
その後、第一高等学校へ進み、1910年(明治43)に同校卒業後、東京帝国大学法学部政治学科に入学し、内村鑑三の弟子となり、生涯を通じて無教会主義キリスト教の熱心な信者となりました。1914年(大正3)に同大学を卒業後、内務省に入省し、1917年(大正6)に富山県射水郡郡長に任ぜられ、灌漑排水事業計画の取り組みや農業公民学校(現・富山県立小杉高等学校)の設立に関わります。
1919年(大正8)に内務省警保局事務官に任じられ、労働組合法の草案作成などを手がけましたが、1921年(大正10)には、内務省を辞め、東京帝国大学法学部助教授に就任、ヨーロッパに留学しました。1924年(大正13)にヨーロッパ留学から帰国、翌年には、教授に昇進し、政治学史を担当し、ドイツ観念論の独創的研究を中心に政治の哲学的研究を進めます。
1942年(昭和17)に『国家と宗教』を刊行し、鋭いナチズム批判を行ない、1945年(昭和20)には、法学部長となり、法学部教授と共に終戦工作を試みました。太平洋戦争敗戦後、東京帝国大学総長に就任、翌年には、日本学士院会員ともなり、1946年(昭和21)には、貴族院勅選議員に任じられ、日本国憲法草案審議に加わります。
1947年(昭和22)に教育刷新委員会委員長となり、教育制度改革に尽力する一方で、東京六大学応援団連盟が結成され、初代会長に就任しました。1948年(昭和23)に歌集『形相(けいそう)』を刊行、日本政治学会初代理事長となり、1949年(昭和24)には、大学教授から共産主義者を排除すべきであるとのイールズ声明に、学問の自由の立場から反対を表明します。
1950年(昭和25)の「サンフランシスコ講和条約」の締結に際しては、全面講和を唱えて政府と対立、吉田茂首相から“曲学阿世の徒”と非難されました。1951年(昭和26)に東京大学総長を退任し、翌年には、東京大学名誉教授となりましたが、以後は学問研究に没頭し、著作活動に専念します。
1959年(昭和34)に『フィヒテの政治哲学』を刊行、1960年(昭和35)に日本政治学会理事長を辞め、1964年(昭和39)には、勲一等瑞宝章を受章しました。1967年(昭和42)に宮中歌会始召人を務め、1970年(昭和45)に日本学士院院長となり、1973年(昭和48)には、「南原繁著作集」全10巻が完結します。
1974年(昭和49)には、勲一等旭日大綬章を受章しましたが、同年5月19日に、東京において、84歳で亡くなりました。
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
1905年(明治38) | 「日露講和条約(ポーツマス条約)」が調印され、日露戦争が終結する | 詳細 |
日露戦争の講和条約「ポーツマス条約」を巡って、東京で日比谷焼打事件が起きる | 詳細 | |
1933年(昭和8) | 小説家・児童文学者・俳人巖谷小波の命日 | 詳細 |
1946年(昭和21) | 太平洋戦争後初の国民学校用国史教科書『くにのあゆみ』が文部省より発行される | 詳細 |
1966年(昭和41) | 第2宮古島台風により宮古島で日本最高の最大瞬間風速(85.3m/s)を観測 | 詳細 |
1975年(昭和50) | 日本画家堂本印象の命日 | 詳細 |