ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:改元

kikusuisenyourounotaki01
 今日は、奈良時代の717年(養老元)に、美濃国の醴泉によって、元号を「霊亀」から「養老」へ改元した日ですが、新暦では12月24日となります。
 養老改元(ようろうかいげん)は、第44代とされる元正天皇(女帝)が、717年(霊亀3年9月)に美濃国(現在の岐阜県)に行幸した折りに、当耆郡(多芸郡)にいたり、多度山(養老山)の美泉を見、駕に随う国司らに物を与え、不破・当耆・方県・務義諸郡の百姓に減税などの恩恵を施しましたが、その時に訪れた美泉に感銘を受け、同年11月17日に詔を出し、元号を「霊亀」から「養老」へ改元したことでした。行幸時に、美泉を観られ、水を飲み体を洗った者が若返ったと知り、「老いを養う」こんなめでたい美泉はないと言われたとされます。
 この美泉は、養老の滝か、あるいは養老神社境内の菊水泉であったと伝えられてきました。行幸の際に行宮が造られたとされますが、その場所は不明です。
 以下に、このことを記した『続日本紀』養老元年(717年)11月17日の条を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇元正天皇(げんしょうてんのう)とは?

 第44代とされる天皇です。飛鳥時代の680年(天武天皇9年)に飛鳥で、天武天皇と持統天皇の子である父・草壁皇子(母は元明天皇)の長女として生まれましたが、名は氷高(ひだか)または新家(にいのみ)と言いました。707年(慶雲4)に同母弟・文武天皇が亡くなり、その子の首皇子(後の聖武天皇)が幼かったため、母の阿閉皇女が元明天皇として即位します。
 715年(和銅8)に一品に昇叙し、715年(霊亀元)には、皇太子である甥の首皇子(後の聖武天皇)がまだ若いため、母・元明天皇から譲位を受け、第44代とされる天皇として即位しました。その治世の前半は母・元明上皇と藤原不比等、その死後は長屋王が政権を担当しています。
 その中で、養老への改元、「養老律令」の編纂開始(717年)、国内の治安をはかるため初めて按察使を任命(719年)、隼人反乱に際し大伴旅人を派遣(720年)、『日本書紀』の奏上(720年)、田地の不足を解消するために「百万町歩開墾計画」を命じ(722年)、「三世一身法」の制定(723年)など、律令体制の強化・浸透をはかりました。724年(神亀元)に首皇子(聖武天皇)に譲位し、太上天皇となりましたが、後見的な立場に就いています。
 728年(天平元)に長屋王の変が起き、長屋王が自害し、光明立后が実現しました。740年(天平12)に藤原広嗣の乱が起きると、聖武天皇を護り、743年(天平15)に聖武天皇が病気がちで職務がとれなくなると、天皇を擁護する詔を出したりしています。しかし、747年(天平19)暮れに発病し、翌年4月21日に奈良平城京において、数え年69歳で亡くなり、佐保山陵に火葬(2年後に奈保山西陵に改葬)されました。尚、『万葉集』に少なくとも五首の歌が収載されています。 

<代表的な歌>
・「橘(たちばな)のとをの橘弥(や)つ代にも吾(あれ)は忘れじこの橘を」(万葉集)
・「玉敷かず君が悔いていふ堀江には玉敷き満てて継ぎてかよはむ」(万葉集)
・「霍公鳥なほも鳴かなむ本つ人かけつつもとな我を音し泣くも」(万葉集)
 
☆『続日本紀』養老元年(717年)11月17日の条「美濃国の醴泉によって養老と改元する」 

<原文>

癸丑。天皇臨軒。詔曰。朕以今年九月。到美濃國不破行宮。留連數日。因覽當耆郡多度山美泉。自盥手面。皮膚如滑。亦洗痛處。無不除愈。在朕之躬。甚有其驗。又就而飮浴之者。或白髪反黒。或頽髪更生。或闇目如明。自餘痼疾。咸皆平愈。昔聞。後漢光武時。醴泉出。飮之者。痼疾皆愈。符瑞書曰。醴泉者美泉。可以養老。盖水之精也。寔惟。美泉即合大瑞。朕雖庸虚。何違天賜。可大赦天下。改靈龜三年。爲養老元年。

<読み下し文>

癸丑[1]。天皇[2]、軒に臨みて[3]、詔して曰はく、「朕、今年九月を以って、美濃国不破[4]行宮[5]に到る。留連[6]すること数日なり。因りて当耆郡[7]多度山[8]の美泉[9]を覧て、自ら手面を盥ひしに、皮膚滑らかなるが如し、亦、痛き処を洗ひしに、除き愈えずといふこと無し。朕が躬[10]に在りては、甚だその験有りき。又、就きて[11]飮み浴る者、或は白髪黒に反り、、或は頽髪[12]更に生ひ、或は闇き目明らかになるが如し。自余[13]の痼疾[14]、咸く皆平愈[15]せり。昔聞かく、後漢の光武[16]の時に、醴泉[17]出でたり。これを飮みし者は、痼疾[14]皆愈えたり、と聞く。符瑞書[18]に曰はく、醴泉[17]は美泉[9]なり。以って老を養ふべし。盖し水の精なり。といふ。寔に惟みるに、美泉[9]は即ち大瑞[19]に合へり。朕、庸虚[20]なりと雖も、何ぞ天の賜ひ物に違はむ。天下に大赦[21]して、霊亀三年を改めて、養老元年とすべし。」と。・・ 

【注釈】

[1]癸丑:みずのとうし・きちゅう=干支の組み合わせの50番目で、この場合は11月17日を指す。
[2]天皇:てんのう=この場合は、第44代とされる元正天皇(女帝)を指す。
[3]軒に臨みて:のきにのぞみて=宮殿の軒先まで出る。
[4]美濃国不破:みのこくふわ=現在の岐阜県不破郡のこと。
[5]行宮:あんぐう=天皇の行幸時などに、一時的な宮殿として建設あるいは使用された施設のこと。
[6]留連:りゅうれん=たちさりかねて、とどまる。
[7]当耆郡:たぎのこおり・だぎぐん=多芸郡。美濃国(現在の岐阜県美濃地方)にあった郡。
[8]多度山:たどさん=養老山のことか。
[9]美泉:びせん=醴泉(れいせん)。あまい味のある泉。美味な泉。
[10]躬:きゅう=み。からだ。
[11]就きて:つきて=これに関連して。このことに関して。
[12]頽髪:たいはつ=衰えた髪の毛。禿げ髪。
[13]自余:じよ=このほか。その他。
[14]痼疾:こしつ=長くなおらない病気。持病。
[15]平愈:へいゆ=病気がなおること。平復。全快。全治。
[16]後漢の光武:ごかんのこうぶ=後漢王朝を創始した初代皇帝の光武帝(在位25~57年)のこと。
[17]醴泉:れいせん=あまい味のある泉。美味な泉。中国で、太平の世にわき出たという。甘泉。
[18]符瑞書:ふずいしょ=瑞兆に関して書かれた書物
[19]大瑞:だいずい=非常にめでたいことのあるというしるし。
[20]庸虚:ようきょ=凡愚。平凡でおろかなこと。とりたてて利口とはいえないこと。
[21]大赦:たいしゃ=国家に吉凶のあったとき、天皇が八虐以下の故殺・謀殺・私鋳銭・強窃二盗の罪を許したこと。

<現代語訳>

11月17日。(元正)天皇は、宮殿の軒先まで出て、詔して言った、「私は、今年9月に、美濃国不破の行宮に至り。立ち去りかねて留まること数日となった。その時に、多芸郡の多度山(養老山)の美味な泉を見て、自ら手や顔を洗ったところ、皮膚が滑らかになるようだった。また、痛い部分を洗うと、痛みが除かれないことはなかった。私の体にとっては、とてもその効能が有った。また、このことに関して、飲んだり浴びたりして治る者、あるいは、白髪が黒くなり、、あるいは、禿げ髪にさらに生えたり、あるいは、見えない眼がみえるよになるといった如くで、その他の長くなおらない病気も、ことごとく皆治ったいう。昔に聞くと、後漢の光武帝の時代に、醴泉が涌きだしたという。これを飮んだ者は、長くなおらない病気も皆治ったという。瑞兆に関して書かれた書物に言うことには、「醴泉は美味な泉である。これによって、老を養うことができる。まさしく水の精霊であろう。」とある。ほんとうに考えてみると、美味な泉はすなわち非常にめでたいことのあるというしるしに違いない。私は、凡愚であると言っても、どうして天の恵みを無視することが出来ようか。国中に大赦を行って、霊亀三年を改めて、養老元年とする。」と。・・ 

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1716年(享保元)江戸城内で御城将棋が開催され、以降この日に御城碁と共に定例化される詳細
1905年(明治38)日本と大韓帝国との間で、「第二次日韓協約」が調印される詳細
1951年(昭和26)神奈川県鎌倉市に「神奈川県立近代美術館」が開館する詳細
1986年(昭和61)将棋棋士・14世名人木村義雄の命日詳細
1990年(平成2)長崎県の雲仙普賢岳で198年ぶりの噴火(雲仙普賢岳1990年噴火)が始まる詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

wadouiseki01

 今日は、飛鳥時代の708年(和同元)に、武蔵国秩父郡から和銅が発見されて朝廷に献上され、元号が「和銅」に改元された日です。
 和銅(わどう)は、製錬を要しない自然銅(ニギアカガネ)のことで、武蔵国秩父郡(現在の埼玉県秩父市)から最初に発見されて、朝廷に献上されたとされてきました。その和銅が採掘されたとみられる露天掘跡は、今なお残されており、1922年(大正11)に埼玉県指定史跡、1961年(昭和36)には埼玉県指定旧跡となっています。
 この和銅が朝廷に献上されたことを記念して、元明天皇によって元号が改元され、慶雲5年から和銅元年となり、冠位の昇叙や大赦(罪科のある者の減免)、高齢者・貧窮者への恩賜、孝行息子や良妻等への3年間免税、役人への俸禄支給、国司・郡司の一階級昇進(正六位上以下について)、武蔵国の一年分の庸を免除、献銅した郡の調を免除などが行われました。また、この後「和同開珎」という貨幣も鋳造されています。
 以下に、『続日本紀』巻第四の和銅改元について記載した部分を抜粋(注釈・現代語訳付)しておきますので、ご参照ください。

〇『続日本紀』巻第四の和銅改元に関する記述抜粋

和銅元年春正月乙巳。
 武藏國秩父郡獻和銅。
 詔曰。「現神御宇倭根子天皇詔旨勅命乎。親王諸王諸臣百官人等天下公民衆聞宣。高天原由天降坐志。天皇御世乎始而中今尓至麻氐尓。天皇御世御世天豆日嗣高御座尓坐而治賜慈賜來食國天下之業止奈母。隨神所念行佐久止詔命乎衆聞宣。如是治賜慈賜來留天豆日嗣之業。今皇朕御世尓當而坐者。天地之心乎勞弥重弥辱弥恐弥坐尓聞看食國中乃東方武藏國尓。自然作成和銅出在止奏而獻焉。此物者天坐神地坐祗乃相于豆奈比奉福波倍奉事尓依而。顯久出多留寳尓在羅之止奈母。神随所念行須。是以天地之神乃顯奉瑞寳尓依而御世年號改賜換賜波久止詔命乎衆聞宣。」故、改慶雲五年而和銅元年為而、御世年号止定賜。

<読み下し文>

和銅元年春正月乙巳。
 武蔵国秩父郡[1]、和銅[2]を献ず。
 詔して日く。「現神[3]と御宇倭根子天皇が詔旨らまと勅りたまふ命を、親王・諸王・諸臣・百官人等、天下公民、衆聞きたまへと宣る。高天原[4]ゆ天降り[5]坐しし。天皇が御世を始めて、中・今に至めまでに。天皇が御世御世、天つ日嗣[6]高御座[7]に坐して治め賜ひ慈しび賜ひ來る食國[8]天下の業となも。神ながら念し行さくと詔りたまふ命を衆聞きたまへと宣る。如是治め賜ひ慈しび賜ひ來る天つ日嗣[6]の業と。今皇朕御世に當りて坐せば。天地の心を勞しみ重しみ辱み恐み坐すに聞し看す食國[8]の中の東方武蔵国に自然に作成る和銅[2]出でたりと奏して献れりと。此の物は天に坐す神・地に坐す祗の相うづなひ奉る事に依りて、顯し[9]く出でたる寳に在るらしともな。神ながら念し行す。是をもちて、天地の神の顕し[9]奉れる瑞寳[10]によって、御世の年号を改め賜ひ換へ賜はく詔りたまふ命をもろもろ聞しめさへと宣る。」故、慶雲五年を改めて和銅元年と為て、御世の年号と定め賜ふ。

【注釈】

[1]武蔵国秩父郡:むさしのくにちちぶぐん=現在の埼玉県秩父郡。
[2]和銅:わどう/にぎあかがね=製錬を要しない自然銅。
[3]現神:あきつみかみ=現に姿をあらわしている神の意で多く天皇に用いられる。
[4]高天原:たかまがはら=日本神話における天上の国。
[5]天降り:あまくだり=天上から地上におりること。
[6]天つ日嗣:あまつひつぎ=皇位を継承すること。また、皇位。
[7]高御座:たかみくら=大極殿または紫宸殿の中央に設けられていた天皇の席。
[8]食國:おすくに=天皇の統治なさる国。天下。
[9]顯し:うつし=姿が見えている。実在する。この世に生きている。
[10]瑞寳:ずいほう=めでたい宝物。

<現代語訳>

和銅元年(708年)春正月乙巳(1月11日)。
 武蔵国秩父郡が和銅を献上してきた。
 (元明天皇は)次のような詔を下した。「現御神として天下を統治する天皇が詔として宣べられるお言葉を、親王・諸王・諸臣・百官の人々等、天下公民はみな聞き賜れと申し述べる。高天原から降臨されて、天皇の御世が始まり、中ごろから今に至るまでに、天皇の治世ごとに、皇位継承者として高御座に坐して治められて、人々を慈しんで来られ、天下統治のつとめとして、神ながらに思うというお言葉をみな聞き賜れと申し述べる。このように統治して慈しまれてきた皇位継承者の勤めとして、今は私が治世を担当しているので、天地の心を大切にし重く受け止めて畏み、恐れ多く思っていたところ、統治しているこの国の東方にある武蔵国に自然に生じた和銅が出たと奏上して献上してきた。この物は、天に鎮座する神と地に鎮座する神がともに愛でられ祝福されることによって、現出した宝物であるらしいと、神として思うのである。そこで、天地の神の現されためでたい宝によって、御世の年号を新しく改元されると詔りたまうお言葉をみな聞き賜れと申し述べる。」そのため、慶雲五年を改元して和銅元年として、御世の年号を定められた。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1964年(昭和39)伊豆大島大火で584棟418戸が焼失する詳細
1974年(昭和49)劇作家・小説家山本有三の命日(1.11忌)詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

↑このページのトップヘ