ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:戦国合戦

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 今日は、戦国時代の1570年(元亀元)に、姉川の戦いで織田信長・徳川家康連合軍が浅井・朝倉連合軍を破った日ですが、新暦では7月30日となります。
 姉川の戦い(あねがわのたたかい)は、近江国姉川付近(現在の滋賀県長浜市)で、約2万1千人の浅井・朝倉連合軍と約3万4千人の織田信長・徳川家康連合軍との間で行われた戦国合戦の一つでした。織田・徳川連合軍が勝利しましたが、序盤では浅井・朝倉連合軍が優勢だったものの、家康軍の奮闘により、形勢が逆転します。この結果、千人以上の死者が出て、姉川は血に染まり、朝倉軍は越前に敗走し、浅井軍も小谷城に逃げ込み、その後の浅井、朝倉両氏の滅亡の遠因となりました。
 姉川周辺には、野村の姉川戦死者之碑やちはら公園の姉川古戦場跡の碑、浅井氏の家臣三田村氏館跡、織田軍の本陣があった龍ヶ鼻陣所(茶臼山古墳)、浅井長政の家臣遠藤直経の墓などがあって、巡ってみると古の激しい闘いを追想することができます。
 以下に、『信長公記』巻三のあね川合戦の事を現代語訳・注釈付で掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇『信長公記』巻三

あね川合戦の事

 然処、朝倉孫三郎後巻[1]とし而、八千計ニ而罷立、大谷[2]之東をより山[3]とて東西へ長き山有、彼山ニ陣取候。同浅井備前人数五千計相加、都合一万三千之人数、六月廿七日之暁、致陣払罷退候と存候処、廿八日未明に、卅町計かゝり来、あね川[4]を前ニあて、野村之郷・三田村両郷へ移、二手に備候。西ハ三田村口一番合戦、家康卿むかハせられ、東ハ野村之郷備之手へ、信長御馬廻、又東者、美濃三人衆氏家・伊賀・稲葉、諸手[5]一度ニ切かゝり、六月廿八日卯刻[6]、丑寅[7]へ向而被蒙御一戦、御敵あね川[4]を越、信長之御手前へさし懸、推つ返しつ散〳〵に入乱れ黒煙立て、しのきをけつり鍔をわり、爰かしこにて思々の働有、終に追崩し[8]、手前において討捕る頸の注文、
 真柄十郎左衛門、此頸青木所右衛門是ょ討とる。前波新八・前波新太郎・小林端周軒・魚住竜文寺・黒坂備中・弓削六郎左衛門・今村掃部助・遠藤喜右衛門、此頸竹中久作是を討とる、兼而此首を取るべしと高言[9]あり。浅井雅楽助・浅井斎・狩野次郎左衛門・狩野三郎兵衛・細江左馬助・早崎吉兵衛、
此外宗徒者[10]千百討捕。大谷[2]迄五十町追討ち、麓を御放火。然りといへども、大谷[2]は高山節所[11]の地に候間、一旦に攻上り候事なり難く思食され、横山[12]へ御人数打返し、勿論横山の城降参致し退出。
木下藤吉郎定番として横山[12]へ入置かれ、(後略)

【注釈】

[1]後巻:うしろまき=味方を攻める敵を、さらにその背後から取り巻くこと。うしろづめ。後詰。
[2]大谷:おおたに=小谷城(現在の滋賀県長浜市湖北町伊部)のこと。
[3]をより山:およりやま=大依山(現在の滋賀県長浜市湖北町)のこと。 
[4]あね川:あねがわ=滋賀県北部の長浜市を流れ、琵琶湖に注ぐ、淀川水系の一級河川。
[5]諸手:もろて=多くのいろいろな部隊、または隊伍。諸隊。
[6]卯刻:うのこく=午前6時頃。 
[7]丑寅:うしとら=東北方向。
[8]追崩し:おいくずし=追いかけて攻めくずし。敵陣を破って追い散らし。
[9]高言:こうげん=大言壮語すること。自分を誇り、いばって言うこと。また、大げさなことば。
[10]宗徒者:むねともの=主だった者。
[11]節所:ふしどころ=重要なところ。要害。
[12]横山:よこやま=姉川の南岸にあった山城で、小谷城の南の重要な拠点に位置していた。

<現代語訳>

あね川合戦の事

 こうした中で、(敵方は)朝倉孫三郎が後詰として、八千ばかりの軍勢でやって来た、小谷城の東の大依山という東西に長き山があり、彼はこの山に陣取った。同じく浅井備前も人数五千ばかりの軍勢で加わった、合わせて一万三千の人数となり、6月27日の明け方に至って、(信長公は)陣を払って立ち退くと思われたところ、28日の未明に、30町ばかり攻めてきて、(敵方は)姉川を前にして、野村の郷・三田村の両郷へ移動し、二手に分かれて陣備えをした。西の三田村口には一番合戦として、家康公が迎撃され、東は野村の郷の備えには、信長公の御馬廻衆が向かい、また東は、美濃三人衆の氏家・伊賀・稲葉がこれにあたり、諸隊が一度に攻めかかり、6月28日午前6時頃に、東北方向って御一戦に及ばれた、御敵も姉川を越え、信長公の御手前まで押しかけ、押しつ返しつ、散々に入り乱れて黒煙を立て、しのぎを削り鍔を割り、ここかしこで思い思いの働きがあり、ついには敵陣を破って追い散らし、目の前にさらされた討捕られた首の書付は、
 真柄十郎左衛門(この首は青木所右衛門が討ち取った)、前波新八・前波新太郎・小林端周軒・魚住竜文寺・黒坂備中・弓削六郎左衛門・今村掃部助・遠藤喜右衛門(この首は竹中久作がこれを討とる、前々からこの首を取ると大言壮語していた)。浅井雅楽助・浅井斎・狩野次郎左衛門・狩野三郎兵衛・細江左馬助・早崎吉兵衛、
この他主だった者は千百打ち取られた。小谷城まで50町追い打ちをかけ、ふもとに放火した。とはいっても、小谷城は高山上の要害の地であり、一挙に攻め上がるのは難しいと判断され、横山城へ軍勢を打返し、もちろん横山城は降参して退出した。
木下藤吉郎を定番として横山城へ入れ置かれ、(後略)

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1837年(天保8)日本人漂流民を乗せた米国商船を「異国船打払令」にて砲撃したモリソン号事件が起きる(新暦7月30日)詳細
1875年(明治8)新聞紙条例」と「讒謗律」が発布される詳細
1948年(昭和23)福井地震(M7.1)が起こり、死者3,769人、負傷者22,203人を出す詳細
1951年(昭和26)小説家林芙美子の命日(芙美子忌)詳細 
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 今日は、戦国時代の元亀3年に、三方ヶ原の戦いが起き、武田軍が徳川・織田軍を破った日ですが、新暦では1573年1月25日となります。
 三方ヶ原の戦い(みかたがはらのたたかい)は、遠江国三方ヶ原(現在の静岡県浜松市北区)において、約2万5千人の武田信玄軍と約1万1千人の徳川家康・織田信長連合軍との間で起こった戦国合戦の一つでした。武田軍は魚鱗の陣を布いて待ち構えており、徳川・織田連合軍は鶴翼の陣をとって戦闘が始まりましたが、武田軍が勝利します。
 徳川家康は、命からがら浜松城に逃げ帰り、鳥居四郎左衛門、成瀬藤蔵、本多忠真といった有力武将が亡くなって、織田信長の援将平手汎秀も戦死しました。しかし、武田軍は浜松城を攻撃せずに西へ向かい、落城は免れます。
 現在は、三方原墓園(浜松市北区根洗町)の一角に三方ヶ原古戦場の碑が建ち、少し北に行ったところに武田信玄の本陣があったという根洗松と碑がありました。また、多くの戦死者が出た犀ヶ崖(浜松市中区鹿谷町)は、三方原古戦場として1939年(昭和14)に、県の史跡に指定され、史跡公園となっていて、三方ヶ原古戦場犀ヶ崖の碑、本多肥後守忠真顕彰碑、夏目次郎左衛門吉信の碑や「犀ヶ崖資料館」があって見学できます。
 ここには、その戦死者を供養するために始まったといわれる遠州大念仏や、三方ヶ原の戦いに関する資料が展示されていて興味深いところでした。
 以下に、『信長公記』第5巻の三方ヶ原の戦いの部分を抜粋(注釈・現代語訳付)しておきますので、ご参照ください。

〇『信長公記』第五巻より

身方ヶ原合戦の事

是れは遠州表の事。霜月[1]下旬、武田信玄、遠州二股の城[2]取巻くの由、注進[3]これあり。則ち、信長公御家老の衆、佐久間右衛門、平手甚左衛門、水野下野守大将として、御人数遠州浜松に至り参陣のところに、早、二股の城[1]攻め落し、其の競ひに、武田信玄堀江の城[4]へ打ち廻り、相働き候。家康も浜松の城[5]より御人数出だされ、身方ケ原[6]にて足軽ども取合ひ、佐久間・平手を初めとして、懸けつき、互に人数立ち合ひ、既に一戦に取り向かふ。武田信玄、水股の者[7]と名付けて、三百人ばかり、真先にたて、彼等にはつぶてをうたせ[8]て、推し大鼓[9]を打ちて、人数かゝり来たる。一番合戦に、平手甚左衛門、同家臣の者、家康公の御内衆、成瀬藤蔵。
十二月廿二日、身方ケ原[6]にて数輩討死これあり。さる程に[10]、信長公、幼稚より召し使はれ侯御小姓衆、長谷川橋介・佐脇藤八・山口飛騨・加藤弥三郎四人、信長公の御勘当を蒙り、家康公を憑み奉り[11]、遠州に身を隠し、居住侯らひし。是れ叉、一番合戦に一手[12]にかゝり合ひ、手前[13]にて比類なき[14]討死なり。爰に希代[15]の事ある様子は、尾州清洲の町人、具足屋[16]玉越三十郎とて、年の頃廿四、五の者あり。四人衆見舞ひとして、遠州浜松へ参られ侯折節、武田信玄、堀江の城[4]取り詰め、在陣の時に侯。定めて、此の表相働くべく侯。さ侯はぱ一戦に及ぶべく侯間、早々罷り[17]帰り侯へと、四人衆達つて異見侯へば、是れまで罷り[17]参り侯のところを、はづして罷り[17]帰り侯はば、以来、口はきかれまじく侯間、四人衆討死ならば、同心すべきと申し切り、罷り[17]帰らず、四人衆と一所に切つてまはり、枕を並べて討死なり。
家康公中筋[18]切り立てられ、軍の中に乱れ入り、左へつきて、身方が原[3]のきし道[19]の一騎打ちを退かせられ侯を、御敵、先に待ち請け、支へ[20]侯。馬上より御弓にて射倒し、懸け抜け、御通り侯。是れのみならず、弓の御手柄今に始まらず、浜松の城[5]堅固に御拘へなさる。信玄は勝利を得、人数打ち入れ[21]侯なり。

【注釈】

[1]霜月:しもつき=11月。
[2]二股の城:ふたまたのしろ=二俣城。現在の浜松市天竜区に城跡がある。
[3]注進:ちゅうしん=事件を急いで目上の人に報告すること。
[4]堀江の城:ほりえのしろ=堀江譲。現在の浜松市西区舘山寺町に城跡がある。
[5]浜松の城:はままつのしろ=徳川家康の居城で、現在の浜松市中区に城跡がある。
[6]身方ケ原:みかたがはら=三方ヶ原。現在の浜松市北区三方原町のあたり。
[7]水股の者:みずまたのもの=足軽のことか?
[8]つぶてをうたせ=小石を投げること。
[9]推し大鼓:おしだいこ=戦場で、進軍や攻撃開始の合図に打ち鳴らす太鼓。かかり太鼓。
[10]さる程に:さるほどに=さて。ところで。
[11]憑み奉り:たのみたてまつり=頼りにして。
[12]一手:ひとて=一隊。一組。
[13]手前:てまえ=他人の目の前。人の見る前。
[14]比類なき:ひるいなき=比べようもない。例えようもない。
[15]希代:きたい=世にもまれなこと。めったに見られないこと。また、そのさま。
[16]具足屋:ぐそくや=甲冑の商売人。武具商。
[17]罷り:まかり=貴人の前や貴所から退くこと。退出。行くこと。
[18]中筋:なかすじ=戦線の中央部の意味。
[19]きし道:きしみち=岸道。崖道。山際の道。
[20]支へ:ささへ=じゃまをする。立ちふさがる。
[21]人数打ち入れ:にんずううちいれ=軍勢を納めること。

<現代語訳>

三方ヶ原合戦の事

 これは遠州方面の出来事である。11月下旬、武田信玄が遠州二俣城を取り囲んだとの報告がもたらされた。ただちに信長公は、家老衆の佐久間信盛・平手汎秀・水野信元らを大将として出陣させ、軍勢が遠州浜松に到着し参陣したが、すでに二俣城は攻め落とされ、その勢いに乗じて、武田信玄は堀江城へまわって、攻略中であった。徳川家康も、浜松城から軍勢を出されて、三方ヶ原で最初に足軽による攻め合いとなり、佐久間・平手を初め、その他の者も懸けつけてきて、双方が軍勢を繰り出しての一戦となった。武田信玄は水股の者(足軽?)と呼ぶ兵300人ほどを先頭に立てて、彼らに小石を投げさせ、かかり太鼓を打ち鳴らして、攻撃してきた。最初の合戦では、平手甚左衛門とその家臣の者、家康公の御身内衆の成瀬藤蔵が討ち死にした。
 12月22日、三方ヶ原にて数名の者が討ち死にした。ところで、信長公が幼い時より召し使われていた御小姓衆の長谷川橋介・佐脇藤八・山口飛騨・加藤弥三郎の四人は、信長公の御勘当を受けて、家康公を頼りにして、遠州に身を隠して、居住していた。これまた、最初の合戦の一隊としてに攻めかかり、人々の眼前にて比べようもない討ち死にをとげた。この時に世にもまれなことがあったが、尾州清洲の町人で、武具商の玉越三十郎という、年の頃24、5歳の者のことである。四人衆の見舞いとして、遠州浜松へ来ていた折に、武田信玄が堀江城に攻めかかっている、在陣の時であった。「きっと、この浜松方面へも仕掛けてくるであろう。そうならぱ、一戦にとなる前に、早々に退去して帰りなさい。」と、四人衆が強いて忠告したならば、「ここまでやってきたところを、放棄して立ち返ったならば、以後、口を聞いてくれる人はいまくなってしまいでありましょう、四人衆が討死するならば、ご一所すべきでしょう。」と言い切って帰らず、四人衆といっしょに切り込んで、枕を並べて討死したのであった。
 家康公は、戦線の中央部へ切り込み、軍の中に乱れ入って、左手に逃れ、三方ヶ原の山際の道を一騎で退却していったが、敵は退却の先にも待ちかまえて、立ちふさがってきた。家康公は馬上より弓で射倒して駆け抜けた。家康公の弓の手柄は、今に始まったことではないが、その後浜松城に籠り、堅固に守りを固めた。信玄は勝利を得て、軍勢を納めたことである。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1902年(明治35)年齢計算ニ関スル法律」が施行され、数え年に代わり満年齢のみの使用となる詳細
1945年(昭和20)労働組合法」が制定される詳細
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