ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:思想家

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 今日は、江戸時代後期の1859年(安政6)に、労働運動家・社会主義者・思想家・社会事業家片山潜が生まれた日ですが、新暦では12月26日となります。
 片山潜(かたやま せん)は、美作国久米南条郡羽出木村(現在の岡山県久米郡久米南町羽出木)で、庄屋藪木家の次男として生まれましたが、幼名は菅太郎(すがたろう)と言いました。1877年(明治10)に神目村(現在の久米南町神目中)の親戚・片山幾太郎の養子となり、1880年(明治13)に岡山師範学校(現在の岡山大学教育学部)に入学したものの、翌年には退学して上京、攻玉社で塾僕として勤務します。
 1884年(明治17)にアメリカ合衆国へ渡り、1886年(明治19)にキリスト教の洗礼を受け、苦学して、1892年(明治25年)にグリンネル大学を卒業後、大学院に進み文学修士となり、エール大学でも学び、学位(神学士)を取得して、1896年(明治29)に帰国しました。東京専門学校の主任講師として英語を教えるも、3ヶ月で解職となり、「六合雑誌」に「米国に於ける社会学の進歩」等を寄稿しています。
 1897年(明治30)に東京・神田に日本最初の隣保館である「キングスレー館」を開いて、セツルメント事業を行い、中村太八郎の社会問題研究会結成に加わり、社会政策学会への加入も認められ、「労働世界」を創刊し主筆も務めました。1898年(明治31)に村井知至、安部磯雄、木下尚江、幸徳秋水らと社会主義研究会を結成、1901年(明治34)には、日本最初の社会主義政党の社会民主党(即日禁止)に幸徳秋水らと共に参加します。
 1903年(明治36)に「都市社会主義」を刊行、再度渡米して、翌年には、アムステルダムの第二インター第6回大会に日本代表として出席、安部磯雄と共に本部員に選ばれました。帰国後、1906年(明治39)に日本社会党結成に参加、議会政策を巡って、直接行動論の幸徳秋水と対立、翌年に「社会新聞」を発刊、田添鉄二らと日本社会平民党を結成しましたが、2日後に結社禁止となります。
 1910年(明治43)に大逆事件が起き、翌年に幸徳秋水らが処刑される中、東京市電ストを指導して検挙されました。1912年(大正元)に大正天皇即位の大赦によって出獄、1914年(大正3)にアメリカへ亡命し、1917年(大正6)のロシア革命に影響を受け、共産主義運動に共感、アメリカを中心に北米各地で活動、1921年(大正10)には、ソビエト連邦に渡り、コミンテルン常任執行委員会幹部となります。
 1922年(大正11)にモスクワで開催された極東民族会議に高瀬清、徳田球一らと出席しましたが、1933年(昭和8)11月5日に、モスクワの病院において、敗血症のため74歳で亡くなり、クレムリンの壁に葬られました。

〇片山潜の主要な著作

・『日本の労働運動』(1901年)
・『我社会主義』(1903年)
・『自伝』(1922年)
・『搾取なき社会への熱情』

☆片山潜関係略年表(明治5年以前の日付は旧暦です)

・1859年(安政6年12月3日) 美作国久米南条郡羽出木村(現在の岡山県久米郡久米南町羽出木)で、庄屋藪木家の次男として生まれる
・1877年(明治10年)10月 神目村(現在の久米南町神目中)の親戚・片山幾太郎の養子となる
・1880年(明治13年) 岡山師範学校(現在の岡山大学教育学部)に入学する
・1881年(明治14年) 岡山師範学校を退学して上京、攻玉社にて塾僕として勤務する
・1884年(明治17年) 友人岩崎清七に続いてアメリカ合衆国へ渡る
・1886年(明治19年)11月 組合教会の教会でキリスト教の洗礼を受ける
・1892年(明治25年) アイオワ州のグリンネル大学を卒業後、大学院に進む
・1896年(明治29年) 学位を取得して帰国し、京専門学校の主任講師として英語を教えるものの、3ヶ月で解職となる
・1896年(明治29年)5月 「六合雑誌」第185号に「米国に於ける社会学の進歩」を寄稿する
・1897年(明治30年)3月1日 東京・神田に日本最初の隣保館である「キングスレー館」を開いて、セツルメント事業を行う
・1897年(明治30年)4月 中村太八郎の社会問題研究会(後の社会主義研究会)結成に加わる
・1897年(明治30年)10月3日 社会政策学会加入を認められる
・1897年(明治30年)12月1日 「労働世界」を創刊し主筆を務める
・1898年(明治31年) 村井知至、安部磯雄、木下尚江、幸徳秋水らと社会主義研究会を結成する
・1899年(明治32年)7月9日 活版工同志懇話会主催演説会で、高野房太郎・金井延との対立が明確化する
・1901年(明治34年)5月20日 社会主義研究会を改組した日本最初の社会主義政党の社会民主党(即日禁止)に幸徳秋水らと共に参加する
・1901年(明治34年)9月21日 大日本労働団体連合本部の労資協調論を批判し脱退する
・1903年(明治36年)4月19日 「都市社会主義」を刊行する
・1903年(明治36年)12月 再度渡米する
・1904年(明治37年) アムステルダムの第二インター第6回大会に日本代表として出席、安部磯雄と共に本部員に選ばれる
・1906年(明治39年) 日本社会党結成に参加。議会政策を巡って幸徳秋水と対立する
・1907年(明治40年) 「社会新聞」を発刊する
・1907年(明治40年)6月25日 田添鉄二らと日本社会平民党を結成する
・1907年(明治40年)6月27日 日本社会平民党が結社禁止となる
・1910年(明治43年) 大逆事件が起き、幸徳秋水らが検挙される
・1911年(明治44年) 東京市電ストを指導して検挙される
・1912年(大正元年)9月 大正天皇即位の大赦によって出獄する
・1914年(大正3年)9月9日 アメリカへ亡命する
・1917年(大正6年) ロシア革命に影響を受け、共産主義運動に共感、アメリカを中心に北米各地で活動する
・1921年(大正10年) ソビエト連邦に渡り、コミンテルン常任執行委員会幹部となる
・1922年(大正11年)1月22日 モスクワで開催の極東民族会議に高瀬清、徳田球一らと出席する
・1933年(昭和8)11月5日 モスクワの病院において、敗血症のため74歳で亡くなり、クレムリンの壁に葬られる
・1990年(平成2年) 岡山県久米南町に記念館が建てられる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

671年(天智天皇10)第38代の天皇とされる天智天皇の命日(新暦672年1月7日)詳細
1879年(明治12)小説家・随筆家永井荷風の誕生日詳細
1926年(大正15)最初の「円本」となる『現代日本文学全集』が、改造社から1冊1円で刊行開始詳細
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 今日は、昭和時代中期の1957年(昭和32)に、ジャーナリスト・思想家・歴史家・評論家徳富蘇峰が亡くなった日です。
 徳富蘇峰(とくとみ そほう)は、江戸時代後期の1863年(文久3年1月25日)に、肥後国上益城郡津森村杉同(現在の熊本県上益城郡益城町)の母の実家で、代々惣庄屋兼代官(水俣)を勤めた豪農の父・徳富一敬と母・久子の長男として生まれましたが、名は猪一郎(いいちろう)と言いました。幼時は水俣に住んでいましたが、1870年(明治3)に父が熊本藩庁に勤務することになり、一家で熊本大江村に移住します。
 1871年(明治4)から兼坂諄次郎に漢学び始めたものの、1873年(明治6年)には、熊本洋学校に最年少で入学しますが、退学せざるを得なくなりました。1875年(明治8)に父の勧めで熊本洋学校に再入学したものの、熊本バンドに参加しまたもや退学となり、翌年上京し、官立の東京英語学校に入学するも10月末に退学し、京都の同志社英学校に入学します。
 新島襄よりキリスト教の洗礼を受けたものの、1880年(明治13)には、同志社同盟休校に連座したことで新島校長の自鞭事件が生じ、卒業を目前にして仲間と共に自主退学しました。1881年(明治14)に帰郷して自由党系の民権結社相愛社に加入し、自由民権運動に参加、翌年には、自宅を開放して自ら塾長となり、自由民権を旗印に「大江義塾」を開きます。
 1886年(明治19)に著書『将来之日本』が一躍ベストセラーとなり、大江義塾を閉じ一家をあげて上京、翌年には、友人と父の協力で民友社を創立し、雑誌『国民之友』を発刊、"蘇峰"と名乗るようになりました。1890年(明治23)に国民新聞社を創立、自ら社長兼主筆となり、平民主義を唱え、一躍ジャーナリズムのリーダーとなりましたが、日清戦争前後から対外膨張を主張するようになり、三国干渉を機に国家主義の立場を鮮明にし、従来の平民主義からの変節と非難されます。
 1896年(明治29)に海外事情を知るための世界旅行に出発、翌年帰国後、第2次松方内閣の内務省勅任参事官に就任、1904年(明治37)の日露戦争の開戦に際しては国論の統一と国際世論への働きかけに努めました。1905年(明治38)の日露講和に関する日比谷焼打事件に際しては約5,000人もの群衆によって国民新聞社が襲撃を受けましたが、1911年(明治44)には桂太郎首相の推薦で勅撰貴族院議員となっています。
 この頃から、藩閥、特に桂太郎と密接に提携した言論活動を展開したものの、1913年(大正2)の大正政変では再び社屋が焼打ちにあい、以後は政界を離れ、評論活動に力を注ぐようになりました。1918年(大正7)から『近世日本国民史』の執筆を開始、1923年(大正12)にはその業績で、第13回帝国学士院賞恩賜賞を受賞します。
 1929年(昭和4)に経営不振から国民新聞社を退社を余儀なくされ、以後は大阪毎日新聞社の社賓となりました。1937年(昭和12)に帝国芸術院会員となり、1942年(昭和17)に大日本言論報国会会長、日本文学報国会会長に就任、翌年には文化勲章を受章しています。
 太平洋戦争後は、公職追放の指名を受け、熱海に引き籠り、1957年(昭和32)11月2日に、熱海の晩晴草堂に於いて、94歳で亡くなりました。尚、小説家の徳冨蘆花は弟です。

〇徳富蘇峰の主要な著作

・『第十九世紀日本ノ青年及其教育』(1885年)後に『新日本之青年』と解題して刊行
・『官民ノ調和ヲ論ズ』
・『将来之日本』(1886年)
・『日本国防論』(1889年)
・『吉田松陰』(1893年)
・『大日本膨脹論』(1894年)
・『時務一家言』(1913年)
・『大正の青年と帝国の前途』(1916年)
・『杜甫と弥耳敦』(1917年)
・『近世日本国民史』全100巻(1918~1952年)
・『頼山陽』(1926年)
・『中庸之道』(1928年)
・『赤穂義士観』(1929年)
・『我が母』(1931年)
・『勝海舟伝』(1932年)
・『蘇峰自伝』(1935年)
・『昭和国民読本』(1939年)
・『満州建国読本』(1940年)
・『勝利者の悲哀』(1952年)

☆徳富蘇峰関係略年表(明治5年以前の日付は旧暦です)

・1863年(文久3年1月25日) 肥後国上益城郡津森村杉同(現在の熊本県上益城郡益城町)で、豪農の父・徳富一敬と葉は・久子の長男として生まれる
・1870年(明治3年) 7歳の時、父が熊本藩庁に勤務することになり、一家は水俣を離れ熊本大江村に移住する
・1871年(明治4年) 兼坂諄次郎に学び始める
・1873年(明治6年) 10歳の時、熊本洋学校に最年少で入学するが、退学せざるを得なくなる
・1875年(明治8年) 12歳の時、父の勧めで再び熊本洋学校に入学したが、熊本バンドに参加しまたもや退学となる
・1876年(明治9年) 上京し、官立の東京英語学校に入学するも10月末に退学し、同志社英学校に入学する
・1876年(明治9年)12月 新島襄よりキリスト教の洗礼を受ける
・1880年(明治13年) 17歳の時、同志社同盟休校に連座したことで新島校長の自鞭事件が生じ、卒業を目前にして仲間と共に自主退学する
・1881年(明治14年) 帰郷して自由党系の民権結社相愛社に加入し、自由民権運動に参加する
・1882年(明治15年)3月 19歳の時、自宅を開放して自ら塾長となり、自由民権を旗印に「大江義塾」を開く
・1884年(明治17年) 倉園又三(飽託郡本庄村・現熊本市の熊本藩上級官吏)の息女静子と結婚する
・1885年(明治18年) 『第十九世紀日本ノ青年及其教育』を自費出版する
・1886年(明治19年) 23歳の時、著書『将来之日本』が一躍ベストセラーとなり、大江義塾を閉じ一家をあげて上京する
・1887年(明治20年) 友人と父の協力で民友社を創立し、雑誌『国民之友』を発刊、"蘇峰"と名乗るようになる
・1890年(明治23年) 27歳の時、国民新聞社を創立、自ら社長兼主筆となり、平民主義を唱え、一躍ジャーナリズムのリーダーとなる
・1894~95年(明治27~28年) 日清戦争前後から対外膨張を主張するようになり、国家主義に転じる
・1896年(明治29年) 海外事情を知るための世界旅行に出発する
・1897年(明治30年) 帰国後、第2次松方内閣の内務省勅任参事官に就任する
・1904年(明治37年) 日露戦争の開戦に際しては国論の統一と国際世論への働きかけに努める
・1905年(明治38年)9月5日 日露講和に関する日比谷焼打事件に際しては約5,000人もの群衆によって国民新聞社が襲撃を受ける
・1911年(明治44年) 桂太郎首相の推薦で勅撰貴族院議員となる
・1913年(大正2年) 大正政変では再び社屋が焼打ちにあい、以後は政界を離れ、評論活動に力を注ぐ
・1915年(大正4年) 勲三等を受章する
・1918年(大正7年) 『近世日本国民史』の執筆を始める
・1923年(大正12年) 『近世日本国民史』で、第13回帝国学士院賞恩賜賞を受賞する
・1925年(大正14年) 国学士院会員となる
・1929年(昭和4年) 経営不振から国民新聞社を退社する
・1937年(昭和12年) 帝国芸術院会員となる
・1942年(昭和17年) 大日本言論報国会会長、日本文学報国会会長を務める
・1943年(昭和18年) 文化勲章を受章する
・1945年(昭和20年) 公職追放の指名を受け、熱海に引き籠る
・1957年(昭和32年)11月2日 熱海の晩晴草堂に於いて、95歳で亡くなる
・1998年(平成10年) 山梨県山中湖村に山中湖文学の森・徳富蘇峰館が開館する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1288年(正応元)第96代天皇とされる後醍醐天皇の誕生日(新暦11月26日)詳細
1714年(正徳4)江戸幕府5代将軍徳川綱吉の寵臣・譜代大名柳沢吉保の命日(新暦12月8日)詳細
1942年(昭和17)詩人・歌人北原白秋の命日詳細
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 今日は、大正時代の1922年(大正11)に、政治家・思想家・弁護士・社会運動家大井憲太郎の亡くなった日です。
 大井憲太郎(おおい けんたろう)は、1843年(天保14年8月10日)に、豊後国宇佐郡高並村(現在の大分県宇佐市)で、農民だった父・高並彦郎と母・サノの三男として生まれましたが、幼名は彦六と言いました。1852年(嘉永5)に豊前国温見村の医師 岩男浩然に入門し、四書五経などを学び、1862年(文久2)には、長崎で蘭学、舎密学(化学)を学びます。
 1863年(文久3)に大井卜新とともに大阪へ行き、親交を深めて義兄弟となり、高並を改めて大井姓を名乗り、1865年(慶応元)に幕府開成所でフランス語、化学を学び始め、翌年には開成所舎密局の世話心得となりました。1868年(明治元)の戊辰戦争では幕軍砲兵隊に属し官軍と戦い、翌年に箕作麟祥に師事し、フランス学を学び、1870年(明治3)には、名を大井憲太郎と改めます。
 1871年(明治4)に兵部省に出仕、1873年(明治6)に陸軍省八等に出仕、1874年(明治7)には、通志社を興し「叢談」を刊行、東洋社を設けて書籍を出版して啓蒙活動を行いました。1875年(明治8)に元老院少書記となったものの、翌年免官され、愛国社創立に参画、その後は弁護士(当時は代言人)として活動します。
 1877年(明治10)には、大井卜新の養子となり、北畠道竜らと私塾「構法学社」を開き、その後分離独立させて「明法学社」を開きました。1880年(明治13)に国会期成同盟に加わり、翌年に自由党が結成されるや入党、自由民権運動の第一線に出て急進派として活動、1884年(明治17)には、秩父の借金党(秩父困民党)を指導します。
 1885年(明治18)に朝鮮の内政改革運動の大阪事件を起こして逮捕され、禁錮9年の刑を受けましたが、1889年(明治22)の大赦令で出獄し、新井新吾らと「大同協和会」を結成、会長となりました。1890年(明治23)に板垣退助と共に自由党を再興し、立憲自由党に改組して常議員となり、「あづま新聞」を創刊したものの、翌年廃刊となります。
 1892年(明治25)に立憲自由党を脱党、東洋自由党を結成し、普通選挙を唱えましたが、翌年解散しました。1894年(明治27)の第3回衆議院議員総選挙に大阪より立候補して初当選、1898年(明治31)には、東京で南洋貿易商会を営み、自由党、進歩党の合同に尽くし憲政党総務となります。
 1899年(明治32)に普通選挙期成同盟会(後の普通選挙同盟)を片山潜らと結成、大日本労働協会や小作条例期成同盟会も組織し、社会運動の先駆けをなしました。1905年(明治38)に満州に渡り、労働者保護事業に従事したものの、1917年(大正6)に病のため満州より帰国します。
 その後も、1919年(大正8)に普通選挙運動の高潮にあたりハガキ運動を提唱したりしましたが、1922年(大正11)10月15日に、東京牛込二十騎町(現座主の東京都新宿区)において、数え年80歳で亡くなりました。

〇大井憲太郎の主要な著作

・翻訳『仏国政典』
・翻訳『仏国民選議院選挙法』
・『自由略論』
・『時事要論』

☆大井憲太郎関係略年表(明治5年以前の日付は旧暦です)

・1843年(天保14年8月10日) 豊後国宇佐郡高並村(現在の大分県宇佐市)で、農民だった父・高並彦郎と母・サノの三男として生まれる
・1852年(嘉永5年) 豊前国温見村の医師 岩男浩然に入門し、四書五経などを学ぶ
・1862年(文久2年) 長崎で蘭学、舎密学(化学)を学ぶ
・1863年(文久3年) 大井卜新とともに大阪へ行き、親交を深めて義兄弟となり、高並を改めて大井姓を名乗る
・1865年(慶応元年) 幕府開成所でフランス語、化学を学び始める
・1866年(慶応2年) 幕府開成所舎密局の世話心得となる
・1868年(明治元年) 戊辰戦争では幕軍砲兵隊に属し官軍と戦う
・1869年(明治2年) 箕作麟祥に師事し、フランス学を学ぶ
・1870年(明治3年) 名を大井憲太郎と改める
・1871年(明治4年) 兵部省に出仕する
・1873年(明治6年) 陸軍省八等に出仕する
・1874年(明治7年) 通志社を興し「叢談」を刊行、東洋社を設けて書籍を出版して啓蒙活動を行う
・1875年(明治8年)5月 元老院少書記となる
・1876年(明治9年) 元老院少書記を免官され、愛国社創立に参画する
・1877年(明治10年) 大井卜新の養子となり、北畠道竜らと私塾「構法学社」を開き、その後分離独立させて「明法学社」を開く
・1880年(明治13年) 国会期成同盟に加わる
・1881年(明治14年) 自由党が結成されるや入党、自由民権運動の第一線に出る
・1884年(明治17年) 秩父の借金党を指導する
・1885年(明治18年) 朝鮮の内政改革運動の大阪事件を起こして逮捕され、禁錮9年の刑を受ける
・1889年(明治22年) 大赦令で出獄し、新井新吾らと「大同協和会」を結成、会長となる
・1890年(明治23年)2月 板垣退助とともに自由党を再興し、立憲自由党に改組して常議員となる
・1890年(明治23年)12月 「あづま新聞」を創刊する
・1891年(明治24年) 「あづま新聞」が廃刊となる
・1892年(明治25年)2月 立憲自由党を脱党する
・1892年(明治25年)11月 東洋自由党を結成、普通選挙を唱える
・1893年(明治26年) 東洋自由党が解散となる
・1894年(明治27年)3月 第3回衆議院議員総選挙に大阪より立候補し、初当選する
・1898年(明治31年) 東京で南洋貿易商会を営み、自由党、進歩党の合同に尽くし憲政党総務となる
・1899年(明治32年) 普通選挙期成同盟会(後の普通選挙同盟)を片山潜らと結成する
・1899年(明治32年)6月 大日本労働協会、小作条例期成同盟会を組織する
・1900年(明治33年) 中村太八郎らが活動する普通選挙同盟会の評議員となる
・1901年(明治34年)5月 大日本労働協会、小作条例期成同盟会を解散する
・1905年(明治38年) 満州に渡り、労働者保護事業に従事する
・1917年(大正6年) 病のため満州より帰国する
・1919年(大正8年) 普通選挙運動の高潮にあたりハガキ運動を提唱する
・1922年(大正11年)10月15日 東京牛込二十騎町(現座主の東京都新宿区)において、数え年80歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

743年(天平15)聖武天皇が「大仏建立の詔」(東大寺大仏建立)を発する(新暦11月5日)詳細
1872年(明治5)小説家・劇作家岡本綺堂の誕生日(新暦11月15日)詳細
1956年(昭和31)天竜川中流に佐久間ダムが竣工し、完成式が行われる詳細
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 今日は、昭和時代前期の1945年(昭和20)に、哲学者・評論家・思想家三木清が獄死した日です。
 三木清(みき きよし)は、明治時代後期の1897年(明治30)1月5日に、兵庫県揖保郡平井村小神(現在のたつの市揖西町)で、富裕な農家の長男として生まれました。第一高等学校を経て、1917年(大正6)に京都帝国大学哲学科に入学、西田幾多郎・波多野精一らに学びます。
 1921年(大正10)に教育招集され三ヶ月間姫路の歩兵第10連隊で軍隊生活を送り、翌年からドイツに留学、ハイデルベルク大学でリッケルト、マールブルク大学でマルティン・ハイデッガーに師事、フランスのパリを経て、1925年(大正14)に帰国しました。その後、第三高等学校講師となり、処女作『パスカルに於ける人間の研究』を発表、1927年(昭和2)には、法政大学教授となります。
 1928年(昭和3)に、羽仁五郎らと『新興科学の旗のもとに』を発刊、同年の「唯物史観と現代の意識」は社会主義と哲学との結合について知識人に大きな影響を与え、マルクス主義哲学者として注目を集めました。しかし、1930年(昭和5)に「治安維持法」違反で検挙されて大学を辞め、著作活動に専念するようになり、1932年(昭和7)に『歴史哲学』を著わし、1933年(昭和8)には学芸自由同盟を結成し、岩波新書の創刊に参画します。
 ジャーナリズムの場で時代と文化の批判を展開、ファシズムと軍国主義に抗して“新しいヒューマニズム”を主張しましたが、1938年(昭和13)には、近衛文麿のブレーンとして結成された昭和研究会に参加、体制内抵抗の道を摸索したものの、挫折しました。1941年(昭和16)に、『哲学ノート』、『人生論ノート』を刊行、翌年には、陸軍に徴用され報道班員としてマニラに派遣されています。
 太平洋戦争末期の1945年(昭和20)3月に、再度の「治安維持法」違反容疑で投獄され、敗戦直後の1945年(昭和20)9月26日に、東京の豊多摩刑務所において、48歳で獄死しました。

〇三木清の主要な著作

・『パスカルに於(お)ける人間の研究』(1926年)
・『観念形態論』(1931年)
・『唯物史観と現代の意識』(1932年)
・『歴史哲学』(1932年)
・『人間学的文学論』(1934年)
・『構想力の論理』(1939,46年)
・『哲学ノート』(1941年)
・『人生論ノート』(1941年)
・『技術哲学』(1942年)

☆三木清関係略年表

・1897年(明治30)1月5日 兵庫県揖保郡平井村小神(現在のたつの市揖西町)で、富裕な農家の長男として生まれる
・1914年(大正3) 第一高等学校に入学、西田幾多郎の『善の研究』を読んで感動する
・1917年(大正6) 京都帝国大学哲学科に入り、西田幾多郎に師事する
・1920年(大正9) 京都帝国大学哲学科を卒業する
・1921年(大正10)4月 教育招集され三ヶ月間姫路の歩兵第10連隊で軍隊生活を送る
・1922年(大正11) ドイツに留学、ハイデルベルク大学でリッケルトに師事する
・1923年(大正12) マールブルク大学に移り、マルティン・ハイデッガーに師事する
・1924年(大正13) パリに移り、大学に席を置かず、フランス語の日用会話の勉強をする
・1925年(大正14) 帰国する
・1926年(大正15) 第三高等学校講師となり、処女作『パスカルに於ける人間の研究』を発表する
・1927年(昭和2) 法政大学教授となる
・1928年(昭和3) 羽仁五郎らと『新興科学の旗のもとに』を発刊する
・1930年(昭和5) 「治安維持法」違反で検挙される
・1932年(昭和7) 『歴史哲学』を著わす
・1933年(昭和8) 学芸自由同盟を結成し、岩波新書の創刊に参画する
・1934年(昭和9) 『人間学的文学論』を刊行する
・1938年(昭和13) 近衛文麿のブレーンとして結成された昭和研究会に参加、体制内抵抗の道を摸索したが挫折する
・1941年(昭和16) 『哲学ノート』、『人生論ノート』を刊行する
・1942年(昭和17) 陸軍に徴用され報道班員としてマニラに派遣される
・1945年(昭和20)3月 再度の治安維持法違反容疑で投獄される
・1945年(昭和20)9月26日 東京の豊多摩刑務所において、48歳で獄死する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1954年(昭和29)洞爺丸台風が襲来し、青函連絡船洞爺丸が転覆、岩内町で大火が起きる詳細
1959年(昭和34)伊勢湾台風が襲来する(死者 4,697名、行方不明者 401名、負傷者 38,921名)詳細
1962年(昭和37)若戸大橋が開通する詳細


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 今日は、江戸時代後期の1789年(寛政元)に、哲学者・経済学者・思想家三浦梅園が亡くなった日ですが、新暦では4月9日となります。
 三浦梅園(みうら ばいえん)は、1723年(享保8年8月2日)に、豊後国国東郡富永村(現在の国東市)の庄屋・医者だった父・義一と母・ふさの次男として生まれましたが、本名は晋(すすむ)と言いました。若い頃に杵築藩の儒者綾部絅斎や中津藩の儒者藤田敬所に学びます。
 20歳頃までに天文学、和算を学び、家業を継ぎながら、梅園塾での門人の教育にも当たりました。その中で、長崎・大宰府・熊本に遊学や伊勢参宮をしたり、1752年(宝暦2年)の30歳の時、天球儀を作成するなど、自然の思索に没頭します。
 1763年(宝暦13)、41歳の時に経世論『敢語』一巻が成り、翌年に医学書『身生餘譚』、1773年(安永2)に経済論『価原』、1775年(安永4)に哲学書『玄語』8巻を完成させるなど、多分野の学問を探求しました。1786年(天明6)、64歳の時に杵築藩主に治世意見書『丙午封事』を奉り、詩の研究書『詩轍』も著しています。
 独自の認識論と存在論によって宇宙・自然・人間を説明する条理の学を唱え、1789年(寛政元)には倫理書『贅語』を完成させましたが、同年3月14日に郷里において、数え年67歳で亡くなりました。尚、後世には帆足万里、広瀬淡窓と共に豊後三賢の一人に数えられるようになります。

〇三浦梅園の主要な著作

・経世論『敢語(かんご)』(1763年)
・医学書『身生餘譚』(1764年)
・経済論『価原(かげん)』(1773年)
・哲学書『玄語』全8巻(1775年)
・医学書『造物餘譚』(1781年)
・治世意見書『丙午封事』(1786年)
・詩の研究書『詩轍(してつ)』(1786年)
・倫理書『贅語』全14巻(1789年)
・『帰山録』(1778年)
・『玄語手引艸(てびきぐさ)』
・読書日記『浦子手記』

☆三浦梅園関係略年表(日付は旧暦です)

・1723年(享保8年8月2日) 豊後国国東郡富永村(現在の国東市)の庄屋・医者だった父・義一と母・ふさの次男として生まれる
・1734年(享保19年) 12歳の頃、隣村の西伯寺に山越えをして通い、その寺にある字で難字について調べる
・1736年(元文元年) 14歳の時、『和漢朗詠集』を写す  
・1737年(元文2年) 15歳の時、はじめて詩に志す  
・1739年(元文4年) 17歳の時、中津の藤田敬所に学び、滞在1ヵ月にて帰る
・1743年(寛保3年) 21歳の時、春再び藤田敬所の門に遊ぶ
・1745年(延享2年)秋、23歳の時、長崎・大宰府・熊本に遊ぶ
・1750年(寛延3年2月11日~3月23日) 28歳の時、伊勢参宮旅行をする 
・1752年(宝暦2年) 30歳の時、天球儀を作成する
・1760年(宝暦10年1月) 38歳の時、父・義一が75歳で亡くなる
・1763年(宝暦13年) 41歳の時、経世論『敢語』一巻が成る
・1764年(明和元年) 42歳の時、長男黄鶴(修齢)が誕生する
・1764年(明和元年) 医学書『身生餘譚』一巻が成る 
・1764年(明和元年) 英彦山に上り大宰府に泰賀上人を訪ねる
・1773年(安永2年) 51歳の時、経済論『価原』が成る
・1775年(安永4年) 53歳の時、哲学書『玄語』8巻が完成する
・1781年(天明元年2月21日~3月15日) 59歳の時、小倉・中津を旅行する
・1781年(天明元年) 医学書『造物餘譚』が成る
・1786年(天明6年) 64歳の時、杵築藩主に治世意見書『丙午封事』を奉る
・1786年(天明6年) 詩の研究書『詩轍』が成る
・1789年(寛政元年) 67歳の時、倫理書『贅語』が完成する
・1789年(寛政元年3月14日) 豊後国国東郡富永村で、数え年67歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1868年(慶応4)五箇条の御誓文」が出される(新暦4月6日)詳細
1970年(昭和45)大阪で日本万国博覧会(大阪万博)の開会式が行われる詳細


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