『折たく柴の記』(おりたくしばのき)は、儒学者・政治家新井白石の自叙伝で、3巻3冊からなり、平易な和漢混交文で記したものでした。1716年(享保元年10月4日)から起筆し、上巻で祖父や両親のこと、自己の生い立ちから甲府侯仕官までの事跡、中巻で江戸幕府第6代将軍徳川家宣 (いえのぶ) の補佐として幕政に尽力した正徳(しょうとく)の治のこと、下巻で第7代将軍家継の治績と政治的事項について記しています。
書名は、『新古今和歌集』‐哀傷に見られる後鳥羽院の歌「思ひ出づる をりたく柴の 夕煙 むせぶもうれし 忘れがたみに」からとったものとされてきました。私的な見解・主張が記されて客観性には欠けるとされますが、儒教の理想主義を実現しようとする白石の為政の態度がうかがわれ、政治・思想関係史料としても重要で、文学的にもすぐれたものとされ、日本の自伝文学の傑作と言われています。
以下に、『折たく柴の記』序を掲載しておきましたので、ご参照下さい。
書名は、『新古今和歌集』‐哀傷に見られる後鳥羽院の歌「思ひ出づる をりたく柴の 夕煙 むせぶもうれし 忘れがたみに」からとったものとされてきました。私的な見解・主張が記されて客観性には欠けるとされますが、儒教の理想主義を実現しようとする白石の為政の態度がうかがわれ、政治・思想関係史料としても重要で、文学的にもすぐれたものとされ、日本の自伝文学の傑作と言われています。
以下に、『折たく柴の記』序を掲載しておきましたので、ご参照下さい。
〇新井 白石(あらい はくせき)とは?
江戸時代中期に活躍した儒学者・政治家です。江戸時代前期の1657年(明暦3年2月10日)に、上総久留里藩士新井正済と妻千代の子として江戸神田柳原に生まれましたが名は君美(きんみ)といいました。
初め父正済と共に久留里藩主土屋利直に仕え、寵愛されましたが、1677年(延宝5)に土屋家の内争に連座して追放禁錮の処分を受けます。しかし、1679年(延宝7)土屋家の改易により禁錮が解け、1682年(天和2)に至り大老堀田正俊へ出仕しました。
ところが、1684年(貞享元)堀田正俊が刺殺されたため、6年後の1691年(元禄4)には堀田家を辞去し、江戸城東に塾を開いて子弟の教育にあたります。1693年(元禄6)に、師木下順庵の推挙で、甲斐府中藩主徳川綱豊の侍講となりました。
1709年(宝永6)に5代将軍綱吉の死によって、綱豊が第6代将軍家宣となると、間部詮房とともに将軍を補佐し幕政に参画、第7代家継も補佐します。その中で、朝鮮使節の待遇改革、金銀貨改良、長崎貿易制限、司法改革などをすすめて幕政の改善につとめ、「正徳の治」と言われてきました。
第8代将軍吉宗の就任にともない失脚して引退、その後は、著述活動に勤しみ、自伝『折たく柴の記』をはじめ、『読史余論』や『西洋紀聞』など多数の著書を著わします。朱子学を基本として、歴史学、地理学、国語学、兵学など多方面に才能を発揮、漢詩人としても高く評価されましたが、1725年(享保10年5月19日)に、68歳で亡くなります。
初め父正済と共に久留里藩主土屋利直に仕え、寵愛されましたが、1677年(延宝5)に土屋家の内争に連座して追放禁錮の処分を受けます。しかし、1679年(延宝7)土屋家の改易により禁錮が解け、1682年(天和2)に至り大老堀田正俊へ出仕しました。
ところが、1684年(貞享元)堀田正俊が刺殺されたため、6年後の1691年(元禄4)には堀田家を辞去し、江戸城東に塾を開いて子弟の教育にあたります。1693年(元禄6)に、師木下順庵の推挙で、甲斐府中藩主徳川綱豊の侍講となりました。
1709年(宝永6)に5代将軍綱吉の死によって、綱豊が第6代将軍家宣となると、間部詮房とともに将軍を補佐し幕政に参画、第7代家継も補佐します。その中で、朝鮮使節の待遇改革、金銀貨改良、長崎貿易制限、司法改革などをすすめて幕政の改善につとめ、「正徳の治」と言われてきました。
第8代将軍吉宗の就任にともない失脚して引退、その後は、著述活動に勤しみ、自伝『折たく柴の記』をはじめ、『読史余論』や『西洋紀聞』など多数の著書を著わします。朱子学を基本として、歴史学、地理学、国語学、兵学など多方面に才能を発揮、漢詩人としても高く評価されましたが、1725年(享保10年5月19日)に、68歳で亡くなります。
<新井白石の主要な著書>
・『藩翰譜 (はんかんぷ) 』 (1701年)
・『采覧異言』 (1708年)
・『読史余論』 (1712年)
・『采覧 (さいらん) 異言』 (1713年)
・『西洋紀聞』 (1715年)
・『古史通』 (1716年)
・『古史通或問』(1716年)
・『折たく柴の記』 (1716年起筆)
・『東雅』 (1719年)
・『南島志』 (1719年)
・『蝦夷志』(1720年)
・『東音譜』
・『同文通考』
・『白石詩草』
・『本朝軍器考』
・『白石手簡』
・『新井白石日記』
・『先哲像伝』
☆『折たく柴の記』序
むかし人は、いふべき事あればうちいひて、その余はみだりにものいはず、いふべき事をも、いかにもことば多からで、その義を尽くしたりけり。我父母にてありし人々もかくぞおはしける。父にておはせし人のその年七十五になり給ひし時に、傷寒をうれへて、事きれ給ひなんとするに、医の来りて独参湯(どくじんたう)をなむすゝむべしといふ也。よのつねに人にいましめ給ひしは、「年わかき人はいかにもありなむ。よはひかたぶきし身の、いのちの限りある事をもしらで、薬のためにいきぐるしきさまして終りぬるはわろし。あひかまへて心せよ」とのたまひしかば、此(この)事いかにやあらむといふ人ありしかど、疾喘(しつぜん)の急なるが、見まゐらするもこゝろぐるしといふほどに、生薑汁(しやうがじる)にあはせてすゝめしに、それよりいき出で給ひて、つひに其病癒(い)え給ひたりけり。後に母にてありし人の、「いかに、此程は人にそむきふし給ふのみにて、また物のたまふ事もなかりし」ととひ申されしに、「されば、頭のいたむ事殊(こと)に甚(はなはだ)しく、我いまだ人にくるしげなる色みえし事もなかりしに、日比(ひごろ)にかはれる事もありなむには、しかるべからず。又世の人熱にをかされて、ことばのあやまち多かるを見るにも、しかじ、いふ事なからむにはと思ひしかば、さてこそありつれ」と答へ給ひき。これらの事にて、よのつねの事ども、おもひはかるべし。かくおはせしかば、あはれ、問ひまゐらせばやとおもふ事も、いひ出でがたくして、うちすぐる程に、うせ給ひしかば、さてやみぬる事のみぞ多かる。よのつねの事共(ども)は、さてもやあるべき。おやおほぢの御事、詳(つまびらか)ならざりし事こそくやしけれど、今はとふべき人とてもなし。
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
1707年(宝永4) | 宝永地震が起き甚大な被害が出る(新暦10月28日) | 詳細 |
1872年(明治5) | 官営模範工場の富岡製糸場が操業を開始する(新暦11月4日) | 詳細 |
1876年(明治9) | 言語学者・国語学者・随筆家新村出の誕生日 | 詳細 |
1877年(明治10) | 詩人・医師伊良子清白の誕生日 | 詳細 |
1945年(昭和20) | GHQが「政治的、公民的及び宗教的自由に対する制限の撤廃に関する覚書」(SCAPIN-93)を出す | 詳細 |
1976年(昭和51) | 俳人・医師(医学博士)高野素十の命日 | 詳細 |