
芦原義信(あしはら よしのぶ)は、大正時代の1918年(大正7)7月7日に、東京(現在の新宿区若葉町)において、軍医の家系に生まれました。府立一中(現在の都立日比谷高等学校)、旧制成城高校を経て、東京帝国大学工学部建築学科へ進み、1942年(昭和17)に卒業後、技術士官として海軍に入ります。
1945年(昭和20)に復員後、坂倉準三のアトリエ系建築設計事務所に入所しました。1952年(昭和27)に、ハーバード大学大学院に留学し、翌年には、修士号(M.Arch.)取得後、マルセル・ブロイヤーの事務所に入所します。
1954年(昭和29)に日本へ帰国し、法政大学工学部講師となり、1956年(昭和31)には、芦原建築設計研究所を開設、「中央公論ビル」で、日本建築学会賞を受賞しました。1959年(昭和34)に法政大学教授に昇進し、翌年には、ロックフェラー奨学金を受けてニューヨークに滞在、1961年(昭和36)には、学位論文「建築の外部空間に関する研究 」で、東京大学より、工学博士を得ています。
1962年(昭和37)に『外部空間の構成』を刊行、1964年(昭和39)には、「駒沢公園体育館・管制塔」で、日本建築学会特別賞、第6回建築業協会賞を受賞、武蔵野美術大学造形学部産業デザイン学科(1965年に建築学科に改組)主任教授となりました。1966年(昭和41)に東京銀座のソニービルを設計、戦後の東京のシンボルとなり、1968年(昭和43)には、「モントリオール万博・日本館」で、芸術選奨文部大臣賞を受賞します。
1970年(昭和45)に東京大学工学部教授となり、イタリア政府コマンダトーレ勲章を受章、1979年(昭和54)には、アメリカ建築家協会名誉会員となり、東京大学を定年退官、『街並みの美学』(岩波書店)を刊行し、第33回毎日出版文化賞を受賞しました。1984年(昭和59)に「国立歴史民俗博物館」で、日本芸術院賞を受賞、国際交通安全学会賞を受賞、1985年(昭和60)に、日本建築学会会長(~1986年)となり、フィンランド・コマンダー・ライオン勲章を受章、1987年(昭和62)には、王立オーストリア建築家協会名誉会員となります。
1988年(昭和63)に日本芸術院会員となり、1989年(平成元)に勲二等瑞宝章を受章、1990年(平成2)に日本建築学会大賞を受賞、1991年(平成3)には、文化功労者となりました。1998年(平成10)に文化勲章を受章し、2003年(平成15)には、東京大学名誉教授となったものの、同年9月24日に、東京都新宿区の病院において、大腸がんのため、85歳で亡くなっています。
1945年(昭和20)に復員後、坂倉準三のアトリエ系建築設計事務所に入所しました。1952年(昭和27)に、ハーバード大学大学院に留学し、翌年には、修士号(M.Arch.)取得後、マルセル・ブロイヤーの事務所に入所します。
1954年(昭和29)に日本へ帰国し、法政大学工学部講師となり、1956年(昭和31)には、芦原建築設計研究所を開設、「中央公論ビル」で、日本建築学会賞を受賞しました。1959年(昭和34)に法政大学教授に昇進し、翌年には、ロックフェラー奨学金を受けてニューヨークに滞在、1961年(昭和36)には、学位論文「建築の外部空間に関する研究 」で、東京大学より、工学博士を得ています。
1962年(昭和37)に『外部空間の構成』を刊行、1964年(昭和39)には、「駒沢公園体育館・管制塔」で、日本建築学会特別賞、第6回建築業協会賞を受賞、武蔵野美術大学造形学部産業デザイン学科(1965年に建築学科に改組)主任教授となりました。1966年(昭和41)に東京銀座のソニービルを設計、戦後の東京のシンボルとなり、1968年(昭和43)には、「モントリオール万博・日本館」で、芸術選奨文部大臣賞を受賞します。
1970年(昭和45)に東京大学工学部教授となり、イタリア政府コマンダトーレ勲章を受章、1979年(昭和54)には、アメリカ建築家協会名誉会員となり、東京大学を定年退官、『街並みの美学』(岩波書店)を刊行し、第33回毎日出版文化賞を受賞しました。1984年(昭和59)に「国立歴史民俗博物館」で、日本芸術院賞を受賞、国際交通安全学会賞を受賞、1985年(昭和60)に、日本建築学会会長(~1986年)となり、フィンランド・コマンダー・ライオン勲章を受章、1987年(昭和62)には、王立オーストリア建築家協会名誉会員となります。
1988年(昭和63)に日本芸術院会員となり、1989年(平成元)に勲二等瑞宝章を受章、1990年(平成2)に日本建築学会大賞を受賞、1991年(平成3)には、文化功労者となりました。1998年(平成10)に文化勲章を受章し、2003年(平成15)には、東京大学名誉教授となったものの、同年9月24日に、東京都新宿区の病院において、大腸がんのため、85歳で亡くなっています。
〇芦原義信の主要な作品
<建築・設計>
・「中央公論ビル」(1956年)日本建築学会賞受賞
・「駒沢公園体育館・管制塔」(1964年)日本建築学会特別賞、第6回建築業協会賞受賞
・「東京銀座のソニービル」(1966年)
・「モントリオール万博・日本館」(1968年)芸術選奨文部大臣賞受賞
・「国立歴史民俗博物館」(1984年)日本芸術院賞受賞
<著作>
・『外部空間の構成』(1962年)
・『外部空間の設計』(1975年)
・『街並みの美学』(1979年)第33回毎日出版文化賞受賞
・『続 街並みの美学』(1983年)
・『隠れた秩序』(1986年)
・『秩序への模索』(1995年)
☆芦原義信関係略年表
・1918年(大正7)7月7日 東京(現在の新宿区若葉町)において、軍医の家系に生まれる
・1942年(昭和17) 東京帝国大学工学部建築学科を卒業後、技術士官として海軍に入る
・1945年(昭和20) 坂倉準三のアトリエ系建築設計事務所に入所する
・1952年(昭和27) ハーバード大学大学院に留学する
・1953年(昭和28) ハーバード大学大学院で修士号(M.Arch.)取得後、マルセル・ブロイヤーの事務所に入所する
・1954年(昭和29) 日本へ帰国し、法政大学工学部講師となる
・1956年(昭和31) 芦原建築設計研究所を開設、「中央公論ビル」で、日本建築学会賞を受賞する
・1959年(昭和34) 法政大学教授となる
・1960年(昭和35) ロックフェラー奨学金を受けニューヨークに滞在する
・1961年(昭和36) 学位論文「建築の外部空間に関する研究 」で、東京大学より、工学博士を得る
・1962年(昭和37) 『外部空間の構成』を刊行する
・1964年(昭和39) 「駒沢公園体育館・管制塔」で、日本建築学会特別賞、第6回建築業協会賞を受賞、武蔵野美術大学造形学部産業デザイン学科(1965年に建築学科に改組)主任教授となる
・1965年(昭和40) 武蔵野美術大学建築学科教授となる
・1966年(昭和41) 東京銀座のソニービルを設計、戦後の東京のシンボルとなる
・1968年(昭和43) 「モントリオール万博・日本館」で、芸術選奨文部大臣賞を受賞する
・1970年(昭和45) 東京大学工学部教授となり、イタリア政府コマンダトーレ勲章を受章する
・1979年(昭和54) アメリカ建築家協会名誉会員となり、東京大学を定年退官、『街並みの美学』(岩波書店)を刊行し、第33回毎日出版文化賞を受賞する
・1984年(昭和59) 「国立歴史民俗博物館」で、日本芸術院賞を受賞、国際交通安全学会賞を受賞する
・1985年(昭和60) 日本建築学会会長(~1986年)となり、フィンランド・コマンダー・ライオン勲章を受章する
・1987年(昭和62) 王立オーストリア建築家協会名誉会員となる
・1988年(昭和63) 日本芸術院会員となる
・1989年(平成元) 勲二等瑞宝章を受章する
・1990年(平成2) 日本建築学会大賞を受賞する
・1991年(平成3) 文化功労者となる
・1998年(平成10) 文化勲章を受章する
・2003年(平成15) 東京大学名誉教授となる
・2003年(平成15)9月24日 東京都新宿区の病院において、大腸がんのため、85歳で亡くなる
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
年中行事 | 七夕です | 詳細 |
1129年(大治4) | 白河天皇(第72代)の命日(新暦7月24日) | 詳細 |
1615年(慶長20) | 江戸幕府が大名統制の為「武家諸法度」(元和令)を発布する(新暦8月30日) | 詳細 |
1823年(文政6) | P.F.vonシーボルトがオランダ商館の医師として長崎・出島に着任する(新暦8月12日) | 詳細 |
1844年(天保15) | 和歌山藩士・外交官・政治家・伯爵陸奥宗光の誕生日(新暦8月20日) | 詳細 |
1884年(明治17) | 「華族令」(明治17年宮内省達無号)が制定され、公・侯・伯・子・男の爵位が定められる | 詳細 |
1964年(昭和39) | 山梨県の「富士ラマパーク」(後の富士急ハイランド)が開園する | 詳細 |
2017年(平成29) | 「核兵器禁止条約」が国連で採択される | 詳細 |