ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:徳川家綱

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 今日は、江戸時代前期の1651年(慶安4)に、兵学者・由井正雪らの幕府顛覆計画(慶安の変)が発覚した日ですが、新暦では9月7日となります。
 慶安の変(けいあんのへん)は、由井正雪、丸橋忠弥、金井半兵衛らが江戸幕府を転覆しようとした陰謀事件で、慶安事件、由井正雪の乱とも呼ばれてきました。江戸幕府第3代将軍徳川家光の時代までは、いわゆる武断政治が行われた結果、多数の大名の改易・減封が続いて多くの浪人が生じたものの、元和偃武(えんぶ)以降、家臣召抱えが控えられるようになり、市中に浪人があふれることとなります。
 一方、慶安年間 (1648~52年) には、大地震や洪水が続発し、世上は極度に不安の相を呈し、さらに、1651年(慶安4年4月20日)に家光が亡くなり、幼少の家綱が第4代将軍となり、幕政にも隙が見られました。その間隙をついて、2千人とも言われる浪人を集め、丸橋忠弥らは江戸城を正雪らは駿府城を奪い。金井半兵衛らは大坂で騒乱をおこして、幕府の政道を改めようと計画します。
 しかし、同年7月23日に、江戸で密告をうけた町奉行が浪人丸橋忠弥を逮捕尋問したところ、幕府の転覆計画を自白して発覚しました。同月26日に、正雪は駿府の旅宿で捕手(とりて)に包囲され自殺、同月30日に由井正雪の死を知った金井半兵衛が大坂で自害、8~9月に関係者の大量逮捕と処刑が行われ、決着します。
 これを契機に、幕府は浪人対策を重視し、養子縁組の制を緩和(末期養子の禁の緩和)し、大名家断絶の機会を少なくし、浪人の発生を防ぐこととなりました。

〇慶安の変関係略年表(日付は旧暦です)

<1651年(慶安4)>
・4月20日 第3代将軍徳川家光が48歳で病死し、後を11歳の息子・徳川家綱が継ぐこととなる
・7月 先の三河刈谷城主松平定政が幕閣を糾弾して処罰される
・7月22日 幕府転覆計画実現のため由井正雪は江戸を出発する
・7月23日 町奉行が浪人丸橋忠弥を逮捕尋問したところ、幕府転覆計画を自白して発覚する
・7月25日 由井正雪が駿府に到着する
・7月26日 早朝、駿府町奉行所の捕り方に宿を囲まれ、由井正雪が自決する
・7月30日 由井正雪の死を知った金井半兵衛が大坂で自害する
・8月10日 丸橋忠弥が磔刑など一味とその親族35人が処刑される

☆由井 正雪(ゆい しょうせつ)とは?

 江戸時代前期の軍学者で、1605年(慶長10)に、駿河国由比(毛現在の静岡県静岡市清水区)の農業兼紺屋の家に生まれたと言われています(駿府説もあります)。数え年17歳で江戸の親類のもとに奉公へ出て、楠木正辰の弟子となり軍学を学び、その婿養子となりました。
 その後、神田に楠木流軍学塾「張孔堂」を開き、旗本や大名の家臣、浪人など多くの門人を集めます。1651年(慶安4)の江戸幕府第3代将軍徳川家光の死に際し、丸橋忠弥、金井半兵衛、熊谷直義らとはかり、浪人を糾合して、幕府覆滅を図りました。
 しかし、内部からの訴人によって事前に漏れて、一党が捕縛され、同年7月26日に、駿府茶町(現在の静岡県静岡市)の旅宿梅屋において、数え年47歳で自害します。この事件を慶安の変(由井正雪の乱)といい、大名の減封・改易で増加していた浪人救済のための企てとも言われてきました。
 この直後に第4代将軍となった徳川家綱が、武断政治を文治政治に転換する契機の一つになったとも考えられています。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1793年(寛政5)国学者塙保己一が江戸麹町に和学講談所を創立する(新暦8月29日)詳細
1842年(天保13)江戸幕府によって、「天保の薪水給与令」が出される(新暦8月28日)詳細
1867年(慶応3)小説家幸田露伴の誕生日(新暦8月22日)詳細
1918年(大正7)富山県魚津町の主婦らが米の県外積出し阻止の行動を起こす(米騒動の始まり)詳細
1939年(昭和14)小説家・教育評論家本庄陸男の命日詳細
1976年(昭和51)文化財保護審議会が7ヶ所を初の重要伝統的建造物群保存地区とする答申を出す詳細
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 今日は、江戸時代前期の1670年(寛文10)に、江戸幕府の命により、林羅山・林春斎らが編纂した『本朝通鑑』が完成し、第4代将軍徳川家綱に献じられた日ですが、新暦では7月28日となります。
 『本朝通鑑』(ほんちょうつがん)は、1644年(正保元)の江戸幕府第3代将軍徳川家光の命により、林羅山とその子林鵞峰が編纂した漢文・編年体の史書でした。中国の『資治通鑑』の名称と記述法に倣ったもので、前編(神代)3巻、正編(神武~宇多天皇)40巻、続編(醍醐~後陽成天皇)230巻、提要30巻、付録(神祇、皇運、朝職[上・下]、武職)5巻、目録1巻、引用書目1巻の計310巻から成っています。
 天皇一代ごとの編年体で、事実をありのままに記述し勧善懲悪の効果を期待したとされ、今日失われている多数の文書記録を含んでいる貴重な史書とされてきました。1670年(寛文10)に完成し、6月12日には中書本(最終的な清書本を作成する前の中間的な清書本)が将軍家へ提出され、清書本は紅葉山文庫と日光東照宮に納められています。
 独断を避け厳密な考証につとめ、儒学の実証的合理主義による歴史書の先駆をなすものとされ、いわゆる林家史学の代表ですが、これに異論をもつ水戸藩の『大日本史』などの編修を呼び起こしました。

〇林 羅山(はやし らざん)とは?

 江戸時代前期に活躍した朱子学派の儒学者です。安土桃山時代の1583年(天正11)8月に、京都四条新町で、加賀国の郷士の末裔で浪人だった父の子として生まれましたが、本名は信勝と言いました。1595年(文禄4)に臨済宗の建仁寺に入って、大統庵の古澗慈稽に、次に十如院の英甫永雄に就いて、儒学と仏教を学びます。
 1597年(慶長2)に家に戻ってからはもっぱら儒書に親しみ、朱子の章句、集注を研究して、朱子学(宋学)に傾倒していきました。1604年(慶長9)に、角倉素庵の仲介で藤原惺窩と出会い、論争後、その門に入ります。
 1607年(慶長12)惺窩の推挙で、徳川家康に仕え、以後秀忠、家光、家綱と4代の将軍の侍講を勤めました。その中で、儀式・典礼の調査、「武家諸法度」「諸士法度」「御定書百箇条」などの制定や『寛永諸家系図伝』、『本朝通鑑』などの伝記・歴史の編纂、古書・古記録の採集・校訂、外交文書の起草に関与し、幕政の整備に貢献します。
 また、1630年(寛永7)に上野忍岡に私塾・文庫と孔子廟を建てて、のち官学となった昌平坂学問所(昌平黌)の学問の礎を築きました。朱子学を幕府の官学とし、彼の子孫は林家と称し代々幕府の儒官となります。
 『三徳抄』、『大学解』、『神道伝授』、『本朝神社考』、『羅山文集』など多くを著しましたが、1657年(明暦3)1月23日に、江戸において、数え年75歳で亡くなりました。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1761年(宝暦11)江戸幕府第9代将軍徳川家重の命日(新暦7月13日)詳細
1867年(慶応3)坂本龍馬が長崎から兵庫へ向かう藩船の中で「船中八策」を著す(新暦7月13日)詳細
1910年(明治41)本州の宇野と四国の高松の間の鉄道連絡船(宇高連絡船)が運航開始する詳細
1961年(昭和36)「農業基本法」(昭和36年法律第127号)が公布・施行される詳細
1965年(昭和40)家永教科書裁判の第一次訴訟が提訴される詳細
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 今日は、江戸時代前期の1680年(延宝8)に、江戸幕府の第4代将軍徳川家綱が亡くなった日ですが、新暦では6月4日となります。
 徳川家綱(とくがわ いえつな)は、1641年(寛永18年8月3日)に、江戸城本丸において、第3代将軍徳川家光の長男(母は於楽之方増山氏)として生まれましたが、幼名は竹千代と言いました。1644年(正保元)に名を家綱と改め、翌年には、元服し、従三位権大納言となっています。
 1650年(慶安3)に世子となって西の丸へ移りましたが、翌年4月20日には、父・家光が48歳で亡くなり、数え年11歳にして、家督を継ぐこととなりました。その直後の7月に、慶安事変(由井正雪の乱)が起こりますが、年少で病弱だったため叔父の保科正之や松平信綱らが補佐して難局を乗り切り、外様大名に配慮して、末期養子の禁を緩和しています。
 同年10月2日に、江戸城において将軍宣下を受けて、第4代征夷大将軍に就任し、内大臣に任じられ、12月には、本丸へ移りました。1657年(明暦3)に江戸で明暦の大火(振袖火事)が起こり、死者10万人以上を出したものの、これを契機に江戸の都市改造を行ない、御三家の屋敷を江戸城外に転出させるとともに、それに伴って武家屋敷・大名屋敷、寺社を移転させています。
 1659年(万治2)に左大臣に任じられるのを辞退し、1663年(寛文3年)には、父・家光の13回忌にあたって日光へ社参しました。1664年(寛文4)に1万石以上の大名に対する領知朱印状を公布、翌年には、公家や寺社を対象とした領知目録を交付(寛文印知)、諸藩にも宗門改帳の作成を命じています。
 1666年(寛文6)に酒井忠清が大老に就任して実権を握り、翌年には、諸国巡見使の制を導入しました。1670年(寛文10)に箱根用水がつくられ、1671年(寛文11)には、河村瑞賢に命じて東回り航路、翌年には西回り航路をひらかせ、1673年(寛文13)には、「分地制限令」を制定しています。
 しかし、1680年(延宝8年5月初旬)に病に倒れて危篤状態に陥いり、末弟の館林藩主松平綱吉を養子に迎えて将軍後嗣とし、5月8日には、江戸城本丸において、数え年40歳で亡くなり、東叡山寛永寺に葬られました。

〇徳川家綱関係略年表(日付は旧暦です)

・1641年(寛永18年8月3日) 江戸城本丸において、第3代将軍徳川家光の長男(母は於楽之方(宝樹院)増山氏)として生まれる
・1644年(正保元年12月) 名を家綱と改める
・1645年(正保2年4月) 元服し、従三位権大納言となる
・1650年(慶安3年9月) 世子となって西の丸へ移る
・1651年(慶安4年4月20日) 父・家光が48歳で亡くなる
・1651年(慶安4年7月) 慶安事変(由井正雪の乱)が起こる
・1651年(慶安4年7月) 末期養子の禁を緩和する
・1651年(慶安4年10月2日) 江戸城において将軍宣下を受けて、第4代征夷大将軍に就任し、内大臣に任じられる
・1651年(慶安4年12月) 本丸へ移る
・1657年(明暦3年1月18日) 江戸で明暦の大火(振袖火事)が起こり、死者10万人以上を出す 
・1659年(万治2年4月) 左大臣に任じられるのを辞退する
・1663年(寛文3年) 父・家光の13回忌にあたって日光へ社参する
・1663年(寛文3年) 武家諸法度(寛文令)の口上で殉死を禁じる 
・1664年(寛文4年) 1万石以上の大名に対する領知朱印状を公布する
・1665年(寛文5年) 公家や寺社を対象とした領知目録を交付す(寛文印知)
・1665年(寛文5年) 諸藩にも宗門改帳の作成を命じる
・1666年(寛文6年) 酒井忠清が大老に就任する
・1667年(寛文7年閏2月18日) 諸国巡見使の制を導入する
・1670年(寛文10年) 箱根用水がつくられる 
・1671年(寛文11年) 河村瑞賢に命じて東回り航路をひらく 
・1672年(寛文12年) 河村瑞賢に命じて西回り航路をひらく 
・1673年(寛文13年6月) 分地制限令が制定される
・1680年(延宝8年5月初旬) 病に倒れ、危篤状態に陥る
・1680年(延宝8年5月8日) 江戸城本丸において、数え年40歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

840年(承和7)第53代の天皇とされる淳和天皇の命日(新暦6月11日)詳細
1911年(明治44)文部省編『尋常小学唱歌』第1学年用(20曲)が発行される詳細
1950年(昭和25)詩人・歌人・文芸評論家相馬御風の命日詳細
1955年(昭和30)東京都砂川町(現立川市)で米軍立川基地拡張反対総決起集会が開かれ砂川闘争が始まる詳細
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