ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:徳富蘇峰

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 今日は、昭和時代前期の太平洋戦争下の1942年(昭和17)に、大日本言論報国会(会長:徳富蘇峰)が設立された日です。
 大日本言論報国会(だいにほんげんろんほうこくかい)は、大政翼賛会の一翼を担って、内閣情報局の指導・監督のもとに組織された思想家・評論家の国策協力団体でした。当初は、大日本思想報国会の名称で計画されましたが、その後大日本言論報国会に改められ、この日に創立されます。
 会長は徳富蘇峰、専務理事は鹿子木員信、理事は津久井竜雄、大串兎代夫、大熊信行、高山岩男、高坂正顕、市川房枝ら27名で、会員は、1940年(昭和15)創立の日本評論家協会(代表者津久井竜雄)を中核に、一般評論家をも糾合しました。幹部には天皇制国家主義の支持者が多く、「国体ノ本義ニ基キ聖戦完遂ノタメ会員相互ノ錬成ヲ図リ日本世界観ヲ確立シテ大東亜新秩序建設ノ原理ト構想トヲ闡明大成シ進ンデ皇国内外ノ思想戦ニ挺身スルコト」(定款3条)を目的に掲げ、「正会員ハ本会ノ目的達成ニ挺身セントスル者ヨリ理事会ノ議ヲ経テ会長之ヲ選定ス」(定款第6条)とし、「総会ノ決議ハ主務官庁ノ認可ヲ経ルニ非ザレバ其効力ヲ生ゼザルモノトス」(第15条)、「会長ハ情報局総裁ノ推薦シタル者ヲ以テ之ニ充ツ」(第17条)、「理事及監事ノ選任及解任並ニ事務局長及事務局部長ノ補職及解散ハ情報局総裁ノ承認ヲ経ルコトヲ要ス」(第23条)とされるなど、情報局の統制が強く働いた団体となります。
 翌年9月に『日本思想叢書』を刊行、10月1日に機関誌『言論報国』を創刊、1944年(昭和19)1月に『思想戦大学講座』を刊行、また、米英撃滅思想戦大講演会を開催するなどして、日本文学報国会、日本美術報国会、日本音楽文化協会等と並んで戦争協力体制の一翼を担いました。会員数は、1943年(昭和18)3月末で847名でしたが、徐々に増えて翌年3月末時点で969名に達したものの、一方で思想的理由により勧誘されなかった人(真下信一、三木清、見田石介など)や入会を勧められながら拒否した人(田邊元など)もいます。
 西田哲学・京都学派へは、なまぬるいと批判、また『中央公論』などにも攻撃を加え、戦争遂行のための思想戦を遂行しましたが、太平洋戦争敗戦後の1945年(昭和20)8月31日に解散しました。尚、その後、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が超国家主義団体として解散対象に指定、役員は公職追放の対象となります。

〇大政翼賛会とは?

 昭和時代前期の1940年(昭和15)10月12日に近衛文麿とその側近によって、新体制運動推進のために創立された、官製の国民統制組織で、総裁には首相が、各道府県支部長には知事が就任し、行政補助的役割を果たしました。
 国防国家体制の政治的中心組織として位置づけられ、「大政翼賛の臣道実践」という観念的スローガンの下、衆議は尽くすが最終決定は総裁が下すという、ドイツナチス党の指導者原理を模倣した「衆議統裁」方式を運営原則とします。その後、太平洋戦争の進展とともに統制組織としての色彩を強め、1942年(昭和17)4月の翼賛選挙を実施して、翼賛政治体制の確立を図りました。
 それと共に、同年6月には従来各省の管轄下にあった「大日本産業報国会」、「農業報国連盟」、「商業報国会」、「日本海運報国団」、「大日本青少年団」、「大日本婦人会」の官製国民運動6団体をその傘下に収めます。さらに、同年8月町内会と部落会に翼賛会の世話役(町内会長・部落会長兼任、約21万人)を、隣組に世話人(隣組長兼任、約154万人)を置くことを決定しました。
 このようにして、翼賛会体制=日本型ファシズムの国民支配組織が確立、国民生活はすべてにわたって統制されることになります。しかし、鈴木貫太郎内閣のもとでの国民義勇隊創設に伴い、1945年(昭和20)6月13日に解散し、国民義勇隊へと発展的に解消しました。

☆大政翼賛会のもとに結成された文化・思想・宗教関係の報国会

・日本文学報国会 1942年(昭和17)5月26日設立
・大日本言論報国会 1942年(昭和17)12月23日設立
・日本美術報国会 1943年(昭和18)5月18日設立
・大日本戦時宗教報国会 1944年(昭和19)9月30日設立

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1496年(明応5)第105代の天皇とされる後奈良天皇の誕生日(新暦1497年1月26日)詳細
1874年(明治7)洋画家和田英作の誕生日詳細
1958年(昭和33)東京タワーの完工式が行われる詳細
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 今日は、昭和時代中期の1957年(昭和32)に、ジャーナリスト・思想家・歴史家・評論家徳富蘇峰が亡くなった日です。
 徳富蘇峰(とくとみ そほう)は、江戸時代後期の1863年(文久3年1月25日)に、肥後国上益城郡津森村杉同(現在の熊本県上益城郡益城町)の母の実家で、代々惣庄屋兼代官(水俣)を勤めた豪農の父・徳富一敬と母・久子の長男として生まれましたが、名は猪一郎(いいちろう)と言いました。幼時は水俣に住んでいましたが、1870年(明治3)に父が熊本藩庁に勤務することになり、一家で熊本大江村に移住します。
 1871年(明治4)から兼坂諄次郎に漢学び始めたものの、1873年(明治6年)には、熊本洋学校に最年少で入学しますが、退学せざるを得なくなりました。1875年(明治8)に父の勧めで熊本洋学校に再入学したものの、熊本バンドに参加しまたもや退学となり、翌年上京し、官立の東京英語学校に入学するも10月末に退学し、京都の同志社英学校に入学します。
 新島襄よりキリスト教の洗礼を受けたものの、1880年(明治13)には、同志社同盟休校に連座したことで新島校長の自鞭事件が生じ、卒業を目前にして仲間と共に自主退学しました。1881年(明治14)に帰郷して自由党系の民権結社相愛社に加入し、自由民権運動に参加、翌年には、自宅を開放して自ら塾長となり、自由民権を旗印に「大江義塾」を開きます。
 1886年(明治19)に著書『将来之日本』が一躍ベストセラーとなり、大江義塾を閉じ一家をあげて上京、翌年には、友人と父の協力で民友社を創立し、雑誌『国民之友』を発刊、"蘇峰"と名乗るようになりました。1890年(明治23)に国民新聞社を創立、自ら社長兼主筆となり、平民主義を唱え、一躍ジャーナリズムのリーダーとなりましたが、日清戦争前後から対外膨張を主張するようになり、三国干渉を機に国家主義の立場を鮮明にし、従来の平民主義からの変節と非難されます。
 1896年(明治29)に海外事情を知るための世界旅行に出発、翌年帰国後、第2次松方内閣の内務省勅任参事官に就任、1904年(明治37)の日露戦争の開戦に際しては国論の統一と国際世論への働きかけに努めました。1905年(明治38)の日露講和に関する日比谷焼打事件に際しては約5,000人もの群衆によって国民新聞社が襲撃を受けましたが、1911年(明治44)には桂太郎首相の推薦で勅撰貴族院議員となっています。
 この頃から、藩閥、特に桂太郎と密接に提携した言論活動を展開したものの、1913年(大正2)の大正政変では再び社屋が焼打ちにあい、以後は政界を離れ、評論活動に力を注ぐようになりました。1918年(大正7)から『近世日本国民史』の執筆を開始、1923年(大正12)にはその業績で、第13回帝国学士院賞恩賜賞を受賞します。
 1929年(昭和4)に経営不振から国民新聞社を退社を余儀なくされ、以後は大阪毎日新聞社の社賓となりました。1937年(昭和12)に帝国芸術院会員となり、1942年(昭和17)に大日本言論報国会会長、日本文学報国会会長に就任、翌年には文化勲章を受章しています。
 太平洋戦争後は、公職追放の指名を受け、熱海に引き籠り、1957年(昭和32)11月2日に、熱海の晩晴草堂に於いて、94歳で亡くなりました。尚、小説家の徳冨蘆花は弟です。

〇徳富蘇峰の主要な著作

・『第十九世紀日本ノ青年及其教育』(1885年)後に『新日本之青年』と解題して刊行
・『官民ノ調和ヲ論ズ』
・『将来之日本』(1886年)
・『日本国防論』(1889年)
・『吉田松陰』(1893年)
・『大日本膨脹論』(1894年)
・『時務一家言』(1913年)
・『大正の青年と帝国の前途』(1916年)
・『杜甫と弥耳敦』(1917年)
・『近世日本国民史』全100巻(1918~1952年)
・『頼山陽』(1926年)
・『中庸之道』(1928年)
・『赤穂義士観』(1929年)
・『我が母』(1931年)
・『勝海舟伝』(1932年)
・『蘇峰自伝』(1935年)
・『昭和国民読本』(1939年)
・『満州建国読本』(1940年)
・『勝利者の悲哀』(1952年)

☆徳富蘇峰関係略年表(明治5年以前の日付は旧暦です)

・1863年(文久3年1月25日) 肥後国上益城郡津森村杉同(現在の熊本県上益城郡益城町)で、豪農の父・徳富一敬と葉は・久子の長男として生まれる
・1870年(明治3年) 7歳の時、父が熊本藩庁に勤務することになり、一家は水俣を離れ熊本大江村に移住する
・1871年(明治4年) 兼坂諄次郎に学び始める
・1873年(明治6年) 10歳の時、熊本洋学校に最年少で入学するが、退学せざるを得なくなる
・1875年(明治8年) 12歳の時、父の勧めで再び熊本洋学校に入学したが、熊本バンドに参加しまたもや退学となる
・1876年(明治9年) 上京し、官立の東京英語学校に入学するも10月末に退学し、同志社英学校に入学する
・1876年(明治9年)12月 新島襄よりキリスト教の洗礼を受ける
・1880年(明治13年) 17歳の時、同志社同盟休校に連座したことで新島校長の自鞭事件が生じ、卒業を目前にして仲間と共に自主退学する
・1881年(明治14年) 帰郷して自由党系の民権結社相愛社に加入し、自由民権運動に参加する
・1882年(明治15年)3月 19歳の時、自宅を開放して自ら塾長となり、自由民権を旗印に「大江義塾」を開く
・1884年(明治17年) 倉園又三(飽託郡本庄村・現熊本市の熊本藩上級官吏)の息女静子と結婚する
・1885年(明治18年) 『第十九世紀日本ノ青年及其教育』を自費出版する
・1886年(明治19年) 23歳の時、著書『将来之日本』が一躍ベストセラーとなり、大江義塾を閉じ一家をあげて上京する
・1887年(明治20年) 友人と父の協力で民友社を創立し、雑誌『国民之友』を発刊、"蘇峰"と名乗るようになる
・1890年(明治23年) 27歳の時、国民新聞社を創立、自ら社長兼主筆となり、平民主義を唱え、一躍ジャーナリズムのリーダーとなる
・1894~95年(明治27~28年) 日清戦争前後から対外膨張を主張するようになり、国家主義に転じる
・1896年(明治29年) 海外事情を知るための世界旅行に出発する
・1897年(明治30年) 帰国後、第2次松方内閣の内務省勅任参事官に就任する
・1904年(明治37年) 日露戦争の開戦に際しては国論の統一と国際世論への働きかけに努める
・1905年(明治38年)9月5日 日露講和に関する日比谷焼打事件に際しては約5,000人もの群衆によって国民新聞社が襲撃を受ける
・1911年(明治44年) 桂太郎首相の推薦で勅撰貴族院議員となる
・1913年(大正2年) 大正政変では再び社屋が焼打ちにあい、以後は政界を離れ、評論活動に力を注ぐ
・1915年(大正4年) 勲三等を受章する
・1918年(大正7年) 『近世日本国民史』の執筆を始める
・1923年(大正12年) 『近世日本国民史』で、第13回帝国学士院賞恩賜賞を受賞する
・1925年(大正14年) 国学士院会員となる
・1929年(昭和4年) 経営不振から国民新聞社を退社する
・1937年(昭和12年) 帝国芸術院会員となる
・1942年(昭和17年) 大日本言論報国会会長、日本文学報国会会長を務める
・1943年(昭和18年) 文化勲章を受章する
・1945年(昭和20年) 公職追放の指名を受け、熱海に引き籠る
・1957年(昭和32年)11月2日 熱海の晩晴草堂に於いて、95歳で亡くなる
・1998年(平成10年) 山梨県山中湖村に山中湖文学の森・徳富蘇峰館が開館する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1288年(正応元)第96代天皇とされる後醍醐天皇の誕生日(新暦11月26日)詳細
1714年(正徳4)江戸幕府5代将軍徳川綱吉の寵臣・譜代大名柳沢吉保の命日(新暦12月8日)詳細
1942年(昭和17)詩人・歌人北原白秋の命日詳細
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 今日は、昭和時代前期の太平洋戦争下の1942年(昭和17)に、日本文学報国会(会長:徳富蘇峰)が設立された日です。
 日本文学報国会(にほんぶんがくほうこくかい)は、大政翼賛会文化部が文部省と情報局との協力のもと、太平洋戦争翼賛のために、文学者を網羅する社団法人として設立されました。この日の創立総会では、内閣情報局次長によって、常任理事に久米正雄、中村武羅夫、理事に長与善郎ら16名が指名され、8つの部会(小説・劇文学・評論随筆・詩・短歌・俳句・国文学・外国文学)を設け、小説は徳田秋声部会長・白井喬二幹事長・菊池寛理事、劇文学は武者小路実篤部会長・久保田万太郎幹事長・山本有三理事、評論随筆は高島米峰部会長・河上徹太郎幹事長・河上徹太郎理事、詩は高村光太郎部会長、西條八十幹事長・佐藤春夫理事、短歌は佐佐木信綱部会長・土屋文明幹事長・水原秋桜子理事、俳句は高浜虚子部会長・富安謙次幹事長・前田雀郎[川柳]理事、国文学は橋本進吉部会長・久松潜一幹事長・折口信夫理事、外国文学は茅野蕭々部会長、中野好夫幹事長・辰野隆理事が指名(翌年5月22日に漢詩・漢文部会が設置され、市村瓊次郎部会長・沢田総清幹事長が指名)されます。
 さらに、6月18日の発会式では、徳富蘇峰が会長となり、戦時下における文学者の決意宣誓があって、内閣情報局第5部3課の指導監督を受ける政府の外郭団体として、約3,100名を擁して発足しました。機関紙『文学報国』が発行され、3回(1942年11月、1943年8月、1944年11月)にわたる大東亜文学者大会の開催、文芸報国講演、傷病兵慰問文芸運動などを行い、また、『国民座右銘』(評論随筆部会)、『愛国百人一首』(短歌部会)選定、『大東亜戦詩集・歌集』編纂、『辻小説』・『辻詩集』製作、古典作家の顕彰祭などを行ないます。
 初め参加をためらっていた者も後には作品発表の場を失う結果を恐れて加わり、会員であることが文学者の資格であるような観を呈したものの、一部不参加を貫いた文学者もいました。文学を通しての国策宣伝、戦争協力を目的としてきましたが、太平洋戦争後の1945年(昭和20)8月31日に解散しています。

〇大政翼賛会とは?

 昭和時代前期の1940年(昭和15)10月12日に近衛文麿とその側近によって、新体制運動推進のために創立された、官製の国民統制組織で、総裁には首相が、各道府県支部長には知事が就任し、行政補助的役割を果たしました。
 国防国家体制の政治的中心組織として位置づけられ、「大政翼賛の臣道実践」という観念的スローガンの下、衆議は尽くすが最終決定は総裁が下すという、ドイツナチス党の指導者原理を模倣した「衆議統裁」方式を運営原則とします。その後、太平洋戦争の進展とともに統制組織としての色彩を強め、1942年(昭和17)4月の翼賛選挙を実施して、翼賛政治体制の確立を図りました。
 それと共に、同年6月には従来各省の管轄下にあった「大日本産業報国会」、「農業報国連盟」、「商業報国会」、「日本海運報国団」、「大日本青少年団」、「大日本婦人会」の官製国民運動6団体をその傘下に収めます。さらに、同年8月町内会と部落会に翼賛会の世話役(町内会長・部落会長兼任、約21万人)を、隣組に世話人(隣組長兼任、約154万人)を置くことを決定しました。
 このようにして、翼賛会体制=日本型ファシズムの国民支配組織が確立、国民生活はすべてにわたって統制されることになります。しかし、鈴木貫太郎内閣のもとでの国民義勇隊創設に伴い、1945年(昭和20)6月13日に解散し、国民義勇隊へと発展的に解消しました。

☆大政翼賛会のもとに結成された文化・思想・宗教関係の報国会

・日本文学報国会 1942年(昭和17)5月26日設立
・大日本言論報国会 1942年(昭和17)12月23日設立
・日本美術報国会 1943年(昭和18)5月18日設立
・大日本戦時宗教報国会 1944年(昭和19)9月30日設立

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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1977年(昭和52)小説家・劇作家藤森成吉の命日詳細
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