ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:持明院統

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 今日は、南北朝時代の1348年(貞和4)に、第95代の天皇とされる花園天皇(持明院統)の亡くなった日ですが、新暦では12月2日となります。
 花園天皇(はなぞのてんのう)は、鎌倉時代の1297年(永仁5年7月25日)に、京都において、伏見天皇の第四皇子(母は左大臣洞院実雄の女)として生まれましたが、名は富仁(とみひと)と言いました。1301年(正安3)に着袴の儀があり、同日親王宣下され、兄後伏見上皇の猶子として、大覚寺統の後二条天皇の皇太子に立てられます。
 1308年(延慶元年)に大覚寺統の先帝後二条天皇が急死、12歳で践祚し、第95代とされる天皇として即位しました。1311年(応長元年)に二条富小路の里亭で元服、1317年(文保元)には、大覚寺統と持明院統の両統迭立の案、いわゆる文保の和談が行われています。
 1318年(文保2年)に大覚寺統の尊治親王(後醍醐天皇)に譲位して太上天皇となり、1325年(正中2)には、本院の皇子量仁親王のために学問所を置き、自ら親王の教育にあたりました。1326年(正中3)に猶子となった量仁親王が立太子し、1330年(元徳2)に甥の量仁親王(後の光厳天皇)を訓戒するために『誡太子書』記します。
 翌年に後醍醐天皇が笠置寺に遷幸すると、鎌倉幕府の支持のもと量仁親王が即位(光厳天皇)しましたが、1333年(元弘3)に足利高氏らの兵が京に攻め入ったため、本院・光厳天皇と共に東国方面へ脱出し、鎌倉幕府も滅亡しました。しかし、近江国番場宿で敵方に襲われ、捕えられて帰京、再び持明院殿に住むことになります。
 1335年(建武2)に法勝寺の円観について出家、法名を遍行と称し、1342年(暦応5)には、仁和寺の花園御所を僧関山慧玄に賜与し、管領(のちの妙心寺)させました。学問・和歌に秀で、『学道之記』、『論語抄』、『誡皇太子書』などを著すとともに、『風雅和歌集』の撰にもあたりましたが、1348年(貞和4年11月11日)に、京都の花園萩原殿において、数え年52歳で亡くなり、陵墓は十楽院上陵(現在の京都市東山区粟田口三条坊町)とされます。
 尚、自筆日記の『花園天皇宸記』 (47巻)が残されて重要な歴史史料とされ、和歌は、『玉葉和歌集』初出後、勅撰集へ計118首が入集しました。

<代表的な歌>

・「わがこころ春にむかへる夕ぐれのながめの末も山ぞかすめる」(風雅和歌集)
・「みそぎ河ながれてはやく過ぐる日のけふみなづきは夜も更けにけり」(続後拾遺和歌集)
・「きりぎりす声かすかなる暁のかべにすくなき有明のかげ」(新拾遺和歌集)
・「今はわれむなしき舟のつながれぬ心にのする一こともなし」(新千載和歌集)
・「おきてみる朝けの軒ば霜しろし音せぬ風は身にさむくして」(藤葉集)

〇花園天皇の主要な著作

・日記『花園天皇宸記』47巻
・『法華品釈』
・『学道之記』
・『論語抄』
・『誡皇太子書』(1330年)
・『風雅和歌集』監修

☆花園天皇関係略年表(日付は旧暦です)

・1297年(永仁5年7月25日) 京都において、伏見天皇の第四皇子(母は左大臣洞院実雄の女)として生まれる
・1301年(正安3年8月15日) 着袴の儀があり、同日親王宣下される
・1301年(正安3年8月24日) 兄後伏見上皇の猶子として、大覚寺統の後二条天皇の皇太子に立てられる
・1308年(延慶元年8月25日) 大覚寺統の先帝後二条天皇が急死する
・1308年(延慶元年8月26日) 12歳の時、践祚する
・1308年(延慶元年11月16日) 第95代とされる天皇として即位する
・1311年(応長元年1月3日) 二条富小路の里亭で元服する
・1313年(正和2年10月) 伏見院が出家し、後伏見院が院政を嗣ぐ
・1317年(文保元年4月) 大覚寺統と持明院統の両統迭立の案、いわゆる文保の和談が行われる
・1318年(文保2年2月26日) 大覚寺統の尊治親王(後醍醐天皇)に譲位して太上天皇となる
・1325年(正中2年) 本院の皇子量仁親王のために学問所を置き、自ら親王の教育にあたる
・1326年(正中3年3月) 猶子となった量仁親王が立太子する
・1330年(元徳2年2月) 甥の量仁親王(後の光厳天皇)を訓戒するために『誡太子書』記す
・1331年(元弘元年) 後醍醐天皇が笠置寺に遷幸すると、鎌倉幕府の支持のもと量仁親王が即位(光厳天皇)する
・1333年(元弘3年) 足利高氏らの兵が京に攻め入ったため、本院・光厳天皇と共に東国方面へ脱出する
・1333年(元弘3年5月) 鎌倉幕府が滅亡する
・1335年(建武2年11月22日) 法勝寺の円観について出家、法名を遍行と称する
・1342年(暦応5年1月) 仁和寺の花園御所を僧関山慧玄に賜与し、管領させる(のちの妙心寺)
・1348年(貞和4年11月11日) 京都の花園萩原殿において、数え年52歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1890年(明治23)浅草に12階建ての凌雲閣が完成し、日本初の電動式エレベーターが一般公開される詳細
1911年(明治44)新派俳優・興行師川上音二郎の命日詳細
1944年(昭和19)太平洋戦争末期の本土決戦に備えて、松代大本営が着工される 詳細
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 今日は、鎌倉時代の1304年(嘉元2)に、第89代の天皇とされる後深草天皇の亡くなった日ですが、新暦では8月17日となります。
 後深草天皇(ごふかくさてんのう)は、1243年(寛元元年6月10日)に、京都の外祖父・太政大臣実氏の今出川邸第において、後嵯峨天皇の第2皇子(母は中宮・西園寺姞子)として生まれましたが、名は久仁(ひさひと)と言いました。1246年(寛元4)の4歳の時、後嵯峨天皇の譲位により践祚・即位しましたが、父が院政を敷きます。
 1251年(建長3)に宣陽門院の猶子となり、その所領・長講堂領を譲渡され、1256年(康元元)の14歳の時、母の妹公子(東二条院)が入内、翌年に中宮となりました。1259年(正元元)の17歳の時、瘧病を患い、父・後嵯峨上皇の要請で亀山天皇に譲位、1268年(文永5)には、後嵯峨上皇の指示により、年長の後深草上皇の皇子熈仁を差し置いて亀山天皇の皇子世仁親王が立太子します。
 1272年(文永9)に、父・後嵯峨法皇が治天と皇位の決定権についてすべてを鎌倉幕府に委ねる形で亡くなると、1274年(文永11)に亀山天皇は世仁親王(後宇多天皇)に譲位し、治天の君として院政を開始しました。その中で、翌年に太上天皇の尊号辞退と出家の意思を表明し、執権北条時宗と後継者について折衝し、子の熈仁親王(後の伏見天皇)を立太子させることに成功し、後深草系の持明院統と亀山系の大覚寺統の両統迭立の基を開き、持明院統の祖となります。
 1287年(弘安10)に、伏見天皇即位に伴い院政を開始し、1289年(正応2)には、第六皇子・久明親王を鎌倉将軍として下向させました。1290年(正応3)に、出家し法諱を素実とし、公式の院政を停めましたが、政治には介入し続け、1291年(正応4)には、東大寺で受戒します。
 1298年(永仁6)に持明院統の胤仁親王が践祚して後伏見天皇となり、1301年(正安3)には、大覚寺統の後二条天皇(後宇多上皇の皇子)が践祚しました。そういう状況の中、1304年(嘉元2年7月16日)に、京都の富小路殿において、数え年62歳で亡くなり、陵墓は深草北陵(現在の京都市伏見区深草坊町)とされます。

〇後深草天皇関係略年表(日付は旧暦です)

・1243年(寛元元年6月10日) 京都の外祖父・太政大臣実氏の今出川邸第において後嵯峨天皇の第2皇子(母は中宮・西園寺姞子)として生まれる
・1243年(寛元元年6月28日) 久仁と命名され、親王に立てられる
・1246年(寛元4年1月) 4歳の時、後嵯峨天皇の譲位により践祚・即位するが、父が院政を敷く
・1251年(建長3年) 宣陽門院の猶子となり、その所領・長講堂領を譲渡される
・1252年(建長4年) 後嵯峨上皇の皇子で異母兄の宗尊親王が将軍として鎌倉に迎え入れられる
・1256年(康元元年11月) 14歳の時、母の妹公子(東二条院)が入内する
・1257年(正嘉元年1月) 公子(東二条院)が中宮となる
・1259年(正元元年11月) 17歳の時、瘧病を患い、後嵯峨上皇の要請で亀山天皇に譲位する
・1268年(文永5年) 後嵯峨上皇の指示により、年長の後深草上皇の皇子熈仁を差し置いて亀山天皇の皇子世仁親王が立太子する
・1272年(文永9年2月) 後嵯峨法皇が治天と皇位の決定権についてすべてを鎌倉幕府に委ねる形で亡くなる
・1274年(文永11年1月) 亀山天皇は後宇多天皇に譲位し、治天の君として院政を開始する
・1275年(建治元年4月) 太上天皇の尊号辞退と出家の意思を表明し、執権北条時宗と後継者について折衝する
・1275年(建治元年11月) 熈仁親王(後の伏見天皇)を立太子させることに成功する
・1287年(弘安10年10月) 伏見天皇即位に伴い院政を開始する
・1289年(正応2年10月) 第六皇子・久明親王を鎌倉将軍として下向させる
・1290年(正応3年2月) 出家し法諱を素実とし、公式の院政を停めたが、政治に介入し続ける
・1291年(正応4年11月)  東大寺で受戒する
・1298年(永仁6年7月) 胤仁親王が践祚して後伏見天皇となる
・1301年(正安3年1月) 後二条天皇(後宇多上皇の皇子)が践祚する
・1304年(嘉元2年7月16日) 京都の富小路殿において、数え年62歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1885年(明治18)日本鉄道の宇都宮駅で、日本初の駅弁が発売された(駅弁記念日)詳細
1919年(大正8)政治家板垣退助の命日詳細
1994年(平成6)三内丸山遺蹟で巨大建物の木柱等が出土、国内最大級の縄文集落跡と報道される詳細
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 今日は、鎌倉時代の1265年(文永2)に、第92代の天皇とされる伏見天皇の生まれた日ですが、新暦では5月10日となります。
 伏見天皇(ふしみてんのう)は、京都において、持明院統の後深草天皇の第二皇子(母は左大臣洞院実雄の娘)として生まれましたが、名は熈仁(ひろひと)と言いました。1275年(建治元)に大覚寺統の亀山上皇の猶子となり親王宣下され、1287年(弘安10)の23歳の時、後宇多天皇の譲位により践祚、翌年に第92代とされる天皇として即位、両統が交互に皇位に就く例(両統迭立)を開きます。
 1289年(正応2)に自分の皇子である胤仁親王(のちの後伏見天皇)を皇太子にしたため、大覚寺統との間の確執が強まったものの、翌年には院政を敷いていた後深草院が出家し、以後は親政をとり、院評定衆の代わりに宮中に議定衆をおくなど公家政治振興に努めました。1290年(正応3)に宮中に甲斐源氏の浅原為頼父子が押し入り、伏見天皇暗殺未遂事件(浅原事件)が起き、1298年(永仁6)には、胤仁親王(後伏見天皇)に譲位して、院政を執り行ないます。
 しかし、1301年(正安3)に、大覚寺統の巻き返しにより後伏見天皇は後二条天皇に譲位し、院政は後宇多院の手に移りました。1303年(正応5)に十三ヶ条の新制を制定し、政治の刷新をすすめ、1308年(徳治3)には、後二条天皇の崩御に伴い、花園天皇の即位を実現し、再び院政を敷きます。
 1311年(応長元)に以前頓挫した勅撰集編纂を再企画し、京極為兼に単独撰進を命じ、翌年には、14番目の勅撰集『玉葉和歌集』が完成し、奏覧されました。自身も歌を能くし、歌集『伏見院御集』を成し、以後の勅撰集にも多く掲載されます。また、当代随一の能書家として知られ、宸翰の多くが後に国指定重要文化財となりました。
 1313年(正和2)に出家し、後伏見上皇が院政を引き継いだものの、1317年(文保元年9月3日)に京都において、数え年53歳で亡くなり、陵墓は深草北陵(現在の京都市伏見区)とされます。

<代表的な歌>

・「更(ふ)けぬるか 過ぎ行く宿も しづまりて 月の夜道に あふ人もなし」(玉葉和歌集)
・「立ちかへる 月日やいつを まつら船 行方もなみの 千重に隔てて」(玉葉和歌集)
・「春をうくる 時のこころは ひとしきを 柳桜の おのがいろいろ」(伏見院御集)
・「秋風は 遠き草葉を わたるなり 夕日の影は 野辺はるかにて」(風雅和歌集)
・「星うたふ 声や雲ゐに すみぬらん 空にもやがて 影のさやけき」(新拾遺和歌集)

〇伏見天皇の主要な著作

・日記『伏見院御記』
・歌集『伏見院御集』

☆伏見天皇関係略年表(日付は旧暦です)

・1265年(文永2年4月23日) 京都において、後深草天皇の第二皇子(母は左大臣洞院実雄の娘)として生まれる
・1275年(建治元年) 大覚寺統の亀山上皇の猶子となり親王宣下される
・1287年(弘安10年10月21日) 23歳の時、後宇多天皇の譲位により践祚する
・1288年(正応元年3月3日) 藤原経子の腹に胤仁親王(のちの後伏見天皇)が生まれる
・1288年(正応元年3月15日) 第92代とされる天皇として即位する
・1288年(正応元年8月20日) 西園寺実兼の長女(のちの永福門院)を中宮とする
・1289年(正応2年4月) 自分の皇子である胤仁親王(のちの後伏見天皇)を皇太子にしたため、大覚寺統との間の確執が強まる
・1290年(正応3年2月) 院政を敷いていた後深草院が出家し、以後は親政となる
・1290年(正応3年3月9日) 宮中に甲斐源氏の浅原為頼父子が押し入り、伏見天皇暗殺未遂事件(浅原事件)が起きる
・1294年(永仁2年) 勅撰集の編纂を企図し、京極為兼・飛鳥井雅有・二条為世・九条隆博に撰進を命じるものの中断する
・1298年(永仁6年7月22日) 胤仁親王(後伏見天皇)に譲位して院政を執り行なう
・1301年(正安3年1月21日) 大覚寺統の巻き返しにより後伏見天皇は後二条天皇に譲位し、院政は後宇多院の手に移る
・1303年(正応5年) 十三ヶ条の新制を制定し、政治の刷新をすすめる
・1308年(徳治3年8月25日) 後二条天皇の崩御に伴い、花園天皇の即位を実現し、再び院政を敷く
・1311年(応長元年) 再び勅撰集編纂を企画し、京極為兼に単独撰進を命ずる
・1312年(正和元年3月28日) 十四番目の勅撰集『玉葉和歌集』が完成し、奏覧される
・1313年(正和2年) 出家し、後伏見上皇が院政を引き継ぐ
・1317年(文保元年9月3日) 京都において、数え年53歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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 今日は、南北朝時代の1336年(建武3年/延元元)に、第93代の天皇とされる後伏見天皇(持明院統)が亡くなった日ですが、新暦では5月17日となります。
 後伏見天皇(ごふしみてんのう)は、鎌倉時代の1288年(弘安11年3月3日)に、伏見天皇の第一皇子(母は参議左近衛中将五辻経氏の娘・経子)として生まれましたが、名は胤仁(たねひと)と言いました。同年8月に親王宣下され、翌年に立太子し、永福門院の猶子となります。
 1298年(永仁6)の11歳の時、父・伏見天皇からの譲位により、践祚するものの、父が院政を敷き、両統迭立により大覚寺統の後宇多上皇の第一皇子(邦治親王)を皇太子に立て、第93代の天皇として即位しました。1300年(正安2)の13歳の時、元服しましたが、翌年には、大覚寺統の邦治親王(後二条天皇)に譲位させられます。
 1308年(徳治3)に後二条天皇が急死し、弟の花園天皇が即位し、1313年(正和2)には、院政を敷いていた伏見上皇が出家したので、これを引き継いで院政を敷きました。1318年(文保2)に花園天皇は在位10年で大覚寺統の後醍醐天皇に譲位し、院政はその父後宇多上皇に代わり、1326年(嘉暦元)には後二条天皇の第一皇子(邦良親王)が病死し、幕府の裁定で子の量仁親王がようやく皇太子に立ちます。
 1331年(元弘元)に後醍醐天皇が幕府に反旗を翻し、捕らえられ、鎌倉幕府により、皇太子量仁が即位して光厳天皇となり、後伏見上皇はしばらく院政を行ないました。しかし、1333年(元弘3)に幕府に反旗を翻した足利尊氏らの軍勢が京都に攻め込み、光厳天皇らとともに近江の太平護国寺に逃れたものの、捕らえられて京都に連れ戻されます。
 同年5月17日に光厳天皇廃位によって、上皇の院政も終わり、持明院殿で出家剃髪し、法名は理覚(のち行覚)となりましたが、1336年(建武3年/延元元年4月6日)に京都において、数え年49歳で亡くなりました。一方歌を能くし、仙洞五十番歌合(1303年)、十五夜五首会(1312年)などに出詠、歌集『後伏見院御集』(107首所収)を成し、『新後撰和歌集』以下の勅撰集へ計94首が入集、また、能書家としても知られています。

<代表的な歌>

・「夕山や ふもとの檜 原色さめて 残る日影ぞ みねにすくなき」(風雅和歌集)
・「雨しほる やよひの山の 木がくれに のこるともなき 花の色かな」(風雅和歌集)
・「夜すがらの 野分の風の 跡みれば 末ふす萩に 花ぞまれなる」(玉葉和歌集)
・「今更に その世もよほす 雲の色 よわすれてただに 過ぎし夕べを」(玉葉和歌集)
・「都には あらしばかりの さゆる日も 外山をみれば 雪ふりにけり」(続千載和歌集)

〇後伏見天皇関係略年表(日付は旧暦です)

・1288年(弘安11年3月3日) 伏見天皇の第一皇子(母は参議左近衛中将五辻経氏の娘・経子)として生まれる
・1288年(弘安11年8月10日) 親王宣下される
・1289年(正応2年4月25日) 2歳の時、立太子し、永福門院の猶子となる
・1298年(永仁6年7月22日) 11歳の時、父・伏見天皇からの譲位により、践祚するものの、父が院政を敷く
・1298年(永仁6年8月) 両統迭立により大覚寺統の後宇多上皇の第一皇子(邦治親王)を皇太子に立てる
・1298年(永仁6年10月13日) 第93代とされる天皇として即位する
・1300年(正安2年1月3日) 13歳の時、元服する
・1301年(正安3年1月21日) 14歳の時、大覚寺統の邦治親王(後二条天皇)に譲位する
・1303年(乾元2年閏4月) 仙洞五十番歌合に出詠する
・1308年(徳治3年8月25日) 後二条天皇が急死し、弟の花園天皇が即位する
・1312年(正和元年8月) 十五夜五首会に出詠する
・1313年(正和2年) 伏見上皇が出家して院政を停止したので、これを引き継いで院政を敷く
・1313年(正和2年7月9日) 母を女御寧子として、第三皇子(量仁親王)が生まれる
・1318年(文保2年2月26日) 花園天皇は在位10年で大覚寺統の後醍醐天皇に譲位し、院政はその父後宇多上皇に代わる
・1326年(嘉暦元年) 後二条天皇の第一皇子(邦良親王)が病死し、幕府の裁定で子の量仁親王がようやく皇太子に立つ
・1331年(元弘元年) 後醍醐天皇が幕府に反旗を翻し、捕らえられる
・1331年(元弘元年9月20日) 鎌倉幕府により、皇太子量仁が即位して光厳天皇となり、後伏見上皇はしばらく院政を行なう
・1333年(元弘3年5月) 鎌倉幕府に反旗を翻した足利尊氏らの軍勢が京都に攻め込み、光厳天皇らとともに近江の太平護国寺に逃れるが、捕らえられて京都に連れ戻される
・1333年(元弘3年5月17日) 光厳天皇廃位によって、上皇の院政も終わる
・1333年(元弘3年6月26日) 46歳の時、持明院殿で出家剃髪し、法名は理覚(のち行覚)となる
・1336年(建武3年/延元元年4月6日) 京都において、数え年49歳で亡くなる
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1742年(寛保2)江戸幕府の成文法「公事方御定書」上下2巻が一応完成する(新暦5月10日)詳細
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