ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:文化功労者

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 今日は、大正時代の1926年(大正15)に、半導体工学者西澤潤一が生まれた日です。
 西澤 潤一(にしざわ じゅんいち)は、大正時代の1926年(大正15)9月12日に、宮城県仙台市において、東北帝国大学教授だった、父・西澤恭助の長男として生まれました。宮城県仙台第二中学校、第二高等学校を経て、1945年(昭和20)に東北大学工学部電気工学科へ入学します。
 渡辺寧に師事して、半導体の研究を開始し、1948年(昭和23)に卒業後、同大学大学院特別研究生となり、1953年(昭和28)に修了後、同大学電気通信研究所助手となりました。1954年(昭和29)に助教授に昇任し、1960年(昭和35)に東北大学より工学博士を得て、1962年(昭和37)には、教授に昇任します。
 1965年(昭和40)に、「不純物不均一半導体」で科学技術庁長官奨励賞、翌年には、恩賜発明賞を受賞しました。1968年(昭和43)に財団法人半導体研究振興会半導体研究所長となり、1969年(昭和44)に「半導体デバイスの研究」で松永賞、翌年には、「半導体メーサー」で科学技術庁長官奨励賞を受賞します。
 1974年(昭和49)に「半導体及びトランジスタの研究」で日本学士院賞、1980年(昭和55)に「高輝度発光ダイオードの連続成長技術の開発について」で大河内記念技術賞を受賞、1983年(昭和58)に東北大学電気通信研究所長(~1986年3月)、文化功労者となりました。1989年(平成元)に文化勲章を受章、1990年(平成2)に東北大学名誉教授、東北大学総長に就任し、宮城県名誉県民、1995年(平成7)には、日本学士院会員となります。
 1997年(平成9)に東北自治総合研修センター館長、宮城大学名誉学長、1998年(平成10)に岩手県立大学学長、2000年(平成12)には、日本人初のIEEEエジソンメダルを得ました。2002年(平成14)に勲一等瑞宝章を受章、西澤の業績を記念してIEEE Jun-ichi Nishizawa Medalが創設され、2005年(平成17)には、首都大学東京学長、岩手県立大学名誉学長、上智大学特任教授となったものの、2018年(平成30)10月21日に、宮城県仙台市において、92歳で亡くなっています。

<西澤潤一の主要な著作>

・『闘う独創技術』(1981年)
・『愚直一徹 - 私の履歴書 -』(1985年) 
・『独創は闘いにあり』(1986年)
・『「十年先を読む」発想法』(1986年)
・『西澤潤一の独創開発論』(1986年) 
・『「技術大国・日本」の未来を読む』(1989年)
・『私のロマンと科学』(1990年)
・『独創教育が日本を救う』(1991年)
・『人類は滅亡に向かっている』(1993年)
・『東北の時代 - もはや一極集中の時代ではない』(1995年) 
・『教育の目的再考』(岩1996年) 
・『新学問のすすめ - 21世紀をどう生きるか』(1997年) 
・『背筋を伸ばせ日本人』(1999年) 
・『人類は80年で滅亡する』(2000年) 
・『教育亡国を救う』(2000年) 
・『赤の発見 青の発見』(2001年)
・『日本人よロマンを』(2002年)
・『戦略的独創開発』(2006年)
・『生み出す力』(2010年) 
・『わたしが探究について語るなら』(2010年)

〇西澤潤一関係略年表

・1926年(大正15)9月12日 宮城県仙台市において、東北帝国大学教授だって父・西澤恭助の長男として生まれる
・1943年(昭和18) 宮城県仙台第二中学校を卒業する
・1945年(昭和20) 第二高等学校を卒業する
・1948年(昭和23) 東北大学工学部電気工学科を卒業する
・1953年(昭和28) 東北大学大学院特別研究生修了、東北大学電気通信研究所助手となる
・1954年(昭和29) 東北大学電気通信研究所助教授となる
・1960年(昭和35) 東北大学より、工学博士を得る
・1962年(昭和37) 東北大学電気通信研究所教授となる
・1965年(昭和40) 「不純物不均一半導体」で科学技術庁長官奨励賞を受賞する
・1966年(昭和41) 「不純物不均一半導体」恩賜発明賞を受賞する
・1968年(昭和43) 財団法人半導体研究振興会半導体研究所長となる
・1969年(昭和44) 「半導体デバイスの研究」で松永賞を受賞する
・1970年(昭和45) 「半導体メーサー」で科学技術庁長官奨励賞を受賞する
・1971年(昭和46) 「合金拡散法によるシリコン可変容量ダイオードの開発」で大河内記念技術賞を受賞する
・1974年(昭和49) 「半導体及びトランジスタの研究」で日本学士院賞を受賞する
・1975年4月15日、「静電誘導電界効果トランジスタの開発」で科学技術功労賞、「新しい三極管特性を有する高性能トランジスタ」で電子通信学会業績賞、「位置の制御装置」で東北地方発明賞宮城県支部長賞を受賞、「完全結晶と静電誘導トランジスタ」で紫綬褒章を受章する
・1980年(昭和55) 「高輝度発光ダイオードの連続成長技術の開発について」で大河内記念技術賞、「連続液相成長による半導体デバイスの製造方法及び製造装置」で特許庁長官奨励賞を受賞する
・1982年(昭和57) 「高輝度発光ダイオードの連続製造技術」で井上春成賞を受賞する
・1983年(昭和58) 東北大学電気通信研究所長(~1986年3月)、文化功労者(半導体工学)となり、「SIT(静電誘導トランジスタ)の開発と光通信の基本3要素」でIEEEジャック・A・モートン賞を受賞する
・1984年(昭和58) 「光通信と半導体の研究」で朝日賞を受賞する
・1986年(昭和58) 「pinダイオード、静電誘導トランジスタなどを発明したほか光通信技術の応用発展に寄与」で本田賞を受賞する
・1989年(平成元) 再び、東北大学電気通信研究所長(~1990年3月)となる
・1989年(平成元) IOCG(国際結晶成長機構)ローディス賞を受賞する
・1989年(平成元) 文化勲章を受章する
・1990年(平成2) 東北大学名誉教授、東北大学総長に就任し、宮城県名誉県民となる
・1995年(平成7) 日本学士院会員となる
・1996年(平成8) 「材料科学の独創的研究と半導体工学の発展および光通信の先駆的業績と多大な貢献」で大川賞を受賞する
・1997年(平成9) 東北自治総合研修センター館長、宮城大学名誉学長となる
・1998年(平成10) 岩手県立大学学長となる
・1999年(平成11) 東北大学電気系同窓会会長となる
・2000年(平成12) IEEE エジソンメダルを得る
・2002年(平成14) 勲一等瑞宝章を受章、西澤の業績を記念してIEEE Jun-ichi Nishizawa Medalが創設される
・2005年(平成17) 首都大学東京学長、岩手県立大学名誉学長、上智大学特任教授となる
・2018年(平成30)10月21日 宮城県仙台市において、92歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1242年(仁治3)第84代の天皇とされる順徳天皇の命日(新暦10月7日)詳細
1571年(元亀2)織田信長による比叡山の焼き討ちが起きる(新暦9月30日)詳細
1821年(文政4)国学者塙保己一の命日(新暦10月7日)詳細
1868年(明治元)明治新政府が江戸幕府の洋学教育研究機関「開成所」を「開成学校」として復興する(新暦10月27日)詳細
1872年(明治5)新橋駅~ 横浜駅間で日本最初の鉄道が完成し、鉄道開業式典が行われる(新暦10月14日)詳細
1887年(明治20)日本画家堅山南風の誕生日詳細
1913年(大正2)「都新聞」で中里介山の長編時代小説『大菩薩峠』の連載が開始される詳細
1963年(昭和38)松川事件で、最高裁が検察側による再上告を棄却し、被告17名全員の無罪が確定する詳細
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 今日は、昭和時代前期の1928年(昭和3)に、理論経済学者宇沢弘文が生まれた日です。
 宇沢弘文(うざわ ひろふみ)は、昭和時代前期の1928年(昭和3)7月21日に、鳥取県米子市において、小学校の教師だった父・宇沢時夫の子として生まれましたが、3歳頃に、父が教師を辞め、家屋を処分して家族を連れて東京に出ました。東京府立第一中学校(現在の都立日比谷高等学校)を経て、1948年(昭和23)に第一高等学校理科乙類卒業後、東京大学理学部数学科に入学しています。
 1951年(昭和26)に卒業後、同大学数学科の特別研究生となり、1953年(昭和28)には、統計数理研究所に勤務しました。1954年(昭和29)に朝日生命アクチュアリーに勤務後、1956年(昭和31)には、渡米して、スタンフォード大学経済学部研究員となります。
 1958年(昭和33)に助手、1959年(昭和34)に助教授、1961年(昭和36)には、準教授に昇進しました。1962年(昭和37)に論文『レオン・ワルラスの一般均衡理論に関する諸研究』で、東北大学より経済学博士を得、1964年(昭和39)には、シカゴ大学経済学部教授となります。
 1968年(昭和43)に帰国して、東京大学経済学部助教授となり、翌年に教授に昇進し、1974年(昭和49)には、『自動車の社会的費用』を刊行して、注目されました。1976年(昭和51)に国際学会のエコノメトリック・ソサエティー会長に就任、1977年(昭和52)に『近代経済学の再検討』を刊行、1980年(昭和55)には、東京大学経済学部長となります。
 1983年(昭和58)に文化功労者となり、1989年(平成元)には、東京大学を定年退官し、東京大学名誉教授となり、新潟大学経済学部教授、理論計量経済学会会長に就任しました。1994年(平成6)に新潟大学経済学部を退官し、中央大学経済学部教授となり、1997年(平成9)には、文化勲章を受章しています。
 1999年(平成11)に中央大学経済学部教授を定年退職し、中央大学経済研究所専任研究員、国際連合大学高等研究所特任教授となり、2000年(平成12)には、中央大学研究開発機構教授となり、『社会的共通資本』を刊行しました。2003年(平成15)に同志社大学社会的共通資本研究センター所長となり、2009年(平成21)に慶友国際医療研究所社会的共通資本研究室長となり、「ブループラネット賞」を受賞、2011年(平成23)には、TPPを考える国民会議代表世話人となっています。
 最適成長理論の提唱など理論経済学ですぐれた業績を残し、公共経済学の立場から、「社会的共通資本」としての教育制度や地球環境問題などに取り組んできたものの、2014年(平成26)9月18日に、東京都内の自宅において、肺炎のため86歳で亡くなり、従三位を追贈されました。

〇宇沢弘文の主要な著作

・『自動車の社会的費用』岩波新書(1974年)
・『近代経済学の再検討』岩波新書(1977年)
・『経済学の考え方』岩波新書(1989年)
・『「成田」とは何か──戦後日本の悲劇』岩波新書(1992年)
・『地球温暖化を考える』岩波新書(1995年)
・『社会的共通資本』岩波新書(2000年)
・『人間の経済』新潮新書(2017年)
・『経済発展と変動』

☆宇沢弘文関係略年表

・1928年(昭和3)7月21日 鳥取県米子市において、小学校の教師だった父・宇沢時夫の子として生まれる
・1931年(昭和6) 3歳の頃、父が教師を辞め、家屋を処分して家族を連れて東京に出る
・1948年(昭和23) 第一高等学校理科乙類卒業後、東京大学理学部数学科に入学する
・1951年(昭和26) 東京大学理学部数学科卒業後、同大学数学科の特別研究生となる
・1953年(昭和28) 統計数理研究所に勤務する
・1954年(昭和29) 朝日生命アクチュアリーに勤める
・1956年(昭和31) 渡米して、スタンフォード大学経済学部研究員となる
・1958年(昭和33) スタンフォード大学経済学部助手となる
・1959年(昭和34) スタンフォード大学経済学部助教授となる
・1960年(昭和35) カリフォルニア大学バークレー校経済学部助教授となる
・1961年(昭和36) スタンフォード大学経済学部準教授となる
・1962年(昭和37) 博士論文『レオン・ワルラスの一般均衡理論に関する諸研究』で、東北大学より経済学博士を得る
・1964年(昭和39) シカゴ大学経済学部教授となる
・1968年(昭和43) 帰国して、東京大学経済学部助教授となる
・1969年(昭和44) 東京大学経済学部教授となる
・1974年(昭和49) 『自動車の社会的費用』を刊行する
・1976年(昭和51) 国際学会のエコノメトリック・ソサエティー会長に就任する
・1977年(昭和52) 『近代経済学の再検討』を刊行する
・1980年(昭和55) 東京大学経済学部長となる
・1983年(昭和58) 文化功労者となる
・1989年(平成元) 東京大学を定年退官し、東京大学名誉教授となり、新潟大学経済学部教授、理論計量経済学会会長に就任する
・1994年(平成6) 新潟大学経済学部を退官し、中央大学経済学部教授となる
・1997年(平成9) 文化勲章を受章する
・1999年(平成11) 中央大学経済学部教授を定年退職し、中央大学経済研究所専任研究員、国際連合大学高等研究所特任教授となる
・2000年(平成12) 中央大学研究開発機構教授となり、『社会的共通資本』を刊行する
・2003年(平成15) 同志社大学社会的共通資本研究センター所長となる
・2009年(平成21) 慶友国際医療研究所社会的共通資本研究室長となり、「ブループラネット賞」を受賞する
・2011年(平成23) TPPを考える国民会議代表世話人となる
・2014年(平成26)9月18日 東京都内の自宅において、肺炎のため86歳で亡くなり、従三位を追贈される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1881年(明治14)「開拓使官有物払下げ事件」のきっかけとなった官有施設・設備払い下げを決定詳細
1896年(明治29)北京において「日清通商航海条約」が締結される詳細
1940年(昭和15)日本労働総同盟が自主解散を決議し、産業報国会への合流を決める詳細
1941年(昭和16)文部省教学局から『臣民の道』が刊行される詳細
1952年(昭和27)「破壊活動防止法」(昭和27年法律第240号)が、公布・施行される詳細
1999年(平成11)文芸評論家江藤淳の命日詳細
2000年(平成12)写真家渡辺義雄の命日詳細
2023年(令和5)教育者・禅宗の僧侶無着成恭の命日詳細
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 今日は、大正時代の1918年(大正7)に、建築家芦原義信の生まれた日です。
 芦原義信(あしはら よしのぶ)は、大正時代の1918年(大正7)7月7日に、東京(現在の新宿区若葉町)において、軍医の家系に生まれました。府立一中(現在の都立日比谷高等学校)、旧制成城高校を経て、東京帝国大学工学部建築学科へ進み、1942年(昭和17)に卒業後、技術士官として海軍に入ります。
 1945年(昭和20)に復員後、坂倉準三のアトリエ系建築設計事務所に入所しました。1952年(昭和27)に、ハーバード大学大学院に留学し、翌年には、修士号(M.Arch.)取得後、マルセル・ブロイヤーの事務所に入所します。
 1954年(昭和29)に日本へ帰国し、法政大学工学部講師となり、1956年(昭和31)には、芦原建築設計研究所を開設、「中央公論ビル」で、日本建築学会賞を受賞しました。1959年(昭和34)に法政大学教授に昇進し、翌年には、ロックフェラー奨学金を受けてニューヨークに滞在、1961年(昭和36)には、学位論文「建築の外部空間に関する研究 」で、東京大学より、工学博士を得ています。
 1962年(昭和37)に『外部空間の構成』を刊行、1964年(昭和39)には、「駒沢公園体育館・管制塔」で、日本建築学会特別賞、第6回建築業協会賞を受賞、武蔵野美術大学造形学部産業デザイン学科(1965年に建築学科に改組)主任教授となりました。1966年(昭和41)に東京銀座のソニービルを設計、戦後の東京のシンボルとなり、1968年(昭和43)には、「モントリオール万博・日本館」で、芸術選奨文部大臣賞を受賞します。
 1970年(昭和45)に東京大学工学部教授となり、イタリア政府コマンダトーレ勲章を受章、1979年(昭和54)には、アメリカ建築家協会名誉会員となり、東京大学を定年退官、『街並みの美学』(岩波書店)を刊行し、第33回毎日出版文化賞を受賞しました。1984年(昭和59)に「国立歴史民俗博物館」で、日本芸術院賞を受賞、国際交通安全学会賞を受賞、1985年(昭和60)に、日本建築学会会長(~1986年)となり、フィンランド・コマンダー・ライオン勲章を受章、1987年(昭和62)には、王立オーストリア建築家協会名誉会員となります。
 1988年(昭和63)に日本芸術院会員となり、1989年(平成元)に勲二等瑞宝章を受章、1990年(平成2)に日本建築学会大賞を受賞、1991年(平成3)には、文化功労者となりました。1998年(平成10)に文化勲章を受章し、2003年(平成15)には、東京大学名誉教授となったものの、同年9月24日に、東京都新宿区の病院において、大腸がんのため、85歳で亡くなっています。

〇芦原義信の主要な作品

<建築・設計>
・「中央公論ビル」(1956年)日本建築学会賞受賞
・「駒沢公園体育館・管制塔」(1964年)日本建築学会特別賞、第6回建築業協会賞受賞
・「東京銀座のソニービル」(1966年)
・「モントリオール万博・日本館」(1968年)芸術選奨文部大臣賞受賞
・「国立歴史民俗博物館」(1984年)日本芸術院賞受賞

<著作>
・『外部空間の構成』(1962年)
・『外部空間の設計』(1975年)
・『街並みの美学』(1979年)第33回毎日出版文化賞受賞
・『続 街並みの美学』(1983年)
・『隠れた秩序』(1986年)
・『秩序への模索』(1995年)

☆芦原義信関係略年表

・1918年(大正7)7月7日 東京(現在の新宿区若葉町)において、軍医の家系に生まれる 
・1942年(昭和17) 東京帝国大学工学部建築学科を卒業後、技術士官として海軍に入る
・1945年(昭和20) 坂倉準三のアトリエ系建築設計事務所に入所する
・1952年(昭和27) ハーバード大学大学院に留学する
・1953年(昭和28) ハーバード大学大学院で修士号(M.Arch.)取得後、マルセル・ブロイヤーの事務所に入所する
・1954年(昭和29) 日本へ帰国し、法政大学工学部講師となる
・1956年(昭和31) 芦原建築設計研究所を開設、「中央公論ビル」で、日本建築学会賞を受賞する
・1959年(昭和34) 法政大学教授となる
・1960年(昭和35) ロックフェラー奨学金を受けニューヨークに滞在する
・1961年(昭和36) 学位論文「建築の外部空間に関する研究 」で、東京大学より、工学博士を得る
・1962年(昭和37) 『外部空間の構成』を刊行する
・1964年(昭和39) 「駒沢公園体育館・管制塔」で、日本建築学会特別賞、第6回建築業協会賞を受賞、武蔵野美術大学造形学部産業デザイン学科(1965年に建築学科に改組)主任教授となる
・1965年(昭和40) 武蔵野美術大学建築学科教授となる
・1966年(昭和41) 東京銀座のソニービルを設計、戦後の東京のシンボルとなる
・1968年(昭和43) 「モントリオール万博・日本館」で、芸術選奨文部大臣賞を受賞する
・1970年(昭和45) 東京大学工学部教授となり、イタリア政府コマンダトーレ勲章を受章する
・1979年(昭和54) アメリカ建築家協会名誉会員となり、東京大学を定年退官、『街並みの美学』(岩波書店)を刊行し、第33回毎日出版文化賞を受賞する
・1984年(昭和59) 「国立歴史民俗博物館」で、日本芸術院賞を受賞、国際交通安全学会賞を受賞する
・1985年(昭和60) 日本建築学会会長(~1986年)となり、フィンランド・コマンダー・ライオン勲章を受章する
・1987年(昭和62) 王立オーストリア建築家協会名誉会員となる
・1988年(昭和63) 日本芸術院会員となる
・1989年(平成元) 勲二等瑞宝章を受章する
・1990年(平成2) 日本建築学会大賞を受賞する
・1991年(平成3) 文化功労者となる
・1998年(平成10) 文化勲章を受章する
・2003年(平成15) 東京大学名誉教授となる
・2003年(平成15)9月24日 東京都新宿区の病院において、大腸がんのため、85歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

年中行事七夕です詳細
1129年(大治4)白河天皇(第72代)の命日(新暦7月24日)詳細
1615年(慶長20)江戸幕府が大名統制の為「武家諸法度」(元和令)を発布する(新暦8月30日)詳細
1823年(文政6)P.F.vonシーボルトがオランダ商館の医師として長崎・出島に着任する(新暦8月12日)詳細
1844年(天保15)和歌山藩士・外交官・政治家・伯爵陸奥宗光の誕生日(新暦8月20日)詳細
1884年(明治17)「華族令」(明治17年宮内省達無号)が制定され、公・侯・伯・子・男の爵位が定められる詳細
1964年(昭和39)山梨県の「富士ラマパーク」(後の富士急ハイランド)が開園する詳細
2017年(平成29)「核兵器禁止条約」が国連で採択される詳細
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 今日は、平成時代の2008年(平成20)に、映画監督市川崑の亡くなった日です。
 市川崑(いちかわ こん)は、大正時代の1915年(大正4)11月20日に、三重県宇治山田市(現在の伊勢市)において、呉服問屋の4人姉弟の長男末っ子として生まれましたが、幼名は儀一(ぎいち)と言いました。父親が急死し、後に呉服問屋も倒産したため、4歳の時に大阪に移住し、大阪市立市岡商業を病気中退しています。
 1933年(昭和8)に京都のJO(ぜーおー)スタジオに入社し、アニメーション映画製作に従事、1937年(昭和12)にJOがPCL映画製作所等と合併して東宝映画株式会社(現在の東宝株式会社)となったのを機会に、劇映画の助監督になりました。1944年(昭和19)と翌年に2度召集令状が来ましたが、身体検査で引っかかり、入隊はしていません。
 大平洋戦争敗戦後の1945年(昭和20)に20分ほどの短編人形劇である『娘道成寺』を東宝第三撮影所で作り上げました。1947年(昭和22)に第一作「東宝千一夜」を助監督の身分のまま初監督し、1948年(昭和23)に、新東宝の長編「花ひらく」で監督デビューを果たしています。
 1951年(昭和26)に東宝へ、1956年(昭和31)に日活へ移籍、「ビルマの竪琴」で、エディンバラ国際映画祭グランプリ、ヴェネツィア国際映画祭サン・ジョルジョ賞、アカデミー賞外国語映画賞ノミネート、リスボン国際映画祭審査員特別賞を受賞しました。1959年(昭和34)に「野火」で、ロカルノ国際映画祭グランプリ、バンクーバー国際映画祭カナダ映画協会賞、翌年(昭和35)に「鍵」でカンヌ国際映画祭審査員賞、翌々年に「おとうと」でカンヌ国際映画祭フランス映画高等技術委員会賞スペシャルメンションを受賞しています。
 1962年(昭和37)に「私は二歳」でアジア映画祭監督賞、1965年(昭和40)に「東京オリンピック』で、カンヌ国際映画祭青少年向映画賞、UNICRIT賞、英国アカデミー賞長編記録映画賞、国連平和賞、モスクワ国際映画祭スポーツ連盟賞を受賞しました。1969年(昭和44)に黒澤明、木下惠介、小林正樹と共に「四騎の会」を結成、1972年(昭和47)に時代劇「木枯し紋次郎」シリーズで大人気を博し、翌年には、ATG(日本アート・シアター・ギルド)で「股旅」を製作・監督し、角川映画では小説・金田一耕助シリーズを映画化してヒットに導きます。
 1982年(昭和57)に紫綬褒章を受章、1983年(昭和58)に「細雪」で、アジア太平洋映画祭グランプリ、同・監督賞、1984年(昭和59)には、「おはん」でアジア太平洋映画祭審査員特別賞を受賞しました。1988年(昭和63)に勲四等旭日小綬章を受章、1994年(平成6)に「四十七人の刺客」で東京国際映画祭審査員特別賞を受賞、文化功労者となり、2000年(平成12)には、ベルリン国際映画祭特別功労賞を受賞しています。
 2001年(平成13)にモントリオール世界映画祭功労賞、第19回川喜多賞、2007年(平成19)には、東京国際映画祭黒澤明賞を受賞しました。戦後の日本映画の隆盛を担った名監督の一人とされましたが、2008年(平成20年)2月13日に、東京都内の病院において、肺炎のため92歳で亡くなり、正四位と旭日重光章を追贈されています。

〇市川崑監督作品一覧

・「花ひらく」(1948)
・「三百六十五夜 東京篇・大阪篇」(1948年)
・「人間模様」(1949年)
・「果てしなき情熱」(1949年)
・「銀座三四郎」(1950年)
・「熱泥池」(1950年)
・「暁の追跡」(1950年)
・「夜来香」(1951年)
・「恋人」(1951年)
・「無国籍者(1951年)
・「盗まれた恋」(1951年)
・「ブンガワンソロ」(1951年)
・「結婚行進曲」(1951年)
・「ラッキーさん」(1952年)
・「若い人」(1952年)
・「足にさわった女」(1952年)
・「あの手この手」(1952年)
・「プーサン」(1953年)
・「青色革命」(1953年)
・「天晴れ一番手柄 青春銭形平次」(1953年)
・「愛人」(1953年)
・「わたしの凡(すべ)てを」(1954年)
・「億万長者」(1954年)
・「女性に関する十二章」(1954年)
・「青春怪談」(1955年)
・「こころ」(1955年)
・「ビルマの竪琴」(1956年)
・「処刑の部屋」(1956年)
・「日本橋」(1956年)
・「満員電車」(1957年)
・「東北の神武たち」(1957年)
・「穴」(1957年)
・「炎上」(1958年)
・「あなたと私の合言葉 さようなら、今日は」(1959年)
・「鍵」(1959年)
・「野火」(1959年)
・「女経~第二話「物を高く売りつける女」」[増村保造、吉村公三郎とのオムニバス](1960年)
・「ぼんち」(1960年)
・「おとうと」(1960年)
・「黒い十人の女」(1961年)
・「破戒」(1962年)
・「私は二歳」(1962年)
・「雪之丞変化」(1963年)
・「太平洋ひとりぼっち」(1963年)
・「ど根性物語 銭の踊り」(1964年)
・「東京オリンピック」(1965年)
・「トッポ・ジージョのボタン戦争」(1967年)
・「京」(1967年)
・「青春」(1968年)
・「愛ふたたび」(1971年)
・「股旅」(1973年)
・「時よとまれ 君は美しい ミュンヘンの17日~「最も速く」」(1973年)
・「吾輩は猫である」(1975年)
・「妻と女の間」[豊田四郎との共同監督](1976年)
・「犬神家の一族」(1976年)
・「悪魔の手毬唄」(1977年)
・「獄門島」(1977年)
・「女王蜂」(1978年)
・「火の鳥」(1978年)
・「病院坂の首縊(くく)りの家」(1979年)
・「古都」(1980年)
・「幸福」(1981年)
・「長江」(1981年)
・「細雪」(1983年)
・「おはん」(1984年)
・「ビルマの竪琴」(1985年)
・「子猫物語」(1986年)
・「鹿鳴館」(1986年)
・「映画女優」(1987年)
・「竹取物語」(1987年)
・「つる 鶴」(1988年)
・「天河伝説殺人事件」(1991年)
・「帰って来た木枯し紋次郎」(1993年)
・「その木戸を通って」(1993年)
・「四十七人の刺客」(1994年)
・「八つ墓村」(1996年)
・「新撰組」(2000年)
・「どら平太」(2000年)
・「かあちゃん」(2001年)
・「ユメ十夜 第二夜」(2006年)
・「犬神家の一族」(2006年)

☆市川崑関係略年表

・1915年(大正4)11月20日 三重県宇治山田市(現在の伊勢市)において、呉服問屋の4人姉弟の長男末っ子として生まれる
・1933年(昭和8) 京都のJO(ぜーおー)スタジオに入社し、アニメーション映画製作に従事する
・1937年(昭和12) JOがPCL映画製作所等と合併して東宝映画株式会社(現在の東宝株式会社)となったのを機会に、劇映画の助監督になる
・1947年(昭和22) 第一作「東宝千一夜」を助監督の身分のまま初監督する
・1948年(昭和23) 新東宝の「花ひらく」で長編監督デビューを果たす
・1951年(昭和26) 東宝へ移籍する
・1956年(昭和31) 日活へ移籍、「ビルマの竪琴」で、エディンバラ国際映画祭グランプリ、ヴェネツィア国際映画祭サン・ジョルジョ賞、アカデミー賞外国語映画賞ノミネート、リスボン国際映画祭審査員特別賞を受賞する
・1959年(昭和34) 「野火」で、ロカルノ国際映画祭グランプリ、バンクーバー国際映画祭カナダ映画協会賞を受賞する
・1960年(昭和35) 「鍵」でカンヌ国際映画祭審査員賞を受賞する
・1961年(昭和36) 「おとうと」でカンヌ国際映画祭フランス映画高等技術委員会賞スペシャルメンションを受賞する
・1962年(昭和37) 「私は二歳」でアジア映画祭監督賞を受賞する
・1965年(昭和40) 「東京オリンピック』で、カンヌ国際映画祭青少年向映画賞、UNICRIT賞、英国アカデミー賞長編記録映画賞、国連平和賞、モスクワ国際映画祭スポーツ連盟賞を受賞する
・1969年(昭和44) 黒澤明、木下惠介、小林正樹とともに「四騎の会」を結成する
・1972年(昭和47) 時代劇「木枯し紋次郎」シリーズで大人気を博する
・1973年(昭和48) ATG(日本アート・シアター・ギルド)で「股旅」を製作・監督し、角川映画では小説・金田一耕助シリーズを映画化してヒットに導く
・1982年(昭和57) 紫綬褒章を受章する
・1983年(昭和58) 「細雪」で、アジア太平洋映画祭グランプリ、同・監督賞を受賞する
・1984年(昭和59) 「おはん」でアジア太平洋映画祭審査員特別賞を受賞する
・1988年(昭和63) 勲四等旭日小綬章を受章する
・1994年(平成6) 「四十七人の刺客」で東京国際映画祭審査員特別賞を受賞、文化功労者となる
・2000年(平成12) ベルリン国際映画祭特別功労賞を受賞する
・2001年(平成13) モントリオール世界映画祭功労賞、第19回川喜多賞を受賞する
・2007年(平成19) 東京国際映画祭黒澤明賞を受賞する
・2008年(平成20年)2月13日 東京都内の病院において、肺炎のため92歳で亡くなり、正四位と旭日重光章を追贈される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

797年(延暦16)六国史二番目の『続日本紀』が完成・奏上される(新暦3月15日)詳細
807年(大同2)斎部広成撰の『古語拾遺』が平城天皇に献上される(新暦3月25日)詳細
1875年(明治8)「平民苗字必称義務令」が出され国民に姓を名乗ることを義務附ける(苗字制定記念日)詳細
1900年(明治33)足尾鉱毒事件被害民二千余名が請願のため上京する途中、警官隊・憲兵と衝突した川俣事件が起きる詳細
1946年(昭和21)連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が「改正憲法草案(マッカーサー草案)」を日本側に手交する詳細
1989年(平成元)リクルート事件で、東京地検特捜部がリクルート前会長江副浩正ら4人を逮捕する詳細
2006年(平成18)財団法人日本城郭協会が「日本100名城」を発表する詳細
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 今日は、平成時代の2008年(平成20)に、日本画家片岡球子が亡くなった日です。
 片岡球子(かたおか たまこ)は、明治時代後期の1905年(明治38)1月5日に、北海道の札幌市において、醸造・木材商の家の長女として生まれました。1922年(大正11)に北海道庁立札幌高等女学校(現在の北海道札幌北高等学校)師範科を卒業後、上京して、女子美術専門学校(現在の女子美術大学)日本画科高等科へ入学し、1926年(大正15)に卒業後、親の反対を押し切って、神奈川県立横浜市大岡尋常高等小学校教諭となります。
 帝展に応募しましたが落選を続けたものの、1930年(昭和5)に「枇杷」で、日本美術院再興第17回展に初入選し、研究会員となりました。1939年(昭和14)に日本美術院絵画部研究会で「新緑」が大観賞第二賞を受賞、「緑陰」で第26回院展に入選し、院友に推挙されます。
 1942年(昭和17)に日本美術院絵画部研究会で「祈祷の僧」が大観賞を受賞、1946年(昭和21)には、安田靫彦に入門し、第31回院展無鑑査出品作「夏」が日本美術院賞を受賞しました。1948年(昭和23)に第33回院展入選「室内」が日本美術院賞、1950年(昭和25)に第35回院展入選「剃髪」が日本美術院賞・白寿賞、1951年(昭和26)に第36回院展入選「行楽」が奨励賞・白寿賞を受賞します。
 1952年(昭和27)に第37回院展入選「美術部にて」が日本美術院賞・大観賞を受賞、日本美術院同人に推挙されました。1955年(昭和30)に、30年間勤めた横浜市立大岡小学校を依願退職し、女子美術大学日本画科専任講師に就任、東京都世田谷区粕谷町に転居します。
 1960年(昭和35)に女子美術大学日本画科助教授、1961年(昭和36)に院展出品「渇仰」が文部省買い上げ優秀美術品となり、第11回芸術選奨文部大臣賞を受賞、第46回院展に舞楽テーマの初作品「幻想」出品、文部大臣賞を受賞、日本美術院評議員に就任しました。1962年(昭和37)に初の渡欧をし、フランス・イタリア・イギリス各地の美術館を巡り、1965年(昭和40)には、女子美術大学日本画科教授に昇任しています。
 1966年(昭和41)に女子美術大学客員教授、愛知県立芸術大学日本画科主任教授に就任、「面構」シリーズ、「富士山」シリーズの製作も開始しました。1970年(昭和45)に神奈川県藤沢市に転居、1973年(昭和48)には、定年により愛知県立芸術大学客員教授となります。
 1975年(昭和50)に第59回院展出品作「面構 鳥文斉栄之」が第31回日本芸術院恩賜賞を受賞、1976年(昭和51)に勲三等瑞宝章を受章、1978年(昭和53)には、第27回神奈川文化賞を受賞しました。1981年(昭和56)に日本美術院理事、1982年(昭和57)に日本芸術院会員となり、1986年(昭和61)には、文化功労者、1989年(平成元)に第42回中日文化賞を受賞、文化勲章を受章し、1990年(平成2)には、藤沢市名誉市民に選ばれています。
 2000年(平成12)には、「熱き挑戦・・片岡球子の全像」展が開催されましたが、2008年(平成20)1月16日に、神奈川県内の病院において、急性心不全のため103歳でなくなり、従三位を追贈されました。

〇片岡球子の主要な作品

・「枇杷」(1930年)第17回日本美術院再興展入選
・「炬燵」(1935年)第19回日本美術院絵画部試作展試作賞受賞
・「寒空」(1938年)日本美術院絵画部研究会員研究会大観賞第一賞受賞
・「新緑」(1939年)日本美術院絵画部研究会大観賞第二賞受賞
・「緑陰」(1939年)第26回院展入選
・「祈祷の僧」(1942年)日本美術院絵画部研究会大観賞受賞
・「夏」(1946年1)第31回院展日本美術院賞受賞
・「室内」(1948年)第33回院展入選・日本美術院賞受賞
・「剃髪」(1950年)第35回院展入選・日本美術院賞・白寿賞受賞
・「行楽」(1951年)第36回院展入選・奨励賞・白寿賞受賞
・「美術部にて」(1952年)第37回院展入選・日本美術院賞・大観賞受賞
・「海岸」(1959年)日本美術院第14回春季展出品
・「渇仰」(1961年)文部省買い上げ優秀美術品
・「幻想」(1961年)第46回院展文部大臣賞受賞
・「面構・足利義政」(1966年)第51回院展出品
・「面構二 東洲斎写楽」(1971年)第56回院展出品
・「面構一 葛飾北斎」(1971年)第56回院展出品
・「面構 鳥文斉栄之」(1975年)第59回院展出品・第31回日本芸術院恩賜賞受賞
・「面構 安藤広重」(1975年)院展六十年の歩み展出品
・「喜多川歌麿」(1978年)日仏現代美術パリ展(パリ、グラン・パレ)出品・国際交流基金買上げ
・「ポーズ1」(1983年)第38回春の院展出品

☆片岡球子関係略年表

・1905年(明治38)1月5日 北海道の札幌市において、醸造・木材商の家の長女として生まれる
・1922年(大正11) 北海道庁立札幌高等女学校(現在の北海道札幌北高等学校)師範科を卒業し、女子美術専門学校(現在の女子美術大学)日本画科高等科へ入学する
・1926年(大正15) 女子美術専門学校を卒業し、神奈川県立横浜市大岡尋常高等小学校教諭となる
・1930年(昭和5) 「枇杷」で、日本美術院再興第17回展に入選し、研究会員となる
・1935年(昭和10) 日本美術院絵画部第19回試作展入選。「炬燵」が試作賞を受賞する
・1938年(昭和13) 日本美術院絵画部研究会員研究会で「寒空」が大観賞第一賞を受賞する
・1939年(昭和14) 日本美術院絵画部研究会で「新緑」が大観賞第二賞を受賞、「緑陰」で第26回院展に入選し、院友に推挙される
・1942年(昭和17) 日本美術院絵画部研究会で「祈祷の僧」が大観賞を受賞する
・1946年(昭和21) 安田靫彦に入門し、第31回院展無鑑査出品作「夏」が日本美術院賞を受賞する
・1948年(昭和23) 第33回院展入選「室内」が日本美術院賞を受賞する
・1950年(昭和25) 第35回院展入選「剃髪」が日本美術院賞・白寿賞を受賞する
・1951年(昭和26) 第36回院展入選「行楽」が奨励賞・白寿賞を受賞、この頃に東京芸大山本豊市教授より彫刻デッサンを学ぶ
・1952年(昭和27) 第37回院展入選「美術部にて」が日本美術院賞・大観賞を受賞、日本美術院同人に推挙される
・1955年(昭和30) 横浜市立大岡小学校を依願退職し、女子美術大学日本画科専任講師に就任、横浜市南区大岡町から東京都世田谷区粕谷町に転居する
・1959年(昭和34) 日本美術院第14回春季展に「海岸」を出品する
・1960年(昭和35) 女子美術大学日本画科助教授となる
・1961年(昭和36) 院展出品「渇仰」が1960年(昭和35年)度文部省買い上げ優秀美術品となり、第11回芸術選奨文部大臣賞を受賞、第46回院展に舞楽テーマの初作品「幻想」出品、文部大臣賞を受賞、日本美術院評議員に就任する
・1962年(昭和37) 第5回現代日本美術展に「桜島の昼」「桜島の夜」招待出品、初の渡欧をし、フランス・イタリア・イギリス各地の美術館を巡る
・1965年(昭和40) 女子美術大学日本画科教授に就任する
・1966年(昭和41) 女子美術大学客員教授、愛知県立芸術大学日本画科主任教授に就任、第51回院展に「面構・足利義政」を出品してから、「面構」シリーズ制作開始、この頃から「富士山」シリーズを製作も開始する
・1970年(昭和45) 北海道庁の依頼で「函館街頭風景」を制作(道庁赤レンガに展示)、神奈川県藤沢市辻堂東海岸に転居する
・1971年(昭和46) 第56回院展に「面構一 葛飾北斎」「面構二 東洲斎写楽」出品する
・1973年(昭和48) 定年により愛知県立芸術大学客員教授となる
・1975年(昭和50) 自伝「情(こころ)ありて」を執筆、第59回院展出品作「面構 鳥文斉栄之」が第31回日本芸術院恩賜賞を受賞、院展六十年の歩み展に「面構 安藤広重」(1973年(昭和48年))を出品する
・1976年(昭和51) 勲三等瑞宝章を受章する
・1978年(昭和53) 日仏現代美術パリ展(パリ、グラン・パレ)に「喜多川歌麿」を出品、国際交流基金買上げとなり、第27回神奈川文化賞を受賞する
・1981年(昭和56) 日本美術院理事に就任する
・1982年(昭和57) 日本芸術院会員となる
・1983年(昭和58) 第38回春の院展に「ポーズ1」を出品する
・1986年(昭和61) 文化功労者に選ばれる
・1989年(平成元) 第42回中日文化賞を受賞、文化勲章を受章する
・1990年(平成2) 藤沢市名誉市民に選ばれる
・1993年(平成5) 愛知県立芸術大学教官・卒業生と約20年かけた「法隆寺金堂壁画模写」全32面が完成し、一般公開される
・1996年(平成8) 愛知県立芸術大学美術学部に愛知県奨学基金として1億円寄贈する
・1998年(平成10) 日本美術院創立百周年記念展東京展に「面構 豊太閤と黒田如水」(1970年(昭和45年))「ポーズ15」(1997年(平成9年))出品する
・1999年(平成11) 都営地下鉄大江戸線築地市場駅構内の「ゆとりの空間」に設置される「江戸の浮世絵師たち」原画を制作する
・2000年(平成12) 「熱き挑戦・・片岡球子の全像」展が横浜美術館で開催する
・2008年(平成20)1月16日 神奈川県内の病院において、急性心不全のため103歳でなくなり、従三位を追贈される
・2014年(平成26) 名古屋御園座の緞帳、画「富士に献花」が日本体育大学世田谷キャンパスに寄贈される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1103年(康和5)第74代の天皇とされる鳥羽天皇の誕生日(新暦2月24日)詳細
1905年(明治38)小説家・詩人・文芸評論家伊藤聖の誕生日詳細
1938年(昭和13)第1次近衛内閣が「帝国政府は爾後国民政府を対手とせず…」(第一次近衛声明)という声明を出す詳細
1941年(昭和16)大日本連合青年団、大日本連合女子青年団、大日本少年団連盟、帝国少年団協会を統合、大日本青少年団が結成される詳細
1942年(昭和17)青壮年による大政翼賛会の外郭団体として、大日本翼賛壮年団が結成される詳細
1986年(昭和61)洋画家梅原龍三郎の命日詳細
2008年(平成20)細胞生物学者・医師岡田善雄の命日詳細
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