ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:教育者

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 今日は、明治時代後期の1897年(明治30)に、哲学者・啓蒙思想家・教育者西周の亡くなった日です。
 西周(にし あまね)は、江戸時代後期の1829年(文政12年2月3日)に、石見国津和野藩(現在の島根県津和野町)の御典医の家柄だった父・西時義の子として生まれましたが、幼名は経太郎(のち周助)と言いました。幼少より学問を好み、1841年(天保12) から藩校・養老館で蘭学を学び、藩主の許しを得て医家より儒者に転じ、大坂・岡山遊学を経て藩校養老館の教官となります。
 1853年(嘉永6年)に江戸詰となりましたが、ペリー来航の情勢のなかで洋学へ転じ、翌年には洋学に専念するために脱藩し、手塚律蔵の塾に学び、中浜万次郎に英語を学びました。1857年(安政4)に蕃書調所の教授並手伝となり、1862年(文久2)には幕命で津田真道・榎本武揚らと共にオランダに留学、ライデン大学でシモン・フィッセリングに師事し、法学、経済学、統計学などを学びましたが、J.S.ミル,A.コントの哲学に共鳴し、1865年(慶応元年)に帰国します。
 1866年(慶応2)に開成所教授に昇進、1867年(慶応3)の大政奉還の前後に、三権分立・議会制度などを採用した幕政革改案を提出、翌年に徳川家によって開設された沼津兵学校初代校長に就任、同年に『万国公法』の訳刊もしました。1870年(明治3)には、明治新政府の命により東京に移って兵部省に出仕し、近代軍制の整備にあたり、1880年(明治13)には『軍人勅諭草案』を著します。
 一方で、1873年(明治6)に森有礼、福澤諭吉らと共に明六社を結成、翌年には機関紙「明六雑誌」を発行、功利主義に基づく倫理思想を展開した『人世三宝説』等の論文を寄稿、「哲学」、「真理」、「芸術」、「理性」など多くの哲学用語を訳出し、西洋哲学の紹介と啓蒙思想の普及に努めました。1881年(明治14)に獨逸学協会学校(現在の獨協中学校・高等学校)の創立に参画、東京師範学校の校務嘱託ともなり、1883年(明治16)には獨逸学協会学校の初代校長に就任しています。
 また、東京学士会院会長、元老院議官、貴族院議員などを歴任したものの、体調を損ね、1892年(明治25)には神奈川県大磯の別邸に移りました。1897年(明治30)に勲一等瑞宝章を受章、男爵ともなりましたが、同年1月31日に大磯の別邸において、数え年69歳で亡くなっています。

〇西周の主要な著作

・訳書『万国公法』(1868年)
・訳書『致知啓蒙』J・S・ミル作(1874年)
・『百一新論』(1874年)
・訳書『心理学』(1875~76年)
・訳書『利学』J・S・ミル作(1877年)
・『百学連環』

☆西周関係略年表(明治5年以前の日付は旧暦です)

・1829年(文政12年2月3日) 石見国津和野藩(現在の島根県津和野町)の御典医の家柄だった父・西時義の子として生まれる
・1841年(天保12年) 藩校・養老館で蘭学を学ぶ
・1853年(嘉永6年) 江戸詰となる
・1854年(安政元年) 洋学に専念するために脱藩し、手塚律蔵の塾に学び、中浜万次郎に英語を学ぶ
・1857年(安政4年) 蕃書調所の教授並手伝となる
・1859年(安政6年) 医師石川有節の娘升子と結婚する
・1862年(文久2年) 幕命で津田真道・榎本武揚らとともにオランダに留学する
・1864年(元治元年) ライデンでフリーメイソンリーの「ラ・ベルトゥ・ロッジ・ナンバー7」に入会する
・1865年(慶応元年) 帰国する
・1866年(慶応2年) 開成所教授に昇進する
・1867年(慶応3年) 大政奉還の前後に、三権分立・議会制度などを採用した幕政革改案を提出する
・1868年(慶応4年) 徳川家によって開設された沼津兵学校初代校長に就任する
・1868年(慶応4年) 『万国公法』を訳刊する
・1870年(明治3年) 明治新政府の命により東京に移って兵部省に出仕する
・1871年(明治4年4月29日) 従六位となる
・1871年(明治4年7月28日) 正六位となる
・1871年(明治4年12月12日) 従五位となる
・1873年(明治6年) 森有礼・福澤諭吉・加藤弘之・中村正直・西村茂樹・津田真道らと共に明六社を結成する
・1874年(明治7年) 機関紙「明六雑誌」を発行する
・1874年(明治7年) 『百一新論』を出版する
・1874年(明治7年) J・S・ミル著による論理学書『致知啓蒙』を訳刊する
・1875年(明治8年) 功利主義に基づく倫理思想を展開した『人世三宝説』等の論文を「明六雑誌」に寄稿する
・1877年(明治10年) J・S・ミル著による『利学』を訳刊する
・1878年(明治11年)12月29日 正五位となる
・1880年(明治13年) 山県有朋の下で軍事政策にも参画し『軍人勅諭草案』を著す
・1881年(明治14年) 獨逸学協会学校(現在の獨協中学校・高等学校)の創立に参画する
・1881年(明治14年)6月23日 東京師範学校の校務嘱託となる
・1882年(明治15年) 元老院議官となる
・1882年(明治15年)6月30日 従四位となる
・1882年(明治15年)12月29日 勲三等旭日中綬章を受章する
・1883年(明治16年) 獨逸学協会学校の初代校長に就任する
・1885年(明治18年)10月1日 正四位となる
・1886年(明治19年)10月20日 従三位となる
・1887年(明治20年)7月21日 銀製黄綬褒章を受章する
・1887年(明治20年) 健康上の理由により文部省・陸軍省・学士会院会員の公職を辞職する
・1888年(明治21年)5月29日 勲二等旭日重光章を受章する 
・1889年(明治22年)11月25日 大日本帝国憲法発布記念章を受章する 
・1890年(明治23年)9月29日 貴族院勅選議員に任じられ、貴族院議員章を受章する
・1890年(明治23年)10月20日 錦鶏間祗候となる
・1891年(明治24年)2月17日 体の衰弱が著しくなり貴族院議員を辞職する
・1892年(明治25年) 神奈川県大磯の別邸に移る
・1894年(明治27年)5月21日 正三位となる
・1897年(明治30年)1月27日 勲一等瑞宝章を受章する 
・1897年(明治30年)1月29日 男爵となる
・1897年(明治30年)1月31日 神奈川県大磯の別邸において、数え年69歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1947年(昭和22)マッカーサーが、翌日から予定されていた「2.1ゼネスト」の中止を命令する詳細
1985年(昭和60)小説家石川達三の命日詳細


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 今日は、平成時代の2009年(平成21)に、日本画家・教育者平山郁夫の亡くなった日です。
 平山郁夫(ひらやま いくお)は、1930年(昭和5)6月15日に、広島県豊田郡瀬戸田町(現尾道市瀬戸田町)で生まれました。1943年(昭和18)に旧制広島修道中学(現修道中学校・高等学校)に入学し、1945年(昭和20)8月6日、3年在学中に勤労動員されていた広島市内陸軍兵器補給廠で原子爆弾に被災します。
 太平洋戦争後は、実家に近い旧制忠海中学(現在の県立忠海高等学校)に転校、1947年(昭和22)に東京美術学校(現在の東京藝術大学)に入学しました。在学中に前田青邨に師事し、1952年(昭和27)に卒業とともに同校助手となります。
 1953年(昭和28)の第38回院展で『家路』が初入選、1959年(昭和34)の第44回院展で、中国の唐代の僧,玄奘(三蔵法師)をイメージした『仏教伝来』が入選して注目を浴びました。1961年(昭和36)の第46回院展で『入涅槃幻想』、翌年の第47回院展で『受胎霊夢』、『出現』が日本美術院賞(大観賞)を連続受賞し、1964年(昭和39)には最年少で日本美術院同人となります。
 1966年(昭和41)に、東京芸術大学第1次中世オリエント遺跡学術調査団に参加し、翌年には法隆寺金堂壁画再現模写事業に従事、シルクロードに思いを馳せて、中国や中央アジア、アフガニスタンなどを度々訪れるようになります。
 1970年(昭和45)に日本美術院評議員となり、1973年(昭和48)には高松塚古墳壁画の現場模写に従事、東京藝術大学美術学部教授にも就任しました。1976年(昭和51)に「平山郁夫シルクロード展」が開催され、日本芸術大賞を受賞、1978年(昭和53)の第63回院展で『画禅院青邨先生還浄図』が内閣総理大臣賞を受賞します。
 1981年(昭和56)に日本美術院理事となり、1988年(昭和63)にユネスコ親善大使に就任、翌年には東京藝術大学学長に就任(1995年まで務める)して、国内外の文化財の保護にも尽くすなど、多方面で活躍しました。それらによって、1993年(平成5)に文化功労者、1995年(平成7)にモンブラン国際文化賞、1996年(平成8)に日本美術院理事長、1996年(平成8)にレジオン・ド・ヌール勲章、1998年(平成10)に文化勲章、2001年(平成13)にマグサイサイ賞など数々の栄誉に輝きました。しかし、2009年(平成21)12月2日に脳梗塞のため東京都内の病院において、79歳で亡くなっています。

〇平山郁夫の主要な作品

・『家路』(1953年)院展(日本美術院展覧会)入選
・『仏教伝来』(1959年)佐久市立近代美術館蔵
・『入涅槃幻想』(1961年)第46回院展日本美術院賞(大観賞)受賞 東京国立近代美術館蔵
・『受胎霊夢』(1962年)第47回院展日本美術院賞(大観賞)受賞
・『出現』(1962年)第47回院展日本美術院賞(大観賞)受賞
・『仏説長阿含経巻五』(1964年)第49回院展文部大臣賞受
・『続深海曼陀羅』(1964年)第49回院展文部大臣賞受賞
・『画禅院青邨先生還浄図』(1978年)第63回院展内閣総理大臣賞受賞
・『祇園精舎』(1981年)足立美術館蔵
・『大唐西域壁画』(2000年)薬師寺玄奘三蔵院壁画

☆平山郁夫関係略年表

・1930年(昭和5)6月15日 広島県豊田郡瀬戸田町(現尾道市瀬戸田町)に生まれる
・1943年(昭和18) 旧制広島修道中学(現修道中学校・高等学校)に入学する
・1945年(昭和20)8月6日 勤労動員されていた広島市内陸軍兵器補給廠で原子爆弾に被災する
・1947年(昭和22) 東京美術学校(現在の東京藝術大学)に入学する
・1952年(昭和27) 卒業とともに同校助手となる
・1953年(昭和28) 第38回院展で『家路』が初入選する
・1959年(昭和34) 第44回院展で、中国の唐代の僧,玄奘(三蔵法師)をイメージした『仏教伝来』が入選する
・1961年(昭和36) 第46回院展で『入涅槃幻想』が日本美術院賞(大観賞)を受賞する
・1962年(昭和37) 第47回院展で『受胎霊夢』、『出現』が日本美術院賞(大観賞)を受賞する
・1964年(昭和39) 第49回院展で『仏説長阿含経巻五』『続深海曼陀羅』が文部大臣賞を受賞する
・1964年(昭和39) 日本美術院同人となる
・1966年(昭和41) 東京芸術大学第1次中世オリエント遺跡学術調査団に参加する
・1967年(昭和42) 法隆寺金堂壁画再現模写事業に従事する
・1970年(昭和45) 日本美術院評議員となる
・1973年(昭和48) 高松塚古墳壁画の現場模写に従事する
・1973年(昭和48) 東京藝術大学美術学部教授に就任する
・1976年(昭和51) 「平山郁夫シルクロード展」が開催される
・1976年(昭和51) 日本芸術大賞を受賞する
・1978年(昭和53) 第63回院展で『画禅院青邨先生還浄図』が内閣総理大臣賞を受賞する
・1981年(昭和56) 日本美術院理事となる
・1988年(昭和63) ユネスコ親善大使に就任する
・1989年(平成元) 東京藝術大学学長に就任する(1995年まで務める)
・1992年(平成4) 世界平和アピール七人委員会委員に就任する(2005年まで務める)
・1992年(平成4) 日中友好協会会長に就任する(2008年まで務める)
・1992年(平成4) 早稲田大学より名誉博士号を贈呈される
・1993年(平成5) 文化功労者に選ばれる
・1994年(平成6) 文化財保護振興財団理事長(現・文化財保護・芸術研究助成財団)に就任する
・1995年(平成7) モンブラン国際文化賞を受賞する
・1996年(平成8) 日本美術院理事長となる
・1996年(平成8) レジオン・ド・ヌール勲章を受章する
・1996年(平成8) 日本育英会会長就任する(2001年まで務める)
・1997年(平成9) 広島県豊田郡瀬戸田町(現在の尾道市)に「平山郁夫美術館」が開館する
・1998年(平成10) 文化勲章を受章する
・2000年(平成12) 奈良の薬師寺玄奘三蔵院に『大唐西域壁画』を奉納する
・2001年(平成13) マグサイサイ賞を受賞する
・2001年(平成13) 再び東京藝術大学学長に就任する(2005年まで務める)
・2002年(平成14) 「文化交流貢献賞」受賞する(中国政府より)
・2003年(平成15) 山梨県北杜市に「平山郁夫シルクロード美術館」が設立される
・2004年(平成16) 「修交勲章興仁章」受章する(大韓民国政府より)
・2004年(平成16) 朝日賞を受賞する
・2005年(平成17) 日韓友情年日本側実行委員長に就任する
・2005年(平成17) 東京国立博物館特任館長に就任する
・2005年(平成17) 平城遷都1300年記念事業特別顧問となる
・2009年(平成21)12月2日 脳梗塞のため東京都内の病院において、79歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1834年(天保5)お雇い外国人であるフランス人技師F・L・ヴェルニーの誕生日詳細
1898年(明治31)挿絵画家・詩人蕗谷虹児の誕生日詳細


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 今日は、江戸時代中期の1714年(正徳4)に、本草学者・儒学者・教育者貝原益軒の亡くなった日ですが、新暦では10月5日となります。
 貝原 益軒(かいばら えきけん)は、江戸時代前期の1630年(寛永7年11月14日)に、越前国福岡城内(現在の福岡県福岡市)において、黒田藩の祐筆であった貝原寛斎の五男として生まれましたが、名は篤信(あつのぶ)、字は子誠(しせい)と言いました。幼時に父の転職で各地に転居し民間で生活し、1648年(慶安元)、18歳で福岡藩に仕えます。
 しかし、1650年(慶安3)に第2代藩主・黒田忠之の怒りに触れ、7年間の浪人生活を送ることとなり、医者として身を立てようとして医学修業に励みました。1656年(明暦2)、27歳のときに第3代藩主・黒田光之に許され、藩医として帰藩、翌年から京都へ藩費遊学します。
 松永尺五、木下順庵、中村斎、向井元升、黒川道祐、松下見林らと交わり、本草学や朱子学等を学び、1664年(寛文4)35歳の時に福岡へ戻りました。150石の知行を得て、藩内での朱子学の講義や朝鮮通信使への対応に当たります。
 君命で『黒田家譜』や『筑前国続風土記』(1703年成立)を編纂したのをはじめ、晩年に至るまで、経学、医学、民俗、歴史、地理、教育など幅広い分野で、98部247巻の著述をしました。博物学的実証主義に立って窮理の道を重視、民生日用の学を重んじて、庶民を啓蒙し、本草学史上で開拓的な意味をもつ『大和本草(やまとほんぞう)』(1709年)や医書『養生訓』(1713年)、子女の教育を説いた『和俗童子訓』(1710年)などで有名です。
 晩年には朱子学への疑問をまとめた『大疑録』も著しましたが、1714年(正徳4年8月27日)に、数え年85歳で亡くなりました。

〇貝原益軒の主要な著作

・『近思録備考』(1668年)
・『和漢名数』(正1678年、続1695年)
・本草書『花譜』(1694年)
・『黒田家譜』
・語源辞書『日本釈名』(1700年)
・『筑前国続風土記(ちくぜんのくにしょくふどき)』(1703年成立)
・本草書『菜譜(さいふ)』(1704年)
・本草書『大和本草(やまとほんぞう)』(1709年)
・教育書『和俗童子訓』(1710年)
・思想書『自娯集』(1712年)
・医書『養生訓』(1713年)
・教育書『大和俗訓』
・思想書『慎思録(しんしろく)』
・思想書『大疑録(たいぎろく)』
・『君子訓』
・紀行文『和州巡覧記』
・教育書『五常訓』
・教育書『家道訓』
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 今日は、1830年(文政13)に、幕末の思想家・教育者吉田松陰の生まれた日ですが、新暦では9月20日となります。
 吉田松陰は、幕末に活躍した長州藩士、思想家・教育者として知られ、幼名は寅之助、通称は寅次郎、諱は矩方で、松陰は号です。1830年(文政13年8月4日)に、長門国萩松本村(現在の山口県萩市)で長州藩士杉百合之助の次男として生まれました。
 1834年(天保5)に、養子となって山鹿流兵学師範の吉田家を継ぎ、兵学と経学を学ぶことになります。9歳のときから藩校明倫館で山鹿流兵学を教授するようになり、1848年(嘉永元)には明倫館の師範となりました。
 その後、1850年(嘉永3)に九州を遊学し、翌年江戸に出て安積艮斎、山鹿素水、佐久間象山らに経学、兵学などを広く学ぶことになります。
 1854年(安政元)25歳のとき浦賀に再度来航したアメリカ軍艦に乗り込み、密航をはかりますが失敗し、幕府に自首しました。その結果、江戸伝馬町の獄に囚われ、次いで萩の野山獄に移され、その後は自宅に幽閉されることになります。
 ここで、1857年(安政4)から松下村塾を開き、高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文、山県有朋、品川弥二郎ら多くの門人を育てました。
 しかし、討幕論を唱え、老中間部詮勝暗殺を画策して投獄され、安政の大獄により、1859年(安政6年10月27日)に、30歳で刑死しました。

〇「松下村塾」とは?
 山口県萩市にあり、江戸時代末期に長州藩士の吉田松陰が講義した私塾です。松陰神社の境内には、修復された当時の建物が残り、1922年(大正11)に国の史跡に指定されています。
 短期間しか存続しませんでしたが、久坂玄瑞、吉田稔麿、高杉晋作、伊藤博文、山縣有朋、品川弥二郎など尊王攘夷を掲げて京都で活動した人や、明治維新で新政府に関わる人間を多く輩出しましました。
 境内には、「吉田松陰歴史館」もあって、吉田松陰の足跡を知ることができます。また、2015年(平成27)には、松下村塾を構成遺産に含む「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」が世界遺産(文化遺産)に登録されています。

〇「安政の大獄」とは?
 幕末の1858年(安政5)から翌年にかけて、大老井伊直弼が行った尊王攘夷運動派に対して行なった弾圧です。
 安政の五か国条約の調印および将軍継嗣問題(家茂を14代将軍に定めたこと)に対して、反対する一橋慶喜擁立派の公卿・大名・志士ら百余名を処罰し、吉田松陰、橋本左内、頼三樹三郎等8名を死刑としました。
 この事件は、井伊直弼が1860年(安政7)に江戸城外で暗殺された桜田門外の変のきっかけとなったのです。
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