今日は、江戸時代前期の1635年(寛永12)に、江戸幕府が改訂した「武家諸法度」(寛永令)19ヶ条を発布し、毎年4月の外様大名の参勤交代の義務化等をした日ですが、新暦では8月3日となります。
「武家諸法度(ぶけしょはっと)」は、江戸幕府が諸大名統制のために制定した基本法で、最初のものは、1615年(慶長20年7月7日)に13ヶ条発布されました。しかし、その後状況の推移を踏まえ、第3代将軍徳川家光のとき、参勤交代の具体的方法の規定や大船建造の禁などを加えて19ヶ条(寛永令)として、一応の完成をみたものです。以下に、「武家諸法度(寛永令)」の全文を現代語訳・注釈付で掲載しておきますので、ご参照下さい。
〇武家諸法度(ぶけしょはっと)とは?
江戸幕府が諸大名統制のために制定した基本法です。天皇、公家に対する「禁中並公家諸法度」、寺家に対する「諸宗本山本寺諸法度」(寺院法度)と並んで、幕府による支配身分統制の基本となりました。
1615年(慶長20)に大坂城落城による豊臣氏滅亡直後に伏見城に諸大名を集め、徳川秀忠の命という形で発布したのが最初となり、改元された年号を取って元和令とも呼ばれています。元々は1611年(慶長16)に徳川家康が大名から取り付けた誓紙3ヶ条に、家康の命によって金地院崇伝(こんちいんすうでん)が起草した10ヶ条を加えたもので、漢文体(宝永令から和文に改訂)となっていました。
内容としては、一般的な規範や既に慣習として成立していた幕命などを基本法とし、「文武弓馬ノ道、専ラ相嗜ムヘキ事」を最初として、品行を正し、科人を隠さず、反逆・殺害人の追放、他国者の禁止、居城修理の申告を求め、私婚禁止、朝廷への参勤作法、衣服と乗輿の制、倹約、国主の人選について規定し、各条に注釈を付けています。
その後、第3代将軍徳川家光のとき、参勤交代の具体的方法の規定や大船建造の禁などを加えて19ヶ条(寛永令)となり、一応の完成をみましたが、以後も時勢に応じて、寛文令(1663年)、天和令(1683年)、宝永令(1710年)と部分改訂が行われてきました。第8代将軍徳川吉宗のとき、宝永令を廃止して第5代将軍徳川綱吉の時の15ヶ条(天和令)への全面的な差し戻しをしてからは、幕末までほぼこれによることになります。
将軍の代替りごとに諸大名にこれを読み聞かせ、違反者は厳罰に処されてきました。特に初期には、この違反を理由に、たびたび大名の改易が起きています。
〇「武家諸法度(寛永令)」 (全文) 1635年(寛永12年6月21日)発布 19ヶ条
<原文>
一、文武弓馬之道專可相嗜事、左文右武、古法也、不可不兼備矣、弓馬是武家之要樞也、號兵爲凶器、不得已而用之、治不忘亂、何不勵修錬乎
一、大名、小名在江戸交替所相定也、毎年四月中可致參勤、從者員數近來甚多、且國郡之費且人民之勞也、向後以其相應、可減少之、但上洛之節者、任敎令、公役者可隨分限事
一、新儀之城郭搆營堅禁止之、居城之隍壘石壁以下敗壞之時者、達奉行所、可受其旨也、櫓塀門等之分者、如先規可修補事
一、於江戸幷何國、縱令何等之事雖有之、在國之輩者守其所、可相待下知事
一、雖於何所行刑罰、役者之外不可出向、但可任撿使之左右事
一、企新儀、結徒黨、成誓約之儀制禁事
一、諸國主幷領主等不可致私諍論、平日須加謹愼也、若有可及遲滯之儀、達奉行所、可受其旨事
一、國主、城主、壹万石以上幷近習、物頭者、私不可結婚姻事
一、音信贈答嫁娶之儀式或饗應或家宅營作等、當時甚至華麗、自今以後、可爲簡略、其外万事可用儉約事
一、衣裳之科不可混亂、白綾公卿以上、白小袖諸大夫以上聽之、紫袷、紫裏、練、無紋之小袖、猥不可着之、至諸家中郎從諸卒者、綾羅錦繡之飾服、非古法、令制禁事
一、乘輿者、一門之歴々、國主、城主、壹万石以上幷國大名之息、城主曁侍從以上之嫡子、或歳五十以上或醫陰兩道、病人免之、其外禁濫吹、但免許之輩者各別也、至于諸家中者、於其國撰其人、可乘之、公家、門跡、諸出世之衆制外之事
一、本主之障有之者不可相拘、若有反逆殺害人之告者、可返之、向背之族者或返之、或可追出事
一、陪臣質人所獻之者、可及追放死刑時、可伺 上意、若於當座、有難遁儀、斬戮之者、其子細可言上事
一、知行所務淸廉沙汰之、不致非法、國郡不可令衰弊事
一、道路驛馬舟梁等無斷絶、不可令致往還之停滯事
一、私關所、新法之津留、制禁事
一、五百石積以上之船停止事
一、諸國散在之寺社領、自古至*今所附來、向後不可取放事
一、万事如江戸之法度、於國々所々可遒行事
右條々、准當家先例之旨、今度潤色而定之訖、堅可相守者也
寛永十二年六月廿一日
『近世法制史料叢書 第二』より
*縦書きの原文を横書きに改め、句読点を付してあります。
<読み下し文>
一、文武弓馬ノ道[1]、専相嗜ベキ事。文ヲ左ニシ武ヲ右ニスルハ、古ノ法也。兼備セサルヘカラス、弓馬ハ是レ武家ノ要枢也。兵ヲ号ンデ凶器トナス、已ムヲ得スシテ之ヲ用フ。治ニ乱ヲ忘レズ、何ゾ修錬ヲ励マサランヤ。
一、大名・小名[2]在江戸交替[3]相定ムル所ナリ。毎歳夏四月[4]中、参勤致スベシ。従者ノ員数近来甚ダ多シ、且ハ国郡ノ費[5]、且ハ人民ノ労ナリ。向後[6]ソノ相応[7]ヲ以テコレヲ減少スベシ。但シ上洛ノ節ハ、教令ニ任セ、公役ハ分限[8]ニ随フベキ事。
一、新規ノ城郭構営[9]ハ堅クコレヲ禁止ス。居城ノ隍塁[10]・石壁以下敗壊ノ時ハ、奉行所二達シ、其ノ旨ヲ受クベキナリ。櫓・塀・門等ノ分ハ、先規ノゴトク修補[11]スベキ事。
一、江戸ナラビニ何国ニ於テタトヘ何篇[12]ノ事コレ有ルトイヘドモ、在国ノ輩ハソノ処ヲ守リ、下知相待ツベキ事。
一、何所ニ於テ刑罰ノ行ハルルトイヘドモ、役者ノ外出向スベカラズ。但シ検使[13]ノ左右ニ任セルベキ事。
一、新儀ヲ企テ徒党ヲ結ビ[14]誓約ヲ成スノ儀、制禁ノ事。
一、諸国主[15]ナラビニ領主等私ノ諍論致スベカラズ。平日須ク謹慎ヲ加フルベキナリ。モシ遅滞ニ及ブベキノ儀有ラバ、奉行所ニ達シソノ旨ヲ受クベキ事。
一、国主[15]・城主・一万石以上ナラビニ近習・物頭ハ、私ニ[16]婚姻ヲ結ブベカラザル事。
一、音信[17]・贈答・嫁娶リ儀式、或ハ饗応[18]或ハ家宅営作等、当時甚ダ華麗ノ至リ、自今以後簡略タルベシ。ソノ外万事倹約ヲ用フルベキ事。
一、衣装ノ品混乱スベカラズ。白綾[19]ハ公卿以上、白小袖[20]ハ諸大夫以上コレヲ聴ス。紫袷・紫裡・練・無紋ノ小袖[20]ハ猥リニコレヲ着ルベカラズ。諸家中ニ至リ郎従・諸卒ノ綾羅錦繍[21]ノ飾服ハ古法ニ非ズ、制禁セシムル事。
一、乗輿ハ、一門ノ歴々・国主[15]・城主・一万石以上ナラビニ国大名ノ息、城主オヨビ侍従以上ノ嫡子、或ハ五十歳以上、或ハ医・陰ノ両道、病人コレヲ免ジ、ソノ外濫吹[22]ヲ禁ズ。但シ免許ノ輩ハ各別ナリ。諸家中ニ至リテハ、ソノ国ニ於テソノ人ヲ撰ビコレヲ載スベシ。公家・門跡[23]・諸出世ノ衆ハ制外ノ事。
一、本主ノ障リコレ有ル者相抱エルベカラズ。モシ反逆・殺害人ノ告ゲ有ラバコレヲ返スベシ。向背[24]ノ族ハ或ハコレヲ返シ、或ハコレヲ追ヒ出スベキ事。
一、陪臣ノ質人ヲ献ズル所ノ者、追放・死刑ニ及ブベキ時ハ、上意ヲ伺フベシ。モシ当座ニ於テ遁レ難キ儀有ルニオイテコレヲ斬戮[25]スルハ、ソノ子細言上スベキ事。
一、知行所務清廉[26]ニコレヲ沙汰シ、非法致サズ、国郡衰弊[27]セシムベカラザル事。
一、道路・駅馬・舟梁等断絶無ク、往還ノ停滞ヲ致サシムベカラザル事。
一、私ノ関所・新法ノ津留メ[28]制禁ノ事。
一、五百石以上ノ船[29]、停止ノ事。
一、諸国散在寺社領、古ヨリ今ニ至リ附ケ来ル所ハ、向後[6]取リ放ツ[30]ベカラザル事。
一、万事江戸ノ法度[31]ノゴトク、国々所々ニ於テコレヲ遵行[32]スベキ事。
右條々ハ、當家先例之旨ニヨル、今度潤色[33]而シテ之ヲ定メルニイタル、堅ク相守ルベキ者也。
寛永十二年六月廿一日
【注釈】
[1]文武弓馬ノ道:ぶんぶきゅうばのみち=学問や武術。
[2]小名:しょうみょう=領地・禄高の少ない大名のことで江戸時代初期に用いられた。
[3]在江戸交替:ざいえどこうたい=在は大名の領地(国元)をいい、江戸との参勤交代の意味。
[4]夏四月:なつしがつ=旧暦では夏は4月~6月まで。
[5]国郡ノ費:こくぐんのついえ=領国の財政の無駄。
[6]向後:きょうこう=今後。
[7]相応:そうおう=大名の格式、家格に応じての意味。
[8]分限:ぶんげん=その人の社会的身分、地位。
[9]新儀ノ城郭構営:しんぎのじょうかくこうえい=新たに築城すること。
[10]隍塁:こうるい=濠と土塁。
[11]修補:しゅうほ=修理。
[12]何篇:いずれのへん=変事。
[13]検使:けんし=殺傷・変死の現場に出向いて調べること。また、その役人。
[14]徒党ヲ結ビ:ととうをむすび=仲間、団体、一味などを集めて団結する。
[15]国主:こくしゅ=国持大名のことだが、ここでは諸大名の意味。
[16]私ニ:わたくしに=私的に。公儀の許可なく、勝手に。
[17]音信:いんしん=便りをすること。便り。また、手紙や訪問によってよしみを通じること。
[18]饗応:きょうおう=酒や料理をとりそろえてもてなすこと。馳走すること
[19]白綾:しらあや=白地の綾織物。
[20]小袖:こそで=袖口の小さく縫いつまっている衣服。
[21]綾羅錦繍:りょうらきんしゅう=あやぎぬとうすぎぬと錦(にしき)と刺繍のある布。
[22]濫吹:らんすい=無能の者が才能のあるように装うこと。また、過分な地位にあること。
[23]門跡:もんぜき=皇族・貴族の子弟が出家して、入室している特定の寺格の寺家・院家。また、その寺家・院家の住職。
[24]向背:きょうはい=従うこととそむくこと。従ったりそむいたりすること。
[25]斬戮:ざんりく=斬殺、殺戮。
[26]清廉:せいれん=心が清く私欲のないこと。行ないがいさぎよく、私利私欲をはかる心がないこと。また、そのさま。
[27]衰弊:すいへい=勢いなどがおとろえ弱ること。
[28]津留メ:つどめ=領主が米穀その他の物資の他領との移出入を制限・停止したこと。多くが港で行なわれた。
[29]五百石以上ノ船:ごひゃっこくいじょうのふね=米500石(約75トン)以上を積むことが出来る船。
[30]取リ放ツ:とりはなつ=取り上げる。剝奪する。
[31]法度:はっと=法令。
[32]遵行:じゅんぎょう=従い行う。遵守。
[33]潤色:じゅんしょく=補うこと。加筆すること。
<現代語訳>
一、学問や武術をみがくことにひたすら励むべきこと。文武両道に励むことは、昔からの法である。文武両道を兼備しなければならない。武術は武家の要となることである。兵をさけんで凶器となる、やむを得ずしてこれを用いる。治に乱を忘れない、どうして修錬を励まないでいいことがあろうか。
一、大小の大名は、国元と江戸との間を交代勤務することを定める。毎年夏の4月中に参勤せよ。従者の数が近年非常に多く、領国の財政の無駄や領民の負担となる。今後はその大名の格式、家格に応じて人数を減少せよ。ただし、上洛の際は定めの通り、役一、目は身分にふさわしいものにすること。
一、新たに築城することは厳禁する。居城の濠や土塁、石垣などが壊れた時は、奉行所に申し出て指示を仰ぐこと。櫓、塀、門などは先の規則(元和令)に従って修理すること。
一、江戸を゜はじめいかなる国において、どのような事件が起こったとしても、両国にいる者はその場所を守り、幕府からの命令を待つこと。
一、どこかで刑罰が執行されもといっても、担当者以外は出向いてはならない。ただし、検使の指図には任せること。
一、新たなものを企て、仲間を集め、誓約を取り交わすようなことは禁止すること。
一、諸国の大名や領主等は私闘をしてはならない。日頃から謹んでおくこと。もし、うまくいかないことが起きた場合は、奉行所に届け出て、その指示を受けるべきこと。
一、国持・城持・一万石以上の大名、ならびに近習・物頭は、公儀の許可なく、勝手に結婚してはならないこと。
一、よしみを通じたり、品物などの贈答、結婚の儀式、酒や料理をとりそろえてのもてなしや屋敷の建設などが最近華美になってきているので、今後は簡略化すること。その他もすべてにおいて倹約に心掛けること。
一、衣装の身分によるしきたりを乱れさせてはならない。白地の綾織物は公卿以上、白地の小袖は大夫以上に許す。紫袷・紫裡・練・無紋の小袖は、みだりにこれを着用してはならない。諸々の家中の下級武士が綾羅や錦の刺繍のある服を着用するのは古くからのしきたりには無いので、禁止とすること。
一、輿を使える者は、徳川一門、国持・城持・一万石以上の大名、ならびに国持大名の息子、城持大名、侍従以上の嫡子、あるいは50歳以上の者、あるいは医者、陰陽道の者、病人はこれを許可するが、その他が身分を装って使用することは禁止する。ただし許可を得た者は特別とする。諸家中においては、その国内で使える人を選んで定めること。公家・門跡・その他身分の高い者は、その定めの例外とすること。
一、元の主人から障害があるとされた者を家来として召し抱えてはならない。もし反逆者・殺人者とわかったならば元の主人へ返せ。動静がはっきりしない者は元の主人へ返すか、またはこれを追放すべきこと。
一、幕府に人質を出している家臣を追放・死刑に処する際には、公儀の意向を伺うこと。もし急遽回避することができない事態に至り、これを斬殺した際には、その詳細を報告すべきこと。
一、領地での政務は心清く私欲なく行い、違法なことをせず、国郡の勢いを衰え弱らせてはならないこと。
一、道路、駅の馬、船や橋などを途絶えさせることなく、往来を停滞させてはならないこと。
一、私設の関所を設置したり、新法を制定して物資の他領との移出入を制限・停止してはならないこと。
一、500石積み以上の船を造ってはならないこと。
一、諸国に散在する寺社の領地で昔から現在まで所有しているところは、今後取り上げてはならないこと。
一、全て江戸幕府の法令のごとく、どこにおいてもこれを遵守すべきこと。
右の条文は、当家先例の趣旨に従い、この度加筆訂正してこれを定めるに至る、堅く守るべきものである。
寛永12年(1635年)6月21日
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