ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:推古天皇

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 今日は、飛鳥時代の607年(推古天皇15)に、第2回の遣隋使として小野妹子らが隋へ出発した日ですが、新暦では8月1日となります。
 遣隋使(けんずいし)は、飛鳥時代の推古天皇の時に、大和朝廷が隋に派遣した公式の使節です。『日本書紀』と『隋書』では、記録が一致しない部分がありますが、600年(推古天皇8)以後3回~4回派遣されたとされ、614年(推古天皇22)に最後の遣隋使として犬上御田鍬らが送られたと考えられてきました。
 その中で、607年(推古天皇15)~608年(推古16年)の遣隋使として、小野妹子・通訳鞍作福利を遣わし、「日出処の天子……」の国書を持参させたとされます。608年(推古天皇16)~ 609年(推古17年)の遣隋使では、小野妹子・吉士雄成・鞍作福利を隋に遣わし、『日本書紀』によると「東の天皇……」の国書を持参、学生高向玄理、学問僧旻、南淵請安、慧隠ら8人を随行し、彼ら留学僧は帰朝後に、大化改新に貢献しました。
 この中国への派遣事業は、隋の滅亡後は、遣唐使に継承されていくことになります。

〇『隋書倭国伝』の記述

<読み下し文>
 開皇二十年、倭王あり、姓は阿毎、字は多利思比孤、阿輩難弥と号す。使を遣して闕に詣る。・・・・
 大業三年、其の王多利思比孤、使を遣して朝貢す。使者日く、『聞く、海西の菩薩天子、重ねて仏法を興すと。故に遣わして朝貢せしめ、兼ねて沙門数十人、来りて仏法を学ぶ』と。其の国書に日く、『日出づる処の天子,書を日没する処の天子に致す。恙無きや、云々』と。帝之を覧て悦ばず、鴻臚卿に謂ひて日く、『蛮夷の書、無礼なる者有らば、復た以て聞する勿れ』と、明年,上,文林郎裴清を遣して倭国に使せしむ。・・・・

<現代語訳>
 開皇二十年(600年)、倭王の、姓は阿毎(あめ)、字は多利思比孤(たらしひこ)という者が、阿輩難弥(おおきみ)と名のって、使者を派遣し、朝貢してきた。・・・・
 大業三年(607年)、倭国の王多利思比孤(たらしひこ)が、使者を派遣し、朝貢してきた。使者は、『聞くところによると、海の西の隋の天子(煬帝)が、とても仏法を興隆させたと。そのために、私が派遣されて、朝貢することとなりました、また、僧侶数十人が、来朝して仏法を学びます。』と。その国書には、『日の登る国の天子から、書を日の没む国の天子に書を送ります。お変わりありませんか、』と。煬帝はこれを覧て、不愉快となり、鴻臚卿(外務大臣)に謂ひて日く、『野蛮人の書で、無礼なるものが有ったならば、今後二度と報告するな。』と言った、翌年(608年)、煬帝は、文林郎の裴清(裴世清)を倭国に派遣した。・・・・

〇『日本書記』の記述

<読み下し文>
 推古天皇十五年の条
 秋七月三日、大礼小野臣妹子を大唐に遣す。鞍作福利を以って通事とす。・・・・
 十六年夏四月に、小野臣妹子,大唐より至る。唐国、妹子臣を号けて蘇因高と曰ふ。即ち大唐の使人裴世清、下客十二人、妹子臣に従ひて、筑紫に至る。・・・・
 秋八月の辛丑の朔葵卯に、唐の客京に入る。・・・・(九月)辛巳に唐の客裴世清罷り帰りぬ。即ち復た小野臣妹子を以って大使とす。吉士雄成をもて小使とす。福利を通事とす。唐の客に副へて遣す。ここに天皇、唐の帝をとむらふ。それには、「東天皇,敬(つつし)みて西皇帝にもうす。・・・・」是の時に,唐の国に遣す学生は倭漢直福因、奈羅訳語恵明、高向漢人玄理、新漢人大圀、学問僧新漢人日文、南淵漢人請安、志賀漢人慧隠。新漢人広済等、あわせて八人なり。

<現代語訳>
 推古天皇十五年(607年)の条
 秋七月三日、大礼の小野臣妹子を隋に派遣した。鞍作福利を通訳として随行させた。・・・・
 十六年(608年)の夏四月に、小野妹子が、隋より帰国した。隋は、妹子に号を与えて蘇因高と呼ぶ。それにより、隋の使者裴世清は、随員十二人と共に、小野妹子に従って、筑紫国に至った。・・・・
 秋八月の辛丑の朔葵卯に、唐の客京に入る。・・・・(九月)十一日に隋の使者である裴世清が帰国した。そこで再び、小野妹子を大使、吉士雄成を小使、福利を通事として、隋の使者に同行させて派遣した。その時に天皇は、隋の皇帝へ挨拶を送った。其の辞に曰く,「東の天皇が、西の皇帝に謹んで申し上げる。・・・・」この時に、隋の国に派遣した学生は倭漢直福因、奈羅訳語恵明、高向漢人玄理、新漢人大圀、学問僧新漢人日文、南淵漢人請安、志賀漢人慧隠。新漢人広済等、あわせて八人である。

☆遣隋使関係略年表

・600年(推古天皇8) 第1回遣隋使派遣。この頃まだ俀國は、外交儀礼に疎く、国書も持たず遣使した。(『隋書』俀國伝)
・607年(推古天皇15)~608年(推古16年) 第2回遣隋使として、小野妹子・通訳鞍作福利を遣わし、「日出処の天子……」の国書を持参させる。(『日本書紀』、『隋書』俀國伝)
・608年(推古天皇16)~ ? (『隋書』煬帝紀)
・608年(推古天皇16)~ 609年(推古17年) 第3回遣隋使、小野妹子・吉士雄成・鞍作福利を隋に遣わす。『日本書紀』によると「東の天皇……」の国書を持参。この時、学生・学問僧として8人が、隋へ留学する。
・610年(推古天皇18)~?  第4回遣隋使を派遣する。(『隋書』煬帝紀)他に記録がなく、第3回の年次誤りとする説が多い。
・614年(推古天皇22)~615年(推古23年) 第5回(又は第4回)遣隋使、犬上御田鍬・矢田部造らを隋に遣わす。百済使、犬上御田鍬に従って来る。(『日本書紀』)隋側に記録がない。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1722年(享保7)徳川吉宗が「上米の制」を制定する(新暦8月14日)詳細
1888年(明治21)日本画家村上華岳の誕生日詳細
1912年(明治45)大阪市浪速区に初代通天閣が完成(通天閣の日)詳細
1916年(大正5)日本とロシアとの間で、「第四次日露協約」が締結される詳細
1935年(昭和10)大阪商船の客船緑丸が大連汽船の千山丸と衝突沈没、死者・行方不明者107人を出す(緑丸衝突沈没事故)詳細
1947年(昭和22)連合国最高司令部(GHQ)より「商事会社の解体に関する覚書」 (SCAPIN-1741) が指令される詳細
1971年(昭和46)東亜国内航空のYS11「ばんだい号」が北海道・横津岳に激突する(ばんだい号墜落事故)詳細
1993年(平成5)俳人・国文学者加藤楸邨の命日詳細
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kentousisen0
 今日は、飛鳥時代の614年(推古天皇22)に、最後の遣隋使として犬上御田鍬らが隋へ出発した日ですが、新暦では7月24日となります。
 遣隋使(けんずいし)は、飛鳥時代の推古天皇の時に、大和朝廷が隋に派遣した公式の使節です。『日本書紀』と『隋書』では、記録が一致しない部分がありますが、600年(推古天皇8)以後3回~4回派遣されたとされ、614年(推古天皇22)に最後の遣隋使として犬上御田鍬らが送られたと考えられてきました。
 その中で、607年(推古天皇15)~608年(推古16年)の遣隋使として、小野妹子・通訳鞍作福利を遣わし、「日出処の天子……」の国書を持参させたとされます。608年(推古天皇16)~ 609年(推古17年)の遣隋使では、小野妹子・吉士雄成・鞍作福利を隋に遣わし、『日本書紀』によると「東の天皇……」の国書を持参、学生高向玄理、学問僧旻、南淵請安、慧隠ら8人を随行し、彼ら留学僧は帰朝後に、大化改新に貢献しました。
 この中国への派遣事業は、隋の滅亡後は、遣唐使に継承されていくことになります。

〇遣隋使関係略年表

・600年(推古天皇8) 第1回遣隋使派遣。この頃まだ俀國は、外交儀礼に疎く、国書も持たず遣使した。(『隋書』俀國伝)
・607年(推古天皇15)~608年(推古16年) 第2回遣隋使として、小野妹子・通訳鞍作福利を遣わし、「日出処の天子……」の国書を持参させる。(『日本書紀』、『隋書』俀國伝)
・608年(推古天皇16)~ ? (『隋書』煬帝紀)
・608年(推古天皇16)~ 609年(推古17年) 第3回遣隋使、小野妹子・吉士雄成・鞍作福利を隋に遣わす。『日本書紀』によると「東の天皇……」の国書を持参。この時、学生・学問僧として8人が、隋へ留学する。
・610年(推古天皇18)~?  第4回遣隋使を派遣する。(『隋書』煬帝紀)他に記録がなく、第3回の年次誤りとする説が多い。
・614年(推古天皇22)~615年(推古23年) 第5回(又は第4回)遣隋使、犬上御田鍬・矢田部造らを隋に遣わす。百済使、犬上御田鍬に従って来る。(『日本書紀』)隋側に記録がない。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1582年(天正10)山崎の戦いで明智光秀が羽柴秀吉に敗れ、敗走中土民に殺される(新暦7月2日)詳細
1615年(慶長20)江戸幕府により「一国一城令」が出される(新暦8月7日)詳細
1798年(寛政10)本居宣長が約35年を費した『古事記伝』全44巻が完成する(新暦7月26日)詳細
1910年(明治43)長塚節著の小説『土』が「東京朝日新聞」に連載開始される詳細
1924年(大正13)土方与志・小山内薫らが築地小劇場を開場する詳細
1931年(昭和6)医学者・細菌学者・教育者北里柴三郎の命日詳細
1953年(昭和28)石川県河北郡内灘村の米軍試射場の無期限使用に反対して村民と支援団体が坐り込みを行う(内灘闘争)詳細
1998年(平成10)北海道室蘭市に白鳥大橋が開通する詳細
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suikotennou01
 今日は、飛鳥時代の554年(欽明天皇15)に、日本最初の女帝で、第33代の天皇とされる推古天皇が生まれた日ですが、新暦では5月21日となります。
 推古天皇(すいこてんのう)は、飛鳥時代の554年(欽明天皇15年4月9日)に、欽明天皇の第三皇女(母は蘇我堅塩媛の娘)として生まれましたが、幼名を額田部(ぬかたべ)皇女といいました。571年(欽明天皇32年)に、皇太子(後の敏達天皇)妃となり、576年(敏達天皇5年)には、前皇后広姫死没の後をうけて異母兄敏達天皇の皇后に立てられます。
 585年(敏達天皇14年8月15日)に敏達天皇が亡くなり、587年(用明天皇2年)には、大臣蘇我馬子が大連物部守屋を攻め滅ぼしてその権力を確立しました。592年(崇峻天皇5年11月15日)に蘇我馬子によって、崇峻天皇が暗殺されると、593年1月15日(崇峻天皇5年12月8日)に豊浦宮で、第33代とされる天皇(日本最初の女帝)に即位し、同年4月10日には、甥の厩戸皇子(聖徳太子)を摂政とし、馬子と共に天皇の補佐の体制が確立します。
 その中で、小墾田宮に都を移し、603年(推古天皇11年)に冠位十二階を定め、604年(推古天皇12年)に「十七条憲法」を制定、607年(推古天皇15年)に、小野妹子、鞍作福利を使者とし随に国書を送り(第2回遣隋使)、607年(推古天皇15年)には、法隆寺を創建するなどしました。また、620年(推古天皇28年)には、厩戸皇子や馬子に、『国記』、『天皇記』、『臣連伴造国造百八十部并公民等本記』を編纂させています。
 しかし、622年(推古天皇30年)に厩戸皇子が亡くなり、626年(推古天皇34年)に蘇我馬子が死んで子の蝦夷(えみし)が大臣となる中で、628年(推古天皇36年3月7日)に、皇嗣を定めぬまま、数え年75歳で亡くなりました。その後、竹田皇子の大野岡上陵(大和国高市郡)に合葬されたものの、後に河内国の磯長山田(しながのやまだ)陵(現在の大阪府南河内郡太子町)に移されています。

〇推古天皇関係略年表(日付は旧暦です)

・554年(欽明天皇15年4月9日) 欽明天皇と蘇我堅塩媛の娘として生まれる
・571年(欽明天皇32年) 皇太子(敏達天皇)妃となる
・576年(敏達天皇5年) 前皇后広姫死没の後をうけて異母兄敏達天皇の皇后に立てられる
・585年(敏達天皇14年8月15日) 敏達天皇が亡くなる
・587年(用明天皇2年) 大臣蘇我馬子が大連物部守屋を攻め滅ぼしてその権力を確立する
・592年(崇峻天皇5年11月15日) 蘇我馬子によって、崇峻天皇が暗殺される
・593年1月15日(崇峻天皇5年12月8日) 第33代とされる天皇となる
・593年(推古天皇元年4月10日) 甥の厩戸皇子が摂政となり、馬子と共に天皇を補佐する
・593年(推古天皇元年) 厩戸皇子は物部氏との戦いの際の誓願を守り、摂津国難波に四天王寺を建立する
・594年(推古天皇2年) 仏教興隆の詔を発する
・595年(推古天皇3年) 高句麗の僧慧慈が渡来し、太子の師となり「隋は官制が整った強大な国で仏法を篤く保護している」と太子に伝える
・597年(推古天皇5年) 吉士磐金を新羅へ派遣する
・598年(推古天皇6年) 新羅が孔雀を贈る
・600年(推古天皇8年) 新羅征討の軍を出し、交戦の末、調を貢ぐことを約束させる
・601年(推古天皇9年) 斑鳩宮を造営する
・602年(推古天皇10年) 再び新羅征討の軍を起こし、同母弟・来目皇子を将軍に筑紫に2万5千の軍衆を集めたが、渡海準備中に来目皇子が薨去する
・603年(推古天皇11年12月5日) 冠位十二階を定める
・604年(推古天皇12年4月3日) 「十七条憲法」を制定する
・604年(推古天皇12年9月) 朝礼を改め、宮門を出入りする際の作法を詔によって定める
・605年(推古天皇13年) 諸王諸臣に、褶の着用を命じる
・607年(推古天皇15年) 屯倉を各国に設置する
・607年(推古天皇15年) 高市池、藤原池、肩岡池、菅原池などを作り、山背国栗隈に大溝を掘る
・607年(推古天皇15年) 小野妹子、鞍作福利を使者とし随に国書を送る(第2回遣隋使)
・607年(推古天皇15年) 法隆寺が創建される
・608年(推古天皇16年) 返礼の使者である裴世清が「皇帝問倭皇」を携えて訪れる
・608年(推古天皇16年) 返書と裴世清の帰国のため、妹子を、高向玄理、南淵請安、旻ら留学生と共に再び隋へ派遣する(第3回遣隋使)
・612年(推古天皇20年) 百済人味摩之が伎楽を伝え、少年たちに伎楽を習わせる
・613年(推古天皇21年) 掖上池、畝傍池、和珥池を作る
・613年(推古天皇21年) 難波から飛鳥までの大道を築く
・614年(推古天皇22年) 犬上御田鍬らを隋へ派遣する
・615年(推古天皇23年) 厩戸皇子が『三経義疏』を著す
・620年(推古天皇28年) 厩戸皇子が馬子と議して『国記』、『天皇記』、『臣連伴造国造百八十部并公民等本記』を編纂する
・622年(推古天皇30年2月22日) 大和国斑鳩宮において、厩戸皇子が数え年49歳で亡くなる
・626年(推古天皇34年) 蘇我馬子が死んで子の蝦夷(えみし)が大臣となる
・628年(推古天皇36年3月7日) 皇嗣を定めぬまま、数え年75歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

752年(天平勝宝4)奈良・東大寺の蘆舎那仏(東大寺大仏)の開眼供養が行われる(新暦5月26日)詳細
1584年(天正12)小牧・長久手の戦いの中の長久手の戦いが行われる(新暦5月18日)詳細
1892年(明治25)詩人・小説家佐藤春夫の誕生日詳細
1911年(明治44)東京の吉原大火で、死者8名、負傷者100名以上、全焼6,189戸、半焼69戸の被害を出す詳細
1921年(大正10)「職業紹介法」(大正10年法律第55号)が公布(同年7月1日施行)される詳細
1922年(大正11)日本最初の農民組合の統一組織である日本農民組合が創立される詳細
1976年(昭和51)小説家・劇作家武者小路実篤の命日詳細
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