物差しと枡)を諸国に配布したりしています。
 また、災害や飢疫の流行などによる世情不安から、706年(慶雲3)には、王侯諸臣の山川薮沢の占有を禁じたり、田租の法を改めるになど諸制の改革を行ない、律令制を軌道修正しました。経史に通じ、射芸をよくしたと伝えられ、「懐風藻」に詩三首、「万葉集」に歌一首が見えます。
 しかし、平城京遷都を望んだものの果たせないまま、707年(慶雲4年6月15日)に、数え年25歳の若さで亡くなり、檜隈安古岡上陵に埋葬されました。

〇文武天皇関係略年表(日付は旧暦です)

・683年(天武天皇12年) 父・草壁皇子、母・阿閉皇女(のち元明天皇)の子として生まれる
・689年(持統天皇3年) 幼くして父を亡くす
・694年(持統天皇8年) 藤原京に遷都される
・697年(持統天皇11年2月16日) 祖母持統天皇 (天武后) に擁護され、皇太子となる
・697年(文武天皇元年8月1日) 祖母持統天皇の譲位をうけて、藤原宮において14歳で即位する
・701年(大宝元年) 第1皇子として首皇子 (のちの聖武天皇) が誕生する
・701年(大宝元年8月3日) 刑部親王、不比等らに命じて編纂していた「大宝律令」が完成する
・701年(大宝元年) 初めて大学寮で、釈奠(孔子を祭る儀式)を起こす
・702年(大宝2年6月) 粟田真人、高橋笠間らの遣唐使を唐へ派遣する
・702年(大宝2年12月) 持統太上天皇が亡くなる
・702年(大宝2年) 「大宝律令」が施行される
・702年(大宝2年) 諸国に度量器を頒布する
・704年(慶雲元年) 鍛冶司に諸国の印を作らせる
・705年(慶雲2年4月) 大納言4人を2人とし、初めて中納言3人を設置する
・706年(慶雲3年3月) 王侯諸臣の山川薮沢の占有を禁じる、
・706年(慶雲3年9月) 田租の法を改める
・707年(慶雲4年6月15日) 数え年25歳の若さで亡くなり、檜隈安古岡上陵に埋葬される
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

イメージ 1

 今日は、飛鳥時代の701年(大宝元)に、藤原不比等らによる「大宝律令」の編纂が完了した日ですが、新暦では9月9日となります。
 「大宝律令」は、日本古代の基本法典で、律(刑法)6巻と令(行政法など)11巻の全17巻からなっていました。
 それまでも、668年(天智天皇7)成立の「近江令」 22巻(疑問視する意見もある)、 682年(天武 11)成立の「飛鳥浄御原令 (あすかのきよみはらりょう)」 (律もあったという説もある) がありましたが、それにかえて作成されます。
 持統上皇・文武天皇の命令で編纂が始まり、刑部親王、藤原不比等、粟田真人 (まひと)、下毛野古麻呂 (しもつけぬのこまろ) らにより、700年(文武天皇4)に令がほぼ完成し、翌701年(大宝元年8月3日)に、大宝律令として完成し、翌年に施行されました。
 律は6巻で約500条、令は11巻で約1000条と伝えられますが現存せず、「続日本紀」、「令集解(りょうのしゅうげ)」などに逸文があり、718年(養老2)ころ、大宝律令を修訂して成立した「養老律令」から復元が試みられています。
 唐の律令を参考にしたと考えられていますが、この完成によって官僚制度が整い、中央集権の政治体制ができあがりました。
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

↑このページのトップヘ