ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

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 今日は、江戸時代前期の1642年(寛永19)に、説教僧・茶人・文人安楽庵策伝が亡くなった日ですが、新暦では2月7日となります。
 安楽庵策伝(あんらくあん さくでん)は、戦国時代の1554年(天文23)に、金森定近(土岐可頼)の子(兄は戦国大名金森長近)として、美濃国(現在の岐阜市山県)で生まれたとされてきました。1560年(永禄3)の7歳の時、美濃国淨音寺の策堂文叔上人について出家し、1567年(永禄7年)の11歳の時、京都・東山禅林寺(永観堂)において修行します。
 1578年(天正6)の25歳の時、山陽地方へと布教の旅に出て、1592年(文禄元)の39歳の時、和楽に入り、1594年(文禄3年)の41歳の時、安芸国正法寺の13世住職となりました。1596年(慶長元)の43歳の時、美濃国浄音寺に戻り、25世住職となり、1609年(慶長14)の56歳時、美濃国立政寺(りゅうしょうじ)を預かり、1613年(慶長18)の60歳の時、京都新京極大本山誓願寺55世法主となります。
 1615年(慶長20)に京都所司代板倉重宗の依頼によって『醒睡笑』の執筆を始め、1623年(元和9)には、全8巻が完成、紫衣の勅許を得て、誓願寺塔頭竹林院を創立して隠居しました。1624年(寛永元)に茶室「安楽庵」に風流の人士を招き、茶道や文筆に親しんで優雅な生活を始め、1628年(寛永5年3月17日)には、京都所司代板倉重宗に『醒睡笑』を献呈しています。
 1630年(寛永7)の77歳の時、『百椿集』1巻を上梓しましたが、1642年(寛永19年1月8日)に、京都において、数え年89歳で亡くなり、所は京都誓願寺とされました。説教僧として知られ、滑稽な落し噺を説教の高座で実演し,その話材を『醒睡笑(せいすいしょう)』に集録して後世に残したので、落語の元祖とも言われています。
 以下に、『醒睡笑』の構成と序文を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇安楽庵策伝の主要な著作

・笑話集『醒睡笑(せいすいしょう)』全8巻(1623年完成)
・記録『百椿集(ひやくちんしゆう)』(1630年)
・交友録『策伝和尚送答控(さくでんおしょうそうとうひかえ)』

〇『醒睡笑』(せいすいしょう)とは?

 京の僧侶である安樂菴策傳著の笑話集で、全8巻からなり、42項に分類された1,039話を収録しています。江戸時代前期の1615年(慶長20)に京都所司代板倉重宗の依頼によって執筆を始め、1623年(元和9)頃に完成し、1628年(寛永5年3月17日)に板倉重宗に献呈されるたと考えられています。庶民の間に広く流行した話を集め、様々な滑稽話、人情話で構成されており、「睡り(ねむり)を醒まして笑う」という、本の中に出てくる文章から題名を名付けたとされ、落語の元になったとも言われてきました。

<構成>
(巻の一)
・謂えば謂われる物の由来(よくも謂えたものだというこじつけばなし)
・落書(風刺を含んだ匿名の投書)
・ふわとのる(「ふわっ」と乗る:煽てに乗ること)
・鈍副子(どんふうす:鈍物の副司。つまり血の巡りの悪い禅寺の会計係)
・無知の僧(お経もろくに読めない坊主のはなし)
・祝い過ぎるも異なること(縁起の担ぎすぎの失敗談)
(巻の二)
・名付親方(変な名前をつける名付親)
・貴人の行跡(身分の高い人の笑いのエピソード)
・空(愚か者の笑い)
・吝太郎(けちんぼの笑い)
・賢だて(利巧ぶる人の間抜け話)
(巻の三)
・文字知り顔(知ったかぶりの間抜けさ)
・不文字(文盲なのにそれを気が付かないふりをする。おかしさ)
・文のしなじな(機知にとんだ手紙の数々)
・自堕落(ふしだら者の犯す失敗談)
・清僧(女性と交わる罪を犯さない坊主の話)
(巻の四)
・聞こえた批判(頓智裁判)
・いやな批判(不合理な裁判)
・そでない合点(見当はずれ・早合点)
・唯あり(味のある話)
(巻の五)
・きしゃごころ(やさしい風流ごころ)
・上戸(酒飲みの珍談・奇談・失敗談)
・人はそだち(育ちの悪さから来る失敗談。「氏より育ち」の逆)
(巻の六)
・稚児のうわさ(稚児から聞いた内緒ばなし)
・若道知らず(男色のおかしさ)
・恋の道(夫婦間の笑い)
・吝気(やきもちばなし)
・詮無い秘密(くだらない秘密)
・推は違うた(推理がはずれてがっかりした話)
・うそつき(ほら話)
(巻の七)
・思いの色をほかにいう(心に思っていることは態度に出てしまうという笑い話)
・言い損ないはなおらぬ(失言を何とか取り繕うとするおかしさ)
・似合うたのぞみ(たかのぞみは失敗するという話)
・廃忘(失敗するとあわてるという話、蒙昧すること)
・うたい(謡曲の文句に題材をとった笑い話)
・舞(舞の台本を聞きかじった無知な人の話)
(巻の八)
・頓作(即席頓智話)
・平家(平家物語を詠う琵琶法師にまつわる滑稽談)
・かすり(語呂合わせや駄洒落)
・秀句(秀でた詩文をもとにした言葉遊び)
・茶の湯(茶道の心得が無いために起こすしくじり話)
・祝い済まいた(めでたし、めでたしで終わる話)

〇『醒睡笑』(序)

ころはいつ、元和(げんな)九癸亥(みづのとのゐ)の稔(とし)、天下泰平、人民豊楽の折から、策伝某、小僧の時より耳にふれて、おもしろくをかしかりつる事を、反故(ほうご)の端にとめ置きたり。
是(こ)の年七十にて誓願寺乾(いぬゐ)のすみに隠居し安楽庵と云ふ、柴の扉の明暮れ、心をやすむる日毎日毎、こしかたしるせし筆の跡を見れば、おのづから睡(ねむり)をさましてわらふ。
さるまゝにや是を醒睡笑と名付け、かたはらいたき草紙を八巻となして残すのみ。

☆安楽庵策伝関係略年表

・1554年(天文23年) 金森定近(土岐可頼)の子として、現在の岐阜市山県で生まれる
・1560年(永禄3年) 7歳の時、美濃国淨音寺の策堂文叔上人について出家する
・1567年(永禄7年) 11歳の時、京都・東山禅林寺(永観堂)において修行する
・1578年(天正6年) 25歳の時、山陽・近畿地方へと布教の旅にでる
・1592年(文禄元年) 39歳の時、和楽に入る
・1594年(文禄3年) 41歳の時、安芸国正法寺の13世住職となる
・1596年(慶長元年) 43歳の時、美濃国浄音寺に戻り、25世住職となる
・1609年(慶長14年) 56歳時、美濃国立政寺(りゅうしょうじ)を預かる
・1613年(慶長18年) 60歳の時、京都新京極大本山誓願寺55世法主となる
・1615年(慶長20年) 京都所司代板倉重宗の依頼によって『醒睡笑』の執筆を始める
・1623年(元和9年) 『醒睡笑』(全8巻)が完成、紫衣の勅許を得て、誓願寺塔頭竹林院を創立して隠居する
・1624年(寛永元年) 茶室「安楽庵」に風流の人士を招き、茶道や文筆に親しんで優雅な生活を始める
・1628年(寛永5年3月17日) 京都所司代板倉重宗に『醒睡笑』を献呈する
・1630年(寛永7年) 77歳の時、『百椿集』1巻を上梓する
・1642年(寛永19年1月8日) 京都において、数え年89歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1173年(承安3)華厳宗の学僧明恵の誕生日(新暦2月21日)詳細
1646年(正保3)江戸幕府5代将軍徳川綱吉の誕生日(新暦2月23日)詳細
1892年(明治25)詩人・歌人・フランス文学者・翻訳家堀口大学の誕生日詳細
1912年(明治45)映画監督今井正の誕生日詳細
1920年(大正9)医師・生化学者・分子生物学者早石修の誕生日詳細
1917年(大正6)農芸化学者・富山県立技術短大学長田村三郎の誕生日詳細
1941年(昭和16)陸軍大臣東條英機によって、陸訓第一号「戦陣訓」が発表される詳細
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 今日は、江戸時代中期の1770年(明和7)に、商人・随筆家・文人鈴木牧之が生まれた日ですが、新暦では2月22日となります。
 鈴木牧之(すずき ぼくし)は、越後国魚沼郡の塩沢(現在の南魚沼市)において、地元では有数の豪商であった、父・鈴木恒右衛門(俳号は「牧水」)、母・とよの第5子として生まれましたが、幼名は弥太郎と言いました。14歳の時、越後に来遊した狩野梅笑のもと絵の手ほどきを受け、16歳の時、僧虎斑より漢詩を教わり、元服して名を儀三治(ぎそうじ)と改めます。
 1788年(天明8)の19歳の時、縮を商うため初めて江戸に出て、江島・鎌倉も旅し、『東遊記行』を著し、翌年には、家業を継いで商売繁盛に努め、1792年(寛政4)の23歳の時、みねと初めて結婚しました。1796年(寛政8)の27歳の時、上方参りに行き、伊勢参宮、西国巡拝をし、『西遊紀行』を著し、1811年(文化8)の42歳の時、苗場山へ登り、『苗場山紀行』を著します。
 1813年(文化10)の44歳の時、長男・伝之助を結核で失い、同年に母・とよも亡くなりました。1816年(文化13)の47歳の時、草津温泉へ入湯し、『上毛草津温泉入湯記』を著し、1819年(文政2)の50歳の時、国内雪見行脚し、『北海雪見行脚集』を著し、第2回江戸出府を果たし、1821年(文政4)に『続東遊記行』、1824年(文政7)に『夜職草(よなべぐさ)』を著します。
 1826年(文政9)に十返舎一九が来訪、翌年には、滝沢馬琴著『南総里見八犬伝』第7の巻の5に、牧之の「二十村闘牛図」が掲載されるなど江戸の文人との交流を深めました。十返舎一九の依頼により、1828年(文政11)に秋山郷を探訪し、翌年には『秋山記行』稿本が完成したものの、一九が亡くなったために出版は頓挫します。
 1836年(天保7)の67歳の時、山東京山が挿絵を担当する息子京水を伴って越後を来訪、翌年に『北越雪譜』初版3巻を刊行、1841年(天保12)には『北越雪譜』二編4巻を刊行しました。晩年は病に苦しみ、1840年(天保11)頃からは身体言語不自由となり、1842年(天保13年5月15日)には、越後・塩沢において、数え年73歳で亡くなっています。
 尚、生まれ故郷の塩沢に、1989年(平成元)に「鈴木牧之記念館」が開館し、関係資料が一般公開されるようになりました。

〇鈴木牧之の主要な著作

・『東遊記行』(1788年)
・『西遊紀行』(1796年)
・『苗場山紀行』(1811年)
・『上毛草津温泉入湯記』(1816年)
・『北海雪見行脚集』(1819年)
・『続東遊記行』(1821年)
・『夜職草(よなべぐさ)』(1824年)
・『秋山記行(あきやまきこう)』(1829年)
・『秋月庵発句集』(1830年)
・『北越雪譜(ほくえつせっぷ)』(1836~42年)

☆鈴木牧之関係略年表(日付は旧暦です)

・1770年(明和7年1月27日) 越後国魚沼郡の塩沢(現在の南魚沼市)において、地元では有数の豪商であった、父・鈴木恒右衛門(俳号は「牧水」)、母・とよの第5子として生まれる 
・1783年(天明3年) 14歳の時、越後に来遊した狩野梅笑のもと絵の手ほどきを受ける
・1785年(天明5年) 16歳の時、僧虎斑より漢詩を教わり、元服して名を儀三治(ぎそうじ)と改める
・1788年(天明8年) 19歳の時、縮を商うため初めて江戸に出て、江島・鎌倉も旅し、『東遊記行』を著す
・1789年(天明9年) 20歳の時、家業を継ぎ、商売繁盛に努める
・1792年(寛政4年) 23歳の時、みねと結婚する
・1796年(寛政8年) 27歳の時、上方参りをし、伊勢参宮、西国巡拝をし、『西遊紀行』を著す
・1811年(文化8年) 42歳の時、苗場山へ登り、『苗場山紀行』を著す
・1813年(文化10年) 44歳の時、長男・伝之助を結核で失い、同年に母・とよがなくなる
・1816年(文化13年) 47歳の時、草津温泉へ入湯し、『上毛草津温泉入湯記』を著す
・1819年(文政2年) 50歳の時、国内雪見行脚し、『北海雪見行脚集』を著し、第2回江戸出府をする
・1821年(文政4年) 『続東遊記行』を著す
・1824年(文政7年) 『夜職草(よなべぐさ)』を著す 
・1826年(文政9年) 十返舎一九が来訪する
・1827年(文政10年) 滝沢馬琴『南総里見八犬伝』第7の巻の5に、牧之の「二十村闘牛図」が掲載される
・1828年(文政11年9月) 秋山郷を探訪する
・1829年(文政12年) 『秋山記行(あきやまきこう)』稿本が完成する
・1836年(天保7年6月) 67歳の時、山東京山が挿絵を担当する息子京水を伴って越後にやってくる
・1837年(天保8年秋) 『北越雪譜(ほくえつせっぷ)』初編3巻を刊行する
・1841年(天保12年11月) 『北越雪譜』二編4巻を刊行する
・1842年(天保13年5月15日) 数え年73歳で亡くなる
・1989年(平成元) 生まれ故郷の塩沢に「鈴木牧之記念館」が開館する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1219年(建保7)鎌倉の鶴岡八幡宮で源実朝が甥の公暁により暗殺される(新暦2月13日)詳細
1713年(正徳3)狩野派の絵師狩野常信の命日(新暦2月21日)詳細
1885年(明治18)日本画家前田青邨の誕生日詳細
1998年(平成10)小説家・放送作家・エッセイスト景山民夫の命日詳細
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 今日は、奈良時代の781年(天応元)に、公卿・文人石上宅嗣の亡くなった日ですが、新暦では7月19日となります。
 石上宅嗣(いそのかみ の やかつぐ)は、729年(天平元)に、中納言石上乙麻呂の子として生まれましたが、才敏で姿、ようすがすぐれ、言語、動作が閑雅であったと伝えられてきました。751年(天平勝宝3)に従五位下に昇叙し、治部少輔となり、757年(天平勝宝9)には、従五位上に昇叙し、相模守となります。
 その後、759年(天平宝字3)に三河守、761年(天平宝字5)に上総守と地方官を歴任後、761年(天平宝字5)に遣唐副使となりましたが、翌年免ぜられ、藤原田麻呂と交替しました。763年(天平宝字7)に文部大輔となったものの、同年の藤原仲麻呂(恵美押勝)を除く藤原良継らの企てに参画し失敗、翌年に大宰少弐に左遷されています。
 しかし、同年の藤原仲麻呂の乱により恵美押勝が失脚すると復権し、正五位上(越階)に昇叙、常陸守となりました。それからの道鏡政権下では順調に昇進し、765年(天平神護元)に従四位下に昇叙し、中衛中将となり、翌年に参議となって公卿に列し、同年正四位下、768年(神護景雲2)には従三位に昇叙します。
 770年(神護景雲4)に称徳天皇が亡くなると、参議として藤原永手らと共に光仁天皇を擁立するに功があり、同年、兼大宰帥、翌年には兼式部卿となりました。771年(宝亀2)に中納言となり、775年(宝亀6)に石上朝臣から物部朝臣に改姓、777年(宝亀8)には兼中務卿となります。
 779年(宝亀10)に宣勅使として唐使をもてなし、779年(宝亀10)に石上大朝臣の姓を賜わり、780年(宝亀11日)には、大納言にまで進みました。一方、詩文と書にすぐれ、淡海三船と並び称された文人で、漢詩が『経国集』に収められ、和歌は『万葉集』に採られています。
 また、晩年は私邸に阿閦寺を建立し、その境内に芸亭(うんてい)と称する書斎を設けて公開し、日本における公開図書館の発祥とされてきました。781年(天応元)には、正三位に昇叙したものの、同年6月24日に、奈良平城京において数え年53歳で亡くなり、正二位を贈られています。
 以下に、『続日本紀』巻第三十六の天応元年(781年)6月24日の条の石上宅嗣と芸亭院の記述を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇『続日本紀』巻第三十六の天応元年6月24日の条の石上宅嗣の死去と芸亭院の記述

<原文>
大納言正三位兼式部卿石上大朝臣宅嗣薨。詔贈正二位。宅嗣左大臣従一位麻呂之孫。中納言従三位弟麻呂之子也。性朗悟有姿儀。愛尚経史。多所渉覧。好属文。工草隷。勝寳三年授從五位下。任治部少輔。稍遷文部大輔。歴居内外。景雲二年至參議從三位。寳龜初。出爲大宰帥。居無幾遷式部卿。拜中納言。賜姓物部朝臣。以其情願也。尋兼皇太子傅。改賜姓石上大朝臣。十一年。轉大納言。俄加正三位。宅嗣辞容閑雅。有名於時。毎値風景山水。時援筆而題之。自宝字後。宅嗣及淡海真人三船為文人之首。所著詩賦数十首。世多伝誦之。捨其旧宅。以為阿閦寺。寺内一隅。特置外典之院。名曰芸亭。如有好学之徒。欲就閲者恣聴之。仍記条式。以貽於後。其略曰。内外両門本為一体。漸極似異。善誘不殊。僕捨家為寺。帰心久矣。為助内典。加置外書。地是伽藍。事須禁戒。庶以同志入者。無滞空有。兼忘物我。異代来者。超出塵労。帰於覚地矣。其院今見存焉。臨終遺教薄葬。薨時年五十三。時人悼之。

<読み下し文>

大納言正三位兼式部卿石上大朝臣宅嗣薨ず。詔して正二位を贈る。宅嗣は左大臣従一位麻呂の孫、中納言従三位弟麻呂の子なり。性郎悟にして姿儀有り[1]。経史[2]を愛尚して渉覧[3]する所多し。好みて文を属り、草隷[4]を工にす。勝寳三年從五位下を授けられ、治部少輔に任す。稍く文部大輔に遷て、内外に歴居す[5]。景雲二年參議[6]從三位に至る。寳龜の初め、出て大宰の帥[7]と爲る。居ること幾も無くして式部卿[8]に遷る。中納言[9]を拜す。姓を物部朝臣と賜ふ。其の情願[10]を以てなり也。尋て皇太子の傅を兼ぬ。改めて姓を石上大朝臣と賜ふ。十一年、大納言[11]に轉し、俄に正三位を加へらる。宅嗣、辞容[12]閑雅[13]にして時に名有り。風景山水に値うごとに、時に筆を援きてこれを題す。宝字より後、宅嗣及び淡海真人三船[14]を文人の首となす。著す所の詩賦数十首、世多くこれを伝誦[15]す。其の旧宅を捨して以て阿閦寺[16]となし、寺内の一偶に特に外典[17]の院を置く。名けて芸亭[18]と日う。もし好学の徒有りて、就きて閲せんと欲する者は、恣にこれを聴す。仍りて条式[19]を記して後に貽す。其の略に日く。「内外の両門[20]は本一体たり。漸く極れば異なるに似たれども、善く誘けば殊ならず。僕家を捨して寺となし、心を帰すること久し。内典[21]を足すけんがために外書[22]を加え置く。地は是れ伽藍[23]、事須く禁戒[24]すべし。庶くは、同志を以て入る者は、空有[25]に滞ること無くして兼ねて物我[26]を忘れ、異代[27]に来たらん者は、塵労[28]を超出して覚地[29]に帰せんことを」と。其の院今見に存せり。臨終に遺教[30]して薄葬[31]せしむ。薨ずる時年五十三。時の人これを悼む[32]。

【注釈】

[1]姿儀有り:けいし=姿が整っている。風采が立派。
[2]経史:けいし=経書と史書。
[3]渉覧:しょうらん=いろいろと回って広く見る。多方面に通じる。
[4]草隷:そうれい=草書と隷書。転じて、書道。
[5]歴居す:そうれい=歴任する。
[6]參議:さんぎ=四位以上の位階を持つ廷臣の中から、才能のある者を選び、大臣と参会して朝政を参議させたもの。
[7]大宰の帥:だざいのそち=大宰府の長官。
[8]式部卿:しきぶきょう=式部省の長官。内外文官の名帳、考課、選叙、礼儀、版位、位記などをつかさどる。
[9]中納言:ちゅうなごん=令外の官。大納言に次ぎ、大臣と政事を議し、献替の任にあたる重職で、相当位は従三位。
[10]情願:じょうがん=実状を述べて願い出ること。心から願うこと。嘆願。懇願。
[11]大納言:だいなごん=太政官の次官にあたる要職で、天皇に近侍して庶政に参画し、大臣が参内しないときは代わって政務を行った。
[12]辞容:じよう=言葉や立ち居ふるまい。
[13]閑雅:かんが=しとやかで優雅なこと。また、そのさま。
[14]淡海真人三船:おうみのまひとみふね=奈良時代の文人(学者)で、大友皇子の曽孫、文章博士・大学頭などを歴任した。
[15]伝誦:でんしょう=代々伝えてとなえること。また、口から口へととなえ伝えること。
[16]阿閦寺:あしゅくじ=781年(天応元)に石上宅嗣が平城京付近にあった私邸を寺にしたもの。
[17]外典:げてん=仏教以外の教えを説く書籍。特に儒教の経典。
[18]芸亭:うんてい=日本最初の公開図書館で、石上宅嗣が私邸を阿閦寺とし、その一隅に図書を集め、好学の士に閲読させたもの。
[19]条式:じょうしき=規則。
[20]内外の両門:ないがいのりょうもん=仏教と儒教。
[21]内典:ないてん=仏教の典籍。
[22]外書:がいしょ=仏教以外の書籍。外典。
[23]伽藍:がらん=僧が集まり住んで、仏道を修行する、清浄閑静な場所。
[24]禁戒:きんかい=禁じ戒めること。また、おきて。法度。
[25]空有:くうう=実体のないことと、あること。
[26]物我:ぶつが=物と我。外物と自己。他者と自己。
[27]異代:いだい=異なった時代。別の世代。
[28]塵労:じんろう=俗世間での苦労。煩悩。
[29]覚地:かくち=迷いを脱して真理をつかむこと。また、事情をよく理解すること。気がつかなかったことに気づくこと。
[30]遺教:いきょう=死ぬときに残したことばや教訓。
[31]薄葬:はくそう=簡略にした葬儀。
[32]悼む:いたむ=人の死を悲しみ嘆く。

<現代語訳>

大納言正三位兼式部卿の石上大朝臣宅嗣が亡くなった。(光仁天皇)詔して正二位を贈る。宅嗣は左大臣・従一位麻呂の孫で、中納言従三位・弟麻呂の子である。賢明で悟りが早く、姿が整っている。経書と史書を愛読して、多方面に通じる所も多かった。好んで文章を作り、書道が巧みであった。天平勝宝3年(751年)に從五位下を授けられ、治部少輔に任じられた。しばらくして文部大輔に遷り、内外の官職を歴任した。神護景雲2年(768年)に参議・従三位に至る。宝亀の初め、出向して大宰の帥となる。在任わずかにして式部卿に遷って、中納言を拝命した。その懇願によって、物部朝臣の姓を賜わった。次に皇太子の傅を兼任し、改めて石上大朝臣の姓を賜わった。宝亀11年(780年)に大納言に昇進し、ほどなくして正三位を加へられる。宅嗣、言葉や立ち居ふるまいがしとやかで優雅で、当時は有名であった。風景山水に出会う度に、筆を執って詩文などの主題と成した。天平宝字の頃より後、宅嗣および淡海真人三船を文人の首座となした。著作するところの漢詩や賦は数十首あり、世間の多くで口から口へと唱え伝えられている。その旧宅を喜捨して阿閦寺となし、寺内の一偶に特別に仏教以外の教えを説く書籍のための院を設置し、芸亭と命名した。もし学問を志す者が有って、閲覧を欲したならば、自由にこれを許可し、そのために規則を決めて後世に残す。その概略として言っていることは、「仏教と儒教は根本は一つである。斬新的と極端の違いはあるといっても、よく導けば異なるものではない。自分の家を喜捨して寺とし、仏門に帰依してからも久しいが、仏教の典籍の理解を助けるために、仏教以外の書籍を加えて置いておく。この地は仏道を修行する、清浄閑静な場所であって、何事においても禁じ戒めるべきである。どうか、同じ志を持って入居した者は、実体のないこととあることを論じて滞ることなく、あわせて他者と自己を忘れ、別の世代として来た者は、俗世間での苦労を超越して真理をつかまんことを」と。その院は現在も存在している。臨終にあたって簡略にした葬儀にするようにと教え残した。亡くなったのは53歳であった。当時の人はこれを悲しみ嘆いた。

☆石上宅嗣関係略年表(日付は旧暦です)

・729年(天平元年) 中納言石上乙麻呂の子として生まれる
・751年(天平勝宝3年1月25日) 従五位下に昇叙する
・751年(天平勝宝3年日付不詳) 治部少輔となる
・757年(天平勝宝9年5月20日) 従五位上に昇叙する
・757年(天平勝宝9年6月16日) 相模守となる
・757年(天平勝宝9年日付不詳) 紫微少弼となる
・759年(天平宝字3年5月17日) 三河守となる
・761年(天平宝字5年1月16日) 上総守となる
・761年(天平宝字5年10月22日) 遣唐副使となる
・762年(天平宝字6年3月1日) 遣唐副使罷ぜられ、藤原田麻呂と交替する
・763年(天平宝字7年1月9日) 文部大輔となる
・763年(天平宝字7年) 藤原仲麻呂(恵美押勝)を除く藤原良継らの企てに参画する
・764年(天平宝字8年1月21日) 大宰少弐に左遷される
・764年(天平宝字8年9月) 藤原仲麻呂の乱により恵美押勝が失脚する
・764年(天平宝字8年10月3日) 正五位上(越階)に昇叙、常陸守となる
・765年(天平神護元年1月7日) 従四位下に昇叙する
・765年(天平神護元年2月8日) 中衛中将となる
・766年(天平神護2年1月8日) 参議となる
・766年(天平神護2年10月25日) 正四位下に昇叙する
・768年(神護景雲2年正月10日) 従三位に昇叙する
・768年(神護景雲2年10月24日) 綿4000屯を賜わる
・770年(神護景雲4年8月4日) 称徳天皇が亡くなると、参議として藤原永手らと共に光仁天皇を擁立する
・770年(神護景雲4年9月16日) 兼大宰帥となる
・771年(宝亀2年3月13日) 兼式部卿となる
・771年(宝亀2年11月23日) 中納言となる
・775年(宝亀6年12月25日) 石上朝臣から物部朝臣に改姓する
・777年(宝亀8年10月13日) 兼中務卿となる
・779年(宝亀10年) 宣勅使として唐使をもてなす
・779年(宝亀10年11月18日) 物部朝臣から石上大朝臣の姓を賜わる
・780年(宝亀11年2月1日) 大納言となる
・781年(天応元年) 平城京付近にあった私邸を阿閦寺とする
・781年(天応元年4月15日) 正三位に昇叙する
・781年(天応元年6月24日) 奈良平城京において数え年53歳で亡くなり、正二位を贈られる
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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