
その後、徳川慶喜に官職や領地の返還が命じられましたが、これに不満をもつ旧幕府軍と新政府軍との間で、翌年1月3日に、鳥羽・伏見の戦いが起きたものの、新政府軍の勝利に終わり、徳川慶喜が江戸に逃げ帰りました。そこで、1月7日にこの追悼令が出され、徳川慶喜を厳しく批判し、慶喜征討への協力を呼びかけることになります。
新政府は、全国を帰順させるため、鎮撫総督(翌月先鋒総督兼鎮撫使と改称)を各地に派遣し、これらの新政府軍と旧幕府軍との間で、東日本を中心に、戊辰戦争と呼ばれる戦いが、1869年(明治2)5月まで続けられ、新政府軍の勝利となりました。
以下に、「徳川慶喜追討令」の文書と御触書の写しを掲載しておきますので、ご参照下さい。