ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:文学

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 今日は、明治時代後期の1903年(明治36)に、小説家・評論家立野信之の生まれた日です。
 立野信之(たての のぶゆき)は、千葉県市原郡五井町(現在の市原市)で生まれ、旧制の私立関東中学校へ入学しました。在学中からから「国民文学」などに短歌を投稿しましたが、中退して農業をし、20歳で市原郡五井町役場に就職しています。
 一方、同人誌「簇生」、「千葉文化」、「新興文学」などの発行をしていましたが、1924年(大正13)に連隊に入営しました。2年後除隊し、1928年(昭和3)に、軍隊経験を元に書いた短編小説『標的になつた彼奴(あいつ)』、『軍隊病』で作家デビューします。
 プロレタリア文学の新しい領域の反戦的な作品として注目され、プロレタリア作家としての地位を築き、同年『戦旗』編集委員となり、1930年(昭和5)には、日本プロレタリア作家同盟書記長となりました。しかし、同年に「治安維持法」違反で検挙され、翌年獄中で転向を表明して執行猶予となります。
 その後は、転向文学の先駆けといわれる『友情』(1934年)、『流れ』(1936年)などを発表しました。太平洋戦争後は、現代史に取材した小説を書き継ぎ、二・二六事件を題材にしたノンフィクション小説『叛乱(はんらん)』(1952~53年)で、第28回直木賞を受章します。
 文壇活動としては日本ペンクラブの運営に深く関わり、幹事長、副会長などを歴任、1966年(昭和41)まで専務理事を務めました。芸術院会員ともなりましたが、1971年(昭和46)10月25日に、東京において、68歳で亡くなっています。

〇立野信之の主要な著作

・小説『標的になつた彼奴(あいつ)』(1928年)
・小説『軍隊病』(1928年)
・評論『プロレタリア文学の新しき前進方向』
・評論『創作方法に於ける唯物弁証法』(1931年)
・小説『友情』(1934年)
・小説『流れ』(1936年)
・小説『叛乱(はんらん)』(1952~53年)第28回直木賞受章
・小説『太陽はまた昇る――公爵近衛文麿』(1953年)
・小説『黒い花』(1955年)
・小説『明治大帝』(1956~58年)
・小説『赤と黒』(1959年)
・小説『壊滅』(1961年)
・小説『昭和軍閥』(1963年)
・小説『日本占領』(1964年)

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1803年(享和3)蘭学者・医師前野良沢の命日(新暦11月30日)詳細
1980年(昭和55)ラムサール条約」が日本国内で発効する詳細



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karaisenryuu01

 今日は、江戸時代中期の1790年(寛政2)に、前句付点者柄井川柳が亡くなった日ですが、新暦では10月30日となります。
 柄井川柳(からい せんりゅう)は、1718年(享保3)に、代々江戸浅草新堀端の竜宝寺門前町の名主の家系に生まれましたが、幼名は勇之助(のち正通)と言いました。初め談林派の点者であったともいわれますが、1755年(宝暦5)38歳のときに家を継いで名主となります。
 1757年(宝暦7年8月25日)に前句付の点者として無名庵川柳と号し、最初の万句合を興行し、山手を中心地盤に、以後毎年8月から年末まで、月3回5のつく日に句合を興行しました。1762年(宝暦12)には応募句が1万句を超して人気を博し、明和年中(1764~72年)には江戸の第一人者となります。
 1765年(明和2)に、その選句の中から前句付作者呉陵軒可有の協力を得て756句選び、前句抜きで『誹風柳多留 (はいふうやなぎだる) 』として出版しました。これによって、いわゆる川柳というジャンルを確立し、その後『誹風柳多留』は 24編出版されましたが、1790年(寛政2年9月23日)に、江戸において、数え年73歳で亡くなっています。
 尚、川柳の号は16世(尾藤川柳)まで受け継がれてきました。

〇『誹風柳多留』の代表的な句

・「侍が来ては買ってく高楊枝」
・「役人の子はにぎにぎを能く覚え」
・「芭蕉翁ぽちゃんと云ふと立ちどまり」
・「五右衛門はなまにえの時一首よみ」
・「かみなりをまねて腹掛やっとさせ」
・「是小判たった一晩居てくれろ」
・「駿河丁畳のうへの人通り」
・「けんやくを武芸のようにいゝ立てる」
・「人は武士なぜ蔵宿にあてがわれ」
・「抜けば抜け後で竹とはいはさぬぞ」
・「いにしへは某今はなにもなし」
・「れんこんはここらを折れと生まれつき」
・「百両をほどけば人をしさらせる」
・「駕籠賃をやつて女房はつんとする」
・「初鰹家内残らず見た計」
・「母親はもつたいないがだましよい」
・「碁敵は憎さも憎しなつかしさ」
・「寝てゐても団扇の動く親心」
・「後家の質男ものから置きはじめ」

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 今日は、平安時代後期の1086年(応徳3)に、藤原通俊が『後拾遺和歌集』を完成し、奏上した日ですが、新暦では10月26日となります。
 『後拾遺和歌集』(ごしゅういわかしゅう)は、1075年(承保2)に白河天皇の勅命で、藤原通俊が撰者となって編集し、1086年(応徳3年9月16日)に完成・奏上、同年10月いったん奏覧され、翌年改訂して再度奏覧された、4番目の勅撰和歌集で、『後拾遺集』とも呼ばれていました。
 全20巻からなり、「仮名序」と漢文序に相当する「目録序」の二つの序文を備え、320人あまりの歌1,218首を収め、春 (上・下)、夏、秋 (上・下)、冬、賀、別離、羇旅、哀傷、恋 (一~四) 、雑 (一~六) に部立されています。女流歌人の歌が多く、清新な叙景歌や斬新な発想、表現等に新傾向もみられ、源経信の『難後拾遺』のような批判書も出されました。
 選歌範囲は、村上朝から白河朝までの約130年間で、入集歌数が多いのは、和泉式部(67首)、相模(39首)、赤染衛門(32首)、能因法師(31首)、伊勢大輔(26首)、清原元輔(26首)、大中臣能宣(26首)、源道済(22首)、藤原長能(20首)、藤原公任(19首)の順となっています。
 『古今和歌集』、『後撰和歌集』、『拾遺和歌集』に続く4番目の勅撰和歌集として編集されましたが、この歌集以後も勅撰和歌集が編集され、1439年(永享11)成立の『新続古今和歌集』までの534年間で21があり、総称して「二十一代集」と呼ばれました。尚、1205年(元久2)成立の『新古今和歌集』までの初めの8つを「八代集」とも呼んでいます。

<収載されている代表的な歌>

・「世の中を 思ひすててし 身なれども 心よわしと 花に見えける」(能因法師)
・「さびしさに 煙をだにも 絶たじとて 柴折りくぶる 冬の山里」(和泉式部)
・「頼むるを 頼むべきには あらねども 待つとはなくて 待たれもやせん」(相模)
・「やすらはで 寝なましものを さ夜更けて かたぶくまでの 月を見しかな」(赤染衛門)
・「なき数に 思ひなしてや 訪はざらん まだ有明の 月待つものを」(伊勢大輔)
・「七重八重 花は咲けども 山吹の 實のひとつだに なきぞあやしき」(兼明親王)

 〇勅撰和歌集(二十一代集)一覧

1 『古今和歌集』20巻・1,100首(醍醐天皇下命)
 905年成立[選者:紀友則、紀貫之、凡河内躬恒、壬生忠岑]
2 『後撰和歌集』20巻・1,425首(村上天皇下命)
 957-959年成立[選者:大中臣能宣、清原元輔、源順、紀時文、坂上望城]
3 『拾遺和歌集』20巻・1,351首(花山院下命)
 1005-07年成立[選者:花山院] 藤原公任『拾遺抄』の増補
4 『後拾遺和歌集』20巻・1,218首(白河天皇下命)
 1086年成立[選者:藤原通俊]
5 『金葉和歌集』10巻・650首(白河院下命)
 1126年成立(三奏本)[選者:源俊頼](三奏本) 世上に流布したのは10巻665首の二度本
6 『詞花和歌集』10巻・415首(崇徳院下命)
 1151年頃成立[選者:藤原顕輔]
7 『千載和歌集』20巻・1,288首(後白河院下命)
 1188年成立[選者:藤原俊成]
8 『新古今和歌集』20巻・1,978首(後鳥羽院下命)
 1205年成立[選者:源通具、藤原有家、藤原定家、飛鳥井雅経、寂蓮(実際は後鳥羽院親撰)]
9 『新勅撰和歌集』20巻・1,374首(後堀河天皇下命)
 1235年成立[選者:藤原定家]
10 『続後撰和歌集』20巻・1,371首(後嵯峨院下命)
 1251年成立[選者:藤原為家]
11 『続古今和歌集』20巻・1,915首(後嵯峨院下命)
 1265年成立[選者:藤原為家、藤原基家、藤原行家、藤原光俊、藤原家良]
12 『続拾遺和歌集』20巻・1,459首(亀山院下命)
 1278年成立[選者:二条為氏]
13 『新後撰和歌集』20巻・1,607首(後宇多院下命)
 1303年成立[選者:二条為世]
14 『玉葉和歌集』20巻・2,800首(伏見院下命)
 1312年成立[選者:京極為兼]
15 『続千載和歌集』20巻・2,143首(後宇多院下命)
 1320年成立[選者:二条為世]
16 『続後拾遺和歌集』20巻・1,353首(後醍醐天皇下命)
 1326年成立[選者:二条為藤、二条為定]
17 『風雅和歌集』20巻・2,211首(花園院監修、光厳院下命)
 1349年成立[選者:光厳院(親撰)]
18 『新千載和歌集』20巻・2,365首(後光厳天皇下命)
 1359年成立[選者:二条為定]
19 『新拾遺和歌集』20巻・1,920首(後光厳天皇下命)
 1364年成立[選者:二条為明、頓阿]
20 『新後拾遺和歌集』20巻・1,554首(後円融天皇下命)
 1384年成立[選者:二条為遠、二条為重]
21 『新続古今和歌集』20巻・2,144首(後花園天皇下命)
 1439年成立[選者:飛鳥井雅世]

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 今日は、江戸時代中期の1704年(宝永元)に、俳人(蕉門十哲の一人)向井去来の亡くなった日ですが、新暦では10月8日となります。
 向井去来(むかい きょらい)は、1651年(慶安4)に、肥前国長崎(現在の長崎市興善町)で、儒医向井元升の次男として生まれましたが、名は兼時、字は元淵(もとひろ)と言いました。1658年(万治元)に父に伴われて京都に移住しましたが、のち福岡の叔父のもとに身を寄せて武芸を学びます。
 しかし、結局仕官せず、1675年(延宝3)頃に武を捨てて京都に戻り、1677年(延宝5)に没した父を継いで典薬となった兄元端を助け、公家に出入りして神道家、陰陽家として天文や暦のことに携わりました。貞享年間 (1684~88年) 頃に、榎本其角を介してくげ松尾芭蕉に入門、嵯峨の落柿舎(らくししゃ)に隠棲して、俳諧に専心します。
 1689年(元禄2)に、近畿滞在中の芭蕉を落柿舎に招き、1691年(元禄4)の夏には、芭蕉の宿舎として提供、ここで『嵯峨日記』が執筆されました。同年、芭蕉の指導のもとで野沢凡兆と共に『猿蓑』を編纂し、蕉風を代表する撰集となります。
 1694年(元禄7)の芭蕉没後は、蕉風の忠実な伝え手として、其角や森川許六と論争し、『俳諧問答青根が峰』、『去来抄』、『旅寝論』など重要な蕉風俳論を執筆したものの、1704年(宝永元年9月10日)に、京都において、数え年54歳で亡くなりました。のちに、蕉門十哲の一人と言われるようになります。

<代表的な句>

・「秋風や 白木の弓に 弦はらん」
・「湖の水 まさりけり 五月雨」
・「をととひは あの山越つ 花盛り」
・「尾頭の こころもとなき 海鼠哉」
・「螢火や 吹とばされて 鳰の闇」
・「鳶の羽も 刷ぬ はつしぐれ」
・「応々と いへど敲くや 雪の門」
・「岩鼻や ここにもひとり 月の客」(去来抄)

〇向井去来の主要な著作

・『猿蓑』(1691年)野沢凡兆との共編
・『贈其角先生書』
・『答許子問難弁』
・『俳諧問答青根が峰』
・『去来抄』
・『旅寝論』

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 今日は、江戸時代中期の1775年(安永4)に、俳人加賀千代女(千代尼)の亡くなった日ですが、新暦では10月2日となります。
 加賀千代女(かが の ちよじょ)は、1703年(元禄16)に、加賀国松任(現在の白山市八日市町)の表具師福増屋六兵衛の娘として生まれました。12歳の頃に奉公した本吉の北潟屋主人岸弥左衛門(俳号半睡、のち大睡)に俳諧を学び、1719年(享保4)17歳のとき、北越行脚中の各務支考にその才を認められ、諸国に知られるようになります。
 通説では 18歳の頃、金沢藩の足軽福岡弥八に嫁し1子をもうけ、夫や子に死別して松任に帰ったとされますが、結婚しなかったとも言われてきました。1725年(享保10)に、京の東本願寺に参詣、その途上伊勢俳壇中川乙由を訪問して入門します。
 1727年(享保12)には、支考の門人仙石廬元坊の来訪をうけ「松任短歌行」をなし、女流俳人として有名となりました。1754年(宝暦4)に剃髪して素園と号し、居室を草風庵と称するようになります。
 1764年(明和元)に、既白編の『千代尼句集』(546句載録)が刊行され、1771年(明和8年)には、その後編『俳諧松の声』(327句載録)が刊行されました。「朝顔に つるべ取られて もらい水」など平俗で親しみやすい句を詠みましたが、1775年(安永4年9月8日)に、加賀において、数え年73歳で亡くなっています。
 尚、生涯で1,700余の句を成したとされますが、辞世の句は「月も見て 我はこの世を かしく哉」でした。

<代表的な句>

・「池の雪 鴨あそべとて 明てありり」
・「昼顔の 行義に夜は 痩にけり」
・「朝顔に つるべ取られて もらい水」
・「月も見て 我はこの世を かしく哉」(辞世)

〇加賀千代女の主要な著作

・『吉崎紀行』(1762年)
・『千代尼句集』既白編(1764年)
・『自撰真蹟俳諧帖』(1768年)
・『俳諧松の声』既白編(1771年)

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