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 今日は、江戸時代前期の1680年(延宝8)に、江戸幕府の第4代将軍徳川家綱が亡くなった日ですが、新暦では6月4日となります。
 徳川家綱(とくがわ いえつな)は、1641年(寛永18年8月3日)に、江戸城本丸において、第3代将軍徳川家光の長男(母は於楽之方増山氏)として生まれましたが、幼名は竹千代と言いました。1644年(正保元)に名を家綱と改め、翌年には、元服し、従三位権大納言となっています。
 1650年(慶安3)に世子となって西の丸へ移りましたが、翌年4月20日には、父・家光が48歳で亡くなり、数え年11歳にして、家督を継ぐこととなりました。その直後の7月に、慶安事変(由井正雪の乱)が起こりますが、年少で病弱だったため叔父の保科正之や松平信綱らが補佐して難局を乗り切り、外様大名に配慮して、末期養子の禁を緩和しています。
 同年10月2日に、江戸城において将軍宣下を受けて、第4代征夷大将軍に就任し、内大臣に任じられ、12月には、本丸へ移りました。1657年(明暦3)に江戸で明暦の大火(振袖火事)が起こり、死者10万人以上を出したものの、これを契機に江戸の都市改造を行ない、御三家の屋敷を江戸城外に転出させるとともに、それに伴って武家屋敷・大名屋敷、寺社を移転させています。
 1659年(万治2)に左大臣に任じられるのを辞退し、1663年(寛文3年)には、父・家光の13回忌にあたって日光へ社参しました。1664年(寛文4)に1万石以上の大名に対する領知朱印状を公布、翌年には、公家や寺社を対象とした領知目録を交付(寛文印知)、諸藩にも宗門改帳の作成を命じています。
 1666年(寛文6)に酒井忠清が大老に就任して実権を握り、翌年には、諸国巡見使の制を導入しました。1670年(寛文10)に箱根用水がつくられ、1671年(寛文11)には、河村瑞賢に命じて東回り航路、翌年には西回り航路をひらかせ、1673年(寛文13)には、「分地制限令」を制定しています。
 しかし、1680年(延宝8年5月初旬)に病に倒れて危篤状態に陥いり、末弟の館林藩主松平綱吉を養子に迎えて将軍後嗣とし、5月8日には、江戸城本丸において、数え年40歳で亡くなり、東叡山寛永寺に葬られました。

〇徳川家綱関係略年表(日付は旧暦です)

・1641年(寛永18年8月3日) 江戸城本丸において、第3代将軍徳川家光の長男(母は於楽之方(宝樹院)増山氏)として生まれる
・1644年(正保元年12月) 名を家綱と改める
・1645年(正保2年4月) 元服し、従三位権大納言となる
・1650年(慶安3年9月) 世子となって西の丸へ移る
・1651年(慶安4年4月20日) 父・家光が48歳で亡くなる
・1651年(慶安4年7月) 慶安事変(由井正雪の乱)が起こる
・1651年(慶安4年7月) 末期養子の禁を緩和する
・1651年(慶安4年10月2日) 江戸城において将軍宣下を受けて、第4代征夷大将軍に就任し、内大臣に任じられる
・1651年(慶安4年12月) 本丸へ移る
・1657年(明暦3年1月18日) 江戸で明暦の大火(振袖火事)が起こり、死者10万人以上を出す 
・1659年(万治2年4月) 左大臣に任じられるのを辞退する
・1663年(寛文3年) 父・家光の13回忌にあたって日光へ社参する
・1663年(寛文3年) 武家諸法度(寛文令)の口上で殉死を禁じる 
・1664年(寛文4年) 1万石以上の大名に対する領知朱印状を公布する
・1665年(寛文5年) 公家や寺社を対象とした領知目録を交付す(寛文印知)
・1665年(寛文5年) 諸藩にも宗門改帳の作成を命じる
・1666年(寛文6年) 酒井忠清が大老に就任する
・1667年(寛文7年閏2月18日) 諸国巡見使の制を導入する
・1670年(寛文10年) 箱根用水がつくられる 
・1671年(寛文11年) 河村瑞賢に命じて東回り航路をひらく 
・1672年(寛文12年) 河村瑞賢に命じて西回り航路をひらく 
・1673年(寛文13年6月) 分地制限令が制定される
・1680年(延宝8年5月初旬) 病に倒れ、危篤状態に陥る
・1680年(延宝8年5月8日) 江戸城本丸において、数え年40歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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