今日は、昭和時代前期の1941年(昭和16)に、 第33回大本営政府連絡会議において、「南方施策促進に関する件」が決定され、同日上奏裁可された日です。
「南方施策促進に関する件(なんぽうしさくそくしんにかんするけん)」は、第33回大本営政府連絡会議において、南部仏領インドシナへ(南部仏印)への進駐を決定したもので、同日に昭和天皇に上奏し裁可されました。しかし、松岡外相は、3日前の6月22日に勃発した独ソ戦の緒戦の状況が伝えられるに及び、ソビエト連邦への攻撃を主張、南部仏印進駐の延期を求めて陸海軍首脳と対立するようになります。
松岡外相は、「節操ナキ発言言語道断ナリ」、「国策ノ決定実行ニ大ナル支障ヲ与フルコト少カラズ」(『機密戦争日誌』)というように軍部首脳から激しく批判され、結局、6月30日に原案通り南部仏印進駐を行うことが決定されました。そして、7月2日の昭和天皇臨席の第5回御前会議において、「情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱」が決定され、海軍が主張する南方進出と、陸軍が主張する対ソ戦の準備という二正面での作戦展開を目指すものとなります。
この決定を受け、対ソ戦の準備としては、7月7日に「関東軍特種演習」を発動して演習名目で兵力を動員し、また、南方進出では、7月28日の南部仏印進駐が実行されました。ところが、これによりアメリカの経済制裁を受け、石油の対日輸出が全面禁止されるなど困難な状況に追い込まれ、12月8日の太平洋戦争開戦へと至ることとなります。
以下に、第33回大本営政府連絡会議の「南方施策促進に関する件」と第5回御前会議の「情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱」を掲載しておきますので、ご参照下さい。
〇「南方施策促進に関する件」1941年(昭和16)6月25日
南方施策促進ニ關スル件
昭和十六年六月二十五日
大本營政府連絡會議決定
一、帝國ハ現下諸般ノ情勢ニ鑑ミ旣定方針ニ準據シテ對佛印泰施策ヲ促進ス特ニ蘭印派遣代表ノ歸朝ニ關聯シ速ニ佛印ニ對シ東亞安定防衛ヲ目的トスル日佛印軍事的結合關係ヲ設定ス
佛印トノ軍事的結合關係設定ニ依リ帝國ノ把握スヘキ要件左ノ如シ
(イ) 佛印特定地域ニ於ケル航空基地及港灣施設ノ設定又ハ使用竝ニ南部佛印ニ於ケル所要軍隊ノ駐屯
(ロ) 帝國軍隊ノ駐屯ニ關スル便宜供與
二、前號ノ爲外交交涉ヲ開始ス
三、佛國政府又ハ佛印當局者ニシテ我カ要求ニ應セサル場合ニハ武力ヲ以テ我カ目的ヲ貫徹ス
四、前號ノ場合ニ處スル爲豫メ軍隊派遣準備ニ着手ス
「日本外交年表竝主要文書下巻」外務省編より
〇「情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱」 1941年(昭和16)7月2日御前会議決定
第一 方針
一、帝國ハ世界情勢變轉ノ如何ニ拘ラス大東亞共榮圏ヲ建設シ以テ世界平和ノ確立ニ寄與セントスル方針ヲ堅持ス
二、帝國ハ依然支那事變處理ニ邁進シ且自存自衛ノ基礎ヲ確立スル爲南方進出ノ步ヲ進メ又情勢ノ推移ニ應シ北方問題ヲ解決ス
三、帝國ハ右目的達成ノ爲如何ナル障害ヲモ之ヲ排除ス
第二 要領
一、蔣政權屈服促進ノ爲更ニ南方諸域ヨリ壓力ヲ强化ス情勢ノ推移ニ應シ適時重慶政權ニ對スル交戰權ヲ行使シ且支那ニ於ケル敵性租界ヲ接收ス
二、帝國ハ其ノ自存自衛上南方要域ニ對スル必要ナル外交交涉ヲ續行シ其ノ他各般ノ施策ヲ促進ス
之カ爲メ對英米戰準備ヲ整へ先ツ「對佛印泰施策要綱」及「南方施策促進ニ關スル件」ニ據リ佛印及泰ニ對スル諸方策ヲ完遂シ以テ南方進出ノ態勢ヲ强化ス
帝國ハ本號目的達成ノ爲メ對英米戰ヲ辭セス
三、獨「ソ」戰ニ對シテハ三國樞軸ノ精神ヲ基調トスルモ暫ク之ニ介入スルコトナク密カニ對「ソ」武力的準備ヲ整ヘ自主的ニ對處ス此ノ間固ヨリ周密ナル用意ヲ以テ外交交涉ヲ行フ
獨「ソ」戰爭ノ推移帝國ノ爲メ有利ニ進展セハ武力ヲ行使シテ北方問題ヲ解決シ北邊ノ安定ヲ確保ス
四、前號遂行ニ當リ各種ノ施策就中武力行使ノ決定ニ際シテハ對英米戰爭ノ基本態勢ノ保持ニ大ナル支障ナカラシム
五、米國ノ參戰ハ旣定方針ニ從ヒ外交手段其他有ユル方法ニ依リ極力之ヲ防止スヘキモ萬一米國カ參戰シタル場合ニハ帝國ハ三國條約ニ基キ行動ス但シ武力行使ノ時機及方法ハ自主的ニ之ヲ定ム
六、速カニ國內戰時體制ノ徹底的强化ニ移行ス特ニ國土防衛ノ强化ニ勉ム
七、具體的措置ニ關シテハ別ニ之ヲ定ム
「日本外交年表竝主要文書下巻」外務省編より
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