ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:文化勲章

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 今日は、大正時代の1918年(大正7)に、建築家芦原義信の生まれた日です。
 芦原義信(あしはら よしのぶ)は、大正時代の1918年(大正7)7月7日に、東京(現在の新宿区若葉町)において、軍医の家系に生まれました。府立一中(現在の都立日比谷高等学校)、旧制成城高校を経て、東京帝国大学工学部建築学科へ進み、1942年(昭和17)に卒業後、技術士官として海軍に入ります。
 1945年(昭和20)に復員後、坂倉準三のアトリエ系建築設計事務所に入所しました。1952年(昭和27)に、ハーバード大学大学院に留学し、翌年には、修士号(M.Arch.)取得後、マルセル・ブロイヤーの事務所に入所します。
 1954年(昭和29)に日本へ帰国し、法政大学工学部講師となり、1956年(昭和31)には、芦原建築設計研究所を開設、「中央公論ビル」で、日本建築学会賞を受賞しました。1959年(昭和34)に法政大学教授に昇進し、翌年には、ロックフェラー奨学金を受けてニューヨークに滞在、1961年(昭和36)には、学位論文「建築の外部空間に関する研究 」で、東京大学より、工学博士を得ています。
 1962年(昭和37)に『外部空間の構成』を刊行、1964年(昭和39)には、「駒沢公園体育館・管制塔」で、日本建築学会特別賞、第6回建築業協会賞を受賞、武蔵野美術大学造形学部産業デザイン学科(1965年に建築学科に改組)主任教授となりました。1966年(昭和41)に東京銀座のソニービルを設計、戦後の東京のシンボルとなり、1968年(昭和43)には、「モントリオール万博・日本館」で、芸術選奨文部大臣賞を受賞します。
 1970年(昭和45)に東京大学工学部教授となり、イタリア政府コマンダトーレ勲章を受章、1979年(昭和54)には、アメリカ建築家協会名誉会員となり、東京大学を定年退官、『街並みの美学』(岩波書店)を刊行し、第33回毎日出版文化賞を受賞しました。1984年(昭和59)に「国立歴史民俗博物館」で、日本芸術院賞を受賞、国際交通安全学会賞を受賞、1985年(昭和60)に、日本建築学会会長(~1986年)となり、フィンランド・コマンダー・ライオン勲章を受章、1987年(昭和62)には、王立オーストリア建築家協会名誉会員となります。
 1988年(昭和63)に日本芸術院会員となり、1989年(平成元)に勲二等瑞宝章を受章、1990年(平成2)に日本建築学会大賞を受賞、1991年(平成3)には、文化功労者となりました。1998年(平成10)に文化勲章を受章し、2003年(平成15)には、東京大学名誉教授となったものの、同年9月24日に、東京都新宿区の病院において、大腸がんのため、85歳で亡くなっています。

〇芦原義信の主要な作品

<建築・設計>
・「中央公論ビル」(1956年)日本建築学会賞受賞
・「駒沢公園体育館・管制塔」(1964年)日本建築学会特別賞、第6回建築業協会賞受賞
・「東京銀座のソニービル」(1966年)
・「モントリオール万博・日本館」(1968年)芸術選奨文部大臣賞受賞
・「国立歴史民俗博物館」(1984年)日本芸術院賞受賞

<著作>
・『外部空間の構成』(1962年)
・『外部空間の設計』(1975年)
・『街並みの美学』(1979年)第33回毎日出版文化賞受賞
・『続 街並みの美学』(1983年)
・『隠れた秩序』(1986年)
・『秩序への模索』(1995年)

☆芦原義信関係略年表

・1918年(大正7)7月7日 東京(現在の新宿区若葉町)において、軍医の家系に生まれる 
・1942年(昭和17) 東京帝国大学工学部建築学科を卒業後、技術士官として海軍に入る
・1945年(昭和20) 坂倉準三のアトリエ系建築設計事務所に入所する
・1952年(昭和27) ハーバード大学大学院に留学する
・1953年(昭和28) ハーバード大学大学院で修士号(M.Arch.)取得後、マルセル・ブロイヤーの事務所に入所する
・1954年(昭和29) 日本へ帰国し、法政大学工学部講師となる
・1956年(昭和31) 芦原建築設計研究所を開設、「中央公論ビル」で、日本建築学会賞を受賞する
・1959年(昭和34) 法政大学教授となる
・1960年(昭和35) ロックフェラー奨学金を受けニューヨークに滞在する
・1961年(昭和36) 学位論文「建築の外部空間に関する研究 」で、東京大学より、工学博士を得る
・1962年(昭和37) 『外部空間の構成』を刊行する
・1964年(昭和39) 「駒沢公園体育館・管制塔」で、日本建築学会特別賞、第6回建築業協会賞を受賞、武蔵野美術大学造形学部産業デザイン学科(1965年に建築学科に改組)主任教授となる
・1965年(昭和40) 武蔵野美術大学建築学科教授となる
・1966年(昭和41) 東京銀座のソニービルを設計、戦後の東京のシンボルとなる
・1968年(昭和43) 「モントリオール万博・日本館」で、芸術選奨文部大臣賞を受賞する
・1970年(昭和45) 東京大学工学部教授となり、イタリア政府コマンダトーレ勲章を受章する
・1979年(昭和54) アメリカ建築家協会名誉会員となり、東京大学を定年退官、『街並みの美学』(岩波書店)を刊行し、第33回毎日出版文化賞を受賞する
・1984年(昭和59) 「国立歴史民俗博物館」で、日本芸術院賞を受賞、国際交通安全学会賞を受賞する
・1985年(昭和60) 日本建築学会会長(~1986年)となり、フィンランド・コマンダー・ライオン勲章を受章する
・1987年(昭和62) 王立オーストリア建築家協会名誉会員となる
・1988年(昭和63) 日本芸術院会員となる
・1989年(平成元) 勲二等瑞宝章を受章する
・1990年(平成2) 日本建築学会大賞を受賞する
・1991年(平成3) 文化功労者となる
・1998年(平成10) 文化勲章を受章する
・2003年(平成15) 東京大学名誉教授となる
・2003年(平成15)9月24日 東京都新宿区の病院において、大腸がんのため、85歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

年中行事七夕です詳細
1129年(大治4)白河天皇(第72代)の命日(新暦7月24日)詳細
1615年(慶長20)江戸幕府が大名統制の為「武家諸法度」(元和令)を発布する(新暦8月30日)詳細
1823年(文政6)P.F.vonシーボルトがオランダ商館の医師として長崎・出島に着任する(新暦8月12日)詳細
1844年(天保15)和歌山藩士・外交官・政治家・伯爵陸奥宗光の誕生日(新暦8月20日)詳細
1884年(明治17)「華族令」(明治17年宮内省達無号)が制定され、公・侯・伯・子・男の爵位が定められる詳細
1964年(昭和39)山梨県の「富士ラマパーク」(後の富士急ハイランド)が開園する詳細
2017年(平成29)「核兵器禁止条約」が国連で採択される詳細
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bunkakunshyou0001
 今日は、昭和時代前期の1937年(昭和12)に、長岡半太郎、本多光太郎、幸田露伴、横山大観らに初の文化勲章が授与された日です。
 文化勲章(ぶんかくんしょう)は、科学・文芸など文化の発達にすぐれた功績をあげた者に授与される勲章として制定されました。他の勲章のような等級はなく、称号とも結びつかず、当初は年金も伴なわないもので、不定期に発令されていましたが、1949年(昭和24)以降は、原則として毎年1回、11月3日の「文化の日」に授与されるようになります。
 しかし、1951年(昭和26)に、「文化功労者年金法」が制定されてからは、文化勲章受章者は同時に文化功労者として「文化功労年金」を受けるのが例になりました。勲章は、賞勲局よび造幣局の嘱託であった東京高等工芸学校教授の畑正吉がデザインし、橘たちばなに勾玉まがたまを配した形で、綬じゅ(リボン)は淡紫色とされています。
 現在は、文化審議会の意見を聞いた上で、文部科学大臣が選考し、内閣総理大臣に推薦を行い、閣議決定によって、天皇から直接手渡されるようになりました。

〇第1回の文化勲章受章者 1937年(昭和12)4月28日授与

・長岡半太郎(物理学)
・本多光太郎(金属物理学)
・木村栄(地球物理学)
・佐佐木信綱(和歌・和歌史)
・幸田露伴(小説)
・岡田三郎助(洋画)
・藤島武二(洋画)
・竹内栖鳳(日本画)
・横山大観(日本画)

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1177年(安元3) 京都で安元の大火(太郎焼亡)が起きる(新暦6月3日) 詳細
1876年(明治9) 松本市の和洋折衷建築の小学校・旧開智学校(国宝)で上棟式が行われる 詳細
1919年(大正8) 横浜大正8年「埋地の大火」が起き、3,248戸を焼失する 詳細
1948年(昭和23) 「夏時刻法」(サマータイム法)が公布・施行される 詳細
1949年(昭和24) 内閣から「当用漢字字体表」が告示され、「当用漢字表」の字体を規定、略字が大幅に採用される 詳細
1952年(昭和27)  「日米安全保障条約」(旧)が発効する 詳細
日本と中華民国の間で「日華平和条約」が調印(同年8月5日発効)され、日中戦争が正式に終了する 詳細
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kataokatamako01
 今日は、平成時代の2008年(平成20)に、日本画家片岡球子が亡くなった日です。
 片岡球子(かたおか たまこ)は、明治時代後期の1905年(明治38)1月5日に、北海道の札幌市において、醸造・木材商の家の長女として生まれました。1922年(大正11)に北海道庁立札幌高等女学校(現在の北海道札幌北高等学校)師範科を卒業後、上京して、女子美術専門学校(現在の女子美術大学)日本画科高等科へ入学し、1926年(大正15)に卒業後、親の反対を押し切って、神奈川県立横浜市大岡尋常高等小学校教諭となります。
 帝展に応募しましたが落選を続けたものの、1930年(昭和5)に「枇杷」で、日本美術院再興第17回展に初入選し、研究会員となりました。1939年(昭和14)に日本美術院絵画部研究会で「新緑」が大観賞第二賞を受賞、「緑陰」で第26回院展に入選し、院友に推挙されます。
 1942年(昭和17)に日本美術院絵画部研究会で「祈祷の僧」が大観賞を受賞、1946年(昭和21)には、安田靫彦に入門し、第31回院展無鑑査出品作「夏」が日本美術院賞を受賞しました。1948年(昭和23)に第33回院展入選「室内」が日本美術院賞、1950年(昭和25)に第35回院展入選「剃髪」が日本美術院賞・白寿賞、1951年(昭和26)に第36回院展入選「行楽」が奨励賞・白寿賞を受賞します。
 1952年(昭和27)に第37回院展入選「美術部にて」が日本美術院賞・大観賞を受賞、日本美術院同人に推挙されました。1955年(昭和30)に、30年間勤めた横浜市立大岡小学校を依願退職し、女子美術大学日本画科専任講師に就任、東京都世田谷区粕谷町に転居します。
 1960年(昭和35)に女子美術大学日本画科助教授、1961年(昭和36)に院展出品「渇仰」が文部省買い上げ優秀美術品となり、第11回芸術選奨文部大臣賞を受賞、第46回院展に舞楽テーマの初作品「幻想」出品、文部大臣賞を受賞、日本美術院評議員に就任しました。1962年(昭和37)に初の渡欧をし、フランス・イタリア・イギリス各地の美術館を巡り、1965年(昭和40)には、女子美術大学日本画科教授に昇任しています。
 1966年(昭和41)に女子美術大学客員教授、愛知県立芸術大学日本画科主任教授に就任、「面構」シリーズ、「富士山」シリーズの製作も開始しました。1970年(昭和45)に神奈川県藤沢市に転居、1973年(昭和48)には、定年により愛知県立芸術大学客員教授となります。
 1975年(昭和50)に第59回院展出品作「面構 鳥文斉栄之」が第31回日本芸術院恩賜賞を受賞、1976年(昭和51)に勲三等瑞宝章を受章、1978年(昭和53)には、第27回神奈川文化賞を受賞しました。1981年(昭和56)に日本美術院理事、1982年(昭和57)に日本芸術院会員となり、1986年(昭和61)には、文化功労者、1989年(平成元)に第42回中日文化賞を受賞、文化勲章を受章し、1990年(平成2)には、藤沢市名誉市民に選ばれています。
 2000年(平成12)には、「熱き挑戦・・片岡球子の全像」展が開催されましたが、2008年(平成20)1月16日に、神奈川県内の病院において、急性心不全のため103歳でなくなり、従三位を追贈されました。

〇片岡球子の主要な作品

・「枇杷」(1930年)第17回日本美術院再興展入選
・「炬燵」(1935年)第19回日本美術院絵画部試作展試作賞受賞
・「寒空」(1938年)日本美術院絵画部研究会員研究会大観賞第一賞受賞
・「新緑」(1939年)日本美術院絵画部研究会大観賞第二賞受賞
・「緑陰」(1939年)第26回院展入選
・「祈祷の僧」(1942年)日本美術院絵画部研究会大観賞受賞
・「夏」(1946年1)第31回院展日本美術院賞受賞
・「室内」(1948年)第33回院展入選・日本美術院賞受賞
・「剃髪」(1950年)第35回院展入選・日本美術院賞・白寿賞受賞
・「行楽」(1951年)第36回院展入選・奨励賞・白寿賞受賞
・「美術部にて」(1952年)第37回院展入選・日本美術院賞・大観賞受賞
・「海岸」(1959年)日本美術院第14回春季展出品
・「渇仰」(1961年)文部省買い上げ優秀美術品
・「幻想」(1961年)第46回院展文部大臣賞受賞
・「面構・足利義政」(1966年)第51回院展出品
・「面構二 東洲斎写楽」(1971年)第56回院展出品
・「面構一 葛飾北斎」(1971年)第56回院展出品
・「面構 鳥文斉栄之」(1975年)第59回院展出品・第31回日本芸術院恩賜賞受賞
・「面構 安藤広重」(1975年)院展六十年の歩み展出品
・「喜多川歌麿」(1978年)日仏現代美術パリ展(パリ、グラン・パレ)出品・国際交流基金買上げ
・「ポーズ1」(1983年)第38回春の院展出品

☆片岡球子関係略年表

・1905年(明治38)1月5日 北海道の札幌市において、醸造・木材商の家の長女として生まれる
・1922年(大正11) 北海道庁立札幌高等女学校(現在の北海道札幌北高等学校)師範科を卒業し、女子美術専門学校(現在の女子美術大学)日本画科高等科へ入学する
・1926年(大正15) 女子美術専門学校を卒業し、神奈川県立横浜市大岡尋常高等小学校教諭となる
・1930年(昭和5) 「枇杷」で、日本美術院再興第17回展に入選し、研究会員となる
・1935年(昭和10) 日本美術院絵画部第19回試作展入選。「炬燵」が試作賞を受賞する
・1938年(昭和13) 日本美術院絵画部研究会員研究会で「寒空」が大観賞第一賞を受賞する
・1939年(昭和14) 日本美術院絵画部研究会で「新緑」が大観賞第二賞を受賞、「緑陰」で第26回院展に入選し、院友に推挙される
・1942年(昭和17) 日本美術院絵画部研究会で「祈祷の僧」が大観賞を受賞する
・1946年(昭和21) 安田靫彦に入門し、第31回院展無鑑査出品作「夏」が日本美術院賞を受賞する
・1948年(昭和23) 第33回院展入選「室内」が日本美術院賞を受賞する
・1950年(昭和25) 第35回院展入選「剃髪」が日本美術院賞・白寿賞を受賞する
・1951年(昭和26) 第36回院展入選「行楽」が奨励賞・白寿賞を受賞、この頃に東京芸大山本豊市教授より彫刻デッサンを学ぶ
・1952年(昭和27) 第37回院展入選「美術部にて」が日本美術院賞・大観賞を受賞、日本美術院同人に推挙される
・1955年(昭和30) 横浜市立大岡小学校を依願退職し、女子美術大学日本画科専任講師に就任、横浜市南区大岡町から東京都世田谷区粕谷町に転居する
・1959年(昭和34) 日本美術院第14回春季展に「海岸」を出品する
・1960年(昭和35) 女子美術大学日本画科助教授となる
・1961年(昭和36) 院展出品「渇仰」が1960年(昭和35年)度文部省買い上げ優秀美術品となり、第11回芸術選奨文部大臣賞を受賞、第46回院展に舞楽テーマの初作品「幻想」出品、文部大臣賞を受賞、日本美術院評議員に就任する
・1962年(昭和37) 第5回現代日本美術展に「桜島の昼」「桜島の夜」招待出品、初の渡欧をし、フランス・イタリア・イギリス各地の美術館を巡る
・1965年(昭和40) 女子美術大学日本画科教授に就任する
・1966年(昭和41) 女子美術大学客員教授、愛知県立芸術大学日本画科主任教授に就任、第51回院展に「面構・足利義政」を出品してから、「面構」シリーズ制作開始、この頃から「富士山」シリーズを製作も開始する
・1970年(昭和45) 北海道庁の依頼で「函館街頭風景」を制作(道庁赤レンガに展示)、神奈川県藤沢市辻堂東海岸に転居する
・1971年(昭和46) 第56回院展に「面構一 葛飾北斎」「面構二 東洲斎写楽」出品する
・1973年(昭和48) 定年により愛知県立芸術大学客員教授となる
・1975年(昭和50) 自伝「情(こころ)ありて」を執筆、第59回院展出品作「面構 鳥文斉栄之」が第31回日本芸術院恩賜賞を受賞、院展六十年の歩み展に「面構 安藤広重」(1973年(昭和48年))を出品する
・1976年(昭和51) 勲三等瑞宝章を受章する
・1978年(昭和53) 日仏現代美術パリ展(パリ、グラン・パレ)に「喜多川歌麿」を出品、国際交流基金買上げとなり、第27回神奈川文化賞を受賞する
・1981年(昭和56) 日本美術院理事に就任する
・1982年(昭和57) 日本芸術院会員となる
・1983年(昭和58) 第38回春の院展に「ポーズ1」を出品する
・1986年(昭和61) 文化功労者に選ばれる
・1989年(平成元) 第42回中日文化賞を受賞、文化勲章を受章する
・1990年(平成2) 藤沢市名誉市民に選ばれる
・1993年(平成5) 愛知県立芸術大学教官・卒業生と約20年かけた「法隆寺金堂壁画模写」全32面が完成し、一般公開される
・1996年(平成8) 愛知県立芸術大学美術学部に愛知県奨学基金として1億円寄贈する
・1998年(平成10) 日本美術院創立百周年記念展東京展に「面構 豊太閤と黒田如水」(1970年(昭和45年))「ポーズ15」(1997年(平成9年))出品する
・1999年(平成11) 都営地下鉄大江戸線築地市場駅構内の「ゆとりの空間」に設置される「江戸の浮世絵師たち」原画を制作する
・2000年(平成12) 「熱き挑戦・・片岡球子の全像」展が横浜美術館で開催する
・2008年(平成20)1月16日 神奈川県内の病院において、急性心不全のため103歳でなくなり、従三位を追贈される
・2014年(平成26) 名古屋御園座の緞帳、画「富士に献花」が日本体育大学世田谷キャンパスに寄贈される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1103年(康和5)第74代の天皇とされる鳥羽天皇の誕生日(新暦2月24日)詳細
1905年(明治38)小説家・詩人・文芸評論家伊藤聖の誕生日詳細
1938年(昭和13)第1次近衛内閣が「帝国政府は爾後国民政府を対手とせず…」(第一次近衛声明)という声明を出す詳細
1941年(昭和16)大日本連合青年団、大日本連合女子青年団、大日本少年団連盟、帝国少年団協会を統合、大日本青少年団が結成される詳細
1942年(昭和17)青壮年による大政翼賛会の外郭団体として、大日本翼賛壮年団が結成される詳細
1986年(昭和61)洋画家梅原龍三郎の命日詳細
2008年(平成20)細胞生物学者・医師岡田善雄の命日詳細
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yamagatamasaochyo01
 今日は、明治時代後期の1898年(明治31)に、船舶工学者山県昌夫が生まれた日です。
 山県昌夫(やまがた まさお)は、明治時代後期の1898年(明治31)1月4日に、東京において生まれ、東京府立第一中学、旧制第一高校を経て、東京帝国大学工学部船舶工学科へ入学し、船型学を専攻しました。1921年(大正10)に卒業し、逓信省に入って、逓信技師となります。
 運輸省に移り、1933年(昭和8)に日本造船学会論文賞を受賞、1937年(昭和12)に『船型試験法』を刊行し、1941年(昭和16)には、船舶試験所所長となりました。1943年(昭和18)に、運輸通信省船舶局長となり、『戦争と造船』を刊行し、太平洋戦争後の1947年(昭和22)にらは、東京大学工学部教授に就任します。
 1950年(昭和25) 運輸技術研究所の設立に携わり、1952年(昭和27)に『船型学 推進編』を刊行、1953年(昭和28)には、社団法人日本造船研究協会を設立に関わり、『船型学 抵抗編』を刊行するなど、船舶の設計に新分野を開き、日本の造船技術の進歩に大きな貢献をしました。1958年(昭和33)に東京大学工学部教授を辞め、名誉教授となり、1961年(昭和36)に日本学士院会員となり、1963年(昭和38)には、船舶技術研究所の設立に携わります。
 造船協会長、原子力委員会参与、日本海事協会長、日本造船技術センター会長などを歴任し、1967年(昭和42)には、造船工学界では初めての文化勲章を受章しました。1972年(昭和47)に勲一等旭日大綬章を受章、日本の学術、技術、行政面へも寄与してきたものの、1981年(昭和56)3月3日に、東京都内の東京大学附属病院において、83歳で亡くなり、従三位を追贈されました。

〇山県昌夫の主要な著作

・『船型試験法』(1937年)
・『戦争と造船』(1943年)
・『船型学 推進編』(1952年)
・『船型学 抵抗編』(1953年)

☆山県昌夫関係略年表

・1898年(明治31)1月4日 東京において生まれる
・1921年(大正10) 東京帝国大学工学部船舶工学科を卒業し、逓信省に入る
・1933年(昭和8) 日本造船学会論文賞を受賞する
・1937年(昭和12) 『船型試験法』を刊行する
・1941年(昭和16) 船舶試験所所長となる
・1943年(昭和18) 運輸通信省船舶局長となり、『戦争と造船』を刊行する
・1947年(昭和22) 東京大学工学部教授となる
・1950年(昭和25) 運輸技術研究所の設立に携わる
・1952年(昭和27) 『船型学 推進編』を刊行する
・1953年(昭和28) 社団法人日本造船研究協会を設立、『船型学 抵抗編』を刊行する
・1958年(昭和33) 東京大学工学部教授を辞め、名誉教授となる
・1961年(昭和36) 日本学士院会員となる
・1963年(昭和38) 船舶技術研究所の設立に携わる
・1967年(昭和42) 文化勲章を受章する
・1972年(昭和47) 勲一等旭日大綬章を受章する
・1981年(昭和56)3月3日 東京都内の東京大学附属病院において、83歳で亡くなり、従三位を追贈される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1877年(明治10)地租軽減運動としての一揆頻発により、税率を地価の3%から2.5%に引き下げる詳細
1882年(明治15)「陸海軍軍人ニ賜ハリタル勅諭」(軍人勅諭)が発布される詳細
1888年(明治21)三井財閥、藤田伝三郎などの出資により、山陽鉄道会社(現在の山陽本線)が設立される詳細
1912年(明治45)公家・政治家・伯爵東久世通禧の命日詳細
1922年(大正11)小説家山田風太郎の誕生日詳細
1946年(昭和21)GHQが「超国家主義団体の解体の指令」(SCAPIN-548)を出す詳細
GHQが「公務従事ニ適シナイ者ノ公職カラノ除去ニ関スル件」(SCAPIN-550)を出す詳細
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 今日は、明治時代前期の1884年(明治17)に、彫刻家北村西望の生まれた日です。
 北村西望(きたむら せいぼう)は、明治時代前期の1884年(明治17)12月16日に、長崎県南高来郡南有馬村(現在の南島原市)において、旧名家だった父・北村陳連(のぶつら)、母・サイの四男で末子として生まれましたが、本名は「にしも」と読みます。。1900年(明治33)に、有馬尋常高等小学校を卒業し、小学校準教員免許を取得して南有馬尋常小学校に臨時採用(3ヵ月)されましたが、1901年(明治34)に母校の白木野小学校に転じて、代用教員兼準訓導として働くうち、正教員を目指して教職をやめ、1902年(明治35)に、長崎師範学校に入学したものの、風土病にかかり、長期欠席のため退学となると帰郷して療養します。
 1903年(明治36)に京都市立美術工芸学校(現在の京都市立銅駝美術工芸高等学校)入学しましたが、1907年(明治40)に卒業後、上京して東京美術学校(現在の東京芸術大学)に入学しました。在学中の1908年(明治41)に第2回文展への出品作「憤闘」が初入選し、以来毎年出品するようになりました。
 1912年(明治45)に東京美術学校を首席で卒業、1915年(大正4)に第一次世界大戦の兵役除隊後、本格的に美術の道へ進み、第9回文展で「怒涛」が二等賞に入賞し認められます。1916年(大正5)の第10回文展出品作「晩鐘」が特選を受賞、同朋である建畠大夢らと美術研究サークル「八手会」(やつでかい)を結成、翌年の第11回文展「光にうたれた悪魔」が無鑑査となり、東京市滝野川区(現在の東京都北区)に居を構え、制作につとめるようになりました。
 1919年(大正8)の第1回帝展以降審査員を務め、曠原社を結成、1921年(大正10)に東京美術学校塑造部教授となり、1922年(大正11)には、彫刻研究のため西ケ原彫刻研究所を開設します。1925年(大正14)に帝国美術院会員となり、1931年(昭和6)には、京都市立美術工芸学校教諭となりました。
 1944年(昭和19)の敗色濃厚な戦局から陸軍省が兵器鋳鉄の供出を発令、多くの銅像作品が供出され滅失する事態に憂慮し、「銅像救出委員会」を結成して反対運動を行ないます。太平洋戦争後の1947年(昭和22)に日本芸術院会員、1949年(昭和24)に日展理事となり、1953年(昭和28)には、東京都内の井の頭公園の土地を借用して個人のアトリエを建設しました。
 1955年(昭和30)に5年がかりで制作してきた長崎平和祈念像が完成、長崎市に納品し、1958年(昭和33)には、文化勲章を受章、文化功労者となり、日本芸術院選考委員となります。1962年(昭和37)に武蔵野市名誉市民、日本彫塑会名誉会長となり、1969年(昭和44)に紺綬褒章を受章、社団法人日展会長(~1974年)に就任、1972年(昭和47)には、島原市名誉市民となり、市内に記念館が開設されました。
 1980年(昭和55)に東京都名誉都民、1981年(昭和56)に東京都北区名誉区民及び長崎県名誉県民となったものの、1987年(昭和62)3月4日に、東京都武蔵野市の自宅において、心不全のため102歳で亡くなっています。

〇北村西望の主要な作品

<彫刻>
・「憤闘」(1908年)第2回文展入選
・「怒濤」(1915年)第9回文展二等賞
・「晩鐘」(1916年)第10回文展特選 東京国立近代美術館蔵
・「燈臺」(1931年)東京銀座・数寄屋橋公園
・巨像「長崎平和祈念像」(1955年)長崎平和公園

<著作>
・『百歳のかたつむり』

☆北村西望関係略年表

・1884年(明治17)12月16日 長崎県南高来郡南有馬村(現在の南島原市)において、旧名家だった父・北村陳連(のぶつら)、母・サイの四男で末子として生まれる
・1892年(明治25) 白木野尋常小学校に入学する
・1896年(明治29) 有馬尋常高等小学校に進む
・1900年(明治33) 有馬尋常高等小学校を卒業し、小学校準教員免許を取得して南有馬尋常小学校に臨時採用(3ヵ月)される
・1901年(明治34) 母校の白木野小学校に転じて、月給6円の代用教員兼準訓導として働くうち、正教員を目指して教職をやめると
・1902年(明治35) 長崎師範学校に入学したが、風土病にかかり、長期欠席のため退学となると帰郷して療養する
・1903年(明治36) 京都市立美術工芸学校(現在の京都市立銅駝美術工芸高等学校)入学する
・1907年(明治40) 京都市立美術工芸学校卒業後、上京し東京美術学校(現在の東京芸術大学)に入学する
・1908年(明治41) 第2回文展への出品作「憤闘」が初入選する
・1909年(明治42) 第3回文展で「雄風」が褒状を受賞する
・1911年(明治44) 第5回文展で「壮者」も褒状を受賞する
・1912年(明治45) 東京美術学校(現在の東京芸術大学)を首席で卒業する
・1915年(大正4) 第一次世界大戦の兵役除隊後、本格的に美術の道へ進み、第9回文展で「怒涛」が二等賞に入賞し認められる
・1916年(大正5) 第10回文展出品作「晩鐘」が特選を受賞、同朋である建畠大夢らと美術研究サークル「八手会」(やつでかい)を結成する
・1917年(大正6) 第11回文展「光にうたれた悪魔」が無鑑査となり、東京市滝野川区(現在の東京都北区)に居を構え、制作につとめる
・1919年(大正8) 第1回帝展以降審査員を務め、曠原社(こうげんしゃ)を結成する
・1921年(大正10) 東京美術学校塑造部教授となる
・1922年(大正11) 彫刻研究のため西ケ原彫刻研究所を開設する
・1925年(大正14) 帝国美術院会員となる
・1931年(昭和6) 京都市立美術工芸学校教諭となる
・1932年(昭和7) ロサンゼルスオリンピック芸術競技に「The Repose (Boxing)」を出品する
・1933年(昭和8) 2年前の1931年第12回帝展に出品した作品『燈臺』を震災記念碑として東京銀座・数寄屋橋公園に設置、東邦彫塑院顧問を務める
・1944年(昭和19) 敗色濃厚な戦局から陸軍省が兵器鋳鉄の供出を発令、多くの銅像作品が供出され滅失する事態に憂慮し、「銅像救出委員会」を結成して反対運動を行なう
・1947年(昭和22) 日本芸術院会員となる
・1949年(昭和24) 日展理事となる
・1953年(昭和28) 東京都内の井の頭公園の土地を借用して個人のアトリエを建設する
・1955年(昭和30) 5年がかりで制作してきた長崎平和祈念像が完成、長崎市に納品する
・1958年(昭和33) 文化勲章を受章、文化功労者となり、日本芸術院選考委員となる
・1962年(昭和37) 武蔵野市名誉市民となり、日本彫塑会名誉会長となる
・1969年(昭和44) 紺綬褒章を受章、社団法人日展会長(~1974年)に就任する
・1972年(昭和47) 島原市名誉市民となり、市内に記念館が開設される
・1974年(昭和49) 日展名誉会長となる。
・1979年(昭和54) 生地の南有馬町の名誉町民となる。町内に西望公園が設置された
・1980年(昭和55) 東京都名誉都民となる
・1981年(昭和56) 東京都北区名誉区民及び長崎県名誉県民となる
・1986年(昭和61) 12月より風邪を患い自宅静養となる
・1987年(昭和62)3月4日 東京都武蔵野市の自宅において、心不全のため102歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1890年(明治23)東京市内と横浜市内の間で日本初の電話事業が開始する(電話創業の日)詳細
1907年(明治40)洋画家浅井忠の命日詳細
1932年(昭和7)東京市日本橋で白木屋大火災が起きる詳細
1966年(昭和41)国際連合総会で「国際人権規約」が採択される詳細
1971年(昭和46)全国4番目の地下鉄の札幌市営地下鉄初の北二四条駅~真駒内駅間(南北線)が開業する詳細
1972年(昭和47)全国5番目の地下鉄の横浜市営地下鉄初の伊勢佐木長者町駅~上大岡駅間(1号線)が開業する詳細
1988年(昭和63)洋画家小磯良平の命日詳細
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