
「流地禁止令」(りゅうちきんしれい)は、質流れの形で田畑が売買されるのを禁じた法令ですが、「質流地禁止令」(しちながれちきんしれい)、「流質禁止令」とも呼ばれてきました。江戸幕府は、1643年(寛永20)3月発令の「田畑永代売買禁止令」によって農民の田畑売買を禁止してきましたが、1695年(元禄8)に「質地取扱いに関する十二か条の覚」を発布し、はじめて一定の条件下で田畑の質流れを公認します。この中で、質入れ、質流れというかたちでの実質的な田畑売買があとを絶たなくなったため、第八代将軍徳川吉宗の時に、この施策を江戸町方の屋敷地についての質地慣行を田畑に適用した誤った措置だったとして撤回、以後田畑の質流れをいっさい禁止すると共に、今後における質地取扱いの方針を定めたのがこの法令でした。
農地に農民を留め、生産力を確保することを目的としてたもので、1721年(享保6年12月21日)に当時の老中・井上正岑に原案が提出された後、翌年4月6日より施行されます。その内容は、①質流れ禁止の方針に基づき質地手形の書き直しを行う、②質地小作料の上限を貸金の年1割5分の利息とし、超過分は損金とする。滞納小作料は、滞納額を年1割5分の利息で元金に加え無利子の分割返済とし、元利金の返済しだい質地を請け戻させる、③1717年(享保2)以後の質流地は、元金を返済し請戻し願いを提出するなら、質流地が質取主の手元にある場合に限り請戻しを願い出れば、それを許す、④今後田畑を質入れする場合は、借入金額はその田畑の値段の2割程度にすること、とされていました。
これによって、各地に混乱を引き起こし、農民の金融に支障を来すこともあって、天領だった出羽国村山郡や越後国頸城郡下の村々での大規模な質地騒動が発生、代官所の役人では対処できず、近隣諸藩に出兵を命じて鎮圧させるという大騒動になります。この結果、江戸幕府は翌年の1723年(享保8年8月28日)には、この法令を撤回せざるを得なくなりました。
以下に、「流地禁止令」(抄文)を現代語訳・注釈付で掲載しておきますので、ご参照下さい。
農地に農民を留め、生産力を確保することを目的としてたもので、1721年(享保6年12月21日)に当時の老中・井上正岑に原案が提出された後、翌年4月6日より施行されます。その内容は、①質流れ禁止の方針に基づき質地手形の書き直しを行う、②質地小作料の上限を貸金の年1割5分の利息とし、超過分は損金とする。滞納小作料は、滞納額を年1割5分の利息で元金に加え無利子の分割返済とし、元利金の返済しだい質地を請け戻させる、③1717年(享保2)以後の質流地は、元金を返済し請戻し願いを提出するなら、質流地が質取主の手元にある場合に限り請戻しを願い出れば、それを許す、④今後田畑を質入れする場合は、借入金額はその田畑の値段の2割程度にすること、とされていました。
これによって、各地に混乱を引き起こし、農民の金融に支障を来すこともあって、天領だった出羽国村山郡や越後国頸城郡下の村々での大規模な質地騒動が発生、代官所の役人では対処できず、近隣諸藩に出兵を命じて鎮圧させるという大騒動になります。この結果、江戸幕府は翌年の1723年(享保8年8月28日)には、この法令を撤回せざるを得なくなりました。
以下に、「流地禁止令」(抄文)を現代語訳・注釈付で掲載しておきますので、ご参照下さい。
〇「流地禁止令」1722年(享保7)4月6日より施行
地方[1]の儀、(中略)分限[2]宜きものは質流[3]の田地大分取集め、又は田地連々[4]町人等の手に入り候様に成り候。田地永代売御制禁[5]にて候処、おのづから百姓田地に離れ候事は、永代売[6]同然の儀に候条、自今[7]は質田地一切流地[8]に成らず候様、只今迄質入[9]に致置き候分、又は当然訴出で候て出入り成り候分ともに、質年季明け[10]候は、手形[11]仕直させ、小作年貢[12]にても前方極置き候分は、壱割半の利積[13]の外は金子[14]損失にいたし、只今迄質地の小作年貢[12]滞りこれ有るは、壱割半の利金積を以て元金の内え加入れ、其の後は無利の済崩[15]の積り、金高[16]壱割半宛年々返済の定に手形[11]申付け、元金切次第、幾年過ぎ候ても地主え相返し候様に致すべく候。いまだ年季懸これ有る分共に訴出で候は、是又向後[17]右の通り利分壱割半の積に改め、手形[11]仕直させ申すべく候。
『御触書寛保集成』より
【注釈】
[1]地方:じかた=江戸時代、町方に対して田舎をいう語。都市に対しての農村。転じて、農村における田制、土地制度、租税制度などをさし、さらに広く、農政一般をさすようになった。
[2]分限:ぶんげん=財力のあること。金のあること。また、そのような人。金持。財産家。
[3]質流:しちながれ=質屋にあずけておいた担保の品が、期限切れのため、質屋の所有になること。
[4]連々:れんれん=続いていて絶えることのないさま。
[5]田地永代売御制禁:でんちえいたいうりごせいきん=1643年(寛永20)3月発令の「田畑永代売買禁止令」のこと。
[6]永代売:えいたいうり=年季をきらないで永久に売り渡すこと。おもに田畑など土地の売買についていう。
[7]自今:じこん=今からのち。今後。以後。
[8]流地:ながれち=質置主が債務を履行しなかった場合、質物の所有権が質権者に帰属する質。
[9]質入:しちいれ=質として、物品を渡すこと。質屋から借金するとき、担保として財物を預けること。
[10]質年季明け:しちねんきあけ=質屋にあずけておいた担保の品の期限。
[11]手形:てがた=一定の金額の支払いを目的とする有価証券。
[12]小作年貢:こさくねんぐ=小作人が土地所有者である地主に支払う借地料。
[13]利積:りづもり=利足(息)を算定すること。
[14]金子:きんす=金の貨幣。また、広義では単に通貨のこと。
[15]済崩:なしくずし=借金を一度に返済しないで、少しずつ返してゆくこと。
[16]金高:きんだか=金銭の合計額。
[17]向後:きょうこう=今後。これから先。
<現代語訳>
土地制度について、(中略)財力のあるものは質流の田地をたくさん取り集め、または田地が次々と町人等の手に入るようになった。「田畑永代売買禁止令」で禁じているところであるのに、自ずから百姓が田地の所有権を失くしてしまう事は、土地の売買同然の行為である。以後は質入れしてある田地一切、質流れとして所有権を移転することがあってはならない、今まで質入している田地分、または当然訴え出て出入りがあった分共に、質屋にあずけておいた担保の田地の期限がきた時は、手形を書き換えさせ、小作人として借主に支払う借地料に対しても以前に取り決めた分は、15%の利息の外は損金扱いとし、ただ今までの質入れ地の小作人として借主に支払う借地料の滞納が有る場合は、滞納額の15%の利息の積み増しによって元金の内に算入し、その後は無利息の分割返済で見積もり、金銭の合計額の15%あて年々返済の定めに手形を書き換え、元金返済次第に、何年過ぎていても地主へ土地を返却するようにせよ。いまだに返済期限が有る分共に訴へ出た時は、これまた今後、右の通り利息15%の計算に改め、手形を書き換えさせるようにせよ。
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
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