ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:徳川慶喜

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 今日は、幕末明治維新期の1868年(慶応4)に、新政府が「徳川慶喜追討令」を出した日ですが、新暦では1月31日となります。
 「徳川慶喜追討令」(とくがわよしのぶついとうれい)は、新政府によって出された、江戸幕府第15代将軍だった徳川慶喜を追討するよう各方面に命じたもので、高札としても掲げられました。1867年(慶応3)12月に、朝廷では西郷隆盛や公家の岩倉具視などが中心となって王政復古の大号令を出し、天皇を中心とする政府の樹立を宣言するクーデターが起こります。
 その後、徳川慶喜に官職や領地の返還が命じられましたが、これに不満をもつ旧幕府軍と新政府軍との間で、翌年1月3日に、鳥羽・伏見の戦いが起きたものの、新政府軍の勝利に終わり、徳川慶喜が江戸に逃げ帰りました。そこで、1月7日にこの追悼令が出され、徳川慶喜を厳しく批判し、慶喜征討への協力を呼びかけることになります。
 新政府は、全国を帰順させるため、鎮撫総督(翌月先鋒総督兼鎮撫使と改称)を各地に派遣し、これらの新政府軍と旧幕府軍との間で、東日本を中心に、戊辰戦争と呼ばれる戦いが、1869年(明治2)5月まで続けられ、新政府軍の勝利となりました。
 以下に、「徳川慶喜追討令」の文書と御触書の写しを掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「徳川慶喜追討令」1868年(慶応4)1月7日

正月七日征討大號令

德川慶喜天下ノ形勢不得已ヲ察シ大政返上將軍職辭退相願候ニ付
朝議ノ上斷然被
聞食候處只大政返上ト申而已ニテ於
朝廷土地人民御保チ不被遊候テハ
御聖業難被爲立候ニ付尾越二藩ヲ以テ其實効御訊問被爲遊候節於慶喜ハ奉畏候得共麾下并會桑ノ者共承服不仕萬一暴擧可仕哉モ難計ニ付只管鎭撫ニ盡力仕居候旨尾越ヨリ及言上候間
朝廷ニハ慶喜眞ニ恭順ヲ盡シ候樣被
思食既往ノ罪不被爲問寬大ノ御處置可被
仰付候處豈圖ランヤ大阪城ヘ引取候ハ素ヨリノ詐謀ニテ去ル三日麾下ノ者ヲ引率シ剩前々御暇被遣候會桑等ヲ先鋒トシ
闕下ヲ奉犯候勢現在彼ヨリ兵端ヲ開キ候上ハ慶喜反状明白始終奉欺
朝廷候段大逆無道最早於
朝廷御宥恕ノ道モ絶果不被爲得已追討被
仰付候兵端既ニ相開候上ハ速ニ賊徒御平治萬民塗炭ノ苦ヲ被爲救度
叡慮ニ候間今般仁和寺宮征討將軍ニ被任候ニ付テハ是迄偸安怠情ニ打過或ハ兩端ヲ抱キ候者ハ勿論假令賊徒ニ從ヒ譜代臣下ノ者タリ共悔悟憤發爲國家盡忠ノ志有之候輩ハ寬大ノ思食ニテ御採用可被爲在候依戰功此行末德川家ノ儀ニ付歎願ノ儀モ候ヘハ其筋ニヨリ御許容可有之候然ルニ此御時節ニ至リ不

 辨大義賊徒ト謀ヲ通シ或ハ潛居爲致候者ハ朝敵同樣嚴刑ニ可被處候間心得違無之樣可致候事
 但シ征討大將軍被置候上ハ即時前件號令可被發ハ勿論ニ候ヘ共猶旗下粗暴ノ徒壅蔽爰ニ至リ候事哉ト彼是深重之
 思召ヲ以御遲延ノ處三日ヨリ今七日ニ至リ坂兵日々雖敗走益出兵呉々不得止斷然本文ノ通被仰出候各藩陪從吏卒ニ至ル迄方向ヲ定メ爲天下奉公可有之候事

  「太政類典・第一編」より

徳川征伐御触書之写

徳川慶喜天下之形勢不得止察候、
大政返上将軍職辞退相願候ニ付、
朝議之上断然被聞食候処、只大政返上ト
申而已ニテ於朝廷土地人民御保被遊候テハ、
御聖業難被為立候ニ付、尾越二藩を以
其実効御訊聞被遊候節、於慶喜ハ奉
畏入候得共、麾下并会桑之者共承服不仕、
万一暴挙可仕哉モ難計候ニ付、只管鎮撫ニ尽力
仕居候旨、尾越より及言上候間、
朝廷ニハ慶喜真ニ恭順相尽候様、被思召既往之
罪不被為間寬太之所置可被仰付之処、豈図哉
大坂城へ引取候者素より詐謀、剰前之御暇

  松田三左衛門家文書「徳川征伐御触書之写、神祗御改御触書之写」より

〇戊辰戦争(ぼしんせんそう)とは?

 幕末明治維新期の1868年(慶応4/明治元)から1869年( 明治2)にかけて、明治政府を樹立した薩摩藩・長州藩らを中心とした新政府軍と、旧幕府勢力および奥羽越列藩同盟が戦った内戦で、鳥羽伏見の戦いから始まり、各地で戦乱が起きましたが、越後と東北、北海道で激戦となりました。名称は、慶応4年/明治元年の干支が戊辰であることに由来しています。これにより、明治政府が国内を掌握し、明治維新の改革が進められることになります。

☆戊辰戦争関係略年表(日付は旧暦です)

<1868年(慶応4/明治元)>

・1月3日 「鳥羽伏見の戦い」で「戊辰戦争」が始まる 
・1月6日 徳川慶喜が大坂城を脱出し、海路で江戸へ逃れる 
・1月7日 新政府が「徳川慶喜追討令」を出す
・2月12日 徳川慶喜は、上野寛永寺に入って謹慎し、恭順を示す
・3月14日 西郷隆盛と勝海舟の会談が行われ、江戸での戦闘が回避される
・4月11日 江戸開城が無血で行われる
・閏4月11日 奥羽諸藩による白石列藩会議が始まる
・5月3日 奥羽25藩が「奥羽列藩同盟」を結成する
・5月6日 長岡藩など北越6藩が新たに加わり「奥羽越列藩同盟」となる 
・5月15日 上野山にいる彰義隊を新政府軍が一日で破る(上野戦争)
・7月14日 白河口の戦いで、新政府軍が勝利する
・7月29日 奥州の二本松城、越後の長岡城が陥落する
・8月23日 新政府軍が会津藩若松城下に侵攻し、会津側は若松城で籠城戦を開始する
・9月8日 明治に改元される
・9月9日 米沢藩が新政府軍に寝返える
・9月10日 仙台藩が降伏する
・9月22日 会津藩が降伏し、「会津戦争」が終わる
・10月26日 榎本武揚軍が箱館を占領する
・11月15日 暴風雨のため榎本武揚軍の旗艦開陽丸が沈没する

<1869年(明治2)>

・3月9日 箱館の榎本武揚軍追討のため、新政府軍艦隊が江戸湾を出発する
・5月11日 箱館総攻撃が始まる
・5月18日 五稜郭が陥落し、旧幕府軍が降伏して「箱館戦争」が終結し、「戊辰戦争」が終わる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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 今日は、幕末明治維新期の1867年(慶応3)に、土佐藩の後藤象二郎らが、前藩主・山内豊信(容堂)の「大政奉還建白書」を幕府に提出した日ですが、新暦では10月29日となります。
 土佐藩の大政奉還建白書(とさはんのたいせいほうかんけんぱくしょ)は、坂本龍馬の大政奉還を含めた構想「船中八策」に、後藤象二郎が共感し、前土佐藩主山内豊信(容堂)に大政奉還を進言、これをもとに公武合体派の容堂名により、江戸幕府第15代将軍徳川慶喜に提出したものでした。内容は、諸外国の脅威が迫る中で国内が分裂状態に陥っている現状を憂い、「王政復古の業を建てざるべからざるの一大機会と存じたてまつり候」と説いたものです。また、広島藩からも10月6日に大政奉還建白書が出されました。
 これらの建白を受けて、慶喜は幕府有司に意見を聴き、10月13日に在京の40藩の重臣(諸侯)を二条城大広間に集めて意見を求め、翌14日に「大政奉還の上表文」を朝廷に出します。しかし、大政奉還後に想定された諸侯会議が開催されない内に、討幕派による王政復古のクーデターが起き、慶喜の辞官納地を決定し、戊辰戦争へと向かうことになりました。
 以下に、前土佐藩主・山内豊信(容堂)の「大政奉還建白書」と別紙を全文掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇土佐藩「大政奉還建白書」 1867年(慶応3年10月3日)提出

山内豊信慶喜ニ致ス書

誠惶誠恐[1]謹テ建言[2]仕候、天下憂世[3]ノ士、口ヲ噤シテ敢テ不言ニ至リ候ハ、誠ニ可懼ノ時ニ候、朝廷、幕府、公卿[4]、諸侯[5]旨趣[6]相違フノ状アルニ似タリ、誠ニ可懼ノ事ニ候、此二懼ハ我ノ大患[7]ニシテ、彼ノ策於是乎成矣ト可謂候、如此事態ニ陷リ候ハ、其責任竟誰ニ可歸ヤ、併シ既往ノ是非曲直[8]ヲ喋々辧難[9]ストモ何ノ益カアラン、唯願クハ大活眼[10]大英斷ヲ以テ、天下萬民ト共ニ同心協力[12]公明正大ノ道理ニ歸シ、萬世[13]ニ亙テ不愧、萬國ニ臨ンテ恥[14]サルノ大根柢[15]ヲ建テサルヘカラス、此旨趣[6]、前月上京ノ砌ニモ追々建言[2]仕候心得ニ御坐候ヘトモ、何分阻隔[16]ノ筋ノミ有之、其内不圖[17]モ舊疾再發仕、不得止歸國仕候以來、起居[18]動作ト雖モ不隋意[19]ノ事ニ成リ至リ、再上ノ儀、暫時相調不申候ハ、誠ニ遺憾ノ次第ニテ、只管此事ノミ日夜焦心苦思[20]仕罷在候、因テ愚存[21]ノ趣、一二家來共ヲ以テ言上仕候、唯幾重ニモ公明正大ノ道理ニ歸シ、天下萬民ト共ニ、皇國數百年ノ國體[22]ヲ一變シ、至誠[23]ヲ以テ萬國ニ接シ、王政復古[24]ノ業ヲ建テサルヘカラサルノ一大機會ト奉存候、猶又別紙[25]得度御細覽被仰付度、懇々[26]ノ至情[27]難默止、泣血流涕[28]ノ至ニ不堪候。

 慶應三年丁卯九月             松平容堂

別紙

宇内[29]ノ形勢、古今ノ得失ヲ鑒シ[30]、誠惶誠恐[1]頓首再拜[31]、伏惟[32] 皇國[33]興復[34]ノ基業[35]ヲ建テント欲セハ、國體[22]ヲ一定シ、政度[36]ヲ一新シ、王政復古[24]、萬國萬世[13]ニ不恥者ヲ以テ本旨[37]トスヘシ、奸ヲ除キ良ヲ擧ケ、寬恕ノ政[38]ヲ施行シ、朝幕諸侯[39]齊ク[40]此大基本ニ注意スルヲ以テ、方今[41]急務ト奉存候、前月四藩上京仕、一二獻言[42]ノ次第モ有之、容堂儀ハ病症ニ因テ歸國仕候以來、猶又篤ト熟慮[43]仕候ニ、實ニ不容易[44]時態ニテ、安危[45]ノ決今日ニ有之哉ニ愚慮[46]仕候、因テ早速再上仕、右ノ次第一々乍不及[47]警言[48]仕候志願[49]ニ御坐候處、今ニ至テ病症難澀仕、不得已微賤[50]ノ私共ヲ以テ、愚存[21]ノ趣乍恐言上爲仕候、

一天下ノ大政ヲ議定スル全權ハ朝廷ニアリ、乃我 皇國[33]ノ制度法則一切萬機[51]、必ス京師[52]ノ議政所[53]ヨリ出ツヘシ、
一議政所[53]上下ヲ分チ、議事官[54]ハ上公卿[4]ヨリ下陪臣[55]庶民ニ至ル迄、正明[56]純良[57]ノ士ラ選擧スヘシ、
一庠序[58]學校[59]ヲ郡會[60]ノ地ニ設ケ、長幼ノ序ヲ分チ、學術技藝[61]ヲ敎導[62]セサルヘカラス、
一一切外蕃[63]トノ規約ハ、兵庫港[64]ニ於テ、新ニ 朝廷ノ大臣ト諸藩ト相議シ、道理明確之新條約ラ結ヒ、誠實ノ商法ヲ行ヒ、信義ヲ外藩[65]ニ失セサルヲ以テ主要トスヘシ、
一海陸軍備ハ一大至要[66]トス、軍局ヲ京攝ノ間[67]ニ築造シ、朝廷守護ノ親兵[68]トシ、世界ニ比類ナキ兵隊ト爲ンコトヲ要ス、
一中古[69]以來、政刑[70]武門[71]ニ出ツ、洋艦來港[72]以後、天下紛紜[73]、國家多難、於是、政權梢動ク、是自然ノ勢ナリ、今日ニ至リ、古來ノ舊弊[74]ヲ改新シ、枝葉[75]ニ馳セス、小條理[76]ニ止マラス、大根基[77]ヲ建ルラ以テ主トス、
一朝廷ノ制度法則、從昔ノ律例[78]アリト雖、方今[41]ノ時勢ニ參合[79]シ、間或當然ナラサルモノアラン、宜ク其弊風[80]ヲ一新シ改革シテ、地球上ニ獨立スルノ國本[81]ヲ建ツヘシ、
一議事ノ士大夫[82]ハ私心ヲ去リ、公平ニ基キ、術策ヲ設ケス、正直ヲ旨トシ、既往ノ是非曲直[8]ヲ問ハス、一新更始[83]、今後ノ事ヲ見ルヲ要ス、言論多ク、實效[84]少キ通弊[85]ヲ踏ムヘカラス、

右ノ條目、恐ラクハ當今ノ急務、内外各般ノ至要、是ヲ捨テゝ他ニ求ムヘキモノハ有之間敷ト奉存候、然則、職ニ當ル者、成敗利鈍ヲ不顧、一心協力、萬世ニ亙テ貫徹致シ候樣有之度、若或ハ從來ノ事件ヲ執リ、辨難抗論、朝幕諸侯、互ニ相爭ノ意アルハ尤然ルへカラス、是則、容堂ノ志願ニ御坐候、因テ愚昧不才ヲ不顧、大意建言仕候、就テハ乍恐是等ノ次第、空シク御聽捨ニ相成候テハ、天下ノ爲遺憾不鮮候、猶又、此上寬仁ノ御趣意ヲ以テ、微賤ノ私共ト雖モ、御親問被 仰付度奉懇願候。
                  松平土佐守内
 慶應三年丁卯九月
                     寺村左膳
                     後藤象二郞
                     福岡藤次
                     神山佐多衞

    『復古記』巻一より

【注釈】

[1]誠惶誠恐:せいこうせいきょう=心からおそれかしこまることの意味。
[2]建言:けんげん=政府・上役などに対して意見を申し立てること。また、その意見。
[3]憂世:ゆうせい=世の中や国家の安危を憂えること。憂国。
[4]公卿:くぎょう=公と卿の総称。公は太政大臣・左大臣・右大臣、卿は大納言・中納言・参議および三位以上の朝官をいうが、参議は四位も含める。
[5]諸侯:しょこう=諸大名のこと。
[6]旨趣:ししゅ=事のわけ。おもむき。内容。趣意。
[7]大患:たいかん=大きな心配事。
[8]是非曲直:ぜひきょくちょく=よいことと悪いことと曲がっていることとまっすぐなこと。物事のよしあしや正邪。
[9]辧難:べんなん=ことばで非難すること。論難。
[10]活眼:かつがん=生きた眼。物の道理を見抜く見識。物事を見抜く能力。
[11]英斷:えいだん=きっぱりと事を決めること。また、すぐれた決断。
[12]同心協力:どうしんきょうりょく=心を一つにし、協力し合い、皆で団結して事にあたること。
[13]萬世:ばんせい=限りなく何代も続く永い世。万代。永遠。
[14]不愧:ふかい=恥じない。
[15]根柢:こんてい=物事の根本(こんぽん)。基礎。よりどころ。
[16]阻隔:そかく=じゃまをして、へだたりをつくること。また、へだたりができること。
[17]不圖:はからず=思いもよらず。不意に。ふと。
[18]起居:ききょ=立ったり、すわったりすること。立ち居ふるまい。転じて、日常の生活。
[19]不隋意:ふずいい=思いのままにならないこと。意志のとおりにならないこと。また、そのさま。
[20]焦心苦思:しょうしんくし=心を痛めて、あれこれ思いをめぐらし悩むこと。
[21]愚存:ぐぞん=自分の考えをへりくだっていう語。愚見。愚意。愚案。
[22]國體:こくたい=国のあり方。国家の根本体制。
[23]至誠:しせい=きわめて誠実なこと。また、その心。まごころ。
[24]王政復古:おうせいふっこ=政治体制が、君主制から武家政治、共和制などに変わったのち、再びもとの君主制に戻ること。
[25]別紙:べっし=大政奉還後の新政体綱領八ヶ条のこと。
[26]懇々:こんこん=心をこめたさま。また、親切に繰り返し言うさま。
[27]至情:しじょう=誠心誠意の感情。まごころ。赤心。
[28]泣血流涕:きゅうけつりゅうてい=血の涙を流すこと。
[29]宇内:うだい=天下。世界。
[30]鑒シ:かんし=かんがみて。手本と照らし合わせてよく考えて。見分けて。
[31]頓首再拜:とんしゅさいはい=手紙や書簡で敬意を表して用いる言葉で、頭を地面に打ちつけて、二度続けてお辞儀する意味。
[32]伏惟:ふくい=謹んで私が考えてみると。
[33]皇國:こうこく=天皇が統治する国。
[34]興復:こうふく=おとろえたものを、もとの状態にたてなおすこと。再興すること。復興。
[35]基業:きぎょう=基礎となる事業や業績。
[36]政度:せいど=国家・政治を動かす一定のきまり。憲法・法律・政令・条例など。
[37]本旨:ほんし=本来の趣旨。もとの主旨。
[38]寬恕ノ政:かんじょのせい=心が広く思いやりがある政治。
[39]朝幕諸侯:ちょうばくしょこう=朝廷・幕府・諸大名。
[40]齊ク:ひとしく=そろって。平らに。揃えて。
[41]方今:ほうこん=ただいま。現在。現今。
[42]獻言:けんげん=主君や目上の人に意見を申し上げること。また、その意見。
[43]熟慮:じゅくりょ=よくよく考えること。十分に考えをめぐらすこと。熟考。
[44]不容易:ふようい=容易ではないこと。たいへんなこと。難しいこと。
[45]安危:あんき=安全か危険かの瀬戸際の状態。
[46]愚慮:ぐりょ=おろかな考え。また、自分の考えをへりくだっていう語。愚考。
[47]乍不及:およばずながら=不十分ではあるが。完全にはできないが。行き届かないが。およばぬながら。
[48]警言:けいげん=いましめることば。さとす言葉。
[49]志願:しがん=ある事をこころざし願うこと。望み願うこと。また、こころざして願い出ること。
[50]微賤:びせん=身分・地位が低いこと。
[51]一切萬機:いっさいばんき=すべての諸々の重要な政務。特に、天皇の政務。天下の政治。
[52]京師:けいし=みやこ。帝都。
[53]議政所:ぎせいしょ=討議によって政治を行うところ。
[54]議事官:ぎじかん=議政所において公議に参与する議員。
[55]陪臣:ばいしん=臣下の、また臣。家来の家来。
[56]正明:せいめい=正しく明らかなこと。正しくて公明なこと。また、そのさま。
[57]純良:じゅんりょう=純粋で善良であること。まじりけがなく質がよいこと。また、そのさま。
[58]庠序:しょうじょ=郷校を中国周代では「庠」、殷(いん)代では「序」といったところからそれを意味する。
[59]學校:がっこう=昌平黌や藩校などの教育機関。
[60]郡會:ぐんかい=行政単位として国の下にあり、郷、里、村などを含むまとまり。
[61]學術技藝:がくじゅつぎげい=学問・技術。
[62]敎導:きょうどう=教え導くこと。
[63]外蕃:がいばん=外国や外国人をさげすんでいった語。
[64]兵庫港:ひょうごこう=現在の兵庫県神戸港の母胎となった港湾。
[65]外藩:がいはん=外蕃。外国や外国人をさげすんでいった語。
[66]至要:しよう=最もだいじなこと。また、そのさま。
[67]京攝ノ間:きょうせつのあいだ=京都と摂津国の間。
[68]親兵:しんぺい=君主などの側近くに仕える兵。また、天皇の身辺を護衛する兵。
[69]中古:ちゅうこ=その時点からある程度年代のへだたった昔。なかむかし。中世。
[70]政刑:せいけい=政治と刑罰。
[71]武門:ぶもん=武士の家筋。武家。
[72]洋艦來港:ようかんらいこう=1854年(安政元)にアメリカ使節ペリー艦隊が下田に来航したことを指す。
[73]紛紜:ふんうん=物事の入り乱れていること。事がもつれること。また、その乱れ。
[74]舊弊:きゅうへい=古い習慣・制度などの弊害。
[75]枝葉:しよう=枝(えだ)と葉(は)。転じて、主要でないものや事柄。
[76]條理:じょうり=物事のすじみち。もののことわり。物事の道理。
[77]根基:こんき=おおもと。ねもと。根本。根源。
[78]律例:りつれい=律(永久不変の根本法)と例(時代によって作られる条例)。刑法。また、広く法規をいう。
[79]參合:さんごう=いろいろのものを照らし合わせて考えること。
[80]弊風:へいふう=悪い風俗や習慣。悪習。
[81]國本:こくほん=国家の基本。国の基礎。国基(こっき)。
[82]士大夫:したいふ=中国で、士と大夫。のち、知識階級や科挙に合格して官職にある者をさした。
[83]一新更始:いっしんこうし=新たに物事を始めるにあたって、古いものを全て新しくすること。
[84]實效:じっこう=実際に現れる効力や効果。実効。
[85]通弊:つうへい=全般に共通して見られる弊害。

<現代語訳>

山内豊信が徳川慶喜にお届けする書

恐れかしこみ謹んで意見を申し上げます、天下の安危を憂う者として、口をとざして敢えて何も言わなかったならば、誠におそろしき時であります。朝廷、幕府、公卿、諸大名、趣旨は相異なる状況にあるに似て、誠におそろしき事であります。ここに恐れるは私の大きな心配事であって、薩長の討幕運動がここにおいて成就するかということであります。このような事態に陥ったことは、その責任は結局誰にあるのでしょうか、しかれどもそれまでの物事のよしあしや正邪をしきりに非難することは何の利益があるというのでしょうか、ただ願うのは大いなる見識と大いなる決断をもって、天下の人々と共に心を一つにして協力し合い、公明正大の道理に基づいて、永きにわたって恥じず、諸外国に臨んでも恥じない大いなる基礎を建てないわけにはいかないことです。この趣旨は、前月上京した折にも追々意見を申し上げたように心得てはいますが、なにぶん隔たりが出来ることが有り、そのうち思いもよらず古い病が再発し、やむを得ず帰国して以来、日常の生活の動作といっても思いのままにならない事になり至って、再び上京することは、しばらくは出来かねる状態で、誠に遺憾の次第であって、ひたすらこの事のみ日夜心を痛めて、あれこれ思いをめぐらし悩んでいます、よって愚見の趣旨は、一つ二つ家来共によって言上させます。ただ幾重にも公明正大の道理に基づき、天下の人々と共に、天皇の国としての数百年の国のあり方を一変し、真心をもって諸外国に接し、王政復古の事業を建てねばならない一大機会と考えます。なおまた、別紙をとくとお命じいただきたく、切々たる真心を止めることが出来ず、血の涙を流すことに至るのを耐えることが出来ないのです。

 慶応3年(1867年)丁卯9月             松平容堂

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 今日は、1868年(慶応4)に、戊辰戦争の幕開けである鳥羽伏見の戦いが始まった日ですが、新暦では1月27日となります。
 この戦いでは、1月3日に、新政府軍五千人と旧幕府軍一万五千人が、山城国の鳥羽・伏見(現在の京都市南区・伏見区)で激突しましたが、新政府軍の勝利となりました。
 それで、前将軍徳川慶喜は海路、江戸へ逃れたため、討幕派の主導権が確定し、その後、慶喜追討の東征軍が組織され、東山道・東海道・北陸道に分かれ2月初旬には東進を開始することとなったのです。
 この戦いに関する史跡としては、長円寺(正門前に「戊辰役東軍戦死者之碑」、境内に「新撰組ゆかりの閻魔王」「戊辰役東軍戦死者埋骨地」がある)、伏見奉行所跡(旧幕府軍が駐屯したが、石碑のみ残る)、御香宮神社(新政府軍の陣所)、東本願寺伏見別院(会津藩の陣所だったが、石碑のみ残る)、文相寺(「戊辰役東軍戦死者埋骨地」の碑がある)、妙教寺(境内に「史跡淀古城戊辰役砲弾貫通跡」の碑と「戊辰役東軍戦死者之碑」、本堂に「東軍戦死者の位牌」を残す)、戊辰役東軍西軍激戦之地碑(府道124号線脇にある)、鳥羽伏見戦跡の碑(旧小枝橋)などがあります。

〇戊辰戦争とは?

 幕末明治維新期の1868年(慶応4/明治元)から1869年( 明治2)にかけて、明治政府を樹立した薩摩藩・長州藩らを中心とした新政府軍と、旧幕府勢力および奥羽越列藩同盟が戦った内戦で、鳥羽伏見の戦いから始まり、各地で戦乱が起きましたが、越後と東北、北海道で激戦となりました。
 名称は、慶応4年/明治元年の干支が戊辰であることに由来しています。これにより、明治政府が国内を掌握し、明治維新の改革が進められることになります。

☆戊辰戦争関係年表

<1868年(慶応4/明治元)>
・1月3日 「鳥羽伏見の戦い」で「戊辰戦争」が始まる
・1月6日 徳川慶喜が大坂城を脱出し、海路で江戸へ逃れる
・2月12日 徳川慶喜は、上野寛永寺に入って謹慎し、恭順を示す
・3月14日 西郷隆盛と勝海舟の会談が行われ、江戸での戦闘が回避される
・4月11日 江戸城が無血開城される
・5月3日 奥羽25藩が「奥羽列藩同盟」を結成する
・5月6日 長岡藩など北越6藩が新たに加わり「奥羽越列藩同盟」となる
・5月15日 上野山にいる彰義隊を新政府軍が一日で破る
・7月14日 白河口の戦いで、新政府軍が勝利する
・7月29日 奥州の二本松城、越後の長岡城が陥落する
・8月23日 新政府軍が会津藩若松城下に侵攻し、会津側は若松城で籠城戦を開始する
・9月8日 明治に改元される
・9月9日 米沢藩が新政府軍に寝返える
・9月10日 仙台藩が降伏する
・9月22日 会津藩が降伏し、「会津戦争」が終わる
・10月26日 榎本武揚軍が箱館を占領する
・11月15日 暴風雨のため榎本武揚軍の旗艦開陽丸が沈没する

<1869年(明治2)>
・3月9日 箱館の榎本武揚軍追討のため、新政府軍艦隊が江戸湾を出発する
・5月11日 箱館総攻撃が始まる
・5月18日 五稜郭が陥落し、旧幕府軍が降伏して「箱館戦争」が終結し、「戊辰戦争」が終わる
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 今日は、幕末明治維新期の1867年(慶応3)に、第15代将軍徳川慶喜が朝廷に政権返上し、大政奉還された日ですが、新暦では11月9日となります。
 大政奉還は、江戸幕府第15代将軍徳川慶喜が政権を朝廷に返上することを申し出て、翌日朝廷がそれを許可した政治的事件です。
 公武合体派の前土佐藩主山内豊信の建白により、慶喜は、幕府有司に意見を聴き、13日に在京の40藩の重臣(諸侯)を二条城大広間に集めて意見を求め、翌14日に「大政奉還の上表文」を朝廷に出しました。
 しかし、大政奉還後に想定された諸侯会議が開催されない内に、討幕派による王政復古のクーデターが起き、慶喜の辞官納地を決定し、戊辰戦争へと向かうことになります。

〇大政奉還の上表文 (全文) 1867年11月9日(慶応3年10月14日)

大政奉還の上表文  

臣慶喜、謹而皇國時運之沿革ヲ考候ニ、昔王綱紐ヲ解キ相家權ヲ執リ、保平之亂政權武門ニ移テヨリ、祖宗ニ至リ更ニ寵眷ヲ蒙リ、二百餘年子孫相承。臣其職ヲ奉スト雖モ、政刑當ヲ失フコト不少。今日之形勢ニ至候モ、畢竟薄德之所致、不堪慚懼候、況ヤ當今、外國之交際日ニ盛ナルニヨリ、愈朝權一途ニ出不申候而ハ、綱紀難立候間、從來之舊習ヲ改メ、政權ヲ朝廷ニ奉歸、廣ク天下之公議ヲ盡シ、聖斷ヲ仰キ、同心協力、共ニ皇國ヲ保護仕候得ハ、必ス海外萬國ト可並立候。臣慶喜國家ニ所盡是ニ不過ト奉存候。乍去猶見込之儀モ有之候得ハ、可申聞旨、諸侯ヘ相達置候、依之此段謹而奏聞仕候。以上。

                      「維新史」より

<現代語訳>

大政奉還の上表

天皇の臣下である慶喜が、謹んで皇国の時運の変遷を考えてみますと、昔天皇の政治が乱れ藤原氏が権力を握り、保元・平治の乱を機に政権が武家に移ってから、私の祖先(徳川家康)に至りさらに朝廷の寵愛を受け、二百余年も子孫が将軍職を受け継いできました。そして私がその職を継いだのですが、行政や司法において当を得ないことが少なくないのです。今日の形勢になりましたのも、結局は私の不徳の致すところで、恥じ入り恐れるばかりです。まして最近は、外国との交際が日々盛んになり、いよいよ朝廷に権力が統一されなければ、国家を治めて保持することが難しくなりましたから、従来の旧習を改め、政権を朝廷にお返しし、広く天下の議論をつくし、天皇のご英断を仰ぎ、心を一つにして協力し、皇国を守っていったならば、必ず海外諸国と肩を並べることができるでしょう。天皇の臣下である慶喜が国家につくすことはこれ以上のものはないと考えます。しかしながらなお今後どうすべきかの意見があったならば、聞くので申し述べよと、諸大名に伝えてあります。これを以て本件につき謹んで申し上げます。以上

【注釈】
[1]臣慶喜:しんよしのぶ=江戸幕府第15代将軍徳川慶喜の自称。
[2]皇國:こうこく=天皇の国、つまり日本を表す。
[3]王綱:おうこう=天皇の政治。
[4]紐ヲ解キ:ちゅうをとき=乱れること。
[5]相家:しょうか= 大臣家(藤原氏)。
[6]權ヲ執リ:けんをとり=権力を握ること。
[7]保平之亂:ほへいのらん=保元の乱(1156年)・平治の乱(1159年)。
[8]武門:ぶもん=武士の家筋。武家。
[9]祖宗:そそう=徳川氏の祖先(初代将軍徳川家康のこと)。
[10]寵眷:ちょうけん=寵愛して特別に目をかけること。寵愛を受けること。
[11]政刑:せいけい=政治と刑罰、つまり行政と司法のこと。
[12]畢竟:ひっきょう=結局。要するに。
[13]薄德:はくとく=徳の少ないこと。徳のうすいこと。
[14]慚懼:ざんく=恥じ、おそれること。
[15]朝權:ちょうけん=朝廷の権力。
[16]綱紀:こうき=国家を治める大法と細則。国家を治めること。
[17]聖斷:せいだん=天皇の裁断。
[18]同心協力:どうしんきょうりょく=心を一つにして協力すること。
[19]萬國:ばんこく=世界の国々。あらゆる国。
[20]見込之儀:みこみのぎ=どのようにすべきかの意見。
[21]可申聞旨:もうしきくべきむね=申し述べるように。
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