ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:戊辰戦争

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 今日は、幕末明治維新期の1868年(慶応4)に、新政府が「徳川慶喜追討令」を出した日ですが、新暦では1月31日となります。
 「徳川慶喜追討令」(とくがわよしのぶついとうれい)は、新政府によって出された、江戸幕府第15代将軍だった徳川慶喜を追討するよう各方面に命じたもので、高札としても掲げられました。1867年(慶応3)12月に、朝廷では西郷隆盛や公家の岩倉具視などが中心となって王政復古の大号令を出し、天皇を中心とする政府の樹立を宣言するクーデターが起こります。
 その後、徳川慶喜に官職や領地の返還が命じられましたが、これに不満をもつ旧幕府軍と新政府軍との間で、翌年1月3日に、鳥羽・伏見の戦いが起きたものの、新政府軍の勝利に終わり、徳川慶喜が江戸に逃げ帰りました。そこで、1月7日にこの追悼令が出され、徳川慶喜を厳しく批判し、慶喜征討への協力を呼びかけることになります。
 新政府は、全国を帰順させるため、鎮撫総督(翌月先鋒総督兼鎮撫使と改称)を各地に派遣し、これらの新政府軍と旧幕府軍との間で、東日本を中心に、戊辰戦争と呼ばれる戦いが、1869年(明治2)5月まで続けられ、新政府軍の勝利となりました。
 以下に、「徳川慶喜追討令」の文書と御触書の写しを掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「徳川慶喜追討令」1868年(慶応4)1月7日

正月七日征討大號令

德川慶喜天下ノ形勢不得已ヲ察シ大政返上將軍職辭退相願候ニ付
朝議ノ上斷然被
聞食候處只大政返上ト申而已ニテ於
朝廷土地人民御保チ不被遊候テハ
御聖業難被爲立候ニ付尾越二藩ヲ以テ其實効御訊問被爲遊候節於慶喜ハ奉畏候得共麾下并會桑ノ者共承服不仕萬一暴擧可仕哉モ難計ニ付只管鎭撫ニ盡力仕居候旨尾越ヨリ及言上候間
朝廷ニハ慶喜眞ニ恭順ヲ盡シ候樣被
思食既往ノ罪不被爲問寬大ノ御處置可被
仰付候處豈圖ランヤ大阪城ヘ引取候ハ素ヨリノ詐謀ニテ去ル三日麾下ノ者ヲ引率シ剩前々御暇被遣候會桑等ヲ先鋒トシ
闕下ヲ奉犯候勢現在彼ヨリ兵端ヲ開キ候上ハ慶喜反状明白始終奉欺
朝廷候段大逆無道最早於
朝廷御宥恕ノ道モ絶果不被爲得已追討被
仰付候兵端既ニ相開候上ハ速ニ賊徒御平治萬民塗炭ノ苦ヲ被爲救度
叡慮ニ候間今般仁和寺宮征討將軍ニ被任候ニ付テハ是迄偸安怠情ニ打過或ハ兩端ヲ抱キ候者ハ勿論假令賊徒ニ從ヒ譜代臣下ノ者タリ共悔悟憤發爲國家盡忠ノ志有之候輩ハ寬大ノ思食ニテ御採用可被爲在候依戰功此行末德川家ノ儀ニ付歎願ノ儀モ候ヘハ其筋ニヨリ御許容可有之候然ルニ此御時節ニ至リ不

 辨大義賊徒ト謀ヲ通シ或ハ潛居爲致候者ハ朝敵同樣嚴刑ニ可被處候間心得違無之樣可致候事
 但シ征討大將軍被置候上ハ即時前件號令可被發ハ勿論ニ候ヘ共猶旗下粗暴ノ徒壅蔽爰ニ至リ候事哉ト彼是深重之
 思召ヲ以御遲延ノ處三日ヨリ今七日ニ至リ坂兵日々雖敗走益出兵呉々不得止斷然本文ノ通被仰出候各藩陪從吏卒ニ至ル迄方向ヲ定メ爲天下奉公可有之候事

  「太政類典・第一編」より

徳川征伐御触書之写

徳川慶喜天下之形勢不得止察候、
大政返上将軍職辞退相願候ニ付、
朝議之上断然被聞食候処、只大政返上ト
申而已ニテ於朝廷土地人民御保被遊候テハ、
御聖業難被為立候ニ付、尾越二藩を以
其実効御訊聞被遊候節、於慶喜ハ奉
畏入候得共、麾下并会桑之者共承服不仕、
万一暴挙可仕哉モ難計候ニ付、只管鎮撫ニ尽力
仕居候旨、尾越より及言上候間、
朝廷ニハ慶喜真ニ恭順相尽候様、被思召既往之
罪不被為間寬太之所置可被仰付之処、豈図哉
大坂城へ引取候者素より詐謀、剰前之御暇

  松田三左衛門家文書「徳川征伐御触書之写、神祗御改御触書之写」より

〇戊辰戦争(ぼしんせんそう)とは?

 幕末明治維新期の1868年(慶応4/明治元)から1869年( 明治2)にかけて、明治政府を樹立した薩摩藩・長州藩らを中心とした新政府軍と、旧幕府勢力および奥羽越列藩同盟が戦った内戦で、鳥羽伏見の戦いから始まり、各地で戦乱が起きましたが、越後と東北、北海道で激戦となりました。名称は、慶応4年/明治元年の干支が戊辰であることに由来しています。これにより、明治政府が国内を掌握し、明治維新の改革が進められることになります。

☆戊辰戦争関係略年表(日付は旧暦です)

<1868年(慶応4/明治元)>

・1月3日 「鳥羽伏見の戦い」で「戊辰戦争」が始まる 
・1月6日 徳川慶喜が大坂城を脱出し、海路で江戸へ逃れる 
・1月7日 新政府が「徳川慶喜追討令」を出す
・2月12日 徳川慶喜は、上野寛永寺に入って謹慎し、恭順を示す
・3月14日 西郷隆盛と勝海舟の会談が行われ、江戸での戦闘が回避される
・4月11日 江戸開城が無血で行われる
・閏4月11日 奥羽諸藩による白石列藩会議が始まる
・5月3日 奥羽25藩が「奥羽列藩同盟」を結成する
・5月6日 長岡藩など北越6藩が新たに加わり「奥羽越列藩同盟」となる 
・5月15日 上野山にいる彰義隊を新政府軍が一日で破る(上野戦争)
・7月14日 白河口の戦いで、新政府軍が勝利する
・7月29日 奥州の二本松城、越後の長岡城が陥落する
・8月23日 新政府軍が会津藩若松城下に侵攻し、会津側は若松城で籠城戦を開始する
・9月8日 明治に改元される
・9月9日 米沢藩が新政府軍に寝返える
・9月10日 仙台藩が降伏する
・9月22日 会津藩が降伏し、「会津戦争」が終わる
・10月26日 榎本武揚軍が箱館を占領する
・11月15日 暴風雨のため榎本武揚軍の旗艦開陽丸が沈没する

<1869年(明治2)>

・3月9日 箱館の榎本武揚軍追討のため、新政府軍艦隊が江戸湾を出発する
・5月11日 箱館総攻撃が始まる
・5月18日 五稜郭が陥落し、旧幕府軍が降伏して「箱館戦争」が終結し、「戊辰戦争」が終わる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1490年(延徳2)室町幕府第8代将軍足利義政の命日(新暦1月27日)詳細
1835年(天保6)官僚・実業家・男爵前島密の誕生日(新暦2月4日)詳細
1902年(明治35)小説家・児童文学者住井すゑの誕生日詳細
1926年(大正15)劇作家協会と小説家協会が合併して、文藝家協会(日本文藝家協会の前身)が設立される詳細
1939年(昭和14)戦争経済を支える人的資源の把握の為、「国民職業能力申告令」が公布される詳細
1996年(平成8)芸術家岡本太郎の命日詳細
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 今日は、幕末明治維新期の1867年(慶応3) に、江戸幕府がオランダに発注していた蒸気軍艦「開陽丸」が横浜港に到着した日ですが、新暦では4月30日となります。
 開陽丸(かいようまる)は、幕末明治維新期の1866年(慶応2)オランダで建造、翌年3月に榎本武揚らの手で横浜に回航された江戸幕府の最新鋭軍艦(排水量2,590トン、長さ約72.8m、幅約13m、高さ約45m)でした。江戸幕府の崩壊に際し、戊辰戦争に参加し、鳥羽・伏見の戦い後、前将軍徳川慶喜を乗せて大坂から江戸に帰港したことで知られています。
 その後、榎本武揚指揮の旧幕府艦隊の旗艦として北海道へ脱出しました。しかし、箱館戦争に参戦中の1868年(明治元)11月15日に暴風雨のため江差沖で沈没しています。
 1975年(昭和50)から、江差町教育委員会によって、水中からの発掘・調査が始まり、3万点以上の遺留品の引揚げが行われました。そして、1990年(平成2)に、北海道檜山郡江差町に「開陽丸記念館」として、開陽丸が現物大で復元され、引き上げられた遺品が所蔵、展示されています。

〇開陽丸関係略年表(日付は旧暦です)

・1862年(文久2年) 江戸幕府の久世広周は「オランダ海軍の持つ最新の設計・設備を施した、蒸気機関推進で大砲を20門以上装備した3000トン未満の軍艦一隻」という条件で注文書を出す
・1863年(文久3年) ロッテルダムの蒸気船会社で設計が完成、ドルトレヒトのヒップス・エン・ゾーネン造船所(Cornelis Gips & Zonen)に建造が指示される
・1864年(元治元年) 船体の竜骨が組みあがる
・1864年(元治元年10月20日) 「夜明け前(蘭語:Voorlichter)」を想起する開陽に名称が決定され、関係者らを集めた命名式が執り行われる
・1865年(慶応元年9月14日) 進水式が執り行われる
・1866年(慶応2年10月25日) 開陽は日本への引渡しのため、フリシンゲンを出港する
・1867年(慶応3年2月20日) オランダ領東インド(現・インドネシア)のアンボイナへ到着する
・1867年(慶応3年3月26日) 横浜港へ入港する
・1868年(慶応4年1月2日) 兵庫港を出港し、薩摩藩の平運丸に対して空砲で停船を命じたが、平運丸が応じなかったため実弾で砲撃する
・1868年(慶応4年1月8日) 徳川慶喜を乗せて大坂を出航する
・1868年(慶応4年1月11日) 徳川慶喜を乗せて江戸へ帰還する
・1868年(慶応4年4月11日) 江戸城無血開城に至って、榎本武揚は、開陽丸を新政府軍に譲渡する事を断固として拒否する
・1868年(慶応4年8月19日) 開陽丸を旗艦とした榎本艦隊(回天丸、蟠竜丸、千代田形丸)は、遊撃隊など陸軍兵を乗せた運送船4隻(咸臨丸、長鯨丸、神速丸、美賀保丸)を加えて品川沖を脱走する
・1868年(明治元年10月12日) 仙台折浜より蝦夷地へ向かう
・1868年(明治元年10月20日) 蝦夷地鷲ノ木沖に到着する
・1868年(明治元年10月25日) 旧幕府軍が箱館および五稜郭を占領すると、箱館港に入港して祝砲を撃つ
・1868年(明治元年11月11日) 箱館を出港して江差沖へ向かう
・1868年(明治元年11月14日) 江差沖に到着、陸地に艦砲射撃を加え、江差を無血占領する
・1868年(明治元年11月15日) 暴風雨のため江差沖で沈没する
・1974年(昭和49年) 文献から沈没位置を推定し、潜水調査を行い、開陽の遺留品を発見する
・1975年(昭和50年) 開陽丸の船体および遺物は日本初の海底遺跡として登録される
・1990年(平成2年)4月 北海道檜山郡江差町に「開陽丸記念館」として、開陽丸が現物大で復元され、引き上げられた遺品が所蔵、展示される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1205年(元久2)『新古今和歌集』が一応成立し、竟宴が開かれる(新暦4月16日)詳細
1489年(長享3)室町幕府第9代将軍足利義尚の命日(新暦4月26日)詳細
1925年(大正14)「衆議院議員選挙法」の全面改正(通称:普通選挙法)が貴族院を通過成立する詳細
1935年(昭和10)小説家与謝野寛(鉄幹)の命日詳細
1962年(昭和37)小説家・詩人室生犀星の命日詳細
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 今日は、幕末明治維新期の1868年(慶応4/明治元)に、戊辰戦争の箱館の戦い(箱館戦争)において、榎本武揚軍が五稜郭を占領した日ですが、新暦では12月9日となります。
 五稜郭(ごりょうかく)は、幕末の1857年(安政4)に、北方防備のための洋式城郭として築城が開始され、1866年(慶応2)に完成しました。その後、1868年(慶応4)から翌年にかけて、戊辰戦争の最後の闘いである箱館の戦い(箱館戦争)が行われたことで有名です。
 これで、旧幕府勢力による抵抗は終焉しました。現在、五稜郭跡は、1952年(昭和27)に国の特別史跡に指定され、「五稜郭公園」として保存されていて、巡ることができます。
 尚、2006年(平成18)には、日本100名城にも選定されました。また、公園内に、2010年(平成22)に「箱館奉行所」が木造で復元されて、一般公開されています。

〇戊辰戦争とは?

 幕末明治維新期の1868年(慶応4/明治元)から1869年( 明治2)にかけて、明治政府を樹立した薩摩藩・長州藩らを中心とした新政府軍と、旧幕府勢力および奥羽越列藩同盟が戦った内戦です。鳥羽伏見の戦いから始まり、各地で戦乱が起きましたが、越後と東北、北海道で激戦となりました。
 最後の箱館の戦い(箱館戦争)は、10月26日の榎本武揚軍による箱館五稜郭の占領に始まり、11月15日に暴風雨のため榎本武揚軍の旗艦開陽丸が沈没、翌年3月9日に箱館の榎本武揚軍追討のため、新政府軍艦隊が江戸湾を出発します。5月11日から箱館総攻撃が始まり、5月18日に五稜郭が陥落し、旧幕府軍が降伏して終結し、戊辰戦争が終わりました。
 名称は、慶応4年/明治元年の干支が戊辰であることに由来します。これにより、明治臣政府が国内を掌握し、明治維新の改革が進められることになりました。

☆戊辰戦争関係略年表(日付は旧暦です)

<1868年(慶応4/明治元)>
・1月3日  「鳥羽伏見の戦い」で「戊辰戦争」が始まる 
・1月6日 徳川慶喜が大坂城を脱出し、海路で江戸へ逃れる 
・2月12日 徳川慶喜は、上野寛永寺に入って謹慎し、恭順を示す
・3月14日 西郷隆盛と勝海舟の会談が行われ、江戸での戦闘が回避される
・4月11日 江戸開城が無血で行われる
・閏4月11日 奥羽諸藩による白石列藩会議が始まる
・5月3日  奥羽25藩が「奥羽列藩同盟」を結成する
・5月6日  長岡藩など北越6藩が新たに加わり「奥羽越列藩同盟」となる 
・5月15日 上野山にいる彰義隊を新政府軍が一日で破る(上野戦争)
・7月14日 白河口の戦いで、新政府軍が勝利する
・7月29日 奥州の二本松城、越後の長岡城が陥落する
・8月23日 新政府軍が会津藩若松城下に侵攻し、会津側は若松城で籠城戦を開始する
・9月8日 明治に改元される
・9月9日 米沢藩が新政府軍に寝返える
・9月10日 仙台藩が降伏する
・9月22日 会津藩が降伏し、「会津戦争」が終わる
・10月26日 榎本武揚軍が箱館の五稜郭を占領する
・11月15日 暴風雨のため榎本武揚軍の旗艦開陽丸が沈没する

<1869年(明治2)>
・3月9日 箱館の榎本武揚軍追討のため、新政府軍艦隊が江戸湾を出発する
・5月11日 箱館総攻撃が始まる
・5月18日 五稜郭が陥落し、旧幕府軍が降伏して「箱館戦争」が終結し、「戊辰戦争」が終わる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

968年(安和元)第65代の天皇とされる花山天皇の誕生日(新暦11月29日)詳細
1311年(応長元)鎌倉幕府第9代執権北条貞時の命日(新暦12月6日)詳細
1908年(明治41)幕臣・外交官・政治家榎本武揚の命日詳細
1909年(明治42)政治家伊藤博文がハルビンで、韓国の独立運動家安重根に暗殺される詳細


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 今日は、幕末明治維新期の1868年(慶応4)に、会津藩・庄内藩赦免を求めるため、奥羽25藩の代表による白石列藩会議が始まった日(閏月)ですが、新暦では5月3日となります。
 白石列藩会議(しろいしれっぱんかいぎ)は、戊辰戦争の中で会津藩・庄内藩赦免を求めるため、奥羽25藩の代表が仙台藩領の白石城(現在の宮城県白石市)に集まって開かれた会議でした。1868年(慶応4年1月3日)に鳥羽伏見の戦いで戊辰戦争が勃発する中、同年閏4月4日に米沢藩・仙台藩4家老の名前で、奥羽諸藩に対して列藩会議召集の回状が回され、それに応じて奥羽14藩の代表が同月11日白石城へ参集します。
 遅れて参加した秋田藩、平藩、本荘藩(本庄藩)、弘前藩など各藩も加わり、計25藩の代表で議論の末、翌日付で会津藩家老西郷頼母の名義の「嘆願書」、奥羽諸藩の重臣連名による「諸藩重臣副嘆願書」、仙台藩、米沢藩両藩連名の「会津藩寛典処分嘆願書」の3通を作成し、奥羽鎮撫総督の九条道孝に提出しました。しかし、17日に総督はそれらの嘆願書を却下し会津征討を命じたものの、19日に奥羽諸藩は会津・庄内の諸攻口における解兵を宣言し、22日に再度白石城へ集まった25藩の代表は、5ヶ条の盟約書に調印します。
 その後、仙台へ移って会議を続行し、5月3日に仙台で改訂された「白石盟約書」と「太政官建白書」に調印し、正式な奥羽列藩同盟の成立となり、5月6日には越後6藩も加盟して、奥羽越列藩同盟に発展しました。そして、奥羽越での官軍との戦闘が始まり、9月10日に仙台藩が降伏、9月22日に会津藩が降伏するなどして、奥羽越列藩同盟側の敗戦へと至ります。

〇戊辰戦争とは?

 幕末明治維新期の1868年(慶応4/明治元)から1869年( 明治2)にかけて、明治政府を樹立した薩摩藩・長州藩らを中心とした新政府軍と、旧幕府勢力および奥羽越列藩同盟が戦った内戦で、鳥羽伏見の戦いから始まり、各地で戦乱が起きましたが、越後と東北、北海道で激戦となりました。名称は、慶応4年/明治元年の干支が戊辰であることに由来しています。これにより、明治政府が国内を掌握し、明治維新の改革が進められることになります。

☆戊辰戦争関係年表

<1868年(慶応4/明治元)>
・1月3日 「鳥羽伏見の戦い」で「戊辰戦争」が始まる
・1月6日 徳川慶喜が大坂城を脱出し、海路で江戸へ逃れる
・2月12日 徳川慶喜は、上野寛永寺に入って謹慎し、恭順を示す
・3月14日 西郷隆盛と勝海舟の会談が行われ、江戸での戦闘が回避される
・4月11日 江戸城が無血開城される
・閏4月11日 奥羽諸藩による白石列藩会議が始まる
・5月3日 奥羽25藩が「奥羽列藩同盟」を結成する
・5月6日 長岡藩など北越6藩が新たに加わり「奥羽越列藩同盟」となる
・5月15日 上野山にいる彰義隊を新政府軍が一日で破る
・7月14日 白河口の戦いで、新政府軍が勝利する
・7月29日 奥州の二本松城、越後の長岡城が陥落する
・8月23日 新政府軍が会津藩若松城下に侵攻し、会津側は若松城で籠城戦を開始する
・9月8日 明治に改元される
・9月9日 米沢藩が新政府軍に寝返える
・9月10日 仙台藩が降伏する
・9月22日 会津藩が降伏し、「会津戦争」が終わる
・10月26日 榎本武揚軍が箱館を占領する
・11月15日 暴風雨のため榎本武揚軍の旗艦開陽丸が沈没する

<1869年(明治2)>
・3月9日 箱館の榎本武揚軍追討のため、新政府軍艦隊が江戸湾を出発する
・5月11日 箱館総攻撃が始まる
・5月18日 五稜郭が陥落し、旧幕府軍が降伏して「箱館戦争」が終結し、「戊辰戦争」が終わる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1782年(天明2)儒学者・教育者・漢詩人広瀬淡窓の誕生日(新暦5月22日)詳細
1925年(大正14)陸軍現役将校学校配属令」が発せられ、中学校以上の公立学校で軍事教練開始詳細
1967年(昭和42)日本近代文学館」が開館する詳細
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 今日は、幕末明治維新期の1868年(慶応4)に、戊辰戦争に関わって奥羽の反官軍25藩による奥羽列藩同盟が成立した日ですが、新暦では6月22日となります。
 この同盟は、東北地方(25藩)の諸藩が、仙台藩(後に輪王寺宮・北白川宮能久親王)を盟主とし、新政府の圧力に対抗するために結成された軍事同盟ですが、5月6日には、越後(6藩)が加わって「奥羽越列藩同盟」へと発展しました。
 1868年(慶応41)1月の鳥羽・伏見の戦いの後、新政府は、会津藩主松平容保を徳川慶喜に次ぐ朝敵とし、奥羽鎮撫総督に沢為量(のち九条道孝)を任命し,会津処分を決定します。これに対し、米沢藩、仙台藩を中心とする東北諸藩は、閏4月11日、盛岡、二本松など14藩の重臣を仙台藩白石城に集め、総督府に列藩連署の嘆願書を提出しました。
 しかし、総督府はこれを拒否して即刻出兵を命令し、それに伴って、閏4月20日に処分強硬派の新政府軍参謀世良修蔵暗殺事件が起きます。そこで、5月3日に東北26藩の重臣は仙台に集まり、会津征討中止の建白書を作成し、白石盟約書に署名して「奥羽列藩同盟」が成ったのです。
 5月6日には、越後(6藩)が加わって「奥羽越列藩同盟」へと発展し、これに、江戸などから落ち延びてきた旧幕府勢力が加わって、薩摩藩・長州藩らを中心とした新政府軍と対峙し、戦闘が続く(戊辰戦争)ことになりました。

〇戊辰戦争とは?

 幕末明治維新期の1868年(慶応4/明治元)から1869年( 明治2)にかけて、明治政府を樹立した薩摩藩・長州藩らを中心とした新政府軍と、旧幕府勢力および奥羽越列藩同盟が戦った内戦で、鳥羽伏見の戦いから始まり、各地で戦乱が起きましたが、越後と東北、北海道で激戦となりました。名称は、慶応4年/明治元年の干支が戊辰であることに由来しています。これにより、明治政府が国内を掌握し、明治維新の改革が進められることになります。

☆戊辰戦争関係年表(日付は旧暦です)

<1868年(慶応4/明治元)>
・1月3日 「鳥羽伏見の戦い」で「戊辰戦争」が始まる
・1月6日 徳川慶喜が大坂城を脱出し、海路で江戸へ逃れる
・2月12日 徳川慶喜は、上野寛永寺に入って謹慎し、恭順を示す
・3月14日 西郷隆盛と勝海舟の会談が行われ、江戸での戦闘が回避される
・4月11日 江戸城が無血開城される
・閏4月11日 奥羽14藩の重臣を仙台藩白石城に集め、総督府に列藩連署の嘆願書を提出
・閏4月20日 処分強硬派の新政府軍参謀世良修蔵暗殺事件が起きる
・5月3日 奥羽25藩が「奥羽列藩同盟」を結成する
・5月6日 長岡藩など北越6藩が新たに加わり「奥羽越列藩同盟」となる
・5月15日 上野山にいる彰義隊を新政府軍が一日で破る(上野戦争)
・7月14日 白河口の戦いで、新政府軍が勝利する
・7月29日 奥州の二本松城、越後の長岡城が陥落する
・8月23日 新政府軍が会津藩若松城下に侵攻し、会津側は若松城で籠城戦を開始する
・9月8日 明治に改元される
・9月9日 米沢藩が新政府軍に寝返える
・9月10日 仙台藩が降伏する
・9月22日 会津藩が降伏し、「会津戦争」が終わる
・10月26日 榎本武揚軍が箱館を占領する
・11月15日 暴風雨のため榎本武揚軍の旗艦開陽丸が沈没する

<1869年(明治2)>
・3月9日 箱館の榎本武揚軍追討のため、新政府軍艦隊が江戸湾を出発する
・5月11日 箱館総攻撃が始まる
・5月18日 五稜郭が陥落し、旧幕府軍が降伏して「箱館戦争」が終結し、「戊辰戦争」が終わる
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