ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:教育者

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 今日は、令和時代の2023年(令和5)に、教育者・禅宗の僧侶無着成恭が亡くなった日です。
 無着成恭(むちゃく せいきょう)は、昭和時代前期の1927年(昭和2)3月31日に、山形県南村山郡本沢村(現在の山形市本沢)の沢泉寺の長男として生まれました。山形県立山形中学校(現在の山形県立山形東高等学校)を経て、1948年(昭和23)には、 山形師範学校(現在の山形大学地域教育文化学部)を卒業し、山形県南村山郡山元村立山元中学校(僻地1級校)に国語教師として赴任します。
 須藤克三からの助言を得て、「生活綴方運動」に取り組み、1950年(昭和25)には、クラス文集『きかんしゃ』所収の「母の死とその後」(江口江一作)が日教組文集コンクールで文部大臣賞を受賞しました。1951年(昭和26)にクラス文集を『山びこ学校:山形県山元村中学校生徒の生活記録』として刊行し、ベストセラーとなり、翌年には、今井正監督によって映画化されたものの、地元の恥を世間にさらしたとして、村から追放されます。
 1953年(昭和28)に上京して、駒澤大学仏教学部に編入し、1955年(昭和30)には、第1回斎藤茂吉文化賞を受賞しました。卒業後、1956年(昭和31)に東京にある私立明星学園教諭に就任し、その後、教頭に昇格、教育科学研究会・国語部会のメンバーとして、科学的・体系的な言語教育に没頭します。
 一方で、1964年(昭和39)からTBSラジオ「全国こども電話相談室」のレギュラー回答者として出演を開始し、28年間務めました。1970年(昭和45)に『続・山びこ学校』を刊行、1979年(昭和54)には、第3回正力松太郎賞を受賞しています。
 1983年(昭和58)に私立明星学園を退職し、1987年(昭和62)には、千葉県の一鍬山福泉寺の住職に就任、人間道場と名づけて独自の民間教育を行いました。2001年(平成13)には、カンボジア・シハヌーク国王から「国家再建勲一等功労賞」を授与されています。
 2003年(平成15)に大分県国東市の泉福寺に転任し、2004年(平成16)には、山形県上山市立山元小中学校に「山びこ学校」石碑が建立されました。2011年(平成23)に妻が寝たきりとなり介護が必要となったため、大分県別府市鉄輪温泉の高齢者向けマンションに移ります。
 2023年(令和5)7月21日に、千葉県香取郡多古町の病院において、敗血症性ショックのため、96歳で亡くなりました。

<主要な著作>

・編著『山びこ学校』(1951年)
・『教育ノート』(1959年)
・『ぼくの青年時代』(1960年)
・『第2教育ノート』(1963年)
・編著『続・山びこ学校』(1970年)
・『無着成恭の詩の授業』(1982年)
・『無着成恭の昭和教育論』(1989年)

〇『山びこ学校』(やまびこがっこう)とは?

 山形県南村山郡山元村(現在の上山市)の中学校教師だった、無着成恭(むちゃくせいきょう)が、教え子の中学生たちの詩・作文・日記などをまとめた生活記録文集で、1951年(昭和26)3月5日に青銅社から刊行されています。正式名称は、『山びこ学校―山形県山元村中学校生徒の生活記録』で、山元中学校の学級文集『きかんしゃ』の作品を中心に編まれたもので、学級全員43名の散文、詩、日記、版画などが収められていました。
 日教組文集コンクールで文部大臣賞を受賞した江口江一の作文「母の死とその後」などが収録されていて、農山村の生活に密着した学習を展開するなかで生まれたもので、戦後の「生活綴り方運動」復活の契機となったとされてきました。この本は刊行直後の2年間で、18刷を重ね12万部を売り上げ、教育界のみならず、文学、芸術、思想にわたる社会的関心を呼び起こします。
 1952年(昭和27)には、監督:今井正、脚本:八木保太郎で映画化され、舞台でも取り上げられ、翻訳もされています。

☆無着成恭関係略年表

・1927年(昭和2)3月31日 山形県南村山郡本沢村(現在の山形市本沢)沢泉寺の長男として生まれる
・1948年(昭和23)  山形師範学校(現在の山形大学地域教育文化学部)卒業し、山形県南村山郡山元村立山元中学校(僻地1級校)に赴任する
・1950年(昭和25) クラス文集『きかんしゃ』所収の「母の死とその後」(江口江一作)が日教組文集コンクールで文部大臣賞を受賞する
・1951年(昭和26) クラス文集を『山びこ学校:山形県山元村中学校生徒の生活記録』として刊行し、ベストセラーとなる
・1952年(昭和27) 『山びこ学校』が今井正監督によって映画化されるが、地元の恥を世間にさらしたとして、村から追放される
・1953年(昭和28) 上京して、駒澤大学仏教学部に編入する
・1955年(昭和30) 第1回斎藤茂吉文化賞を受賞する
・1956年(昭和31) 私立明星学園教諭に就任する
・1964年(昭和39) TBSラジオ「全国こども電話相談室」のレギュラー回答者として出演を開始(28年間務める)する
・1970年(昭和45) 『続・山びこ学校』を刊行する
・1979年(昭和54) 第3回正力松太郎賞を受賞する
・1983年(昭和58) 私立明星学園を退職する
・1987年(昭和62) 千葉県の一鍬山福泉寺の住職に就任する
・2001年(平成13) カンボジア・シハヌーク国王から「国家再建勲一等功労賞」を授与される
・2003年(平成15) 大分県国東市の泉福寺に転任する
・2004年(平成16) 山形県上山市立山元小中学校に「山びこ学校」石碑が建立される
・2006年(平成18) 山元小学校閉校式が行われる
・2009年(平成21) 山元中学校閉校式が行われる
・2011年(平成23) 妻が寝たきりとなり介護が必要となったため、大分県別府市鉄輪温泉の高齢者向けマンションに移る
・2023年(令和5)7月21日 千葉県香取郡多古町の病院において、敗血症性ショックのため、96歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1881年(明治14)「開拓使官有物払下げ事件」のきっかけとなった官有施設・設備払い下げを決定詳細
1896年(明治29)北京において「日清通商航海条約」が締結される詳細
1940年(昭和15)日本労働総同盟が自主解散を決議し、産業報国会への合流を決める詳細
1941年(昭和16)文部省教学局から『臣民の道』が刊行される詳細
1952年(昭和27)「破壊活動防止法」(昭和27年法律第240号)が、公布・施行される詳細
1999年(平成11)文芸評論家江藤淳の命日詳細
2000年(平成12)写真家渡辺義雄の命日詳細
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 今日は、明治時代後期の1902年(明治35)に、啓蒙思想家・教育者・官僚・貴族院議員西村茂樹が亡くなった日です。
 西村茂樹(にしむら しげき)は、江戸時代後期の1828年(文政11年3月13日)に、江戸の佐野藩邸において、佐倉藩の支藩・佐野藩堀田家に仕える側用人・西村芳郁の子として生まれましたが、幼名は平八郎(へいはちろう)と言いました。10歳の時に佐倉藩校「成徳書院」に入学、佐倉藩が招いたた安井息軒より儒学を学び、1850年(嘉永3)に大塚同庵に師事、砲術を学び、翌年には、佐久間象山について砲術修業をします。
 1853年​(嘉永6)のペリー艦隊来航に衝撃を受け、佐倉藩主・堀田正睦に意見書を提出、老中・阿部正弘にも海防策を献じ、翌​年には、佐野藩年寄役となりました。1856年​(安政3)に佐倉藩主・堀田正睦が老中首座・外国事務取扱、貿易取調御用掛に任じられ、外交上の機密文書を担当、1868年(慶応4)には、佐倉藩年寄役となって、藩政改革を行ないます。
 1871年(明治4)に印旛県権参事となりましたが、翌年には辞し、上京して深川に家塾を開きました。1873年(明治6)に森有礼の働きかけにより、福澤諭吉・加藤弘之・中村正直・西周・西村茂樹・津田真道・箕作秋坪・杉亨二・箕作麟祥らと共に、日本初の近代的啓蒙学術団体となる「明六社」を結成、初代社長に就任、文部省に勤務し、教科書の編纂に携わります。
 1874年(明治7)に漢字廃止論者として、『開化ノ度ニ因テ改文字ヲ発スベキノ論』発表、1875年(明治8)には、大槻磐渓、依田學海、平野重久らと、漢学者の集まり「洋々社」を結成、『明六雑誌』に「修身治国非二途論」を発表、文部省に出仕し、天皇・皇后への進講(~1885年)を始めました。1876年(明治9)に坂谷素らとともに道徳の振興を目的とする「東京修身学社(後の社団法人日本弘道会)」を創設、1879年(明治12)には、自身発案により、日本最大にして唯一の官撰百科事典『古事類苑』の編纂を開始します。
 1880年(明治13)に文部省編集局長となって儒教的な教科書『小学修身訓』を刊行、1882年(明治15)には、勲四等旭日小綬章を受章しました。1884年(明治17)に、「東京修身学社」を「日本講道会」と改めて会長に就任、宮内省勤務となり、正五位となり、翌年には、勲三等旭日中綬章を受章します。
 1886年(明治19)に宮中顧問官、従四位となり、1887年(明治20)には、「日本講道会」を「日本弘道会」と改称、『日本道徳論』を刊行し、儒教的倫理思想に基づく国民道徳確立を唱えてその普及に努め、銀製黄綬褒章を受章しました。1888年(明治21)に「華族女学校」第三代校長に就任、翌年に宮内省に皇室が徳育を管理するように明倫院を設置するよう建議、1890年(明治23)には、貴族院勅選議員(~1892年)となります。
 1902年(明治35)に正三位となり、勲一等瑞宝章を受章しましたが、同年8月18日に東京において、74歳で亡くなりました。

〇西村茂樹の主要な著作

・『心学講義』(1885~86年)
・編書『万国史略』(1873年)
・編書『婦女鑑』(1887年)
・『日本道徳論』(1887年)
・『国家道徳論』(1894年)
・『徳学講義』(1895~1901年)
・『自識録』(1899年)

☆西村茂樹関係略年表

・1828年(文政11年3月13日) 江戸の佐野藩邸において、佐倉藩の支藩・佐野藩堀田家に仕える側用人・西村芳郁の子として生まれる
・1838年(天保9年) 10歳の時、佐倉藩校「成徳書院」に入学、佐倉藩が招いたた安井息軒より儒学を学ぶ
・1850年(嘉永3年) 大塚同庵に師事、砲術を学ぶ
・1851年(嘉永4年​) 佐久間象山に砲術を学ぶ
・1853年​(嘉永6年) ペリー艦隊来航に衝撃を受け、佐倉藩主・堀田正睦に意見書を提出、老中・阿部正弘にも海防策を献じる
・1854​年(安政元年) 佐野藩年寄役となる
・1856年​(安政3年) 佐倉藩主・堀田正睦が老中首座・外国事務取扱、貿易取調御用掛に任じられ、外交上の機密文書を担当する
・1868年(慶応4年) 佐倉藩年寄役となって、藩政改革を行なう
・1871年(明治4年) 印旛県権参事となる(~1872年)
・1872年(明治5年) 45歳で上京し、深川に家塾を開き、学制頒布に際し、もっぱら生をおさめ産をおこすことのみを説いて、ひとつも仁義・忠孝を教えた語のないのを遺憾とし、独力で国民の道徳を維持しようと志す
・1873年(明治6年) 森有礼の働きかけにより、福澤諭吉・加藤弘之・中村正直・西周・西村茂樹・津田真道・箕作秋坪・杉亨二・箕作麟祥らと共に、日本初の近代的啓蒙学術団体となる「明六社」を結成、初代社長に就任、文部省に勤務し、教科書の編纂に携わる
・1874年(明治7年) 漢字廃止論者として、『開化ノ度ニ因テ改文字ヲ発スベキノ論』発表する
・1875年(明治8年) 大槻磐渓、依田學海、平野重久らと、漢学者の集まり「洋々社」を結成、『明六雑誌』に「修身治国非二途論」を発表、文部省に出仕し、天皇・皇后への進講を始める(~1885年)
・1876年(明治9年) 坂谷素らとともに道徳の振興を目的とする「東京修身学社(後の社団法人日本弘道会)」を創設する
・1879年(明治12年) 自身発案により、日本最大にして唯一の官撰百科事典『古事類苑』の編纂を開始する
・1880年(明治13年) 文部省編集局長となって儒教的な教科書『小学修身訓』を刊行する
・1882年(明治15年) 勲四等旭日小綬章を受章する
・1884年(明治17年) 「東京修身学社」を「日本講道会」と改めて会長に就任、宮内省勤務となり、正五位となる
・1885年(明治18年) 勲三等旭日中綬章を受章する
・1886年(明治19年) 宮中顧問官、従四位となる
・1887年(明治20年) 「日本講道会」を「日本弘道会」と改称、『日本道徳論』を刊行、銀製黄綬褒章を受章する
・1888年(明治21年) 「華族女学校」第三代校長に就任する
・1889年(明治22年) 宮内省に皇室が徳育を管理するように明倫院を設置するよう建議、大日本帝国憲法発布記念章を受章する
・1890年(明治23年) 貴族院勅選議員となる(~1892年)
・1891年(明治24年) 正四位となる
・1893年(明治26年) 勲二等瑞宝章を受章する
・1900年(明治33年) 従三位となる
・1902年(明治35年) 正三位となり、勲一等瑞宝章を受章する
・1902年(明治35年)8月18日 東京において、74歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1598年(慶長3)武将・大名・天下人豊臣秀吉の命日(新暦9月18日)詳細
1863年(文久3)公武合体派が尊皇攘夷過激派を追放した八月十八日の政変が勃発(新暦9月30日)詳細
1876年(明治9)日本画家松林桂月の誕生日詳細
1888年(明治21)官営事業(官営模範工場)の一つ三池炭鉱(福岡県)が競争入札の結果、三井財閥に払い下げが決まる詳細
1925年(大正14)小説家細井和喜蔵の命日詳細
1968年(昭和43)飛騨川バス転落事故が起き、死者104人を出す詳細
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 今日は、昭和時代後期の1980年(昭和55)に、遺伝学者・植物細胞学者・生理学者・教育者坂村徹の亡くなった日です。
 坂村徹(さかむら てつ)は、明治時代前期の1888年(明治21)10月13日に、広島県広島市幟町(現在の広島市中区)において、生まれました。1907年(明治40)に、旧制・広島第一中学(現在の広島国泰寺高校)を卒業し、東北帝国大学農科大学(現在の北海道大学)へ入学、恵迪寮に入ります。
 1913年(大正2)に卒業後、「植物ニ於ケル遺伝及ヒ之ニ関スル細胞学攻究」を研究テーマとして大学院へ進みました。1918年(大正7)に、小麦の染色体数を明らかにする画期的な業績を上げ、大学院を修了し北海道帝国大学農科大学助教授になり、ハーバード大学、ベルリン大学に留学します。
 帰国後、1920年(大正9)に理学博士を取得、翌年には教授に昇任しました。1930年(昭和5)に北海道帝国大学理学部植物学講座教授に転じ、1941年(昭和16)には、植物生理学の集大成『植物生理学』上下二巻を刊行します。
 1952年(昭和27)に北海道大学を退官し、名誉教授となり、1964年(昭和39)には、日本学士院会員となりました。1976年(昭和51)には、文化功労者となり、北海道大学創基百年にあたり、坂村徹と木原均に研究材料を提供したキャンパス内の小麦田圃跡に「小麦研究記念碑」が建立されましたが、1980年(昭和55)10月18日に、広島県広島市において、92歳で亡くなっています。

〇坂村徹の主要な著作

・『植物生理学』上下二巻(1941年)
・『植物細胞滲透生理学』(1952年)

☆坂村徹関係略年表

・1888年(明治21)10月13日 広島県広島市幟町(現在の広島市中区)において、生まれる
・1907年(明治40) 旧制・広島第一中学(現在の広島国泰寺高校)を卒業し、東北帝国大学農科大学(現在の北海道大学)へ入学する
・1913年(大正2) 東北帝国大学農科大学(現在の北海道大学)を卒業、「植物ニ於ケル遺伝及ヒ之ニ関スル細胞学攻究」を研究テーマとして大学院へ進む
・1918年(大正7) 小麦の染色体数を明らかにする画期的な業績を上げ、大学院を修了し北海道帝国大学農科大学助教授になり、ハーバード大、ベルリン大に留学する
・1920年(大正9) 理学博士を取得する
・1921年(大正10) 北海道帝国大学農科大学教授に昇任する
・1930年(昭和5) 北海道帝国大学理学部植物学講座教授に転ずる
・1941年(昭和16) 植物生理学の集大成「植物生理学」上下二巻を刊行する
・1952年(昭和27) 北海道大学を退官し、名誉教授となる
・1964年(昭和39) 日本学士院会員となる
・1976年(昭和51) 文化功労者となり、北海道大学創基百年にあたり、坂村徹と木原均に研究材料を提供したキャンパス内の小麦田圃跡に「小麦研究記念碑」が建立される
・1980年(昭和55)10月18日 広島県広島市において、92歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1881年(明治14)日本初の全国政党「自由党」の結成大会が行われる詳細
1898年(明治31)安部磯雄・片山潜・幸徳秋水らが社会主義研究会(後の社会主義協会)を結成する詳細
1939年(昭和14)「価格等統制令」が公布され、物価などの価格が統制される詳細
1945年(昭和20)小説家葉山嘉樹の命日詳細
1955年(昭和30)長崎県大村湾口に当時日本一長さ(支間長:216m)の西海橋が開通する詳細
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 今日は、昭和時代前期の1931年(昭和6)に、医学者・細菌学者・教育者北里柴三郎の亡くなった日です。
 北里柴三郎(きたざと しばさぶろう)は、1853年1月29日(嘉永5年12月20日) 肥後国北里村(現在の熊本県阿蘇郡小国町)の総庄屋だった父・北里帷信、母・貞の長男として生まれました。1866年(慶応2)に熊本に出て、田中司馬(儒者、医学)の塾に入門、1869年(明治2)には、細川藩の藩校時習館に入寮したものの、翌年に廃止され、1871年(明治4)に熊本の医学所病院(のち熊本医学校)に入り、蘭医マンスフェルトに師事します。
 1875年(明治8)に上京して、東京医学校(現在の東京大学医学部)に入学しましたが、教授と折り合いが悪く、何度が留年して、1883年(明治16)に卒業しました。卒後、行政官を志し内務省衛生局に入り、局長長与専斎の細菌学導入計画に加わり、1884年(明治17)にドイツ留学が決まり、翌年には、ドイツのコッホの研究室に入ります。
 1889年(明治22)にベーリングとともに世界で最初に破傷風菌の純粋培養に成功、翌年には、ベーリングと共著で「ジフテリアおよび破傷風の血清治療について」という免疫血清治療発見の論文を発表し、世界的な評価を得ました。1892年(明治25)に日本へ帰国し、内務省へ復職、芝公園に私立伝染病研究所を設立、翌年には、日本初の結核専門病院「土筆ヶ岡養生園」を開設します。
 1894年(明治27)に官命により香港のペスト流行を調査しペスト菌を発見、1899年(明治32)には、伝染病研究所が内務省管轄となり、以後所長として防疫指導にあたりました。1913年(大正2)に日本結核予防協会を設立し、理事長となったものの、翌年に大隈重信内閣が突如、伝染病研究所を東京帝国大学の組織下に移すことを発表、それに反対し、全職員と共に辞職、私財をもって北里研究所を創立し、初代所長となります。
 1915年(大正4)に「恩賜財団済生会芝病院」(現・東京都済生会中央病院)設立とともに初代院長となり、1917年(大正6)には、慶応義塾大学医学部創設に際し医学科長に就任しました。この間、1906年(明治39)に帝国学士院会員、1908年(明治41)に日本人初のイギリスのロイヤル・ソサエティの外人会員、1917年(大正6)に貴族院議員、1923年(大正12)に日本医師会が創設され、初代会長、1924年(大正13)には、男爵にも叙せられています。
 1928年(昭和3)に慶応義塾大学医学部長を辞任、顧問に就任しましたが、1931年(昭和6)6月13日に、東京において、脳出血により78歳で急逝しました。

北里柴三郎関係略年表(明治5年以前の日付は旧暦です)

・1853年1月29日(嘉永5年12月20日) 肥後国北里村(現在の熊本県阿蘇郡小国)町)の総庄屋だった父・北里帷信、母・貞の長男として生まれる
・1866年(慶応2年) 熊本に出て、田中司馬(儒者、医学)の塾に入門する
・1869年(明治2年12月) 細川藩の藩校時習館に入寮する
・1870年(明治3年7月) 藩校時習館が廃止される
・1871年(明治4年2月) 熊本の医学所病院(のち熊本医学校)に入り、蘭医マンスフェルトに師事する
・1875年(明治8年)4月 東京医学校(現在の東京大学医学部)に入学する
・1883年(明治16年)7月 東京大学医学部(東京医学校の後身)を卒業する
・1883年(明治16年)11月 行政官を志し内務省衛生局に入り、局長長与専斎の細菌学導入計画に加わる
・1884年(明治17年)2月 ドイツ留学より帰った東大教授緒方正規が兼務する衛生試験所細菌室で学ぶ
・1885年(明治18年)1月 ドイツに留学してコッホの研究室に入る
・1889年(明治22年) ベーリングとともに世界で最初に破傷風菌の純粋培養に成功する
・1890年(明治23年) ジフテリアの免疫研究者E・ベーリングと共著で「ジフテリアおよび破傷風の血清治療について」という免疫血清治療発見の論文を発表する
・1891年(明治24年)8月 医学博士の学位を受ける
・1892年(明治25年) 日本へ帰国し、内務省へ復職する
・1892年(明治25年) 芝公園に私立伝染病研究所を設立する
・1893年(明治26年) 日本初の結核専門病院「土筆ヶ岡養生園」を開設する 
・1894年(明治27年) 官命により香港のペスト流行を調査しペスト菌を発見する
・1899年(明治32年) 伝染病研究所が内務省管轄となり、以後北里は伝染病研究所所長として防疫指導にあたる
・1906年(明治39年) 帝国学士院会員となる
・1908年(明治41年) 日本人として初めてイギリスのロイヤル・ソサエティの外人会員に選ばれる
・1913年(大正2年) 日本結核予防協会を設立し、理事長となる
・1914年(大正3年)10月 大隈重信内閣が突如、伝染病研究所を東京帝国大学の組織下に移すことを発表、北里は反対し、彼と全職員が辞職する
・1914年(大正3年)11月 私財をもって北里研究所を創立し、初代所長となる
・1915年(大正4年) 「恩賜財団済生会芝病院」(現・東京都済生会中央病院)設立とともに初代院長となる
・1917年(大正6年) 慶応義塾大学医学部創設に際し医学科長に就任する
・1917年(大正6年) 貴族院議員となる
・1923年(大正12年) 日本医師会が創設され、初代会長となる
・1924年(大正13年)2月 男爵に叙せられる
・1928年(昭和3年)5月 慶応義塾大学医学部長を辞任、顧問に就任する
・1931年(昭和6年)6月13日 東京において、脳出血により78歳で急逝する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1615年(慶長20)江戸幕府により「一国一城令」が出される(新暦8月7日)詳細
1924年(大正13)土方与志・小山内薫らが築地小劇場を開場する詳細
1998年(平成10)北海道室蘭市に白鳥大橋が開通する詳細
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 今日は、江戸時代中期の1782年(天明2)に、儒学者・教育者・漢詩人広瀬淡窓の生まれた日ですが、新暦では5月22日となります。
 広瀬淡窓(ひろせ たんそう)は、豊後国日田郡豆田魚町(現在の大分県日田市)の九州諸侯用達の商家だった父・博多屋三郎右衛門(桃秋)の長男(母はユイ)としして生まれましたが、名は寅之助と言いました。1783年(天明3)の2歳より伯父・広瀬平八(月化)夫婦に6歳まで養われ、実家に帰ってからは、父母の下で読書、習字を学びます。
 少年の頃より聡明で、1789年(寛政元)の8歳の時、軽症の痘瘡にかかったものの、長福寺の法幢に『詩経』の句読を教えられ、翌年には、『書経』、『春秋』、『古文真宝』などを学ぶようになりました。1791年(寛政3)の10歳の時、日田に来た久留米の松下筑陰の弟子となり漢詩、文章の添削、『十八史略』の指導を受けましたが、翌年には、水庖ソウにかかり6・70日床に就きます。
 1794年(寛政6)に元服し、翌年に佐伯へ遊学、1797年(寛政9)には、筑前福岡の亀井塾に入門し、亀井南冥・昭陽父子(徂徠学派)に師事しました。1799年(寛政11)の18歳の時、病に罹って亀井塾を去り、翌年から数年間の療養生活に入ります。
 1801年(享和元)の20歳の時から療養に傍ら、門人数人に句読を教えるようになり、翌年には、『孟子』などを講義するようになりました。1805年(文化2)の24歳の時、豆田町の長福寺学寮を借り講義を開始、1807年(文化4)に「成章舎」「桂林園(荘)」と場所や名前を変え、さらに1817年(文化14)に、堀田村(現・日田市淡窓町)に塾舎を移し、「咸宜園(かんぎえん)」が開かれます。
 塾生は、1819年(文政2)に37名、翌年には103名と徐々に増えていき、名声はしだいに高まり、全国から集まって、その数は延べ3,000人を超えました。その教育は、「三奪の法」(年齢や学歴、身分に関係なく優劣を入塾後の成績に委ねる)と「月旦評」(日常の学習活動と月例試験での合計点による毎月末の成績評価により昇級等を行う)による徹底した実力主義で、儒学だけでなく、数学、天文学、医学なども講義されています。
 門下からは、高野長英、大村益次郎、長三洲など逸材を輩出、『約言』 (1828年成立)、『儒林評』 (1836年成立) 、『析玄』 (1841年) など多くの著作も成しました。漢詩も能くし、詩集『遠思楼詩鈔』を著しましたが、1856年(安政3年11月1日)に、豊後国日田において、数え年75歳で亡くなりっています。
 尚、私塾「咸宜園」はその後も存続し、1897年(明治30)に閉塾するまで、計約5,000人もの門下生を送り出し、医者、教育者、政治家などとして活躍しました。

〇広瀬淡窓の主要な著作

・『淡窓詩話(しわ)』
・詩集『遠思楼詩鈔(えんしろうししょう)』
・『懐旧楼筆記』
・『約言』(1828年成立)
・『析言』
・『自新録』
・『儒林評』(1836年成立)
・『万善簿(まんぜんぼ)』
・『析玄(せきげん)』(1841年)

〇咸宜園(かんぎえん)とは?

 現在の大分県日田市で、江戸時代後期の1805年(文化2)に、儒学者・廣瀬淡窓が長福寺の学寮で開塾したのが始まりです。その後、1807年(文化4)に「成章舎」「桂林園(荘)」と場所や名前を変え、さらに1817年(文化14)に、現在地に「咸宜園」が開かれました。全寮制で、身分、学歴を問わずに広く門戸が開放され、儒学だけでなく、数学、天文学、医学なども講義されたのです。明治維新後も存続し、1897年(明治30)に閉塾するまで、約5,000人もの門下生を送り出し、医者、教育者、政治家などとして活躍しました。その中には、高野長英(蘭学者・蘭医)、岡研介(蘭医)、大村益次郎(兵部大輔・日本陸軍の創始者)、上野彦馬(日本最初期の写真家)、横田国臣(法律家・検事総長)、清浦奎吾(政治家・内閣総理大臣)などの著名な人々がいます。今でも建物の一部、秋風庵・遠思楼が現存し、江戸時代後期の大規模な私塾の跡として貴重なので、1932年(昭和7)に「咸宜園跡」として国の史跡になっています。また、2015年(平成27)には「近世日本の教育遺産群」のひとつとして日本遺産にも指定されました。2010年(平成22)には、隣接地に「咸宜園教育研究センター」が開館し、咸宜園や廣瀬淡窓、門下生等に関する調査研究と展示を行っていて、見学できます。

☆広瀬淡窓関係略年表(日付は旧暦です)

 ・1782年(天明2年4月11日) 豊後国日田郡豆田魚町の広瀬家に生まれる。父・三郎右衛門(桃秋)、母ユイの長男。寅之助と名付けられる
・1783年(天明3年) 2歳より伯父・広瀬平八(月化)夫婦に6歳まで養われる
・1787年(天明7年)、6歳の時、魚町の実家に帰り、父母の下で読書、習字を学ぶ
・1789年(寛政元年) 8歳の時、軽症の痘瘡にかかる。長福寺の法幢に『詩経』の句読を学ぶ
・1790年(寛政2年) 9歳の時、『詩経』『書経』『春秋』『古文真宝』を学ぶ。『蒙求』『漢書』『文選』の講義を聴く
・1791年(寛政3年) 10歳の時、日田に来た久留米の松下筑陰の弟子となり漢詩、文章の添削、『十八史略』の指導を受ける
・1792年(寛政4年) 11歳の時、水庖ソウにかかり6・70日病む
・1794年(寛政6年) 13歳の時、日田代官(西国筋郡代)羽倉権九郎に『孝経』を講義する
・1794年(寛政6年6月) 元服する
・1795年(寛政7年) 14歳の時、佐伯へ遊学する
・1797年(寛政9年) 16歳の時、筑前福岡の亀井塾に入門し、亀井南冥・昭陽父子(徂徠学派)に師事する
・1799年(寛政11年) 18歳の時、病にかかり、亀井塾を去る
・1800年(寛政12年) 19歳の時、療養生活となる(以後数年)
・1801年(享和元年) 20歳の時、門人数人に句読を教える
・1802年(享和2年) 21歳の時、『孟子』を講義。羽倉に四書を講義する
・1804年(文化元年) 23歳の時、亀井塾の学友から教えを乞い、眼科医を目指すも、意欲が薄れる
・1805年(文化2年3月) 24歳の時、豆田町の長福寺学寮を借り講義を開始、自身も長福寺学寮に転居する
・1805年(文化2年6月) 実家の土蔵に塾を移す
・1805年(文化2年8月) 豆田町大坂屋林左衛門の持ち家を借家して転居し開塾し、「成章舎」と名付ける
・1806年(文化3年) 25歳の時、成章舎で講義開始する
・1807年(文化4年) 26歳の時、塾生の人数が増えたため、豆田裏町(現在は日田市城町の一画)に塾舎を新築し、桂林園と名付ける
・1810年(文化7年) 29歳の時、塾生が30名を超え、合原ナナと結婚する
・1813年(文化10年) 32歳の時、日記を書き始め、『史記』を輪講する
・1817年(文化14年) 36歳の時、堀田村(現・日田市淡窓町)に塾舎を移し「咸宜園」と名付け、塾生と一緒に生活するようになる
・1818年(文政元年) 37歳の時、頼山陽が日田に来遊し、数度面会する
・1819年(文政2年) 38歳の時、咸宜園の塾生37名になる
・1820年(文政3年) 39歳の時、月旦評によれば塾生は103名になる
・1824年(文政7年) 43歳の時、風邪のため休講が100日を越し、『自新録』を脱稿する
・1825年(文政8年) 44歳の時、正月に体調を崩す、『敬天説』脱稿、田能村竹田が淡窓を訪ねる
・1828年(文政11年) 47歳の時、『敬天説』を改稿して『約言』を脱稿する
・1830年(文政13年) 49歳の時、『伝家録』を脱稿。塾を末弟・広瀬旭荘に委ねる
・1842年(天保13年) 61歳の時、幕府から永世名字帯刀を許さる
・1848年(嘉永元年) 67歳の時、「万善簿」一万善を達成
・1853年(嘉永6年) 72歳の時、『宜園百家詩』続編編集。『辺防策(論語百言解)』を草す
・1855年(安政2年) 74歳の時、塾を広瀬青邨に委ねる
・1856年(安政3年) 75歳の時、『淡窓小品』完成する
・1856年(安政3年10月) 墓碑の碑文を撰文。書は旭荘が手掛ける
・1856年(安政3年11月1日) 数え年75歳で亡くなり、遺体は自ら墓地に選定していた中城村の広瀬三右衛門別邸跡地(長生園)に埋葬される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1925年(大正14)陸軍現役将校学校配属令」が発せられ、中学校以上の公立学校で軍事教練開始詳細
1967年(昭和42)日本近代文学館」が開館する詳細
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