今日は、江戸時代後期の1842年(天保13)に、江戸幕府によって、「天保の薪水給与令」が出された日ですが、新暦では8月28日となります。
「天保の薪水給与令(てんぽうのしんすいきゅうよれい)」は、江戸幕府が、1825年(文政8)に出した「異国船打払令」を撤廃し、来航した外国船には薪水、食料を与え、速やかに退去させることを命じた法令でした。この間に、1837年(天保8)のモリソン号事件を契機に幕政批判が高まり、1840年(天保11)のアヘン戦争における清の劣勢に驚いて攘夷の不得策を知ったこと、また、天保の改革の進行が幕府の外交方針変更の背景となり、それまでの異国船打払の方針を緩和したものです。
その後、1853年(嘉永6)のペリー来航までに、3回にわたって「異国船打払令」の復活が図られましたが、いずれも実現せず、開国へ向かっていくこととなりました。
以下に、「天保の薪水給与令」を現代語訳・注釈付で掲載しておきますので、ご参照下さい。
〇「天保の薪水給与令」 1842年(天保13年7月23日)発布
天保十三寅年七月二十三日、異国船打払いの儀停止御書付
異国船渡来の節、二念無く打払い[1]申すべき旨、文政八年仰せ出され候。然る処当時[2]万事御改正[3]にて、享保・寛政の御政事に復せられ[4]、何事によらず御仁政[5]を施され度との有難き思召に候。右については、外国のものにても難風に逢ひ、漂流にて食物薪水を乞候迄に渡来候を、其の事情相分らざるに、一図に打払い[6]候ては、万国に対せられ候御処置とも思召されず候。これに依って文化三年異国船渡来の節、取計方[7]の儀につき仰せ出され候趣相復し候様仰せ出され候間、異国船と見受け候はば、得と様子相糺し[8]、食料薪水等乏しく帰帆[9]成り難き趣候はば、望の品[10]相応に与へ、帰帆[9]致すべき旨申し諭し、尤上陸は致させ間敷候。併し此の通り仰出され候に付ては、海岸防禦の手当[11]ゆるがせにいたし置き、時宜など心得違ひ[12]、又は猥に異国人に親み候儀等はいたす間敷筋に付、警衛向の儀は弥々厳重に致し、人数共武器手当等の儀は、是よりは一段手厚く、聊にても心弛み[13]これ無き様相心得申すべく候。若し異国船より海岸様子を伺ひ、其の場所人心の動静を試し候ためなどに、鉄砲を打懸け候類これ有るべき哉も計り難く候得共、夫等の事に動揺致さず、渡来の事実能々相分り、御憐恤[14]の御主意貫き候様取計い申すべく候。され共 彼方より乱妨の始末[15]これ有り候歟、望の品[9]相与へ候ても帰帆[8]致さず、異儀[16]に及び候はば速に打払ひ、臨機の取計は勿論の事に候。備向手当の儀[17]は猶追て相達し候次第もこれ有るべき哉に候。文化三年相触れ候紙面[18]はこれ有るべく候得共、心得の為[19]、別紙写し相達すべく候。
七月
右の通り相触れべく候。
文化三年寅年相触れ候趣(省略)
「徳川禁令考」より
【注釈】
[1]二念無く打払い:にねんなくうちはらい=1825年(文政8)に出した「異国船打払令」のことを指す。
[2]当時:とうじ=現在。
[3]万事御改正:ばんじごかいせい=天保の改革が進行していることを指す。
[4]享保・寛政の御政事に復せられ:きょうほう・かんせいのごせいじにふくせられ=享保・寛政の両改革にならって。
[5]仁政:じんせい=恵み深く、思いやりのある政治。
[6]一図に打払い:いちずにうちはらい=「異国船打払令」の条文中にある語。
[7]文化三年異国船渡来の節、取計方:ぶんかさんねんいこくせんとらいのせつ、とりはからいかた=1806年(文化3)の「文化の撫恤令」のこと。
[8]得と様子相糺し:とくとようすあいただし=念を入れて事情を調べ。よく事情を聞き。
[9]帰帆:きはん=帰国。
[10]望の品:のぞみのしな=希望する品物。
[11]海岸防禦の手当:かいがんぼうぎょのてあて=江戸幕府の海岸防備強化の指示。
[12]心得違ひ:こころえちがい=対応を誤ること。
[13]聊にても心弛み:いささかにてもこころゆるみ=少しでも油断する。
[14]憐恤:れんじゅつ=あわれんで恵むこと。情をかけて物を施すこと。
[15]乱妨の始末:らんぼうのしまつ=暴力を使って物を奪い取る次第。
[16]異儀:いぎ=他と違った議論や意見。また、相手の期待したのとは反対の意志を表わすこと。異論。異存。
[17]備向手当の儀:そなえむきてあてのぎ=警備体制のこと。
[18]文化三年相触れ候紙面:ぶんかさんねんあいふれそうろうしめん=1806年(文化3)の「文化の撫恤令」の書付。
[19]心得の為:こころえのため=心得るため。物事の細かい事情などを理解してもらうため。理解のため。会得のため。
<現代語訳>
天保13年(1842年)7月23日、「異国船打払い令」停止の公文書
外国船が渡来した時、無条件に打払うべきことを文政8年(1825年)に命令された。しかしながら、現在すべてのことが改革中(天保の改革)なので、享保・寛政の両改革にならって、何事によらず恵み深く、思いやりのある政治を行いたいという有り難いお考えである。これについては外国船でも暴風に遭遇して、漂流等で食物、薪水を乞う為に来航した際は、その事情が分らない内に、一様に打払うのは、諸外国に対する適切な処置とも思われない。従って、文化3年(1806年)の「文化の撫恤令」の趣旨に戻すように命令されたので、外国船を見かけたならば、念を入れて事情を調べ、食料や薪水などが欠乏して帰国出来ないのであれば、希望する品物を相応に与えて、帰国させるように、とはいっても、上陸はさせてはならないこと。しかし、この命令が出されたからと言って、幕府の海岸防備強化の指示などをゆるがせにして、適切な対応を誤ったり、またむやみに外国人と親しくしたりしないこととし、警備体制についてはさらに厳重にし、守備人数や武器の準備等はこれまでよりいっそう充実させ、少しでも油断することが無い様に心得ること。もし外国船が海岸の様子をうかがって試しに鉄砲を撃ちかけるようなことが有っても、それらのことに動揺せず、来航の目的をよくよく把握し、情をかけて物を施すという通達の趣旨を貫いて取り計らうべきこと。しかし、相手より暴力を使って物を奪い取る次第で、希望する品物与えても帰国せず、異存がある時は、速やかに打払い、臨機応変に対応することは当然である。警備体制については追って通達することもあると思われる。文化3年(1806年)の「文化の撫恤令」の書付は有るとは思うが、理解のために別紙として添付するものである。
7月
右のように通達するものである。
文化3年(1806年)の「文化の撫恤令」(省略)
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
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