ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:徳川家康

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 今日は、江戸時代前期の1603年(慶長8)に、徳川家康が征夷大将軍に就任し、江戸幕府を開くこととなった日ですが、新暦では3月24日となります。
 江戸幕府(えどばくふ)は、徳川家康が、1603年(慶長8年2月12日)に、征夷大将軍の宣下を受けて、江戸に開いた武家政権です。1867年(慶応3)に第15代将軍徳川慶喜が大政奉還するまで、265年にわたって継続し、江戸時代と呼ばれました。
 家康以来続いた徳川の宗家は、第7代将軍家継の死で途絶えたのですが、御三家から将軍を迎え継続することになります。その後、将軍継嗣問題が起きたり、三大改革(享保の改革、寛政の改革、天保の改革)を中心とした諸改革も行われましたが、幕府を立て直すことはたいへんでした。
 1853年(嘉永6)にペリーが浦賀に来航して開国を要求し、攘夷運動から倒幕運動へと進み、1867年(慶応3)の大政奉還によって、江戸幕府の終わりを告げています。

〇徳川家康(とくがわ いえやす)とは?

 戦国時代から江戸時代前期の武将・江戸幕府初代将軍です。1542年(天文11年12月26日)に、三河国岡崎(現在の愛知県岡崎市)で、岡崎城主だった父・松平広忠の長男(母は於大の方)として生まれましたが、幼名は竹千代と言いました。
 6歳のとき、人質として駿府(現在の静岡県静岡市)の今川義元のもとへ行く途中を織田方に捕らえられて尾張に送られ、広忠の死後、今川・織田間の捕虜交換協定によって駿府に赴きます。1555年(弘治元)に義元の館で元服し、義元に偏諱をもらい元信(もとのぶ)と名のりますますが、1558年(永禄元)に初陣し、この頃元康と改名しました。
 1560年(永禄3)の桶狭間の戦いでは、大高城兵糧入で武名を挙げたものの、義元が敗死すると、岡崎城に帰り、今川氏から自立します。翌年に織田信長と同盟、1563年(永禄6)に名を家康と改めますが、三河一向一揆に悩まされました。
 翌年これを鎮圧、同年三河一国を平定し、1567年(永禄9)に松平を徳川と改姓、東方への進出を図り、1570年(元亀元)には浜松に本拠を移します。同年の姉川の戦いで信長とともに浅井・朝倉連合軍を撃破し、その後、武田信玄と絶って上杉謙信と同盟したものの、1572年(元亀3)の三方原の戦いで信玄に大敗しました。
 しかし、1575年(天正3)の長篠の戦で家康・信長連合軍は武田勝頼の軍に大勝し、1582年(天正10)に信長が武田氏を滅ぼすと家康は駿河を手に入れます。同年に本能寺の変において信長が死亡すると、天正壬午の乱を制して甲斐・信濃を手中に収め、5ヶ国を領有する大大名となりました。
 1584年(天正12)には、羽柴(のち豊臣)秀吉と小牧・長久手の戦いで対峙しましたが、和睦して臣下となり、駿府に本拠を移します。1590年(天正18)に秀吉の小田原征伐に従軍、後北条氏滅亡後はその旧領(関八州)に移封されて江戸城に入りました。
 1596年(慶長元)に正二位内大臣となり、五大老の筆頭として、秀吉政権下で重きをなします。秀吉の死後は朝鮮からの諸大名の撤兵を指揮、石田三成と反目して、1600年(慶長5)の関ヶ原の戦いに至ったものの、これに勝利し、1603年(慶長8)に征夷大将軍となって江戸幕府を開きました。
 1605年(慶長10)に将軍職を秀忠に譲りましたが、大御所として実権を握りつづけます。1614年(慶長19)から翌年にかけての大坂冬・夏の陣で豊臣氏を滅ぼし、名実共に天下を統一して幕府の基礎を固めたものの、1616年(元和2年4月17日)に、駿府において、数え年75歳で亡くなりました。

☆江戸幕府の歴代将軍(徳川家)一覧

【初代】家康(いえやす)[1603年(慶長8)~1605年(慶長10)]
・1603年 徳川家康が征夷大将軍となり江戸幕府を開く
・1605年 将軍職を秀忠にゆずる(将軍職の世襲制を示す)

【2代】秀忠(ひでただ)[1605年(慶長10)~1623年(元和9)]
・1612年 幕府が直轄領に禁教令を出す
・1614年 大坂の役(~1615年)が起こる
・1615年 一国一城令が発布される
     武家諸法度・禁中並公家諸法度が出される
【3代】家光(いえみつ)[1623年(元和9)~1651年(慶安4)]
・1625年 関所・駅伝の制を定める
・1635年 武家諸法度で参勤交代を制度化する
・1637年 島原の乱が起こる
・1639年 ポルトガル船の来航を禁止する(鎖国の完成)
・1641年 オランダ人を長崎の出島に移す
・1644年 宗門改めの制を定める
・1649年 慶安の御触書が出される

【4代】家綱(いえつな)[1651年(慶安4)~1680年(延宝8)]
・1651年 慶安事変(由井正雪の乱)が起こる
・1657年 江戸で明暦の大火が起こる
・1673年 分地制限令が制定される

【5代】綱吉(つなよし)[1680年(延宝8)~1709年(宝永6)]
・1685年 生類憐れみの令が出される
・1688年 柳沢吉保が側用人になる
・1690年 聖堂を湯島に移し、昌平坂学問所を付設する
・1702年 赤穂事件が起こる
・1707年 富士山宝永噴火が起こる

【6代】家宣(いえのぶ)[1709年(宝永6)~1712年(正徳2)]
・1709年 新井白石の改革(正徳の治)が行われる
・1711年 朝鮮通信使の待遇簡素化される

【7代】家継(いえつぐ)[1712年(正徳2)~1716年(享保元)]
・1714年 正徳金銀の改鋳が行われる
・1715年 海舶互市新令が出される
・1716年 家継が8歳で没する

【8代】吉宗(よしむね)[1716年(享保元)~1745年(寛保5)]
1721年 目安箱が設置される
・1722年 上げ米の制をもうけ、参勤交代をゆるめる
・1723年 足高の制を定め、人材を登用する
・1732年 享保の大飢饉が起こる
・1742年 公事方御定書を出し、裁判の基準を定める

【9代】家重(いえしげ)[1745年(寛保5)~1760年(宝暦10)]
・1753年 薩摩藩に木曽川改修を命じる(宝暦治水)
・1758年 宝暦事件が起こる

【10代】家治(いえはる)[1760年(宝暦10)~1786年(天明7)]
  1772年 江戸で明和の大火が起こる
・1767年 田沼意次が側用人になる
・1782年 印旛沼・手賀沼の干拓工事
      天明の大飢饉(~1787年)が起こる
・1783年 浅間山天明大噴火が起こる

【11代】家斉(いえなり)[1787年(天明7)~1837年(天保8)]
・1789年 棄捐令が出される
・1790年 朱子学以外の学問が禁止される(寛政異学の禁)
・1808年 フェートン号事件が起こる
・1825年 異国船打払令が出される
・1833年 天保の大飢饉が起こる
・1837年 大塩平八郎の乱が起こる

【12代】家慶(いえよし)[1837年(天保8)~1853年(嘉永6)]
・1839年 蛮社の獄(渡辺崋山、高野長英ら処罰)
・1841年 株仲間解散令が出される
・1843年 人返しの法が制定される
      上知令が制定される
・1853年 ペリ-が浦賀に来航し、開国を要求

【13代】家定(いえさだ)[1853年(嘉永6)~1858年(安政5)]
・1854年 アメリカと日米和親条約を結ぶ
      日露和親条約(国境画定)
・1855年 長崎に海軍伝習所が設置される
・1856年 ハリスが総領事として着任する
・1853年 アメリカと日米修好通商条約を結ぶ

【14代】家茂(いえもち)[1858年(安政5)~1866年(慶応2)]
・1858年 安政の大獄が起こる
・1860年 桜田門外の変で井伊直弼が殺される
・1862年 坂下門外の変が起こる
      和宮が将軍家茂に降嫁する
      生麦事件が起こる
・1863年 薩英戦争が起こる
・1864年 禁門の変が起こる
      下関事件が起こる
      長州征伐(第一次)が行われる
・1865年 長州征伐(第二次)が行われる

【15代】慶喜(よしのぶ)[1866年(慶応2)~1867年(慶応3)]
・1867年 兵庫開港の勅許が出される
      大政奉還が行われる
      王政復古の大号令が発せられる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

729年(神亀6)長屋王が謀叛の疑いで邸宅を包囲され自害する(新暦3月16日)詳細
1231年(寛喜3)第87代の天皇とされる四条天皇の誕生日(新暦3月17日)詳細
1386年(至徳3/元中3)室町幕府第4代将軍足利義持の誕生日(新暦3月12日)詳細
1823年(文政6)写真業創始者・写真家・画家下岡蓮杖の誕生日(新暦3月24日)詳細
1889年(明治22)黒田清隆内閣総理大臣が鹿鳴館において、地方長官らに対し超然主義演説をする詳細
1947年(昭和22)志賀直哉が会長となって日本ペンクラブを再建する詳細
1954年(昭和29)物理学者・冶金学者本多光太郎の命日詳細
1996年(平成8)小説家司馬遼太郎の命日詳細
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 今日は、安土桃山時代の1584年(天正12)に、小牧・長久手の戦いの中の長久手の戦いが行われ、徳川軍が勝利した日ですが、新暦では5月18日となります。
 小牧・長久手の戦い(こまき・ながくてのたたかい)は、安土桃山時代の1584年(天正12)に、尾張平野を主戦場に羽柴秀吉軍と織田信雄・徳川家康軍によって争われた戦いでした。その中で、最大の戦いとなったのが、長久手の戦いです。
 その前に、羽黒の戦いなどがあったものの、家康・信雄が小牧山に、秀吉が犬山城に入って、両軍が小牧付近にて対陣状態に陥っている時に、池田恒興(勝入)は秀吉のもとを訪れて、「兵を三河に出して空虚を襲い各所に放火して脅威すれば徳川は小牧を守ることができなくなるであろう。」と献策しました。それを受けて、秀吉はこれを許可し、4月6日に岡崎侵攻隊(第一隊池田恒興勢兵5,000人、第二隊森長可勢兵3,000人、第三隊堀秀政勢兵3,000人、第四隊羽柴秀次勢兵9,000人)が出発します。
 7日に岡崎侵攻隊は、上条村に入って砦を築いて宿営しましたが、午後4時に篠木の住民が秀吉軍岡崎侵攻隊の駐屯を家康に密告しました。これを聞いた家康は、午後7時に小牧を先遣隊に出発させ、午後10時に小幡城に入れ、午後8時には家康自身が9,300人の兵を率いて小牧山を出発し、小幡城へ入ります。
 8日に第四隊の羽柴秀次勢は行軍を再開しましたが、9日未明に白山林で徳川軍に攻撃されて敗走しました。しかし、第三隊の堀秀政勢が救援に駆け付け、桧ヶ根において徳川軍を撃退したものの、家康の出現を知り後退します。
 一方、第一隊の池田恒興勢は丹羽氏重が守備する岩崎城(現在の日進市)を陥落させましたが、徳川軍の出撃を知り、第二隊の森長可勢と共に、長久手付近で迎撃態勢を取りました。午前10時頃から両軍が戦端を開き、激戦が2時間余り続いたものの、第二隊長の森長可が狙撃されて討死して、左翼から崩れ始め、徳川軍優勢となる中、第一隊長の池田恒興も討死にし、総崩れとなります。
 秀吉は戦況を知り、3万人の軍勢を率いて戦場へと急行しましたが、行く手を阻まれ、夕刻になって、「家康は小幡城にいる」との報を受けました。翌朝の攻撃を決めたものの、家康と信雄は夜間に、小幡城を出て小牧山城に帰還してしまったので、秀吉も楽田に退きます。
 その後、蟹江城合戦や楽田城・岩倉城の戦いなどがあり、尾張以外にも美濃西部、美濃東部、伊勢北部、紀伊、和泉、摂津など全国規模の合戦でしたが、勝敗は決せず、長期戦となったため講和を結んで終結しました。    

〇小牧・長久手の戦い関係略年表(日付は旧暦です)

<天正12年(1584年)>

・3月3日:信雄が秀吉と気脈を通じたとして家来の三老臣を殺害、三老臣の居城である星崎城・松ヶ島城・苅安賀城を攻め落とす
・3月7日:家康が信雄救援のため浜松城を出発する
・3月13日:家康が信雄の居城清須城に入って会談、池田恒興、犬山城を奇襲して奪取する
・3月17日:家康が羽黒の森長可を攻撃(羽黒の戦い)して、勝利をおさめる
・3月18日:家康が榊原康政に小牧山の築塁を命じる
・3月21日:秀吉が大坂城を発つ
・3月22日:小牧山の防御工事完了
・3月23日:蟹清水砦・北外山砦・宇田津砦が完成する
・3月24日:小幡と比良の旧城を修理し、三河と清須への連砦とする
・3月27日:秀吉が犬山城に入り、二重堀・岩崎・小松寺山・青塚・内久保等の砦を築かせる
・3月28日:家康が小牧山へ入る
・3月29日:信雄が小牧山へ入り、家康が田楽砦を築き、小牧山に通じる軍道を開く
・4月2日:秀吉軍が姥ヶ懐へ来襲する
・4月3日:家康軍が二重堀を奇襲する
・4月4日:秀吉が岩崎山と二重堀の間に長さ約2kmの土塁を築く、池田勝入が三河侵攻策を献策する
・4月5日:家康が小牧山北麗と八幡塚の間に土塁を築く
・4月6日:秀吉が犬山城から楽田砦へ本営を移し、秀吉軍の岡崎侵攻隊、尾張東部の丘陵地帯を迂回して岡崎方面への進軍を開始する
・4月7日:岡崎侵攻隊、上条村に入り、砦を築いて宿営、午後4時篠木の住民が秀吉軍岡崎侵攻隊の駐屯を家康に密告、午後7時徳川先遣隊が小牧を出発、午後8時には家康が小牧山を出発、小幡城へ入る
・4月8日:秀次勢は行軍を再開する
・4月9日:岡崎侵攻隊の先鋒池田隊、岩崎城を攻め落とす、三好隊白山林の戦いで敗走、桧ヶ根の戦い、長久手の合戦(昼合戦)において、森長可・池田恒興が戦死、午後5時秀吉が楽田砦を出発し竜泉寺に入る、午後8時家康が小幡城を出発し、小牧山へ戻る
・4月10日:秀吉が楽田に戻る
・4月14日:秀吉軍が羽黒の旧城を修復する
・5月1日:秀吉が青塚・楽田・犬山に一部を残して小牧より撤退する
・6月16日:前田与十郎、家康軍に背き、秀吉軍の滝川一益、九鬼嘉隆等を蟹江・前田・下市場の各城へ迎え入れる
・6月18日:家康軍が前田城を攻める
・6月19日:家康軍が下市場城を攻める
・6月22日:家康軍が蟹江城を攻める
・7月3日:家康軍が蟹江城を再び手中に収める
・8月19日:秀吉軍が小口・羽黒に兵を進める
・8月28日:秀吉軍が小折に兵を進める
・11月11日:信雄単独で秀吉と講和する
・11月16日:家康は大義名分失い、浜松へ戻る。  
・12月:家康が次男秀康を人質として秀吉に送る

<天正14年(1586年)>

・5月:秀吉が異父妹の旭姫(あさひひめ)を離縁させ、家康の正室として送り込む
・10月:家康が大阪城で秀康に謁見し臣従する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

752年(天平勝宝4)奈良・東大寺の蘆舎那仏(東大寺大仏)の開眼供養が行われる(新暦5月26日)詳細
1892年(明治25)詩人・小説家佐藤春夫の誕生日詳細
1922年(大正11)日本最初の農民組合の統一組織である日本農民組合が創立される詳細
1976年(昭和51)小説家・劇作家武者小路実篤の命日詳細
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 今日は、江戸時代前期の慶長18年に、徳川秀忠により、「伴天連追放之文(禁教令)」が公布された日ですが、新暦では1614年2月1日となります。
 「伴天連追放之文[禁教令]」(ばてれんついほうのふみ)は、江戸幕府第2代将軍徳川秀忠名で発布されたキリスト教禁止を全国に広げた法令でした。それ以前の1612年4月21日(慶長17年3月21日)に、江戸幕府は江戸・京都・駿府を始めとする直轄地に対して「禁教令」を布告し、教会の破壊と布教の禁止を命じ、諸大名についても「国々御法度」として受け止め、同様の施策を行っています。
 しかし、一方でポルトガル等との貿易は継続していたので、その趣旨は徹底せず、潜伏する者もいて、一部で伝道者たちが残り、依然としてキリスト教の活動は続くこととなりました。そこで、「禁教令」の全国への徹底を意図して、徳川家康は金地院崇伝に命じて、「伴天連追放之文」を起草させ、1614年2月1日(慶長18年12月23日)に徳川秀忠の名で公布します。
 これは、南蛮人と日本人たるとを問わず、またイエズス会、フランシスコ会の区別なく、伝道者たちを日本から徹底的に追放することを意図したものとなりました。これによって長崎と京都にあった教会は破壊され、翌1614年11月(慶長19年9月)には修道会士や主だったキリスト教徒がマカオやマニラに国外追放されています。
 以後、江渡幕府のキリスト教に対する基本法となって継続されていきました。
 以下に、伴天連追放之文(禁教令)を現代語訳・注釈付で全文掲載しておきますので、ご参照下さい。
 
☆伴天連追放之文(禁教令) (全文)  1614年2月1日(慶長18年12月23日)発布 

<原文> 

乾為父坤為母、人生於其中間、三才於是定矣、夫日本者、元是神国也、陰陽不測、名之謂神、聖之為聖、霊之為霊、誰不尊崇、況人之得生、悉陰陽之所感成、五体六塵、起居動静、須臾不離神、神非求乎他、人々具足、介々円成、廼是神之体也。又称仏国、不無據、文云、惟神明垂迹国、而大日之本国矣、法華曰、諸仏救世者、住於大神通、為悦衆生故、現無量神力、此金口妙文、神與仏其名異、而其趣一者、恰如合符節、上古緇素、各蒙神助、航大洋而遠入震旦、求仏家之法、求仁道之教、孜孜矻矻、而内外之典籍負将来、後来之末学、師々相承的々伝受、仏法之昌盛、超越於異朝、豈是非仏法東漸乎、爰吉利支丹之徒党、適来於日本、非啻渡商船而通資材、叨欲弘邪法惑正宗、以改域中之政号、作己有、是大禍之萌也、不可有不制矣、日本者神国仏国、而尊神敬仏、専仁義之道、匡善悪之法、有過犯之輩、随其軽重、行墨劓剕宮大辟之五刑、礼云、喪多而服五、罪多而刑五、有罪之疑者、乃以神為證誓、定罪罰之条目、犯不犯之区別、繊毫不差、五逆十悪之罪人者、是仏神三宝、人天大衆之所弃捐也、積悪之余殃難逃、或斬罪、或炮烙、獲罪如是、勧善懲悪之道也、欲制悪悪易積、欲進善害難保、豈不加炳誡乎、現世猶如此、後世冥道閣老之呵責、三世諸仏難救、歴代列祖不奈、可畏、可畏、彼伴天連徒党、皆反件政令、嫌疑神道、誹謗正方、残義損善、見有刑人、載欣載奔、自拝自礼、以是為宗之本懐、非邪法何哉、実神敵仏敵也、急不禁、後世必有国家之患、殊司号令不制之、却蒙天譴矣、日本国之内、寸土尺地、無所措手足、速掃攘之、強有違命者、可刑罰之、今幸受天之詔命、主于日域、乗国柄者、有年於茲、外顕五常之至徳、内帰一大之蔵教、是故国豊民安、経曰、現世安穏、後世善処、孔子亦日、身体髪膚、受于父母、不敢毀傷、孝之始也、全其身乃是敬神也、早斥彼邪法、弥昌吾正法、世既雖及繞季、益神道仏法紹隆之善政也、一天四海、宜承知、莫敢遺失矣。
    慶長十八龍集癸丑臘月日
      御朱印 

   『異国日記』より

*縦書きの原文を横書きに改め、句読点を付してあります。
 
<読み下し文>

乾[1]は父と爲し、坤[2]は母と爲す。人其の中間[3]に生まる。三才[4]是に於て定まる。夫れ日本は元是れ神国也。陰陽[5]測られず、これを名づけて神と謂う。聖の聖為る、霊の霊為る、誰か尊崇[6]せざらん。況人の生を得る、悉く陰陽[5]の感ずる所成り。五体[7]六塵[8]、起居動静[9]、須臾[10]も神を離れず、神は他に求むるにあらず。人々具足[11]、介々円成[12]、廼ち是神の体也。又仏国と称する、據る[13]無からず。文に云わく、惟神明[14]垂迹[15]の国、而して大日[16]の本国たりと。法華[17]に曰く、諸仏の救世[18]は、大神通[19]に住す、衆生[20]を悦ばすが為の故に、無量[21]の神力を現す。此の金口[22]妙文[23]、神と佛と其名異なりて、而して其趣一なるは、恰も符節[24]を合するが如し。上古緇素[25]、各神助[26]を蒙り、大洋を航して遠く震旦[27]に入り、仏家の法を求め、仁道[28]の教を求めて、孜孜矻矻[29]たり。而して内外の典籍[30]負て将来[31]し、後来の末学[32]、師々相承け的々伝受[33]し、仏法の昌盛、異朝[34]に超越す。豈是仏法の東漸[35]に非ずや。爰に吉利支丹の徒黨[36]、適日本に來り、啻に商船を渡して資財を通ずるのみに非ず、叨るに、邪法[37]を弘め、正宗[38]を惑はさんと欲し、以つて域中の政號[39]を改めて、己が有と作さんとす。是れ、大禍の萠[40]なり。制せずんば有るべからず。日本は神国・佛国にして、神を尊び、佛を敬す。仁義[41]の道を専らにし、善悪の法を匡し、過犯[42]の輩有らば、其軽重に随い、墨劓剕宮大辟[43]の五刑を行う。礼に云く、喪多くして服五[44]、罪多くして刑五[45]、罪の疑有る者は、乃ち神を以て證誓[46]と為し、罪罰の条目を定め、犯不犯の区別、繊毫[47]も差わず、五逆十悪[48]の罪人は、是仏神三宝、人天大衆の弃捐[49]する所なり。積悪の余殃[50]逃れ難し、或は斬罪に、或は炮烙[51]に、罪を獲る是の如し、勧善懲悪[52]の道なり、悪を制せんと欲して悪積み易く、善を進めんと欲して害保ち難し、豈炳誡[53]を加えざらんや。現世猶此の如し、後世冥道[54]閣老[55]の呵責[56]、三世諸仏[57]も救い難く、歴代の列祖[58]奈ともせず、畏るべし、畏るべし。彼の伴天連[59]の徒党、皆件の政令[60]に反し、神道を嫌疑し、正法[61]を誹謗し、義を残ひ善を損じ、刑人有るを見ては、載ち欣び載ち奔り、自ら拝し自ら礼し、是を以て宗の本懐[62]と爲す。邪法[37]に非ずして何ぞや。実に神敵佛敵なり。急ぎ禁ぜずんば、後世必ず国家の患あらん。殊に号令を司って之を制せずんば、却て天譴[63]を蒙らん。日本国の内、寸土の尺地[64]、手足を措く所無し[65]。強いて 違命[66]有らば、之れを刑罰すべし。今幸に天の詔命[67]を受け、日域[68]に主となり、国柄[69]を乗る者、茲に年有り。外五常[70]の至徳を顕し、内一大の蔵教[71]に帰す。是故に国豊にして民安し、経に曰く、現世安穏[72]、後世善処[73]と、孔夫子亦曰く、身躰髪膚[74]、父母に受く、放て毀傷[75]せざるは孝の始也と。全きその身乃ちこれ敬神也。早く彼の邪法[37]を斥けば、弥々吾が正法[61]昌んならん。世既に澆季[76]と雖も、益々神道仏法紹隆[77]の善政也。一天四海[78]宜しく承知すべし。敢て違失[79]するなかれ。
 慶長十八年龍集癸丑臘月日
      御朱印
 
【注釈】

[1]乾:けん=そら。天。あめ。 
[2]坤:こん=土地。大地。つち。 
[3]中間:ちゅうげん=二つのものの間にあるもの、間に考えられるもの。 
[4]三才:さんさい=世界を形成するものとしての天・地・人の称。三元。三儀。三極。 
[5]陰陽:おんよう=易で、相対する概念。陰(いん)と陽。いんよう。 
[6]尊崇:そんすう=尊びあがめること。尊敬。 
[7]五体:ごたい=身体の五つの部分。筋、脈、肉、骨、毛皮の称。 
[8]六塵:ろくじん=色・声・香・味・触・法の六境のこと。心を汚し煩悩を起こさせるのでいう。 
[9]起居動静:きこどうじょう=起きること、居ること、働くこと、静かにしていること。日常の動作、生活をいう。 
[10]須臾:しゅゆ=短い時間。しばらくの間。ほんの少しの間。 
[11]人々具足:にんにんぐそく=人には、それぞれみな仏性(ぶっしょう)がそなわっているということ。 
[12]介々円成:かいかいえんじょう=助け合って円満に成就すること。 
[13]據る:よる=よりどころ。 
[14]神明:しんめい=神。神祇(じんぎ)。 
[15]垂迹:すいじゃく=仏教と神道とが結びついて生れた思想で,仏や菩薩が衆生を仏道に引入れるために,かりに神々の姿となって示現すること。
[16]大日:だいにち=密教の中心本尊である大日如来のこと。 
[17]法華:ほっけ=大乗仏教の最も重要な経典の一つである法華経のこと。 
[18]救世:きゅうせい=乱れた世の人々を救うこと。特に、宗教の力でこの世の苦しみや罪悪から人々を救うこと。 
[19]神通:じんつう=無礙自在で超人的な不思議な力。また、そのはたらき。霊妙ではかり知れず、自由自在にどんな事をもなしうる働きや力。 
[20]衆生:しゅじょう=迷いの世界にあるあらゆる生類。仏の救済の対象となるもの。いきとしいけるもの。 
[21]無量:むりょう=はかりしれなく大きいこと。限りもなく多いこと。莫大であること。 
[22]金口:きんこう=仏を尊んでその口をいう語。仏の金色の口。転じて、仏の言説。尊い言葉。 
[23]妙文:みょうぶん=霊妙な経典。特に、法華経。 
[24]符節:ふせつ=割符(わりふ)のこと。 
[25]緇素:しそ=僧侶と俗人。僧俗。 
[26]神助:しんじょ=神の慈悲の力によるたすけ。天佑。 
[27]震旦:しんたん=振旦,真丹とも書く。中国の古称。 
[28]仁道:じんどう=仁の道。人としてふみ行なうべき道。 
[29]孜孜矻矻:ししこつこつ=たゆまず熱心に励む。 
[30]典籍:てんせき=書物。書籍。本。 
[31]将来:しょうらい=引き連れてくること。特に、外国など他の土地から持ってくること。 
[32]末学:まつがく=学者が自分のことをへりくだっていう語。浅学。 
[33]伝受:でんじゅ=伝え受けること。伝授されること。 
[34]異朝:いちょう=外国。異国。 
[35]東漸:とうぜん=勢力がしだいしだいに東方へと移り進むこと。 
[36]吉利支丹の徒黨:きりしたんのととう=キリスト教の一団。 
[37]邪法:じゃほう=人を惑わし、世間に害を与えるような教え。邪道。ここでは、キリスト教のこと。 
[38]正宗:しょうしゅう=正しい肝腎の本旨。ここでは日本本来の宗教つまり、仏教・神教のこと。 
[39]域中の政號:いきちゅうのせいごう=天下の政治。 
[40]大禍の萠:たいかのきざし=大きなわざわいのきざし。大きな災難の前兆。 
[41]仁義:じんぎ=儒教道徳の根本理念で、ひろく人や物を愛し、物事のよろしきを得て正しい筋道にかなうこと。 
[42]過犯:かはん=罪科を犯すこと。また、犯した罪科。犯罪。 
[43]墨劓剕宮大辟:ぼくぎひきゅうたいへき=罪人に対する五つの刑罰。古代中国では墨(いれずみ)、劓(はなきり)、剕(あしきり)、宮(男子の去勢、女子の陰部の縫合)、大辟(くびきり)をさす。 
[44]喪多くして服五:もおおくしてふくご=喪服は多くても五つ。 
[45]罪多くして刑五:つみおおくしてけいご=罪人に対する刑罰は多くても五つ。 
[46]證誓:しょうせい=誓いの証とすること。 
[47]繊毫:せんごう=細かい毛。きわめてわずかなこと、非常に小さなこと、ささいなことのたとえとされる。 
[48]五逆十悪:ごぎゃくじゅうあく=父・母・仏道修行者を殺す、僧団の和合を壊す、仏の身体を傷つけるの「五逆」と殺生・偸盗・邪淫・妄語・綺語・悪口・両舌・貪欲・瞋恚・愚癡の「十悪」のこと。 
[49]弃捐:きそん=捨てて用いないこと。捨ててかえりみないこと。 
[50]余殃:よおう=悪事のむくいとして起こる災禍。先祖の行なった悪事のむくい。余慶に対していう。 
[51]炮烙:ほうらく=あぶり焼くこと。 
[52]勧善懲悪:かんぜんちょうあく=善良な人や善良な行いを奨励して、悪者や悪い行いを懲こらしめること。 
[53]炳誡:へいかい=あきらかないましめ。炯戒(けいかい)。 
[54]冥道:みょうどう=死後の世界。特に閻魔王のいるところ。地獄。冥界。冥府。 
[55]閣老:かくろう=宮廷の高官。江戸幕府の役職、老中の異称。 
[56]呵責:かしゃく=厳しくとがめてしかること。責めさいなむこと。 
[57]三世諸仏:さんぜしょぶつ=過去・現在・未来の3世にわたって存在する一切の仏。 
[58]列祖:れっそ=代々の祖先。歴代の先祖。列宗。 
[59]伴天連:ばてれん=キリシタン宣教師のうちの司祭。 
[60]件の政令:くだんのせいれい=江戸幕府の法令のこと。 
[61]正法:しょうぼう=正しい教法。仏教のこと。 
[62]本懐:ほんかい=かねてからの願い。本意。本望。本願。 
[63]天譴:てんけん=天のとがめ。天帝が、ふとどきな者にくだすとがめ。天罰。 
[64]寸土の尺地:すんどのせきち=わずかな土地。せまい土地。 
[65]手足を措く所無し:しゅそくをおくところなし=安心して身をおく場所がない。安んじて生活できる所がない。 
[66]違命:いめい=言い付けにそむくこと。命令に背くこと。 
[67]詔命:しょうめい=天子の命令。みことのり。 
[68]日域:じちいき=日が照らす域内。転じて、天下。 
[69]国柄:こくへい=国家を統治する権力。政権。国権。 
[70]五常:ごじょう=儒教で、人が常に行なうべき五種の正しい道をいう。通例、仁、義、礼、智(知)、信。 
[71]蔵教:ぞうきょう=天台教学で釈迦一代の教説を分類した四教の一つ。三蔵教の略称。 
[72]現世安穏:げんせあんおん=現世では安穏に生活できるということ。 
[73]後世善処:ごしょうぜんしょ=後生ではよい世界に生まれるということ。 
[74]身躰髪膚:しんたいはっぷ=肉体と髪と皮膚、すなわち、からだ全体。 
[75]毀傷:きしょう=そこない傷つけること。傷つけ、こわすこと。損傷。 
[76]澆季:ぎょうき=道徳の薄れた人情軽薄な末の世。末世。 
[77]紹隆:しょうりゅう=先人の事業を受け継いで、さらに盛んにすること。 
[78]一天四海:いってんしかい=天の下と四方の海。天下全体。全世界。 
[79]違失:いしつ=まちがうこと。しくじり。過失。落度。 

<現代語訳>  伴天連追放之文

天は父となり、地は母となる。人間はその二つの間に生まれたものだ。天・地・人すべてはこの道理によっている。そもそも日本は、元来神国である。陰陽の働きは人智を超えたものがあって測り知れず、これを名づけて神という。聖の中の聖であり、霊の中の霊であり、誰か尊崇しないものはいない。まして人の生を得ること、ことごとく陰陽の感ずる所である。体のすべて、煩悩のすべて、起きていても寝ていても、一瞬も神は離れず、神は他に求めるものではない。人にはそれぞれみな仏性が備わっていて、助け合って円満に成就している。すなわちこれが神の姿である。また仏の国と称するのは、よりどころがないわけではない。書に言うことには、「よく考えてみると仏や菩薩が衆生を仏道に引入れるために神々の姿となって示現する国である、それに加えて大日如来の本国である。」と。『法華経』に言うことには、「諸仏の救世は、偉大で無礙自在で超人的な不思議な力に定まる、いきとしいけるものを悦ばすがためによって、はかりしれないの神力の霊験を示す。」と。この尊い言葉と霊妙な経典、神と仏はその名前は異なっているがその目的とするところは同じであたかも勘合符がぴったりと合うようなものだ。大昔から僧侶と俗人、各々が神の慈悲の力による助けをいただいて、大洋を航海して遠く中国に入って、仏家の法を求め、仁道の教を求めて、たゆまず熱心に励んだ。そのようにして仏教と儒教の典籍を背負って持ち来たり、行く末の学者が、師から弟子へ引き継いでその正しきを伝授し、仏法が昌盛し、外国に勝った。まさにこれは仏法の東方への進出に他ならない。ここにキリシタンの一団がたまたま日本にやったて来た。彼らは、ただ、商船を遣わして貿易するだけでなく、勝手に邪悪な教え(キリスト教)を布教して神仏を惑わし、日本の政治を改め、自分の領土としてしまおうと望んでいる。これは明らかに大きな災難の前兆である。禁止をしないわけにはいかない。日本は神の国・仏の国であり、これらを敬っている。仁義の道を専らにし、善悪の法を正しくし、犯罪を犯す者が有れば、その重さに従って、墨(いれずみ)、劓(はなきり)、剕(あしきり)、宮(男子の去勢、女子の陰部の縫合)、大辟(くびきり)の五刑を行う。『礼記』に言うことには、「喪服は多くても五つ、罪人に対する刑罰は多くても五つ」と、罪の疑いが有る者は、すなわち神をもって誓いの証とし、罪罰の条目を定め、罪を犯したか犯していないかの区別は、極めてわずかでも違わず、五逆十悪を犯す罪人は、これ仏教・神教の本尊・布教者・経典においても、人と天そして大衆の捨てて顧みないものである。積み重なった悪事の災禍から逃れることはできない、あるいは首切りの刑に、あるいは火あぶりの刑に、罪を判断すればこのとおりで、善良な人や善良な行いを奨励して、悪者や悪い行いを懲こらしめる道である、悪を制止しようと欲しても悪を積みやすく、善を進めようと欲しても害を保ち難いもので、どうしてあきらかな戒めを加えないでおかれようか。現世でもなおこのようであり、後の世の死後世界の高官の厳しいとがめ、過去・現在・未来の三世にわたって存在する一切の仏も救い難く、歴代の先祖もどうしようもない、畏るべきこと、畏るべきこと。あのバテレンの集団がみな幕府の政令に違反し、神道を疑い仏法を非難し、義や善い行いまで否定している。罪人として死刑になったものをみては、かえって喜び、走り回り、これを拝んでいる。これがこの宗教の正体である。これが邪悪な教えでなくてなんであろうか。まさに、神道の敵・仏法の敵である。急いで禁じなければ、後に必ず国家の禍になるであろう。わざわざ命令してこれを禁止しなければさらなる天の災いを被るであろう。日本国の内、わずかな土地でも、彼らが安心して身をおく場所は存在しない。強いて命令に背くことが有るならば、これに刑罰を課すべきである。今幸なことに天皇の命令を受け、天下の主となり、政権をつかさどる者、ここに年月が経過する。儒教の仁・義・礼・智・信の最高の徳を明らかにし、仏教で非常に重要な三蔵教に帰依する。これによって豊かな国となって、人々は心穏やかである。『法華経』に言うことには、「現世では安穏に生活でき、後生ではよい世界に生まれる」と、孔子がまた言うことには、「わが身体は両手・両足を始め毛髪・皮膚に至るまで、すべて父母から戴いたものであり、これを傷つけないようすることが孝行の始めである。」と。完全であるその身体すなわちこれは神を尊び敬うことである。一刻も早くこの邪宗教(キリスト教)を退け、われらが仏の御教えを盛んにしなければならない。世の中はすでに末法の世であるが神様の道、仏の道を開いていくよき政令である。天下の人々はこのことをしっかりと承知すべきである。決して間違ってはならない。

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 今日は、戦国時代の1570年(元亀元)に、姉川の戦いで織田信長・徳川家康連合軍が浅井・朝倉連合軍を破った日ですが、新暦では7月30日となります。
 姉川の戦い(あねがわのたたかい)は、近江国姉川付近(現在の滋賀県長浜市)で、約2万1千人の浅井・朝倉連合軍と約3万4千人の織田信長・徳川家康連合軍との間で行われた戦国合戦の一つでした。織田・徳川連合軍が勝利しましたが、序盤では浅井・朝倉連合軍が優勢だったものの、家康軍の奮闘により、形勢が逆転します。この結果、千人以上の死者が出て、姉川は血に染まり、朝倉軍は越前に敗走し、浅井軍も小谷城に逃げ込み、その後の浅井、朝倉両氏の滅亡の遠因となりました。
 姉川周辺には、野村の姉川戦死者之碑やちはら公園の姉川古戦場跡の碑、浅井氏の家臣三田村氏館跡、織田軍の本陣があった龍ヶ鼻陣所(茶臼山古墳)、浅井長政の家臣遠藤直経の墓などがあって、巡ってみると古の激しい闘いを追想することができます。
 以下に、『信長公記』巻三のあね川合戦の事を現代語訳・注釈付で掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇『信長公記』巻三

あね川合戦の事

 然処、朝倉孫三郎後巻[1]とし而、八千計ニ而罷立、大谷[2]之東をより山[3]とて東西へ長き山有、彼山ニ陣取候。同浅井備前人数五千計相加、都合一万三千之人数、六月廿七日之暁、致陣払罷退候と存候処、廿八日未明に、卅町計かゝり来、あね川[4]を前ニあて、野村之郷・三田村両郷へ移、二手に備候。西ハ三田村口一番合戦、家康卿むかハせられ、東ハ野村之郷備之手へ、信長御馬廻、又東者、美濃三人衆氏家・伊賀・稲葉、諸手[5]一度ニ切かゝり、六月廿八日卯刻[6]、丑寅[7]へ向而被蒙御一戦、御敵あね川[4]を越、信長之御手前へさし懸、推つ返しつ散〳〵に入乱れ黒煙立て、しのきをけつり鍔をわり、爰かしこにて思々の働有、終に追崩し[8]、手前において討捕る頸の注文、
 真柄十郎左衛門、此頸青木所右衛門是ょ討とる。前波新八・前波新太郎・小林端周軒・魚住竜文寺・黒坂備中・弓削六郎左衛門・今村掃部助・遠藤喜右衛門、此頸竹中久作是を討とる、兼而此首を取るべしと高言[9]あり。浅井雅楽助・浅井斎・狩野次郎左衛門・狩野三郎兵衛・細江左馬助・早崎吉兵衛、
此外宗徒者[10]千百討捕。大谷[2]迄五十町追討ち、麓を御放火。然りといへども、大谷[2]は高山節所[11]の地に候間、一旦に攻上り候事なり難く思食され、横山[12]へ御人数打返し、勿論横山の城降参致し退出。
木下藤吉郎定番として横山[12]へ入置かれ、(後略)

【注釈】

[1]後巻:うしろまき=味方を攻める敵を、さらにその背後から取り巻くこと。うしろづめ。後詰。
[2]大谷:おおたに=小谷城(現在の滋賀県長浜市湖北町伊部)のこと。
[3]をより山:およりやま=大依山(現在の滋賀県長浜市湖北町)のこと。 
[4]あね川:あねがわ=滋賀県北部の長浜市を流れ、琵琶湖に注ぐ、淀川水系の一級河川。
[5]諸手:もろて=多くのいろいろな部隊、または隊伍。諸隊。
[6]卯刻:うのこく=午前6時頃。 
[7]丑寅:うしとら=東北方向。
[8]追崩し:おいくずし=追いかけて攻めくずし。敵陣を破って追い散らし。
[9]高言:こうげん=大言壮語すること。自分を誇り、いばって言うこと。また、大げさなことば。
[10]宗徒者:むねともの=主だった者。
[11]節所:ふしどころ=重要なところ。要害。
[12]横山:よこやま=姉川の南岸にあった山城で、小谷城の南の重要な拠点に位置していた。

<現代語訳>

あね川合戦の事

 こうした中で、(敵方は)朝倉孫三郎が後詰として、八千ばかりの軍勢でやって来た、小谷城の東の大依山という東西に長き山があり、彼はこの山に陣取った。同じく浅井備前も人数五千ばかりの軍勢で加わった、合わせて一万三千の人数となり、6月27日の明け方に至って、(信長公は)陣を払って立ち退くと思われたところ、28日の未明に、30町ばかり攻めてきて、(敵方は)姉川を前にして、野村の郷・三田村の両郷へ移動し、二手に分かれて陣備えをした。西の三田村口には一番合戦として、家康公が迎撃され、東は野村の郷の備えには、信長公の御馬廻衆が向かい、また東は、美濃三人衆の氏家・伊賀・稲葉がこれにあたり、諸隊が一度に攻めかかり、6月28日午前6時頃に、東北方向って御一戦に及ばれた、御敵も姉川を越え、信長公の御手前まで押しかけ、押しつ返しつ、散々に入り乱れて黒煙を立て、しのぎを削り鍔を割り、ここかしこで思い思いの働きがあり、ついには敵陣を破って追い散らし、目の前にさらされた討捕られた首の書付は、
 真柄十郎左衛門(この首は青木所右衛門が討ち取った)、前波新八・前波新太郎・小林端周軒・魚住竜文寺・黒坂備中・弓削六郎左衛門・今村掃部助・遠藤喜右衛門(この首は竹中久作がこれを討とる、前々からこの首を取ると大言壮語していた)。浅井雅楽助・浅井斎・狩野次郎左衛門・狩野三郎兵衛・細江左馬助・早崎吉兵衛、
この他主だった者は千百打ち取られた。小谷城まで50町追い打ちをかけ、ふもとに放火した。とはいっても、小谷城は高山上の要害の地であり、一挙に攻め上がるのは難しいと判断され、横山城へ軍勢を打返し、もちろん横山城は降参して退出した。
木下藤吉郎を定番として横山城へ入れ置かれ、(後略)

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 今日は、戦国時代の元亀3年に、三方ヶ原の戦いが起き、武田軍が徳川・織田軍を破った日ですが、新暦では1573年1月25日となります。
 三方ヶ原の戦い(みかたがはらのたたかい)は、遠江国三方ヶ原(現在の静岡県浜松市北区)において、約2万5千人の武田信玄軍と約1万1千人の徳川家康・織田信長連合軍との間で起こった戦国合戦の一つでした。武田軍は魚鱗の陣を布いて待ち構えており、徳川・織田連合軍は鶴翼の陣をとって戦闘が始まりましたが、武田軍が勝利します。
 徳川家康は、命からがら浜松城に逃げ帰り、鳥居四郎左衛門、成瀬藤蔵、本多忠真といった有力武将が亡くなって、織田信長の援将平手汎秀も戦死しました。しかし、武田軍は浜松城を攻撃せずに西へ向かい、落城は免れます。
 現在は、三方原墓園(浜松市北区根洗町)の一角に三方ヶ原古戦場の碑が建ち、少し北に行ったところに武田信玄の本陣があったという根洗松と碑がありました。また、多くの戦死者が出た犀ヶ崖(浜松市中区鹿谷町)は、三方原古戦場として1939年(昭和14)に、県の史跡に指定され、史跡公園となっていて、三方ヶ原古戦場犀ヶ崖の碑、本多肥後守忠真顕彰碑、夏目次郎左衛門吉信の碑や「犀ヶ崖資料館」があって見学できます。
 ここには、その戦死者を供養するために始まったといわれる遠州大念仏や、三方ヶ原の戦いに関する資料が展示されていて興味深いところでした。
 以下に、『信長公記』第5巻の三方ヶ原の戦いの部分を抜粋(注釈・現代語訳付)しておきますので、ご参照ください。

〇『信長公記』第五巻より

身方ヶ原合戦の事

是れは遠州表の事。霜月[1]下旬、武田信玄、遠州二股の城[2]取巻くの由、注進[3]これあり。則ち、信長公御家老の衆、佐久間右衛門、平手甚左衛門、水野下野守大将として、御人数遠州浜松に至り参陣のところに、早、二股の城[1]攻め落し、其の競ひに、武田信玄堀江の城[4]へ打ち廻り、相働き候。家康も浜松の城[5]より御人数出だされ、身方ケ原[6]にて足軽ども取合ひ、佐久間・平手を初めとして、懸けつき、互に人数立ち合ひ、既に一戦に取り向かふ。武田信玄、水股の者[7]と名付けて、三百人ばかり、真先にたて、彼等にはつぶてをうたせ[8]て、推し大鼓[9]を打ちて、人数かゝり来たる。一番合戦に、平手甚左衛門、同家臣の者、家康公の御内衆、成瀬藤蔵。
十二月廿二日、身方ケ原[6]にて数輩討死これあり。さる程に[10]、信長公、幼稚より召し使はれ侯御小姓衆、長谷川橋介・佐脇藤八・山口飛騨・加藤弥三郎四人、信長公の御勘当を蒙り、家康公を憑み奉り[11]、遠州に身を隠し、居住侯らひし。是れ叉、一番合戦に一手[12]にかゝり合ひ、手前[13]にて比類なき[14]討死なり。爰に希代[15]の事ある様子は、尾州清洲の町人、具足屋[16]玉越三十郎とて、年の頃廿四、五の者あり。四人衆見舞ひとして、遠州浜松へ参られ侯折節、武田信玄、堀江の城[4]取り詰め、在陣の時に侯。定めて、此の表相働くべく侯。さ侯はぱ一戦に及ぶべく侯間、早々罷り[17]帰り侯へと、四人衆達つて異見侯へば、是れまで罷り[17]参り侯のところを、はづして罷り[17]帰り侯はば、以来、口はきかれまじく侯間、四人衆討死ならば、同心すべきと申し切り、罷り[17]帰らず、四人衆と一所に切つてまはり、枕を並べて討死なり。
家康公中筋[18]切り立てられ、軍の中に乱れ入り、左へつきて、身方が原[3]のきし道[19]の一騎打ちを退かせられ侯を、御敵、先に待ち請け、支へ[20]侯。馬上より御弓にて射倒し、懸け抜け、御通り侯。是れのみならず、弓の御手柄今に始まらず、浜松の城[5]堅固に御拘へなさる。信玄は勝利を得、人数打ち入れ[21]侯なり。

【注釈】

[1]霜月:しもつき=11月。
[2]二股の城:ふたまたのしろ=二俣城。現在の浜松市天竜区に城跡がある。
[3]注進:ちゅうしん=事件を急いで目上の人に報告すること。
[4]堀江の城:ほりえのしろ=堀江譲。現在の浜松市西区舘山寺町に城跡がある。
[5]浜松の城:はままつのしろ=徳川家康の居城で、現在の浜松市中区に城跡がある。
[6]身方ケ原:みかたがはら=三方ヶ原。現在の浜松市北区三方原町のあたり。
[7]水股の者:みずまたのもの=足軽のことか?
[8]つぶてをうたせ=小石を投げること。
[9]推し大鼓:おしだいこ=戦場で、進軍や攻撃開始の合図に打ち鳴らす太鼓。かかり太鼓。
[10]さる程に:さるほどに=さて。ところで。
[11]憑み奉り:たのみたてまつり=頼りにして。
[12]一手:ひとて=一隊。一組。
[13]手前:てまえ=他人の目の前。人の見る前。
[14]比類なき:ひるいなき=比べようもない。例えようもない。
[15]希代:きたい=世にもまれなこと。めったに見られないこと。また、そのさま。
[16]具足屋:ぐそくや=甲冑の商売人。武具商。
[17]罷り:まかり=貴人の前や貴所から退くこと。退出。行くこと。
[18]中筋:なかすじ=戦線の中央部の意味。
[19]きし道:きしみち=岸道。崖道。山際の道。
[20]支へ:ささへ=じゃまをする。立ちふさがる。
[21]人数打ち入れ:にんずううちいれ=軍勢を納めること。

<現代語訳>

三方ヶ原合戦の事

 これは遠州方面の出来事である。11月下旬、武田信玄が遠州二俣城を取り囲んだとの報告がもたらされた。ただちに信長公は、家老衆の佐久間信盛・平手汎秀・水野信元らを大将として出陣させ、軍勢が遠州浜松に到着し参陣したが、すでに二俣城は攻め落とされ、その勢いに乗じて、武田信玄は堀江城へまわって、攻略中であった。徳川家康も、浜松城から軍勢を出されて、三方ヶ原で最初に足軽による攻め合いとなり、佐久間・平手を初め、その他の者も懸けつけてきて、双方が軍勢を繰り出しての一戦となった。武田信玄は水股の者(足軽?)と呼ぶ兵300人ほどを先頭に立てて、彼らに小石を投げさせ、かかり太鼓を打ち鳴らして、攻撃してきた。最初の合戦では、平手甚左衛門とその家臣の者、家康公の御身内衆の成瀬藤蔵が討ち死にした。
 12月22日、三方ヶ原にて数名の者が討ち死にした。ところで、信長公が幼い時より召し使われていた御小姓衆の長谷川橋介・佐脇藤八・山口飛騨・加藤弥三郎の四人は、信長公の御勘当を受けて、家康公を頼りにして、遠州に身を隠して、居住していた。これまた、最初の合戦の一隊としてに攻めかかり、人々の眼前にて比べようもない討ち死にをとげた。この時に世にもまれなことがあったが、尾州清洲の町人で、武具商の玉越三十郎という、年の頃24、5歳の者のことである。四人衆の見舞いとして、遠州浜松へ来ていた折に、武田信玄が堀江城に攻めかかっている、在陣の時であった。「きっと、この浜松方面へも仕掛けてくるであろう。そうならぱ、一戦にとなる前に、早々に退去して帰りなさい。」と、四人衆が強いて忠告したならば、「ここまでやってきたところを、放棄して立ち返ったならば、以後、口を聞いてくれる人はいまくなってしまいでありましょう、四人衆が討死するならば、ご一所すべきでしょう。」と言い切って帰らず、四人衆といっしょに切り込んで、枕を並べて討死したのであった。
 家康公は、戦線の中央部へ切り込み、軍の中に乱れ入って、左手に逃れ、三方ヶ原の山際の道を一騎で退却していったが、敵は退却の先にも待ちかまえて、立ちふさがってきた。家康公は馬上より弓で射倒して駆け抜けた。家康公の弓の手柄は、今に始まったことではないが、その後浜松城に籠り、堅固に守りを固めた。信玄は勝利を得て、軍勢を納めたことである。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1902年(明治35)年齢計算ニ関スル法律」が施行され、数え年に代わり満年齢のみの使用となる詳細
1945年(昭和20)労働組合法」が制定される詳細
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