
細井平洲(ほそい へいしゅう)は、江戸時代中期の1728年(享保13年6月28日)に、尾張国知多郡平島村(現在の愛知県東海市)の豪農の次男として生まれましたが、本姓は紀。名は徳民と言いました。幼年時代から学問に励み、1735年(享保20)に加家村観音寺の義観和尚に学び、1737年(元文2)に名古屋に出て学び、1743年(寛保3)には、京都に遊学しています。
1744年(延享元)に名古屋へ帰り、折衷学派の中西淡淵に入門し、1745年(延享2)には、長崎へ遊学し、中国語を学びましたが、母の病死にあって帰郷しました。1751年(宝暦元)に江戸へ出て、私塾を開き、1753年(宝暦3)には、伊予西条藩主の師となり、私塾の名を嚶鳴館とします。
1764年(明和元)に米沢藩の次期藩主・上杉治憲(1767年に第9代藩主)の師となり、1770年(明和7)に高山彦九郎が、平洲に入門、1771年(明和8)には、米沢へ行って講義をし、藩政改革や文教に与り、1776年(安永5)の米沢藩校興譲館の創設に尽力しました。1781年(天明元)に尾張藩主・徳川宗睦に講義をし、1783年(天明3)には、尾張藩校・明倫堂の初代督学(今の校長)となり、藩内の地域を回って講話をし、庶民教化にも努めています。
1786年(天明6)に人吉藩の藩校が、平洲の指導で設立されましたが、1792年(寛政4)には、明倫堂の督学を辞任しました。1796年(寛政8)には、米沢に行き、上杉治憲と普門院で久し振りの歓談をしたものの、1801年(享和元年6月29日)に、江戸の尾張藩藩邸において、74歳で亡くなり、浅草・天嶽院に埋葬されています。
1744年(延享元)に名古屋へ帰り、折衷学派の中西淡淵に入門し、1745年(延享2)には、長崎へ遊学し、中国語を学びましたが、母の病死にあって帰郷しました。1751年(宝暦元)に江戸へ出て、私塾を開き、1753年(宝暦3)には、伊予西条藩主の師となり、私塾の名を嚶鳴館とします。
1764年(明和元)に米沢藩の次期藩主・上杉治憲(1767年に第9代藩主)の師となり、1770年(明和7)に高山彦九郎が、平洲に入門、1771年(明和8)には、米沢へ行って講義をし、藩政改革や文教に与り、1776年(安永5)の米沢藩校興譲館の創設に尽力しました。1781年(天明元)に尾張藩主・徳川宗睦に講義をし、1783年(天明3)には、尾張藩校・明倫堂の初代督学(今の校長)となり、藩内の地域を回って講話をし、庶民教化にも努めています。
1786年(天明6)に人吉藩の藩校が、平洲の指導で設立されましたが、1792年(寛政4)には、明倫堂の督学を辞任しました。1796年(寛政8)には、米沢に行き、上杉治憲と普門院で久し振りの歓談をしたものの、1801年(享和元年6月29日)に、江戸の尾張藩藩邸において、74歳で亡くなり、浅草・天嶽院に埋葬されています。
〇細井平洲の主要な著作
・『詩経古伝』10巻(1759年)
・『嚶鳴館詩集』(1764年)
・『つらつらふみ』(1802年)
・『嚶鳴館遺稿』(1809年)
・『嚶鳴館遺草』(1835年)
☆細井平洲関係略年表(日付は旧暦です)
・1728年(享保13年6月28日) 尾張国知多郡平島村(現在の愛知県東海市)の豪農の次男として生まれる
・1735年(享保20年) 加家村観音寺の義観和尚に学ぶ
・1737年(元文2年) 名古屋に出て学ぶ
・1743年(寛保3年) 京都に遊学する
・1744年(延享元年) 名古屋へ帰り、中西淡淵に入門する
・1745年(延享2年) 長崎へ遊学し、中国語を学ぶ
・1751年(宝暦元年) 江戸へ出て、私塾を開く
・1753年(宝暦3年) 伊予西条藩主の師となり、私塾を嚶鳴館とする
・1764年(明和元年) 米沢藩の次期藩主・上杉治憲の師となる
・1767年(明和4年) 上杉治憲が第9代藩主となる
・1770年(明和7年) 高山彦九郎、平洲に入門する
・1771年(明和8年) 米沢へ行き、講義をする
・1776年(安永5年) 米沢藩校興譲館の創設に尽力する
・1781年(天明元年) 尾張藩主・徳川宗睦に講義をし、八柱神社(東海市荒尾町・市指定文化財)に、灯籠を寄進する
・1783年(天明3年) 尾張藩校・明倫堂の初代督学(今の校長)となり、藩内の地域を回って講話をする
・1786年(天明6年) 人吉藩の藩校が、平洲の指導で設立される
・1792年(寛政4年) 明倫堂の督学を辞任する
・1796年(寛政8年) 米沢に行き、上杉治憲が米沢郊外の関根まで出迎え、普門院で久し振りの歓談をする
・1801年(享和元年6月29日) 江戸の尾張藩藩邸において、74歳で亡くなり、浅草・天嶽院に埋葬される
・1807年(文化4年) 神明社境内に、「平洲先生旧里碑」を建立する
・1809年(文化6年) 上杉治憲が「嚶鳴館遺稿」を刊行する
・1835年(天保6年) 「嚶鳴館遺草」が刊行される
・1913年(大正2年) 従四位を追贈される
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
1866年(慶応2) | 洋画家・政治家黒田清輝の誕生日(新暦8月9日) | 詳細 |
1868年(慶応4) | 明治新政府が江戸幕府の昌平坂学問所を昌平学校として復興する(新暦8月17日) | 詳細 |
1903年(明治36) | 作曲家瀧廉太郎の命日(廉太郎忌) | 詳細 |
1928年(昭和3) | 「治安維持法」改正で、緊急勅令「治安維持法中改正ノ件」が公布・施行され、最高刑を死刑とする | 詳細 |
1929年(昭和4) | 評論家・翻訳家・小説家内田魯庵の命日 | 詳細 |
1945年(昭和20) | 岡山空襲で岡山城が焼失する(家屋12,693棟被災、死者が1,737人) | 詳細 |
1946年(昭和21) | GHQから「地理授業再開に関する覚書」(SCAPIN-1046)が指令される | 詳細 |