ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:支那事変

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 今日は、昭和時代前期の1937年(昭和12)に、「大本営令」(昭和12年軍令第1号)が公布・施行された日です。
 「大本営令」(だいほんえいれい)は、大本営設置にあたり、勅令であった「戦時大本営条例」に代わって、新たに制定された軍令(昭和12年軍令第1号)でした。大本営は、戦時・事変に設置された日本の最高統帥機関(統帥権)でしたが、日清戦争にそなえて 1893年(明治26)5月に制定された勅令「戦時大本営条例」によったもので、戦時に限定され、1904年(明治37)の日露戦争時にも設置されます。
 しかし、日中全面戦争(支那事変)の勃発に伴い、それを修正して、事変の際にもその設置を可能にするため、1937年(昭和12)11月18日に「大本営令」が公布・施行されました。政治と戦争の一致を期するため、大本営政府連絡会議が設けられましたが、形式的なものであったものの、1941年(昭和16)12月8日の太平洋戦争開戦後も継続します。
 1944年(昭和19)には、最高戦争指導会議が設置されましたが、1945年(昭和20)の敗戦後、占領した連合国による同年9月10日付の対日指令(SCAPIN-17)を根拠に、大本営は9月13日付で廃止され、「大本営令」は、11月30日付「昭和20年陸軍、海軍省達第1号」で廃止されました。
 以下に、このことに関する「大阪朝日新聞」1937年(昭和12)11月18日付記事を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「大阪朝日新聞」1937年(昭和12)11月18日付記事

大本営令施行さる

あすにも各機関の初会合

大本営設置にあたり勅令たる戦時大本営条例に代わって新たに軍令をもって制定さるべき大本営令は十七日陸海軍より上奏御允裁を仰いだので戦時大本営条例廃止勅令の公布と同時に十七日付をもって十八日の官報に公示される、しかしてこの新軍令に本づく大本営設置に関する奏請その他の手続きも一切十八日には完了するので十八日または十九日中には大本営設置に関する編制動員の勅令が発せられ、かくて大本営諸機関の第一回会合は十九日にも行われるものと見られる、なお大本営令については十七日夜陸海軍両当局より左のごとく発表された

陸海軍省発表 十七日午後六時五十分

「戦時大本営条例」は明治三十六年十二月二十八日勅令第二九三号を以て公布せられたものであるが今般大本営は戦時又は事変に際し必要に応じ設くることを得しむることに改められ「大本営令」として本十七日軍令第一号を以て制定施行を命ぜられた
朕大本営令ヲ制定シ之カ施行ヲ命ス

 御名御璽
 昭和十二年十一月十七日 海軍大臣
             陸軍大臣
 軍令第一号 大本営令

第一条 天皇ノ大纛下ニ最高ノ統帥部ヲ置キ之ヲ大本営ト称ス
    大本営ハ戦時又ハ事変ニ際シ必要ニ応シ之を置ク

第二条 参謀総長及軍令部総長ハ各其ノ幕僚ニ長トシテ帷幄ノ機務ニ奉仕シ作戦ヲ参画シ終局ノ目的ニ稽エ陸海両軍ノ策応協同ヲ図ルヲ任トス

第三条 大本営ノ編制及勤務ハ別ニ之ヲ定ム

   「大阪朝日新聞」1937年(昭和12)11月18日付記事より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1840年(天保11)第119代の天皇とされる光格天皇の命日(新暦12月11日)詳細
1901年(明治34)官営八幡製鉄所が操業を開始する詳細
1943年(昭和18)小説家徳田秋声の命日詳細
1966年(昭和41)陶芸家・随筆家河井寛次郎の命日詳細

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 今日は、昭和時代前期の1937年(昭和12)に、第1次近衛文麿内閣が「九国条約国会議不参加に関する政府声明」を出した日です。
 1937年(昭和12)7月7日に起きた盧溝橋事件に始まる日中戦争(支那事変)においても、不拡大方針を発表しているにもかかわらず、戦線が徐々に拡大していったので、日中和平を仲介すべく、1937年(昭和12)11月にブリュッセルで九カ国条約会議(ブリュッセル国際会議)の開催が急遽決定されました。これを受けて、休戦を主張する石原莞爾らの協力もあり、第1次近衛内閣外務大臣の広田弘毅はトラウトマン工作を開始しましたが、同年10月20日に日本側は「九国条約国会議不参加に関する政府声明」を出し、この会議への出席を拒否します。
 これによって、「九カ国条約」は事実上無効となり、ワシントン体制は名実ともに崩壊することになりました。その後、日中戦争はだんだん泥沼化していき、日本の国際的孤立が加速することとなります。
 以下に、「九国条約国会議不参加に関する政府声明」と「九カ国条約」を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「九国条約国会議不参加に関する政府声明」1937年(昭和12)10月20日

帝國政府ハ九國條約國會議ニ關スル本月二十日附白耳義政府ノ招請ニ回答スルノ機會ニ方リ、詳細從來ノ經緯ヲ敍シ、弘ク其ノ所信ヲ中外ニ闡明セントス。

一、支那ハ辛亥革命以來幾多政権ノ興亡アリタルモ其ノ一貫セル對外政策ハ排外ニアリ。殊ニ中國國民黨カ國民政府ヲ廣東ニ樹立シ中央政權獲得ノ手段トシテ大正十三年聯蘇容共政策ヲ採ツテ以來其ノ排外政策ハ一層尖銳露骨ト爲リ支那民衆ノ排外思想亦頓ニ熾烈ヲ加フルニ至レリ。之カ爲列國ニシテ旣得ノ權益ヲ犧牲ニ供シタルモノ比々皆然ラサルナキハ今尙世人ノ記憶ニ新ナル所ニシテ、殊ニ最近十年支那ハ排外政策ノ目標ヲ主トシテ帝國ニ置ケリ。帝國ハ夙ニ東亞諸國ノ親善提携カ東亞安定ノ樞軸ナルヲ確信シ銳意之カ實現ノ爲努力シ來リ、就中隣邦支那カ民國革命以來次第ニ國家意識ニ目覺メ來レルハ日支ノ依存關係ヲ强靱ナラシムル所以ナリトシ帝國ノ歎迎セル所ニシテ、帝國ハ努メテ支那ノ正當ナル國民的要望ニ副ハントスルノ政策ヲ採リ、或ハ支那ノ關稅自主權回復ニ率先協力シ、或ハ治外法權撤廢ニ關スル支那ノ要望ニ對シテ好意的態度ヲ表明スル等、只管日支親善ノ增進ニ努力スルト共ニ支那カ之ニ順應シ來ランコトヲ待望セリ。然ルニ南京政府ハ帝國ノ斯ノ如キ同情アル態度ヲ多トセサルノミナラス、却テ益々排日ノ武器ヲ翳シ支那ニ於ケル帝國ノ権益ヲ潰滅セシメスンハ已マサラントスルノ槪ヲ示シ、特ニ最近數年來ハ排日及抗日ヲ以テ國內ヲ統一、南京政權强化ノ具ニ供シ、軍隊、學校ニ於テハ排日ヲ以テ精神敎育ノ根幹ト爲シ、純眞ナル幼少年時代ヨリ善隣ヲ仇敵視スルノ思想ヲ注入スルカ如キ世界ニ其ノ類ヲ見サルノ暴擧ヲ敢テシ、其ノ結果帝國ノ平和ナル通商、經濟上ノ活動ノ妨害ハ固ヨリ我カ居留民ノ安住ヲモ脅威スルニ至リ、進ンテハ組織的恐怖行爲ニ迄發展シ、單ニ茲一兩年ノ例ニ徵スルモ、昭和十年十一月ノ上海ニ於ケル水兵殺害事件ヨリ汕頭、成都、北海、漢口、上海ニ於ケル帝國官民ノ殺害、長沙、汕頭ニ於ケル邦人住宅ノ爆撃等戰慄スヘキ事件ノ續發ヲ見タリ。深ク事態ヲ憂ヘタル帝國政府ハ隱忍以テ幾度カ南京政府ノ猛省ヲ促シタルモ其ノ効ナク、折柄客年暮ノ西安事件生シ茲ニ國民黨共產黨ノ妥協成リ、共產分子ハ抗日ノ旗幟ノ下ニ北支竝ニ満洲國擾亂ヲ企圖スルニ至リ、其ノ勢ノ赴クトコロ遂ニ本年七月七日蘆溝橋ニ於ケル支那軍ノ日本軍不法攻撃事件ヲ惹起スルニ至レリ。

二、右事件發生スルヤ帝國政府ハ之ヲ以テ日支間ノ大事ニ立至ラシメサランコトヲ期シ、直ニ事態不擴大局地解決ノ計ヲ立テ、作戰上多大ノ犧牲ヲ忍ンテ派兵ヲ見合セ、戰機ヲ逸スルヲ覺悟ノ上、二十數日ニ亙リ積極的軍事行動ヲ差控ヘ、以テ愼重處理ノ手段ヲ盡シタルニ反シ、南京政府ハ却テ梅津何應欽協定ヲ蹂躪シテ南京政府直屬ノ大軍ヲ續々北上セシメ、帝國軍隊ヲ脅威スルト共ニ現地支那軍ヲ煽動スルノ擧ニ出テ、事態ハ遂ニ全面的衝突ニ迄發展スルニ至レリ。蓋シ排日ヲ國內統一ノ具トスル南京政府ハ、最近兩三年日本ヲ目標トシテ國民ニ對シ盛ニ軍事思想ヲ鼓吹スル一方、多量ノ武器輸入、要塞ノ構築、軍隊ノ訓練等ニヨリ急速ニ軍備ヲ强化シタル結果、支那軍憲ハ自負ノ念ニ驅ラレ國民亦自力ヲ過信スルニ至リ、帝國ニ對シテ戰ヲ挑ムノ風潮國內ニ瀰漫シ、旣ニ今回ノ事變前支那ノ言論機關ハ日本及日本人ヲ敵國又ハ敵人ト呼ンテ憚ラサリシモノニシテ、一度蘆溝橋ニ事起ルヤ、南京政府ハ自ラ釀成シタル國內情勢ニ驅ラレ、帝國ノ愼重ナル態度及局地解決ノ方針モ遂ニ施スニ由ナカリシ次第ナリ。

 事態ハ斯ノ如クシテ擴大セラレ、北支ノミナラス中南支各地ニ於ケル帝國臣民ハ愈々生命ノ危險ニ暴サルルニ至リ、遂ニ多年營々建設セル生活ノ本據ヲ棄テ各地ヨリ全面的ニ引揚クルノ已ムナキニ至レリ。他方上海ニ於テハ、南京政府ハ從來共昭和七年ノ停戰協定ヲ遵守セス非武裝地帯內ニ密ニ堅固ナル陣地ヲ構築スル等着々戰備ヲ整フル所アリ、於茲帝國政府ハ本年六月特ニ協定關係國會議ノ開催ヲ求メ、支那側ノ注意ヲ喚起シタルカ、支那側ハ聊カモ其ノ態度ヲ改メス、北支ニ於ケル衝突勃發スルヤ、公然停戰協定ヲ蹂躪シテ正規軍ヲ非武裝地帶ニ侵入セシメ、遂ニ八月九日帝國海軍將兵ノ慘殺ヲ契機トシテ愈々租界攻撃ノ鋒鋩ヲ現シ、帝國政府カ停戰協定關係國トモ連絡シ隱忍ニ隱忍ヲ重ネ、作戰上重大ナル不利ヲ忍ンテ、軍事衝突回避ノ爲最後ノ瞬間迄百方努力シタルニモ拘ラス、支那側ハ突如租界防備ノ帝國軍隊及我カ在留民ニ對シ空爆砲撃ヲ加へ、寡少ナル陸戰隊ハ固ヨリ帝國三萬ノ居留民鏖殺ヲ企圖スルニ至レルヲ以テ、事茲ニ至リテハ帝國トシテモ自衞ノ爲反撃スルノ餘儀ナキニ至レル次第ナリ。

 以上ニ依リ明カナル通リ今次事變ノ根源ハ南京政府ノ徹底的排日政策ニ存シ、事態擴大ノ直接原因ハ南京政府カ梅津何應欽協定ヲ侵犯シテ中央軍ヲ大擧北上セシメ、又上海ニ於テ停戰協定ヲ蹂躪シテ兵ヲ租界ニ進メタルニアリ。此ニ至テ遂ニ帝國ハ已ムナク自衞ノ爲蹶起シ、此ノ機會ニ於テ東亞百年ノ平和確立ノ爲南京政府ノ反省ヲ求メツツアル次第ナリ。依テ今次事變解決ノ要諦ハ南京政府ニ於テ飜然其ノ非ヲ改メ排日政策ヲ抛棄シ日支提携ノ我カ國策ニ協調スルニアルノミ。

三、顧ルニ近年南京政府ヲシテ排日ニ狂奔セシムルニ至レル重要ナル原因ノ一ハ、往年滿洲事變ニ際シ、國際聯盟カ東亞現實ノ事態ヲ無視シテ採擇セル決議ニ依リ支那ノ排日政策ヲ鼓舞スル結果ヲ招來セルニアリ。然ルニ國際聯盟ハ今又卒然南京政府ノ提訴ヲ取上ケ、虛構ノ報吿ニ依據シ深ク事變ノ眞因ヲ究明スル所ナク、九月二十七日ニハ防備最モ嚴重ナル南京、廣東ノ軍事施設爆撃ヲ無防備都市ノ空爆ナリト斷定シ、帝國ヲ非難スルノ決議ヲ爲シ、更ニ十月六日ノ聯盟總會ニ於テ帝國ノ行動ヲ以テ九國條約竝ニ不戰條約違反ナリト斷定セルノミナラス、進ンテ公然支那援助ノ決議ヲ採擇シタルカ如キハ、列國ノ干涉ヲ導入シテ帝國ヲ抑ヘントスル南京政府ノ奸策ヲ支援スル結果ト爲リ、支那ノ抗日決意ヲ愈々鼓舞シ事態ノ收拾ヲ益々困難ナラシムルモノニシテ、往年ノ過誤ヲ再ヒ繰返シツツアルモノト謂ハサルヲ得ス。

 抑モ帝國今次ノ行動カ支那側ノ挑發ニ對スル自衞手段ニシテ九國條約違反ノ問題ヲ發生スルノ餘地ナキハ明カナルノミナラス、近時支那ニ於ケル赤化勢力ノ浸潤、國內情勢ノ變化等ニ依リ東亞ノ事態ハ九國條約成立當時トハ著シク異レルモノアリ。殊ニ今次招請セラレタル九國條約會議參加國ノ大多數ハ畢竟前記聯盟ノ決議ニ拘束セラルヘキニ依リ、假令帝國政府ニ於テ同會議ニ參加スルモ、滿洲事變ノ際ニ於ケル聯盟ノ會議ト同樣到底公正ナル結果ヲ期待シ得ス、況ヤ東亞ニ殆ト利害ノ關係ヲ有セサル諸國ヲモ加ヘタル此ノ種ノ會議ハ徒ニ日支兩國ノ民心ヲ刺戟シ、却テ事態ヲ益々紛糾セシメ、時局收拾ニ毫モ資スル所ナカルヘキヲ以テ、帝國政府ハ茲ニ參加ヲ拒絕セル次第ナリ。帝國ハ今ヤ擧國一致萬難ヲ排シテ南京政府ノ反省ヲ求メ事態ノ速ナル解決ニ邁進セントス。然レトモ帝國ハ固ヨリ列國トノ協調ヲ顧念セサルモノニ非ス。只日支ノ紛爭ハ東亞ノ安定ニ共同ノ責任ヲ負擔スル兩國間ノ直接交涉ニ依リテノミ之ヲ解決シ得ヘキモノニシテ、要ハ兩國協和ノ障碍ト爲リ常ニ帝國ノ權益ヲ脅威シツツアル南京政府ノ排日政策ト之ト勾結セル赤化勢力トヲ排除シ、以テ日支提携ニ基ク東亞恒久ノ平和ヲ確立スルニアリ。從テ帝國ハ支那ノ民衆ヲ敵視シ、其ノ領土ヲ侵略スルカ如キ意圖ナキノミナラス、却テ支那國民ノ物質的精神的向上ヲ祈念スルモノニシテ、外國ノ在支權益ハ飽ク迄之ヲ尊重シツツ列國ト共ニ支那ニ對スル文化的又經濟的協調ヲ期シ居ル次第ナリ。故ニ若シ列國ニシテ能ク右帝國ノ眞意ヲ理解シ、南京政府ノ反省ヲ促スニ適切ナル措置ニ出ツルニ於テハ、茲ニ初メテ今次事變ノ解決ニ關シ帝國ト協調ノ途ヲ開クコトヲ得ヘキナリ。

    「日本外交年表竝主要文書 下巻」外務省編より

〇「九カ国条約(きゅうかこくじょうやく)」とは?

 大正時代の1922年(大正11)2月6日に、ワシントン会議において、日本・イギリス・アメリカ・フランス・イタリア・ベルギー・オランダ・ポルトガル・中国の9カ国間で締結された中国に関する条約です。1925年(大正14)8月5日に批准完了しましたが、のちにスウェーデン、ノルウェー、デンマーク、メキシコ、ボリビアが参加して、十四カ国条約となりました。
 全9ヶ条からなり、①中国の主権・独立および領土的・行政的保全を尊重する、②中国が有効な安定した政府を樹立し維持するため障害のない機会を与える、③中国全土を通じる商工業の機会均等主義を確立する、④中国における排他的特権の獲得を差し控える、という原則を定め(第1条)、中国における門戸開放、機会均等をいっそう有効にするための条件(第3条)、勢力範囲創設の否定(第4条)、鉄道に関する差別待遇の廃止(第5条)、中国の中立尊重(第6条)などから成っています。中国の主権尊重・領土保全と門戸開放・機会均等を規定し、1国が中国の利益を独占しないことを決めたものでした。
 日本の大陸進出の抑止を図るため、中国における日本の特殊権益を承認した石井‐ランシング協定は廃棄され、別途に開かれた日中交渉により、二十一カ条要求による特権の一部が除かれ、膠州湾租借地を中国に返還することとなります。
 その後、1937年(昭和12年)7月7日に起きた盧溝橋事件に始まる日中戦争(支那事変)の拡大により、これに対処するため1937年(昭和12年)11月にブリュッセルでの九カ国条約会議(ブリュッセル国際会議)の開催が急遽決定されました。しかし、同年10月20日に第1次近衛文麿内閣は、「九国条約国会議不参加に関する政府声明」を出し、この会議への出席を拒否、日本は実質的にこの条約を破棄することとなります。
 それからの日中戦争はだんだん泥沼化していき、日本の国際的孤立が加速することとなりました。

☆「九カ国条約」 1922年(大正11)2月6日締結、1925年(大正14)8月5日批准完了

中國に關する九國條約

第一條 支那國以外ノ締約國ハ左ノ通約定ス
(一)支那ノ主権、獨立竝其ノ領土的及行政的保全ヲ尊重スルコト
(二)支那カ自ラ有力且安固ナル政府ヲ確立維持スル爲最完全ニシテ且最障礙ナキ機會ヲ之ニ供與スルコト
(三)支那ノ領土ヲ通シテ一切ノ國民ノ商業及工業ニ對スル機會均等主義ヲ有效ニ樹立維持スル爲各盡力スルコト
(四)友好國ノ臣民又ハ人民ノ権利ヲ減殺スヘキ特別ノ権利又ハ特権ヲ求ムル爲支那ニ於ケル情勢ヲ利用スルコトヲ及右友好國ノ安寧ニ害アル行動ヲ是認スルコトヲ差控フルコト

第二條 締約國ハ第一篠ニ記載スル原則ニ違背シ又ハ之ヲ害スヘキ如何ナル條約、協定、取極又ハ了解ヲモ相互ノ間ニ又ハ各別ニ若ハ協同シテ他ノ一國又ハ數國トノ間ニ締結セサルヘキコトヲ約定ス

第三條 一切ノ國民ノ商業及工業ニ對シ支那ニ於ケル門戸開放又ハ機曾均等ノ主義ヲ一層有效ニ適用スルノ目的ヲ以テ支那國以外ノ締約國ハ左ヲ要求セサルヘク又各自國民ノ左ヲ要求スルコトヲ支持セサルヘキコトヲ約定ス
(イ)支那ノ何レカノ特定地域ニ於テ商業上又ハ經濟上ノ發展ニ関シ自己ノ利益ノ爲一般的優越權利ヲ設定スルニ至ルコトアルヘキ取極
(口)支那ニ於テ適法ナル商業若ハ工業ヲ營ムノ権利又ハ公共企業ヲ其ノ種類ノ如何ヲ問ハス支那國政府若ハ地方官憲ト共同經營スルノ権利ヲ他國ノ國民ヨリ奪フカ如キ獨占權又ハ優先權或ハ其ノ範圍、期間又ハ地理的限界ノ關係上機會均等主義ノ實際的適用ヲ無效ニ歸セシムルモノト認メラルルカ如キ獨占権又ハ優先権
本條ノ前記規定ハ特定ノ商業上、工業上若ハ金融業上ノ企業ノ經營又ハ發明及研究ノ奬勵ニ必要ナルヘキ財産又ハ權利ノ取得ヲ禁スルモノト解釋スヘカラサルモノトス
支那國ハ本條約ノ當事國タルト否トヲ問ハス一切ノ外國ノ政府及國民ヨリノ經濟上ノ権利及特權ニ關スル出願ヲ處理スルニ付本條ノ前記規定ニ記載スル主義ニ遵由スヘキコトヲ約ス

第四條 締約國ハ各自國民相互間ノ協定ニシテ支那領土ノ特定地方ニ於テ勢力範圍ヲ創設セムトシ又ハ相互間ノ獨占的機會ヲ享有スルコトヲ定メムトスルモノヲ支持セサルコトヲ約定ス

第五條 支那國ハ支那ニ於ケル全鐵道ヲ通シ如何ナル種類ノ不公平ナル差別ヲモ行ヒ又ハ許容セサルヘキコトヲ約定ス殊ニ旅客ノ國籍、其ノ出發國若ハ到達國、貨物ノ原産地若ハ所有者、其ノ積出國若ハ仕向國又ハ前記ノ旅客若ハ貨物カ支那鐵道ニ依リ輸送セラルル前若ハ後ニ於テ之ヲ運搬スル船舶其ノ他ノ輸送機関ノ國籍若ハ所有者ノ如何ニ依リ料金又ハ便宜ニ付直接間接ニ何等ノ差別ヲ設ケサルヘシ
支那國以外ノ締約國ハ前記鐵道中自國又ハ自國民カ特許條件、特殊協定其ノ他ニ基キ管理ヲ爲シ得ル地位ニ在ルモノニ關シ前項ト同趣旨ノ義務ヲ負擔スヘシ

第六條 支那國以外ノ締約國ハ支那國ノ參加セサル戰爭ニ於テ支那國ノ中立國トシテノ権利ヲ完全ニ尊重スルコトヲ約定シ支那國ハ中立國タル場合ニ中立ノ義務ヲ遵守スルコトヲ聲明ス

第七條 締約國ハ其ノ何レカノ一國カ本條約ノ規定ノ適用問題ヲ包含シ且右適用問題ノ討議ヲ爲スヲ望マシト認ムル事態發生シタルトキハ何時ニテモ関係締約國間ニ充分ニシテ且隔意ナキ交渉ヲ爲スヘキコトヲ約定ス

第八條 本條約ニ署名セサル諸國ニシテ署名國ノ承認シタル政府ヲ有シ且支那國ト條約関係ヲ有スルモノハ本條約ニ加入スヘキコトヲ招請セラルヘシ右目的ノ爲合衆國政府ハ非署名國ニ必要ナル通牒ヲ爲シ且其ノ受領シタル回答ヲ締約國ニ通告スヘシ別國ノ加入ハ合衆國政府カ其ノ通告ヲ受領シタル時ヨリ效力ヲ生スヘシ

第九條 本條約ハ締約國ニ依リ各自ノ憲法上ノ手續ニ從ヒ批准セラルヘク且批准書全部ノ寄託ノ日ヨリ實施セラルヘシ右ノ寄託ハ成ルヘク速ニ華盛頓ニ於テ之ヲ行フヘシ合衆國政府ハ批准書寄託ノ調書ノ認證謄本ヲ他ノ締約國ニ送付スヘシ

本條約ハ佛蘭西語及英吉利語ノ本文ヲ以テ共ニ正文トシ合衆國政府ノ記録ニ寄託保存セラルヘク其ノ認證謄本ハ同政府ヨリ他ノ各締約國ニ之ヲ送付スヘシ

右證據トシテ前記各全權委員ハ本條約ニ署名ス

千九百二十二年二月六日華盛頓市ニ於テ之ヲ作成ス(署名省略)

    「日本外交年表竝主要文書 下巻」外務省編より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1180年(治承4)源平合戦富士川の戦いが行われる(新暦11月9日)詳細
1856年(安政3)農政家・思想家二宮尊徳の命日(新暦11月17日)詳細
1879年(明治12)経済学者・社会思想家河上肇の誕生日詳細
2009年(平成21)小説家原田康子の命日詳細


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 今日は、昭和時代前期の1938年(昭和13)に、近衛文麿首相が「帝国政府は爾後国民政府を対手とせず…」(第一次近衛声明)という声明を発表した日です。
 「第一次近衛声明(だいいちじこのえせいめい)」は、1938年(昭和13)1月11日の御前会議決定「支那事変処理根本方針」を受けて、同月15日に発表された政府声明でした。「支那事変処理根本方針」では、中国の現在の中央政府(国民政府)の対応如何によっては、支那事変(日中戦争)解決を同政府に期待せず、新興支那政権の成立を助長するとしたものです。
 その講和条件は、①満州国の正式承認、②排日・反満政策の放棄、③華北地方、内モンゴル地方への非武装地帯の設定、④華北地方に共存共栄を実現する機構の設立、⑤内モンゴル地方への防共自治政府の設立、⑥中国は防共政策を確立し日本・満州両国の同政策遂行に協力、⑦華中地方の占領地域に非武裝地帶の設定等、⑧日本・満州・中国の三国は資源の開発、関税、交易、航空、交通、通信等に関する所要の協定の締結、⑨中国による所要の賠償、としていましたが、これに対する国民政府の回答は、1月14日にドイツを通じて日本へ伝えられたものの、講和条件の詳細な内容を照会しただけに留まりました。そこで、日本政府は、これを遷延策と判断し、交渉の打ち切りを決定、1月16日にドイツ大使を通じて和平交渉の打ち切りを通告、それと共に発表されたのが、この「第一次近衛声明」です。
 それによって、「帝国政府は爾後国民政府を対手とせず…」とし、同時に川越茂駐華大使に帰国命令を発し、これに対し国民政府側も許世英駐日大使の本国召還を決定しました。その後、10月21日に中国南部では広東が陥落し、10月26日には、中国中部では武漢三鎮が陥落したものの、支那事変解決の目途は立たず、日中戦争が長期化していきました。その中で、英米との対立が激化し、欧米帝国主義および共産主義排撃を口実として、抗戦を続ける中国の切り崩しと日本・満州・支那の3国を通じる戦時経済統制の強化を目指し、11月3日には、「東亜新秩序建設」の声明(第二次近衛声明)を発表します。
 さらに、11月30日の昭和天皇臨席の御前会議の「日支新関係調整方針」決定を受け、その三原則(善隣友好・日中防共協定締結・経済提携)に基づいて、日本陸軍の支援で、重慶の国民政府から離脱した汪兆銘(おうちょうめい)による傀儡政権を樹立させ、これを交渉相手にしていこうとし、12月22日に「日支国交調整方針に関する声明」(第三次近衛声明)を発表しました。これに呼応して、1週間後の12月29日に汪兆銘は脱出先のハノイで、国民党へ対日和平の決断を促す通電を公表したものの、国民政府内で汪に呼応するものは少数で、国民政府側はこの提案に反対し、汪から全ての職務と党籍を剥奪、国民政府の分裂、屈服を期待した汪兆銘工作は失敗します。
 この結果、第三次声明発表2週間後の翌年1月5日に、近衛内閣は総辞職し、対中交渉は平沼内閣に受け継がれることになりました。
 以下に、第一次から第三次の近衛声明と「支那事変処理根本方針」(1月11日御前会議決定)を全文掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇第一次近衛声明 1938年(昭和13)1月16日

 昭和十三年一月十六日帝国政府声明

 帝国政府は南京攻略後尚ほ支那国民政府の反省に最後の機会を与ふるため今日に及べり。然るに国民政府は帝国の真意を解せず漫りに抗戦を策し、内民人塗炭の苦みを察せず、外東亜全局の和平を顧みる所なし。仍て帝国政府は爾後国民政府を対手とせず、帝国と真に提携するに足る新興支那政權の成立発展を期待し、是と兩国国交を調整して更生新支那の建設に協力せんとす。元より帝国が支那の領土及主權並に在支列国の権益を尊重するの方針には毫もかはる所なし。今や東亜和平に対する帝国の責任愈々重し。政府は国民が此の重大なる任務遂行のため一層の発奮を冀望して止まず。

     『日本外交年表並主要文書』より

〇近衛文麿首相の「東亜新秩序建設」声明(第二次近衛声明) 1938年(昭和13)11月3日

 東亜新秩序建設の声明

 昭和十三年十一月三日付

 今や、陛下の御稜威に依り、帝国陸海軍は、克く広東、武漢三鎮を攻略して、支那の要城を勘定したり。国民政府は既に地方の一政権に過ぎず。然れども、同政府にして抗日容共政策を固執する限り、これが潰滅を見るまでは、帝国は断じて矛を収むることなし。
 帝国の冀求する所は、東亜永遠の安定を確保すべき新秩序の建設に在り。今次征戦究極の目的亦此に在す。
 この新秩序の建設は日満支三国相携へ、政治、経済、文化等各般に亘り互助連環の関係を樹立するを以て根幹とし、東亜に於ける国際正義の確立、共同防共の達成、新文化の創造、経済結合の実現を期するにあり。是れ実に東亜を安定し、世界の進運に寄与する所以なり。
 帝国が支那に望む所は、この東亜新秩序建設の任務を分担せんことに在り。帝国は支那国民が能く我が真意を理解し、以て帝国の協力に応へむことを期待す。固より国民政府と雖も従来の指導政策を一擲し、その人的構成を改替して更正の実を挙げ、新秩序の建設に来り参するに於ては敢て之を拒否するものにあらず。
 帝国は列国も亦帝国の意図を正確に認識し、東亜の新情勢に適応すべきを信じて疑はず。就中、盟邦諸国従来の厚誼に対しては深くこれを多とするものなり。
 惟ふに東亜に於ける新秩序の建設は、我が肇国の精神に淵源し、これを完成するは、現代日本国民に課せられたる光栄ある責務なり。帝国は必要なる国内諸般の改新を断行して、愈々国家総力の拡充を図り、万難を排して斯業の達成に邁進せざるべからず。
 茲に政府は帝国不動の方針と決意とを声明す。

     『日本外交年表竝主要文書』より

〇「日支国交調整方針に関する声明」(第三次近衛声明) 1938年(昭和13)12月22日

 日支国交調整方針に関する声明

 (昭和十三年十二月二十二日内閣総理大臣談)

 政府は本年再度の声明に於て明かにしたる如く、終始一貫、抗日国民政府の徹底的武力掃蕩を期すると共に、支那に於ける同憂具眼の士と相携へて東亜新秩序の建設に向つて邁進せんとするものである。今や支那各地に於ては更生の勢澎湃として起り、建設の気運愈々高まれるを感得せしむるものがある。是に於て政府は、更生新支那との関係を調整すべき根本方針を中外に闡明し、以て帝国の真意徹底を期するものである。
 日満支三国は東亜新秩序の建設を共同の目的として結合し、相互に善隣友好、共同防共、経済提携の実を挙げんとするものである。之が為には支那は先づ何よりも旧来の偏狭なる観念を清算して抗日の愚と満洲国に対する拘泥の情とを一擲することが必要である。即ち日本は支那が進んで満洲国と完全なる国交を修めんことを率直に要望するものである。
 次に東亜の天地にはコミンテルン勢力の存在を許すべからざるが故に、日本は日独伊防共協定の精神に則り、日支防共協定の締結を以て日支国交調整上喫緊の要件とするものである。而して支那に現存する実情に鑑み、この防共の目的に対する十分なる保障を挙ぐる為には、同協定継続期間中、特定地点に日本軍の防共駐屯を認むること及び内蒙地方を特殊防共地域とすべきことを要求するものである。
 日支経済関係に就いては、日本は何等支那に於て経済的独占を行はんとするものに非ず、又新しき東亜を理解しこれに即応して行動せんとする善意の第三国の利益を制限するが如きことを支那に求むるものにも非ず、唯飽く迄日支の提携と合作とをして実効あらしめんことを期するものである。即ち日支平等の原則に立つて、支那は帝国臣民に支那内地に於ける居住営業の自由を容認して日支両国民の経済的利益を促進し、且つ日支間の歴史的経済的関係に鑑み、特に北支及内蒙地域に於てはその資源の開発利用上、日本に対し積極的に便宜を与ふることを要求するものである。
 日本の支那に求むるものが区々たる領土に非ず、又戦費の賠償に非ざることは自ら明かである。日本は実に支那が新秩序建設の分担者としての職能を実行するに必要なる最小限度の保障を要求せんとするものである。日本は支那の主権を尊重するは固より、進んで支那の独立完成の為に必要とする治外法権を撤廃し且つ租界の返還に対して積極的なる考慮を払ふに吝ならざるものである。

     『外務大臣(其ノ他)ノ演説及声明集 第三巻』より

〇(参考)「支那事変処理根本方針」 1938年(昭和13)1月11日御前会議決定

 帝國不動ノ國是ハ滿洲國及ヒ支那ト提携シテ東洋平和ノ樞軸ヲ形成シ、之ヲ核心トシテ世界ノ平和ニ貢献スルニアリ、右ノ國是ニ基キ今次ノ支那事變處理ニ關シテハ、日支兩國間過去一切ノ相剋ヲ一掃シ、兩國國交ヲ大乘的基礎ノ上ニ再建シ、互ニ主權及ヒ領土ヲ尊重シツツ、渾然融和ノ實ヲ擧クルヲ以テ窮極ノ目途トシ、先ツ事變ノ再起防遏ニ必要ナル保障ヲ確立スルト共ニ左記諸項ヲ兩國間ニ確約ス

(一)日滿支三國ハ相互ノ好誼ヲ破壞スルカ如キ政策、敎育、交易其他凡ユル手段ヲ全廢スルト共ニ右種ノ惡果ヲ招來スル虞アル行動ヲ禁絶スルコト
(二)日滿支三國ハ互ニ相共同シテ文化ノ提携防共政策ノ實現ヲ期スルコト
(三)日滿支三國ハ産業經濟等ニ關シ長短相補有無相通ノ趣旨ニ基キ共同互惠ヲ約定スルコト

右ノ方針ニ基キ帝國ハ特ニ政戰兩略ノ緊密ナル運用ニ依リ左記各項ノ適切ナル實行ヲ期ス

(一)支那現中央政府ニシテ此際反省飜意シ、誠意ヲ以テ和ヲ求ムルニ於テハ、別紙(甲)日支媾和交渉條件ニ準據シテ交渉ス。
   帝國ハ將來支那側ノ媾和條項實行ヲ確認スルニ至ラハ、右條件中ノ保障條項別紙(乙)ヲ解除スルノミナラス、更ニ進ンテ支那ノ復興發展ニ衷心協力スルモノトス
(二)支那現中央政府カ和ヲ求メ來ラサル場合ニ於テハ、帝國ハ爾後之ヲ相手トスル事變解決ニ期待ヲ掛ケス、新興支那政權ノ成立ヲ助長シ、コレト兩國國交ノ調整ヲ協定シ、更生新支那ノ建設ニ協力ス、支那現中央政府ニ對シテハ、帝國ハ之カ潰滅ヲ圖リ、又ハ新興中央政權ノ傘下ニ收容セラルル如ク施策ス
(三)本事變ニ對處シ、國際情勢ノ變轉ニ備ヘ、前記方針ノ貫徹ヲ期スル爲、國家總力就中國防力ノ急速ナル培養整備ヲ促進シ、第三國トノ友好關係ノ保持改善ヲ計ルモノトス
(四)第三國ノ權益ハ之ヲ尊重シ專ラ自由競爭ニヨリ對支經濟發展ニ優位ヲ獲得スルコトヲ期ス
(五)國民ノ間ニ事變處理根本方針ノ趣旨ヲ徹底セシムル樣國論ヲ指導ス
   對外啓發ニツキテモ亦同シ

   別紙 甲

    日支媾和交渉條件細目

一、支那ハ滿洲國ヲ正式承認スルコト
二、支那ハ排日及反滿政策ヲ放棄スルコト
三、北支及内蒙ニ非武裝地帶ヲ設定スルコト
四、北支ハ支那主權ノ下ニ於テ日滿支三國ノ共存共榮ヲ實現スルニ適當ナル機構ヲ設定シ之ニ廣汎ナル權限ヲ賦與シ、特ニ日滿支經濟合作ノ實ヲ擧クルコト
五、内蒙古ニハ防共自治政府ヲ設立スルコト、其ノ國際的地位ハ現在ノ外蒙ニ同シ
六、支那ハ防共政策ヲ確立シ日滿兩國ノ同政策遂行ニ協力スルコト
七、中支占據地域ニ非武裝地帶ヲ設定シ、又大上海市區域ニ就テハ日支協力シテ之カ治安ノ維持及經濟發展ニ當ルコト
八、日滿支三國ハ資源ノ開發、關税、交易、航空、交通、通信等ニ關シ所要ノ協定ヲ締結スルコト
九、支那ハ帝國ニ對シ所要ノ賠償ヲナスコト

附記

(一)北支内蒙及中支ノ一定地域ニ保障ノ目的ヲ以テ必要ナル期間日本軍ノ駐屯ヲナスコト
(二)前諸項ニ關スル日支間ノ協定成立後休戰協定ヲ開始ス

支那政府カ前記各項ノ約定ヲ誠意ヲ以テ實行シ、日支兩國提携共助ノ我方理想ニ眞ニ協力シ來ルニ於テハ、帝國ハ單ニ右約定中ノ保障的條項ヲ解消スルノミナラス、進ンテ支那ノ復興及其ノ國家的發展、國民的要望ニ衷心協力スルノ用意アリ

    別紙 乙

(一)別紙(甲)中保障條項タルモノ左ノ如シ
 一、第三項ノ非武裝地帶
 二、第四項ノ折衝ニ當リ保障ノ目的ヲ以テ設定セラルヘキ特殊權益及之カ爲存置ヲ必要トスル機關
 三、第七項ノ非武裝地帶
 四、附記(一)及之ニ伴フ軍事施設、主要交通ノ管理擴充ニ關スル權益
(二)媾和ニ關連シテ廢棄スヘキ約定
 一、梅津何應欽協定、塘沽停戰協定、土肥原秦德純協定、上海停戰協定
 二、保障事項ノ解消ト同時ニ從來ヨリ有スル對支特殊權益(例ヘハ治外法權、租界、駐兵權等ノ如シ)ノ廢棄ヲ考慮ス

    「日本外交年表竝主要文書 下巻」外務省編より

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