ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:戦国大名

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 今日は、戦国時代の1536年(天文5)に、伊達家14代稙宗(1488~1565年)が分国法の一つである「塵芥集」を制定した日ですが、新暦では5月5日となります。
 「塵芥集(じんかいしゅう)」は、陸奥国の戦国大名伊達氏の制定した分国法で、前文、本文(171ヶ条)、中野宗時ら老臣12名の連署起請文がありました。形式・条文配列は、「御成敗式目」にならったもので、内容上も式目の影響が強くみられるものの、伊達氏の分国の実情に即したものもあり、刑事法規に特色がみられます。
 第一条から七条までが神社、第八条から十五条までが寺院、第十六条から七十五条までが殺害、盗賊等の刑事法、第七十六条から九十一条までが土地法、第九十二条から一七一条までが売買、貸借、質入、婚姻、損害賠償等の規定となっていました。実際に使用されていたのは、1536年(天文5)~1570年(元亀元)までの約34年間で、以降は忘れ去られ、1680年(延宝8)に家臣である村田親重が伊達綱村に献上するまで、認知されずにいます。
 分国法の中では最も条数が多いとされ、多岐かつ詳細で、伊達氏がその支配下にある中小領主間の紛争や領主層とその家来、百姓との間に生じる諸問題について、裁決判断の基準を示したものでした。
 以下に、「塵芥集」を抜粋し、現代語訳を付しておきますので、ご参照下さい。

〇「塵芥集」(抜粋) 1536年(天文5年4月14日)制定 ( )内は筆者が付した条文番号

一(1) 神社の事 祭礼の事は、年の豊かなるにも、悪しき年にも、増滅なく、嘉例にまかせ、これを勤むべし。

一(2) 村里よりは、先規のごとく、祭のもの無沙汰なきに、神職かの伝供を貪り、怠りをなすに付けては、はやくかの職を改むべき也。

一(3) 造営の事、神領を塞げ候は、別当・神主修理をなすべし。無沙汰にいたつてはば、はやくかの職を改めかへべし。ただし大破のときは、時宜によるべし。若又神領なくば、その社の別当・神主の役として、勧進をもつて修理をなすべし。なを事ならずば、子細を披露のうへ、合力有べき也。

一(4) 神領の百姓、権門の威をかり、年貢別当抑留せしめば、成敗を加ふべきなり。

一(5) 神木の事、造営に付て切らば、是非にをよばず。自分の要用として、切り取売る事、罪科たるべし。買手又罪を同じくすべし。

一(6) 神社に付くる所帯の事、時の別当・神主みだりに売るべからず。売手・買手共にもつて罪科たるべし。又寄進いたす子孫、かの所帯競望せしめ、違乱にをよぶべからず。

一(7) 祭礼の頭役、代官をもつて相勤むべからず。衆徒中・神主・禰宜そのほか同然。

一(57) 盗賊に付て、親子の咎の事、親の咎は子にかけへし。たゝし子たりととも、遠き境、談合なすへきやうなくは、これをかけへらす。同子の咎親にかけへらす。たゝしひとつ家に候はゝ同罪たるへし。また時宜によるへきなり。

一(75) 人の家に火を付候事、ぬす人同罪たるへし。

一(77) 百姓、地頭の年貢所当相つとめす、他領へ罷去事。盗人の罪科たるへし。仍かの百姓許容のかたへ、申と届くるのうへ、承引いたさす候はゝ、格護候族同罪たるへきなり。

一(80) 百姓由緒の在家をしさり、他領にして、出作いたす事、かつてもって禁制たるへし、此は法度を背き、由緒の在家へ帰らすは、いま住むところの地頭、くたんの百姓ともにもつて、成敗を加ふへきなり。

一(87) 万人の飲み水として、流れを汲みもちゆるのところに、河上の人穢らわしき物を流し、不浄をゝこなふ事あるへからす、次に一人のために、其人の在所へ堰入、流れをとゝめ、飲み水に飢へさする事、罪科たるへし。

一(122) 先〃、より境なく、入会に刈り候山野の事、作場にいたし候に付て問符あり、しからは山は山、野は野、先規のことく作場をあひ止めへきなり、なを此旨を背き、強ゐて作場になす輩あらは、くたんの作場を理運の方へ付へきなり。

一(123) 境相たゝさるの山の事、先規まかせたるへし、かくのことくの地、もし知行の儀あるなきの問符、相互に知行の年記をかんかへ、当所務廿一ヶ年過候者、沙汰を改むるにをよばす、しかるに一方は、年久しく所務のよし申、一方は、近き年無理に手を入らるゝ、非分のよし度々問符にをよふといへとも、押掠めらる、のゆへ年月を経る、さらに由緒なきにあらさるのよし訴訟を企つ、しかのことき輩、相互に申旨を糺しさくり、理の推す方へくたんの論所をつけ、ならひに、以前に蘇することく、非分の申出つる方の所帯の内を割き分け、かの論所ほと道理の方へ付へきなり。

一(131) 人に斬られ、人に殺され候返報として、他国の者を理を尽さず討つ事、これ有るべからず、かくの如くの沙汰あるのときは、てきの国の人を拘え置き、守護所へ披露いたすべし。(後略)

一(133) 合戦場にて、味方に討たれ候とも、討死同然たるべきなり。

一(139) 路次をゆきき人の、道のほとりの家垣を壊ち、松明になす事あるべからず。堂塔の事は申にをよばざる也。

一(140) 地下人、他所へ出上りの事、そのところをたのみ、栖をなし、他所へ罷り越え候はゝ、その地頷、又ハ地主に暇をこひ、罷り出てへきなり、たとひ親といひ、子といひ、のこし置くといふとも、其地主政所へ相ことハらす、他所へ荷物、其外運ひ送るのとき、その村中のもの出合ひ、かの出るところのもの相かゝへ候輩、さらにひか事にあらす、価い出迎ひの人衆、出上りのものひきつれ候者、うちとめ候共郷内のものを越度あるへからす、射たれ候族、数多候とも不運たるへきなり、たゝしい川上りの本人、かの在所へ帰りすみ候はゝ、射手の越度たるへきなり。

一(169) 田畠ならびに山野・屋敷等の境の事、先規まかせたるへし、然処古き境を改めわたくしに傍示をたて、訴訟を企つるのとき、本主論をなす事、非拠たるにあらす、仍両方申旨、これを糾明し、、非分の訴訟たらは、訴訟人の領地のうちを割き分け、論人の方に付へきなり。

※縦書きの原文を横書きに改め、句読点を付して、一部の平仮名を漢字に直してあります。

<現代語訳>

一(1) 神社の事・祭礼の事は、その年の作物が豊作でも、凶作でも、増滅なく、良い年の例に合わせ、実施するように勤めなければならない。

一(2) 村里より、先例のように祭りに対しての連絡がない時は、それが神職がいつもの供え物を私物化するとか、勤めを怠けることであれば、速やかに神職を解任すべきである。

一(3) 造営の事は、神領の人(全てを指揮すべき統括職)に支障があれば、別当・神主が代わりに修理を実施しなければならない。何も神領より指示がないようなこととなれば、神領の職を懐妊すべきである。 但し、大破したときは、時宜を見て処置すべきである。もしまた、神領がいない場合は、その社の別当・神主の役目として、寄付によって資金を集めて修理を実施すべきである。尚、うまくいかない場合は、詳細を公表した上で、さらなる支援を求めるべきである。

一(4) 神領職の家の百姓が権門の威を借りて、年貢等を納めなければ、処罰を加えるべきである。

一(5) 神木の事は、神社の造営用に神木を伐採する場合は問題ない。私的な目的で神木を伐採・販売する事は罪を科すべきである。買い手もまた同罪とすべきである。

一(6) 神社に付属する財産・家具の事は、その神社のその時に任命されている別当・神主はしかるべき根拠、理由もなく売るべきではない。売手・買手共に罪を科すべきである。また、先祖が寄付したからと言ってその子孫が、その財産・家具を我勝ちに欲しがって、秩序を乱すことにならないようすべきである。

一(7) 祭礼の頭役は、代理が務めてはならない。衆徒中・神主・禰宜その他も同様である。

一(57) 盗賊について、親子の罪科の事は、親の罪はその子にかける。但し、子でもあっても、遠隔地に住んでいたり、打合せができないようであれば、親の罪を子にかけてはならない。同様に、子の罪をその親にかけてはならない。但し(親子が)同じ家に住んでいるのであれば同罪とする。また、伊達氏の政治的・法的な意志・判断によるべきである。

一(75) 人の家に火を付ける事は、盗人と同罪とするべきである。

一(77) 百姓が領主への年貢・雑税を納入せずに他領へ逃散する事は、盗人と同じ罪科に処する。その逃亡農民を受け入れている者に連絡して、引渡しを要求しても承知しないときには、かくまっている者を逃亡農民と同罪とするべきである。

一(80) 百姓が本来の住居を出て、他領で耕作する事は、以前から禁止である。この決まりに違反して、本来の住居へ帰らなかった場合は、現住地の領主と決まりに違反した百姓を共に処罰するべきである。

一(87) 万人の飲み水を汲み取る場所に、川上に住む人が汚物を流し、そこを汚染させてはならない。次に、個人の屋敷へ水を流し入れ、水流を堰き止めて、他の人を飲み水に飢えさせることは罪である。

一(122) 以前から境界がない入会地について、そこを田畑にしようとして訴訟になることがある。この場合、山は山、野は野とし、先例に従って、田畑にすることは止めるべきである。尚、この決まりに違反して、強引に田畑にしようとする者がいれば、所有に関して道理のある者にその土地を付与するべきである。

一(123) 境界がない山の事は、先規に従いなさい。このような土地の知行をめぐる訴訟が発生した場合は、相互の知行年数を考慮し、それが21年以上経過していたら、知行者を改める必要はない。しかし、一方は、その土地を21年以上知行してきたと主張し、もう一方は、それは無理に入手した土地であると主張し、頻繁に争いが起こる。そして、後者が、その土地は相手に盗み取られたために年月が経過しているので、こちらのほうが土地に対する由緒があると主張し、訴訟を企てることがある。このような者については、相互の主張し、道理のある者へ訴訟対象地を付与するべきである。そして、前条で定めたように、道理のなかった者の所領の一部の訴訟対象地分の土地を道理のある者へ与えるべきである。

一(131) 人に斬られ、人に殺された仕返しとして、他国の者を理を尽さないで討つ事は、これは有ってはならない、このような事件があるのときは、敵の国の人を捉えおいて、守護所へ報告すること。(後略)

一(133) 合戦場において、味方に討たれたといっても、討死と同然とするべきである。

一(139) 道を行く人が、道端の家の垣根を破壊して松明にしてはならない。ましてや(寺院の)堂塔は言うまでもないことである。

一(140) 地下人(百姓)が他領へ転出する事は、現住する地域に一旦居住した以上、他領に出る際は、現住地の領主または地主に、主従関係の解消を申請してから転出しなさい。もし、親や子を現住する地域に残しておいたが、居住していた地域の地主政所(農業経営・所領支配に関する事務処理を行う機関)に転出を申請しなかったとする。そうすると、他領へ荷物などを送る際に、居住していた村の者が、申請しないで転出しようとした者を拘束した場合、それは道理に適っている。したがって、転出先の地域の者が、転出しようとした者を現住していた地域に引き戻した場合、居住していた地域の者が、転出しようとした者を討ったとしても、罪はないものである。

一(169) 田畑や山野、屋敷などの境界の事は、先規に従うべきである。従って、以前からの境界を改め、私的に境界を示す標識を立て、訴訟を企てた場合、本来の土地所有者が反論することは道理に反することではない。よって、両方の主張を吟味し、道理に適っていない訴訟であると判明した場合は、原告の領地の一部を没収し、訴えられた側に付与するべきである。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1526年(大永6)駿河国守護今川氏親が「今川仮名目録」を制定する(新暦5月25日)詳細
1602年(慶長7)連歌師里村紹巴の命日(新暦6月2日)詳細
1867年(慶応3)倒幕派の志士・長州藩士高杉晋作の命日(新暦5月17日)詳細
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 今日は、安土桃山時代の1591年(天正19)に、武将・戦国大名・後北条氏5代目当主北条氏直の亡くなった日ですが、新暦では12月19日となります。
 北条氏直(ほうじょう うじなお)は、戦国時代の1562年(永禄5)に、後北条氏4代目当主北条氏政の次男(母は武田信玄の娘・黄梅院)として相模国の小田原城で生まれ(兄の新九郎は早世)ましたが、幼名は国王丸、通称は新九郎と言いました。1569年(永禄12)に、父・氏政に身を寄せる今川氏真の養子となり、名目上駿河国を譲られます。
 1571年(元亀2)に祖父が亡くなり父・氏政が当主となり、武田との甲相同盟が回復、1577年(天正5)に元服しました。1577年(天正5)に常陸の小田城に梶原政景を攻め初陣を飾り、1580年(天正8)に武田勝頼と駿河黄瀬川で対陣中、父・氏政の隠居により家督を譲られ、後北条家の第5代当主となります。
 1582年(天正10)に織田信長の侵攻で勝頼などが討死して武田氏が滅亡後、同年6月の本能寺の変で信長が横死すると、神流川の戦いで氏直本軍が織田方の滝川一益軍に勝利しました。同年8月には、徳川家康と甲斐の若神子で対陣しましたが、同年10月に上野は氏直、甲斐・信濃は家康が領有し、家康の娘が氏直に嫁ぐことで両軍の和睦・同盟が成立し、後北条氏最大の領地を成します。
 翌年に家康の娘・督姫が氏直に嫁ぎましたが、1587年(天正15)から、豊臣秀吉に対抗するため軍備増強に務め、秀吉の再三の上洛勧告に応じませんでした。1590年(天正18)には、秀吉による小田原征伐が開始され、3ヶ月に及ぶ籠城戦のすえ、降伏します。
 父・氏政と叔父・氏照は切腹させられましたが、家康の女婿であったため命を助けられ、高野山に籠居させられ、「見性斎」と称しました。1591年(天正19)に赦免され、1万石を与えられ大名として復活したものの、同年11月4日に大坂において、数え年30歳で病死しています。

〇北条氏直関係略年表(日付は旧暦です)

・1562年(永禄5年) 北条氏政の次男(母は武田信玄の娘・黄梅院)として小田原城で生まれる
・1568年(永禄11年)末 武田氏の駿河侵攻が行われ、母である黄梅院は父と離縁させられ、実家の武田家に戻される
・1569年(永禄12年) 母である黄梅院が病死する
・1569年(永禄12年5月) 父・氏政に身を寄せる今川氏真の養子となる
・1571年(元亀2年) 祖父が亡くなり父・氏政が当主となり、武田との甲相同盟が回復する
・1577年(天正5年3月) 元服し、古河公方・足利義氏にはじめて書状を送る
・1577年(天正5年11月) 常陸の小田城に梶原政景を攻め初陣を飾る
・1580年(天正8年8月19日) 父・氏政の隠居により家督を継いで後北条家の第5代当主となる
・1581年(天正9年) 代替り検地にかえて段銭の増徴を行う
・1581年(天正9年) 叔父・武田勝頼と三島で戦ったが、決着はつかずに終わる
・1582年(天正10年3月) 信長の侵攻で勝頼などが討死して武田氏が滅亡する
・1582年(天正10年6月19日) 神流川の戦いで氏直本軍が滝川一益軍に勝利する
・1582年(天正10年8月) 徳川家康と甲斐の若神子で対陣する
・1582年(天正10年10月27日) 上野は氏直、甲斐・信濃は家康が領有し、家康の娘が氏直に嫁ぐことで両軍の和睦・同盟が成立する
・1583年(天正11年8月15日) 家康の娘・督姫が氏直に嫁ぐ
・1587年(天正15年) 豊臣秀吉に対抗するため軍備増強に務める
・1588年(天正16年8月) 家康の仲介も受けて、叔父の北条氏規を上洛させて秀吉との交渉に臨む
・1589年(天正17年) 秀吉の沼田裁定による沼田城受取後に、猪俣邦憲による真田昌幸の支城・名胡桃城奪取事件が起きる
・1590年(天正18年) 秀吉による小田原征伐が開始される
・1590年(天正18年7月5日) 秀吉に降伏したが、助命される
・1590年(天正18年7月11日) 父・氏政と叔父・氏照が切腹する
・1590年(天正18年8月12日) 高野山に入り、高室院で謹慎生活を送り、「見性斎」と称する
・1591年(天正19年2月) 氏直に対して秀吉から家康に赦免が通知される
・1591年(天正19年5月上旬) 大坂で旧織田信雄邸を与えられる
・1591年(天正19年8月19日) 秀吉と対面し正式に赦免と河内及び関東において1万石を与えられ大名として復活する
・1591年(天正19年11月4日) 大坂において、数え年30歳で病死する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1854年(嘉永7)安政東海地震が起き、甚大な被害が出る(新暦12月23日)詳細
2000年(平成12)宮城県上高森遺蹟等で発見の前期旧石器が捏造と判明(旧石器捏造事件の発覚)詳細
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 今日は、安土桃山時代の1571年(元亀2)に、戦国武将・大名毛利元就の亡くなった日ですが、新暦では7月6日となります。
 毛利元就(もうり もとなり)は、戦国時代の1497年(明応6年3月14日)に、室町幕府御家人で安芸郡山城主(現在の広島県安芸高田市吉田町)だった毛利弘元の次男(母は福原広俊の娘)として生まれましたが、幼名は松寿丸と言いました。
 1501年(文亀元)には実母が死去、1506年(永正3)には10歳で父・弘元を亡くします。長兄・興元が家督を継いでいましたが、1516年(永正13)の興元急死後、家督は甥の幸松丸に譲られるなど不遇な時代を過ごします。
 しかし、1523年(大永3)に幸松丸の夭折により老臣に擁立されて家督を継ぎ、安芸郡山城主となりました。初めは出雲の尼子晴久に属していましたが、1525年(大永5)以降は尼子氏と絶って、周防大内氏に属します。
 1529年(享禄2)に安芸石見国人領主連合を率いていた高橋氏を滅ぼし、その位置を継承しました。1540年(天文9)には、尼子晴久の大軍に郡山城を包囲されましたが、籠城戦の末に翌年これを撃退、さらに安芸守護家の武田氏を滅亡させて、広島湾に進出します。
 1546年(天文15)に長男隆元に家督を譲って隠居しましたが、その後見として実権は放さず、1550年(天文19)に三男隆景を小早川氏の嗣とし、次男元春を吉川家督に据えて芸備支配を磐石としました。1551年(天文20)に大内義隆がその家臣陶晴賢に殺されると、いったん晴賢に従ったものの、1555年(弘治元)の厳島の戦で晴賢を破り、周防・長門・安芸の三国を支配下に置きました。
 1557年(弘治3)には陶の傀儡主大内義長(大友宗麟の弟)を山口に滅亡させ、さらに1566年(永禄9)には出雲富田城の尼子義久を降伏させます。その領国は山陰、山陽の10ヶ国と九州、四国の一部をも服務一大勢力を形成しましたが、1571年(元亀2年6月14日)に安芸郡山城において、数え年75歳で亡くなっています。

〇毛利元就関係略年表(日付は旧暦です)

・1497年(明応6年3月14日) 安芸郡山城主の毛利弘元の次男(母は福原広俊の娘)として生まれる
・1500年(明応9年3月) 父・弘元が隠居し、嫡男の毛利興元に家督を譲る
・1501年(文亀元年12月) 実母(福原広俊の娘)が死去
・1506年(永正3年1月) 10歳で父・弘元を亡くす
・1511年(永正8年8月) 元服して、多治比(丹比)元就を名乗って分家を立てる
・1516年(永正13年) 長兄・興元が急死し、家督は甥幸松丸に譲られる
・1523年(大永3年) 幸松丸の夭折により老臣に擁立されて家督を継ぎ、安芸郡山城主となる
・1525年(大永5年3月) 尼子氏と絶って、周防大内氏に属する
・1529年(享禄2年) 安芸石見国人領主連合を率いていた高橋氏を滅ぼし、その位置を継承する
・1537年(天文6年12月) 長男隆元を大内義隆へ質子として差し出す
・1540年(天文9年) 尼子晴久の大軍に郡山城を包囲される
・1541年(天文10年1月) 籠城戦の末に尼子晴久軍を撃退する
・1541年(天文10年5月) 安芸守護家の武田氏を滅亡させて、広島湾に進出する
・1542年(天文11年) 翌年にかけて大内義隆を総大将とした第1次月山富田城の戦いに従軍する
・1546年(天文15年12月) 長男隆元に家督を譲って隠居し、後見として実権は握る
・1550年(天文19年7月) 重臣井上氏一族誅伐を契機に家中支配権を確立する
・1550年(天文19年) 三男隆景を小早川氏の嗣とし、次男元春を吉川家督に据える
・1551年(天文20年9月) 大内義隆がその家臣陶晴賢に殺されると、いったん晴賢に従う
・1553年(天文22年) 石見の吉見正頼の反陶蜂起に呼応して、晴賢と断交する
・1555年(弘治元年10月) 厳島の戦で晴賢を破り、周防・長門・安芸の三国を支配下に置く
・1557年(弘治3年4月) 陶の傀儡主大内義長(大友宗麟の弟)を山口に滅亡させる
・1557年(弘治3年11月) 毛利隆元・吉川元春・小早川隆景の三子に結束を説いた教訓状を書く
・1566年(永禄9年11月) 出雲富田城の尼子義久を降伏させる
・1571年(元亀2年6月14日) 安芸郡山城において、数え年75歳でなくなる
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 今日は、戦国時代の1530年(享禄3)に、武将・戦国大名上杉謙信の生まれた日ですが、新暦では2月18日となります。
 上杉謙信(うえすぎ けんしん)は、越後守護代の父・長尾為景の四男(母・長尾顕吉の娘)として生まれましたが、幼名は虎千代と言いました。
 1536年(天文5)に、父・為景が隠居し、兄・晴景が家督を継ぎましたが、1542年(天文11)には、父・為景が亡くなっています。1543年(天文12)8月15日に元服して長尾景虎と名乗り、9月には兄・晴景の命を受け、古志郡司として春日山城を出立して三条城、次いで栃尾城に入りました。
 1548年(天文17)に、守護上杉定実の仲介で、兄・晴景の養子となる形で春日山城主となり、1551年(天文20)には、義兄の長尾政景をも陰謀で倒して、上・中越地方の統一を実現します。
 1552年(天文21)、関東管領上杉憲政は北条氏康に攻められ、景虎を頼って、越後国へ逃亡してきたので、それを助けて関東に出兵しました。1553年(天文22)に、武田信玄との第一次川中島の戦いが起こりますが、その後11年にわたり好敵手として、第五次まで断続して戦います。
 一方、1553年(天文22)に、初めて上洛して後奈良天皇や室町幕府第13代将軍足利義輝に拝謁し、翌年には、北条氏康・今川義元と甲相駿三国同盟が結ばれました。
 1559年(永禄2)に再度上洛し、将軍足利義輝に謁見、後奈良天皇から従五位下弾正少弼に任ぜられ、翌年には、北陸にも進出し、一向一揆との戦いが始まります。1561年(永禄4)に、北条氏を小田原の本城まで追い詰めますが破れず撤退するものの、翌年には上杉憲政から譲られて関東管領となり、上杉氏を名乗りました。
 1569年(永禄12)に、北条氏康に請われて上野一国の割譲と氏康の子三郎氏秀の入嗣を条件に講和、翌年には入道して謙信と名乗ります。1572年(元亀3)に、織田信長との同盟を機に越中を平定、1577年(天正5)には、七尾城を陥落させ、能登の手中とし、手取川の戦いでも織田軍を破りました。
 しかし、1578年(天正6)3月13日に、越後春日山城内で、数え年49歳で亡くなっています。

〇上杉謙信関係略年表(日付は旧暦です)

・1530年(享禄3)1月21日 越後守護代の父・長尾為景の四男(母・長尾顕吉の娘)として生まれる
・1536年(天文5)8月 父・為景が隠居し、兄・晴景が家督を継ぐ
・1542年(天文11)12月 父・為景が亡くなる
・1543年(天文12)8月15日 元服して長尾景虎と名乗る
・1543年(天文12)9月 晴景の命を受け、古志郡司として春日山城を出立して三条城、次いで栃尾城に入る
・1548年(天文17) 守護上杉定実の仲介で、兄・晴景の養子となる形で春日山城主となる
・1551年(天文20) 義兄の長尾政景をも陰謀で倒して、上・中越地方の統一を実現する
・1552年(天文21)1月 関東管領上杉憲政は北条氏康に攻められ、越後国へ逃亡してくる
・1552年(天文21)8月 関東管領上杉憲政を助けて関東に出兵する
・1553年(天文22) 武田信玄との第一次川中島の戦いが起こる
・1553年(天文22)9月 初めて上洛し、後奈良天皇や室町幕府第13代将軍足利義輝に拝謁する
・1554年(天文23) 北条氏康・今川義元と甲相駿三国同盟が結ばれる
・1555年(天文24) 武田信玄との第二次川中島の戦いが起こる
・1557年(弘治3) 武田信玄との第三次川中島の戦いが起こる
・1559年(永禄2) 再度上洛し、将軍足利義輝に謁見、後奈良天皇から従五位下弾正少弼に任ぜられる
・1560年(永禄3) 北陸にも進出し、一向一揆との戦いが始まる
・1561年(永禄4) 北条氏を小田原の本城まで追い詰めるが破れず撤退する
・1561年(永禄4)閏3月16日 上杉憲政から譲られて関東管領となり、上杉氏を名乗る
・1561年(永禄4)8月、武田信玄との第四次川中島の戦いが起こる
・1564年(永禄7) 武田信玄との第五次川中島の戦いが起こる
・1569年(永禄12) 北条氏康に請われて上野一国の割譲と氏康の子三郎氏秀の入嗣を条件に講和する
・1570年(元亀元) 入道して謙信と名乗る
・1572年(元亀3) 織田信長との同盟を機に越中を平定する
・1573年(元亀4)4月12日 ライバルだった武田信玄が死去する
・1577年(天正5)9月15日 能登の七尾城を陥落させ、手中とする
・1577年(天正5)9月23日 手取川の戦いで織田軍を破る
・1578年(天正6)3月13日 越後春日山城内で、49歳で亡くなる
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 今日は、江戸時代前期の1636年(寛永13)に、武将・仙台藩の藩祖伊達政宗の亡くなった日ですが、新暦では6月27日となります。
 伊達政宗は、安土桃山時代の1567年(永禄10年8月3日)に、出羽国米沢城(現在の山形県米沢市)で、伊達氏第16代当主・伊達輝宗の長子(母・最上義守の娘義姫)として生まれましたが、幼名を梵天丸といいました。
 幼少の頃に、右眼を失明し、後に「独眼竜」とも称されるようになります。1577年(天正5)に元服し藤次郎政宗と称し、1581年(天正9)には、隣接する戦国大名・相馬氏との合戦で初陣を飾りました。
 1584年(天正12)には家督を継ぎ、伊達氏の第17代当主となり、翌年父輝宗が二本松義継のために不慮の死をとげてからは、積極的に領土拡張に乗り出します。
 1588年(天正16)に佐竹義重、蘆名義広、相馬義胤らと対戦し、翌年には、磨上原(すりあげがはら)の戦で蘆名義広を破り、会津地方を制覇しました。その後も領土を拡張し、須賀川二階堂氏を滅ぼし、石川、白川両氏を服属させて、陸奥国、出羽国に及ぶ広大な地を勢力下に置きます。
 しかし、1590年(天正18)に小田原参陣に遅参、豊臣秀吉に降伏し、会津、岩瀬、安積郡などを没収され、黒川城(会津若松)から米沢城に移りました。さらに、翌年には米沢城72万石から、玉造郡岩手沢城58万石に減転封させられます。
 1593年(文禄2)に文禄の役で朝鮮へ出兵しますが、豊臣秀吉死没後の1600年(慶長5)の関ケ原の戦いでは、徳川家康方につき、会津の上杉景勝と戦いました。
 1603年(慶長8)に居城を仙台に移し、仙台藩62万石の基礎を築き、1613年(慶長18)には慶長遣欧使節をローマに派遣します。1614年・1615年(慶長19・20)の大坂の陣にも徳川方として参戦して、徳川秀忠、家光の信任を得ました。
 和歌、茶道、能楽に長じ能書家としても知られ、桃山文化を仙台に移したりしましたが、1636年(寛永13年5月24日)に、江戸桜田邸において、68歳で死去します。

〇伊達政宗関係略年表(日付は旧暦です)

・1567年(永禄10年8月3日) 出羽国米沢城で、伊達氏第16代当主・伊達輝宗の長子として生まれる
・1577年(天正5) 元服し藤次郎政宗と称する
・1579年(天正7) 三春城主田村清顕の娘愛姫(めごひめ)と結婚する
・1581年(天正9) 隣接する戦国大名・相馬氏との合戦で初陣を飾る
・1584年(天正12) 家督を継ぎ、伊達氏の第17代当主となる
・1585年(天正13) 父輝宗が二本松義継のために不慮の死をとげる
・1586年(天正14) 安達郡を入手する
・1588年(天正16) 佐竹義重、蘆名義広、相馬義胤らと対戦する
・1589年(天正17) 磨上原(すりあげがはら)の戦で蘆名義広を破り、会津地方を制覇する
・1590年(天正18) 小田原参陣に遅参、豊臣秀吉に降伏し、会津、岩瀬、安積郡などを没収される
・1591年(天正19) 米沢城72万石から、玉造郡岩手沢城58万石に減転封させられる
・1593年(文禄2) 文禄の役で朝鮮へ出兵する
・1600年(慶長5) 関ケ原の戦いでは、徳川家康方につき、会津の上杉景勝と戦う
・1603年(慶長8) 居城を仙台に移す
・1607年(慶長12) 塩竈(しおがま)神社、大崎八幡宮(はちまんぐう)、国分寺薬師堂を造営する
・1609年(慶長14) 松島瑞巌寺(ずいがんじ)を造営する
・1613年(慶長18) 慶長遣欧使節をローマに派遣する
・1614年(慶長19) 大坂冬の陣に徳川方として参戦する
・1615年(慶長20) 大坂夏の陣に徳川方として参戦する
・1620年(元和6) 慶長遣欧使節が帰国する
・1626年(寛永3) 北上川の石巻流出などの土木工事を完成させる
・1636年(寛永13年5月24日) 江戸桜田邸において、68歳で死去する
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