ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:徳川吉宗

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 今日は、江戸時代中期の1722年(享保7)に、江戸幕府が「流地禁止令」を出した日ですが、新暦では5月20日となります。
 「流地禁止令」(りゅうちきんしれい)は、質流れの形で田畑が売買されるのを禁じた法令ですが、「質流地禁止令」(しちながれちきんしれい)、「流質禁止令」とも呼ばれてきました。江戸幕府は、1643年(寛永20)3月発令の「田畑永代売買禁止令」によって農民の田畑売買を禁止してきましたが、1695年(元禄8)に「質地取扱いに関する十二か条の覚」を発布し、はじめて一定の条件下で田畑の質流れを公認します。この中で、質入れ、質流れというかたちでの実質的な田畑売買があとを絶たなくなったため、第八代将軍徳川吉宗の時に、この施策を江戸町方の屋敷地についての質地慣行を田畑に適用した誤った措置だったとして撤回、以後田畑の質流れをいっさい禁止すると共に、今後における質地取扱いの方針を定めたのがこの法令でした。
 農地に農民を留め、生産力を確保することを目的としてたもので、1721年(享保6年12月21日)に当時の老中・井上正岑に原案が提出された後、翌年4月6日より施行されます。その内容は、①質流れ禁止の方針に基づき質地手形の書き直しを行う、②質地小作料の上限を貸金の年1割5分の利息とし、超過分は損金とする。滞納小作料は、滞納額を年1割5分の利息で元金に加え無利子の分割返済とし、元利金の返済しだい質地を請け戻させる、③1717年(享保2)以後の質流地は、元金を返済し請戻し願いを提出するなら、質流地が質取主の手元にある場合に限り請戻しを願い出れば、それを許す、④今後田畑を質入れする場合は、借入金額はその田畑の値段の2割程度にすること、とされていました。
 これによって、各地に混乱を引き起こし、農民の金融に支障を来すこともあって、天領だった出羽国村山郡や越後国頸城郡下の村々での大規模な質地騒動が発生、代官所の役人では対処できず、近隣諸藩に出兵を命じて鎮圧させるという大騒動になります。この結果、江戸幕府は翌年の1723年(享保8年8月28日)には、この法令を撤回せざるを得なくなりました。
 以下に、「流地禁止令」(抄文)を現代語訳・注釈付で掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「流地禁止令」1722年(享保7)4月6日より施行

地方[1]の儀、(中略)分限[2]宜きものは質流[3]の田地大分取集め、又は田地連々[4]町人等の手に入り候様に成り候。田地永代売御制禁[5]にて候処、おのづから百姓田地に離れ候事は、永代売[6]同然の儀に候条、自今[7]は質田地一切流地[8]に成らず候様、只今迄質入[9]に致置き候分、又は当然訴出で候て出入り成り候分ともに、質年季明け[10]候は、手形[11]仕直させ、小作年貢[12]にても前方極置き候分は、壱割半の利積[13]の外は金子[14]損失にいたし、只今迄質地の小作年貢[12]滞りこれ有るは、壱割半の利金積を以て元金の内え加入れ、其の後は無利の済崩[15]の積り、金高[16]壱割半宛年々返済の定に手形[11]申付け、元金切次第、幾年過ぎ候ても地主え相返し候様に致すべく候。いまだ年季懸これ有る分共に訴出で候は、是又向後[17]右の通り利分壱割半の積に改め、手形[11]仕直させ申すべく候。

    『御触書寛保集成』より

【注釈】

[1]地方:じかた=江戸時代、町方に対して田舎をいう語。都市に対しての農村。転じて、農村における田制、土地制度、租税制度などをさし、さらに広く、農政一般をさすようになった。
[2]分限:ぶんげん=財力のあること。金のあること。また、そのような人。金持。財産家。
[3]質流:しちながれ=質屋にあずけておいた担保の品が、期限切れのため、質屋の所有になること。
[4]連々:れんれん=続いていて絶えることのないさま。
[5]田地永代売御制禁:でんちえいたいうりごせいきん=1643年(寛永20)3月発令の「田畑永代売買禁止令」のこと。
[6]永代売:えいたいうり=年季をきらないで永久に売り渡すこと。おもに田畑など土地の売買についていう。
[7]自今:じこん=今からのち。今後。以後。
[8]流地:ながれち=質置主が債務を履行しなかった場合、質物の所有権が質権者に帰属する質。
[9]質入:しちいれ=質として、物品を渡すこと。質屋から借金するとき、担保として財物を預けること。
[10]質年季明け:しちねんきあけ=質屋にあずけておいた担保の品の期限。
[11]手形:てがた=一定の金額の支払いを目的とする有価証券。
[12]小作年貢:こさくねんぐ=小作人が土地所有者である地主に支払う借地料。
[13]利積:りづもり=利足(息)を算定すること。
[14]金子:きんす=金の貨幣。また、広義では単に通貨のこと。
[15]済崩:なしくずし=借金を一度に返済しないで、少しずつ返してゆくこと。
[16]金高:きんだか=金銭の合計額。
[17]向後:きょうこう=今後。これから先。

<現代語訳>

土地制度について、(中略)財力のあるものは質流の田地をたくさん取り集め、または田地が次々と町人等の手に入るようになった。「田畑永代売買禁止令」で禁じているところであるのに、自ずから百姓が田地の所有権を失くしてしまう事は、土地の売買同然の行為である。以後は質入れしてある田地一切、質流れとして所有権を移転することがあってはならない、今まで質入している田地分、または当然訴え出て出入りがあった分共に、質屋にあずけておいた担保の田地の期限がきた時は、手形を書き換えさせ、小作人として借主に支払う借地料に対しても以前に取り決めた分は、15%の利息の外は損金扱いとし、ただ今までの質入れ地の小作人として借主に支払う借地料の滞納が有る場合は、滞納額の15%の利息の積み増しによって元金の内に算入し、その後は無利息の分割返済で見積もり、金銭の合計額の15%あて年々返済の定めに手形を書き換え、元金返済次第に、何年過ぎていても地主へ土地を返却するようにせよ。いまだに返済期限が有る分共に訴へ出た時は、これまた今後、右の通り利息15%の計算に改め、手形を書き換えさせるようにせよ。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1336年(建武3/延元元)第93代の天皇とされる後伏見天皇(持明院統)の命日(新暦5月17日)詳細
1742年(寛保2)江戸幕府の成文法「公事方御定書」上下2巻が一応完成する(新暦5月10日)詳細
1823年(文政6)狂歌三大家の一人とされる狂歌師・戯作者・御家人大田南畝の命日(新暦5月16日)詳細
2017年(平成29)「城の日」を記念して、日本城郭協会より「続日本100名城」が発表される詳細
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 今日は、江戸時代中期の1742年(寛保2)に、江戸幕府の成文法「公事方御定書」上下2巻が一応完成した日ですが、新暦では5月10日となります。
 公事方御定書(くじかたおさだめがき)は、享保の改革の一環として、江戸幕府第8代将軍徳川吉宗が裁判、行政の準拠として編纂させた幕府の内規集でした。
 編纂は、老中松平乗邑(のりさと)のもとに、寺社奉行、町奉行、勘定奉行をメンバーとして、現行の法令、判例を整理して編集されます。その中で、法律に造詣の深かった吉宗自身の意見も、随所に反映して、1742年(寛保2年4月6日)に一応完成し、奥書が書かれました。
 しかし、編集作業は続行され、実質的に完成したのは翌年とされるものの、その後も追加補正が、1754年(宝暦4)まで書き加えられています。その後さらに補修して、1767年(明和4)に、『科条類典』が作成されました。
 上・下の2巻からなり、上巻は評定所の執務規定、司法・警察、高札・御書付・御触書、訴訟手続に関する法規類など(81条)からなり、下巻は刑法、刑訴、民訴など実体法、手続法(103条)で、判決の基準となり、原則として一般庶民に適用され、「御定書百箇条」とも呼ばれています。
 御定書は極秘とされ、奉行のほか他見を禁ずる旨老中松平乗邑の申渡しがありましたが、とくに下巻は写本がかなり広く流布しました。

〇「公事方御定書」下巻(御定書百箇条)の条文のタイトル

1.目安裏書初判之事
2.裁許絵図裏書加印之事 。
3.御料一地頭地頭違出入並びに跡式出入取捌之事
4.無取上願再訴並びに筋違願之事
5.評定所前箱へ度々訴状入候もの之事
6.諸役人非分私曲有之旨訴並びに裁許仕置等之事
7.公事吟味銘々宅にて仕候事
8.重キ御役人評定所一座領知出入取計之事 重御役人評定所
9.重御役人之家来御仕置に成候節其主人差扣伺之事
10.用水悪水並新田新堤川除等出入之事
11.論所見分並地改遣候事
12.論所見分伺書絵図等に書載候品之事
13.裁許可取用証拠書物之事
14.寺社方訴訟人取捌之事
15.出入扱願取上ざる品並扱日限之事
16.誤証文押て取間敷事
17.盗賊火附致詮議方之事
18.旧悪御仕置之事
19.裁許並弁裏判不請もの御仕置之事
20.関所を除山越いたし候もの並関所を忍通候者御仕置之事
21.隠し鉄砲有之村方咎之事
22.御留場にて鳥殺生いたし候もの御仕置之事
23.村方戸締り無之事
24.村方出入に付江戸宿雑用並村方割合之事
25.人別帳に不加他之もの指置候御仕置之事
26.賄賂指出候もの御仕置之事
27.御仕置に成候もの欠所之事
28.地頭へ対し強訴其上致徒党逃散之百姓御仕置之事
29.身代限申付方之事
30.田畑永代売買並隠地いたし候もの御仕置之事
31.質地小作取捌之事
32.質地滞米金日限定之事
33.借金銀取捌之事
34.同取捌定日之事
35.同分散申付方之事
36.家質並船床髪結床書人証文取捌之事
37.二重質二重書人二重売御仕置之事
38.廻船荷物出売出買並びに船荷物致押領候もの御仕置之事
39.倍金並将白紙手形にて金銀致貸借侯も政御仕置之事
40.偽の証文を以金銀貸借いたし候もの御仕置之事
41.譲屋敷取捌之事
42.奉公人請人御仕置之事
43.欠落奉公人御仕置之事
44.欠落いたし候者之儀に付御仕置之事
45.捨子之儀に付御仕置之事
46.養娘遊女奉公に出し候ものの事
47.隠売女御仕置之事
48.密通御仕置之事
49.縁談極候娘と不義いたし候もの之事
50.男女申合相果候もの之事
51.女犯之僧御仕置之事
52.三鳥派不受不施御仕置之事
53.新規之神事仏事並奇怪異説御仕置之事
54.変死之もの内証にて葬候寺院御仕置之事
55.三笠附博奕打取退無尽御仕置之事
56.盗人御仕置之事
57.盗物質に取又は買取候もの御仕置之事
58.悪党もの訴人之事
59.倒死並捨物手負病人等有之を不訴出もの御仕置之事
60.拾もの取計之事
61.人勾引御仕置之事 誘拐罪
62.謀書謀判いたし候もの御仕置之事
63.火札張札捨文いたし候もの御仕置之事
64.巧事かたり事重きねだり事いたし候もの御仕置之事
65.申掛いたし候もの御仕置の事
66.毒薬並びに似せ薬種売御仕置之事
67.似金銀拵候もの御仕置之事
68.似秤似桝似朱墨拵候もの御仕置之事
69.火事に付て之咎之事 失火罪
70.火付御仕置之事 放火罪
71.人殺並疵付候もの御仕置之事
72.相手理不尽之仕方にて下手人に不成御仕置之事
73.疵彼附候もの外之病にて相果疵付候者之事
74.怪我にて相果候もの相手御仕置之事
75.婚礼之節石を打候もの御仕置之事
76.あばれもの御仕置之事
77.酒狂入御仕置之事
78.乱気にて人殺之事
79.拾五歳以下之もの御仕置の事
80.科人為立退並住所を隠候もの之事
81.人相書を以って御尋可成もの之事
82.科人欠落尋之事
83.拷問可申付者之事
84.遠島之者再犯御仕置之事
85.牢抜手鎖外御構之地に立帰候もの御仕置之事
86.辻番人御仕置之事
87.重科人死骸塩誥之事
88.溜預け之事
89.無宿片付之事
90.不縁之妻を理不尽に奪取候もの御仕置事
91.書状切解金子遣捨候飛脚御仕置之事
92.質物出入取捌之事
93.煩之旅人を宿送りいたし候咎之事
94.帯刀いたし候百姓町入御仕置之事
95.新田地に無断家作いたし候もの咎之事
96.御仕置に成候もの欠所田畑押隠候もの咎之事
97.御仕置に成候もの之悴親類に預置候内出家願いたし候もの之事
98.年貢諸役村入用帳面印形不取置村役人咎之事
99.軽き悪事有之もの出牢之上不及咎之事
100.名目重相聞候共事実にゐては強て人之害にならざるは罪科軽重格別之事
101.吟味事之内外之悪事相聞候共旧悪御定之外は不及相糺事
102.詮議事有之時同類又は加判人之内早速及白状候ものの事
103.御仕置仕形之事

○「公事方御定書」下巻(興味深い条文を抜粋)

十六 誤証文押而取間敷事

一、相手不致得心に押而誤証文取申間敷候、たとへ誤証文差出候とも其証文にかかはらす理非次第に裁許可仕事。

二十六 賄賂さしだし候者御仕置の事

一、公事諸願その他請負事などについて、賄賂さしだし候者ならびに取持いたし候者 軽追放、
 ただし、賄賂うけ候者その品相返すこと申し出づるにおいては、共に村役人に候はば役儀取上げ、平百姓に候はば過料申しつくべき事。

五十四 変死之もの内証にて葬候寺院御仕置の事

一、変死之ものを内証ニ而葬候寺院御仕置の事 五十日 逼塞

五十六 盗人御仕置の事

一、人を殺し、盗いたし候者 引廻の上 獄門
一、追剥ぎいたし候者         獄門
一、手元にある品ふと盗取り候類 
   金子は拾両より以上、雑物は代金につもり拾両位より以上は 死罪
   金子は拾両より以下、雑物は代金につもり拾両位より以下は 入墨、敲

五十八 悪党者訴人の事

一、悪事有の者を召捕差出候歟又者訴出候ものにも悪事有之由悪党者方より申掛候とも猥に相糺間敷候若本人より重き悪事を証拠慥に申におゐては双方可致詮議事。
 ただし、惣而罪科の者を訴出におゐては同類たりといふ共其科を被免候事に候條其趣を以可致作略事。

七十 火付御仕置の事

一、火を付候者     火罪

七十一 人殺し並びに疵つけ御仕置の事

一、主殺  二日さらし、一日引廻、鋸挽の上、磔  
一、古主を殺し候もの 晒の上、磔
一、親殺       引廻の上、磔
一、人を殺し候もの  下手人
一、人殺しに手伝いたし候もの 遠島
一、人殺しに手伝は致さず候得共、荷担いたし候もの 中追放
一、主人に手負はせ候者、さらしの上、磔、引廻しに及ばず、没収前に同じ。
一、獄門 浅草、品川におゐて、獄門にかける。…
一、火罪 引廻の上、浅草、品川におゐて、火罪申し付ける。…

九十四 帯刀致候百姓町人御仕置の事

一、自分と帯刀いたし罷在候百姓町人 刀脇差共ニ取上 軽追放

九十六 御仕置に成候者闕所田畑を押隠候もの咎の事

一、闕所ニ可成田畑地面押隠におゐては                  名主 軽追放
                                    組頭 所拂


百一 吟味事之内外之悪事相聞候共旧悪御定之外は不及相糺事

一、惣而吟味事之内より外にも悪事有之趣相聞候共旧悪をも不被免品々は格別其餘之悪事は不及相糺最前より取掛リ候吟味を詰相応之御仕置に可申付事。

百三 御仕置仕形の事

一、鋸挽 一日引廻し、両の肩に刀目を入れ、竹鋸に血を付け側に立置き、二 日晒し、挽申すべしと申ものこれ有る時は、挽かせ候事。
一、磔  浅草・品川において磔に申仕く。在方は悪事いたし候場所え差遣は し候儀もこれ有り。尤も科書の捨札これを建つ。三日の内非人番に附け置く。 但し、引廻し、又は科により引廻すに及ばず。
一、獄門 浅草・品川において獄門に掛る。在方は悪事いたし候所え差遣はし 候儀もこれ有り。引廻し捨札番人右同断。但し、牢内に於て首を刎ぬ。
一、火罪 引廻しの上、浅草・品川におひて火罪申仕く。在方は火を附け候所 え差遣はし候儀もこれ有り。捨札番人右同断。但し、物取りにてこれ無き分 は、捨札に及ばず。
一、斬罪 浅草・品川両所の内に於て、町奉行組同心これを斬る。検使、御徒 目付、町与力。
一、死罪 首を刎ね、死骸取捨て、様者に申仕く。
一、下手人 首を刎ね、死骸取捨て。但し、様者には申仕けず。
一、晒  日本橋において三日晒。
一、遠島 江戸より流罪のものは、大島・八丈島・三宅島・新島・神津島・御 蔵島・利島、右七島の内え遣はす。京・大坂・四国・中国より流罪の分は、 薩摩五島の島々・隠岐国・壱岐国・ 天草郡え遣はす。
  右の趣上聞に達し相極め候。奉行中の外他見有るべからざるもの也

 (注:原文の縦書きを横書きに改め、句読点を付し、一部かなに変えてあります)

   「徳川禁令考」より
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 今日は、江戸時代中期の1723年(享保8)に、江戸幕府の第8代将軍徳川吉宗が人材登用のための「足高の制(たしだかのせい)」を制定した日ですが、新暦では7月19日となります。
 これは、いわゆる「享保の改革」の一つとして行われたもので、家禄の低い者が役高の高い役職に就いた場合に、在職中に限りその差額を支給する制度でした。微禄の者で有用な人材を登用するのに役立つと共に、世襲家禄の財政負担の増大を押える効果があったとされています。
 若年寄を除くほとんどの要職で行われ、各役職の基準石高を定め、持高がこれに及ばない場合に一定の役料が与えられました。例えば、1,920石で町奉行になった大岡忠相は、その基準高3,000石に足らない部分の1,080石の足高を受けます。
 この制度は、翌年及び、1731年(享保16)、1738年(元文3)に修正を行って制度の充実が図られ、幕末まで続きました。
 家格にとらわれない、能力主義・個人主義を導入した点において、その後の人材登用制度の重要な柱となります。

〇享保の改革とは?

 江戸幕府第8代将軍徳川吉宗が幕藩体制の安定と強化のため、江戸時代中期に、その在任期間(1716~1745年)を通じて行なった諸改革で、江戸時代の三大改革の一つと言われ、その最初に行われたものです。内容は、幕政機構の再編、法制の立て直し、都市商業資本の統制などで、具体的には以下の主要な政策が実施されました。

<享保の改革の主要政策>
・質素倹約の奨励
・定免制を施行して年貢収納の強化をはかる
・足高の制(各地位ごとに授与される給与を定め、地位についている時に元の禄高に足されて支給した)
・公事方御定書(幕府の基本法典。判例を法規化した刑事裁判の際の基準となる刑事判例集)
・目安箱の設置(施政の参考意見や社会事情の収集などを目的に、庶民の進言を集めるための投書箱)
・堂島米市場の公認
・キリスト教に関係のない漢訳洋書の輸入の緩和
・上げ米の制
・相対済令(金銭貸借についての訴訟を認めず当事者間の話し合いによる解決を命じたもの)
・元文の改鋳(貨幣の品位を低下させ、通貨量を増大させる貨幣改鋳策)
・新田開発の奨励(商人など民間による新田開発を奨励)

☆「足高の制」(抄文)

 諸役人、役柄に応ぜざる小身の面々[1]、前々より御役料[2]定め置かれ下され候処、知行の高下[3]之れ有る故、今迄定め置かれ候御役料[2]にては、小身の者御奉公続き兼ね申すべく候。之れに依て、今度御吟味[4]之れ有り、役柄により其場不相応に小身にて御役勤め候者は、御役勤め候内御足高[5]仰付けられ、御役料増減[6]之れ有り、別紙の通り相極め候。此旨申し渡し可き旨、仰せ出され候。但此度の御定の外取り来り候御役料[2]は其侭下し置かれ候。
 
 五千石より内は、五千石高に成し下さる可く候。
                        御側役
                        留守居
                        大番頭
 四千石より内は、四千石高に成し下さる可く候。 
                        書院番頭
                        小姓組番頭
 三千石より内は、三千石高に成し下さる可く候。 
                        大目付
                        町奉行
                        御勘定奉行
                        百人組頭
                        小普請組支配
 二千石より内は、二千石高に成し下さる可く候。 
                        旗奉行
                        槍奉行
                        西城留守居
                        新番頭
                        作事奉行
                        普請奉行
                        小普請奉行
 一千石より内は、一千石高に成し下さる可く候。 
                        留守居番
                        目付
                        使番
                        書院番組頭
                        小姓組組頭
                        小十人頭
                        徒頭

 (以下略)

                   『御触書寛保集成』より

 *縦書きの原文を横書きに改め、句読点を付してあります。

【注釈】
 [1]小身面々:しょうしんのめんめん=家禄、禄高の少ない者。
 [2]御役料:おんやくりょう=在職中、家禄に加増された手当のこと。
 [3]知行の高下:ちぎょうのこうげ=禄高の高い者と低い者。
 [4]御吟味:ごぎんみ=調査、検討。
 [5]其の場所不相応:そのばしょふそうおう=その役職に相応していない。
 [6]足高:たしだか=役職に応じた役高を設定し、在職中だけその基準に達しない者に不足分を支給すること。
 [7]御役料増減:おんやくりょうぞうげん=加増された手当は、家禄に応じて増減する。

<現代語訳>  

 幕府の諸役人の内、役職を勤めるのに不相応な家禄の少ない者たちには、以前から一定の役職に応じた手当が下されていたが、禄高の高い者と低い者がいるので、今まで決められていた一定の手当では、禄高の少ない者は奉公を続けていくことが困難になってきている。このため、今回よく検討され、役職に不相応な少ない家禄で勤めている者は、在職勤務中だけ役職の禄高基準に達しない不足分を支給することを命じられたので、今までの手当の家禄に応じた増減を別紙の通りに決定した。この旨を申し渡すように命じられた。ただし、今回決められた以外に支給してきた手当はそのまま下されるものとする。

 5千石に足らなくて、5千石になるように不足分をいただける者 
                               御側役
                               留守居
                               大番頭
 4千石に足らなくて、4千石になるように不足分をいただける者 
                               書院番頭
                               小姓組番頭
 3千石に足らなくて、3千石になるように不足分をいただける者 
                               大目付
                               町奉行
                               御勘定奉行
                               百人組頭
                               小普請組支配
 2千石に足らなくて、2千石になるように不足分をいただける者 
                               旗奉行
                               槍奉行
                               西城留守居
                               新番頭
                               作事奉行
                               普請奉行
                               小普請奉行
 1千石に足らなくて、1千石になるように不足分をいただける者 
                               留守居番
                               目付
                               使番
                               書院番組頭
                               小姓組組頭
                               小十人頭
                               徒頭

 (以下略)
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 今日は、1722年(享保7)に、江戸幕府第8代将軍である徳川吉宗が「上げ米の制」を制定した日(新暦では8月14日)です。
 これは、江戸時代中期に幕府の財政窮乏を救うため「享保の改革」の一つとして、1722年(享保7)に八代将軍徳川吉宗が諸大名に「上げ米の令」を出して課した制度です。
 諸藩に1万石につき 100石の割合で上納させ、その代償として、諸大名の参勤交代で江戸に在府する期間を半分にし、負担軽減を図りました。
 反対する意見も多かったので、幕府財政が一応安定した1731年(享保16)に廃止され、参勤交代制も以前に戻りました。
 以下に、「上げ米の令」(全文)と現代語訳を掲載しておきます。

〇「上げ米の令」(全文)
 御旗本に召し置かれ候御家人、御代々段々相増し候。 御蔵入高も先規よりは多く候得共、御切米御扶持方、其外表立ち候御用筋の渡方に引合候ては、畢竟年々不足の事に候。然共只今迄は所々の御城米を廻され、或ひは御城金を以て急を弁ぜられ、彼是漸く御取続の事に候得共、今年に至て御切米等も相渡し難く、御仕置筋の御用も御手支の事に候。それに付御代々御沙汰これ無き事に候得共、万石以上の面々より八木差上げ候様ニ仰付らるべしと思召し、左候はては御家人の内数百人も御扶持召放たるべくより外はこれ無く候故、御耻辱をも顧みられず、仰出され候。高壱万石に付米百石の積り差上げらるべく候。且又此の間和泉守に仰付られ、随分詮議を遂げ、納り方の品、或ひは新田等取立の儀申付け候様にとの御事に候得共、近年の内に相調へがたくこれ有るべく候条、其の内年々上り米仰付らるるこれ有るべく候。これに依り在江戸半年充御免成され候間、緩々休息いたし候様にと仰せ出され候。

                『御触書寛保集成』より

 *縦書きの原文を横書きに改め、句読点を付してあります。

<現代語訳>
 将軍直属の旗本として任用された御家人(家臣)は、将軍の代ごとにだんだん数が増えてきた。天領の貢租収入も以前よりは多くなっているが、切米・扶持などの俸禄米やその他主要な経常支出の支払高と比較すると、結局毎年不足なのである。しかしながら、現在までは軍事や飢餓対策などのために、幕府が備蓄した米や金を使って急場をしのぎ、彼是しばらく財政収支を取り繕ってきたけれど、今年に至っては、切米なども渡すことが難しく、政治向きの費用にも支障が出てきた。そのため、代々の将軍からこのような命令はなかったことなのだが、一万石以上の大名たちより米を上納するよう命じようと将軍がお考えになった。そうしなければ御家人の内数百人を辞めさせるより他はないので、恥を忍ばれてお命じになったものである。石高一万石について米100石の割合で上納せよ。かつまた、この間水野和泉守に命じられて、随分吟味をして、年貢納入の増強、あるいは新田開発のことを申し付けるようにとのことではあるけれど、近年の内にきちんとした状態になるのは難しい状況であり、その間毎年上げ米を命じられることである。この代わりとして参勤交代の江戸滞在を半年ずつ免除されるので、(国元で)ゆっくり休息するようにと命令された。

☆「享保の改革」とは?
 江戸幕府第8代将軍徳川吉宗が幕藩体制の安定と強化のため、江戸時代中期に、その在任期間(1716~1745年)を通じて行なった諸改革で、江戸時代の三大改革の一つと言われ、最初に行われたものです。
 その内容は、幕政機構の再編、法制の立て直し、都市商業資本の統制などで、具体的には以下の主要な政策が実施されました。

<享保の改革の主要政策>
・質素倹約の奨励
・定免制を施行して年貢収納の強化をはかる
・足高の制(各地位ごとに授与される給与を定め、地位についている時に元の禄高に足されて支給した)
・公事方御定書(幕府の基本法典。判例を法規化した刑事裁判の際の基準となる刑事判例集)
・目安箱の設置(施政の参考意見や社会事情の収集などを目的に、庶民の進言を集めるための投書箱)
・堂島米市場の公認
・キリスト教に関係のない漢訳洋書の輸入の緩和
・上げ米の制
・相対済令(金銭貸借についての訴訟を認めず当事者間の話し合いによる解決を命じたもの)
・元文の改鋳(貨幣の品位を低下させ、通貨量を増大させる貨幣改鋳策)
・新田開発の奨励(商人など民間による新田開発を奨励)
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