
当時の大学や国学で学ぶことができない人々のために開いた学問所で、庶民にも門戸が開かれ、仏教だけでなく儒教をも合わせ、内外典を教えました。しかし、空海の死後は後継者がなく、まもなくの835年(承和12年)頃に廃絶しています。
尚、旧地は弟子実慧(東寺長者)らによって売却され、その代価で丹波国大山荘を購入して、伝法の料所(東寺領)とされました。

鎌倉時代に文覚が寺威の高揚をはかって堂舎を修復、南北朝時代に頼宝、杲宝(こうぼう)、賢宝が出て教学を大成し、寺は内外ともに隆盛となります。しかし、室町時代後半の1486年(文明18)の火災で堂塔など大部分を焼失し、のち豊臣秀吉や徳川家光の助力により、金堂・五重塔などが再建されました。
何度かの火災により、創建当初の建造物はありませんが、南大門から金堂、講堂、食堂と一直線に並ぶ伽藍配置は奈良の諸大寺の伝統を受け継いでいます。現存の建物では、蓮華門(鎌倉時代)、大師堂(室町時代)、金堂(安土桃山時代)、五重塔(江戸時代前期)が国宝となり、講堂(室町時代)、灌頂院(江戸時代)などが国重要文化財に指定されました。
寺宝として、講堂の密教諸尊像、その他『兜跋毘沙門天立像』、『不動明王坐像』などの仏像彫刻、『真言七祖像』、『両界曼荼羅図』、『十二天像』、『五大尊像』などの仏画、伝空海将来の密教法具類、『犍陀穀糸袈裟』、『海賦蒔絵袈裟箱』などの工芸品、空海の書『風信帖』など多数の国宝指定の美術工芸品、歴史的資料を収蔵しています。1934年(昭和9)に境内は国指定史跡となり、1994年(平成6)には「古都京都の文化財」の一つとして世界遺産(文化遺産)に登録されました。

788年(延暦7)に平城京に上り、789年(延暦8)に15歳で母方の叔父の阿刀大足について論語、孝経、史伝、文章などを学びます。792年(延暦11)に18歳で京の大学寮に入り、明経道を専攻し、春秋左氏伝、毛詩、尚書などを学びましたが、翌年には大学での勉学に飽き足らず、19歳を過ぎた頃から山林での修行に入ったとされてきました。
阿波の大滝岳、土佐の室戸岬、伊予の石鎚山、大和の金峰山などの聖地を巡って修行に励み、798年(延暦18)に24歳で儒教・道教・仏教の比較思想論でもある『聾瞽指帰』を著して俗世の教えが真実でないことを示します。803年(延暦22)に医薬の知識を生かして推薦され、遣唐使の医薬を学ぶ薬生として出発するが悪天候で断念したものの、翌年の第18次遣唐使一行として、最澄や霊仙、橘逸勢らと共に、長期留学僧の学問僧として唐に渡り、同年12月には、長安へ入りました。
805年(延暦24)に長安醴泉寺の般若三蔵らに就いてサンスクリット(梵語)やインドの学問を学習、青龍寺の恵果から密教の伝授を受け始めて、真言密教の第八祖を継ぎ、恵果が60歳で没したとき、門下から選ばれて追悼の碑文を書きます。翌年に膨大な密教の典籍、仏像、法典、曼荼羅等の文物を持ち、無事に博多津に帰着し、『請来目録』を朝廷に差し出しました。
809年(大同4)に京都高雄山寺(神護寺)を本拠に布教を開始し、翌年に国家を鎮める修法を行ない、812年(弘仁3)には、比叡山の最澄や弟子に灌頂を授けます。816年(弘仁7)に43歳の時、高野山を国家のために、また修行者の道場とするために開きたいと嵯峨天皇に上奏して勅許を得て、819年(弘仁10)から高野山の伽藍建立に着手しました。
821年(弘仁12)に四国讃岐の満濃池を修築し、農民のために尽力するなど社会事業にもいろいろと取り組んだとされます。823年(弘仁14)に京都の東寺(教王護国寺)を給預され、真言密教の根本道場に定め、後進の育成に努め、翌年に大僧都に任ぜられ、828年(天長5)には東寺の東隣に日本最初の庶民教育の学校として綜芸種智院を開設しました。
835年(承和2)に宮中真言院で後七日御修法を行ないましたが、同年3月21日に高野山において、数え年62歳で亡くなっています。また、漢詩集として『性霊集』,漢詩文のつくり方などを論じた『文鏡秘府論』を著し、書においては、嵯峨天皇、橘逸勢と共に三筆の一人に数えられるようになりました。
尚、921年(延喜21)には醍醐天皇から弘法大師の諡号が贈られています。