
護国寺(ごこくじ)は、東京都文京区大塚五丁目にある寺院、真言宗豊山派の別格本山で、山号は神齢山、院号は悉地院と呼ばれてきました。江戸幕府第5代将軍徳川綱吉が、母・桂昌院の発頓(開基)により、1681年(天和元年2月7日)に、上野国(群馬県)高崎の大聖護国寺住持であった亮賢(開山)に高田薬園の地を与え、桂昌院の祈願寺としての建立を命じます。
堂宇を建立して、桂昌院念持仏の天然琥珀如意輪観世音菩薩像を本尊とし、寺領300石を与え、翌年に完成しました。一方で、1688年(元禄元年)に、綱吉が神田橋・一ツ橋の間に移した護摩堂、祖師堂、観音堂などの大伽藍を整備し、隆光を開山として護持院が出来ます。
1694年(元禄7)に将軍母子の参詣に際し寺領300石を加えられ、その後逐年加増されて朱印1,200石となりました。1717年(享保2年)の享保の大火で護持院が灰燼に帰したものの、幕府は再興を許さず、その地を合併して護国寺を護持院と改め、2,700石となります。
1724年(享保9年)に幕命により長谷寺小池坊派に所属することとなり、1868年(明治元年)の廃仏毀釈で護持院が廃されると、護国寺として寺地を継承しました。明治維新後は後ろ盾を失い、経済的な苦境に陥入りましたが、1873年(明治6年)に明治天皇の第一皇子稚瑞照彦尊の薨去(死産)を機に、護国寺境内の東半分が皇族墓地とされます。
堂宇を建立して、桂昌院念持仏の天然琥珀如意輪観世音菩薩像を本尊とし、寺領300石を与え、翌年に完成しました。一方で、1688年(元禄元年)に、綱吉が神田橋・一ツ橋の間に移した護摩堂、祖師堂、観音堂などの大伽藍を整備し、隆光を開山として護持院が出来ます。
1694年(元禄7)に将軍母子の参詣に際し寺領300石を加えられ、その後逐年加増されて朱印1,200石となりました。1717年(享保2年)の享保の大火で護持院が灰燼に帰したものの、幕府は再興を許さず、その地を合併して護国寺を護持院と改め、2,700石となります。
1724年(享保9年)に幕命により長谷寺小池坊派に所属することとなり、1868年(明治元年)の廃仏毀釈で護持院が廃されると、護国寺として寺地を継承しました。明治維新後は後ろ盾を失い、経済的な苦境に陥入りましたが、1873年(明治6年)に明治天皇の第一皇子稚瑞照彦尊の薨去(死産)を機に、護国寺境内の東半分が皇族墓地とされます。
その後、1883年(明治16年)、1926年(大正15年)と火災で堂宇の多くを失いました。1928年(昭和3年)に大津市(近江)の三井寺の塔頭日光院の客殿が移築され、月光殿となり、1931年(昭和6年)には、本堂と月光殿が旧国宝(現在の国指定重要文化財)に指定されています。
寺宝に尊勝曼荼羅図、金銅五鈷鈴(いずれも国重要文化財)などがあり、境内には不昧軒(ふまいけん)、仲磨堂(ちゅうまどう)、茶室などもあり、江戸の面影を今に伝えてきました。尚、墓地には三条実美、山県有朋、大隈重信、河野広中、下田歌子ら名士の墓が多くあります。
寺宝に尊勝曼荼羅図、金銅五鈷鈴(いずれも国重要文化財)などがあり、境内には不昧軒(ふまいけん)、仲磨堂(ちゅうまどう)、茶室などもあり、江戸の面影を今に伝えてきました。尚、墓地には三条実美、山県有朋、大隈重信、河野広中、下田歌子ら名士の墓が多くあります。
〇徳川綱吉(とくがわ つなよし)とは?
江戸幕府の第5代将軍です。第3代将軍徳川家光の四男で、側室於玉(桂昌院)を母として、江戸で生まれ、幼名は徳松といいました。
1651年(慶安4)に15万石を拝領し、1653年(承応2)に元服して、綱吉と名乗るようになります。1661年(寛文元)に10万石を加増されて上野国館林城主となり、参議に任じられました。
1680年(延宝8)に、兄の第4代将軍家綱が病気となり、跡継ぎとなれる男子がななったため継嗣となり、従二位権大納言に叙任されます。同年に家綱没後、第5代将軍となり、翌年、堀田正俊を大老に任命して、「天和の治」と呼ばれる政治改革に着手しました。
「賞罰厳明」と天領行政の刷新を特色とし、将軍自ら積極的な政治に乗り出します。しかし、正俊の死後、柳沢吉保を重用し、財政悪化に対処するため、貨幣改鋳や積極的な貿易策によって商品経済への対応を強めましたが、インフレが起こり、経済の混乱を招きました。
また、「生類憐(あわれ)みの令」を出したり、一部役人の腐敗による治世の乱れも引き起こします。その反面、学問を奨励し、文治政治を進めようともしたので、「元禄文化」が花開くことともなりました。犬公方(くぼう)とも称され、悪評を受けつつ、1709年(宝永6)1月10日に、63歳で死去しています。
1651年(慶安4)に15万石を拝領し、1653年(承応2)に元服して、綱吉と名乗るようになります。1661年(寛文元)に10万石を加増されて上野国館林城主となり、参議に任じられました。
1680年(延宝8)に、兄の第4代将軍家綱が病気となり、跡継ぎとなれる男子がななったため継嗣となり、従二位権大納言に叙任されます。同年に家綱没後、第5代将軍となり、翌年、堀田正俊を大老に任命して、「天和の治」と呼ばれる政治改革に着手しました。
「賞罰厳明」と天領行政の刷新を特色とし、将軍自ら積極的な政治に乗り出します。しかし、正俊の死後、柳沢吉保を重用し、財政悪化に対処するため、貨幣改鋳や積極的な貿易策によって商品経済への対応を強めましたが、インフレが起こり、経済の混乱を招きました。
また、「生類憐(あわれ)みの令」を出したり、一部役人の腐敗による治世の乱れも引き起こします。その反面、学問を奨励し、文治政治を進めようともしたので、「元禄文化」が花開くことともなりました。犬公方(くぼう)とも称され、悪評を受けつつ、1709年(宝永6)1月10日に、63歳で死去しています。
☆護国寺関係略年表
・1681年(天和元年2月7日) 江戸幕府第5代将軍徳川綱吉が、母・桂昌院の発頓により、江戸雑司ヶ谷に護国寺の創建を命じる
・1682年(天和2年) 寺領300石を与えられて、梵鐘が寄進され、堂宇が完成して京都仁和寺の直末寺となる
・1688年(元禄元年) 江戸幕府の5代将軍徳川綱吉が神田橋・一ツ橋の間に移した護摩堂、祖師堂、観音堂などの大伽藍を整備し、隆光を開山として護持院となる
・1691年(元禄4年) 薬師堂が建立される
・1694年(元禄7年) 将軍母子の参詣に際し寺領300石を加えられる
・1697年(元禄10年) 本堂(観音堂)が七面七層入母屋造で完成する(国指定重要文化財)
・1717年(享保2年) 享保の大火で護持院が灰燼に帰したが、幕府は再興を許さず、その地を合併して護国寺を護持院と改める
・1724年(享保9年) 幕命により長谷寺小池坊派に所属することとなる
・1868年(明治元年) 廃仏毀釈で護持院が廃されると、護国寺として寺地を継承する
・1873年(明治6年) 明治天皇の第一皇子稚瑞照彦尊の薨去(死産)を機に、護国寺境内の東半分が皇族墓地とされる
・1883年(明治16年) 火災で堂宇の多くを失なう
・1902年(明治25年) 日清戦争で戦死した軍人の遺骨を埋葬し、忠霊堂が建立される
・1926年(大正15年) 火災で堂宇の多くを失なう
・1928年(昭和3年) 大津市(近江)の三井寺の塔頭日光院の客殿が移築され、月光殿(国指定重要文化財)となる
・1931年(昭和6年) 本堂と月光殿が旧国宝(現在の国指定重要文化財)となる
・1938年(昭和13年) 仰木敬一郎の設計で多宝塔、三尾邦三氏の寄進により不老門が建立される
・1996年(平成8年) 霊廟が完成する
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
1184年(治承8) | 一ノ谷の戦いが起こり、源義經らが奇襲により平氏に圧勝する(新暦3月20日) | 詳細 |
1692年(元禄4) | 孔子を祭る湯島聖堂が完成する(新暦3月17日) | 詳細 |
1731年(享保16) | 俳人・蕉門十哲の一人各務支考の命日(新暦3月14日) | 詳細 |
1873年(明治6) | 「敵討禁止令」(明治6年太政官布告第37号)が布告される | 詳細 |
1899年(明治32) | 「実業学校令」(明治32年勅令第29号)が公布(同年4月1日施行)される | 詳細 |
1998年(平成10) | 長野オリンピック(第18回冬季オリンピック・長野大会)が開幕する | 詳細 |