ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:政治家

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 今日は、江戸時代後期の1828年(文政11)に、政治家・伯爵副島種臣が生まれた日ですが、新暦では10月17日となります。
 副島種臣(そえじま たねおみ)は、佐賀藩士で藩校弘道館教授だった枝吉南濠の二男(母は喜勢子)として生まれましたが、名は二郎と言いました。1848年(嘉永元)に弘道館内寮生の首班となり、1850年(嘉永3)には、楠木正成戦没日をトして、梅林庵で兄・神陽の主唱する「義祭同盟」に大木喬任、江藤新平らと共に参加、尊王論に傾倒します。
 1852年(嘉永5)に京都に留学して、国学者矢野玄道らと交流して皇学を研究、「日本一君論」を説き、1855年(安政2)には、藩命により再び京都に留学しました。1859年(安政6)に父が死去し、佐賀藩士副島和忠の養子となり、副島二郎種臣と名乗ります。
 1864年(元治元)に長崎に行き致遠館学監となり、米国人宣教師フルベッキに師事、英学・米国憲法を学びました。1867年(慶応3)に大隈重信とともに脱藩して上京、「大政奉還」を説きましたが、藩より謹慎処分を受けます。
 1868年(明治元)に新政府にて参与となり、制度取調局判事に任ぜられて政体書の起草に従事、翌年には参議に任ぜられ、西郷隆盛とともに東北諸藩の処置をしました。1871年(明治4)に樺太の国境問題について露国領事と談判、外務卿となり、翌年にマリア・ルス号事件を担当、1873年(明治6)には清国におもむき「日清修好条約」の批准を交換、清国皇帝に謁見したものの、征韓論に敗れて辞職します。
 1874年(明治7)に板垣退助、江藤新平らと愛国公党を設立、「民撰議院設立建白書」を提出しましたが、自由民権運動には参加しませんでした。1876年(明治9)に霞ヶ関の自宅を売り、清国歴遊の旅に出て、2年後に帰国し、1879年(明治12)には、宮内庁御用掛一等侍講に任ぜられます。
 1884年(明治17)に伯爵に叙せられ、1886年(明治19)に宮中顧問官、1891年(明治24)には、枢密院副議長に任ぜられました。1892年(明治25)3月に、松方正義内閣の内務大臣に任ぜられたものの6月に辞任、再び枢密顧問官となります。
 蒼海と号し、書を能くしましたが、1905年(明治38)1月31日に、東京において、数え年78歳で亡くなりました。

〇副島種臣関係略年表(明治5年以前の日付は旧暦です)

・1828年(文政11年9月9日) 佐賀藩士枝吉南濠の二男として生まれる
・1848年(嘉永元年) 21歳、弘道館内寮生の首班となる
・1850年(嘉永3年) 23歳、楠木正成戦没日をトして、梅林庵で兄・神陽の主唱する「義祭同盟」に参加する
・1852年(嘉永5年) 25歳、京都に留学して、皇学を研究、「日本一君論」を説く
・1855年(安政2年) 28歳、藩命により再び京都に留学する
・1859年(安政6年) 32歳、父が死去し、佐賀藩士副島和忠の養子となり、副島二郎種臣と名乗る
・1864年(元治元年) 37歳、長崎に行き致遠館学監となり、米国人宣教師フルベッキに師事、英学・米国憲法を学ぶ
・1867年(慶応3年) 40歳、大隈重信とともに脱藩して上京、「大政奉還」を説きましたが、藩より謹慎処分を受ける
・1868年(明治元年) 41歳、新政府にて参与となり、制度取調局判事に任ぜられ、政体書の起草に従事する
・1869年(明治2年) 42歳、参議に任ぜられ、西郷隆盛とともに東北諸藩の処置をする
・1871年(明治4年) 44歳、樺太の国境問題について露国領事と談判、外務卿となる
・1872年(明治5年) 45歳、マリア・ルス号事件が起きる
・1873年(明治6年) 46歳、清国におもむき「日清修好条約」の批准を交換、清国皇帝に謁見、征韓論に敗れて辞職する
・1874年(明治7年) 47歳、板垣退助、江藤新平らと愛国公党を設立、「民撰議院設立建白書」を提出する
・1876年(明治9年) 49歳、霞ヶ関の自宅を売り、清国歴遊の旅に出る
・1878年(明治11年) 51歳、清国歴遊の旅から帰国する
・1879年(明治12年) 52歳、宮内庁御用掛一等侍講に任ぜられる
・1884年(明治17年) 57歳、伯爵に叙せられる
・1886年(明治19年) 59歳、宮中顧問官となる
・1891年(明治24年) 64歳、枢密院副議長に任ぜられる
・1892年(明治25年) 65歳、3月、内務大臣に任ぜられるも6月辞任、再び枢密顧問官となる
・1905年(明治38年)1月31日 東京において、数え年78歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

年中行事重陽(菊の節句)です詳細
686年(朱鳥元)天武天皇(第40代天皇)の命日(新暦10月1日)詳細
1946年(昭和21)旧「生活保護法」が公布(施行は10月1日)される詳細
1987年(昭和62)川口JCT~浦和IC間の開通により、東北自動車道が全通する詳細


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 今日は、昭和時代前期の1931年(昭和6)に、官僚・政治家・総理大臣濱口雄幸が亡くなった日です。
 濱口雄幸(はまぐち おさち)は、1870年(明治3年4月1日)に、高知県長岡郡五台山村唐谷(現在の高知市)において、旧土佐藩士で山林官だった水口胤平(たねひら)の三男として生まれましたが、1888年(明治21)には、同県安芸郡田野町の旧郷士浜口家の長女夏子と養子縁組し、濱口姓となりました。第三高等中学校を経て、1895年(明治28)には、東京帝国大学政治学科を卒業、高等文官試験に合格し、大蔵省に入ります。
 1897年(明治30)に大蔵大臣官房会計課長に昇進しましたが、翌年に上司と衝突し地方へ左遷され、1902年(明治35)に東京の外務省本省に復職するものの傍流を歩み、1904年(明治37)には専売局に勤務しました。1907年(明治40)に初代専売局長官に就任、1912年(大正元)には、第三次桂太郎内閣の逓信次官となります。
 1913年(大正2)に後藤新平と共に桂の立憲同志会の結成に参加、政界入りし、1914年(大正3)に第二次大隈重信内閣の蔵相若槻礼次郎のもとで大蔵次官に就任、翌年には立憲同志会に入党し、高知から総選挙に初出馬で衆院議員に当選(その後5回当選)しました。1916年(大正5)に憲政会に入り、1924年(大正13)に護憲三派内閣、ついで第二次加藤高明内閣、第一次若槻内閣の蔵相に就任し、税制整理案の成立に努め、1926年(大正15)には、第二次若槻内閣の内相となります。
 1927年(昭和2)に内閣総辞職により辞任、1927年(昭和2)に憲政会・政友本党の合併による立憲民政党の結成に際して初代総裁に就任、1929年(昭和4)には、田中義一政友会内閣が総辞職したため、かわって民政党内閣を組織し、総理大臣となりました。1930年(昭和5)に金解禁を断行、協調外交を進め、ロンドン海軍軍縮会議に全権団を派遣、海軍軍令部の反対を押し切って「ロンドン海軍軍備制限条約」を締結します。
 しかし、軍部や右翼の憤激を招き、1930年(昭和5)11月14日に、東京駅で右翼愛国社の青年佐郷屋留雄に狙撃され、重傷を負いました。1931年(昭和6)にやや回復して野党の要求で職務に復帰したものの、翌月には症状が悪化したため首相を辞任しています。
 その重厚で誠実な人柄は国民の信頼を受け、容貌から「ライオン首相」とよばれて親しまれてきましたが、同年8月26日に東京において、数え年62歳で亡くなりました。

〇濱口雄幸関係略年表(明治5年以前の日付は旧暦です)

・1870年(明治3年4月1日) 旧土佐藩士で、高知県長岡郡五台山村唐谷(現在の高知市)で山林官水口胤平(たねひら)の三男として生まれる
・1888年(明治21年) 高知県安芸郡田野町の旧郷士浜口家の長女夏子と養子縁組する
・1895年(明治28年) 東京帝国大学政治学科を卒業、高等文官試験に合格、大蔵省に入る
・1897年(明治30年) 大蔵大臣官房会計課長に昇進
・1898年(明治31年) 大蔵省の上司と衝突し地方へ左遷される
・1902年(明治35年) 東京の外務省本省に復職するが傍流を歩む
・1904年(明治37年) 専売局に勤務する
・1906年(明治39年) 後藤新平から満鉄にスカウトされるが謝辞する
・1907年(明治40年) 初代専売局長官に就任する
・1912年(大正元年) 第三次桂太郎内閣の逓信次官に就任する
・1913年(大正2年) 後藤新平と共に桂の立憲同志会の結成に参加、政界入りする
・1914年(大正3年) 第二次大隈重信内閣の蔵相若槻礼次郎のもとで大蔵次官に就任する
・1915年(大正4年) 立憲同志会に入党、高知から総選挙に初出馬し衆院議員に当選する
・1916年(大正5年) 憲政会に入る
・1917年(大正6年) 総選挙では落選する
・1919年(大正8年) 補欠選挙で当選する
・1924年(大正13年) 護憲三派内閣、ついで第二次加藤高明(かとうたかあき)内閣、第一次若槻内閣の蔵相に就任し、税制整理案の成立に努める
・1926年(大正15年) 第二次若槻内閣の内相となる
・1927年(昭和2年) 内閣総辞職により辞任する、
・1927年(昭和2年)6月 憲政会・政友本党の合併による立憲民政党の結成に際して初代総裁に就任する
・1929年(昭和4年)7月 田中義一政友会内閣の総辞職で、かわって民政党内閣を組織し、総理大臣となる
・1930年(昭和5年)1月11日 金解禁を断行する
・1930年(昭和5年)4月22日 協調外交を進め、ロンドン海軍軍縮会議に全権団を派遣、海軍軍令部の反対を押し切って「ロンドン海軍軍備制限条約」を締結する
・1930年(昭和5年)11月14日 東京駅で右翼愛国社の青年佐郷屋留雄に狙撃され、重傷を負う
・1931年(昭和6年)3月 やや回復して野党の要求で職務に復帰する
・1931年(昭和6年)4月 症状が悪化したため首相を辞任する
・1931年(昭和6年)8月26日 東京において、数え年62歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

887年(仁和3)第58代天皇とされる光孝天皇の命日(新暦9月17日)詳細
1617年(元和3)第107代の天皇とされる後陽成天皇の命日(新暦9月25日)詳細
1988年(昭和63)奈良そごう建設予定地で大量の木簡が発見され、長屋王邸跡であることが判明する詳細
1993年(平成5)東京港連絡橋(レインボーブリッジ)が開通する詳細
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 今日は、明治時代前期の1883年(明治16年)に、公卿・政治家岩倉具視が亡くなった日です。
 岩倉具視(いわくら ともみ)は、江戸時代後期の1825年(文政8年9月15日)に、京都において、公卿・堀河康親の次男(母は勧修寺経逸の娘・吉子)として生まれましたが、幼名は周丸(かねまる)と言いました。1837年(天保8)に岩倉具慶の養子となり、岩倉具視を名乗るようになります。
 1838年(天保9)に従五位下に叙位され、同年に元服し、昇殿を許されました。1853年(嘉永6)に、歌道を通じて関白鷹司政通に接するわうになり、1854年(安政元)には、孝明天皇の侍従となります。
 1858年(安政5)に、幕府の老中堀田正睦が「日米修好通商条約」の勅許を奏請したことに対して、「神州萬歳堅策」を起草、内奏し、88人の公家の列参(集団行動)で反対して、勅許を失敗させました。1860年(万延元)に、桜田門外の変で大老井伊直弼が殺害されたのち、公武合体をとなえて、皇女和宮(かずのみや)の降嫁を実現します。
 1862年(文久2)に和宮降嫁を策したことで、四奸の一人とされ、左近衛権中将を辞任して、洛北の岩倉村に蟄居し、落髪して法名を友山としました。1867年(慶応3)には、中山忠能、正親町三条実愛、中御門経之と画策して薩長両藩に討幕の密勅を下すことに成功し、処分を解除され、尊王討幕派と結び、王政復古のクーデタを成功させます。
 それによって、明治新政府の中枢にすわり、議定、副総裁、大納言を経て、1871年(明治4)には、右大臣となりました。また、同年特命全権大使となって、政府首脳を率い渡欧(岩倉使節団)、欧米の文化・制度を視察します。
 1873年(明治6)帰国後は、征韓論に反対し、同年10月には太政大臣代理となり、征韓中止の勅裁を得ました。自由民権運動を弾圧し、天皇制による立憲制確立のために、井上毅に欽定憲法の原則「大綱領」を起草させます。
 また、宮廷改革にも意を配り、皇室財産確立を意図し、華族の財産保護を目的とした第十五銀行、華族の事業の日本鉄道会社を設立するなど華族の地位を擁護し、近代天皇制の確立に努めました。しかし、1883年(明治16)7月20日に、東京において、数え年59歳で亡くなり、太政大臣を追贈されると共に、国葬が執り行われています。

〇岩倉具視関係略年表(明治5年以前の日付は旧暦です)

・1825年(文政8年9月15日) 京都において、公卿・堀河康親の次男(母は勧修寺経逸の娘・吉子)として生まれる
・1837年 (天保8年8月8日)  岩倉具慶の養子となる
・1838年(天保9年10月28日) 従五位下に叙位される
・1838年(天保9年12月11日) 元服し、昇殿を許される
・1841年(天保12年6月4日) 従五位上に昇叙される
・1845年(弘化2年2月18日) 正五位下に昇叙される
・1853年(嘉永6年) 歌道を通じて関白鷹司政通(たかつかさまさみち)に接する
・1854年(安政元年3月20日) 孝明天皇の侍従となる
・1854年(安政元年6月10日) 従四位下に昇叙する
・1858年(安政5年2月) 幕府の老中堀田正睦が日米修好通商条約の勅許を奏請したことに対して、「神州萬歳堅策」を起草、内奏する
・1860年(万延元年) 桜田門外の変で大老井伊直弼が殺害されたのち、幕府が公武合体策を進め、皇女和宮(かずのみや)の降嫁を実現する
・1860年(万延元年12月29日) 右近衛権少将に転任する
・1861年(万延2年1月5日) 正四位下に昇叙する
・1861年(文久元年) 和宮に随従し江戸に赴き帰京する
・1862年(文久2年4月) 島津久光に面会、「三事策」を提示して公武合体運動を支持する
・1862年(文久2年5月15日) 左近衛権中将に転任する
・1862年(文久2年8月20日) 和宮降嫁を策したことで、四奸の一人とされ、左近衛権中将を辞任し、蟄居する
・1862年(文久2年8月22日) 落髪し、法名を友山とする
・1865年(慶応元年)春頃 非蔵人松尾相永の訪問を受けてより、同志の廷臣・薩摩藩士との交流が再開し、政界復帰への意欲を深める
・1866年(慶応2年8月) 親幕派の関白二条斉敬、朝彦親王の追放を策謀、同志の大原重徳、中御門経之ら22名は列参奏上を敢行したが失敗する
・1867年(慶応3年6月) 坂本竜馬、中岡慎太郎、次いで大久保利通との交流が始まる
・1867年(慶応3年10月) 中山忠能、正親町三条実愛,中御門経之と画策して薩長両藩に討幕の密勅を下す
・1867年(慶応3年12月8日) 処分を解除される
・1867年(慶応3年12月9日) 政変を断行し、明治政府参与を兼務する
・1867年(慶応3年12月27日) 明治新政府参与から議定に異動兼務する
・1868年(慶応4年1月9日) 明治新政府の副総裁を兼任する
・1868年(慶応4年1月27日) 政府会計事務総督及び海陸軍事務総督兼務する
・1868年(慶応4年2月2日) 従三位昇叙し、右兵衛督に任官する(時に、政府副総裁議定会計事務総督海陸軍事務総督従三位行右兵衛督)
・1868年(慶応4年2月20日) 政府会計事務総督及び海陸軍事務総督辞職する
・1868年(慶応4年閏4月20日) 政府副総裁を辞職する
・1868年(慶応4年閏4月21日) 政府制度改正により、議政官たる上局議定及び輔相を兼務する
・1868年(明治2年1月7日) 輔相を辞任する
・1868年(明治2年1月25日) 正二位に昇叙し、権大納言に転任する
・1868年(明治2年7月8日) 制度改正により、上局議定より大納言に異動する
・1868年(明治2年8月) 王政復古の功により永世禄として5,000石を授けられる
・1868年(明治2年11月23日) 兵部省御用掛兼務となる
・1869年(明治3年) 勅使として鹿児島,山口へ赴き、島津久光、毛利敬親に面会、新政府強化のため両藩の協力を要請する
・1871年(明治4年7月14日) 廃藩置県に伴う官制改革で外務卿となる
・1871年(明治4年10月8日) 右大臣並びに遣外使節団特命全権大使に異動する
・1871年(明治4年11月12日) 条約改正交渉と米欧視察のため、特命全権大使として使節団を引率して外国の巡回へ向かう
・1873年(明治6年)9月13日 米欧視察から帰国する
・1873年(明治6年)10月20日 太政大臣代理を兼任するが、同日のみとなる
・1873年(明治6年)10月24日 征韓中止の勅裁を得る
・1874年(明治7年)1月 赤坂喰違で征韓派の士族に襲われる
・1876年(明治9年)4月9日 華族会館長に就任する
・1876年(明治9年)5月18日 従一位昇叙する
・1876年(明治9年)5月26日 華族督部長兼務する
・1876年(明治9年)12月29日 勲一等旭日大綬章を受章する
・1881年(明治14年) 井上毅(いのうえこわし)に命じて「大綱領」を起草させる
・1882年(明治15年)11月1日 大勲位菊花大綬章を受章する
・1882年(明治15年)11月15日 華族督部長職廃止に伴い止む
・1882年(明治15年)12月4日 華族会館長を辞職する
・1883年(明治16年)4月7日 宮内省編纂局総裁心得を兼務する
・1883年(明治16年)7月20日 東京において、数え年59歳で亡くなる
・1883年(明治16年)7月23日 太政大臣が追贈される
・1883年(明治16年)7月25日 国葬が行われる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1866年(慶応2)江戸幕府第14代将軍徳川家茂の命日(新暦8月29日)詳細
1907年(明治40)豊国炭鉱(福岡県)で炭塵爆発事故により死者365人を出す詳細
1948年(昭和23年)国民の祝日に関する法律」(祝日法)が公布・施行され9つの祝日が誕生する詳細
1975年(昭和50)沖縄国際海洋博覧会(沖縄海洋博)が開幕詳細


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 今日は、昭和時代中期の1946年(昭和21)に、日本労働運動の先駆的指導者・政治家鈴木文治の亡くなった日です。
 鈴木文治(すずき ぶんじ)は、1885年(明治18)9月4日に、宮城県栗原郡金成村(現在の栗原市)の酒造業を営む旧家鈴木益治の長男として生まれました。10歳の頃に父親と共にキリスト教に入信、宮城県尋常中学校志田郡立分校(現在の古川高等学校)を経て、1902年(明治35)に旧制山口高等学校に入学します。1905年(明治38)に旧制山口高等学校卒業後、東京帝国大学法科に入学、同郷の先輩である吉野作造と共に、海老名弾正率いる組合派の本郷教会に所属、社会問題に関心を持ちました。
 1909年(明治42)に東京帝国大学法科大学政治学科卒業後、秀英社に入社、翌年に東京朝日新聞に移り、貧民問題の取材に取り組みます。1911年(明治44)にユニテリアン派の統一基督教弘道会(会長安部磯雄)に幹事として就職、翌年には、労働者の地位向上を目指して、14名の賛同者とともに「友愛会」を発足させ会長となりました。
 労働者の修養、共済を目的とし労使協調主義を取りましたが、1915年(大正4)と翌年の2度にわたり、渡米して米国の労働組合事情を学び、ゴンパースの知己を得て、AFL(アメリカ労働総同盟)大会にも出席、次第に団結権、ストライキ権を主張するようになります。この頃より「友愛会」は全国的労働組合に成長していき、1919年(大正8)に「大日本労働総同盟友愛会」と改称され、アメリカのワシントンでの第1回国際労働会議にも参加し、ILO創設にも参画しました。
 労働者の要求20項目(労働組合の自由、8時間労働、普通選挙、治安警察法の改正など)を掲げるようになって、労働争議を直接組織したり指導したりするようになり、1921年(大正10)には「日本労働総同盟」と改称されます。一方で農民運動にも関わり、1923年(大正12)に『農村問題講話』、『農村問題早わかり』を刊行、翌年には、日本農民組合関東同盟会長となりました。
 1925年(大正14)には、日本労働総同盟(総同盟)を除名された左派系労働組合が「日本労働組合評議会」を結成して分裂しましたが、会長職にとどまります。1926年(大正15)に社会民衆党の結成に参加し中央執行委員となり、1928年(昭和3)の第1回目の男子普通選挙となる第16回衆議院議員総選挙に旧大阪4区から立候補し当選しました。
 しかし、1930年(昭和5)の総選挙で落選、「日本労働総同盟」会長も退任します。1932年(昭和7)の無産政党合同により社会大衆党顧問に就任、1936年(昭和11)の総選挙に社会大衆党公認で旧東京6区から当選、1937年(昭和12)にも再選を果たしました。ところが、1940年(昭和15)に反軍演説を行った民政党代議士斎藤隆夫の除名問題で、党議に反して採決に対し棄権すると、除名処分となり、勤労国民党の結成を準備しましたが禁止され、戦時中は憲兵隊の監視下におかれます。
 太平洋戦争後、1945年(昭和20)の日本社会党の結成に参加し、翌年の総選挙に出馬、その選挙運動中に、宮城県仙台市において、心臓喘息により、60歳で急逝しました。

〇鈴木文治の主要な著作

・『日本の労働問題』(1919年)
・『農村問題講話』(1923年)
・『農村問題早わかり』(1923年)
・『民衆政治講座』(1929年)
・『労働運動二十年』(1931年)
・『米國勞働界現状と其の對日風潮』(1938年)
・『国際労働問題』

☆鈴木文治関係略年表

・1885年(明治18)9月4日 宮城県栗原郡金成村(現・栗原市)の旧家鈴木益治の長男として生まれる
・1902年(明治35) 旧制山口高等学校に入学する
・1905年(明治38) 旧制山口高等学校卒業後、東京帝国大学法科に入学する 
・1909年(明治42) 東京帝国大学法科大学政治学科卒業後、秀英社に入社する
・1910年(明治43) 東京朝日新聞に入社、貧民問題の取材に取り組む
・1911年(明治44) ユニテリアン派の統一基督教弘道会(会長安部磯雄)に幹事として就職する
・1912年(大正元) 労働者の地位向上を目指して、14名の賛同者とともに「友愛会」を発足させ会長となる
・1915年(大正4) 渡米して米国の労働組合事情を学ぶ
・1916年(大正5) 2度目の渡米をして米国の労働組合事情を学ぶ
・1919年(大正8) 「友愛会」が「大日本労働総同盟友愛会」と改称される、ILO創設に参画する、『日本の労働問題』を刊行する
・1921年(大正10) 「大日本労働総同盟友愛会」が「日本労働総同盟」と改称される
・1923年(大正12) 『農村問題講話』、『農村問題早わかり』を刊行する
・1924年(大正13) 日本農民組合関東同盟会長となる
・1926年(大正15) 社会民衆党の結成に参加し中央執行委員となる
・1928年(昭和3) 第1回目の男子普通選挙となる第16回衆議院議員総選挙に旧大阪4区から立候補し当選する
・1929年(昭和4) 『民衆政治講座』を刊行する 
・1930年(昭和5) 第17回衆議院議員総選挙で落選、「日本労働総同盟」会長を退任する
・1931年(昭和6) 『労働運動二十年』を刊行する
・1932年(昭和7) 無産政党合同により社会大衆党顧問に就任する
・1936年(昭和11) 第18回衆議院議員総選挙に社会大衆党公認で旧東京6区から当選する
・1937年(昭和12) 第19回衆議院議員総選挙に社会大衆党公認で旧東京6区から当選する
・1940年(昭和15) 反軍演説を行った民政党代議士斎藤隆夫の除名問題で、党議に反して採決に対し棄権すると、除名処分となる
・1945年(昭和20) 日本社会党の結成に参加する
・1946年(昭和21)3月12日 宮城県仙台市において、心臓喘息により60歳で急逝する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1633年(寛永10)第110代の天皇とされる後光明天皇の誕生日(新暦4月20日)詳細
1705年(宝永2)思想家・儒学者・古義学派の創始者伊藤仁斎の命日(新暦4月5日)詳細
2011年(平成23)九州新幹線の新八代~博多が延伸開業し、鹿児島ルートの全線開通となる詳細
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 今日は、大正時代の1922年(大正11)に、政治家・思想家・弁護士・社会運動家大井憲太郎の亡くなった日です。
 大井憲太郎(おおい けんたろう)は、1843年(天保14年8月10日)に、豊後国宇佐郡高並村(現在の大分県宇佐市)で、農民だった父・高並彦郎と母・サノの三男として生まれましたが、幼名は彦六と言いました。1852年(嘉永5)に豊前国温見村の医師 岩男浩然に入門し、四書五経などを学び、1862年(文久2)には、長崎で蘭学、舎密学(化学)を学びます。
 1863年(文久3)に大井卜新とともに大阪へ行き、親交を深めて義兄弟となり、高並を改めて大井姓を名乗り、1865年(慶応元)に幕府開成所でフランス語、化学を学び始め、翌年には開成所舎密局の世話心得となりました。1868年(明治元)の戊辰戦争では幕軍砲兵隊に属し官軍と戦い、翌年に箕作麟祥に師事し、フランス学を学び、1870年(明治3)には、名を大井憲太郎と改めます。
 1871年(明治4)に兵部省に出仕、1873年(明治6)に陸軍省八等に出仕、1874年(明治7)には、通志社を興し「叢談」を刊行、東洋社を設けて書籍を出版して啓蒙活動を行いました。1875年(明治8)に元老院少書記となったものの、翌年免官され、愛国社創立に参画、その後は弁護士(当時は代言人)として活動します。
 1877年(明治10)には、大井卜新の養子となり、北畠道竜らと私塾「構法学社」を開き、その後分離独立させて「明法学社」を開きました。1880年(明治13)に国会期成同盟に加わり、翌年に自由党が結成されるや入党、自由民権運動の第一線に出て急進派として活動、1884年(明治17)には、秩父の借金党(秩父困民党)を指導します。
 1885年(明治18)に朝鮮の内政改革運動の大阪事件を起こして逮捕され、禁錮9年の刑を受けましたが、1889年(明治22)の大赦令で出獄し、新井新吾らと「大同協和会」を結成、会長となりました。1890年(明治23)に板垣退助と共に自由党を再興し、立憲自由党に改組して常議員となり、「あづま新聞」を創刊したものの、翌年廃刊となります。
 1892年(明治25)に立憲自由党を脱党、東洋自由党を結成し、普通選挙を唱えましたが、翌年解散しました。1894年(明治27)の第3回衆議院議員総選挙に大阪より立候補して初当選、1898年(明治31)には、東京で南洋貿易商会を営み、自由党、進歩党の合同に尽くし憲政党総務となります。
 1899年(明治32)に普通選挙期成同盟会(後の普通選挙同盟)を片山潜らと結成、大日本労働協会や小作条例期成同盟会も組織し、社会運動の先駆けをなしました。1905年(明治38)に満州に渡り、労働者保護事業に従事したものの、1917年(大正6)に病のため満州より帰国します。
 その後も、1919年(大正8)に普通選挙運動の高潮にあたりハガキ運動を提唱したりしましたが、1922年(大正11)10月15日に、東京牛込二十騎町(現座主の東京都新宿区)において、数え年80歳で亡くなりました。

〇大井憲太郎の主要な著作

・翻訳『仏国政典』
・翻訳『仏国民選議院選挙法』
・『自由略論』
・『時事要論』

☆大井憲太郎関係略年表(明治5年以前の日付は旧暦です)

・1843年(天保14年8月10日) 豊後国宇佐郡高並村(現在の大分県宇佐市)で、農民だった父・高並彦郎と母・サノの三男として生まれる
・1852年(嘉永5年) 豊前国温見村の医師 岩男浩然に入門し、四書五経などを学ぶ
・1862年(文久2年) 長崎で蘭学、舎密学(化学)を学ぶ
・1863年(文久3年) 大井卜新とともに大阪へ行き、親交を深めて義兄弟となり、高並を改めて大井姓を名乗る
・1865年(慶応元年) 幕府開成所でフランス語、化学を学び始める
・1866年(慶応2年) 幕府開成所舎密局の世話心得となる
・1868年(明治元年) 戊辰戦争では幕軍砲兵隊に属し官軍と戦う
・1869年(明治2年) 箕作麟祥に師事し、フランス学を学ぶ
・1870年(明治3年) 名を大井憲太郎と改める
・1871年(明治4年) 兵部省に出仕する
・1873年(明治6年) 陸軍省八等に出仕する
・1874年(明治7年) 通志社を興し「叢談」を刊行、東洋社を設けて書籍を出版して啓蒙活動を行う
・1875年(明治8年)5月 元老院少書記となる
・1876年(明治9年) 元老院少書記を免官され、愛国社創立に参画する
・1877年(明治10年) 大井卜新の養子となり、北畠道竜らと私塾「構法学社」を開き、その後分離独立させて「明法学社」を開く
・1880年(明治13年) 国会期成同盟に加わる
・1881年(明治14年) 自由党が結成されるや入党、自由民権運動の第一線に出る
・1884年(明治17年) 秩父の借金党を指導する
・1885年(明治18年) 朝鮮の内政改革運動の大阪事件を起こして逮捕され、禁錮9年の刑を受ける
・1889年(明治22年) 大赦令で出獄し、新井新吾らと「大同協和会」を結成、会長となる
・1890年(明治23年)2月 板垣退助とともに自由党を再興し、立憲自由党に改組して常議員となる
・1890年(明治23年)12月 「あづま新聞」を創刊する
・1891年(明治24年) 「あづま新聞」が廃刊となる
・1892年(明治25年)2月 立憲自由党を脱党する
・1892年(明治25年)11月 東洋自由党を結成、普通選挙を唱える
・1893年(明治26年) 東洋自由党が解散となる
・1894年(明治27年)3月 第3回衆議院議員総選挙に大阪より立候補し、初当選する
・1898年(明治31年) 東京で南洋貿易商会を営み、自由党、進歩党の合同に尽くし憲政党総務となる
・1899年(明治32年) 普通選挙期成同盟会(後の普通選挙同盟)を片山潜らと結成する
・1899年(明治32年)6月 大日本労働協会、小作条例期成同盟会を組織する
・1900年(明治33年) 中村太八郎らが活動する普通選挙同盟会の評議員となる
・1901年(明治34年)5月 大日本労働協会、小作条例期成同盟会を解散する
・1905年(明治38年) 満州に渡り、労働者保護事業に従事する
・1917年(大正6年) 病のため満州より帰国する
・1919年(大正8年) 普通選挙運動の高潮にあたりハガキ運動を提唱する
・1922年(大正11年)10月15日 東京牛込二十騎町(現座主の東京都新宿区)において、数え年80歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

743年(天平15)聖武天皇が「大仏建立の詔」(東大寺大仏建立)を発する(新暦11月5日)詳細
1872年(明治5)小説家・劇作家岡本綺堂の誕生日(新暦11月15日)詳細
1956年(昭和31)天竜川中流に佐久間ダムが竣工し、完成式が行われる詳細
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