ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:文学博士

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 今日は、昭和時代後期の1983年(昭和58)に、歴史学者・文学博士井上光貞の亡くなった日です。
 井上光貞(いのうえ みつさだ)は、大正時代の1917年(大正6)9月19日に、東京市麻布区宮村町(現在の東京都港区)において、侯爵だった父・井上三郎(桂太郎三男)と母・千代子(井上馨長女)の長男として生まれました。成蹊高等学校を経て、1940年(昭和15)に、東京帝国大学文学部国史学科へ入学し、坂本太郎、和辻哲郎に師事します。
 1942年(昭和17)に卒業論文「奈良遷都以前の社会と仏教」を書いて、東京帝国大学文学部国史学科を卒業、同大学院へ入学、帝国学士院に勤務(『帝室制度史』編纂のため)しました。1946年(昭和21)に東京帝国大学文学部助手となり、1949年(昭和24)に教養学部講師、1950年(昭和25)に同学部助教授に昇任します。
 1957年(昭和32)にデリー大学附属国際問題研究所にて講義のためインドを訪問(~1958年6月)、1958年(昭和33)には、インドを発ち、イラン・イラク・レバノン・エジプト・トルコ・ギリシア・イタリア・スイス・フランス・イギリス・アメリカを訪問して11月帰国しました。1959年(昭和34)に「日本浄土教成立史の研究」により、東京大学から文学博士の学位を取得、1961年(昭和36)には、東京大学文学部助教授となり、大学院人文科学研究科国史学課程を担任、ハーバード大学教授エドウィン・ライシャワーの日本大使就任に伴い、同教授の代行としてハーバード大学の臨時講師に就任し、翌年帰国します。
 1964年(昭和39)に、平城宮跡発掘調査指導員(~1974年)となり、1967年(昭和42)には、東京大学文学部教授に昇任し、国史学第一講座を担当しました。1968年(昭和43)に東大紛争が始まり、東京大学学生委員会副委員長となり、紛争に取り組み、平城宮跡保存整備準備委員会基本計画部会長、1969年(昭和44)に多賀城跡調査研究指導委員会委員、東京大学評議員となり、1974年(昭和49)には、東京大学文学部長に就任しています。
 1978年(昭和53)に東京大学文学部教授を定年退官し、文化庁国立歴史民俗博物館設立準備室長に就任、東京大学名誉教授の称号を受け、国立民族学博物館評議員となり、1980年(昭和55)に紫綬褒章を受章、1981年(昭和56)には、国立歴史民俗博物館初代館長に就任しました。戦後の日本古代史の研究をリードし、古代国家の形成や律令継受の過程などの解明に努めたものの、1983年(昭和58)2月27日に、順天堂大学病院において、肺炎により、65歳で亡くなり、従三位・勲二等旭日重光章を追贈されています。尚、学生時代から短歌を詠み、没後一周忌に歌集『冬の海』が編まれました。

〇井上光貞の主要な著作

・『日本古代史の諸問題 大化前代の国家と社会』(1949年)
・『日本史』(1952年)
・『大化改新』(1954年)
・『日本史の人びと 1 とおい昔花の都』(1956年)
・『日本浄土教成立史の研究』(1956年)
・『日本国家の起源』(1960年)
・『日本史提要』(1961年)
・『日本古代国家の研究』(1965年)
・『日本古代の国家と仏教』(1971年)
・『日本の歴史3 飛鳥の朝廷』(1974年)
・『古代史研究の世界』(1975年)
・『日本古代仏教の展開』(1975年)
・『東大三十余年』(1978年)
・『日本古代思想史の研究』(1982年)
・『わたくしの古代史学』(1982年)
・『日本古代の王権と祭祀』(1984年)
・『天皇と古代王権』(2000年)

☆井上光貞関係略年表

・1917年(大正6)9月19日 東京市麻布区宮村町(現在の東京都港区)において、侯爵だった父・井上三郎(桂太郎三男)と母・千代子(井上馨長女)の長男として生まれる
・1924年(大正13) 学習院初等科に入学する
・1930年(昭和5) 成蹊高等学校尋常科へ入学する
・1934年(昭和9) 成蹊高校高等科(のちの成蹊大学)理科乙類へ入学する
・1935年(昭和10) 腎臓炎に罹る
・1937年(昭和12) 成蹊高校高等科文科乙類2年に編入、夏に再び腎臓炎に罹る
・1940年(昭和15) 成蹊高校高等科文科乙類を卒業し、東京帝国大学文学部国史学科へ入学する
・1942年(昭和17) 卒業論文「奈良遷都以前の社会と仏教」を書いて、東京帝国大学文学部国史学科を卒業、同大学院へ入学、帝国学士院に勤務(『帝室制度史』編纂のため)する
・1946年(昭和21) 東京帝国大学文学部助手となる
・1948年(昭和23) 教員適格判定審査に合格する
・1949年(昭和24) 東京大学教養学部講師となる
・1950年(昭和25) 東京大学教養学部助教授に昇任する
・1957年(昭和32) デリー大学附属国際問題研究所にて講義のためインド訪問(~1958年6月)する
・1958年(昭和33) インドを発ち、イラン・イラク・レバノン・エジプト・トルコ・ギリシア・イタリア・スイス・フランス・イギリス・アメリカを訪問して11月帰国する
・1959年(昭和34) 「日本浄土教成立史の研究」により、東京大学から文学博士の学位を取得する
・1961年(昭和36) 東京大学文学部助教授となり、大学院人文科学研究科国史学課程を担任。 8月 ハーバード大学教授エドウィン・ライシャワーの日本大使就任に伴い、同教授の代行としてハーバード大学の臨時講師に就任(1962年7月帰国)する
・1964年(昭和39) 平城宮跡発掘調査指導員(~1974年)となる
・1967年(昭和42) 東京大学文学部教授に昇任し、国史学第一講座を担当する
・1968年(昭和43) 東大紛争が始まり、東京大学学生委員会副委員長となり、紛争に取り組む、平城宮跡保存整備準備委員会基本計画部会長となる
・1969年(昭和44) 多賀城跡調査研究指導委員会委員、東京大学評議員となる
・1974年(昭和49) 東京大学文学部長に就任する
・1976年(昭和51) 心臓発作に倒れ、順天堂大学附属病院に入院(3月退院)する
・1977年(昭和52) 順天堂大学病院再入院、心臓バイパス手術を受け、4月退院する
・1978年(昭和53) 東京大学文学部教授を定年退官し、文化庁国立歴史民俗博物館設立準備室長に就任、東京大学名誉教授の称号を受け、国立民族学博物館評議員となる
・1980年(昭和55) 紫綬褒章を受章する
・1981年(昭和56) 国立歴史民俗博物館初代館長に就任する
・1983年(昭和58)2月27日 順天堂大学病院において、肺炎により、65歳て゜亡くなり、従三位・勲二等旭日重光章を追贈される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1594年(文禄3)豊臣秀吉による吉野の花見が開宴される(新暦4月17日)詳細
1657年(明暦3)徳川光圀が『大日本史』の編纂に着手する(新暦4月10日)詳細
1754年(宝暦4)江戸幕府の命で薩摩藩が木曾川の治水工事(宝暦治水)に着手(新暦3月20日)詳細
1875年(明治8)日本初の近代的植物園・小石川植物園が開園する詳細
1890年(明治23)東京の明治浅草大火が起き、死者1名、負傷者7名、全勝1,469戸を出す詳細
1946年(昭和21)GHQより「社会救済に関する覚書」(SCAPIN-775)が出される詳細
1987年(昭和62)東京で開催された環境と開発に関する世界委員会(WCED)で、「東京宣言」が採択される詳細
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 今日は、昭和時代前期の1928年(昭和3)に、国語学者・国語辞典『言海』の編纂者である大槻文彦が亡くなった日です。
 大槻文彦(おおつき ふみひこ)は、江戸時代後期の1847年(弘化4年11月15日)に、江戸木挽町(現在の東京都中央区東銀座)において、儒者大槻磐渓(ばんけい)の三男として生まれましたが、本名は清復(きよまた)と言いました。1862年(文久2)に開成所に入学、英学・数学を学び、元服して父はじめ一家で仙台へ移住、翌年には、仙台藩校養賢堂に入ります。
 1866年(慶応2)に洋学稽古人を命じられて養賢堂にて英学を学び、江戸に出て開成所に再入学しました。1870年(明治3)に大学南校に入り、英学・数学を学び、翌年に箕作秋坪の英学私塾三叉学舎に入り、日本文法を志し、国学を独学、1872年(明治5年)に文彦と改名、文部省八等出仕となり、英和対訳辞書編纂を命じられます。
 1875年(明治8)に文部省報告課勤務となり、西村茂樹課長から日本辞書の編纂を命じられ、1884年(明治17)に国語辞典『言海』の草稿を完成させ、翌年には、『言海』稿本の再訂が終わって文部省に提出、第一高等中学教諭(~1888年)となりました。1889年(明治22)に『日本辞書 言海』第1冊が刊行され、1891年(明治24)には、第4冊刊行で完結し、出版祝賀会が行われます。
 1892年(明治25)に岩手県に転籍し、宮城県尋常中学校校長、宮城書籍館館長(~1895年)となりました。1897年(明治30)に『広日本文典』、『広日本文典別記』を刊行、1899年(明治32)に文学博士となり、翌年には、東京市に転籍、国語調査委員となり、『日本文法教科書』を刊行します。
 1901年(明治34)に帝室博物館列品鑑査掛、1902年(明治35年) 国語調査委員会委員、主査委員(~1913年)、1911年(明治44年)には、帝国学士院会員となりました。1916年(大正5)に従七位から正五位に昇位、国語調査委員会から『口語法』、翌年には、『口語法別記』を刊行、口語研究にも新しい面を開きましたが、1928年(昭和3)2月17日に、東京市根岸の自宅において、82歳で亡くなっています。
 尚、没後の1932~37年(昭和7~12年)に、如電、大久保初男、新村出らにより、『言海』を増補した『大言海』が刊行されました。

〇大槻文彦の主要な著作

・『万国史略』(1874年)
・『広日本文典』(1897年)
・『広日本文典別記』(1897年)
・『言海 (げんかい、ことばのうみ) 』4冊(1889~91年)
・『復軒雑纂』(1902年)
・『伊達騒動実録』(1909年)
・『口語法』(1916年) 
・『口語法別記』(1917年)

☆大槻文彦関係略年表

・1847年(弘化4年11月15日) 江戸木挽町(現在の東京都中央区東銀座)において、儒者大槻磐渓(ばんけい)の三男として生まれる
・1851年(嘉永4年) 家学(漢学と詩文)を受ける
・1862年(文久2年9月) 開成所に入学、英学・数学を学ぶ、元服し、父はじめ一家で仙台へ移住する
・1863年(文久3年5月) 仙台藩校養賢堂に入る
・1866年(慶応2年) 洋学稽古人を命じられて養賢堂にて英学を学ぶ、江戸に出て開成所に再入学する
・1867年(慶応3年) 英国人牧師 M. B. Bailey の『万国新聞紙』の編集員となり、仙台藩江戸留守居役大童信太夫に伴って京都に行く
・1868年(慶応4年) 京都で鳥羽伏見の戦いに会し、『慶応卯辰実記』を著す
・1869年(明治2年) 『北海道風土記』(30 巻)成稿(宮城県図書館蔵)を著す
・1870年(明治3年) 大学南校に入り、英学・数学を学ぶ
・1871年(明治4年) 箕作秋坪の英学私塾三叉学舎に入り、アルバイトで賃訳をし、この頃から日本文法を志し、国学を独学する
・1872年(明治5年) 文彦と改名、文部省八等出仕となり、英和対訳辞書編纂を命じられる
・1874年(明治7年) 師範学校で教科書の翻訳・編集(『万国史略』など)に携わり、文部省で『羅馬史略』翻訳、『琉球新誌』、宮城師範学校校長となり、『日本暗射図』(白地図)作成、『亞非利加誌』訳成する
・1875年(明治8年) 文部省報告課勤務となり、西村茂樹課長から日本辞書の編纂を命じられ、「擬奉英国女帝書」、「日本文法論」を著し、兄修二(如電)が隠居して家督相続する
・1876年(明治9年) 一ヶ月間、『朝野新聞』社説を担当、『小笠原島新誌』を刊行、「印刷術の史」、「日本「ジヤパン」正訛の弁」、「東洋印刷術の史」を著す
・1877年(明治10年) 「伊達政宗が遣欧の記事」、『支那文典』(高第丕(T. P. Crawford)・張儒珍共著『文学書官話 (Mandarin Grammar)』刊行する
・1878年(明治11年) 父・磐渓が亡くなり、文法会第 1 回を開催(1882 年まで 56 回)、富田鉄之助に渡英を勧められるが断念する
・1879年(明治12年) 伊香保温泉で湯治、宿の主人の依頼で『伊香保志』を執筆する
・1880年(明治13年) 『印刷術及石版術』(文部省『百科全書』の一部)を刊行する
・1881年(明治14年) 富田鉄之助らと仙台造士義会を設立し、育英事業に取り組み、如電らと白石社を創設し、翌年にかけて新井白石の『采覧異言』、『西洋紀聞』を校訂刊行する
・1882年(明治15年) 『伊香保志』、『日本小史』を刊行、井上哲次郎抄訳『倍因氏心理新説』を校訂する
・1883年(明治16年) 音楽取調掛兼勤(~1885)、「仰げば尊し」の作詞の合議に加わり、「かなのとも」(のち合同して「かなのくわい」)創立に加わり、土屋政朝訳『刪訂教育学』を閲する
・1884年(明治17年) 「外来語原考」、『言海』の草稿が完成する
・1885年(明治18年) 「三味線志」を編纂(刊行は 1896-97)する
・1886年(明治19年) 『言海』稿本の再訂が終わり、文部省に提出、第一高等中学教諭(~1888年)となり、『言語篇』(文部省『百科全書』)翻訳刊行(初の言語学紹介)、『古事類苑』編集委員(~1887)となる
・1888年(明治21年) 作並清亮編『松島勝譜』を校訂、自費出版の条件で『言海』稿本が下賜される
・1889年(明治22年) 『日本辞書 言海』第1冊刊行、『中止断行条約改正論』。
・1890年(明治23年) 玄沢遺稿『金城秘韞』を補訂、『語法指南』を刊行する
・1891年(明治24年) 『言海』第4冊刊行で完結し、出版祝賀会が行われる
・1892年(明治25年) 岩手県に転籍し、宮城県尋常中学校校長(生徒に吉野作造ら)、宮城書籍館館長(~1895年)となる
・1894年(明治27年) 「支倉六右衛門墳墓考」を著す
・1897年(明治30年) 『広日本文典』、『広日本文典別記』を刊行する
・1898年(明治31年) 「和蘭字典文典の訳述起源」を著す
・1899年(明治32年) 文学博士となり、海嘯罹災者への寄付により宮城県岩手県から木盃を得る
・1900年(明治33年) 東京市に転籍、国語調査委員となり、『日本文法教科書』を刊行する
・1901年(明治34年) 帝室博物館列品鑑査掛となり、「陸奥国遠田郡小田郡沿革考」を著し、『伊達政宗南蛮通信事略』刊行(英訳つき)する
・1902年(明治35年) 国語調査委員会委員、主査委員(~1913)となり、『復軒雑纂』を刊行、下飯坂秀治編『仙台藩戊辰史』を校訂する
・1909年(明治42年) 『伊達騒動実録』を刊行、「宮城県尋常中学校校歌」を作る
・1911年(明治44年) 帝国学士院会員となる
・1912年(明治45年) 坂本嘉治馬(冨山房)と『言海』増補出版契約、「根岸 御行の松」を著す
・1916年(大正5年) 従七位から正五位に昇位、『口語法』を刊行(国語調査委員会編)する
・1917年(大正6年) 『口語法別記』を刊行、仙台の戊辰戦役殉難者弔魂祭に招かれ、県庁構内武徳殿で講演する
・1919年(大正8年) 「著述病 老体の文彦翁訪問客を謝絶 言海の増補に苦心」を著す
・1922年(大正11年) 仙台一中開校三十年記念式に出席、殉職した小野さつき訓導へ弔慰金と弔文、吉野作造、大槻校訂の『西洋紀聞』を参考に「新井白石とヨワン・シローテ」を執筆する
・1923年(大正12年) 吉野、仙台一中学友会記念号に大槻に因んで「西洋人の日本語研究」を寄稿し、別に「ドンケル・クルチウス日本文典を主題として」を執筆する
・1925年(大正14年) 講書始の講師となり、吉野ら教え子から、喜寿の祝いに胸像を贈られる
・1928年(昭和3年)2月17日 東京市根岸の自宅において、82歳で亡くなる
・1932~37年(昭和7~12年) 如電、大久保初男、新村出らにより『大言海』が刊行される
・1938年(昭和13年) 『復軒旅日記』(大槻茂雄校訂)が刊行される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1272年(文永9)第88代の天皇とされる後嵯峨天皇の命日(新暦3月17日)詳細
1906年(明治39)大隈重信を会頭とし、島村抱月・坪内逍遙らが中心となり、文芸協会が結成される詳細
1946年(昭和21)「金融緊急措置令」(勅令第83号)が発布・施行される詳細
1955年(昭和30)小説家・評論家・随筆家坂口安吾の命日(安吾忌)詳細
2005年(平成17)愛知県常滑市に中部国際空港(愛称:セントレア)が開港する詳細
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 今日は、 昭和時代後期の1987年(昭和62)に、歴史学者・文学博士坂本太郎が亡くなった日です。
 坂本太郎(さかもと たろう)は、明治時代後期の1901年(明治34)10月7日に、静岡県浜名郡浜松町(現在の浜松市)において、小学校の教員だった父・坂本宗十郎、母・ちかの長男として生まれました。静岡県立浜松中学校、第八高等学校文科甲類を経て、1923年(大正12)に東京帝国大学文学部国史学科へ入学します。
 1926年(大正15)に卒業し、臨時東山御文庫取調掛(~1927年)となり、翌年には、東京帝国大学大学院へ入学、東京帝国大学文学部副手(~1929年)ともなりました。1932年(昭和7)に東京帝国大学大学院を修了し、1935年(昭和10)には、東京帝国大学文学部助教授となります。
 1936年(昭和11)に財団法人史学会評議員となり、1937年(昭和12)には、論文「大化の改新の研究」により、東京帝国大学から文学博士の学位を取得しました。太平洋戦争後の1945年(昭和20)に東京帝国大学文学部教授となり、国史学第二講座を担当、翌年には、國學院大學講師(~1962年)も兼任し、1949年(昭和24)には、史学会理事長(~1959年)ともなります。
 1951年(昭和26)に東京大学史料編纂所所長(~1962年)を兼任し、厳密な史料批判にもとづいた実証主義の立場から日本古代史の研究を推進しました。1958年(昭和33)に日本学士院会員(死去まで)となり、東京大学評議員(~1962年)も務めます。
 1962年(昭和37)に東京大学教授を定年退官して名誉教授となり、國學院大學教授となりました。1969年(昭和44)に日本歴史学会会長(死去まで)、1972年(昭和47)に文化功労者顕彰、1975年(昭和50)に国立歴史民俗博物館設立準備委員会委員長(~1981年)、1978年(昭和53)に文化財保護審議会会長(~1980年)と要職を歴任します。
 1981年(昭和56)に国立歴史民俗博物館評議員会議議長(死去まで)、1982年(昭和57)に文化勲章受章、1983年(昭和58)には、國學院大學教授を退職し、國學院大學名誉教授となりましたが、1987年(昭和62)2月16日に、東京において、85歳で亡くなり、従三位・勲一等瑞宝章を追贈されました。

〇坂本太郎の主要な著作

・『上代駅制の研究』(1928年)
・『大化改新の研究』(1938年)
・『日本古代史の基礎的研究』(1964年)
・『日本歴史の特性』(1967年)

☆坂本太郎関係略年表

・1901年(明治34)10月7日 静岡県浜名郡浜松町(現在の浜松市)において、小学校の教員だった父・坂本宗十郎、母・ちかの長男として生まれる
・1908年(明治41) 元城尋常高等小学校へ入学する
・1914年(大正3) 元城尋常高等小学校を卒業し、静岡県立浜松中学校へ入学する
・1919年(大正8) 静岡県立浜松中学校を卒業し、第八高等学校文科甲類へ入学するも、病気により休学する
・1920年(大正9) 第八高等学校へ復学する
・1923年(大正12) 第八高等学校文科甲類を卒業し、東京帝国大学文学部国史学科へ入学する
・1926年(大正15) 東京帝国大学文学部国史学科を卒業し、臨時東山御文庫取調掛(~1927年)となる
・1927年(昭和2) 東京帝国大学大学院へ入学、東京帝国大学文学部副手(~1929年)、財団法人聖徳太子奉賛会研究給費生(~1929年)となる
・1929年(昭和4) 筑波侯爵家研究部調査事務(~1945年)となり、国史大系編纂刊行業務専任となる
・1932年(昭和7) 東京帝国大学大学院満期退学する
・1935年(昭和10) 東京帝国大学文学部助教授となる
・1936年(昭和11) 財団法人史学会評議員となる
・1937年(昭和12) 論文「大化の改新の研究」により、東京帝国大学から文学博士の学位を取得する
・1938年(昭和13) 史料編纂官、日本文化大観編纂嘱託、神武天皇聖蹟調査委員会委員となる
・1941年(昭和16) 浜松市史編纂顧問、「舒明天皇の御事蹟」を昭和天皇に進講、帝室制度史編纂委嘱、肇国聖蹟調査委員会委員となる
・1942年(昭和17) 國學院大學講師(~1944年)、昭和17年度中師範学校教科書編纂委員となる
・1943年(昭和18) 史学会常務理事となる
・1944年(昭和19) 広島文理科大学講師、文部省国史編修官(~1946年)となる
・1945年(昭和20) 東京帝国大学文学部教授、国史学第二講座を担当する
・1946年(昭和21) 國學院大學講師(~1962年)、昭和21年勅令第193号の2の規定により、適格と判定される
・1947年(昭和22) 昭和22年勅令第1号第7条第1項の規定により、適格と判定され、財団法人聖徳太子奉賛会理事(死去まで)となる
・1948年(昭和23) 東洋大学兼任教授(~1965年)となり、「元正天皇の御事蹟」を昭和天皇に進講する
・1949年(昭和24) 宮内庁書陵部委員、駒澤大学講師(~1950年)、史学会理事長(~1959年)となる
・1950年(昭和25) 大学設置審議会臨時委員(~1960年)、文化財専門審議会専門委員(~1970年)となる
・1951年(昭和26) 東京大学史料編纂所所長(~1962年)、信濃史料編纂委員(~1969年)、史料館評議会評議員(~1967年)、陽明文庫評議員(死去まで)となる
・1952年(昭和27) 大分県史料刊行会監修委員となる
・1953年(昭和28) 東京国立博物館評議員会評議員となる
・1954年(昭和29) 「孝徳天皇の御事蹟」を昭和天皇に進講する
・1957年(昭和32) 浜松市史編纂顧問、日本学術会議歴史学研究連絡委員会委員、正倉院評議会(正倉院懇談会)会員(死去まで)となる
・1958年(昭和33) 日本学士院会員(死去まで)、東京大学評議員(~1962年)、大学設置審議会臨時委員となる
・1959年(昭和34) 平城宮調査委員会委員(死去まで)となる
・1960年(昭和35) 浩宮徳仁親王浴湯の儀読書役、教材等調査研究会委員となる
・1961年(昭和36) 法隆寺文化財保存協議会協議員(死去まで)、ユネスコ東アジア文化研究センター運営委員、北海道史編集審議会顧問(~1966年)となる
・1962年(昭和37) 国際教育情報センター委員(~1969年)、東京大学教授定年退官し、國學院大學教授、学習院大学講師(~1972年)、東京大学名誉教授となる
・1963年(昭和38) 名古屋大学文学部講師(集中講義)となる
・1964年(昭和39) 中央大学講師(~1972年)となる
・1965年(昭和40) 国史大辞典編集委員会代表、礼宮文仁親王浴湯の儀読書役となる
・1966年(昭和41) 熊本大学講師(~1967年)、藤原宮調査指導委員(死去まで)となる
・1967年(昭和42) 講書始講師(題名は「日本書紀の歴史的意義」)、歴史博物館設立準備懇談会座長(~1970年)となる
・1969年(昭和44) 紀宮清子内親王浴湯の儀読書役奉仕、日本歴史学会会長(死去まで)となる
・1970年(昭和45) 文化財保護審議会委員(~1980年)となる
・1971年(昭和46) 国立歴史民俗博物館基本構想委員会委員長(~1975年)となり、秋の叙勲で勲二等瑞宝章を受章する
・1972年(昭和47) 文化功労者顕彰を受ける
・1975年(昭和50) 国立歴史民俗博物館設立準備委員会委員長(~1981年)となる
・1978年(昭和53) 文化財保護審議会会長を委嘱(~1980年)される
・1981年(昭和56) 国立歴史民俗博物館評議員会議議長(死去まで)となる
・1982年(昭和57) 文化勲章を受章する
・1983年(昭和58) 國學院大學教授を退職し、國學院大學名誉教授となる
・1987年(昭和62)2月16日 東京において、85歳で亡くなり、従三位・勲一等瑞宝章を追贈される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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1884年(明治17)日本画家・能書家安田靫彦の誕生日詳細
1948年(昭和23)「当用漢字音訓表」と「当用漢字別表」が公布され、881字がいわゆる「教育漢字」とされる詳細
2006年(平成18)兵庫県神戸市に神戸空港(愛称:マリンエア)が開港する詳細
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takanotatsuyuki01
 今日は、昭和時代中期の1947年(昭和22)に、国文学者・作詞家・文学博士高野辰之が亡くなった日です。
 高野辰之(たかの たつゆき)は、明治時代前期の1876年(明治9)4月13日に、長野県水内郡永江村(現在の中野市永江)の豪農だった父・高野仲右衛門、母・いしの長男として生まれました。1890年(明治23)に、下水内高等小学校高等小学科卒業後、永田尋常小学校授業生(代用教員)となります。
 1893年(明治26)に長野県尋常師範学校へ入学、1897年(明治30)に卒業後、下水内高等小学校訓導となりました。1898年(明治31)に、国語科の師範学校尋常中学校高等女学校教員免許状を取得、上京して、東京帝国大学国語研究室で上田萬年に師事、国文学を学びます。
 1900年(明治33)に、長野県師範学校教諭兼訓導となり、国文学史などを教え、1902年(明治35)には、「国文学史」教科書を出版、文部省国語教科書編纂委員嘱託となりました。1904年(明治37)に文部省国語教科書編纂委員、1908年(明治41)に東京音楽学校邦楽調査嘱託、1909年(明治42)には、教科用図書調査委員会第三部起草員職務補助嘱託、小学校唱歌教科書編纂委員嘱託となります。
 1910年(明治43)に東京音楽学校教授、東京音楽学校邦楽調査掛調査員となり、1911年(明治44)に尋常小学唱歌第1学年用に「日の丸の旗」、尋常小学唱歌第2学年用に「紅葉」、1912年(明治45)に尋常小学唱歌第3学年用に「春がきた」、尋常小学唱歌第4学年用に「春の小川」、1914年(大正3)には、尋常小学唱歌第6学年用に「故郷」「朧月夜」を掲載しました。1917年(大正6)に東京音楽学校邦楽調査掛主事となり、1922年(大正11)に『近松門左衛門全集』を出版、1923年(大正12)には、國學院大學講師となります。
広く文献資料を収集・考証し、1925年(大正14)に論文「日本歌謡史」で、東京帝国大学より文学博士を取得、1926年(大正15)に『日本歌謡史』を出版、東京帝国大学講師(日本演劇史)、大正大学教授を兼任、1928年(昭和3)には、「日本歌謡史」で、帝国学士院賞を受賞しました。1934年(昭和9)に野沢温泉麻釜に別荘「対雲山荘」を求め、1935年(昭和10)には、勲三等瑞宝章を受章、『江戸文学史』を出版します。1936年(昭和11)に東京音楽学校を定年退職、1941年(昭和16)には、大正大学も退職しましたが、1947年(昭和22)1月25日に、長野県高井郡豊郷村野沢温泉の対雲山荘において、72歳で亡くなりました。

〇高野辰之の主要な著作

<著書>
・『歌舞音曲考説』(1915年)
・『日本民謡の研究』(1924年)
・『日本歌謡史』(1926年)学士院賞受賞
・『日本演劇之研究』(1926年)
・『日本歌謡集成』全12巻
・『江戸文学史』(1935年)
・『日本演劇史』全3巻(1947~49年)

<作詞>
・「故郷」
・「朧月夜」
・「もみじ」
・「春がきた」
・「春の小川」
・「日の丸の旗」
・「人形を迎える歌」(作曲:東京音楽学校)
・「人形を送る歌』(作曲:島崎赤太郎)
・「飯山小唄」(作曲:中山晋平)

☆高野辰之関係略年表

・1876年(明治9)4月13日 長野県水内郡永江村(現在の中野市永江)の豪農だった父・高野仲右衛門、母・いしの長男として生まれる
・1887年(明治20) 豊津学校永江支校小学中等科卒業する
・1890年(明治23) 下水内高等小学校高等小学科卒業後、永田尋常小学校授業生(代用教員)となる
・1893年(明治26) 長野県尋常師範学校へ入学する
・1897年(明治30) 長野県尋常師範学校を卒業後、下水内高等小学校訓導となる
・1898年(明治31) 国語科の師範学校尋常中学校高等女学校教員免許状を取得、上京して、東京帝国大学国語研究室で上田萬年に師事、国文学を学ぶ
・1900年(明治33) 長野県師範学校教諭兼訓導となり、国文学史などを教える
・1902年(明治35) 「国文学史」教科書出版、文部省国語教科書編纂委員嘱託となる
・1904年(明治37) 文部省国語教科書編纂委員となる
・1908年(明治41) 東京音楽学校邦楽調査嘱託となる
・1909年(明治42) 教科用図書調査委員会第三部起草員職務補助嘱託、小学校唱歌教科書編纂委員嘱託となる
・1910年(明治43) 東京音楽学校教授、東京音楽学校邦楽調査掛調査員となる
・1911年(明治44) 尋常小学唱歌第1学年用に「日の丸の旗」を掲載、尋常小学唱歌第2学年用に「紅葉」を掲載する
・1912年(明治45) 尋常小学唱歌第3学年用に「春がきた」を掲載、尋常小学唱歌第4学年用に「春の小川」を掲載する
・1914年(大正3) 尋常小学唱歌第6学年用に「故郷」「朧月夜」を掲載する
・1917年(大正6) 東京音楽学校邦楽調査掛主事となる
・1922年(大正11) 『近松門左衛門全集』を出版する
・1923年(大正12) 國學院大學講師となる
・1925年(大正14) 論文「日本歌謡史」で、東京帝国大学より文学博士を取得する
・1926年(大正15) 『日本歌謡史』を出版、東京帝国大学講師(日本演劇史)、大正大学教授を兼任する
・1928年(昭和3) 「日本歌謡史」で、帝国学士院賞を受賞する
・1934年(昭和9) 野沢温泉麻釜に別荘「対雲山荘」を求める
・1935年(昭和10) 勲三等瑞宝章を受章、『江戸文学史』を出版する
・1936年(昭和11) 東京音楽学校を定年退職する
・1941年(昭和16) 大正大学を退職する
・1947年(昭和22)1月25日 長野県高井郡豊郷村野沢温泉の対雲山荘において、72歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1701年(元禄14)真言宗僧・国学者・歌人契沖の命日(新暦3月4日)詳細
1880年(明治13)福沢諭吉を中心に、日本最初の社交クラブである交詢社が設立される詳細
1902年(明治35)北海道上川郡旭川町(現在の旭川市)で日本の最低気温-41℃を記録する詳細
1945年(昭和20)小磯国昭内閣によって、「決戦非常措置要綱」が閣議決定される詳細
1957年(昭和32)医学者・細菌学者志賀潔の命日詳細
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