
子供の頃から数学の才能があり、それをを幕吏に認められて、1790年(寛政2)頃に、江戸に出て、地理学を学びます。1796年(寛政8)に普請役雇として幕府に出仕し、1799年(寛政11)に村上島之允に随行し蝦夷地(北海道)に渡り、1800年(寛政12)に、箱館で伊能忠敬に出会って測量術を学びました。
1806年(文化3年)に択捉(えとろふ)を測量、1808年(文化5)には、カラフト探検を命ぜられ、松田伝十郎と共に北上し、6月20日ラッカに至り、カラフトの離島を確認しています。翌年に再度カラフト探検を命ぜられ北上、5月カラフトの北端ナニオーに至り、カラフトが離島であることを再確認し、6月にはアイヌのコーニらに同行し、海峡を渡り東韃靼に至り、デレンで満州仮府の役人と会いました。
1810年(文化7)に村上貞助の協力で、『北蝦夷島地図』、『北蝦夷分界余話』、『東韃地方紀行』を著し、1822年(文政5)には、松前奉行廃止伴ない、江戸に帰り普請役となっています。1824年(文政7)に、安房上総御前備掛手付となり、異国船渡来の噂を内偵のため、東北海岸を巡視し、1826年(文政9)には、天文方兼書物奉行高橋景保がシーボルトに対し、クルーゼンシュテルンの航海記と交換に、伊能忠敬の日本地図、間宮林蔵のカラフト地図を贈ることを約束しました。
1832年(天保3)に、シーボルト著『日本』で日本辺界略図の翻訳図に「間宮の瀬戸」の名を始めてヨーロッパに紹介されます。1842年(天保13)には、江戸幕府からカラフトおよび東韃靼地域の自製図模写を命ぜられましたが、1844年(天保15年2月26日)に、江戸本所外手町の寓居において、数え年65歳で亡くなりました。
現在、出身地の茨城県つくばみらい市に「間宮林蔵記念館」が建てられ、遺品や事績を知ることができるようになっています。
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
1649年(慶安2) | 江戸幕府が「慶安御触書」を発布したとされてきた日(新暦4月7日) | 詳細 |
1858年(安政5) | 越中・飛騨国境付近で、飛越地震が起き、甚大な被害が出る(新暦4月9日) | 詳細 |
1873年(明治6) | 俳人・随筆家・書家河東碧梧桐の誕生日 | 詳細 |
1876年(明治9) | 「日朝修好条規」が締結される | 詳細 |
1936年(昭和11) | 二・二六事件(高橋蔵相らが暗殺される)が起こる | 詳細 |
1946年(昭和21) | GHQにより、「禁止図書その他の出版物に関する覚書」 (SCAPIN-776) が出される | 詳細 |
2003年(平成15) | 編集者・紀行作家宮脇俊三の命日 | 詳細 |