ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:徳川家康

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 今日は、戦国時代の1570年(元亀元)に、姉川の戦いで織田信長・徳川家康連合軍が浅井・朝倉連合軍を破った日ですが、新暦では7月30日となります。
 姉川の戦い(あねがわのたたかい)は、近江国姉川付近(現在の滋賀県長浜市)で、約2万1千人の浅井・朝倉連合軍と約3万4千人の織田信長・徳川家康連合軍との間で行われた戦国合戦の一つでした。織田・徳川連合軍が勝利しましたが、序盤では浅井・朝倉連合軍が優勢だったものの、家康軍の奮闘により、形勢が逆転します。この結果、千人以上の死者が出て、姉川は血に染まり、朝倉軍は越前に敗走し、浅井軍も小谷城に逃げ込み、その後の浅井、朝倉両氏の滅亡の遠因となりました。
 姉川周辺には、野村の姉川戦死者之碑やちはら公園の姉川古戦場跡の碑、浅井氏の家臣三田村氏館跡、織田軍の本陣があった龍ヶ鼻陣所(茶臼山古墳)、浅井長政の家臣遠藤直経の墓などがあって、巡ってみると古の激しい闘いを追想することができます。
 以下に、『信長公記』巻三のあね川合戦の事を現代語訳・注釈付で掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇『信長公記』巻三

あね川合戦の事

 然処、朝倉孫三郎後巻[1]とし而、八千計ニ而罷立、大谷[2]之東をより山[3]とて東西へ長き山有、彼山ニ陣取候。同浅井備前人数五千計相加、都合一万三千之人数、六月廿七日之暁、致陣払罷退候と存候処、廿八日未明に、卅町計かゝり来、あね川[4]を前ニあて、野村之郷・三田村両郷へ移、二手に備候。西ハ三田村口一番合戦、家康卿むかハせられ、東ハ野村之郷備之手へ、信長御馬廻、又東者、美濃三人衆氏家・伊賀・稲葉、諸手[5]一度ニ切かゝり、六月廿八日卯刻[6]、丑寅[7]へ向而被蒙御一戦、御敵あね川[4]を越、信長之御手前へさし懸、推つ返しつ散〳〵に入乱れ黒煙立て、しのきをけつり鍔をわり、爰かしこにて思々の働有、終に追崩し[8]、手前において討捕る頸の注文、
 真柄十郎左衛門、此頸青木所右衛門是ょ討とる。前波新八・前波新太郎・小林端周軒・魚住竜文寺・黒坂備中・弓削六郎左衛門・今村掃部助・遠藤喜右衛門、此頸竹中久作是を討とる、兼而此首を取るべしと高言[9]あり。浅井雅楽助・浅井斎・狩野次郎左衛門・狩野三郎兵衛・細江左馬助・早崎吉兵衛、
此外宗徒者[10]千百討捕。大谷[2]迄五十町追討ち、麓を御放火。然りといへども、大谷[2]は高山節所[11]の地に候間、一旦に攻上り候事なり難く思食され、横山[12]へ御人数打返し、勿論横山の城降参致し退出。
木下藤吉郎定番として横山[12]へ入置かれ、(後略)

【注釈】

[1]後巻:うしろまき=味方を攻める敵を、さらにその背後から取り巻くこと。うしろづめ。後詰。
[2]大谷:おおたに=小谷城(現在の滋賀県長浜市湖北町伊部)のこと。
[3]をより山:およりやま=大依山(現在の滋賀県長浜市湖北町)のこと。 
[4]あね川:あねがわ=滋賀県北部の長浜市を流れ、琵琶湖に注ぐ、淀川水系の一級河川。
[5]諸手:もろて=多くのいろいろな部隊、または隊伍。諸隊。
[6]卯刻:うのこく=午前6時頃。 
[7]丑寅:うしとら=東北方向。
[8]追崩し:おいくずし=追いかけて攻めくずし。敵陣を破って追い散らし。
[9]高言:こうげん=大言壮語すること。自分を誇り、いばって言うこと。また、大げさなことば。
[10]宗徒者:むねともの=主だった者。
[11]節所:ふしどころ=重要なところ。要害。
[12]横山:よこやま=姉川の南岸にあった山城で、小谷城の南の重要な拠点に位置していた。

<現代語訳>

あね川合戦の事

 こうした中で、(敵方は)朝倉孫三郎が後詰として、八千ばかりの軍勢でやって来た、小谷城の東の大依山という東西に長き山があり、彼はこの山に陣取った。同じく浅井備前も人数五千ばかりの軍勢で加わった、合わせて一万三千の人数となり、6月27日の明け方に至って、(信長公は)陣を払って立ち退くと思われたところ、28日の未明に、30町ばかり攻めてきて、(敵方は)姉川を前にして、野村の郷・三田村の両郷へ移動し、二手に分かれて陣備えをした。西の三田村口には一番合戦として、家康公が迎撃され、東は野村の郷の備えには、信長公の御馬廻衆が向かい、また東は、美濃三人衆の氏家・伊賀・稲葉がこれにあたり、諸隊が一度に攻めかかり、6月28日午前6時頃に、東北方向って御一戦に及ばれた、御敵も姉川を越え、信長公の御手前まで押しかけ、押しつ返しつ、散々に入り乱れて黒煙を立て、しのぎを削り鍔を割り、ここかしこで思い思いの働きがあり、ついには敵陣を破って追い散らし、目の前にさらされた討捕られた首の書付は、
 真柄十郎左衛門(この首は青木所右衛門が討ち取った)、前波新八・前波新太郎・小林端周軒・魚住竜文寺・黒坂備中・弓削六郎左衛門・今村掃部助・遠藤喜右衛門(この首は竹中久作がこれを討とる、前々からこの首を取ると大言壮語していた)。浅井雅楽助・浅井斎・狩野次郎左衛門・狩野三郎兵衛・細江左馬助・早崎吉兵衛、
この他主だった者は千百打ち取られた。小谷城まで50町追い打ちをかけ、ふもとに放火した。とはいっても、小谷城は高山上の要害の地であり、一挙に攻め上がるのは難しいと判断され、横山城へ軍勢を打返し、もちろん横山城は降参して退出した。
木下藤吉郎を定番として横山城へ入れ置かれ、(後略)

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1837年(天保8)日本人漂流民を乗せた米国商船を「異国船打払令」にて砲撃したモリソン号事件が起きる(新暦7月30日)詳細
1875年(明治8)新聞紙条例」と「讒謗律」が発布される詳細
1948年(昭和23)福井地震(M7.1)が起こり、死者3,769人、負傷者22,203人を出す詳細
1951年(昭和26)小説家林芙美子の命日(芙美子忌)詳細 
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 今日は、戦国時代の元亀3年に、三方ヶ原の戦いが起き、武田軍が徳川・織田軍を破った日ですが、新暦では1573年1月25日となります。
 三方ヶ原の戦い(みかたがはらのたたかい)は、遠江国三方ヶ原(現在の静岡県浜松市北区)において、約2万5千人の武田信玄軍と約1万1千人の徳川家康・織田信長連合軍との間で起こった戦国合戦の一つでした。武田軍は魚鱗の陣を布いて待ち構えており、徳川・織田連合軍は鶴翼の陣をとって戦闘が始まりましたが、武田軍が勝利します。
 徳川家康は、命からがら浜松城に逃げ帰り、鳥居四郎左衛門、成瀬藤蔵、本多忠真といった有力武将が亡くなって、織田信長の援将平手汎秀も戦死しました。しかし、武田軍は浜松城を攻撃せずに西へ向かい、落城は免れます。
 現在は、三方原墓園(浜松市北区根洗町)の一角に三方ヶ原古戦場の碑が建ち、少し北に行ったところに武田信玄の本陣があったという根洗松と碑がありました。また、多くの戦死者が出た犀ヶ崖(浜松市中区鹿谷町)は、三方原古戦場として1939年(昭和14)に、県の史跡に指定され、史跡公園となっていて、三方ヶ原古戦場犀ヶ崖の碑、本多肥後守忠真顕彰碑、夏目次郎左衛門吉信の碑や「犀ヶ崖資料館」があって見学できます。
 ここには、その戦死者を供養するために始まったといわれる遠州大念仏や、三方ヶ原の戦いに関する資料が展示されていて興味深いところでした。
 以下に、『信長公記』第5巻の三方ヶ原の戦いの部分を抜粋(注釈・現代語訳付)しておきますので、ご参照ください。

〇『信長公記』第五巻より

身方ヶ原合戦の事

是れは遠州表の事。霜月[1]下旬、武田信玄、遠州二股の城[2]取巻くの由、注進[3]これあり。則ち、信長公御家老の衆、佐久間右衛門、平手甚左衛門、水野下野守大将として、御人数遠州浜松に至り参陣のところに、早、二股の城[1]攻め落し、其の競ひに、武田信玄堀江の城[4]へ打ち廻り、相働き候。家康も浜松の城[5]より御人数出だされ、身方ケ原[6]にて足軽ども取合ひ、佐久間・平手を初めとして、懸けつき、互に人数立ち合ひ、既に一戦に取り向かふ。武田信玄、水股の者[7]と名付けて、三百人ばかり、真先にたて、彼等にはつぶてをうたせ[8]て、推し大鼓[9]を打ちて、人数かゝり来たる。一番合戦に、平手甚左衛門、同家臣の者、家康公の御内衆、成瀬藤蔵。
十二月廿二日、身方ケ原[6]にて数輩討死これあり。さる程に[10]、信長公、幼稚より召し使はれ侯御小姓衆、長谷川橋介・佐脇藤八・山口飛騨・加藤弥三郎四人、信長公の御勘当を蒙り、家康公を憑み奉り[11]、遠州に身を隠し、居住侯らひし。是れ叉、一番合戦に一手[12]にかゝり合ひ、手前[13]にて比類なき[14]討死なり。爰に希代[15]の事ある様子は、尾州清洲の町人、具足屋[16]玉越三十郎とて、年の頃廿四、五の者あり。四人衆見舞ひとして、遠州浜松へ参られ侯折節、武田信玄、堀江の城[4]取り詰め、在陣の時に侯。定めて、此の表相働くべく侯。さ侯はぱ一戦に及ぶべく侯間、早々罷り[17]帰り侯へと、四人衆達つて異見侯へば、是れまで罷り[17]参り侯のところを、はづして罷り[17]帰り侯はば、以来、口はきかれまじく侯間、四人衆討死ならば、同心すべきと申し切り、罷り[17]帰らず、四人衆と一所に切つてまはり、枕を並べて討死なり。
家康公中筋[18]切り立てられ、軍の中に乱れ入り、左へつきて、身方が原[3]のきし道[19]の一騎打ちを退かせられ侯を、御敵、先に待ち請け、支へ[20]侯。馬上より御弓にて射倒し、懸け抜け、御通り侯。是れのみならず、弓の御手柄今に始まらず、浜松の城[5]堅固に御拘へなさる。信玄は勝利を得、人数打ち入れ[21]侯なり。

【注釈】

[1]霜月:しもつき=11月。
[2]二股の城:ふたまたのしろ=二俣城。現在の浜松市天竜区に城跡がある。
[3]注進:ちゅうしん=事件を急いで目上の人に報告すること。
[4]堀江の城:ほりえのしろ=堀江譲。現在の浜松市西区舘山寺町に城跡がある。
[5]浜松の城:はままつのしろ=徳川家康の居城で、現在の浜松市中区に城跡がある。
[6]身方ケ原:みかたがはら=三方ヶ原。現在の浜松市北区三方原町のあたり。
[7]水股の者:みずまたのもの=足軽のことか?
[8]つぶてをうたせ=小石を投げること。
[9]推し大鼓:おしだいこ=戦場で、進軍や攻撃開始の合図に打ち鳴らす太鼓。かかり太鼓。
[10]さる程に:さるほどに=さて。ところで。
[11]憑み奉り:たのみたてまつり=頼りにして。
[12]一手:ひとて=一隊。一組。
[13]手前:てまえ=他人の目の前。人の見る前。
[14]比類なき:ひるいなき=比べようもない。例えようもない。
[15]希代:きたい=世にもまれなこと。めったに見られないこと。また、そのさま。
[16]具足屋:ぐそくや=甲冑の商売人。武具商。
[17]罷り:まかり=貴人の前や貴所から退くこと。退出。行くこと。
[18]中筋:なかすじ=戦線の中央部の意味。
[19]きし道:きしみち=岸道。崖道。山際の道。
[20]支へ:ささへ=じゃまをする。立ちふさがる。
[21]人数打ち入れ:にんずううちいれ=軍勢を納めること。

<現代語訳>

三方ヶ原合戦の事

 これは遠州方面の出来事である。11月下旬、武田信玄が遠州二俣城を取り囲んだとの報告がもたらされた。ただちに信長公は、家老衆の佐久間信盛・平手汎秀・水野信元らを大将として出陣させ、軍勢が遠州浜松に到着し参陣したが、すでに二俣城は攻め落とされ、その勢いに乗じて、武田信玄は堀江城へまわって、攻略中であった。徳川家康も、浜松城から軍勢を出されて、三方ヶ原で最初に足軽による攻め合いとなり、佐久間・平手を初め、その他の者も懸けつけてきて、双方が軍勢を繰り出しての一戦となった。武田信玄は水股の者(足軽?)と呼ぶ兵300人ほどを先頭に立てて、彼らに小石を投げさせ、かかり太鼓を打ち鳴らして、攻撃してきた。最初の合戦では、平手甚左衛門とその家臣の者、家康公の御身内衆の成瀬藤蔵が討ち死にした。
 12月22日、三方ヶ原にて数名の者が討ち死にした。ところで、信長公が幼い時より召し使われていた御小姓衆の長谷川橋介・佐脇藤八・山口飛騨・加藤弥三郎の四人は、信長公の御勘当を受けて、家康公を頼りにして、遠州に身を隠して、居住していた。これまた、最初の合戦の一隊としてに攻めかかり、人々の眼前にて比べようもない討ち死にをとげた。この時に世にもまれなことがあったが、尾州清洲の町人で、武具商の玉越三十郎という、年の頃24、5歳の者のことである。四人衆の見舞いとして、遠州浜松へ来ていた折に、武田信玄が堀江城に攻めかかっている、在陣の時であった。「きっと、この浜松方面へも仕掛けてくるであろう。そうならぱ、一戦にとなる前に、早々に退去して帰りなさい。」と、四人衆が強いて忠告したならば、「ここまでやってきたところを、放棄して立ち返ったならば、以後、口を聞いてくれる人はいまくなってしまいでありましょう、四人衆が討死するならば、ご一所すべきでしょう。」と言い切って帰らず、四人衆といっしょに切り込んで、枕を並べて討死したのであった。
 家康公は、戦線の中央部へ切り込み、軍の中に乱れ入って、左手に逃れ、三方ヶ原の山際の道を一騎で退却していったが、敵は退却の先にも待ちかまえて、立ちふさがってきた。家康公は馬上より弓で射倒して駆け抜けた。家康公の弓の手柄は、今に始まったことではないが、その後浜松城に籠り、堅固に守りを固めた。信玄は勝利を得て、軍勢を納めたことである。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1902年(明治35)年齢計算ニ関スル法律」が施行され、数え年に代わり満年齢のみの使用となる詳細
1945年(昭和20)労働組合法」が制定される詳細
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 今日は、江戸時代前期の1615年(元和元)に、江戸幕府が「禁中並公家諸法度」を制定した日ですが、新暦では9月9日となります。
 禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)は、江戸幕府が朝廷や公家を統制するための法令でした。大坂の陣で豊臣家が滅亡した直後の1615年(元和元)7月17日に、京都二条城で本文に大御所徳川家康、将軍秀忠、前関白二条昭実が連署したものを武家伝奏に渡す形で制定され、同月30日公家・門跡衆に公布されます。
 起草は金地院崇伝で、正式名称は「禁中方御条目」といい、漢文体の17ヶ条からなっていました。内容は、天皇の本分、摂家・三公の席次や任免、改元、天皇以下公家の衣服、廷臣の刑罰、門跡以下僧侶の官位、紫衣(しえ)勅許の条件などから成り、その後改訂されずに幕末に至ります。
 以下に、「禁中並公家諸法度」の全文(読み下し文・現代語訳・注釈付き)を掲載しておきますので、御参照下さい。

〇「禁中並公家諸法度」(全文) 元和元年7月17日制定

一 天子諸藝能之事、第一御學問也。不學則不明古道、而能政致太平者末之有也。貞觀政要明文也。寛平遺誡、雖不窮經史、可誦習群書治要云々。和歌自光孝天皇未絶、雖爲綺語、我國習俗也。不可棄置云々。所載禁秘抄御習學専要候事。
一 三公之下親王。其故者右大臣不比等着舎人親王之上、殊舎人親王、仲野親王、贈太政大臣穂積親王准右大臣、是皆一品親王以後、被贈大臣時者、三公之下、可為勿論歟、親王之 次、前官之大臣、三公、在官之内者、為親王之上、辞表之後者、可為次座、其次諸親王、但儲君各別、前官大臣、関白職再任之時者、摂家之内、可為位次事。
一 淸花之大臣、辭表之後座位、可爲諸親王之次座事。
一 雖爲攝家、無其器用者、不可被任三公攝關。況其外乎。
一 器用之御仁躰、雖被及老年、三公攝關不可有辭表。但雖有辭表、可有再任事。
一 養子者連綿。但、可被用同姓。女縁其家家督相續、古今一切無之事。
一 武家之官位者、可爲公家當官之外事。
一 改元、漢朝年號之内、以吉例可相定。但、重而於習禮相熟者、可爲本朝光規之作法事。
一 天子禮服、大袖、小袖、裳、御紋十二象、諸臣礼服各別、御袍 、麹塵、青色、帛、生気御袍、或御引直衣、御小直衣等之事、仙洞御袍、赤色橡、或甘御衣、大臣袍、橡異文、小直衣、親王袍、橡小直衣、公卿着禁色雑袍、雖殿上人、大臣息或孫聴着禁色雑袍、貫首、五位蔵人、六位蔵人、着禁色、至極臈着麹塵袍、是申下御服之儀也、晴之時雖下臈着之、袍色、四位以上橡、五位緋、地下赤之、六位深緑、七位浅緑、八位深縹、初位浅縹、袍之紋、轡唐草輪無、家々以旧例着用之、任槐以後異文也、直衣、公卿禁色直衣、始或拝領任先規着用之、殿上人直衣、羽林家之外不着之、雖殿上人、大臣息亦孫聴着禁色、直衣直垂、随所着用也、小袖、公卿衣冠時者着綾、殿上人不着綾、練貫、羽林家三十六歳迄着之、此外不着之、紅梅、十六歳三月迄諸家着之此外者平絹也、冠十六未満透額帷子、公卿従端午、殿上人従四月西賀茂祭、着用普通事。
一 諸家昇進之次第、其家々守舊例可申上。但学問、有職、歌道令勤学、其外於積奉公労者、雖為超越、可被成御推任御推叙、下道真備雖従八位下、衣有才智誉、右大臣拝任、尤規摸也、蛍雪之功不可棄捐事。
一 關白、傳奏、并奉行職事等申渡儀、堂上地下輩、於相背者、可爲流罪事。
一 罪輕重、可被守名例律事。
一 攝家門跡者、可爲親王門跡之次座。摂家三公之時者、雖為親王之上、前官大臣者、次座相定上者、可准之、但皇子連枝之外之門跡者、親王宣下有間敷也、門跡之室之位者、可依其仁体、考先規、法中之親王、希有之儀也、近年及繁多、無其謂、摂家門跡、親王門跡之外門跡者、可為准門跡事。
一 僧正大、正、權、門跡院家可守先例。至平民者、器用卓抜之仁希有雖任之、可爲准僧正也。但、國王大臣之師範者各別事。
一 門跡者、僧都大、正、少、法印任叙之事。院家者、僧都大、正、少、權、律師法印法眼、任先例任叙勿論。但、平人者、本寺推擧之上、猶以相選器用、可申沙汰事。
一 紫衣之寺住持職、先規希有之事也。近年猥勅許之事、且亂臈次、且汚官寺、甚不可然。於向後者、撰其器用、戒臈相積、有智者聞者、入院之儀可有申沙汰事。
一 上人號之事、碩學之輩者、本寺撰正權之差別於申上者、可被成勅許。但、其仁躰、佛法修行及廿箇年者可爲正、年序未滿者、可爲權。猥競望之儀於有之者、可被行流罪事。

 右、可被相守此旨者也。

 慶長廿年乙卯七月 日

 昭 實(花押)
 秀 忠(花押)
 家 康(花押)

  「徳川禁令考」より

<読み下し文>

一、天子御芸能之事、第一御学問也。学ならずんば則ち古道明らかならず、而して政を能して太平を致す者未だこれあらざるなり、貞観政要[1]の明文也、寛平遺誡[2]に経史[3]を窮めずと雖も、群書治要[4]を誦習[5]すべしと云々。和歌は光孝天皇[6]より未だ絶えず、綺語[7]たりと雖も我が国の習俗也、棄置くべからずと云々。禁秘抄[8]に載せる所、御習学専要候事。
一、三公[9]の下は親王[10]。その故は右大臣不比等[11]は舎人親王[12]の上に着く。殊に舎人親王[12]、仲野親王[13]は(薨去後に)贈(正一位)太政大臣、穂積親王[14]は准右大臣なり。一品親王は皆これ以後、大臣を贈られし時は三公の下、勿論たるべし。親王[10]の次は前官大臣。三公[9]は官の内に在れば、親王[10]の上となす。辞表の後は次座たるべし。その次は諸親王[10]、但し儲君[15]は格別たり。前官大臣、関白職再任の時は摂家の内、位次たるべき事。
一、清華[16]の大臣辞表の後、座位[17]は諸親王[10]の次座たるべき事。
一、摂家[18]たりと雖も、その器用[19]無き者は、三公[9]・摂関に任ぜらるるべからず。況んやその外をや。
一、器用[19]の御仁躰、老年に及ばるるといへども、三公[9]摂関辞表あるべからず。但し辞表ありといへども、再任あるべき事。
一、養子は連綿[20]、但し同姓を用ひらるべし。女縁者の家督相続、古今一切これなき事。
一、武家の官位は、公家当官の外[21]たるべき事。
一、改元[22]は漢朝の年号[23]の内、吉例[24]を以て相定むべし。但し重ねて習礼[25]相熟むにおいては、本朝[26]先規の作法たるべき事。
一、天子の礼服は大袖・小袖・裳・御紋十二象、御袍[27]・麹塵[28]・青色、帛[29]、生気[30]御袍[27]、或は御引直衣、御小直衣等之事。仙洞[31]御袍[27]、赤色橡[32]或ひは甘御衣[33]、大臣袍[27]、橡[32]異文、小直衣、親王袍[27]、橡[32]小直衣、公卿[34]は禁色[35]雑袍[36]を着す、殿上人[37]と雖も、大臣息或は孫は禁色[35]雑袍[36]を着すと聴く、貫首[38]、五位蔵人、六位蔵人、禁色[35]を着す、極臈[39]に至りては麹塵[28]袍[27]を着す、是申下すべき御服之儀也。晴[40]之時と雖も下臈[41]之を着す、袍[27]色、四位以上橡[32]、五位緋、地下赤之、六位深緑、七位浅緑、八位深縹[42]、初位浅縹[42]、袍[27]之紋、轡唐草輪無、家々旧例をもって之を用いて着す、任槐[43]以後は異文也、直衣、公卿[34]禁色[35]直衣、或は任を拝領して始め、先規にて之を用いて着す、殿上人[37]直衣、羽林家[44]之外之を着さず、殿上人[37]と雖も、大臣息亦孫は禁色[35]を着すと聴く、直衣直垂、随所着用也、小袖、公卿[34]衣冠[45]の時は綾[46]を着す、殿上人[37]は綾[46]を着さず、練貫[47]、羽林家[44]三十六歳迄之を着す、此外は之を着さず、紅梅[48]、十六歳三月迄諸家は之を着す、此外は平絹也、冠十六未満は透額[49]、帷子[50]、公卿[34]は端午[51]より、殿上人[37]は四月西賀茂祭[52]より、着用普通の事。
一、諸家昇進の次第はその家々旧例を守り申上ぐべし。但し学問、有職[53]、歌道の勤学を令す。その外奉公の労を積むにおいては、超越たりといえども、御推任御推叙なさるべし。下道真備[54]は従八位下といえども、才智誉れ有るにより右大臣を拝任、尤も規摸[55]なり。蛍雪の功[56]は棄捐[57]すべかざる事。
一、関白・伝奏[58]并びに奉行職等申渡す儀、堂上地下の輩[59]、相背くにおひては、流罪たるべき事。
一、罪の軽重は名例律[60]を守らるべき事。
一、摂家門跡[61]は親王門跡[61]の次座たるべし。摂家三公[9]の時は親王[10]の上たりといえども、前官大臣は次座相定む上はこれに准ずべし。但し皇子連枝の外の門跡[61]は親王[10]宣下有るまじきなり。門跡[61]の室の位はその仁体によるべし。先規を考えれば、法中の親王[10]は希有の儀なり、近年繁多に及ぶが、その謂なし。摂家門跡[61]、親王門跡[61]の外門跡[61]は准門跡[61]となすべき事。
一、僧正[62](大、正、権)・門跡[61]・院家[63]は先例を守るべし。平民に至りては、器用[19]卓抜の仁、希有にこれを任ずるといへども、准僧正たるべき也。但し国王大臣の師範は各別の事。
一、門跡[61]は僧都[64](大、正、少)・法印[65]叙任の事、院家[63]は僧都[64](大、正、少、権)、律師[66]、法印[65]、法眼[67]、先例から叙任するは勿論。但し平人は本寺の推学の上、尚以て器用[19]を相撰び沙汰を申すべき事。
一、紫衣の寺[68]は、住持職[69]、先規希有の事[70]也。近年猥りに勅許の事、且は臈次[71]を乱し且は官寺[72]を汚す、甚だ然るべからず。向後においては、其の器用[19]を撰び、戒臈[73]相積み、智者の聞こえあらば、入院の儀申沙汰有るべき事。
一、上人号[74]の事、碩学[75]の輩は、本寺として正確の差別を撰み申上ぐるにおひては、勅許なさるべし。但しその仁体、仏法修行二十箇年に及ぶは正となすべし、年序未満は権となすべし。猥らに競望[76] の儀これ有るにおいては流罪行なわるべき事。

 右此の旨相守らるべき者也。

   慶長廿年[77]乙卯七月 日  

 昭 實(花押)
 秀 忠(花押)
 家 康(花押)

【注釈】

[1]貞観政要:じょうがんせいよう=唐の2代皇帝太宗と群臣の問答録で、帝王学の教科書として日本でも読まれた。
[2]寛平遺誡:かんぴょうのゆいかい=宇多天皇が醍醐天皇に与えた訓戒書。
[3]経史:けいし=四書五経や歴史書。
[4]群書治要:ぐんしょちよう=唐の2代皇帝太宗が編纂させた政論書。
[5]誦習:しょうしゅう=読み習うこと。書物などを口に出して繰り返し読むこと。
[6]光孝天皇:こうこうてんのう=第58代とされる天皇(830~887年)で、『古今和歌集』に歌2首が収められている。
[7]綺語:きぎょ=表面を飾って美しく表現した言葉。
[8]禁秘抄:きんぴしょう=順徳天皇が著した有職故実書(1221年頃成立)。
[9]三公:さんこう=太政大臣、左大臣、右大臣のこと。
[10]親王:しんのう=天皇の兄弟と皇子のこと。
[11]右大臣不比等:うだいじんふひと=藤原不比等(659~720年)のことで、奈良時代初期の廷臣。藤原鎌足の次男。
[12]舎人親王:とねりしんのう=天武天皇の第3皇子(676~735年)で、藤原不比等の死後、知太政官事となり、没後太政大臣を贈られた。
[13]仲野親王:なかのしんのう=桓武天皇の皇子(792~867年)で、没後太政大臣を贈られた。
[14]穂積親王:ほづみしんのう=天武天皇の皇子(?~715年)で、知太政官事、一品にいたる。
[15]儲君:ちょくん=皇太子のこと。
[16]清華:せいが=公家の名門清華家のことで、摂関家に次ぎ、太政大臣を極官とし、大臣、大将を兼ねる家。久我、花山院、転法輪三条、西園寺、徳大寺、大炊御門、今出川 (菊亭) の7家。
[17]座位:ざい=席次のこと。
[18]摂家:せっけ=摂政、関白に任命される家柄、近衛、九条、二条、一条、鷹司の五摂家のこと。
[19]器用:きよう=能力。学識。
[20]連綿:れんめん=長く続いて絶えないこと。
[21]公家当官の外:くげとうかんのほか=官位令に規定される公家の官位とは別扱い。
[22]改元:かいげん=元号(年号)を改めること。
[23]漢朝の年号:かんちょうのねんごう=中国の年号。
[24]吉例:きちれい=縁起の良いもの。
[25]習礼:しゅうらい=礼儀作法をならうこと。
[26]本朝:ほんちょう=日本のこと。
[27]袍:ほう=束帯用の上衣。
[28]麹塵:きくじん=灰色がかった黄緑色。
[29]帛:はく=きぬ。絹布の精美なもの。羽二重の類。
[30]生気:しょうげ=生気の方向を考慮して定めた衣服の色。東に青、南に赤を用いるなど。
[31]仙洞:せんどう=太上天皇のこと。
[32]橡:つるばみ=とち色のことだが、四位以上の人の袍の色となる。
[33]甘御衣:かんのおんぞ=太上天皇が着用する小直衣(このうし)。
[34]公卿:くぎょう=公は太政大臣・左大臣・右大臣、卿は大納言・中納言・参議および三位以上の朝官をいう。参議は四位も含める。
[35]禁色:きんじき=令制で、位階によって着用する袍(ほう)の色の規定があり、そのきまりの色以外のものを着用することが禁じられたこと。また、その色。
[36]雑袍:ざっぽう=直衣(公家の平常服)のこと。上衣。
[37]殿上人:でんじょうびと=清涼殿の殿上間に昇ることを許された者(三位以上の者および四位,五位の内で昇殿を許された者)
[38]貫首:かんじゅ=蔵人頭のこと。
[39]極臈:きょくろう=六位の蔵人で、最も年功を積んだ人。
[40]晴:はれ=正月や盆、各種の節供、祭礼など、普段とは異なる特別に改まったとき。
[41]下臈:げろう=官位の下級な者。序列の低い者。
[42]縹:はなだ=一般に、タデ科アイだけを用いた染色の色で、ややくすんだ青のこと。
[43]任槐:にんかい=大臣に任ぜられること。
[44]羽林家:うりんけ=摂家や清華ではないが、昔より代々中将・少将に任じられてきた家(冷泉・灘波・飛鳥井など)。
[45]衣冠:いかん=男子の最高の礼装である束帯の略装の一形式。冠に束帯の縫腋の袍を着て指貫をはく。
[46]綾:りょう=模様のある絹織物。
[47]練貫:ねりぬき=縦糸に生糸、横糸に練り糸を用いた平織りの絹織物。
[48]紅梅:こうばい=襲(かさね)の色目の一つで、表は紅色で、裏は紫色。
[49]透額:すきびたい=冠の額の部分に半月形の穴をあけ、羅うすぎぬを張って透かしにしたもの。
[50]帷子:かたびら=夏の麻のきもの。
[51]端午:たんご=端午の節句(旧暦5月5日)のこと。
[52]賀茂祭:かもまつり=加茂の明神のまつり(旧暦4月中の酉の日)のことで、現在の葵祭。
[53]有職:ゆうそく=朝廷や公家の儀式・行事・官職などに関する知識。また、それに詳しい人。
[54]下道真備:しもつみちのまきび=吉備真備(695~775年)のこと。従八位下から正二位・右大臣にまで昇った。
[55]規摸:きぼ=手本。模範。
[56]蛍雪の功:けいせつのこう=苦労して勉学に励んだ成果。
[57]棄捐:きえん=捨てて用いないこと。
[58]伝奏:てんそう=江戸時代に幕府の奏聞を取り次いだ公武関係の要職。
[59]堂上地下の輩:どうじょうじげのやから=殿上人とそれ以外の官人。
[60]名例律:みょうれいりつ=律における篇の一つで、刑の名前と総則を規定する。
[61]門跡:もんぜき=皇族・貴族などが出家して居住した特定の寺院。また、その住職。
[62]僧正:そうじょう=僧綱の最高位。僧都・律師の上に位し、僧尼を統轄する。のち、大・正・権ごんの三階級に分かれる。
[63]院家:いんげ=大寺に属する子院で、門跡に次ぐ格式や由緒を持つもの。また、貴族の子弟で、出家してこの子院の主となった人。
[64]僧都:そうず=僧綱(僧尼を統率し諸寺を管理する官職)の一つで、僧正に次ぎ、律師の上の地位のもの。
[65]法印:ほういん=僧位の最上位で、僧綱の僧正に相当する。この下に法眼・法橋があった。
[66]律師:りっし= 僧綱(僧尼を統率し諸寺を管理する官職)の一つで、僧正・僧都に次ぐ僧官。正・権の二階に分かれ、五位に準じた。
[67]法眼:ほうげん=僧位の第二位で、法印と法橋のあいだ。僧綱の僧都に相当する。
[68]紫衣の寺:しえのてら=朝廷から高徳の僧に賜わった紫色の僧衣を着る高僧が住持となる寺格。
[69]住持職:じゅうじしょく=住職。
[70]先規希有の事:せんきけうのこと=先例がほとんどない。
[71]臈次:ろうじ=僧侶が受戒後、修行の功徳を積んだ年数で決められる序列。
[72]官寺:かんじ=幕府が保護した寺のことで、五山十刹などをさす。
[73]戒臈:かいろう=修行の年功。
[74]上人号:しょうにんごう=法橋上人位の略称。修行を積み、智徳を備えた高僧の号。
[75]碩学:せきがく=修めた学問の広く深いこと。また、その人。
[76]競望:けいぼう=われがちに争い望むこと。強く希望すること。
[77]慶長廿年:けいちょうにじゅうねん=慶長20年7月は13日に元和に改元されたので、実際の制定時7月17日は元和元年となる。

<現代語訳>

一、天皇が修めるべきものの第一は学問である。「学を修めなければ、すなわち古からの道は明らかにならない、学を修めないでいて良き政事をし、太平をもたらしたものは、いまだないことである。」と、『貞観政要』にはっきり書かれていることである。『寛平遺誡』に四書五経や歴史書を極めていないといっても、『群書治要』を読み習うこととしかじか、和歌は光孝天皇より未だ絶えず、表面を飾って美しく表現した言葉であるといっても、我が国のならわしである、捨ておいてはならないとしかじか、『禁秘抄』に掲載されているところは、学習されるべき最も大切なところである。
一、現役の三公(太政大臣、左大臣、右大臣)の席次の下に親王がくる。特に、舎人親王、仲野親王は薨去後に贈(正一位)太政大臣、穂積親王は准右大臣となった。一品親王は皆これ以後、大臣を贈られし時は三公(太政大臣、左大臣、右大臣)の下となることは、勿論のことである。親王の次は前官大臣である。三公(太政大臣、左大臣、右大臣)は在任中であれば、親王の上とするが、辞任後は次座となるべきである。その次は諸親王、ただし皇太子は特別である。前官大臣、関白職再任の時は摂家の内、位次であるべきである。
一、清華家の三公(太政大臣、左大臣、右大臣)辞任後の席次は、親王の次となるべきである。
一、摂関家の生まれであっても、才能のない者が三公(太政大臣、左大臣、右大臣)・摂政・関白に任命されることがあってはならない。ましてや、摂関家以外の者の任官など論外である。
一、能力のあるお方は、高齢だからといっても、三公(太政大臣、左大臣、右大臣)・摂政・関白を辞めてはならない。ただし、辞任したとしても、再任は有るべきである。
一、養子連綿、すなわち、同姓を用いるべきである、女縁をもってその家督を相続することは、昔から今に至るまで一切無いことである。
一、武家に与える官位は、公家の官位とは別扱いのものとする 。
一、元号を改めるときは、中国の年号から縁起の良いものを選ぶべきである。ただし、今後(担当者が)習礼を重ねて相熟むようになれば、日本の先例によるべきである。
一、天皇の礼服は大袖・小袖・裳・御紋十二象、束帯用の御上衣は灰色がかった黄緑色・青色、絹布、生気色の束帯用の御上衣、あるいは御引直衣、御小直衣等の事。太上天皇の束帯用の御上衣は赤色橡色あるいは甘御衣、大臣の束帯用の上衣は橡色の異文、小直衣、親王の束帯用の上衣は橡色の小直衣、公卿は位階によって決められた色の上衣を着用する。殿上人といっても、大臣の息子あるいは孫は、位階によって決められた色の上衣を着用すると聴く。蔵人頭は五位蔵人、六位蔵人は、位階によって決められた色を着用する。六位の蔵人で最も年功を積んだ人に至っては、灰色がかった黄緑色の束帯用の上衣を着用する。これは申し下すべき御服の決まりである。はれの儀式の時は序列の低い者もこれを着用する。束帯用の上衣の色は、四位以上は橡色、五位は緋色、地下は赤色、六位は深緑色、七位は浅緑色、八位は深いくすんだ青色、初位は浅いくすんだ青色、束帯用の上衣の紋は、轡唐草は輪無しについては、家々の旧例に従って、これを用いて着用する。大臣任官以後は異文である。直衣については、公卿は位階によって決められた色の直衣、あるいは任を拝領して始め、先規にてこれを用いて着用する。殿上人は直衣、羽林家のほかはこれを着用しない。殿上人といっても、大臣の息子また孫は位階によって決められた色を着用すると聴く。直衣直垂については、随所着用である。小袖については公卿の最高の礼装の時は、模様のある絹織物を着用する。殿上人は模様のある絹織物は着用しない。平織りの絹織物については羽林家は36歳までこれを着用する。このほかは、これを着用しない。表は紅色で、裏は紫色のかさねについては、16歳3月まで諸家はこれを着用し、それ以後は、平絹を着用する。冠16歳未満は透額とする。夏の麻の着物については、公卿は端午の節句(5月5日)より、殿上人は4月中の酉の日の賀茂祭より、着用するのは普通のことである。
一、諸家の昇進の順序は、その家々の旧例を守って、報告せよ。ただし、学問、朝廷や公家の儀式・行事・官職などに関する知識、歌道の学問に勤め励むことを命じる。その他.、国家や朝廷のために一身をささげて働くことを重ねた者は、順序をとびこえているといっても、上位の者の推挙によって官につかせたり、位を上げたりするべきである。下道真備(吉備真備)は従八位下ではあったけれど、才智がすぐれていたため右大臣を拝任した、もっとも手本となる。苦労して勉学に励んだ成果は捨ててはならないことである。
一、関白・武家伝奏・奉行職が申し渡した命令に堂上家・地下家の公家が従わないことがあれば流罪にするべきである。
一、罪の軽重は名例律が守られるべきである。
一、摂家門跡は、親王門跡の次の席次とする、摂家は、現職の三公(太政大臣、左大臣、右大臣)の時には親王より上の席次といっても、辞任後は親王の次の席次と定められたことにより、これに准ずる。ただし、皇子兄弟のほかの門跡は親王宣下があってはならないことである。門跡の室の位はそのお方によるべきである。先規を考えれば、僧侶の中の親王は希なことである、近年非常に多くなっているが、その言われはない。摂家門跡と親王門跡のほかの門跡は准門跡とするべきである。
一、僧正(大、正、権)・門跡・院家は先例を守るべきことである。平民に至りては、卓越した才能のある人を、稀にこれを任命することがあるといっても、准僧正であるべきだ。ただし、国王大臣の師範とするものは特別のこととする。
一、門跡については、僧都(大、正、少)・法印を叙任することである。院家は、僧都(大、正、少、権)、律師、法印、法眼、先例から叙任するのはもちろんである。ただし、平人は本寺の推学の上、さらに才能のある人を選んで命じるべきである。
一、紫衣が勅許される住職は以前は少なかった。近年はやたらに勅許が行われている。これは(紫衣の)席次を乱しており、ひいては官寺の名を汚すこととなり、はなはだよろしくないことである。今後はその能力をよく吟味して、修行の功徳を積んだ年数を厳重にして、学徳の高い者に限って、寺の住職として任命すべきである。
一、上人号のことは、修めた学問の広く深い人は、本寺として正確に判断して選んで申上してきた場合は、勅許されるべきである。ただし、そのお方が、仏法修行20年に及ぶ者は正とすること、20年未満の者は権とすること。みだらに、われがちに争い望むことが有る場合は、流罪にするべきである。

 右の旨は守らなければならない。

 慶長20年(1615年)7月 日

 昭 實(花押)
 秀 忠(花押)
 家 康(花押)
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 安土桃山時代の1575年(天正3)に、長篠の戦いで織田信長・徳川家康連合軍が武田勝頼軍を破った日ですが、新暦では6月29日となります。
 長篠の戦い(ながしののたたかい)は、三河国長篠城(現在の愛知県新城市長篠)をめぐり、織田信長・徳川家康連合軍約38,000人と武田勝頼軍約15,000人との間で勃発した戦いで、織田・徳川連合軍が勝利し、敗北した武田軍は甚大な被害を受けました。
 決戦地は、設楽原で、武田の騎馬隊に対して、織田・徳川連合軍は、馬防柵を作り、鉄砲3,000丁による3段構えを作って、勝利したと言われています。鉄砲中心の戦術への移行と戦国乱世から天下統一へ向かう重要な戦いでした。
 現地には、長篠城跡が1929年(昭和4)に国の史跡に指定されていて保存され、その一角に「新城市立長篠城址史蹟保存館」があって、いろいろと資料を見ることができます。また、決戦地となった設楽原には、「新城市設楽原歴史資料館」があって、合戦の様子を学ぶことができますし、周辺には、復元された馬防柵や有力武将の墓、激戦地跡や陣地跡などもあって、散策することも可能です。
 以下に、『信長公記』(第八巻)の該当部分を掲載(注釈・現代語訳付)しておきますので、ご参照下さい。

〇『信長公記』(第八巻)

三州長篠御合戦の事

 五月十三日、三州長篠[1]後詰[2]として、信長、同嫡男菅九郎[3]、御馬を出だされ、其の日、熱田[4]に御陣を懸けられ、当社八剣宮[5]癈壌[6]し、正体なきを御覧じ、御造営の儀、御大工岡部叉右衛門に仰せ付けられ侯ひキ。
 五月十四日、岡崎に至りて御着陣。次日、御逗留。十六日、牛窪の城[7]に御泊り。
当城御警固として、丸毛兵庫頭・福里三河守を置かれ、十七日、野田原[8]に野陣を懸けさせられ、十八日推し詰め、志多羅の郷[9]、極楽寺山[10]に御陣を置かれ、菅九郎[3]、新御堂山[11]に御陣取。
 志多羅の郷[9]は、一段地形くぼき所に侯。敵がたへ見えざる様に、段貼に御人数三万ばかり立て置かる。先陣は、国衆の事に侯の間、家康、たつみつ坂の上、高松山[12]に陣を懸げ、滝川左近、羽柴藤吉郎・丹羽五郎左衛門両三人、あるみ原[13]へ打ち上げ、武田四郎[14]に打ち向ひ、東向きに備へらる。家康、滝川陣取りの前に馬防ぎの為め、柵[15]を付けさせられ、彼のあるみ原[13]は、左りは鳳来寺山[16]より西へ太山[17]つゞき、又、右は鳶の巣山[18]より西へ打ち続きたる深山なり。岸を、のりもと川[19]、山に付きて、流れ侯。両山北南のあはひ、纔かに三十町には過ぐべからず。鳳来寺山[16]の根より滝沢川[20]、北より南にのりもと川[19]へ落ち合ひ侯。長篠[1]は、南西は川にて、平地の所なり。川を前にあて、武田四郎[14]鳶の巣山[18]に取り上り、居陣侯はゞ、何れともなすべからず侯ひしを、長篠[1]へは攻め衆七首差し向け、武田四郎[14]滝沢川[20]を越し来なり、あるみ原[13]三十町ばかり踏み出だし、前に谷を当て、甲斐、信濃、西上野の小幡、駿州衆、遠江衆、三州の内つくで[21]、だみね[22]、ぶせち[23]衆を相ひ加へ、一万五干ぱかり、十三所に、西向きに打ち向き備へ、互ひに陣のあわひ廿町ばかりに取り合ひ侯。今度間近く寄り合ひ侯事、天の与ふる所に侯間、悉く討ち果たさるべきの旨、信長御案を廻らせられ、御身方一人も破損[24]せず侯様に、御賢意を加へらる。坂井左衛門尉を召し寄せられ、家康御人数の内、弓・鉄炮然るべき仁を召列、坂井左衛門尉を大将として、二千ばかり、幵に信長の御馬廻[25]鉄炮五百挺、金森五郎八、佐藤六左衛門、青山新七息、賀藤市左衛門、御検使として相添へ、都合四千ばかりにて、五月廿日戌刻、のりもと川[19]を打ち越え、南の深山を廻り、長篠[1]の上、鳶の巣山[18]へ、
 五月廿一日、辰刻、取り上げ、旗首を推し立て、凱声[26]を上げ、数百挺の鉄砲を焜と、はなち懸け、責め衆を追つ払ひ、長篠[1]の城へ入り、城中の者と一手になり、敵陣の小屋貼を焼き上ぐ。籠城の者、忽ち運を開き、七首の攻め衆、案の外の事にて侯間、癈忘[27]致し、風来寺さして敗北なり。
 信長は、家康陣所に高松山[12]とて小高き山御座侯に取り上げられ、敵の働きを御覧じ、御下知次第働くべきの旨、兼ねてより仰せ含められ、鉄炮千挺ばかり、佐々蔵介、前田又左衛門、野々村三十郎、福富平左衛門、塙九郎左衛門を御奉行として、近貼と足軽を懸けられ、御覧じ侯。前後より攻められ、御敵も人数を出だし侯。一番、山懸三郎兵衛、推し太鼓[28]を打ちて、懸かり来なり侯。鉄炮を以て、散貼に打ち立てられ、引き退く。二番に、正用軒入れ替へ、かゝればのき、退けぼ引き付け、御下知の如く、鉄炮にて過半人数うたれ侯へば、其の時、引き入るゝなり。三番に、西上野の小幡一党、赤武者[29]にて、入れ替へ懸かり来たる。関東衆、馬上の功老にて、是れ又、馬入るべき行にて、推し太鼓[28]を打ちて、懸かり来たる。人数を備へ侯。身がくし[30]として、鉄炮にて待ち請け、うたせられ侯へば、過半打ち倒され、無人になりて、引き退く。四番に典厩一党、黒武者[31]にて懸かり来たる。
 かくの如く、御敵入れ替へ侯へども、御人数一首も御出でなく、鉄炮ばかりを相加へ、足軽にて会釈[32]、ねり倒され、人数をうたせ、引き入るゝなり。五番に、馬場美濃守推し太鼓[28]にて、かゝり来なり、人数を備へ、右同断に勢衆うたれ、引き退く。
 五月廿一日、日の出より寅卯の方へ向けて未の刻まで、入れ替はり貼相戦ひ、諸卒をうたせ、次第貼に無人なりて、何れも、武田四郎[14]旗元へ馳せ集まり、叶ひ難く存知候。敵、鳳来寺さして、焜と癈軍致す。其の時、前後の勢衆を乱し、追はせられ、
 討ち捕る頸の見知分、山懸三郎兵衛、西上野小幡、横田備中、川窪備後、さなだ源太左衛門、土屋宗蔵、甘利藤蔵、なわ無理介、仁科、高坂叉八郎、興津、岡部、竹雲、恵光寺、根津甚平、土屋備前守、和気善兵衛、馬場美濃守。
 中にも、馬場美濃守手前の働き、比類[33]なし。此の外、宗徒の侍・雑兵一万ばかり討死侯。或ひは山へ逃げ上りて飢死、或ひは橋より落とされ、川へ入り、水に溺れ、際限なく侯。武田四郎[14]秘蔵の馬、小口にて、乗り損じたる、一段乗り心ち比類[33]なき駿馬[34]の由侯て、信長御厩に立て置かれ、三州の儀、仰せ付けられ、
 五月廿五日、濃州岐阜に御帰陣。今度の競に、家康駿州へ御乱入、国中焼き払ひ、御帰陣。遠州高天神の城[35]、武田四郎[14]、相抱へ候も、落去幾程もあるべからず。
 岩村の城[36]、秋山・大島・座光寺、大将として甲斐・信濃の人数楯籠る。直ちに、菅九郎[3]、御馬を寄せられ、御取巻くの間、是れ叉、落着たるべき事勿論に侯。
 三・遠両国仰せ付けられ、家康年来の愁眉を開き[37]、御存分に達せらる。昔もケ様に御身方恙く強敵を破損せられし様これなし。武勇の達者、武者の上のかほうなり、宛照日の朝露を消すが如し。御武徳は惟車輪なり。御名を後代に揚げんと欲せられ、数ケ年は山野海岸を栖として、甲冑を枕とし、弓箭[38]の本意、業の為め、打ち続く御辛労、中々申すに足らず。

【注釈】

[1]長篠:ながしの=現在の愛知県新城市に城跡(国史跡)がある。
[2]後詰:うしろづめ=後方支援部隊。
[3]嫡男菅九郎:ちゃくなんかんくろう=織田信長の長男信忠のこと。
[4]熱田:あつた=現在の愛知県名古屋市熱田区で、熱田神宮がある。
[5]当社八剣宮:とうしゃはっけんぐう=熱田神宮の摂社八剣宮のこと。
[6]癈壌:はいえ=荒廃しているさま。
[7]牛窪の城:うしくぼのしろ=愛知県豊川市牛久保町に城跡がある。
[8]野田原:のだはら=愛知県新城市野田。
[9]志多羅の郷:したらのさと=愛知県新城市設楽。
[10]極楽寺山:ごくらくじやま=愛知県新城市上平井にあり、織田信長が最初に本陣を置いた。
[11]新御堂山:にいみどうやま=愛知県新城市にあり、嫡男菅九郎(信忠)が陣を敷いた。
[12]高松山:たかまつやま=弾正山(八剣山)の前方後円墳と推定され、徳川家康が陣を敷いた。
[13]あるみ原:あるみはら=有海原。愛知県新城市にある地名。
[14]武田四郎:たけだしろう=武田信玄の息子で、武田家の家督相続者。武田軍の総大将。
[15]柵:さく=馬防柵(まもうさく)のことで、騎馬隊の突進を防ぐために設けられた。
[16]鳳来寺山:ほうらいじさん=愛知県新城市にある695mの山で、信仰の山として伽藍があった。
[17]太山:たいさん=豊川の支流である連子川の右手の山。
[18]鳶の巣山:とびのすやま=長篠城から大野川を隔てた対岸にある山で、武田軍の砦が築かれた。
[19]のりもと川:のりもとがわ=乗本川で、大野川の別名。
[20]滝沢川:たきさわがわ=寒狭川ともいう。
[21]つくで=愛知県新城市作手の地侍衆のこと。
[22]だみね=愛知県北設楽郡設楽町段嶺の地侍衆のこと。
[23]ぶせち=愛知県北設楽郡のどこかの地侍衆のこと。
[24]破損:はそん=損害。
[25]御馬廻:おんままわり=騎馬の武士で、大将の馬の周囲付き添って護衛や伝令及び決戦兵力として用いられた。
[26]凱声:ときのこえ=士気を鼓舞するために、多数の人が一緒に叫ぶ声。
[27]癈忘:はいもう=とまどうこと。
[28]推し太鼓:おしだいこ=進軍の合図に打つ太鼓。
[29]赤武者:あかむしゃ=赤揃えの武者姿の武士。
[30]身がくし:みがくし=身隠し。矢や鉄砲を防ぐために立ち並べた楯など。
[31]黒武者:くろむしゃ=黒揃えの武者姿の武士。
[32]会釈:あいしらい=あしらう。
[33]比類:ひるい=それとくらべられるもの。同じたぐいのもの。
[34]駿馬:しゅんめ=足の速い優れた馬。しゅんば。
[35]高天神の城:たかてんじんのしろ=遠江国城東郡土方(現在の静岡県掛川市)に城跡(国史跡)がある。
[36]岩村の城:いわむらのしろ=美濃国恵那郡岩村(現在の岐阜県恵那市岩村町)に城跡(県史跡)がある。
[37]愁眉を開き:しゅうびをひらき=心配がなくなって、ほっとした顔つきになる。
[38]弓箭:きゅうせん=弓矢を取る身。武士。

<現代語訳>

 5月13日、三河国長篠(現在の愛知県新城市)の後方支援として、織田信長公は嫡男菅九郎(信忠)殿と共に、岐阜城よりご出馬され、その日熱田に陣を張られた。熱田神宮の八剣宮が荒廃し、見る影もないのを目の当たりにして、すぐに修築するよう、大工頭岡部又右衛門に命じた。
 5月14日、岡崎(現在の愛知県岡崎市)に至って着陣し、翌日もここに逗留された。16日は牛窪城に御宿泊となった。この城の警護役として、丸毛長照・福田三河守を置かれ、17日には野田原に野陣を構えられ、18日にさらに押し進んで、設楽の郷極楽寺山に陣を設営され、同時に嫡男菅九郎(信忠)殿は新御堂山へ陣を張られた。
 設楽の郷は、一段と低い窪地となっている所であった。敵方から陣容が見えないよう、段々に約三万の兵を配備された。先陣は当地の国侍が務めるという先例に従って、徳川家康公とし、ころみつ坂上の弾正山に陣を取られ、滝川左近、羽柴藤吉郎、丹羽五郎左衛門の三将は、有海原に上り、武田四郎(勝頼)に差し向かって、東向きに陣を備えた。徳川・滝川の陣前には、馬防ぎの為めの柵を取り付けられたが、この有海原は、左は鳳来寺山より西へ太山が続き、また、右は鳶の巣山より西の方へ連なる深山となっている。山麓を乗本川が山に沿って流れている。両山の北と南の間は、わずかに三十町しか離れていなかった。鳳来寺山麓より流れてきた滝沢川と、北より南に流れてきた乗本川が合流している。長篠は、南西は川となっていて、平坦な地である。川を前にして、武田四郎(勝頼)が鳶の巣山に上がって、陣を張って居続けたならば、どうすることもできなかったであろうが、勝頼は長篠へは七将の攻め手を残し、自らは滝沢川を越えて、有海原へ三十町ほど踏み出してきて、前の谷を防備として、甲斐、信濃、西上野の小幡氏、駿州衆、遠江衆、三河の内で、作手衆・田峯衆・武節衆を加え、総勢一万五千人ほどを、設楽原を前に西向き十三ヶ所に分かれて布陣したものの、互いの陣の間は、わずかに二十町ほどをへだてるばかりであった。この度、両軍が間近く対峙したことは、天祐として、ことごとく敵を討ち果たすべき旨、信長公が戦略を巡らせ、味方を一人として失わぬようにと叡智を働かせられた。坂井左衛門尉(忠次)をお側に呼びつけられ、家康の家来の内、弓・鉄炮に優れている者を選び、坂井左衛門尉(忠次)を大将に二千ばかり、ならびに信長公の御馬廻の鉄炮五百挺と共に、金森五郎八、佐藤六左衛門、青山新七息、賀藤市左衛門、御検使として付けられ、併せて四千ばかりで、5月20日夜の10時過ぎに、乗本川を越えて、南の深山を迂回して、長篠の上、鳶の巣山へと向かった。
 5月21日午前6時過ぎに山上に立ち、旗頭を押し立て、鬨の声をあげて、数百挺の鉄砲を一斉に発射し、敵勢を追い払い、長篠城への入城を果たし、城中の者と一緒になって、敵陣の小屋々々を焼き払った。籠城していた者もたちまち前途を開き、攻め手の七将も予想外の事態となる中でとまどいながら、風来寺に向かって逃げていった。
 信長公は、家康の陣所としている高松山という小高き山にお上りになって、敵の働きを御覧になり、御命令があり次第攻撃すべき旨、前もって申し付けておいた、鉄炮千挺ばかりを佐々蔵介、前田又左衛門、野々村三十郎、福富平左衛門、塙九郎左衛門を御奉行として、近づいた敵に足軽を仕掛けられている様子を御覧になった。前後より攻撃され、敵方も人数を繰り出して応戦してきた。敵の一番手の将は、山懸三郎兵衛で、推し太鼓を打ち鳴らして、かかってきた。しかし、鉄炮で以て、散々に打ち立てられ、引き退いた。二番手の将、武田逍遥軒信廉は、入れ替わり立ち替わり攻めて、退けぼ再び引き付けて攻撃し、信長公の命令どおり、鉄炮で過半数の兵が打たれてしまい、その時に退却していった。三番手の西上野の小幡一党は、赤揃えの武者姿にて、入れ替わり立ち替わり攻めてきた。関東衆として、馬上戦に長けていたが、これまた、騎馬にて、推し太鼓を打ち鳴らして、突撃してきた。こちらも人数を備へて応戦し、身を隠して、鉄炮にて待ち受け、発砲したところ、過半が打ち倒され、戦う人もなくなって、退却した。四番手の典厩一党は、黒揃えの武者姿にて、突撃してきた。
 このように、敵方は入れ替わり立ち変わり突撃してきたが、こちら側は、一人も前に出ず、鉄炮ばかりを打ち続け、足軽にてあしらい、敵方はこれに圧倒され、兵力をそがれ、引き退くばかりとなった。五番手の将、馬場美濃守(信春)も推し太鼓を打ち鳴らして、突撃してきたが、人数を揃えて応戦し、右同様に軍兵が打たれて、引き退いた。
 5月21日、日の出より東北東の方角へ向かって、午後2時頃まで、入れ替わり立ち替わり戦って、敵方は軍兵が打たれ、次第に戦う人がいなくなっていって、何れの軍団も、武田四郎(勝頼)の旗元へ馳せ集まり、到底かなわないと悟った。そこで敵方は、鳳来寺さして、一斉に逃げ落ちていった。その時、敵方は前後の軍勢を乱していったので、信長公は追撃させたが、討ち捕った首の見知った者だけで、山懸三郎兵衛、西上野小幡、横田備中、川窪備後、さなだ源太左衛門、土屋宗蔵、甘利藤蔵、なわ無理介、仁科、高坂叉八郎、興津、岡部、竹雲、恵光寺、根津甚平、土屋備前守、和気善兵衛、馬場美濃守となった。
 中でも、馬場美濃守(信春)の活躍は、比類のない者であった。この他、主だった侍・雑兵一万ほどが討死をした。また、山へ逃げ登って飢死したり、または、橋より落とされて、川へ落ちて溺死した者は、数限りがないことであった。武田四郎(勝頼)秘蔵の馬が、敵方の陣所の虎口に乗り捨てられていたが、いちだんと乗り心ちの良い比類なき名馬との評判を聞き、信長公の御厩に繋がれることとなり、また三河の仕置きについても、沙汰を下された。
 5月25日、信長公は美濃国岐阜に帰陣された。今度の戦いの後、家康公は駿河国へ侵入し、国中を焼き払って、帰陣した。敵方の遠江国高天神城は、尚も武田四郎(勝頼)の掌中にあったが、落城するのも時間の問題と思われた。
 また、美濃国岩村城に入る、秋山・大島・座光寺を大将として甲斐・信濃の軍兵が立て籠っていた。ただちに、嫡男菅九郎(信忠)殿が攻撃に向かわれ、包囲攻城したので、これまた、落城したことはもちろんのことである。
 信長公は、三河・遠江両国の仕置きについて家康公に任され、家康公の長年の心配事がなくなりほっとして、御満足に達せられた。昔からこの様に味方の損害を出すことなしに、完璧に強敵を打ち破った例はないことであった。武勇に優れたものとして、これ以上の武者はおられないと思われ、あたかも朝日が朝露を消してしまうようである。その武と徳は車の車輪にたとえられる。信長公の御名を後世に残そうと望まれ、数ヶ年は、山野海岸をすみかとして、甲冑を枕とし、弓矢をとるものの本意として、天下布武のため、打ち続く御辛労をなされ、これはいくら申しても及ばないことである。
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 今日は、安土桃山時代の1600年(慶長5)に、関ヶ原の戦いが起き、東軍が勝利した日ですが、新暦では10月21日となります。
 この戦いは、美濃国関ヶ原(現在の岐阜県不破郡関ヶ原町)において、徳川家康の率いる東軍と石田三成を中心とする西軍によって行われ、東軍が勝利して徳川氏の覇権が確立、俗に「天下分け目の戦い」と呼ばれてきました。
 1598年(慶長3)豊臣秀吉が亡くなると、五大老・五奉行制に立脚していた豊臣政権は、内部分裂の兆しをみせ始め、五大老筆頭の徳川家康の政権奪取への野望から、石田三成らと対立します。
 石田方には、毛利・宇喜多・上杉・島津・小西など、徳川方には加藤・福島・伊達・黒田などの諸大名がつき、伏見城や岐阜城などでの前哨戦を経た上で、古来からの要衝地である美濃国関ヶ原に双方(東軍約7万対西軍約8万)が布陣しました。
 戦端は、1600年(慶長5年9月15日)午前8時頃、福島隊と宇喜多隊との射撃戦から始まり、全域に拡大し、当初は西軍有利の展開で進んでいたといわれています。午後になって、小早川秀秋の裏切りによって状況は一変し、脇坂ら4隊も続いて寝返り、西軍は総崩れとなって、その日の内に東軍勝利となりました。
 その後、石田三成、小西行長、安国寺恵瓊は捕らえられ、京都六条河原で処刑されます。西軍に荷担した諸大名は改易や減封され、豊臣秀頼も摂津、河内、和泉の65万石の大名に成り下がりました。
 これによって、徳川氏の覇権が事実上確立するに至り、江戸幕府開設へと向かうこととなります。
 尚、主戦場となった関ヶ原古戦場跡は、1931年(昭和6)に国指定の史跡となり、近くに「関ヶ原町歴史民俗資料館」も出来て、この合戦の模様が詳しく展示されるようになりました。

〇関ケ原の戦い関係略年表(日付は旧暦です)

<1598年(慶長3)> 
・8月18日 豊臣秀吉が亡くなる
・10月25日 五大老・五奉行から、日本軍の朝鮮からの帰国が命じられる

<1599年(慶長4)>
・閏3月3日 五大老の一人、前田利家が亡くなる

<1600年(慶長5)>
・6月 上杉景勝が会津に引きこもって家康に抵抗する
・6月18日 家康は、会津の上杉景勝討伐の軍を起こし、伏見城を出立する
・7月2日 家康が江戸城に入る
・7月15日 西軍による伏見城攻撃が始まる
・7月21日 家康は会津へ向かうため江戸城を出る
・7月24日 下野国小山(栃木県小山市)で三成挙兵を知ると軍議を開催する(小山評定)
・8月1日 西軍が伏見城を落とす
・8月23日 東軍先鋒が織田秀信(信長の孫)が守る岐阜城を落城させる
・9月1日 家康が江戸を出立して、西へ向かう
・9月12日 西軍の攻撃で、田辺城に籠城していた細川幽斎が退城する
・9月15日 関ケ原の戦いが行われ、東軍が勝利する
・9月23日 石田三成が捕らえられる
・9月27日 家康が大坂城に入城し、豊臣秀頼と和睦する
・10月1日 石田三成、小西行長、安国寺恵瓊らが京都六条河原で処刑される
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