ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:政治家

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 今日は、明治時代前期の1887年(明治20)に、砂防工学者・政治家赤木正雄が生まれた日です。
 赤木正雄(あかぎ まさお)は、兵庫県城崎郡中筋村引野(現在の豊岡市)において、豪農の旧家だった父・赤木甚太夫、母・たみの4女2男の末子として生まれました。1旧制豊岡中学校、旧制第一高等学校を経て、1911年(明治44)に、東京帝国大学農科大学林学科に入学します。
 治水・砂防の道を進む決心をし、1914年(大正3)に卒業後、内務省へ入省、滋賀県田上山の山腹工事、翌年には、徳島県吉野川の砂防工事に従事しました。1923年(大正12)に自費でオーストリアに留学し、ウィーン農科大学で、近代的な砂防技術を学び、1925年(大正14)に帰国後、内務省に復職します。
 1926年(大正15)に初代立山砂防工事事務所長を兼務、京都帝国大学農学部講師を兼任、1929年(昭和4)に日本大学工学部講師も兼任、1935年(昭和10)には、京都帝国大学より農学博士を授与され、全国治水砂防協会を設立しました。1936年(昭和11)に勅任官に任命され、砂防工事全体計画を作成、1938年(昭和13)に砂防専管の第3技術課初代課長に就任、1940年(昭和15)には、砂防協会を社団法人にし、第3技術課が廃止されて、1942年(昭和17)には、内務省を退官し、砂防協会の仕事に専念します。
 1946年(昭和21)に貴族院議員に勅選され、1947年(昭和22)の第1回参議院議員選挙で当選、1948年(昭和23)には、建設政務次官に就任し、昭和天皇に御進講しました。1955年(昭和30)に砂防会館建築に着手、参議院建設委員会委員長に就任しましたが、1956年(昭和31)には、参議院議員選挙全国区で落選したものの、翌年に砂防会館が竣工しています。
 1960年(昭和35)に建設事業功労者として藍綬褒章を受章、1971年(昭和46)には、文化功労者となり、文化勲章を受章、豊岡市の名誉市民ともなりました。「砂防の父」、「砂防の神様」とも呼ばれてきましたが、1972年(昭和47)9月24日に、東京都杉並区において、85歳で亡くなり、従三位、勲一等瑞宝章を追贈されています。

〇赤木正雄の主要な著作

・『アルス土木工学大講座第12 渓流及砂防工学』(1939年)
・『高等土木工学第16巻 渓流及砂防工学』(1941年)
・自伝『砂防一路』(1967年)
・『明治大正日本砂防工事々績ニ徴スル工法論』(1974年)
・『砂防工事』(1975年)

☆赤木正雄関係略年表

・1887年(明治20)3月24日 兵庫県城崎郡中筋村引野(現在の豊岡市)において、豪農の旧家だった父・赤木甚太夫、母・たみの4女2男の末子として生まれる
・1906年(明治39) 豊岡中学校を卒業する
・1908年(明治41) 旧制第一高等学校に入学する
・1911年(明治44) 旧制第一高等学校を卒業し、東京帝国大学農科大学林学科に入学する
・1914年(大正3) 東京帝国大学農科大学林学科を卒業し、内務省へ入省、滋賀県田上山の山腹工事に従事する
・1915年(大正4) 徳島県吉野川の砂防工事に従事する
・1923年(大正12) オーストリアに留学し、ウィーン農科大学で、近代的な砂防技術を学ぶ
・1925年(大正14) 留学から帰国し、内務省に復職する
・1926年(大正15) 初代立山砂防工事事務所長を兼務、京都帝国大学農学部講師を兼任する
・1929年(昭和4) 日本大学工学部講師を兼任する
・1935年(昭和10) 京都帝国大学より農学博士を授与され、全国治水砂防協会を設立する
・1936年(昭和11) 勅任官に任命され、砂防工事全体計画を作成する
・1938年(昭和13) 砂防専管の第3技術課初代課長に就任する
・1940年(昭和15) 砂防協会を社団法人にし、第3技術課が廃止される
・1942年(昭和17) 内務省を退官する
・1946年(昭和21) 貴族院議員に勅選される
・1947年(昭和22) 第1回参議院議員選挙で当選する
・1948年(昭和23) 建設政務次官に就任し、昭和天皇に御進講する
・1955年(昭和30) 砂防会館建築に着手、参議院建設委員会委員長に就任する
・1956年(昭和31) 参議院議員選挙全国区で落選する
・1957年(昭和32) 砂防会館が竣工する
・1960年(昭和35) 建設事業功労者として藍綬褒章を受章する
・1971年(昭和46) 豊岡市の名誉市民、文化功労者となり、文化勲章を受章する
・1972年(昭和47)9月24日 東京都杉並区において、85歳で亡くなり、従三位、勲一等瑞宝章を追贈される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1185年(寿永4)壇ノ浦の戦いが行われ、平家一門が滅亡する(新暦4月25日)詳細
1847年(弘化4)信濃国で善光寺地震(推定マグニチュード7.4)が起き、甚大な被害をもたらす(新暦5月8日)詳細
1891年(明治24)「度量衡法」(明治24年3月24日法律第3号)が公布される詳細
1932年(昭和7)小説家梶井基次郎の命日詳細
1974年(昭和49)建築家吉田五十八の命日詳細
1983年(昭和58)千代田IC~鹿野ICの開通によって、中国自動車道(吹田~下関)が全通する詳細
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inouekaoru01
 今日は、江戸時代後期の天保6年に、幕末の志士・政治家井上馨の生まれた日ですが、新暦では1836年1月16日となります。
 井上馨(いのうえ かおる)は、周防国吉敷郡湯田村(現在の山口市湯田温泉)において、長州藩士だった父・井上光享の次男として生まれましたが、幼名は勇吉(ゆうきち)と言いました。1851年(嘉永4)に兄の井上光遠(五郎三郎)とともに藩校明倫館に入学、1855年(安政2)には、長州藩士志道慎平の養嗣子(のち井上家に復帰)となります。
 1860年(万延元)に藩主毛利敬親の小姓役となり、藩主から聞多の名を賜りましたが、尊王攘夷運動に参加し、1862年(文久2)には、高杉晋作、伊藤博文らと品川のイギリス公使館を襲撃しました。1863年(文久3)に伊藤博文らとイギリスに渡航、開国の必要を悟り、1864年(元治元)には、下関砲撃事件を聞いて急遽帰国し、通訳として講和に参加します。
 1866年(慶応2)に高杉晋作ら奇兵隊の藩政クーデタに鴻城隊長として参加、薩長連合による討幕策のため長崎に滞在し武器、外国船の購入などに携わりました。1868年(明治元)に新政府の成立に伴い、長崎府判事に就任し長崎製鉄所御用掛となり、銃の製作事業や鉄橋建設事業に従事するなどし、翌年には、大蔵省に移り造幣頭、民部大丞兼大蔵大丞、大阪府大参事心得を兼ね、造幣事業の進展に努力します。
 1871年(明治4)に大蔵大輔に就任したものの、1873年(明治6)に、予算問題や尾去沢銅山汚職事件を追及されて、辞職しました。1875年(明治8)の大阪会議を契機に元老院議官として政府に復帰、江華島事件の特命副全権弁理大臣を務め、1876年(明治9)に「日朝修好条規」の調印に立ち合ったのち、欧州へ出張します。
 1878年(明治11)に帰国して、参議兼工部卿となり、翌年には外務卿に転じました。1882年(明治15)に壬午事変が起こると朝鮮と済物浦条約を締結して戦争を回避、1883年(明治16)には、鹿鳴館(ろくめいかん)を建設し日夜各国公使らを招いて祝宴を張ります。
 1884年(明治17)の「華族令」で伯爵となり、翌年には、内閣制度樹立後、第一次伊藤博文内閣の外務大臣となりました。1887年(明治20)に本格化した条約改正交渉に強い反対が噴出したため、交渉を中止し外務大臣を辞任、翌年の黒田内閣で農商務大臣となりましたが、山県有朋内閣成立とともに辞職しています。
 1892年(明治25)の第2次伊藤内閣で内務大臣となったものの、1894年(明治27)には辞任し、朝鮮駐在特命全権大使を自ら望んで引き受け「朝鮮内政改革」に乗り出しました。1898年(明治31)の第3次伊藤内閣で大蔵大臣となり、地租増徴をねらったものの、失敗します。
 財界、特に三井との関係が深く、1900年(明治33)制定の「三井家憲」において三井家終身顧問としての地位を明記されるなど、「三井の番頭」とも言われました。1907年(明治40)には侯爵ともなりましたが、1915年(大正4)9月1日に、静岡県興津町(現在の静岡市清水区)の別荘・長者荘において、数え年81歳で亡くなっています。

〇井上馨関係略年表(明治5年以前の日付は旧暦です)

・1836年(天保6年11月28日) 周防国吉敷郡湯田村(現在の山口市湯田温泉)において、長州藩士だった父・井上光享の次男として生まれる
・1851年(嘉永4年) 兄の井上光遠(五郎三郎)とともに藩校明倫館に入学する
・1855年(安政2年) 長州藩士志道慎平の養嗣子となる
・1860年(万延元年) 藩主毛利敬親の小姓役となり、藩主から聞多の名を賜る
・1862年(文久2年) 高杉晋作、伊藤博文らと品川のイギリス公使館を襲撃する
・1863年(文久3年) 伊藤博文らとイギリスに渡航、開国の必要を悟る
・1864年(元治元年) 下関砲撃事件を聞いて帰国し、通訳として講和に参加する
・1865年(慶応元年) 攘夷浪士に非難され、身の危険を感じ当時天領であった別府に逃れる
・1866年(慶応2年) 高杉晋作ら奇兵隊の藩政クーデタに鴻城隊長として参加する
・1868年(明治元年) 長崎府判事に就任し長崎製鉄所御用掛となり、銃の製作事業や鉄橋建設事業に従事する
・1869年(明治2年) 大蔵省に移り造幣頭、民部大丞兼大蔵大丞、大阪府大参事心得を兼ね、造幣事業の進展に努力する
・1869年(明治2年11月10日) 従五位となる
・1869年(明治2年12月13日) 従四位となる
・1870年(明治3年8月) 大隈重信の仲介で新田俊純の娘・武子と結婚する
・1871年(明治4年) 大蔵大輔に就任する
・1873年(明治6年)5月 予算問題や尾去沢銅山汚職事件を追及されて、大蔵大輔を辞職する
・1875年(明治8年) 大阪会議を契機に元老院議官として政府に復帰、江華島(こうかとう)事件の特命副全権弁理大臣を務める
・1876年(明治9年) 江華島事件処理の特命全権副使として日朝修好条規の調印に立ち合ったのち、欧州へ出張する
・1878年(明治11年) 帰国して、参議兼工部卿(こうぶきょう)となる
・1879年(明治12年) 外務卿となる
・1879年(明治12年)2月10日 勲一等旭日大綬章を受章する
・1881年(明治14年) 大隈重信と伊藤が国家構想をめぐり対立したときは、伊藤と協力して大隈を政界から追放する(明治十四年の政変)
・1882年(明治15年) 壬午事変が起こると朝鮮と済物浦条約を締結して戦争を回避する
・1883年(明治16年) 鹿鳴館(ろくめいかん)を建設し日夜各国公使らを招いて祝宴を張る
・1884年(明治17年) 甲申(こうしん)政変後の特派全権大使となる
・1884年(明治17年)7月7日 「華族令」で伯爵となる
・1885年(明治18年) 内閣制度樹立後、第一次伊藤博文内閣の外務大臣となる
・1885年(明治18年)4月6日 メクレンブルク=シュヴェリーン大公国:グライフェン勲章グロースクロイツを受章する
・1885年(明治18年)4月14日 ハワイ王国:カメハメハ第一世勲章グランドクロスを受章する
・1885年(明治18年)5月8日 ロシア帝国:白鷲大綬章を受章する
・1886年(明治19年)2月3日 波斯国:獅子太陽第一等勲章を受章する
・1886年(明治19年)10月19日 従二位となる
・1887年(明治20年) 本格化した条約改正交渉に強い反対が噴出したため、交渉を中止し外務大臣を辞任する
・1888年(明治21年) 黒田内閣で農商務大臣となるが、山県有朋内閣成立とともに辞職する
・1888年(明治21年)7月21日 銀製黄綬褒章を受章する
・1889年(明治22年)11月25日 大日本帝国憲法発布記念章を受章する
・1892年(明治25年)8月 第2次伊藤内閣で内務大臣となる
・1892年(明治25年)11月10日 オーストリア=ハンガリー帝国:鉄冠第一等勲章を受章する
・1894年(明治27年)10月 内務大臣を辞任し、朝鮮駐在特命全権大使を自ら望んで引き受け「朝鮮内政改革」に乗り出す
・1895年(明治28年)10月7日 旭日桐花大綬章を受章する
・1896年(明治29年)6月20日 正二位となる
・1898年(明治31年)1月 第3次伊藤内閣で大蔵大臣となる
・1899年(明治32年) 自ら有楽会を組織し、有力財界人との懇談の場を設ける
・1900年(明治33年) 制定の三井家憲において三井家終身顧問としての地位を明記される
・1902年(明治35年)6月21日 大韓帝国:李花大綬章を受章する
・1903年(明治36年) 斬奸状を送られる危険な立場に置かれる
・1904年(明治37年) 日露戦争が勃発すると戦費調達に奔走して国債を集め、足りない分は外債を募集する
・1906年(明治39年)4月1日 大勲位菊花大綬章を受章する
・1907年(明治40年)9月21日 侯爵となり、貴族院議員章を受章する
・1908年(明治41年)3月 三井物産が建設した福岡県三池港の導水式に出席する
・1911年(明治44年)5月10日 維新史料編纂会総裁に任命される
・1912年(明治45年) 辛亥革命で革命側を三井物産を通して財政援助する
・1915年(大正4年)9月1日 静岡県興津町(現在の静岡市清水区)の別荘・長者荘において、数え年81歳で亡くなり、従一位を追贈される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1185年(文治元)源義經追討のため、「文治の勅許」により、諸国に守護・地頭を置くことを許可する(新暦12月21日)詳細
1872年(明治5)「徴兵令詔書及ヒ徴兵告諭」が発布される(新暦12月28日)詳細
1878年(明治11)物理学者・随筆家・俳人寺田虎彦の誕生日詳細
1883年(明治16)鹿鳴館が開館する詳細
1897年(明治30)小説家・随筆家宇野千代の誕生日詳細
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 今日は、大正時代の1923年(大正12)に、自由民権運動家・政治家河野広中の亡くなった日です。
 河野広中(こうの ひろなか)は、江戸時代後期の1849年(嘉永2年7月7日)に、磐城国田村郡三春(現在の福島県田村郡三春町)において、三春藩郷士の父・河野広可と妻・リヨ子の三男として生まれました。川前紫渓に儒学を学び、その影響で尊皇攘夷論を唱えるようになり、1868年(慶応4)の戊辰戦争では討幕軍に従軍し、討幕軍参謀板垣退助の知遇を得ます。
 明治新政権成立後は、若松県や三春藩庁へ出仕し、のち常葉の戸長、石川の区長を務め、その頃にジョン・スチュアート・ミルの『自由乃理』(中村正直の訳)を読み感化されました。1875年(明治8)に石川に政治結社・石陽社を組織し、東北地方の自由民権運動の先駆けとなり、1877年(明治10)に西南戦争が勃発すると、高知に板垣退助を訪ね、国会開設運動の母体として愛国社の再結成を協議します。
 1878年(明治11)に、三春に三師社を組織して東北の自由民権運動を指導、翌年には、三春町戸長ともなりました。1879年(明治12)に大阪で開かれた第3回愛国社大会に参加、翌年には片岡健吉と共に、政府に国会開設意見書を提出したものの、受理されずに終わります。
 1881年(明治14)に福島県会議長に就任、自由党結成に参加し、自由党幹部となり、翌年に福島県令に着任した三島通庸と対立を深めました。同年12月の福島事件により国事犯として拘引され、翌年に高等法院において軽禁獄7年の刑を宣告されます。
 1889年(明治22)の大日本帝国憲法発布の大赦により出獄、翌年の第1回衆院議員選挙に出馬し、初当選(以来14回連続当選)しました。1897年(明治30)に自由党を脱党しましたが、翌年には、自由党と立憲改進党の後身である進歩党の合同に尽力、憲政党の結成を見ています。
 1902年(明治35)に第11代衆議院議長に就任、1902年(明治35)の第19議会開院式で、対露強硬派の立場から勅語奉答文で、桂内閣弾劾を朗読し、政府はこれに反発し衆議院解散(奉答文事件)に至ります。1905年(明治38)に日露講和反対運動を起こし、日比谷焼打ち事件で投獄されたものの、翌年に無罪判決が出されて釈放されました。
 1909年(明治42)にアジア主義団体「亜細亜義会」に犬養毅、頭山満らと共に設立発起人として参加、1913年(大正2)に桂太郎の立憲同志会に入り、1915年(大正4)には、第2次大隈内閣の農商務大臣となります。1916年(大正5)に農商務大臣退任後、憲政会設立に参加、顧問に就任し、普通選挙運動に尽力したものの、議員在職中の1923年(大正12)12月29日に、東京において、肝臓癌のため数え年75歳で亡くなりました。

〇河野広中関係略年表(明治5年以前の日付は旧暦です)

・1849年(嘉永2年7月7日) 磐城国田村郡三春(現在の福島県田村郡三春町)において、三春藩郷士の父・河野広可と妻・リヨ子の三男として生まれる
・1868年(慶応4年) 戊辰戦争には討幕軍に従軍し、討幕軍参謀板垣退助を助ける
・1869年(明治2年11月) 若松藩(若松県)へ出仕する
・1870年(明治3年12月) 三春藩(三春県)庁捕亡取締となる
・1873年(明治6年)2月 磐前県第14区(のちの福島県常葉町・現田村市)の副戸長に任命される
・1873年(明治6年)10月 磐前県第14区の戸長となる
・1874年(明治7年)1月 第5大区区長となる 
・1875年(明治8年)8月 石川に政治結社・石陽社を組織し、東北地方の自由民権運動の先駆けとなる
・1877年(明治10年) 西南戦争が勃発すると、高知に板垣退助を訪ね、国会開設運動の母体として愛国社の再結成を協議する
・1878年(明治11年)1月 福島県属・庶務課民会掛となる
・1878年(明治11年)11月 三春に三師社を組織して東北の自由民権運動を指導する
・1879年(明治12年)2月 三春町戸長となる
・1879年(明治12年)7月 共愛同謀会を結成する
・1879年(明治12年) 大阪で開かれた第3回愛国社大会に参加する
・1880年(明治13年) 国会開設の請願書を政府に提出する
・1881年(明治14年)4月 福島県会議長となる
・1881年(明治14年)10月 自由党結成に参加し、自由党幹部となる
・1882年(明治15年) 福島県令に着任した三島通庸と対立、
・1882年(明治15年)12月 福島事件により国事犯として拘引される
・1883年(明治16年)9月 高等法院において軽禁獄7年の刑を宣告される
・1889年(明治22年)2月 大日本帝国憲法発布の大赦により出獄する
・1890年(明治23年) 第1回衆院議員選挙に出馬し、初当選(以来14回連続当選)する
・1897年(明治30年) 自由党を脱党する
・1898年(明治31年)6月 自由党と立憲改進党の後身である進歩党の合同に尽力、憲政党の結成を見る
・1902年(明治35年) 第11代衆議院議長となる
・1902年(明治35年)12月 第19議会開院式で、対露強硬派の立場から勅語奉答文で、桂内閣弾劾を朗読し、政府はこれに反発し衆議院解散に至る(奉答文事件)
・1905年(明治38年)11月 日露講和反対運動を起こし日比谷焼打ち事件で投獄される
・1906年(明治39年)4月 無罪判決が出されて釈放される
・1909年(明治42年) アジア主義団体「亜細亜義会」に犬養毅、頭山満らと共に設立発起人として参加する
・1913年(大正2年) 桂太郎の立憲同志会に入る
・1915年(大正4年) 第2次大隈内閣の農商務大臣となる
・1916年(大正5年) 農商務大臣退任後、憲政会設立に参加、顧問に就任し、普通選挙運動に尽力する
・1923年(大正12年)12月29日 東京において、肝臓癌のため数え年75歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1941年(昭和16)民俗学者・植物学者南方熊楠の命日詳細
1964年(昭和39)詩人・童謡作家・歌人・随筆家三木露風の命日詳細
1965年(昭和40)作曲家・指揮者山田耕筰の命日(山田耕筰忌)詳細
1993年(平成5)「生物の多様性に関する条約」が発効する詳細
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komurajyutarou01

 今日は、明治時代後期の1911年(明治44)に、政治家・外交官小村寿太郎の亡くなった日です。
 小村寿太郎(こむら じゅたろう)は、江戸時代後期の1855年(安政2年9月16日)に、日向国飫肥藩(現在の宮崎県日南市)の藩士だった父・小村寛(寛平)と母・梅(梅子)の長男として生まれ、1861年(文久元)には、平部嶠南などが師範を務めた飫肥藩の藩校振徳堂で学ぶようになりました。成績優秀だったため、1869年(明治2)には、長崎に赴いて学び、1870年(明治3年)に上京すると翌年には藩貢進生として大学南校に学びます。
 1875年(明治8)に文部省第1回留学生に選ばれてハーバード大学に入学、1880年(明治13)に同校法科を卒業、帰国後に司法省に入りました。1882年(明治15)に大審院判事となり、1884年(明治17)に外務省権少書記官に転じ、1888年(明治21)には、外務省翻訳局長になります。
 1893年(明治26)に清国公使館1等書記官となり、翌年日清間の緊張が高まると強硬論を唱え、1895年(明治28)には、駐朝鮮弁理公使となりました。1896年(明治29)に日露で朝鮮内政を共同監督する「小村・ウェーバー協定」を成立させ、外務次官となります。
 1898年(明治31)に駐米公使、1900年(明治33)に駐露公使、1901年(明治34)に駐清国公使となり、全権として「北清事変議定書」に調印しました。同年に第1次桂内閣の外務大臣に就任、翌年には日英同盟を締結、1905年(明治38)には、首席全権大使として米国ポーツマス市で「日露講和条約」を結びます。
 1906年(明治39)に枢密顧問官、駐英大使となり、1908年(明治41)に第2次桂内閣の外務大臣に再任され、1910年(明治43)には、韓国併合を実施しました。1911年(明治44)に米英独仏と、幕末以来の不平等条約を改正し関税自主権を回復、侯爵となりましたが、同年8月に内閣交替で外相を辞め、11月26日には、神奈川県葉山において、病気のため56歳で亡くなっています。

〇小村寿太郎関係略年表(明治5年以前の日付は旧暦です)

・1855年(安政2年9月16日) 日向国飫肥藩(現在の宮崎県日南市)の藩士だった父・小村寛(寛平)と母・梅(梅子)の長男として生まれる
・1861年(文久元年) 平部嶠南などが師範を務めた飫肥藩の藩校振徳堂で学ぶようになる
・1869年(明治2年) 長崎に赴いて学ぶ
・1870年(明治3年) 上京する
・1871年(明治4年) 藩貢進生として大学南校に学ぶ
・1875年(明治8年) 文部省第1回留学生に選ばれてハーバード大学に入学する
・1880年(明治13年) ハーバード大学法科を卒業、帰国後に司法省に入る
・1881年(明治14年)9月 旧幕臣朝比奈孝一の娘、マチ(町子)と結婚する
・1882年(明治15年)9月 大審院判事となる
・1884年(明治17年) 外務省権少書記官に転じる
・1885年(明治18年) 外務省翻訳局に勤務する
・1886年(明治19年)3月 外務省翻訳局次長に昇任する
・1888年(明治21年) 外務省翻訳局長に昇任する
・1893年(明治26年) 清国公使館1等書記官となる
・1894年(明治27年) 日清間の緊張が高まると強硬論を唱える
・1895年(明治28年) 駐朝鮮弁理公使となる
・1896年(明治29年)5月 朝鮮公使として日露で朝鮮内政を共同監督する「小村・ウェーバー協定」を成立させる
・1896年(明治29年)6月 外務次官となる
・1898年(明治31年) 駐米公使となる
・1900年(明治33年) 駐露公使となる
・1901年(明治34年) 全権として「北清事変議定書」に調印する
・1901年(明治34年) 第1次桂内閣の外務大臣に就任する
・1902年(明治35年)1月30日 日英同盟を締結する
・1902年(明治35年)2月27日 男爵となる
・1905年(明治38年) 首席全権大使として米国ポーツマス市で「日露講和条約」を結ぶ
・1906年(明治39年) 枢密顧問官、駐英大使となる
・1906年(明治39年)4月1日 旭日桐花大綬章を受章する
・1907年(明治40年)9月21日 伯爵となる
・1908年(明治41年) 第2次桂内閣の外務大臣に再任される
・1910年(明治43年) 韓国併合を実施する
・1911年(明治44年) 米英独仏と、幕末以来の不平等条約を改正し関税自主権を回復する
・1911年(明治44年)4月21日 侯爵となる
・1911年(明治44年)8月 内閣交替で外相を辞める
・1911年(明治44年)11月26日 神奈川県葉山において、病気のため56歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1906年(明治39)南満洲鉄道株式会社が設立される詳細
1935年(昭和10)日本ペンクラブが発足する(ペンの日)詳細
1941年(昭和16)ハル米国務長官が野村駐米大使に「合衆国及日本国間協定ノ基礎概略」(ハル・ノート)を手交する詳細
1957年(昭和32)東京都奥多摩町に上水道・発電用の小河内ダムが完成する詳細


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kataokakenkichi01

 今日は、明治時代後期の1903年(明治36)に、土佐藩士・自由民権家・政治家片岡健吉が亡くなった日です。
 片岡健吉(かたおか けんきち)は、江戸時代後期の1844年2月14日(天保14年12月26日)に、土佐国中島町(現在の高知市中島町)で、土佐藩上士(馬廻格・250石)片岡篤光(俊平)の嫡男(母は渋谷次兵衛篤輝の妹)として生まれましたが、幼名は寅五郎、諱は益光と言いました。1849年(嘉永2)に藩主への御目見えを許され、1861年(文久元)に御扈従、1863年(文久3)には、御郡奉行・御普請奉行・柄弦御指物附属となります。
 1865年(慶応元)に祖父・謙光(繁三郎)の跡目を継ぎ、1866年(慶応2)に外輪物頭六明組郷士隊長、1867年(慶応3)に御侍別撰小隊司令、そして京都奉行・御普請奉行・外輪物頭附属となりました。1868年(慶応4)に迅衝隊左半大隊司令及び外輪物頭に任じられ、京都に向けて出陣、現職のまま大目付に任じられ、御軍備御用を兼帯し、迅衝隊総督・板垣退助に従って戊辰戦争を戦い会津若松城攻略等数々の功を立て、陸軍参謀中老職となり、役領250石を加増されます。
 1869年(明治2)に参政・軍事掛を兼帯し、家禄400石に累進、明治維新後は新政府に出仕、1871年(明治4)には、高知藩権大参事となり、2年間のロンドン留学に出発しました。1873年(明治6年)に帰国後、海軍中佐となりましたが、政府内の征韓論派の失脚(明治六年政変)に伴い、職を辞して高知に帰ります。
 1874年(明治7)に板垣退助や植木枝盛・林有造らと共に立志社を創設、翌年には初代社長となりました。1877年(明治10)の西南戦争の最中に「国会開設の建白書」を京都行在所に提出したものの、受け入れられず不受理となり、立志社挙兵計画の嫌疑(立志社の獄)で逮捕されて、翌年には禁獄100日の判決を受けます。
 1879年(明治12)に高知県会の初代議長となりましたが、1ヶ月後、県会議員選挙の制限選挙制に反対して由比直枝や尾崎要・小谷正元と共に辞職しました。1880年(明治13)の第4回愛国社大会の議長を務め、河野広中と共に国会期成同盟の総代として「国会ヲ開設スルノ允可ヲ上願スル書」を提出しましたが拒絶されます。
 1881年(明治14)の自由党の結成に重要な役割りを果たし、高知新聞社長となり、翌年には海南自由党を結成しました。1885年(明治18)に洗礼を受けてプロテスタントとなり、高知教会長老に選ばれます。
 1887年(明治20)の三大事件建白書運動ではその中心にたって動き、建白書を元老院に出して退けられ、「保安条例」違反で退去命令が出されるものの従わず、禁錮2年6か月の刑に処され、1889年(明治22)の帝国憲法発布の大赦で出獄しました。1890年(明治23)の第1回衆議院議員総選挙で高知県から当選(以後8期連続)、副議長、議長を歴任し、自由党解散後は、憲政党、立憲政友会にも属しましたが、1903年(明治36)に退党しています。
 一方で、基督教青年会(YMCA)理事長、同志社社長兼校長、土陽新聞社長などを歴任したものの、1903年(明治36)10月31日に、高知県において、数え年61歳で亡くなっています。

〇片岡健吉関係略年表(明治5年以前の日付は旧暦です)

・1844年2月14日(天保14年12月26日) 土佐国中島町(現在の高知市中島町)で、土佐藩上士(馬廻格・250石)片岡篤光(俊平)の嫡男(母は渋谷次兵衛篤輝の妹)として生まれる
・1849年(嘉永2年7月7日) 藩主への御目見えを許される
・1860年(万延元年8月18日) 前年に乾退助らと相諮り南川原相撲場へ立ち入って不作法に及んだ事を咎められ謹慎処分を受ける
・1861年(文久元年3月17日) 御扈従に就任する
・1862年(文久2年11月27日) 御側小性を免じられ、御馬廻りへ転任する
・1863年(文久3年2月5日) 御郡奉行・御普請奉行・柄弦御指物附属となる
・1863年(文久3年4月8日) 当役を以って外輪物頭を兼ねる
・1865年(慶応元年10月22日) 祖父・謙光(繁三郎)の跡目を継ぐ
・1866年(慶応2年5月11日) 鉄砲頭を免じ御馬廻に再任される
・1866年(慶応2年8月2日) 外輪物頭六明組郷士隊長となる
・1867年(慶応3年3月6日) 文武出精を賞され褒詞を受ける
・1867年(慶応3年7月17日) 御侍別撰小隊司令に就任する
・1867年(慶応3年11月4日) 京都奉行・御普請奉行・外輪物頭附属となる
・1867年(慶応3年12月10日) 京都奉行・御普請奉行・外輪物頭附属を免じられ、御馬廻りに転任、乾退助と共に勤王論を唱導し、その意を同じくする
・1868年(慶応4年1月8日) 迅衝隊左半大隊司令及び外輪物頭に任じられる
・1868年(慶応4年1月20日) 京都に向けて出陣する
・1868年(慶応4年2月2日) 現職のまま大目付に任じられ、御軍備御用を兼帯し、迅衝隊総督・板垣退助に従って戊辰戦争を戦い会津若松城攻略等数々の功を立てる
・1868年(明治元年11月26日) 陸軍参謀中老職となり、役領250石を加増される
・1868年(明治元年11月27日) 当役まま大目付を兼帯する
・1869年(明治2年3月13日) 参政・軍事掛を兼帯し、家禄400石に累進、維新後は新政府に出仕する
・1871年(明治4年2月) 高知藩権大参事となる
・1871年(明治4年5月6日) 2年間のロンドン留学に出発する
・1873年(明治6年)10月 帰国後に海軍中佐となるが、政府内の征韓論派の失脚に伴い、職を辞して高知に帰る(明治六年政変)
・1874年(明治7年) 板垣退助や植木枝盛・林有造らと共に立志社を創設する
・1875年(明治8年)4月 立志社の初代社長となる
・1875年(明治8年)8月24日 高知県七等出仕する
・1876年(明治9年)1月 高知県七等出仕を辞める
・1877年(明治10年)6月9日 西南戦争の最中に「国会開設の建白書」を京都行在所に提出するも、受け入れられず不受理となる
・1877年(明治10年)8月18日 立志社挙兵計画の嫌疑(立志社の獄)で逮捕される
・1878年(明治11年)8月 禁獄100日の判決を受ける
・1879年(明治12年) 高知県会の初代議長となったが、1か月後、県会議員選挙の制限選挙制に反対して由比直枝や尾崎要・小谷正元と共に辞職する
・1880年(明治13年)3月 第4回愛国社大会の議長を務める
・1880年(明治13年)4月 河野広中と共に国会期成同盟の総代として「国会ヲ開設スルノ允可(いんか)ヲ上願スル書」を提出したが拒絶される
・1881年(明治14年) 自由党の結成に協力、高知新聞社長となる
・1882年(明治15年) 海南自由党を結成する
・1885年(明治18年)5月15日 高知市中島町の森武興邸(高知教会の発祥地)においてナックス宣教師の洗礼を受けてプロテスタントとなる
・1885年(明治18年)10月8日、片岡健吉・坂本直寛が高知教会長老に選ばれる
・1887年(明治20年) 三大事件建白書運動ではその中心にたって動き、建白書を元老院に出して退けられる
・1887年(明治20年)12月26日 「保安条例」違反で退去命令が出されるが従わず、禁錮2年6か月の刑に処される
・1889年(明治22年) 帝国憲法発布の大赦で出獄する
・1890年(明治23年) 第1回衆議院議員総選挙で当選する
・1893年(明治26年) 植村正久・井深梶之助(旧会津藩士)・グリナン宣教師・山田平左衛門・坂本直寛らと協力して高知県下の伝道を行なう
・1898年(明治31年) 衆議院議長となる
・1902年(明治35年)3月27日 同志社社長となる
・1903年(明治36年)10月31日 高知県において、数え年61歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1884年(明治17)秩父事件が起きる詳細
1934年(昭和9)小説家・児童文学作家灰谷健次郎の誕生日詳細
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