ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:徳川秀忠

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 今日は、江戸時代前期の1607年(慶長12)に、朝鮮使節(朝鮮通信使)が初めて江戸を訪問し、江戸幕府第2代将軍徳川秀忠と会見した日ですが、新暦では6月29日となります。
 朝鮮通信使(ちようせんつうしんし)は、朝鮮の国王が日本国王(日本の外交権者)に国書を手交するために派遣した使節で、日本では朝鮮来聘使(らいへいし)とも呼ばれてきました。室町時代の1375年(永和元)に、室町幕府第3代将軍足利義満が派遣した日本国王使に対し、当時朝鮮半島を支配していた高麗王朝が返礼のために派遣したのが最初とされ、基本的に対等の外交関係を続けます。
 朝鮮からは通信使が来日し、日本からは「国王使」が派遣されました。しかし、豊臣秀吉による1592年(文禄元)の文禄の役、1597年(慶長2)の慶長の役の2度に渡る朝鮮出兵により、両国の国交は途絶えることとなります。
 1600年(慶長5)の関ケ原の戦いで徳川家康が勝利し、江戸幕府を開くことになると、対馬の宗氏を通じて朝鮮との修好に尽力し、1607年(慶長12)に朝鮮国から正式の使節団が派遣されるに至り、同年5月6日に江戸において、第2代将軍秀忠と会見しました。当初は、日本からの国書に対する回答と、豊臣秀吉による朝鮮出兵時に日本へ連行された朝鮮人の所在を調査し送還することが目的となり、回答兼刷還使と呼ばれます。
 その後、1636年(寛永13年)の第4次の来日から、本来の目的である信を通ずるために使節団が派遣されることとなり、第6次からは、将軍の代替りごとに来日するのが例となりました。ところが、12回目は天明大飢饉のために延期され、行礼場所も対馬に変更されて、1811年(文化8)にようやく実施されましたが、それからは、度々計画されたものの、財政難や外圧のために延期され、実現しないままに明治維新を迎え、江戸時代の全回数は12回となります。
 通信使一行は、正使以下300~500人で構成され、プサン (釜山) から対馬を経て海路で大坂に到着し、その後は陸路で京都から東海道を下り、江戸へと至りました。そして、江戸城において将軍と会見し、国書・進物が献上され、将軍からは返書などが返されました。
 費用は毎回100万両に達したとされますが、幕府は将軍継嗣の儀礼と示威の立場から厚遇します。鎖国下にあった日本では、これによって朱子学をはじめとした中国や朝鮮の先進的な文化がもたらされた意義は大きく、日本の社会や文化に少なからない影響を及ぼしたとされてきました。

〇江戸時代の朝鮮通信使一覧

①1607年(慶長12)第2代将軍徳川秀忠と会見[呂祐吉]日朝国交回復、捕虜返還
②1617年(元和3)第2代将軍徳川秀忠と会見[呉允謙]大坂の役による国内平定祝賀、捕虜返還
③1624年(寛永元)第3代将軍徳川家光と会見[鄭岦]家光襲封祝賀、捕虜返還
④1636年(寛永13)第3代将軍徳川家光と会見[任絖]
⑤1643年(寛永20)第3代将軍徳川家光と会見[尹順之]家綱誕生祝賀、日光東照宮落成祝賀
⑥1655年(明暦元)第4代徳川家綱と会見[趙珩]家綱襲封祝賀
⑦1682年(天和2)第5代将軍徳川綱吉と会見[尹趾完]綱吉襲封祝賀
⑧1711年(正徳元)第6代将軍徳川家宣と会見[趙泰億]家宣襲封祝賀
⑨1719年(享保4)第8代将軍徳川吉宗と会見[洪致中]吉宗襲封祝賀
⑩1748年(寛延元)第9代将軍徳川家重と会見[洪啓禧]家重襲封祝賀
⑪1764年(宝暦14)第10代将軍徳川家治と会見[趙曮]家治襲封祝賀
⑫1811年(文化8)第11代将軍徳川家斉と会見[金履喬]家斉襲封祝賀(対馬に差し止め)

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

763年(天平宝字7)唐代の高僧・日本律宗の開祖鑑真の命日(新暦6月25日)詳細
1408年(応永15)室町幕府3代将軍足利義満の命日(新暦5月31日)詳細
1909年(明治42)「新聞紙法」が公布される詳細
1983年(昭和58)農業経済学者・農政家東畑精一の命日詳細
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 今日は、江戸時代前期の慶長18年に、徳川秀忠により、「伴天連追放之文(禁教令)」が公布された日ですが、新暦では1614年2月1日となります。
 「伴天連追放之文[禁教令]」(ばてれんついほうのふみ)は、江戸幕府第2代将軍徳川秀忠名で発布されたキリスト教禁止を全国に広げた法令でした。それ以前の1612年4月21日(慶長17年3月21日)に、江戸幕府は江戸・京都・駿府を始めとする直轄地に対して「禁教令」を布告し、教会の破壊と布教の禁止を命じ、諸大名についても「国々御法度」として受け止め、同様の施策を行っています。
 しかし、一方でポルトガル等との貿易は継続していたので、その趣旨は徹底せず、潜伏する者もいて、一部で伝道者たちが残り、依然としてキリスト教の活動は続くこととなりました。そこで、「禁教令」の全国への徹底を意図して、徳川家康は金地院崇伝に命じて、「伴天連追放之文」を起草させ、1614年2月1日(慶長18年12月23日)に徳川秀忠の名で公布します。
 これは、南蛮人と日本人たるとを問わず、またイエズス会、フランシスコ会の区別なく、伝道者たちを日本から徹底的に追放することを意図したものとなりました。これによって長崎と京都にあった教会は破壊され、翌1614年11月(慶長19年9月)には修道会士や主だったキリスト教徒がマカオやマニラに国外追放されています。
 以後、江渡幕府のキリスト教に対する基本法となって継続されていきました。
 以下に、伴天連追放之文(禁教令)を現代語訳・注釈付で全文掲載しておきますので、ご参照下さい。
 
☆伴天連追放之文(禁教令) (全文)  1614年2月1日(慶長18年12月23日)発布 

<原文> 

乾為父坤為母、人生於其中間、三才於是定矣、夫日本者、元是神国也、陰陽不測、名之謂神、聖之為聖、霊之為霊、誰不尊崇、況人之得生、悉陰陽之所感成、五体六塵、起居動静、須臾不離神、神非求乎他、人々具足、介々円成、廼是神之体也。又称仏国、不無據、文云、惟神明垂迹国、而大日之本国矣、法華曰、諸仏救世者、住於大神通、為悦衆生故、現無量神力、此金口妙文、神與仏其名異、而其趣一者、恰如合符節、上古緇素、各蒙神助、航大洋而遠入震旦、求仏家之法、求仁道之教、孜孜矻矻、而内外之典籍負将来、後来之末学、師々相承的々伝受、仏法之昌盛、超越於異朝、豈是非仏法東漸乎、爰吉利支丹之徒党、適来於日本、非啻渡商船而通資材、叨欲弘邪法惑正宗、以改域中之政号、作己有、是大禍之萌也、不可有不制矣、日本者神国仏国、而尊神敬仏、専仁義之道、匡善悪之法、有過犯之輩、随其軽重、行墨劓剕宮大辟之五刑、礼云、喪多而服五、罪多而刑五、有罪之疑者、乃以神為證誓、定罪罰之条目、犯不犯之区別、繊毫不差、五逆十悪之罪人者、是仏神三宝、人天大衆之所弃捐也、積悪之余殃難逃、或斬罪、或炮烙、獲罪如是、勧善懲悪之道也、欲制悪悪易積、欲進善害難保、豈不加炳誡乎、現世猶如此、後世冥道閣老之呵責、三世諸仏難救、歴代列祖不奈、可畏、可畏、彼伴天連徒党、皆反件政令、嫌疑神道、誹謗正方、残義損善、見有刑人、載欣載奔、自拝自礼、以是為宗之本懐、非邪法何哉、実神敵仏敵也、急不禁、後世必有国家之患、殊司号令不制之、却蒙天譴矣、日本国之内、寸土尺地、無所措手足、速掃攘之、強有違命者、可刑罰之、今幸受天之詔命、主于日域、乗国柄者、有年於茲、外顕五常之至徳、内帰一大之蔵教、是故国豊民安、経曰、現世安穏、後世善処、孔子亦日、身体髪膚、受于父母、不敢毀傷、孝之始也、全其身乃是敬神也、早斥彼邪法、弥昌吾正法、世既雖及繞季、益神道仏法紹隆之善政也、一天四海、宜承知、莫敢遺失矣。
    慶長十八龍集癸丑臘月日
      御朱印 

   『異国日記』より

*縦書きの原文を横書きに改め、句読点を付してあります。
 
<読み下し文>

乾[1]は父と爲し、坤[2]は母と爲す。人其の中間[3]に生まる。三才[4]是に於て定まる。夫れ日本は元是れ神国也。陰陽[5]測られず、これを名づけて神と謂う。聖の聖為る、霊の霊為る、誰か尊崇[6]せざらん。況人の生を得る、悉く陰陽[5]の感ずる所成り。五体[7]六塵[8]、起居動静[9]、須臾[10]も神を離れず、神は他に求むるにあらず。人々具足[11]、介々円成[12]、廼ち是神の体也。又仏国と称する、據る[13]無からず。文に云わく、惟神明[14]垂迹[15]の国、而して大日[16]の本国たりと。法華[17]に曰く、諸仏の救世[18]は、大神通[19]に住す、衆生[20]を悦ばすが為の故に、無量[21]の神力を現す。此の金口[22]妙文[23]、神と佛と其名異なりて、而して其趣一なるは、恰も符節[24]を合するが如し。上古緇素[25]、各神助[26]を蒙り、大洋を航して遠く震旦[27]に入り、仏家の法を求め、仁道[28]の教を求めて、孜孜矻矻[29]たり。而して内外の典籍[30]負て将来[31]し、後来の末学[32]、師々相承け的々伝受[33]し、仏法の昌盛、異朝[34]に超越す。豈是仏法の東漸[35]に非ずや。爰に吉利支丹の徒黨[36]、適日本に來り、啻に商船を渡して資財を通ずるのみに非ず、叨るに、邪法[37]を弘め、正宗[38]を惑はさんと欲し、以つて域中の政號[39]を改めて、己が有と作さんとす。是れ、大禍の萠[40]なり。制せずんば有るべからず。日本は神国・佛国にして、神を尊び、佛を敬す。仁義[41]の道を専らにし、善悪の法を匡し、過犯[42]の輩有らば、其軽重に随い、墨劓剕宮大辟[43]の五刑を行う。礼に云く、喪多くして服五[44]、罪多くして刑五[45]、罪の疑有る者は、乃ち神を以て證誓[46]と為し、罪罰の条目を定め、犯不犯の区別、繊毫[47]も差わず、五逆十悪[48]の罪人は、是仏神三宝、人天大衆の弃捐[49]する所なり。積悪の余殃[50]逃れ難し、或は斬罪に、或は炮烙[51]に、罪を獲る是の如し、勧善懲悪[52]の道なり、悪を制せんと欲して悪積み易く、善を進めんと欲して害保ち難し、豈炳誡[53]を加えざらんや。現世猶此の如し、後世冥道[54]閣老[55]の呵責[56]、三世諸仏[57]も救い難く、歴代の列祖[58]奈ともせず、畏るべし、畏るべし。彼の伴天連[59]の徒党、皆件の政令[60]に反し、神道を嫌疑し、正法[61]を誹謗し、義を残ひ善を損じ、刑人有るを見ては、載ち欣び載ち奔り、自ら拝し自ら礼し、是を以て宗の本懐[62]と爲す。邪法[37]に非ずして何ぞや。実に神敵佛敵なり。急ぎ禁ぜずんば、後世必ず国家の患あらん。殊に号令を司って之を制せずんば、却て天譴[63]を蒙らん。日本国の内、寸土の尺地[64]、手足を措く所無し[65]。強いて 違命[66]有らば、之れを刑罰すべし。今幸に天の詔命[67]を受け、日域[68]に主となり、国柄[69]を乗る者、茲に年有り。外五常[70]の至徳を顕し、内一大の蔵教[71]に帰す。是故に国豊にして民安し、経に曰く、現世安穏[72]、後世善処[73]と、孔夫子亦曰く、身躰髪膚[74]、父母に受く、放て毀傷[75]せざるは孝の始也と。全きその身乃ちこれ敬神也。早く彼の邪法[37]を斥けば、弥々吾が正法[61]昌んならん。世既に澆季[76]と雖も、益々神道仏法紹隆[77]の善政也。一天四海[78]宜しく承知すべし。敢て違失[79]するなかれ。
 慶長十八年龍集癸丑臘月日
      御朱印
 
【注釈】

[1]乾:けん=そら。天。あめ。 
[2]坤:こん=土地。大地。つち。 
[3]中間:ちゅうげん=二つのものの間にあるもの、間に考えられるもの。 
[4]三才:さんさい=世界を形成するものとしての天・地・人の称。三元。三儀。三極。 
[5]陰陽:おんよう=易で、相対する概念。陰(いん)と陽。いんよう。 
[6]尊崇:そんすう=尊びあがめること。尊敬。 
[7]五体:ごたい=身体の五つの部分。筋、脈、肉、骨、毛皮の称。 
[8]六塵:ろくじん=色・声・香・味・触・法の六境のこと。心を汚し煩悩を起こさせるのでいう。 
[9]起居動静:きこどうじょう=起きること、居ること、働くこと、静かにしていること。日常の動作、生活をいう。 
[10]須臾:しゅゆ=短い時間。しばらくの間。ほんの少しの間。 
[11]人々具足:にんにんぐそく=人には、それぞれみな仏性(ぶっしょう)がそなわっているということ。 
[12]介々円成:かいかいえんじょう=助け合って円満に成就すること。 
[13]據る:よる=よりどころ。 
[14]神明:しんめい=神。神祇(じんぎ)。 
[15]垂迹:すいじゃく=仏教と神道とが結びついて生れた思想で,仏や菩薩が衆生を仏道に引入れるために,かりに神々の姿となって示現すること。
[16]大日:だいにち=密教の中心本尊である大日如来のこと。 
[17]法華:ほっけ=大乗仏教の最も重要な経典の一つである法華経のこと。 
[18]救世:きゅうせい=乱れた世の人々を救うこと。特に、宗教の力でこの世の苦しみや罪悪から人々を救うこと。 
[19]神通:じんつう=無礙自在で超人的な不思議な力。また、そのはたらき。霊妙ではかり知れず、自由自在にどんな事をもなしうる働きや力。 
[20]衆生:しゅじょう=迷いの世界にあるあらゆる生類。仏の救済の対象となるもの。いきとしいけるもの。 
[21]無量:むりょう=はかりしれなく大きいこと。限りもなく多いこと。莫大であること。 
[22]金口:きんこう=仏を尊んでその口をいう語。仏の金色の口。転じて、仏の言説。尊い言葉。 
[23]妙文:みょうぶん=霊妙な経典。特に、法華経。 
[24]符節:ふせつ=割符(わりふ)のこと。 
[25]緇素:しそ=僧侶と俗人。僧俗。 
[26]神助:しんじょ=神の慈悲の力によるたすけ。天佑。 
[27]震旦:しんたん=振旦,真丹とも書く。中国の古称。 
[28]仁道:じんどう=仁の道。人としてふみ行なうべき道。 
[29]孜孜矻矻:ししこつこつ=たゆまず熱心に励む。 
[30]典籍:てんせき=書物。書籍。本。 
[31]将来:しょうらい=引き連れてくること。特に、外国など他の土地から持ってくること。 
[32]末学:まつがく=学者が自分のことをへりくだっていう語。浅学。 
[33]伝受:でんじゅ=伝え受けること。伝授されること。 
[34]異朝:いちょう=外国。異国。 
[35]東漸:とうぜん=勢力がしだいしだいに東方へと移り進むこと。 
[36]吉利支丹の徒黨:きりしたんのととう=キリスト教の一団。 
[37]邪法:じゃほう=人を惑わし、世間に害を与えるような教え。邪道。ここでは、キリスト教のこと。 
[38]正宗:しょうしゅう=正しい肝腎の本旨。ここでは日本本来の宗教つまり、仏教・神教のこと。 
[39]域中の政號:いきちゅうのせいごう=天下の政治。 
[40]大禍の萠:たいかのきざし=大きなわざわいのきざし。大きな災難の前兆。 
[41]仁義:じんぎ=儒教道徳の根本理念で、ひろく人や物を愛し、物事のよろしきを得て正しい筋道にかなうこと。 
[42]過犯:かはん=罪科を犯すこと。また、犯した罪科。犯罪。 
[43]墨劓剕宮大辟:ぼくぎひきゅうたいへき=罪人に対する五つの刑罰。古代中国では墨(いれずみ)、劓(はなきり)、剕(あしきり)、宮(男子の去勢、女子の陰部の縫合)、大辟(くびきり)をさす。 
[44]喪多くして服五:もおおくしてふくご=喪服は多くても五つ。 
[45]罪多くして刑五:つみおおくしてけいご=罪人に対する刑罰は多くても五つ。 
[46]證誓:しょうせい=誓いの証とすること。 
[47]繊毫:せんごう=細かい毛。きわめてわずかなこと、非常に小さなこと、ささいなことのたとえとされる。 
[48]五逆十悪:ごぎゃくじゅうあく=父・母・仏道修行者を殺す、僧団の和合を壊す、仏の身体を傷つけるの「五逆」と殺生・偸盗・邪淫・妄語・綺語・悪口・両舌・貪欲・瞋恚・愚癡の「十悪」のこと。 
[49]弃捐:きそん=捨てて用いないこと。捨ててかえりみないこと。 
[50]余殃:よおう=悪事のむくいとして起こる災禍。先祖の行なった悪事のむくい。余慶に対していう。 
[51]炮烙:ほうらく=あぶり焼くこと。 
[52]勧善懲悪:かんぜんちょうあく=善良な人や善良な行いを奨励して、悪者や悪い行いを懲こらしめること。 
[53]炳誡:へいかい=あきらかないましめ。炯戒(けいかい)。 
[54]冥道:みょうどう=死後の世界。特に閻魔王のいるところ。地獄。冥界。冥府。 
[55]閣老:かくろう=宮廷の高官。江戸幕府の役職、老中の異称。 
[56]呵責:かしゃく=厳しくとがめてしかること。責めさいなむこと。 
[57]三世諸仏:さんぜしょぶつ=過去・現在・未来の3世にわたって存在する一切の仏。 
[58]列祖:れっそ=代々の祖先。歴代の先祖。列宗。 
[59]伴天連:ばてれん=キリシタン宣教師のうちの司祭。 
[60]件の政令:くだんのせいれい=江戸幕府の法令のこと。 
[61]正法:しょうぼう=正しい教法。仏教のこと。 
[62]本懐:ほんかい=かねてからの願い。本意。本望。本願。 
[63]天譴:てんけん=天のとがめ。天帝が、ふとどきな者にくだすとがめ。天罰。 
[64]寸土の尺地:すんどのせきち=わずかな土地。せまい土地。 
[65]手足を措く所無し:しゅそくをおくところなし=安心して身をおく場所がない。安んじて生活できる所がない。 
[66]違命:いめい=言い付けにそむくこと。命令に背くこと。 
[67]詔命:しょうめい=天子の命令。みことのり。 
[68]日域:じちいき=日が照らす域内。転じて、天下。 
[69]国柄:こくへい=国家を統治する権力。政権。国権。 
[70]五常:ごじょう=儒教で、人が常に行なうべき五種の正しい道をいう。通例、仁、義、礼、智(知)、信。 
[71]蔵教:ぞうきょう=天台教学で釈迦一代の教説を分類した四教の一つ。三蔵教の略称。 
[72]現世安穏:げんせあんおん=現世では安穏に生活できるということ。 
[73]後世善処:ごしょうぜんしょ=後生ではよい世界に生まれるということ。 
[74]身躰髪膚:しんたいはっぷ=肉体と髪と皮膚、すなわち、からだ全体。 
[75]毀傷:きしょう=そこない傷つけること。傷つけ、こわすこと。損傷。 
[76]澆季:ぎょうき=道徳の薄れた人情軽薄な末の世。末世。 
[77]紹隆:しょうりゅう=先人の事業を受け継いで、さらに盛んにすること。 
[78]一天四海:いってんしかい=天の下と四方の海。天下全体。全世界。 
[79]違失:いしつ=まちがうこと。しくじり。過失。落度。 

<現代語訳>  伴天連追放之文

天は父となり、地は母となる。人間はその二つの間に生まれたものだ。天・地・人すべてはこの道理によっている。そもそも日本は、元来神国である。陰陽の働きは人智を超えたものがあって測り知れず、これを名づけて神という。聖の中の聖であり、霊の中の霊であり、誰か尊崇しないものはいない。まして人の生を得ること、ことごとく陰陽の感ずる所である。体のすべて、煩悩のすべて、起きていても寝ていても、一瞬も神は離れず、神は他に求めるものではない。人にはそれぞれみな仏性が備わっていて、助け合って円満に成就している。すなわちこれが神の姿である。また仏の国と称するのは、よりどころがないわけではない。書に言うことには、「よく考えてみると仏や菩薩が衆生を仏道に引入れるために神々の姿となって示現する国である、それに加えて大日如来の本国である。」と。『法華経』に言うことには、「諸仏の救世は、偉大で無礙自在で超人的な不思議な力に定まる、いきとしいけるものを悦ばすがためによって、はかりしれないの神力の霊験を示す。」と。この尊い言葉と霊妙な経典、神と仏はその名前は異なっているがその目的とするところは同じであたかも勘合符がぴったりと合うようなものだ。大昔から僧侶と俗人、各々が神の慈悲の力による助けをいただいて、大洋を航海して遠く中国に入って、仏家の法を求め、仁道の教を求めて、たゆまず熱心に励んだ。そのようにして仏教と儒教の典籍を背負って持ち来たり、行く末の学者が、師から弟子へ引き継いでその正しきを伝授し、仏法が昌盛し、外国に勝った。まさにこれは仏法の東方への進出に他ならない。ここにキリシタンの一団がたまたま日本にやったて来た。彼らは、ただ、商船を遣わして貿易するだけでなく、勝手に邪悪な教え(キリスト教)を布教して神仏を惑わし、日本の政治を改め、自分の領土としてしまおうと望んでいる。これは明らかに大きな災難の前兆である。禁止をしないわけにはいかない。日本は神の国・仏の国であり、これらを敬っている。仁義の道を専らにし、善悪の法を正しくし、犯罪を犯す者が有れば、その重さに従って、墨(いれずみ)、劓(はなきり)、剕(あしきり)、宮(男子の去勢、女子の陰部の縫合)、大辟(くびきり)の五刑を行う。『礼記』に言うことには、「喪服は多くても五つ、罪人に対する刑罰は多くても五つ」と、罪の疑いが有る者は、すなわち神をもって誓いの証とし、罪罰の条目を定め、罪を犯したか犯していないかの区別は、極めてわずかでも違わず、五逆十悪を犯す罪人は、これ仏教・神教の本尊・布教者・経典においても、人と天そして大衆の捨てて顧みないものである。積み重なった悪事の災禍から逃れることはできない、あるいは首切りの刑に、あるいは火あぶりの刑に、罪を判断すればこのとおりで、善良な人や善良な行いを奨励して、悪者や悪い行いを懲こらしめる道である、悪を制止しようと欲しても悪を積みやすく、善を進めようと欲しても害を保ち難いもので、どうしてあきらかな戒めを加えないでおかれようか。現世でもなおこのようであり、後の世の死後世界の高官の厳しいとがめ、過去・現在・未来の三世にわたって存在する一切の仏も救い難く、歴代の先祖もどうしようもない、畏るべきこと、畏るべきこと。あのバテレンの集団がみな幕府の政令に違反し、神道を疑い仏法を非難し、義や善い行いまで否定している。罪人として死刑になったものをみては、かえって喜び、走り回り、これを拝んでいる。これがこの宗教の正体である。これが邪悪な教えでなくてなんであろうか。まさに、神道の敵・仏法の敵である。急いで禁じなければ、後に必ず国家の禍になるであろう。わざわざ命令してこれを禁止しなければさらなる天の災いを被るであろう。日本国の内、わずかな土地でも、彼らが安心して身をおく場所は存在しない。強いて命令に背くことが有るならば、これに刑罰を課すべきである。今幸なことに天皇の命令を受け、天下の主となり、政権をつかさどる者、ここに年月が経過する。儒教の仁・義・礼・智・信の最高の徳を明らかにし、仏教で非常に重要な三蔵教に帰依する。これによって豊かな国となって、人々は心穏やかである。『法華経』に言うことには、「現世では安穏に生活でき、後生ではよい世界に生まれる」と、孔子がまた言うことには、「わが身体は両手・両足を始め毛髪・皮膚に至るまで、すべて父母から戴いたものであり、これを傷つけないようすることが孝行の始めである。」と。完全であるその身体すなわちこれは神を尊び敬うことである。一刻も早くこの邪宗教(キリスト教)を退け、われらが仏の御教えを盛んにしなければならない。世の中はすでに末法の世であるが神様の道、仏の道を開いていくよき政令である。天下の人々はこのことをしっかりと承知すべきである。決して間違ってはならない。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1496年(明応5)第105代の天皇とされる後奈良天皇の誕生日(新暦1497年1月26日)詳細
1874年(明治7)洋画家和田英作の誕生日詳細
1942年(昭和17)大日本言論報国会(会長:徳富蘇峰)が結成される詳細
1958年(昭和33)東京タワーの完工式が行われる詳細
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 今日は、1632年(寛永9)に、武将・江戸幕府第二代将軍徳川秀忠の亡くなった日ですが、新暦では3月14日となります。
 徳川 秀忠(とくがわ ひでただ)は、1579年(天正7年4月7日)に、遠江国浜松城で、徳川家康の三男(母は側室の西郷局)として生まれましたが、幼名は長松(のち竹千代)と言いました。長兄信康が自害、次兄秀康が豊臣秀吉の養子になったため、世子となり、1590年(天正18)には、上洛して、聚楽第において豊臣秀吉に謁して元服、秀吉の一字を与えられて秀忠と名のります。
 1592年(文禄元)に従三位権中納言となり、1595年(文禄4年9月)に豊臣秀吉の意思で浅井長政の娘於江与(崇源院)と結婚しました。1600年(慶長5)の関ケ原の戦いでは、東山道を西上し、途中信濃上田城の真田昌幸攻めに時間を空費、決戦に間にあわずに家康の叱責を受けます。
 1601年(慶長6)に権大納言になり、翌年には従二位に昇叙、1605年(慶長10)には正二位に昇叙し、内大臣に転任しました。同年(慶長10)に父より譲られて、第二代将軍となりましたが、父が大御所として実権を掌握し続けます。
 1614年(慶長19)の大坂冬の陣、翌年の夏の陣に父と共に出陣し、豊臣氏を滅亡させました。1616年(元和2)の父・家康死去のあとをうけて、幕府組織の拡充、整備を行ない、福島正則はじめ多くの大名を改易、1620年(元和6年)には娘和子(東福門院)を後水尾天皇に入内させます。
 1623年(元和9)に世子家光と共に上洛し、家光が正二位に昇叙し、内大臣に転任、併せて将軍宣下を受けて第三代将軍となり、右大臣を辞任して大御所となって後見しました。その後、1627年(寛永4年)の紫衣事件により、後水尾天皇が退位すると、和子の娘が即位(明正天皇)し、外祖父となります。
 一方、学問を好み、筆跡は優美な御家流を示し、茶を古田織部に学んでよくその法を伝えましたが、1632年(寛永9年1月24日)に、江戸城において、数え年54歳で亡くなりました。

〇徳川秀忠関係略年表(日付は旧暦です)

・1579年(天正7年4月7日) 遠江国浜松で、徳川家康の三男(母は側室の西郷局)として生まれる
・1582年(天正10年3月) 信長が武田氏を滅ぼすと父・徳川家康は駿河を手に入れる
・1582年(天正10年6月) 本能寺の変において信長が死亡すると、父・徳川家康は旅先の堺から岡崎へ逃げかえる
・1582年(天正10年9月) 天正壬午の乱を制して父・徳川家康は甲斐・信濃を手中に収める
・1584年(天正12年2月27日) 父・徳川家康が従三位の参議に叙任される
・1584年(天正12年) 父・徳川家康は羽柴(のち豊臣)秀吉と小牧・長久手の戦いで対峙したが、和睦して臣下となる
・1586年(天正14年) 秀吉の妹朝日姫が父・徳川家康の正室となって浜松に赴く
・1587年(天正15年8月8日) 豊臣秀忠として従五位下に叙され、侍従に任官、蔵人頭を兼帯する
・1588年(天正16年1月5日) 正五位下に昇叙し、武蔵守を兼任、蔵人頭を辞する
・1589年(天正17年) 父・徳川家康は7ヶ条の定書を領内の村々に公布して、年貢や夫役について規定する
・1590年(天正18年1月15日) 上洛して、聚楽第において豊臣秀吉に謁して元服、秀吉の一字を与えられて秀忠と名のる
・1590年(天正18年) 父・徳川家康は秀吉の小田原征伐に従軍する
・1590年(天正18年8月1日) 父・徳川家康は後北条氏滅亡後はその旧領(関八州)に移封されて江戸城に入る
・1590年(天正18年12月29日) 従四位下に昇叙する
・1591年(天正19年) 父・徳川家康は九戸政実の乱鎮定のため陸奥岩手沢に出陣する
・1591年(天正19年) 正四位下に昇叙し、右近衛権少将に転任する
・1591年(天正19年11月8日) 豊臣秀忠として参議に補任し右近衛権中将を兼帯する
・1592年(文禄元年5月9日) 豊臣秀忠として従三位に昇叙し、権中納言に転任する
・1592年(文禄元年) 文禄の役では、肥前名護屋に駐留する
・1594年(文禄3年2月13日) 権中納言を辞任する
・1595年(文禄4年9月) 豊臣秀吉の意思で浅井長政の娘於江与(崇源院)と結婚する
・1596年(慶長元年) 父・徳川家康は正二位内大臣となり、五大老の筆頭として、秀吉政権下で重きをなす
・1598年(慶長3年8月) 秀吉が亡くなると、父・徳川家康は朝鮮からの諸大名の撤兵を指揮する
・1599年(慶長4年) 五大老の一人前田利家の死後、父・徳川家康は秀吉の築いた伏見城本丸に入る
・1600年(慶長5年9月15日) 父・徳川家康は関ヶ原の戦いで勝利するものの、秀忠は遅参して叱責を受ける
・1601年(慶長6年3月28日) 豊臣秀忠として権大納言に転任する
・1602年(慶長7年1月8日) 従二位に昇叙する
・1602年(慶長7年) 父・徳川家康は京都二条城の造営を命じる
・1603年(慶長8年) 娘千姫が秀吉の遺児秀頼に入輿する
・1603年(慶長8年2月12日) 父・徳川家康が征夷大将軍の宣旨を受け、江戸幕府を開く
・1603年(慶長8年4月16日) 源秀忠として右近衛大将を兼任する
・1604年(慶長9年) 次男家光が生まれる
・1605年(慶長10年4月16日) 源秀忠として正二位に昇叙し、内大臣に転任する 
・1605年(慶長10年5月1日) 征夷大将軍が宣下されるが、父・徳川家康が大御所として実権を掌握し続ける
・1606年(慶長11年) 内大臣と右近衛大将を辞任する
・1607年(慶長12年) 父・徳川家康が駿府城に引退する
・1614年(慶長19年) 大坂冬の陣が起こる
・1614年(慶長19年3月9日) 従一位に昇叙し、右大臣に転任する
・1615年(元和元年5月8日) 大坂夏の陣で豊臣氏を滅ぼす
・1615年(元和元年7月7日) 「武家諸法度」を定める
・1615年(元和元年7月17日) 「禁中並公家諸法度」を定める
・1616年(元和2年3月17日) 父・徳川家康が太政大臣となる
・1616年(元和2年4月17日) 駿府において、父・徳川家康が数え年75歳で亡くなる
・1619年(元和5年) 広島城修築を理由に福島正則を改易する
・1620年(元和6年1月5日) 息子家光が正三位権大納言となり、続いて元服する
・1620年(元和6年) 娘和子(東福門院)を後水尾天皇に入内させる
・1622年(元和8年) 家康以来の年寄本多正純を改易に処し,土井利勝を信任して幕藩制の確立に力をそそぐ
・1623年(元和9年7月27日) 息子家光と共に上洛し、息子家光が正二位に昇叙し、内大臣に転任、併せて将軍宣下を受けて第三代将軍となり、右大臣を辞任して大御所となる
・1623年(元和9年) 息子家光に摂家鷹司家から鷹司孝子が江戸へ下って輿入れする
・1623年(元和10年) 息子家光が諸国巡見使を派遣する
・1624年(寛永元年) 江戸城西の丸に移る
・1626年(寛永3年) 息子家光が再度上洛し従一位左大臣となる
・1626年(寛永3年8月19日) 太政大臣に転任する
・1627年(寛永4年) 紫衣事件により後水尾天皇が退位すると、和子の娘が即位(明正天皇)する
・1631年(寛永8年) 忠長の領地を召し上げて蟄居を命じる
・1632年(寛永9年1月24日) 江戸城において、数え年54歳で亡くなる
・1632年(寛永9年2月10日) 正一位が贈られる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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 今日は、江戸時代前期の1615年(元和元)に、江戸幕府が「禁中並公家諸法度」を制定した日ですが、新暦では9月9日となります。
 禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)は、江戸幕府が朝廷や公家を統制するための法令でした。大坂の陣で豊臣家が滅亡した直後の1615年(元和元)7月17日に、京都二条城で本文に大御所徳川家康、将軍秀忠、前関白二条昭実が連署したものを武家伝奏に渡す形で制定され、同月30日公家・門跡衆に公布されます。
 起草は金地院崇伝で、正式名称は「禁中方御条目」といい、漢文体の17ヶ条からなっていました。内容は、天皇の本分、摂家・三公の席次や任免、改元、天皇以下公家の衣服、廷臣の刑罰、門跡以下僧侶の官位、紫衣(しえ)勅許の条件などから成り、その後改訂されずに幕末に至ります。
 以下に、「禁中並公家諸法度」の全文(読み下し文・現代語訳・注釈付き)を掲載しておきますので、御参照下さい。

〇「禁中並公家諸法度」(全文) 元和元年7月17日制定

一 天子諸藝能之事、第一御學問也。不學則不明古道、而能政致太平者末之有也。貞觀政要明文也。寛平遺誡、雖不窮經史、可誦習群書治要云々。和歌自光孝天皇未絶、雖爲綺語、我國習俗也。不可棄置云々。所載禁秘抄御習學専要候事。
一 三公之下親王。其故者右大臣不比等着舎人親王之上、殊舎人親王、仲野親王、贈太政大臣穂積親王准右大臣、是皆一品親王以後、被贈大臣時者、三公之下、可為勿論歟、親王之 次、前官之大臣、三公、在官之内者、為親王之上、辞表之後者、可為次座、其次諸親王、但儲君各別、前官大臣、関白職再任之時者、摂家之内、可為位次事。
一 淸花之大臣、辭表之後座位、可爲諸親王之次座事。
一 雖爲攝家、無其器用者、不可被任三公攝關。況其外乎。
一 器用之御仁躰、雖被及老年、三公攝關不可有辭表。但雖有辭表、可有再任事。
一 養子者連綿。但、可被用同姓。女縁其家家督相續、古今一切無之事。
一 武家之官位者、可爲公家當官之外事。
一 改元、漢朝年號之内、以吉例可相定。但、重而於習禮相熟者、可爲本朝光規之作法事。
一 天子禮服、大袖、小袖、裳、御紋十二象、諸臣礼服各別、御袍 、麹塵、青色、帛、生気御袍、或御引直衣、御小直衣等之事、仙洞御袍、赤色橡、或甘御衣、大臣袍、橡異文、小直衣、親王袍、橡小直衣、公卿着禁色雑袍、雖殿上人、大臣息或孫聴着禁色雑袍、貫首、五位蔵人、六位蔵人、着禁色、至極臈着麹塵袍、是申下御服之儀也、晴之時雖下臈着之、袍色、四位以上橡、五位緋、地下赤之、六位深緑、七位浅緑、八位深縹、初位浅縹、袍之紋、轡唐草輪無、家々以旧例着用之、任槐以後異文也、直衣、公卿禁色直衣、始或拝領任先規着用之、殿上人直衣、羽林家之外不着之、雖殿上人、大臣息亦孫聴着禁色、直衣直垂、随所着用也、小袖、公卿衣冠時者着綾、殿上人不着綾、練貫、羽林家三十六歳迄着之、此外不着之、紅梅、十六歳三月迄諸家着之此外者平絹也、冠十六未満透額帷子、公卿従端午、殿上人従四月西賀茂祭、着用普通事。
一 諸家昇進之次第、其家々守舊例可申上。但学問、有職、歌道令勤学、其外於積奉公労者、雖為超越、可被成御推任御推叙、下道真備雖従八位下、衣有才智誉、右大臣拝任、尤規摸也、蛍雪之功不可棄捐事。
一 關白、傳奏、并奉行職事等申渡儀、堂上地下輩、於相背者、可爲流罪事。
一 罪輕重、可被守名例律事。
一 攝家門跡者、可爲親王門跡之次座。摂家三公之時者、雖為親王之上、前官大臣者、次座相定上者、可准之、但皇子連枝之外之門跡者、親王宣下有間敷也、門跡之室之位者、可依其仁体、考先規、法中之親王、希有之儀也、近年及繁多、無其謂、摂家門跡、親王門跡之外門跡者、可為准門跡事。
一 僧正大、正、權、門跡院家可守先例。至平民者、器用卓抜之仁希有雖任之、可爲准僧正也。但、國王大臣之師範者各別事。
一 門跡者、僧都大、正、少、法印任叙之事。院家者、僧都大、正、少、權、律師法印法眼、任先例任叙勿論。但、平人者、本寺推擧之上、猶以相選器用、可申沙汰事。
一 紫衣之寺住持職、先規希有之事也。近年猥勅許之事、且亂臈次、且汚官寺、甚不可然。於向後者、撰其器用、戒臈相積、有智者聞者、入院之儀可有申沙汰事。
一 上人號之事、碩學之輩者、本寺撰正權之差別於申上者、可被成勅許。但、其仁躰、佛法修行及廿箇年者可爲正、年序未滿者、可爲權。猥競望之儀於有之者、可被行流罪事。

 右、可被相守此旨者也。

 慶長廿年乙卯七月 日

 昭 實(花押)
 秀 忠(花押)
 家 康(花押)

  「徳川禁令考」より

<読み下し文>

一、天子御芸能之事、第一御学問也。学ならずんば則ち古道明らかならず、而して政を能して太平を致す者未だこれあらざるなり、貞観政要[1]の明文也、寛平遺誡[2]に経史[3]を窮めずと雖も、群書治要[4]を誦習[5]すべしと云々。和歌は光孝天皇[6]より未だ絶えず、綺語[7]たりと雖も我が国の習俗也、棄置くべからずと云々。禁秘抄[8]に載せる所、御習学専要候事。
一、三公[9]の下は親王[10]。その故は右大臣不比等[11]は舎人親王[12]の上に着く。殊に舎人親王[12]、仲野親王[13]は(薨去後に)贈(正一位)太政大臣、穂積親王[14]は准右大臣なり。一品親王は皆これ以後、大臣を贈られし時は三公の下、勿論たるべし。親王[10]の次は前官大臣。三公[9]は官の内に在れば、親王[10]の上となす。辞表の後は次座たるべし。その次は諸親王[10]、但し儲君[15]は格別たり。前官大臣、関白職再任の時は摂家の内、位次たるべき事。
一、清華[16]の大臣辞表の後、座位[17]は諸親王[10]の次座たるべき事。
一、摂家[18]たりと雖も、その器用[19]無き者は、三公[9]・摂関に任ぜらるるべからず。況んやその外をや。
一、器用[19]の御仁躰、老年に及ばるるといへども、三公[9]摂関辞表あるべからず。但し辞表ありといへども、再任あるべき事。
一、養子は連綿[20]、但し同姓を用ひらるべし。女縁者の家督相続、古今一切これなき事。
一、武家の官位は、公家当官の外[21]たるべき事。
一、改元[22]は漢朝の年号[23]の内、吉例[24]を以て相定むべし。但し重ねて習礼[25]相熟むにおいては、本朝[26]先規の作法たるべき事。
一、天子の礼服は大袖・小袖・裳・御紋十二象、御袍[27]・麹塵[28]・青色、帛[29]、生気[30]御袍[27]、或は御引直衣、御小直衣等之事。仙洞[31]御袍[27]、赤色橡[32]或ひは甘御衣[33]、大臣袍[27]、橡[32]異文、小直衣、親王袍[27]、橡[32]小直衣、公卿[34]は禁色[35]雑袍[36]を着す、殿上人[37]と雖も、大臣息或は孫は禁色[35]雑袍[36]を着すと聴く、貫首[38]、五位蔵人、六位蔵人、禁色[35]を着す、極臈[39]に至りては麹塵[28]袍[27]を着す、是申下すべき御服之儀也。晴[40]之時と雖も下臈[41]之を着す、袍[27]色、四位以上橡[32]、五位緋、地下赤之、六位深緑、七位浅緑、八位深縹[42]、初位浅縹[42]、袍[27]之紋、轡唐草輪無、家々旧例をもって之を用いて着す、任槐[43]以後は異文也、直衣、公卿[34]禁色[35]直衣、或は任を拝領して始め、先規にて之を用いて着す、殿上人[37]直衣、羽林家[44]之外之を着さず、殿上人[37]と雖も、大臣息亦孫は禁色[35]を着すと聴く、直衣直垂、随所着用也、小袖、公卿[34]衣冠[45]の時は綾[46]を着す、殿上人[37]は綾[46]を着さず、練貫[47]、羽林家[44]三十六歳迄之を着す、此外は之を着さず、紅梅[48]、十六歳三月迄諸家は之を着す、此外は平絹也、冠十六未満は透額[49]、帷子[50]、公卿[34]は端午[51]より、殿上人[37]は四月西賀茂祭[52]より、着用普通の事。
一、諸家昇進の次第はその家々旧例を守り申上ぐべし。但し学問、有職[53]、歌道の勤学を令す。その外奉公の労を積むにおいては、超越たりといえども、御推任御推叙なさるべし。下道真備[54]は従八位下といえども、才智誉れ有るにより右大臣を拝任、尤も規摸[55]なり。蛍雪の功[56]は棄捐[57]すべかざる事。
一、関白・伝奏[58]并びに奉行職等申渡す儀、堂上地下の輩[59]、相背くにおひては、流罪たるべき事。
一、罪の軽重は名例律[60]を守らるべき事。
一、摂家門跡[61]は親王門跡[61]の次座たるべし。摂家三公[9]の時は親王[10]の上たりといえども、前官大臣は次座相定む上はこれに准ずべし。但し皇子連枝の外の門跡[61]は親王[10]宣下有るまじきなり。門跡[61]の室の位はその仁体によるべし。先規を考えれば、法中の親王[10]は希有の儀なり、近年繁多に及ぶが、その謂なし。摂家門跡[61]、親王門跡[61]の外門跡[61]は准門跡[61]となすべき事。
一、僧正[62](大、正、権)・門跡[61]・院家[63]は先例を守るべし。平民に至りては、器用[19]卓抜の仁、希有にこれを任ずるといへども、准僧正たるべき也。但し国王大臣の師範は各別の事。
一、門跡[61]は僧都[64](大、正、少)・法印[65]叙任の事、院家[63]は僧都[64](大、正、少、権)、律師[66]、法印[65]、法眼[67]、先例から叙任するは勿論。但し平人は本寺の推学の上、尚以て器用[19]を相撰び沙汰を申すべき事。
一、紫衣の寺[68]は、住持職[69]、先規希有の事[70]也。近年猥りに勅許の事、且は臈次[71]を乱し且は官寺[72]を汚す、甚だ然るべからず。向後においては、其の器用[19]を撰び、戒臈[73]相積み、智者の聞こえあらば、入院の儀申沙汰有るべき事。
一、上人号[74]の事、碩学[75]の輩は、本寺として正確の差別を撰み申上ぐるにおひては、勅許なさるべし。但しその仁体、仏法修行二十箇年に及ぶは正となすべし、年序未満は権となすべし。猥らに競望[76] の儀これ有るにおいては流罪行なわるべき事。

 右此の旨相守らるべき者也。

   慶長廿年[77]乙卯七月 日  

 昭 實(花押)
 秀 忠(花押)
 家 康(花押)

【注釈】

[1]貞観政要:じょうがんせいよう=唐の2代皇帝太宗と群臣の問答録で、帝王学の教科書として日本でも読まれた。
[2]寛平遺誡:かんぴょうのゆいかい=宇多天皇が醍醐天皇に与えた訓戒書。
[3]経史:けいし=四書五経や歴史書。
[4]群書治要:ぐんしょちよう=唐の2代皇帝太宗が編纂させた政論書。
[5]誦習:しょうしゅう=読み習うこと。書物などを口に出して繰り返し読むこと。
[6]光孝天皇:こうこうてんのう=第58代とされる天皇(830~887年)で、『古今和歌集』に歌2首が収められている。
[7]綺語:きぎょ=表面を飾って美しく表現した言葉。
[8]禁秘抄:きんぴしょう=順徳天皇が著した有職故実書(1221年頃成立)。
[9]三公:さんこう=太政大臣、左大臣、右大臣のこと。
[10]親王:しんのう=天皇の兄弟と皇子のこと。
[11]右大臣不比等:うだいじんふひと=藤原不比等(659~720年)のことで、奈良時代初期の廷臣。藤原鎌足の次男。
[12]舎人親王:とねりしんのう=天武天皇の第3皇子(676~735年)で、藤原不比等の死後、知太政官事となり、没後太政大臣を贈られた。
[13]仲野親王:なかのしんのう=桓武天皇の皇子(792~867年)で、没後太政大臣を贈られた。
[14]穂積親王:ほづみしんのう=天武天皇の皇子(?~715年)で、知太政官事、一品にいたる。
[15]儲君:ちょくん=皇太子のこと。
[16]清華:せいが=公家の名門清華家のことで、摂関家に次ぎ、太政大臣を極官とし、大臣、大将を兼ねる家。久我、花山院、転法輪三条、西園寺、徳大寺、大炊御門、今出川 (菊亭) の7家。
[17]座位:ざい=席次のこと。
[18]摂家:せっけ=摂政、関白に任命される家柄、近衛、九条、二条、一条、鷹司の五摂家のこと。
[19]器用:きよう=能力。学識。
[20]連綿:れんめん=長く続いて絶えないこと。
[21]公家当官の外:くげとうかんのほか=官位令に規定される公家の官位とは別扱い。
[22]改元:かいげん=元号(年号)を改めること。
[23]漢朝の年号:かんちょうのねんごう=中国の年号。
[24]吉例:きちれい=縁起の良いもの。
[25]習礼:しゅうらい=礼儀作法をならうこと。
[26]本朝:ほんちょう=日本のこと。
[27]袍:ほう=束帯用の上衣。
[28]麹塵:きくじん=灰色がかった黄緑色。
[29]帛:はく=きぬ。絹布の精美なもの。羽二重の類。
[30]生気:しょうげ=生気の方向を考慮して定めた衣服の色。東に青、南に赤を用いるなど。
[31]仙洞:せんどう=太上天皇のこと。
[32]橡:つるばみ=とち色のことだが、四位以上の人の袍の色となる。
[33]甘御衣:かんのおんぞ=太上天皇が着用する小直衣(このうし)。
[34]公卿:くぎょう=公は太政大臣・左大臣・右大臣、卿は大納言・中納言・参議および三位以上の朝官をいう。参議は四位も含める。
[35]禁色:きんじき=令制で、位階によって着用する袍(ほう)の色の規定があり、そのきまりの色以外のものを着用することが禁じられたこと。また、その色。
[36]雑袍:ざっぽう=直衣(公家の平常服)のこと。上衣。
[37]殿上人:でんじょうびと=清涼殿の殿上間に昇ることを許された者(三位以上の者および四位,五位の内で昇殿を許された者)
[38]貫首:かんじゅ=蔵人頭のこと。
[39]極臈:きょくろう=六位の蔵人で、最も年功を積んだ人。
[40]晴:はれ=正月や盆、各種の節供、祭礼など、普段とは異なる特別に改まったとき。
[41]下臈:げろう=官位の下級な者。序列の低い者。
[42]縹:はなだ=一般に、タデ科アイだけを用いた染色の色で、ややくすんだ青のこと。
[43]任槐:にんかい=大臣に任ぜられること。
[44]羽林家:うりんけ=摂家や清華ではないが、昔より代々中将・少将に任じられてきた家(冷泉・灘波・飛鳥井など)。
[45]衣冠:いかん=男子の最高の礼装である束帯の略装の一形式。冠に束帯の縫腋の袍を着て指貫をはく。
[46]綾:りょう=模様のある絹織物。
[47]練貫:ねりぬき=縦糸に生糸、横糸に練り糸を用いた平織りの絹織物。
[48]紅梅:こうばい=襲(かさね)の色目の一つで、表は紅色で、裏は紫色。
[49]透額:すきびたい=冠の額の部分に半月形の穴をあけ、羅うすぎぬを張って透かしにしたもの。
[50]帷子:かたびら=夏の麻のきもの。
[51]端午:たんご=端午の節句(旧暦5月5日)のこと。
[52]賀茂祭:かもまつり=加茂の明神のまつり(旧暦4月中の酉の日)のことで、現在の葵祭。
[53]有職:ゆうそく=朝廷や公家の儀式・行事・官職などに関する知識。また、それに詳しい人。
[54]下道真備:しもつみちのまきび=吉備真備(695~775年)のこと。従八位下から正二位・右大臣にまで昇った。
[55]規摸:きぼ=手本。模範。
[56]蛍雪の功:けいせつのこう=苦労して勉学に励んだ成果。
[57]棄捐:きえん=捨てて用いないこと。
[58]伝奏:てんそう=江戸時代に幕府の奏聞を取り次いだ公武関係の要職。
[59]堂上地下の輩:どうじょうじげのやから=殿上人とそれ以外の官人。
[60]名例律:みょうれいりつ=律における篇の一つで、刑の名前と総則を規定する。
[61]門跡:もんぜき=皇族・貴族などが出家して居住した特定の寺院。また、その住職。
[62]僧正:そうじょう=僧綱の最高位。僧都・律師の上に位し、僧尼を統轄する。のち、大・正・権ごんの三階級に分かれる。
[63]院家:いんげ=大寺に属する子院で、門跡に次ぐ格式や由緒を持つもの。また、貴族の子弟で、出家してこの子院の主となった人。
[64]僧都:そうず=僧綱(僧尼を統率し諸寺を管理する官職)の一つで、僧正に次ぎ、律師の上の地位のもの。
[65]法印:ほういん=僧位の最上位で、僧綱の僧正に相当する。この下に法眼・法橋があった。
[66]律師:りっし= 僧綱(僧尼を統率し諸寺を管理する官職)の一つで、僧正・僧都に次ぐ僧官。正・権の二階に分かれ、五位に準じた。
[67]法眼:ほうげん=僧位の第二位で、法印と法橋のあいだ。僧綱の僧都に相当する。
[68]紫衣の寺:しえのてら=朝廷から高徳の僧に賜わった紫色の僧衣を着る高僧が住持となる寺格。
[69]住持職:じゅうじしょく=住職。
[70]先規希有の事:せんきけうのこと=先例がほとんどない。
[71]臈次:ろうじ=僧侶が受戒後、修行の功徳を積んだ年数で決められる序列。
[72]官寺:かんじ=幕府が保護した寺のことで、五山十刹などをさす。
[73]戒臈:かいろう=修行の年功。
[74]上人号:しょうにんごう=法橋上人位の略称。修行を積み、智徳を備えた高僧の号。
[75]碩学:せきがく=修めた学問の広く深いこと。また、その人。
[76]競望:けいぼう=われがちに争い望むこと。強く希望すること。
[77]慶長廿年:けいちょうにじゅうねん=慶長20年7月は13日に元和に改元されたので、実際の制定時7月17日は元和元年となる。

<現代語訳>

一、天皇が修めるべきものの第一は学問である。「学を修めなければ、すなわち古からの道は明らかにならない、学を修めないでいて良き政事をし、太平をもたらしたものは、いまだないことである。」と、『貞観政要』にはっきり書かれていることである。『寛平遺誡』に四書五経や歴史書を極めていないといっても、『群書治要』を読み習うこととしかじか、和歌は光孝天皇より未だ絶えず、表面を飾って美しく表現した言葉であるといっても、我が国のならわしである、捨ておいてはならないとしかじか、『禁秘抄』に掲載されているところは、学習されるべき最も大切なところである。
一、現役の三公(太政大臣、左大臣、右大臣)の席次の下に親王がくる。特に、舎人親王、仲野親王は薨去後に贈(正一位)太政大臣、穂積親王は准右大臣となった。一品親王は皆これ以後、大臣を贈られし時は三公(太政大臣、左大臣、右大臣)の下となることは、勿論のことである。親王の次は前官大臣である。三公(太政大臣、左大臣、右大臣)は在任中であれば、親王の上とするが、辞任後は次座となるべきである。その次は諸親王、ただし皇太子は特別である。前官大臣、関白職再任の時は摂家の内、位次であるべきである。
一、清華家の三公(太政大臣、左大臣、右大臣)辞任後の席次は、親王の次となるべきである。
一、摂関家の生まれであっても、才能のない者が三公(太政大臣、左大臣、右大臣)・摂政・関白に任命されることがあってはならない。ましてや、摂関家以外の者の任官など論外である。
一、能力のあるお方は、高齢だからといっても、三公(太政大臣、左大臣、右大臣)・摂政・関白を辞めてはならない。ただし、辞任したとしても、再任は有るべきである。
一、養子連綿、すなわち、同姓を用いるべきである、女縁をもってその家督を相続することは、昔から今に至るまで一切無いことである。
一、武家に与える官位は、公家の官位とは別扱いのものとする 。
一、元号を改めるときは、中国の年号から縁起の良いものを選ぶべきである。ただし、今後(担当者が)習礼を重ねて相熟むようになれば、日本の先例によるべきである。
一、天皇の礼服は大袖・小袖・裳・御紋十二象、束帯用の御上衣は灰色がかった黄緑色・青色、絹布、生気色の束帯用の御上衣、あるいは御引直衣、御小直衣等の事。太上天皇の束帯用の御上衣は赤色橡色あるいは甘御衣、大臣の束帯用の上衣は橡色の異文、小直衣、親王の束帯用の上衣は橡色の小直衣、公卿は位階によって決められた色の上衣を着用する。殿上人といっても、大臣の息子あるいは孫は、位階によって決められた色の上衣を着用すると聴く。蔵人頭は五位蔵人、六位蔵人は、位階によって決められた色を着用する。六位の蔵人で最も年功を積んだ人に至っては、灰色がかった黄緑色の束帯用の上衣を着用する。これは申し下すべき御服の決まりである。はれの儀式の時は序列の低い者もこれを着用する。束帯用の上衣の色は、四位以上は橡色、五位は緋色、地下は赤色、六位は深緑色、七位は浅緑色、八位は深いくすんだ青色、初位は浅いくすんだ青色、束帯用の上衣の紋は、轡唐草は輪無しについては、家々の旧例に従って、これを用いて着用する。大臣任官以後は異文である。直衣については、公卿は位階によって決められた色の直衣、あるいは任を拝領して始め、先規にてこれを用いて着用する。殿上人は直衣、羽林家のほかはこれを着用しない。殿上人といっても、大臣の息子また孫は位階によって決められた色を着用すると聴く。直衣直垂については、随所着用である。小袖については公卿の最高の礼装の時は、模様のある絹織物を着用する。殿上人は模様のある絹織物は着用しない。平織りの絹織物については羽林家は36歳までこれを着用する。このほかは、これを着用しない。表は紅色で、裏は紫色のかさねについては、16歳3月まで諸家はこれを着用し、それ以後は、平絹を着用する。冠16歳未満は透額とする。夏の麻の着物については、公卿は端午の節句(5月5日)より、殿上人は4月中の酉の日の賀茂祭より、着用するのは普通のことである。
一、諸家の昇進の順序は、その家々の旧例を守って、報告せよ。ただし、学問、朝廷や公家の儀式・行事・官職などに関する知識、歌道の学問に勤め励むことを命じる。その他.、国家や朝廷のために一身をささげて働くことを重ねた者は、順序をとびこえているといっても、上位の者の推挙によって官につかせたり、位を上げたりするべきである。下道真備(吉備真備)は従八位下ではあったけれど、才智がすぐれていたため右大臣を拝任した、もっとも手本となる。苦労して勉学に励んだ成果は捨ててはならないことである。
一、関白・武家伝奏・奉行職が申し渡した命令に堂上家・地下家の公家が従わないことがあれば流罪にするべきである。
一、罪の軽重は名例律が守られるべきである。
一、摂家門跡は、親王門跡の次の席次とする、摂家は、現職の三公(太政大臣、左大臣、右大臣)の時には親王より上の席次といっても、辞任後は親王の次の席次と定められたことにより、これに准ずる。ただし、皇子兄弟のほかの門跡は親王宣下があってはならないことである。門跡の室の位はそのお方によるべきである。先規を考えれば、僧侶の中の親王は希なことである、近年非常に多くなっているが、その言われはない。摂家門跡と親王門跡のほかの門跡は准門跡とするべきである。
一、僧正(大、正、権)・門跡・院家は先例を守るべきことである。平民に至りては、卓越した才能のある人を、稀にこれを任命することがあるといっても、准僧正であるべきだ。ただし、国王大臣の師範とするものは特別のこととする。
一、門跡については、僧都(大、正、少)・法印を叙任することである。院家は、僧都(大、正、少、権)、律師、法印、法眼、先例から叙任するのはもちろんである。ただし、平人は本寺の推学の上、さらに才能のある人を選んで命じるべきである。
一、紫衣が勅許される住職は以前は少なかった。近年はやたらに勅許が行われている。これは(紫衣の)席次を乱しており、ひいては官寺の名を汚すこととなり、はなはだよろしくないことである。今後はその能力をよく吟味して、修行の功徳を積んだ年数を厳重にして、学徳の高い者に限って、寺の住職として任命すべきである。
一、上人号のことは、修めた学問の広く深い人は、本寺として正確に判断して選んで申上してきた場合は、勅許されるべきである。ただし、そのお方が、仏法修行20年に及ぶ者は正とすること、20年未満の者は権とすること。みだらに、われがちに争い望むことが有る場合は、流罪にするべきである。

 右の旨は守らなければならない。

 慶長20年(1615年)7月 日

 昭 實(花押)
 秀 忠(花押)
 家 康(花押)
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