ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

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 今日は、江戸時代後期の1823年(文政6)に、狂歌三大家の一人とされる狂歌師・戯作者・御家人大田南畝の亡くなった日ですが、新暦では5月16日となります。
 大田南畝(おおた なんぽ)は、江戸時代中期の1749年(寛延2年3月3日)に、江戸の牛込中御徒町(現在の東京都新宿区中町)で、御徒の父・大田正智(吉左衛門)と母・利世の嫡男として生まれましたが、本名は覃(ふかし)と言いました。15歳の時、江戸六歌仙の1人でもあった内山賀邸(後の内山椿軒)に入門、国学や漢学のほか、漢詩、狂詩などを学び、17歳の時には、父に倣い御徒見習いとして幕臣となったものの、学問は続けます。
 1766年(明和3)頃に、荻生徂徠派の漢学者松崎観海に師事、作業用語辞典『明詩擢材』五巻を刊行、翌年には、それまでに書き溜めた狂歌が同門の平秩東作に見出され、狂詩文『寝惚先生文集』(平賀源内の序)を刊行しました。1769年(明和6)頃より、「四方赤良」と号し、1779年(安永8)に、高田馬場の茶屋「信濃屋」で70名余りを集め、5夜連続の大規模な観月会を催し、翌年には、黄表紙などの出版業を本格化した蔦屋重三郎を版元として『嘘言八百万八伝』を出版します。
 1783年(天明3)に、朱楽菅江とともに『万載狂歌集』を編纂、1785年(天明5年)には、『徳和歌後万載集』を編し、当時の天明調狂歌の一大集成をなしました。1787年(天明7)に、横井也有の俳文集『鶉衣』を編纂・出版、翌年には、重三郎の元で喜多川歌麿『画本虫撰』として狂歌集を出したりしています。
 寛政改革による粛正政策の台頭を機に、いったん幕吏の仕事に専念、1794年(寛政6)に、幕府の人材登用試験である学問吟味で御目見得以下の首席で合格、1796年(寛政8)には支配勘定に任用されました。1799年(寛政11)に孝行奇特者取調御用、1800年(寛政12)に御勘定所諸帳面取調御用、1801年(享和元)に大坂銅座に約一年間赴任、1804年(文化元)に長崎奉行所へ赴任、1808年(文化5)には、堤防の状態などを調査する玉川巡視の役目に就きます。
 1812年(文化9)に息子の定吉が支配勘定見習として召しだされたものの、自身は心気を患って失職しました。この間、江戸文人の代表格として名声をあげ、晩年の1820年(文政3)には、『杏園詩集』を出版したりしましたが、1823年(文政6年4月6日)に、江戸において、数え年75歳で亡くなっています。
 尚、号を蜀山人、狂歌名を四方赤良、戯作名を山手馬鹿人、狂詩名を寝惚先生などと称しました。

<代表的な狂歌>

・「永代と かけたる橋は 落ちにけり きょうは祭礼 あすは葬礼」
・「世の中は 酒と女が 敵なり どうか敵に めぐりあいたい」
・「一刻を 千金づつに つもりなば 六万両の 春のあけぼの」
・「いまさらに 何をかをしまん 神武より 二千年来 くれてゆくとし」
・「世の中に 絶えて女の なかりせば をとこの心 のどけからまし」
・「昨日まで ひとが死ぬると 思ひしが おれが死ぬとは こいつはたまらん」
・「ほととぎす 鳴きつるかたみ 初鰹 春と夏との 入相の鐘」(辞世)

〇大田南畝の主要な著作

・狂詩文『寝惚先生文集』(1767年)
・洒落本『甲駅新話』(1775年)
・咄本『鯛の味噌津』(1779年)
・洒落本『粋町甲閨』(1779年)
・洒落本『変通軽井茶話』(1780年頃)
・黄表紙『虚言八百万八伝』(1780年)
・黄表紙評判記『菊寿草』(1781年)
・黄表紙評判記『岡目八目』(1782年)
・狂歌集『万載狂歌集』朱楽菅江と共編(1783年)
・狂歌集『徳和歌後万載集』(1785年)
・狂歌狂文集『四方のあか』(1787年)
・随筆『俗耳鼓吹』(1788年序)
・狂歌狂文集『千紅万紫』(1817年)
・狂歌狂文集『万紫千紅』(1818年)
・狂歌狂文集『蜀山百首』(1818年)
・漢詩集『杏園詩集』(1820年)
・随筆『一話一言』全56巻(1820年成立)
・随筆『奴師労之(やっこだこ)』(1821年成立)
・随筆『仮名世説』(1825年) 
・狂歌狂文集『狂歌百人一首』(1843年)

☆大田南畝関係略年表(日付は旧暦です)

・1749年(寛延2年3月3日) 江戸の牛込中御徒町(現在の東京都新宿区中町)で、御徒の父・大田正智(吉左衛門)、母・利世の嫡男として生まれる
・1763年(宝暦13年) 15歳の時、江戸六歌仙の1人でもあった内山賀邸(後の内山椿軒)に入門、国学や漢学のほか、漢詩、狂詩などを学ぶ
・1765年(明和2年) 17歳の時、父に倣い御徒見習いとして幕臣となるが学問を続ける
・1766年(明和3年) 18歳の頃、荻生徂徠派の漢学者松崎観海に師事、作業用語辞典『明詩擢材』五巻を刊行する
・1767年(明和4年) 19歳の頃、それまでに書き溜めた狂歌が同門の平秩東作に見出され、平賀源内に認められて狂詩文『寝惚先生文集』を刊行する
・1769年(明和6年) この頃より自身を「四方赤良」と号する
・1779年(安永8年) 高田馬場の茶屋「信濃屋」で70名余りを集め、5夜連続の大規模な観月会を催す
・1780年(安永9年) 黄表紙などの出版業を本格化した蔦屋重三郎を版元として『嘘言八百万八伝』を出版する
・1783年(天明3年) 朱楽菅江とともに『万載狂歌集』を編纂する
・1785年(天明5年) 『徳和歌後万載集』を出版する
・1787年(天明7年) 横井也有の俳文集『鶉衣』を編纂、出版する
・1788年(天明8年) 重三郎の元で喜多川歌麿『画本虫撰』として狂歌集を出す
・1792年(寛政4年) 「学問吟味登科済」が創設される
・1794年(寛政6年) 幕府の人材登用試験である学問吟味で御目見得以下の首席で合格する
・1796年(寛政8年) 支配勘定に任用される
・1799年(寛政11年) 孝行奇特者取調御用を命ぜられる
・1800年(寛政12年) 御勘定所諸帳面取調御用を命ぜられる
・1801年(享和元年) 大坂銅座に約一年間赴任(旅の日記『改元紀行』を著している)する
・1804年(文化元年) 長崎奉行所へ赴任する
・1807年(文化4年) 隅田川に架かる永代橋が崩落するという事故を目撃し、自ら取材して証言集『夢の憂橋』を出版する
・1808年(文化5年) 堤防の状態などを調査する玉川巡視の役目に就く
・1812年(文化9年) 息子の定吉が支配勘定見習として召しだされる
・1820年(文政3年) 『杏園詩集』が出版される
・1823年(文政6年4月6日) 江戸において、数え年75歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1336年(建武3/延元元)第93代の天皇とされる後伏見天皇(持明院統)の命日(新暦5月17日)詳細
1742年(寛保2)江戸幕府の成文法「公事方御定書」上下2巻が一応完成する(新暦5月10日)詳細
2017年(平成29)「城の日」を記念して、日本城郭協会より「続日本100名城」が発表される詳細
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 今日は、江戸時代後期の1822年(文政5年)に、洒落本・滑稽本・黄表紙・合巻作者式亭三馬の亡くなった日ですが、新暦では2月27日となります。
 式亭三馬(しきていさんば)は、江戸時代中期の1776年(安永5)に、江戸浅草田原町(現在の東京都台東区)において、家主で版木師だった父・菊地茂兵衛の長男として生まれましたが、名は久徳と言いました。1784年(天明4)8歳から、1792年(寛政4)16歳まで、本石町(現・中央区日本橋本石町)の地本問屋翫月堂掘野屋仁兵衛方に住み込み奉公して戯作と関わります。
 1794年(寛政6)18歳のとき、黄表紙『天道浮世出星操』、『人間一心覗替繰』を出版し、1797年(寛政9)頃、本屋の蘭香堂万屋太治右衛門の婿養子となり、作家と出版屋を兼業しました。1799年(寛政11)に火消し人足同士の喧嘩を題材とした黄表紙『侠太平記向鉢巻』で、筆禍事件を起して50日の手鎖に処せられ、翌年は新刊を出せなくなります。
 1806年(文化3年3月)の文化の大火で罹災し、妻も亡くなったので万屋を去り、翌年には本町2丁目に転宅して、戯作のかたわら売薬店を営み、「仙方延寿丹」や歯みがき粉、自家製の化粧水「江戸の水」を売り出し、成功しました。一方で、流行の敵討物『雷太郎強悪物語』(1806年刊)を発表し、合巻形式流行のきっかけをつくり、その後の滑稽本『浮世風呂』(1809年刊)は精細な写実によるおかしみで人気を博し、同趣向の『浮世床』(1813年刊)と並んで代表作となります。
 また、旧主掘野屋仁兵衛の娘を後妻に迎え、虎之助(のちの式亭小三馬)をもうけ、後継者としました。合巻や滑稽本を中心に百数十点を発表しましたが、1822年(文政5年閏1月6日)に、江戸において、数え年47歳で亡くなっています。
 尚、門弟には為永春水、楽亭馬笑、古今亭三鳥、益亭三友などがいました。

〇式亭三馬の主要な著作

・黄表紙『天道浮世出星操 (てんどううきよのでずかい) 』(1794年刊)
・黄表紙『人間一心覗替繰』(1794年刊)
・洒落本『辰巳婦言 (たつみふげん) 』(1798年)
・黄表紙『侠太平記向鉢巻 (きゃんたいへいきむこうはちまき) 』(1799年)
・黄表紙『稗史億説年代記』3冊(1802年刊)
・歌舞伎解説書『戯場訓蒙図彙』勝川春英,初世歌川豊国画(1803年刊)
・滑稽本『親讐胯膏薬 (おやのかたきうちまたこうやく) 』(1805年)
・合巻『雷太郎強悪物語』10冊 歌川豊国画(1806年刊)
・滑稽本『戯場粋言幕之外(げじょうすいげんまくのそと)』(1806年刊)
・滑稽本『酩酊気質(なまえいかたぎ)』(1806年刊)
・滑稽本『浮世風呂』4編9冊 北川美丸・歌川国直画(1809年刊)
・滑稽本『早替胸機関(はやがわりむねのからくり)』(1810年刊)
・滑稽本『客者評判記』歌川国貞画(1811年刊)
・滑稽本『四十八癖(しじゅうはちくせ)』(1812年刊)
・滑稽本『一盃綺言(いっぱいきげん)』(1813年刊)
・滑稽本『人間万事虚誕計(にんげんばんじうそばっかり)』(1813年刊)
・滑稽本『浮世床』歌川国直画(1813年刊)
・滑稽本『古今百馬鹿(ここんひゃくばか)』(1814年刊)

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1215年(建保3)鎌倉幕府初代執権北条時政の命日(新暦2月6日)詳細
1831年(天保2)禅僧・歌人・書家良寛の命日(新暦2月18日)詳細


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 今日は、江戸時代後期の1831年(天保2)に、戯作者 十返舎一九が亡くなった日ですが、新暦では9月12日となります。
 十返舎一九は、本名を重田貞一といい、江戸時代中期の1765年(明和2)に、駿河府中(現静岡市)で生まれ、江戸へ出て武家奉公後、一時大坂で暮らし、20歳代末に再び江戸に出てきたとされます。
 版元の蔦屋で働きながら、当時流行の戯作を手がけ、黄表紙、洒落本、滑稽本などのジャンルにわたる作品を次々に出して、世間に認められるようになりました。
 その中で、最も知られているのが『東海道中膝栗毛』で、以後、全国にわたる道中記『金草鞋』等も書いています。広い分野での文筆活動を続けましたが、1831年(天保2年8月7日)67歳で没しています。

〇『東海道中膝栗毛』とは?
 十返舎一九著の滑稽本で、江戸時代後期の1802年(亨和2)から出版されました。
 弥次郎兵衛(弥次さん)と北八(北さん)が、江戸の長屋を旅立ち、東海道を西に向かい、伊勢参宮するまでに、さまざまな滑稽を演じる物語です。
 当時庶民の間でもお伊勢詣りがブームとなり、毎年多くの人が訪れていましたので、ちまたに普及し、ベストセラーとなりました。文中には当時流行の狂歌が散りばめられています。
 ものすごい人気となったので、次々と続編が出され20年にわたり、西日本から中山道を帰るまで続きました。
 この本に書かれた、弥次郎兵衛(弥次さん)と北八(北さん)の旅程は以下のようでした。
(1日目)
 ・早朝長屋を立つ
 ・子供同士の抜け参りにだまされる。
 ・戸塚宿の旅籠に泊まる。
(2日目)
 ・茶屋で熱い団子を食べる。
 ・弥次さん駕篭に乗る。
 ・小田原宿の旅籠に泊まり、北八が五右衛門風呂の底を踏み抜く。
(3日目)
 ・道中ふんどしを頭にかぶって恥をさらす。
 ・三島宿の旅籠鶴屋に泊まり、夜すっぽんに食いつかれる。
(4日目)
 ・胡麻の蝿に有り金全部盗まれる。
 ・蒲原宿の木賃宿へ泊まり、夜這いに失敗する。
(5日目)
 ・府中宿の旅籠よね屋へ泊まり、金策に成功する。
 ・安倍川遊郭で豪遊する。
(6日目)
 ・田舎親父と一悶着有り、茶屋で食い逃げされる。
 ・安倍川越えで盲人をだまし、川に落とされる。
 ・丸子宿のとろろ屋で夫婦喧嘩に合う。
 ・岡部宿の旅籠相良屋へ泊まる。
(7日目)
 ・大井川渡しで偽侍を演じ、人足賃をねぎろうとしたがばれる。
 ・日坂宿の旅籠へ泊まり、巫女と一悶着ある。
(8日目)
 ・茶代として64文払う。
 ・浜松宿の旅籠に泊まり、幽霊騒ぎにあう。
(9日目)
 ・新居への渡しの中で蛇騒動。
 ・篭かきの金を使ってひと騒動。
 ・御油の松並木で北を狐と間違えて縛り上げる。
 ・赤坂宿の旅籠に泊まる。
(10日目)
 ・草鞋代をねぎって一悶着。
 ・宮宿の旅籠鍵屋に泊まる。
(11日目)
 ・七里の渡し舟の中で小便騒動。
 ・四日市宿の旅籠に泊まり、石地蔵を抱いて寝る。
(12日目)
 ・馬に乗ったが、借金騒動に巻き込まれる。
 ・偽十返舎一九事件。
 ・松阪宿の木賃宿に泊まる。
(13日目)
 ・江戸の米屋太郎兵衛の大々講に紛れ込む。
 ・妙見町の旅籠藤屋へ泊まる。
 ・古市の千束屋で女郎と遊ぶ。
(14日目)
 ・内宮参拝後藤屋へ戻って出立。
 ・外宮参拝。
 ・天の岩戸で弥次さん腹痛を起こす。
 ・広小路の旅籠に泊まり、藪医者の診察で一騒動起こる。
(15日目)
 ・伊勢本街道を経て、奈良から京都に向かった。
    ↓<この間の旅程は省略されていて不明>
 ・伏見、京、大坂と遊ぶ

☆『東海道中膝栗毛』の膝栗毛発端序

鬼門關外莫道遠、五十三驛是皇州、といへる山谷が詩に據て、東海道を五十三次と定めらるよしを聞り。予此街道に毫をはせて膝栗毛の書を著す。元来野飼の邪々馬といへども、人喰馬にも相口の版元、太鼓をうつて売弘たる故、祥に乗人ありて、編数を累ね、通し馬となり、京大阪および、藝州宮嶋までの長丁場を歴て帰がけの駄賃に、今年続五篇、岐蘇路にいたる。弥次郎兵衛喜多八の称、異国の龍馬にひとしく、千里の外に轟たれば、渠等が出所を問ふ人有。依て今その起る所を著し、東都を鹿島立の前冊とし、おくれ走に曳出したる、馬の耳に風もひかさぬ趣向のとつて置を、棚からおろして如斯

 干時文化
   甲戌初春                   十返舎一九志
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