ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:数学者

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 今日は、平成時代の1993年(平成5)に、数学者矢野健太郎が亡くなった日です。
 矢野健太郎(やの けんたろう)は、明治時代末期の1912年(明治45)3月1日に、東京府東京市において、彫刻家の子として生まれました。市立東京第二中学校、旧制東京高等学校を経て、東京帝国大学理学部数学科へ入学し、1934年(昭和9)に卒業後、大学院に進み、同時に東京物理学校の講師に就任します。
 1936年(昭和11)にパリ大学へ留学し、1938年(昭和13)に同校を卒業、パリ大学に提出した射影接続空間に関する論文により、1940年(昭和15)に東京帝国大学より、理学博士号を得ました。1941年(昭和16)に東京帝国大学講師となり、1945年(昭和20)には、助教授に昇任し、1950年(昭和25)からアメリカのプリンストン高等研究所の所員(~1952年)となります。
 1953年(昭和28)にローマ大学客員教授となり、1954年(昭和29)には、アムステルダム大学客員教授となって、国際数学者会議で招待講演をしました。帰国後の1958年(昭和33)に東京工業大学教授となり、1966年(昭和41)に岩波新書『新しい数学』、1968年(昭和43)に新潮選書『アインシュタイン伝』、講談社現代新書『数学へのすすめ』、1969年(昭和44)に講談社現代新書『確率のはなし』を刊行するなど、一般対象の啓発書を執筆しています。
 1970年(昭和45)に東京工業大学理学部長となり、退職後の1972年(昭和47)には、東京工業大学名誉教授に就任しました。1964年(昭和39)に『科学図説シリーズ』全12巻の執筆者の一人として、サンケイ児童出版文化賞を受賞し、1976年(昭和51)に紫綬褒章、1983年(昭和58)に勲二等瑞宝章を受章しています。
 専門書の他にも、教科書、啓蒙書、数学エッセーなど幅広い分野の著作によって、数学的概念の普及に努めましたが、1993年(平成5年)12月25日に81歳で亡くなりました。

〇矢野健太郎の主要な著作

・『数学物語』(1936年)
・『初等解析幾何学』(1950年)
・『数学のはなし』(1953年)
・『代数入門』(1955年)
・『エレガントな解答』(1958年)
・『新しい数学』岩波新書(1966年)
・『接続の幾何学』(1968年)
・『アインシュタイン伝』新潮選書(1968年)
・『数学へのすすめ』講談社現代新書(1968年)
・『確率のはなし』講談社現代新書(1969年)
・『数学の楽しさ』(1976年)
・『数学への招待』(1977年)
・『ゆかいな数学者たち』(1981年)
・『数学おしゃべり帳』(1982年)

☆矢野健太郎関係略年表

・1912年(明治45)3月1日 東京府東京市において、彫刻家 の子として生まれる
・1934年(昭和9) 東京帝国大学理学部数学科を卒業し、大学院に進む
・1936年(昭和11) パリ大学へ留学する
・1938年(昭和13) パリ大学を卒業する
・1940年(昭和15) 射影接続空間に関する論文により、東京帝国大学より、理学博士号を得る
・1941年(昭和16) 東京帝国大学講師となる
・1945年(昭和20) 東京帝国大学助教授となる
・1950年(昭和25) アメリカのプリンストン高等研究所の所員(~1952年)となる
・1953年(昭和28) ローマ大学客員教授となる
・1954年(昭和29) アムステルダム大学客員教授となり、国際数学者会議で招待講演をする
・1958年(昭和33) 東京工業大学教授となる
・1966年(昭和41) 岩波新書より『新しい数学』を刊行する
・1968年(昭和43) 新潮選書より『アインシュタイン伝』、講談社現代新書より『数学へのすすめ』を刊行する
・1969年(昭和44) 講談社現代新書より『確率のはなし』を刊行する
・1970年(昭和45) 東京工業大学理学部長となる
・1972年(昭和47) 東京工業大学名誉教授に就任する
・1964年(昭和39) 『科学図説シリーズ』全12巻の執筆者の一人として、サンケイ児童出版文化賞を受賞する
・1976年(昭和51) 紫綬褒章を受章する
・1983年(昭和58) 勲二等瑞宝章を受章する
・1993年(平成5年)12月25日 81歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1783年(天明3)俳人・画家与謝蕪村の命日(新暦1784年1月17日)詳細
1809年(文化6)『大日本史』全397巻が一部を除き完成し、水戸藩より朝廷へ献上される(新暦1810年1月30日)詳細
1899年(明治32)小説家尾崎一雄の誕生日詳細
1961年(昭和36)キリスト教伝道者・経済学者・教育家・東京大学総長矢内原忠雄の命日詳細
1986年(昭和61)医学者・細菌学者・生化学者梅澤濱夫の命日詳細
1988年(昭和63)小説家・評論家大岡昇平の命日詳細
1997年(平成9)小説家・文芸評論家・詩人中村真一郎の命日詳細
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 今日は、明治時代後期の1902年(明治35)に、数学者・第6代大阪大学総長・武蔵学園学園長正田建次郎の生まれた日です。
 正田建次郎(しょうだ けんじろう)は、群馬県邑楽郡館林町(現在の館林市)において、日清製粉の創業者である父・正田貞一郎の二男として生まれました。東京府立第四中学校、旧制第八高等学校を経て、東京帝国大学理学部数学科に入学し、高木貞治の指導を受けます。
 1926年(大正15)にドイツに留学し、ゲッティンゲン大学でエミー・ネーターに師事し、抽象代数学を研究、1929年(昭和4)に日本へ帰国しました。1931年(昭和6)に理学博士となり、1932年(昭和7)には、『抽象代数学』を刊行して、日本における数学の現代化の先頭に立つ人物となります。
 1933年(昭和8)に大阪帝国大学理学部数学科創設と同時に教授に就任し、群論、多元環論について活発な研究発表を行いました。1946年(昭和21)に日本数学会初代会長に就任、1949年(昭和24)には、「輓近の抽象代数学に於ける研究」で、日本学士院賞を受賞します。
 1953年(昭和28)に日本学術会議会員、日本学士院会員となり、1954年(昭和29)には、第6代大阪大学総長に就任、1960年(昭和35)には、大阪大学総長を退任し、同大学名誉教授となりました。1961年(昭和36)に東京女子大が教授となりましたが、1962年(昭和37)には、初代大阪大学基礎工学部長として大阪大学に復帰し、京都大学数理解析研究所教授を兼任しています。
 1965年(昭和40)に大阪大学を定年退官し、武蔵大学学長に就任、1968年(昭和43)には、東京都教育委員ともなりました。1969年(昭和44)に文化勲章を受章、文化功労者となり、1974年(昭和49)には、勲一等瑞宝章を受章します。
 1975年(昭和50)に武蔵学園学園長となったものの、1977年(昭和52)3月20日に、75歳で亡くなり、従二位、勲一等旭日大綬章を追贈されました。尚、上皇明仁の皇后美智子の伯父にあたります。

〇正田建次郎の主要な著作

・『抽象代数学』(1932年)
・『代数学提要』(1944年)
・『数学へのみち』(1962年)
・『多元数論入門』(1968年)

☆正田建次郎略年表

・1902年(明治35)2月25日 群馬県邑楽郡館林町(現在の館林市)において、日清製粉の創業者である父・正田貞一郎の二男として生まれる
・1919年(大正8) 東京府立第四中学校を卒業する
・1922年(大正11) 旧制第八高等学校を卒業し、東京帝国大学理学部数学科に入学する
・1925年(大正14) 東京帝国大学理学部数学科を卒業する
・1926年(大正15) ドイツに留学し、ゲッティンゲン大学でエミー・ネーターに師事し、抽象代数学を研究する
・1929年(昭和4) 日本へ帰国する
・1931年(昭和6) 理学博士となる
・1932年(昭和7) 『抽象代数学』を刊行する
・1933年(昭和8) 大阪帝国大学理学部数学科創設と同時に教授に就任する
・1946年(昭和21) 日本数学会初代会長に就任する
・1949年(昭和24) 「輓近の抽象代数学に於ける研究」で、日本学士院賞を受賞する
・1953年(昭和28) 日本学術会議会員、日本学士院会員となる
・1954年(昭和29) 第6代大阪大学総長に就任する
・1960年(昭和35) 大阪大学総長を退任し、同大学名誉教授となる
・1961年(昭和36) 東京女子大が教授となる
・1962年(昭和37) 初代大阪大学基礎工学部長として大阪大学に復帰、京都大学数理解析研究所教授を兼任する
・1965年(昭和40) 大阪大学を定年退官し、武蔵大学学長に就任する
・1968年(昭和43) 東京都教育委員となる
・1969年(昭和44) 文化勲章を受章、同時に文化功労者となる
・1974年(昭和49) 勲一等瑞宝章を受章する
・1975年(昭和50) 武蔵学園学園長となる
・1977年(昭和52)3月20日 75歳で亡くなり、従二位、勲一等旭日大綬章を追贈される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1415年(応永22)僧侶・浄土真宗中興の祖蓮如の誕生日(新暦4月13日)詳細
1942年(昭和17)「戦時災害保護法」(昭和17年法律第71号)が公布される詳細
1944年(昭和19)東条英機内閣により、「決戦非常措置要綱」が閣議決定される詳細
1946年(昭和21)「金融緊急措置令」に基づいて新円を発行し、旧円と新円の交換が開始される詳細
1947年(昭和22)八高線高麗川駅付近で買い出しで満員の列車が転覆、死者184人を出す(八高線列車脱線転覆事故)詳細
1953年(昭和28)医師・歌人斎藤茂吉の命日(茂吉忌)詳細
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 今日は、明治時代前期の1875年(明治8)に、数学者高木貞治が生まれた日です。
 高木貞治(たかぎ ていじ)は、明治時代前期の1875年(明治8)4月21日に、岐阜県大野郡数屋村(現在の本巣市)において、生まれました。1891年(明治24)に、第三高等中学校に入学、1894年(明治27)に卒業後、帝国大学理科大学数学科へ入学し、菊池大麓、藤沢利喜太郎のもとで学びます。
 1897年(明治30)に東京帝国大学理科大学数学科を卒業後、1898年(明治31)に文部省派遣留学生としてドイツへ向かい、1900年(明治33)にベルリン大学でフロベニウスの教えを受け、ゲッティンゲン大学でヒルベルトとクラインの教えを受け、1901年(明治34)にドイツ留学から帰国し、東京帝国大学の助教授となりました。1903年(明治36)に学位論文「ガウス数体の虚数乗法論」を提出し、理学博士となり、翌年には、東京帝国大学理科大学の教授となります。
 1920年(大正9)に類体論の論文「相対アーベル数体の一理論について(高木類体論第一論文)」を発表、ストラスブールで開催された国際数学者会議に参加、1922年(大正11)には、「任意の代数体における相反定理について(高木類体論第二論文)」発表し、高木類体論を完成しました。これにより、1923年(大正12)にチェコスロバキアの数学物理学会の名誉会員に推薦され、1925年(大正14)に帝国学士院の会員となり、1926年(大正15)には従三位となります。
 1929年(昭和4)にオスロ大学から名誉学位を授与され、1932年(昭和7)には、チューリッヒで開催された国際数学者会議に副議長として参加し、第1回フィールズ賞選考委員に選ばれました。1936年(昭和11)に東京帝国大学の教授を定年退官し、名誉教授となり、1937年(昭和12)に海軍技術研究所の依頼により暗号機である九七式印字機の規約数計算に協力、1940年(昭和15)には、文化勲章を受章します。
 1941年(昭和16)に藤原工業大学教授となり、1944年(昭和19)には、陸軍数学研究会(陸軍暗号学理研究会)の副会長に就任しました。太平洋戦争後の1951年(昭和26)に文化功労者となり、1955年(昭和30)には、日光で開催された代数的整数論の国際会議で名誉議長を務めます。
 日本の数学が国際的に認められる基礎を築いてきましたが、1960年(昭和35)2月28日に、東京において、脳卒中のため84歳で亡くなり、勲一等旭日大綬章を追贈されました。

〇高木貞治の主要な著作

・『代数学講義』(1930年)
・『初等整数論講義』(1931年)
・『解析概論』(1938年)
・『代数的整数論』(1948年)
・『数の概念』(1949年)
・『近代数学史談』(1949年)
・『数学の自由性』(1949年)

☆高木貞治関係略年表

・1875年(明治8)4月21日 岐阜県大野郡数屋村(現在の本巣市)において、生まれる
・1891年(明治24) 第三高等中学校に入学する
・1894年(明治27) 第三高等中学校を卒業、帝国大学理科大学数学科へ入学する
・1897年(明治30) 東京帝国大学理科大学数学科を卒業する
・1898年(明治31) 文部省派遣留学生としてドイツへ向かう
・1900年(明治33) ベルリン大学でフロベニウスの教えを受け、ゲッティンゲン大学でヒルベルトとクラインの教えを受ける
・1901年(明治34) ドイツ留学から帰国し、東京帝国大学の助教授となる
・1902年(明治35) 谷としと結婚する
・1903年(明治36) 学位論文「ガウス数体の虚数乗法論」を提出し、理学博士となる
・1904年(明治37) 東京帝国大学理科大学の教授となる
・1912年(大正元) 勲四等瑞宝章を受章する
・1920年(大正9) 類体論の論文「相対アーベル数体の一理論について(高木類体論第一論文)」を発表、ストラスブールで開催された国際数学者会議に参加する
・1922年(大正11) 「任意の代数体における相反定理について(高木類体論第二論文)」発表し、高木類体論を完成する
・1923年(大正12) 任意の代数体における奇素数次相互法則を証明により、チェコスロバキアの数学物理学会の名誉会員に推薦される
・1925年(大正14) 帝国学士院の会員となる
・1926年(大正15) 従三位となる
・1929年(昭和4) オスロ大学から名誉学位を授与される
・1932年(昭和7) チューリッヒで開催された国際数学者会議に副議長として参加し、第1回フィールズ賞選考委員に選ばれる
・1936年(昭和11) 東京帝国大学の教授を定年退官し、名誉教授となる
・1937年(昭和12) 海軍技術研究所の依頼により暗号機である九七式印字機の規約数計算に協力する
・1940年(昭和15) 文化勲章を受章する
・1941年(昭和16) 藤原工業大学教授となる
・1944年(昭和19) 陸軍数学研究会(陸軍暗号学理研究会)の副会長に就任する
・1951年(昭和26) 文化功労者となる
・1955年(昭和30) 日光で開催された代数的整数論の国際会議で名誉議長を務める
・1960年(昭和35)2月28日 東京において、脳卒中のため84歳で亡くなり、勲一等旭日大綬章を追贈される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

748年(天平20)第44代の天皇とされる元正天皇の命日(新暦5月22日)詳細
1583年(天正11)賤ヶ岳の戦いで柴田勝家が羽柴秀吉に敗北する(新暦6月11日)詳細
1868年(慶応4)「五箇条の御誓文」に基づき「政体書」が発布される(新暦6月11日)詳細
1952年(昭和27)「公職追放令」が廃止され、最後まで追放解除にならなかった5,700人の公職追放が解除される詳細
日本民間放送連盟(民放連)が社団法人化する(民放の日)詳細
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 今日は、明治時代前期の1885年(明治18)に、数学者・数学史家・数学教育家・随筆家小倉金之助の生まれた日です。
 小倉金之助(おぐら きんのすけ)は、山形県飽海郡酒田町(現在の酒田市)において、回漕問屋を営む、父・小倉末吉、母・里江の長男として生まれました。1902年(明治35)に山形県荘内私立尋常中学校(現在の鶴岡南高校)を退学し、上京して東京物理学校全科に入学します。
 1905年(明治38)に卒業し、東京帝大理科大学化学科選科へ進んだものの、翌年には、家業を継ぐために中退して帰郷しました。家業のかたわら独力でできる学問として、数学を選び、林鶴一の指導で本格的研究を始めます。
 持船が沈没したのを機会に、家業をたたむ決心をし、全てを売り払い、1911年(明治44)に、新設の東北帝国大学理科大学数学科助手となりました。1916年(大正5)に東北帝国大学理科大学より微分幾何の研究「保存力場における経路」で理学博士を授与され、1917年(大正6)には大阪に移り、大阪医大に新設の塩見理化学研究所の研究員となります。
 1920年(大正9)にフランスへ留学し、「相対性理論」を研究、1922年(大正11)には帰国し、大阪医科大学予科教授となり、実用数学を講義しました。1923年(大正12)に『図計算及び図表』、1924年(大正13)に『数学教育の根本問題』、1925年(大正14)に『統計的研究法』を刊行し、同年には塩見理化学研究所の所長となります。
 1932年(昭和7)に大阪帝国大学理学部講師となり、『数学教育史』を刊行、唯物論研究会の発起人の一人ともなりました。1933年(昭和8)には、野呂栄太郎、平野義太郎等編『日本資本主義発達史講座』第4巻第2部資本主義発達史に自然科学史第1編数学史を執筆しています。
 1936年(昭和11)に「自然科学者の任務」を発表して軍国主義に反対、翌年には、塩見理化学研究所の所長を辞め、東京に移住し著作活動に入り、評論集『科学的精神と数学教育』を刊行し、唯物史観に基づく数学史の研究を進めました。1940年(昭和15)に東京物理学校理事長となり、『日本の数学』を刊行しましたが、1943年(昭和18)には、大阪帝国大学理学部講師と東京物理学校理事長を辞めています。
 太平洋戦争後は、1946年(昭和21)から民主主義科学者協会会長、1948年(昭和23)から日本科学史学会会長、1951年(昭和26)から数学教育協議会会長などの要職を歴任しました。1956年(昭和31)に『近代日本の数学』で第10回毎日出版文化賞を受賞、翌年には第6回平和文化賞を受賞しています。
 1962年(昭和37)に日本数学史学会(和算研究の組織算友会が改称)会長となったものの、同年10月21日に東京において、77歳で亡くなりました。
 以下に、小倉金之助著『自然科学者の任務』を全文掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇小倉金之助の主要な著作

・『図計算及び図表』(1923年)
・『数学教育の根本問題』(1924年)
・『統計的研究法』(1925年)
・翻訳『カジョリ初等数学史』(1928年)
・『数学教育史』(1932年)
・『数学史研究』第1集(1935年)
・評論集『科学的精神と数学教育』(1937年)
・『日本の数学』(1940年)
・『数学史研究』第2集(1948年)
・『近代日本の数学』(1956年)毎日出版文化賞受賞

☆小倉金之助関係略年表

・1885年(明治18)3月14日 山形県飽海郡酒田町(現在の酒田市)において、回漕問屋を営む、父・小倉末吉、母・里江の長男として生まれる
・1890年(明治23) 山形県酒田高等尋常小学校へ入学する
・1894年(明治27)10月 庄内大地震で家は焼失、小学校は倒壊する
・1898年(明治31) 小学校を卒業し、山形県荘内私立尋常中学校(現在の鶴岡南高校)へ入学する
・1902年(明治35) 山形県立荘内中学校を退学し、東京物理学校全科に入学する
・1905年(明治38) 東京物理学校全科を卒業し、東京帝大理科大学化学科選科へ進む
・1906年(明治39) 東京帝大理科大学化学科選科を家業を継ぐために中退する
・1911年(明治44) 新設の東北帝大理科大学数学科助手となる
・1916年(大正5) 東北帝国大学理科大学より微分幾何の研究「保存力場における経路」で理学博士を授与される
・1917年(大正6) 大阪に移り、大阪医大に新設の塩見理化学研究所の研究員となる
・1920年(大正9) フランスへ留学し、「相対性理論」を研究する
・1922年(大正11) 帰国し大阪医科大学予科教授となり、実用数学を講義する
・1923年(大正12) 『図計算及び図表』を刊行する 
・1924年(大正13) 『数学教育の根本問題』を刊行する 
・1925年(大正14) (財)塩見理化学研究所の所長となり、『統計的研究法』を刊行する
・1932年(昭和7) 大阪帝国大学理学部講師となり、『数学教育史』を刊行、唯物論研究会の発起人の一人となる
・1933年(昭和8) 野呂栄太郎、平野義太郎等編『日本資本主義発達史講座』第4巻第2部資本主義発達史に自然科学史第1編数学史を執筆する 
・1936年(昭和11) 「自然科学者の任務」を発表、軍国主義に反対する
・1937年(昭和12) (財)塩見理化学研究所の所長を辞め、東京に移住し著作活動に入り、評論集『科学的精神と数学教育』を刊行する
・1940年(昭和15) 東京物理学校理事長となり、『日本の数学』を刊行する
・1943年(昭和18) 大阪帝国大学理学部講師と東京物理学校理事長を辞める  
・1946年(昭和21) 民主主義科学者協会会長となる
・1948年(昭和23) 日本科学史学会会長となる
・1950年(昭和25) 民主主義科学者協会会長を辞任する
・1951年(昭和26) 数学教育協議会会長となる
・1953年(昭和28) 数学教育協議会会長を辞任する
・1956年(昭和31) 『近代日本の数学』で第10回毎日出版文化賞を受賞する
・1957年(昭和32) 第6回平和文化賞を受賞する
・1962年(昭和37) 日本数学史学会(和算研究の組織算友会が改称)会長となる
・1962年(昭和37)10月21日 東京において、77歳で亡くなる

〇『自然科学者の任務』小倉金之助著 「中央公論」昭和11年12月号所載

 はしがき
この小篇は、わが国に於ける自然科学の進展のために、私一個人としての立場から、種々の制約の下に許される限度に於て書かれた、一つの覚書である。整頓した論文ではなく、寧ろ自己を反省、批判したところの、率直なる感想録とも云うべきものである。それで現在の日本に於て実践の不可能と思われるような議論は、一切しなかった積りである。
 本文中、「自然科学者」の名の下に批判されるものは、自然科学者中の、云わば、典型的乃至平均的なる人々である。そこには例外を許すこと勿論である。
 私は狭隘ながらも、過去三十年間の見聞によって、一々論証し得る実際の材料を、相当豊富に持っているのであるが、それは他日の歴史的研究に譲り、この小文では示さないことにした。本文の目的は、何よりも先ず、わが先輩同僚たる自然科学者の反省を乞い、新なる協力を希望する点に存するのであるから、個人を傷つけるようなことは、絶対的に慎しんだつもりである。

 一
近代の自然科学は、生産技術の発展につれ、資本主義の成長と共に、順調なる発達の途を辿が、併し理論・技術の自らなる進歩につれて、自然科学者の仕事にも、微細なる専門的分裂が行われて来た。 「科学の唯一の目的は人間精神の名誉にある」 (ドイツのヤコビ)とか、 「数学は詩である」(イギリスのシルヴェスター)とか、或はまた「自然に悦びを感ずればこそ自然を研究する」 (フランスのポアンカレ)とか、斯る誇りを以て研究をつづけた時代は、今や漸く去らんとしている。
 現代に於ては、宛も工場労働者が、云わば自働機械となり果てて、彼等自身がその一部分を形成するところの、生産機構全体について無知であるように、自然科学の極端なる専門化は、科学者をして、彼等の活動の相互的聯関を見失わせるに至った。この意味に於ては、 「自然科学者」などは最早や存在しない。存在するものは、数学者、物理学者、化学者、等々ばかりである。否最新の段階にあっては、「数学者」なるものさえも、存在するか疑わしい。そこにあるものは、ただ代数学者であり、幾何学者である、等々。
 かような専門的畸型化は、自然科学の研究上必要なのであり、その専門的狭隘性の故を以て、決して徒らに非難せらるべきものではないのである。何故なら、自然科学に於ては、一見細微と思われるような特殊研究の深化から、価値高き理論が生れ、広大なる技術的改善を促す場合も、多々存在するのであるから。それ故に、かかる専門的畸型児も、現代に於ける必然的所産であり、科学の進展上、極めて重要の地位を占めることは、当然と言わねばならない。否吾々が何等かの程度に於て畸型化しない人間ならば、現代に於ては専門科学者と呼ばれるに値しないだろう。
 しかしながら、かかる「職業の白痴」は、科学者でありながら、一方科学的精神の容易に浸潤しない、精神的空虚を持つている。彼等はその専門を一歩出ずれば、最も非科学的なる迷信に囚われる。彼等は自己の専門的研究が演ずべき社会的役割についての意識を持たない。自らの身を守るためには、単なるエゴイストに化する。(それなればこそ、権力あるものに取っては、自然科学者ほど取扱易いものはないのである。)現代の社会機構の下にあっては、何等かの強い刺戟を受けない限り、自然科学者は、最善の場合に於ても、個人主義的自由主義者に終るのが、常道であったであろう。

 しかしながら、ファッシズムの嵐が暴れ狂いはじめた時、ヨーロッパの良心的なる科学者は、彼等自らの立場に於て、自覚せざるを得なかった。― ― ―見よ。ナチス・ドイツ(嘗てのヤコビの国)の科学政策は、科学の国際性の代りにドイツ精神を極度に誇張し、多数の自然科学者を放逐し、科学教育をして軍事的色彩を帯ばせているではないか。またイタリアにあっては、古典的精神の旗の下に、中等教科としての自然科学を虐待し、理科課程をして殆んど全滅に瀕せしめ、数学科を古典数育の精神に於て行わせる。これ即ち大衆をして、無知無識に陥し入れるものではないのか。― ― ―
 リベラリズムの長き伝統を負い、科学文化の根抵固きイギリス及びフランスの、良心的なる自然科学者は、本能的にファッシズムの敵であった。今や彼等は社会的に目覚めたのである。
 即ちフランスにあっては、一団の科学者― ― ―その中には現代第一流の科学者(ポアンカレの同僚)アダマール(数学) 、ランジュヴァン(物理学) 、ペラン(化学)等々を含む― ― ―が、反文化主義に抗して戦っている。保守を以て知られるイギリス(嘗てのシルヴェスターの国)に於ても、ケンブリッジに於ける諸科学者の宣言として、既に
 「科学の国際性獲得のために、妄言又は非科学的なる声明に抗するために、平和を望む總ての科学者によって、社会が護られなければならない。」
ことが、公表されたのであった。

 ファッシズムの嵐の襲来は、併しながら、外国のみのことではなかった。今やわが日本に於ても、わが国に特徴的な型を辿りつつ、反文化主義が刻々迫らんとしている。しかも此の危機を目前にしながら、わが自然科学者は如何なる態度を採っているか。
 彼等の談話を聞き、また所謂科学随筆の類を読む毎に、私は常に或る物足らなさを感じる。苟も現代の知識階級人ならば、何人にも共感すべき性質の根本問題に対して、彼等は甚だしく無感覚なるかの如くである。吾々は彼等から得手勝手な社会観や人生観を聴かされるが、それは彼等の思想の貧困を告白するものではあっても、決して彼等の思想の自由を意味するものではないと思う。矛盾だらけのもの、反動的のもの、非科学的のもの― ― ―これ等一切の低級なるものが、最新科学からの結論であると称して、聴かされる。そして反知主義に対する闘争の如き、科学者自身に取っても、真剣なるべき諸問題に触れることは、故意にこれを避けているかの如くである。
 これが果してわが自然科学者の典型的態度なのであろうか。われわれ日本人は、軍人としては、あんなにも勇敢なのに、自然科学者としては、こんなにも無気力なのであろうか。
 この疑問に答えるために、私は日本自然科学の特徴について、幾分かの歴史的考察を加えながら、多少の分析を試みようと思う。

 二
 明治維新の暁に際し、わが国に於ける根本的課題の一つは、日本を お如何にして先進諸国に追付かせるかの問題であった。それがために、わが政府は日本の急速なる資本主義化に向って、力を集注した。その意味に於て、自然科学は盛に移植され、熱心に奨励されたのである。しかしながら爾来、日本資本主義の発展は、ひとりわが生産力の順調なる進展によるもの許りではなかった。それは先ず内には、所謂半封建的とも呼ばれる所の、農村を基礎としていた。そして外には、戦争による植民地の獲得等を諸條件として、急激に拍車を加えたところの発展であった。それが為めに、わが社会機構の中には、封建的残滓が含まれているし、自由主義の如きは、十分なる育成を遂げ得なかった、かかる経済的・社会的・政治的状勢を反映して、自然科学の発達そのものの上にも、先進諸国のそれとは幾分趣を異にするものがある。
 かくて日本に於ける自然科学 お乃至科学界の特殊性として、次のものが挙げ得られよう。 
(1) わが国の後進性のために、移植科学としての模倣性が濃厚である。そのために科学的知識の理解が主となって、創造的分子が少い。知識の集成ではあり得ても、自ら科学するための科学的精神が、十分なる涵養・発達を途げていない傾向を持つ。
 勿論わが国にも、尊敬すべき独創的諸研究が現われたことは、争うべからざる事実ではあるが、しかし其れ そ等の多くは局部的である。公平に見て、真に諸分科の基礎となる研究が、果してどれ ら丈け行われたか、また現に行われつつあるかに就いては、大に検討の つ餘地がある。 よち動もすれば一部の流行を追うて、他の諸方面に於ける基本的研究を忘れる お如き偏向性がなかったとは、決して言い得ないであろう。
(2) しかも近代科学移植の日が未だ浅く、確乎たる科学の伝統を持たない。 (尤も、徳川時代に於ける和算や本草学などがあるけれども、これ等は、少くとも今日の現状では、現代日本の科学的伝統中に入らないと見做す方が、公平な観察であろう。 )のみならず日本資本主義の跛行的進展のために、国民大衆特に農民の如きは、未だ身を以て、十分に科学文化に接触していない。科学文化は、根抵的には、未だ十分に普及していないのである。その結果として、国民大衆のみならず、科学者それ自身に取っても、現実の事象に対する科学的考察について、未熟なるを免れ得ないであろう。
(3) 今日は、軍事関係の諸科学が、著しく偏重されているが、それは併し、決して今日に始まったことではなかった。軍事科学の偏重は、幕末・明治以来のことであり。それは日本資本主義の成立・発展の上に、重大なる役割を演じたものである。
 しかし一面に於て、軍事科学は其の性質上、多くは不生産的のものたるを免れない。それは研究の秘密性と相俟って、それに投ぜられる巨大の経費は、科学全般の進展上、効果的であるよりも、寧ろそれに跛行性を与える。これと類似のものに、資本家の独占的・非公開的なる技術的研究がある。そして大資本家や軍部のためには、各種科学研究機関のラボラトリーは開かれても、大衆のためには、ラボラトリーは勿論、図書館さえも(専門的のものは) 、多くは閉鎖されている。
(4) 明治維新の後、自然科学が官立諸学府の下に於て、研究され独占されて以来、一方では研究設備費の関係上、民間の学校としては有力なもの少く、研究所と雖ども、大学系か半官半私的のものでなければ、学問的には殆んど発展し得ない状態にある。
 かくてわが自然科学は、官僚系以外に於ては、殆んど育成されなかった、従って今日に及んでも。大学竝に自然科学者の間には、濃厚なる官僚性が漂うている。
 その結果として、わが自然科学界に於ては、科学批判が封鎖された。もし万一にも、単なる讃美以外の批判が出現するならば、たとえ如何に合理的なものであっても、それは忽ち異端視される。― ― ―それほどにも封建的なのが、わが自然科学界である。
(5) しかし勿論官僚系といえども、その間に内部的な摩擦がない訳ではない。それは学閥その他のブロックの対立として現われる。しかもそれ等の閥は、何等か学問的な系統上の団結と云わんよりは、寧ろ、正に封建的なるギルド性を聯想させるものである。そこには縄張りがあり、親分が居り、偶像が生れて来る。
 正しい意味での討論や批判を封じられた自然科学の世界にあっては、「批判」は悪口と見倣され、「討論」は喧嘩と解される。もし仲間賞め以外に、何等かの論争ありとすれば、それは多くは閥のために、親分のためにするところの、情実・感情によるものであって、理論の前進性を持たないものが多いのである。
 かくて自然科学者の闘争― ― ―それも陰口であって、公開的な論争によらざる所の― ― ―は、真理を求めるためにあらずして、閥のためとなる。科学研究の国際化のために、科学の大衆への解放のために、国民大衆の生活の改善と幸福の増進のために、戦うにあらずして、地位の競争に向う。大多数の自然科学者は、滔々として、エゴイストと化し終らざるを得ない。

 三
 かような事態の上に、今やファッシズムの重圧が加わり来たったのである。
 今日何人と雖ども、わが国防の重大性について、意識を持たないものはない。しかし軍事科学、軍需工業及びそれ等に親密の関聯あるものが、極度に重視された結果として、直接にはそれ等に無関係な一切の自然科学の研究が、餘りにも軽視される。「科学日本」などと誇称しながらも、学問としては一層根本的であり、且つ重要な諸科学の研究費が、如何に貧弱化せるかを見るがよい。技術者の需要は盛であるが、しかしそれは生産の如何なる部門に向うものなるかを調査するがよい。
 大学以外の諸学校に於ける研究費の、絶望的なる貧困化は、若き学徒をして、無気力なる教師化しつつある。大学に於てさえも、今や研究家よりも単なる教師化・技師化への傾向を
辿らんとしつつあるかに見える。
 自然科学を専攻せる青年の大多数は、霊を失える技術者か、無気力なる教師か、然らざれば失業者たらねばならない。彼等の前途は暗い。そこには科学の光も、創造の喜びも、皆無なるかの如くである。
 かかる所にやって来たのが、所謂「文化統制」であり、「知識偏重論」であった。
 事ここに及んでは、如何なる人といえども、現代日本の科学の意味について、また其の前途について、深い疑問を抱かざるを得ないであろう。勿論吾々と雖ども、日本の現状にあっては、或る統制の必要を感じている。しかし其れは、政治的・社会的混乱と、そこから来る不安とを学間・文化の発展を目指すところの進歩的な線に沿って、整調するものでなければならぬ。しかるに我が科学政策の如きは、寧ろこれと対蹠的な方向を指すものではないのか。殊に知識偏重論の如きは、究極に於て、大衆の解放を犠牲にする方向に進むところの、反動的政策として以外には、考え得られないのである。
 さて、かかる反科学主義が許すべからざる以上、その抗争の任に当るべきものは誰か。それは何よりも先ず、科学者その人でなければならない筈である。
 しかるに自然科学者の中には、多年来の慣習による半封建的官僚性のために、文政当局の意見を以て、何か国家そのものの絶対的命令なるかの如く心得、その政策を研究し批判することを以て、何か非愛国的行為だと、考えている人々があるかの如く思われる。かような政府への盲従と、真の愛国との混同。― ― ―そこには官僚としての意識こそあれ、どこに科学者としての面目があるのか。科学に於ける分析とは、そもそも何なのか。
 しかし世には斯様な科学者ばかりでもあるまい。苟も常識ある人間ならば、所謂科学政策の矛盾に気付かない筈はない。その矛盾を知りつつも、何等の批判もせず、知らぬ顔をしているところに、自然科学者のエゴイズムがあるのだ。哲学者田邊元博士が、
 「自己専門の研究に於ては顯著なる業績を挙げて居る人々が、専門以外の一般の事物に就き全く科学的思考を適用することを知らず……、況んや社会機構の缺陥に注意を向け、其由来を実証的に認識せんとする如き要求を全然缺如し、ただ自己の研究に必要なる研究費さえ豊富に支給する政府であるならば、他に如何なる不合理を行うも敢て関知する所でないとする……」[1]
との指摘は、全く正しいと言わねばならない。
 然らば吾々は、ただ屈従の外に途はないのであるか。権力への屈服は、日本自然科学者の宿命でもあり、乃至国民性でもあるのか。
 断じて否。それは いな畢竟、前述の ひっきょう如く、明治維新以来のわが社会機構を反映しているに過ぎないのだ。― ― ―われわれ日本人は、徳川封建時代に於ける、蘭学者の尊い伝統を持っている。科学擁護の声は、自然科学者の間から、未だ力強く叫ばれてはいない。けれどもその機運は既に熟している。日本文化のため、日本科学のため、今こそ良心ある自然科学者の立つべき時である。
 [1]「科学政策の矛盾」 (『改造』昭和十一年十月号)

 四
 しかしながら反科学主義との強力的なる抗争は。個人の力のよくする所でない。吾々は精神的に団結せねばならぬ。この困難な時代こそ、従来の如き、非科学的な内部闘争を清算し、感情的な諸対立を去って、協力一致せねばならない秋ではないか。知識の協力が、今日ほど望ましい時はないのである。
 しかも吾々の問題は、決して単に自然科学的に解決し得られる性質のものではない。問題は. 一方自然科学と関聯しながら、実は社会的なのだ。吾々は先ず社会的現実に対して、正しい認識を得ねばならぬ。それには自然科学者自らが、少くとも或る程度まで、社会を研究し、社会の科学を学び取らなければならない。実はこの点こそ、従来の自然科学者の最も弱味とする所であったのだ。
 例えば今日、軽卒浮薄なるジャーナリズムの波に乗って、徒に「躍進科学日本」などと誇称するのは。果して真面目な科学者の採るべき態度であろうか。この誇称の裏には、健全なる科学諸分科の研究が、今日犠牲にされてはいないか、また国民大衆の幸福が果して阻害されてはいないかを、十分に検討せねばならないだろう。
 現にイギリスの有力なる自然科学者の一団は、
 「今日の自然科学は、人類の幸福を増進するという、自然科学本来の目的に向って進んではいない。それは、人類の不幸を益々増大させる(戦争、失業、等々によって)ために利用されている。かような『自然科学の徒労』の原因は、現在の社会機構にある。吾々自然科学者は、人類の真の幸福を増進するために、社会に対する甚深の関心を持たねばならない。」
と、主張しているではないか。
 それのみでは無かった。自然科学と社会科学とは、その対象を異にし、また其の研究方法に於ても、異なるものを持つに拘わらず、この両者が互に緊密なる関聯に於てあることは。周知の通りである。この意味に於て、科学の進展上、自然科学者と社会科学者とは、共同連帯的なる責任を持っているのである。
 少し不適当かも知れないが一例を引こう[1]。本年八月開催のイギリス(バンガローア)の化学会に於ては、全会員の名によって、次の意味の決議がなされた。
 「本会は、人類共通の本能に反する戦争を阻止するための、一切の団体的努力― ― ―その主要目的を、戦争それ自身の廃止に置くところの― ― ―を支持する。この目的を達するために、本会は、思想家と自然科学者の側に於ける。不断の勇敢なる活動を激励する。特に彼等が、新しい経済的諸條件― ― ―それは必然的に科学研究の進歩を伴うところの― ― ―の研究に対して、より多くの注意を払われることを切望する。……」
 思想家と自然科学者との共同研究が要望されるのは、ひとりイギリスのみには止まらないのである。わが日本にあっても、自然科学の発展を阻害するところの、真の原因を正しく認識し、自然科学研究の自由を獲得するためには、必然的に社会科学者との共感的握手を要する。このことなくしては、到底正しい「科学政策」も、発見される筈はないのである。
 それのみではない。一方に於ては、斯る精神的同盟こそ、社会科学の研究そのものをも、一層正しく進展させる所以なのだ。
 [1]誤解を避けるために一言しておくが、私は必ずしも非戦論に左袒するものではない。この一文は、決して非戦論に左袒するが為めに、引用したものでないことを、茲にハッキリと明言しておく。

 五
 それと同時に、吾々は科学研究の途を阻害しつつある所の、自然科学界内部の弊害を一掃するために、正しい科学批判が、力強く行われねばならないと思う。
 この重大なる時機に於て、徒に学閥やエゴイズムによる内部闘争の如きは、何よりも先ず自ら反省され、清算されなければならない。所謂「大学の顛落」と呼ばれるものは、恐らくは独り社会科学方面のみには限らないのである。象牙の塔は硬化しつつある、然らざれば腐敗しつつある。しかも批判を封じられた世界に残るは、ただ保守と反動あるのみであり、そこに若く優れた才能は亡び、新しい思索は阻まれる。
 実は斯る検討は、科学的研究に於ても、また社会的実践に於ても。十分に鍛錬された科学者その人の手によって、遂行されるが最も望ましい。しかし、それは事実殆んど不可能に属する。老練の士は、多くは保守的か反動的であり、しかも彼等は各自一党の親分である。
 之に反して、今日漸くジャーナリズムの舞台に登らんとする所謂科学批判は、新鮮であり進歩的ではあるが、一般的には、未だ餘り公式的なる抽象論たるに止まる。日本に於ける科学界の歴史的事情にも通ぜず、現実の内容についても、実際に深く知らざる人々の、性急なる論議は、たとえ正しい線に沿っていても、一般科学者からは、正しい批判と思われずに、偏向的歪曲と誤解され、却って其の反感を買うようになる恐れがある。
 実に今日ほど、正しい意味での科学批判が要望される時はないのである。一方では徒なる仲間賞めを止め、現実の事情に迂い議論を捨て、好意あって而も厳密なる批判が望まれる。勿論戦うべきことは飽くまでも戦わねばならないが、この際必要なのは、徒に反撥的な論調ではなくして、静かな、温かい、そして十分に厳格な、科学的なる議論である。
 永い将来にかけての根本的なる改革問題と、現実に於ける一歩前進のための改造問題とは、勿論その間の関聯については十分に注意を払いながらも、一応は切り離して究明されなければならない。徒に性急な批判は、たとえ正しい意図の下に行われたとしても、それは客観的には、非歴史的・非科学的なる、無責任な暴論と化することもある。真に望ましきは、実現性を持つところの、進歩的な、そして親切な指導方針である。
 科学批判の範囲は広く、その課題は多い。それは殆んど未開の処女地であると云っても、よいかも知れない。吾々は科学の周囲を繞る諸間題から、科学諸部門の内部に対する検討に至るべきであり、また独り現在の問題のみに限らない。現在への関聯を考察しつつ、わが科学界の過去の遺産についての厳密なる再検討の如き、最も緊要の題目たるを失わないと思う。
 また間題の取上げ方、その観点が改められなければならない。例えば入学試験は、わが教育の最大の禍根であると云われる。それほどにも重大性を持つところの、試験制度と試験問題とは、単に文政当局者や父兄及び関係学校教師間の問題たらしめず、一個の厳粛なる社会的・科学的課題として、批判され研究されねばならないであろう。
 特に重要なるは、大衆の科学教育の問題である。この困難な課題は、溢れんばかりの科学的精神によって書かれた啓蒙的科学書の普及、地方博物館の増設、等々の如き方法によっても、― ― ―勿論それ等は相当有効ではあるが― ― ―根本的には、決して解決されるものではない。吾々に許される範囲内では、甚だ不十分ながらも、矢張り学校課程としての科学教育の改造こそ、最も基本的なことだと、私は確信する[1]。この点に就いては、特に進歩的なる専門科学者の、有力なる協同研究に待たねばならない。
 科学の発達と大衆の幸福とは、相関的でなければならぬ。国民大衆の温かなる支持・後援なくして、どうして科学研究の進展が遂行され得よう。
 [1]私は「数学教育の意義は科学的精神の開発にある」となし、その趣旨によって、 『数学教育の根本問題』(大正十三年、イデア書院、後には玉川学園出版部)を書いた。今日から見れば、まことに缺陥の多い書ではあるが、この際に、読者の再検討に接するを得ば幸である。
 究極に於て、自然科学者は、個人として、また社会人として、その自らの研究に、また日常の行動に、深く実証的精神と合理的精神とが、発揮されなければならない。それが為めには、今日清算されねばならぬ多くのものを持つ。吾々は自然科学者同志の、竝びに、社会科学者との提携によって、厳正なる科学批判を行いつつ、一歩一歩前進しなければならない。ここに現下に於ける自然科学者の任務がある。
 かくの如き自然科学者は、何よりも先ず、身を以て科学的精神に徹しなければならない。
 科学的精神は、 過去の科学的遺産を謙虚に学びながら、 しかも絶えずこれを検討して、 より新なる、より精緻な事実を発見し、より完全なる理論を創造する精神である。それは偏見とは、凡そ対蹠的のものである。それ故に科学者自身にとっては、精神の自由な状態に置かれなければならぬ。
 そこには一切の偶像を認めない、そこには強烈な批判的精神が働かねばならぬ。それは飽くまでも真実を追求する不撓の魂であり、何よりも先ず真理に徹底する精神である。不徹底に甘んじたり、何等かの権力のために事実を歪曲したりすることは、断じて科学的精神に悖るところである。
 かくて吾々の科学者は、この意味に於て、本能的に精神の自由を愛する。吾々の科学者は、真理を追求し、真理を語るの勇気がある。吾々の科学者は、この意味に於て、本来ラジカリストである。
   (1936・11・8)
 
   『中央公論』昭和11年12月号所載

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itoukiyoshi01

 今日は、平成時代の2008年〈平成20〉に、数学者伊藤清の亡くなった日です。
 伊藤清(いとう きよし〉は、大正時代の1915年〈大正4〉9月7日に、三重県員弁郡北勢町(現在のいなべ市)で生まれ、三重県立神戸中学校、第八高等学校を経て、東京帝国大学に入学しました。1938年(昭和13)に東京帝国大学理学部数学科を卒業、大蔵省に入省、銀行局に配属され、翌年に内閣統計局に配転されます。
 1942年(昭和17)には、数学誌に論文「マルコフ過程を定める微分方程式」を発表し、「確率積分」の概念を定式化しました。1943年(昭和18)に、内閣統計局を退官し、名古屋帝国大学助教授となり、1945年(昭和20)には、東京帝国大学より、「確率過程について」で理学博士の学位を取得します。
 1952年(昭和27)に名古屋大学を退官して京都大学教授となり、米国プリンストン高等研究所研究員(1954~56年)、米国スタンフォード大学教授(1961~64年)、デンマークオーフス大学教授(1966~69年)、米国コーネル大学教授(1969~75年)を併任しました。1976年(昭和51)に京都大学数理解析研究所所長、日本学術会議会員となり、翌年に朝日賞を受賞、1978年(昭和53)には、「確率微分方程式の研究」で、日本学士院恩賜賞を受賞します。
 1979年(昭和54)に京都大学を退官し、京都大学名誉教授、学習院大学理学部教授、日本数学会理事長となり、1981年(昭和56)には、パリ第6大学名誉教授ともなりました。1985年(昭和60)に学習院大学を退職しましたが、同年藤原賞受賞、1987年(昭和62)にチューリッヒ工科大学名誉教授、ウルフ賞数学部門受賞、1989年(平成元)にフランス学士院外国人会員、1991年(平成3)に日本学士院会員、1995年(平成7)にモスクワ数学会名誉会員、1998年(平成10)に米国科学アカデミー外国人会員、京都賞基礎科学部門受賞など数々の栄誉に輝きます。
 さらに、2003年(平成15)に文化功労者となり、2006年(平成18)に第1回ガウス賞受賞、2008年〈平成20〉には文化勲章も受章しました。確率微分方程式を創始し、確率解析の基礎を築き、生物学・金融工学など多分野で使用されるようになりましたが、2008年〈平成20〉11月10日に、京都において、93歳で亡くなっています。

〇伊藤清の主要な著作

・『確率論の基礎』(1949年)
・『確率論』(1953年)
・『確率過程』1、2(1957年)
・『拡散過程』渡邊信三、福島正俊共著(1960年)

☆伊藤清関係略年表

・1915年〈大正4〉9月7日 三重県員弁郡北勢町(現在のいなべ市)で生まれる
・1938年(昭和13) 東京帝国大学理学部数学科を卒業、大蔵省に入省。銀行局に配属される
・1939年(昭和14) 内閣統計局に配転される
・1942年(昭和17) 数学誌に論文「マルコフ過程を定める微分方程式」を発表し、「確率積分」の概念を定式化する
・1943年(昭和18) 内閣統計局を退官し、名古屋帝国大学助教授となる
・1945年(昭和20) 東京帝国大学より、「確率過程について」で理学博士の学位を取得する
・1952年(昭和27) 名古屋大学を退官し、京都大学教授となる
・1954年(昭和29) 米国プリンストン高等研究所研究員となる
・1961年(昭和36) 米国スタンフォード大学教授となる
・1966年(昭和41) デンマークオーフス大学教授となる
・1969年(昭和44) 米国コーネル大学教授となる
・1976年(昭和51) 京都大学数理解析研究所所長、日本学術会議会員となる
・1977年(昭和52) 朝日賞を受賞する
・1978年(昭和53) 「確率微分方程式の研究」で、日本学士院恩賜賞を受賞する
・1979年(昭和54) 京都大学を退官し、京都大学名誉教授、学習院大学理学部教授、日本数学会理事長となる
・1981年(昭和56) パリ第6大学名誉教授となる
・1985年(昭和60) 学習院大学を退職、藤原賞を受賞する
・1987年(昭和62) チューリッヒ工科大学名誉教授、ウルフ賞数学部門を受賞する
・1989年(平成元) フランス学士院外国人会員となる
・1991年(平成3) 日本学士院会員となる
・1995年(平成7) モスクワ数学会名誉会員となる
・1998年(平成10) 米国科学アカデミー外国人会員、京都賞基礎科学部門を受賞する
・2003年(平成15) 文化功労者となる
・2006年(平成18) 第1回ガウス賞を受賞する
・2008年〈平成20〉11月3日 文化勲章を受章する
・2008年〈平成20〉11月10日 京都市において、93歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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1951年(昭和26)日教組が第1回全国教育研究大会を開催する詳細
1982年(昭和57)中央自動車道の勝沼IC~ 甲府昭和IC間が開通し、東京都杉並区と愛知県小牧市が繋がる詳細


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