
そして、1869年(明治2年5月18日)に箱館の五稜郭が陥落し、旧幕府軍が降伏して終結しました。名称は、慶応4年/明治元年の干支が“戊辰”であることに由来しています。
これにより、明治政府が国内を掌握し、明治維新の改革が進められることになりました。
12歳で昌平坂学問所に入り、のち中浜万次郎塾に学び、1854年(安政元)には箱館奉行堀利煕の小姓となり、樺太探検に従っています。1856年(安政3)に長崎海軍伝習所第2期生となり、勝海舟の指導下に軍艦操練、航海術を学びました。
1858年(安政5)に江戸の築地軍艦操練所教授となり、1862年(文久2)からオランダに留学して、フレデリックスについて万国海律を学び、語学をはじめ、軍事、国際法、化学など広い知識を習得します。1866年(慶応2)に、幕府注文の開陽丸を回送して帰国し、同艦船将、軍艦頭並などを歴任、1868年(慶応4)には海軍副総裁となりました。
同年の戊辰戦争では討幕軍による江戸開城後も、軍艦引渡しを拒否して、幕府艦隊を率いて北海道に上陸します。箱館五稜郭にたてこもり官軍に抵抗(箱館戦争)し、「蝦夷共和国」樹立を宣言しますが、翌年5月に降伏し、投獄されました。
1872年(明治5)特赦を受けて出獄し、まもなく黒田清隆の下で、開拓使において北海道の資源調査に従事します。1874年(明治7)に海軍中将兼特命全権公使としてロシアに駐在、翌年には「樺太・千島交換条約」を締結しました。
1880年(明治13)に海軍卿、1882年(明治15)には駐清特命全権公使となり、李鴻章と折衝、天津条約の調印に助力します。1885年(明治18)の帰国以後、同年に逓信大臣に就任、子爵ともなりました。
その後、1888年(明治21)に農商務大臣、1889年(明治22)に文部大臣、1891年(明治24)に外務大臣、1894年(明治27)に農商務大臣を歴任します。一方、東京地学協会や電気学会を設立、殖民協会を創立しメキシコに殖民団を送ったり、徳川育英会育英黌農業科(現在の東京農業大学)などを創設しました。旧幕臣の中では、明治政府で異例の高い地位を占め、多方面で活躍しましたが、1908年(明治41)10月26日に、東京において、数え年73歳で亡くなっています。
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
| 1680年(延宝8) | 第108代の天皇とされる後水尾天皇の命日(新暦9月11日) | 詳細 |
| 1863年(文久3) | 八月十八日の政変による七卿落ちで、三條実美ら公家7人が長州へ向かう(新暦10月1日) | 詳細 |
| 1881年(明治14) | 文部省によって「師範学校教則大綱」が制定される | 詳細 |
| 1944年(昭和19) | 第12回御前会議で「世界情勢判断及戦争指導大綱」を決定する | 詳細 |
| 1946年(昭和21) | 全日本産業別労働組合会議(産別会議)が結成される | 詳細 |
| 1948年(昭和23) | 東宝争議(第3次)で、砧撮影所に米軍の戦車7台・飛行機3機等が投入され、組合員が撤退する | 詳細 |
| 1962年(昭和37) | 有機化学者で大阪帝国大学総長だった真島利行の命日 | 詳細 |
| 1969年(昭和44) | 小説家中山義秀(なかやま ぎしゅう)の命日 | 詳細 |



