ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:御家人

houjyoumasakozou01
 今日は。鎌倉時代の1221年(承久3)に、承久の乱に際し、後鳥羽上皇の執権・北条義時追討令を受け、北条政子が御家人に対し「前将軍源頼朝の恩は山よりも高く海よりも深い」と結集を訴えた日ですが、新暦では6月10日となります。
 承久の乱(じょうきゅうのらん)は、鎌倉時代の1221年(承久3)に、後鳥羽上皇とその近臣たちが鎌倉幕府討滅の兵を挙げたものの、逆に敗れた兵乱のことでした。この年の4月に、順徳天皇は皇子の仲恭天皇に譲位し、父後鳥羽上皇の討幕計画に協力を示し、5月14日に後鳥羽上皇は「流鏑馬揃え」を口実に諸国の兵を招集、北面・西面武士や近国の武士、大番役の在京の武士1700余騎が集められ、幕府を支持した西園寺公経を捕らえます。
 翌15日に京方の藤原秀康・近畿6ヶ国守護大内惟信率いる800騎が伊賀光季邸を襲撃、光季は討死しましたが、変事を鎌倉に知らせます。この時に、執権北条義時追討の宣旨が出されましたが、5月19日に幕府へ西園寺公経の家司三善長衡と伊賀光季からの上皇挙兵の急報が届けられ、北条政子が御家人たちを集めて、鎌倉創設以来の頼朝の恩顧を訴え、その団結を図りました。
 そして、幕府側は遠江以東15ヶ国の兵を集め、5月22日に東海道は北条泰時・時房、東山道は武田信光・小笠原長清、北陸道は北条朝時・結城朝広らを大将軍として、三道から京へ攻め上がります。6月5日に東山道軍5万騎は大井戸渡に布陣する大内惟信、高桑大将軍が率いる京方2000騎を撃破、6月6日には主力の東海道軍10万騎が尾張川を渡河し、墨俣の陣に攻めかかり、山田重忠のみが杭瀬川で奮戦するものの、京方は総崩れになり、大敗を喫しました。
 6月13日に京方と幕府軍が宇治川で衝突、京方は宇治川の橋を落とし、必死に防戦しましたが、翌14日に佐々木信綱を先頭として強引に敵前渡河し、多数の溺死者を出しながらも敵陣の突破に成功、京方は潰走し、15日には幕府軍は京都に攻め入り、京方の敗北で終わります。
 その結果、後鳥羽上皇は隠岐島、土御門上皇は土佐国、順徳上皇は佐渡島に配流、上皇方の公家・武士の所領は没収されました。また、新補地頭の設置、朝廷監視のため六波羅探題の設置などにより、公家勢力の権威は著しく失墜し、鎌倉幕府の絶対的優位が確立します。
 以下に、『小松家文書』の北条義時追討令と『吾妻鏡』第二十五巻の北条政子の御家人たちへの訴えを注釈・現代語訳付で掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇『小松家文書』北条義時追討令 

右弁官[1]下す 五畿内・諸国[東海・東山・北陸・山陰・山陽・南海・太宰府] 
應に早く陸奥守平義時朝臣[2]の身の追討し、院の庁に参り裁断[3]を蒙るべき諸国庄園の守護人地頭等の事。 
右、内大臣[4]宣す。勅を奉るに、近曽[5]関東[6]の成敗[7]と称し、天下の政務を乱る。纔に将軍の名を帯ぶと雖も猶以て幼稚の齢に在り[8]。然る間彼の義時朝臣、偏に言詞を教命に仮り[9]、恣に裁断[3]を都鄙[10]に致す。剰己が威を耀し皇憲[11]を忘るるが如し。之を論ずるに、政道謀反[12]と謂ひつべし。早く五畿七道の諸国に下知して、彼の朝臣を追討せしめよ。兼ねて又諸国庄園の守護人地頭等、言上を経べきの旨有らば、各、院庁[13]に参れ。よろしく上奏を経て状に随ひて[14]聴断すべし[15]。抑も国宰[16]ならびに領家[17]等、事を綸綍[18]に寄せ、更に濫行[19]を致すこと勿れ。縡は是厳密なり。違越[20]せざれ者。諸国承知し、宣に依りて之を行へ。 
 承久三年五月十五日    大使三善の朝臣 
 大弁藤原の朝臣

     『小松家文書』(京都の小松美一郎氏所蔵文書)より

*縦書きの原文を横書きにし、旧字を新字に改めてあります。

【注釈】

[1]右弁官:うべんかん=太政官三局の祖一つで凶事の宣旨発布を担当した。 
[2]平義時朝臣:たいらのよしときあそん=北条義時のこと。  
[3]裁断:さいだん=理非、善悪を区別し定めること。どちらかに判断してきめること。裁決。裁定。 
[4]内大臣:ないだいじん=源通光。 
[5]近曽:さきつころ=この頃、近頃。 
[6]関東:かんとう=鎌倉幕府のこと。 
[7]成敗:せいばい=こらしめること。処罰すること。しおき。 
[8]幼稚の齢に在り:ようちのよわいにあり=まだ幼いに過ぎない。  
[9]言詞を教命に仮り:げんじをきょうめいにかり=将軍家の命と称して。将軍家の言葉をかりて。  
[10]都鄙:とひ=都市と田舎。国中。 
[11]皇憲:こうけん=天皇・朝廷の支配下にあるものが従うべきであるとされる法。 
[12]謀返:むへん=律に規定する八虐の第一番目の重罪。天皇を殺害し国家を顛覆しようとする罪。君主に対する殺人予備罪。犯人は斬刑に処される。 
[13]院庁:いんのちょう=後鳥羽上皇の院庁。 
[14]状に随ひて:じょうにしたがいて=実情に応じて。 
[15]聴断すべし:ちょうだんすべし=裁定を下そう。 
[16]国宰:こくさい=国司のこと。 
[17]領家:りょうけ=古代末・中世の荘園領主。 
[18]綸綍:りんふつ=天皇の太い綱。天皇の大綱。天皇の引き綱。 
[19]濫行:らんぎょう=乱暴や不都合な行為などをすること。品行が乱れているさま。また、その行為。 
[20]違越:いおつ=違反すること。法、規定、契約などにそむくこと。違犯。違失。

<現代語訳> 北条義時追討令

右弁官が下す 五畿内(山城・大和・河内・和泉・摂津)・諸国(東海道・東山道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・太宰府)に対して、 
まさに早く陸奥守平の北条義時の身を追討し、院庁に参上して裁定をいただくべき諸国・庄園の守護人や地頭等についてのこと。 
右のように、内大臣が仰せられた。天皇の命令を奉るに、近頃、幕府の仕置きと称して、天下の政治を混乱させている。かろうじて将軍を名乗っていると言っても、まだまだ幼い者に過ぎない。しかし、かの北条義時は、もっぱら将軍家の命と称して、ほしいままに裁定を国中に下している。そればかりか自分の威勢を見せびらかし、天皇・朝廷の支配下にあるものが従うべきであるとされる法を忘れ去っているかのようである。これは言ってみれば、律に規定する八虐の第一番目の重罪に他ならない。早く五畿七道の諸国に命令を下して、かの北条義時を追討せよ。併せてまた、諸国・庄園の守護人や地頭等で、申し出るべき者が有れば、各自で院庁までやってきて、院に上奏しなさい。実情に応じて裁定を下そう。そもそも国司ならびに荘園領主等は、事を天皇の大綱に寄せ集め 、さらに乱暴や不都合な行為をすることがあってはならない。大綱はこれ厳密である。法、規定、契約などにそむかないこと。諸国は承知して、勅旨に基づいてこれを実行せよ。 
 承久3年(1221年)5月15日    大使三善の朝臣 
 大弁藤原の朝臣
 
〇『吾妻鏡』第二十五巻

<原文>

承久三年五月大十九日壬寅。大夫尉光季去十五日飛脚下着關東。申云。此間。院中被召聚官軍。仍前民部少輔親廣入道昨日應勅喚。光季依聞右幕下〔公經〕告。申障之間。有可蒙勅勘之形勢云々。未刻。右大將家司主税頭長衡去十五日京都飛脚下着。申云。昨日〔十四〕幕下并黄門〔實氏〕仰二位法印尊長。被召籠弓塲殿。十五日午刻。遣官軍被誅伊賀廷尉。則勅按察使光親卿。被下右京兆追討宣旨於五畿七道之由云々。關東分宣旨御使。今日同到着云々。仍相尋之處。自葛西谷山里殿邊召出之。稱押松丸〔秀康所從云々〕。取所持宣旨并大監物光行副状。同東士交名註進状等。於二品亭〔号御堂御所〕披閲。亦同時廷尉胤義〔義村弟〕。私書状到着于駿河前司義村之許。是應勅定可誅右京兆。於勳功賞者可依請之由。被仰下之趣載之。義村不能返報。追返彼使者。持件書状。行向右京兆之許云。義村不同心弟之叛逆。於御方可抽無二忠之由云々。其後招陰陽道親職。泰貞。宣賢。晴吉等。以午刻〔初飛脚到來時也〕有卜筮。關東可屬太平之由。一同占之。相州。武州。前大官令禪門。前武州以下群集。二品招家人等於簾下。以秋田城介景盛。示含曰。皆一心而可奉。是最期詞也。故右大將軍征罸朝敵。草創關東以降。云官位。云俸祿。其恩既高於山岳。深於溟渤。報謝之志淺乎。而今依逆臣之讒。被下非義綸旨。惜名之族。早討取秀康。胤義等。可全三代將軍遺跡。但欲參院中者。只今可申切者。群參之士悉應命。且溺涙申返報不委。只輕命思酬恩。寔是忠臣見國危。此謂歟。武家背天氣之起。依舞女龜菊申状。可停止攝津國長江。倉橋兩庄地頭職之由。二箇度被下 宣旨之處。右京兆不諾申。是幕下將軍時募勳功賞定補之輩。無指雜怠而難改由申之。仍逆鱗甚故也云々。晩鐘之程。於右京兆舘。相州。武州。前大膳大夫入道。駿河前司。城介入道等凝評議。意見區分。所詮固關足柄。筥根兩方道路可相待之由云々。大官令覺阿云。群議之趣。一旦可然。但東士不一揆者。守關渉日之條。還可爲敗北之因歟。任運於天道。早可被發遣軍兵於京都者。右京兆以兩議。申二品之處。二品云。不上洛者。更難敗官軍歟。相待安保刑部丞實光以下武藏國勢。速可參洛者。就之。爲令上洛。今日遠江。駿河。伊豆。甲斐。相摸。武藏。安房。上総。下総。常陸。信濃。上野。下野。陸奥。出羽等國々。飛脚京兆奉書。可相具一族等之由。所仰家々長也。其状書樣。 
 自京都可襲坂東之由。有其聞之間。相摸權守。武藏守相具御勢。所打立也。以式部丞差向北國。此趣早相觸一家人々。可向者也。

    『吾妻鏡』第二十五巻より

*縦書きの原文を横書きに改め、句読点を付してあります。

<読み下し文>

承久三年五月大十九日壬寅。大夫の尉光季去る十五日の飛脚[21]関東に下着す。申して云く、この間院中に官軍を召聚めらる。仍って前の民部少輔親廣入道、昨日勅喚[22]に応ず。光季は右幕下(公経)の告げを聞くに依って障りを申すの間、勅勘を蒙るべきの形勢有りと。未の刻[23]右大将家司主税の頭長衡去る十五日の京都の飛脚[21]下着す。申して云く、昨日(十四日)、幕下並びに黄門(實氏)、二位法印尊長に仰せ、弓場殿に召し籠めらる[25]。十五日午の刻[26]、官軍を遣わし伊賀廷尉を誅せらる。則ち按察使[27]光親卿に勅し、右京兆[28]追討の宣旨[29]を五幾七道[30]に下さるるの由と。関東分宣旨[29]の御使は、今日同じく到着すと。仍って相尋ねるの処、葛西谷山里殿の辺よりこれを召し出す。押松丸(秀康所従)と称すと。 
所持の宣旨[29]並びに大監物光行の副状、同じく東士の交名註進状[31]等を取り、二品亭[32](御堂御所[33]と号す)に於いて披閲[34]す。また同時廷尉胤義(義村弟)の私書状、駿河の前司義村の許に到着す。これ勅定[35]に応じ右京兆[28]を誅すべし。勲功[36]の賞に於いては請いに依るべきの由、仰せ下さるるの趣これを載す。義村返報に能わず。彼の使者を追い返し、件の書状を持ち、右京兆[28]の許に行き向かいて云く、義村弟の叛逆に同心[37]せず。御方に於いて無二[38]の忠を抽んず[39]べきの由と。 
その後陰陽道親職・泰貞・宣賢・晴吉等を招き、午の刻[26](初めの飛脚[21]到来の時なり)を以て卜筮[40]有り。関東太平に属くべきの由、一同これを占う。相州・武州・前の大官令禅門・前の武州已下[41]群集す。二品[42]家人等を簾下[43]に招き、秋田城の介景盛[44]を以て示し含めて曰く、皆心を一にして奉るべし。これ最期の詞なり。故右大将軍[45]朝敵を征罰し、関東を草創[46]してより以降、官位と云い俸禄と云い、その恩[47]既に山岳より高く、溟渤[48]より深し。報謝の志[49]これ浅からんか。而るに今逆臣の讒[50]に依って、非義の綸旨[51]を下さる。 
名を惜しむの族[52]は、早く秀康[53]・胤義[54]等を討ち取り、三代将軍の遺跡[55]を全うすべし[56]。但し院中に参らんと欲する者は、只今申し切るべしてえり。群参の士悉く命に応じ、且つは涙に溺れ[57]返報を申すこと委しからず。ただ命を軽んじ酬恩[58]を思う。寔にこれ忠臣国の危うきを見るとは、この謂われか。武家天気[59]に背くの起こりは、舞女亀菊[60]の申状に依って、摂津の国長江・倉橋両庄の地頭職を停止すべきの由、二箇度院宣[61]を下さるるの処、右京兆[28]諾し申さず。これ幕下将軍の時、勲功[36]の賞に募り定補[62]するの輩、指せる雑怠[63]無くして改め難きの由これを申す。仍って逆鱗[64]甚だしきが故なりと。 
晩鐘[65]の程、右京兆[28]の舘に於いて、相州・武州・前の大膳大夫入道・駿河の前司・城の介入道等評議を凝らす。意見区々なり[66]。所詮関を固め足柄・箱根両方の道路に相待つべきの由と。大官令覺阿云く、群議の趣、一旦然るべし[67]。但し東士一揆[68]せずんば、関を守り日を渉る[69]の條、還って敗北の因たるべきか。運を天道[70]に任せ、早く軍兵を京都に発遣[71]せらるべしてえり。右京兆[28]両議を以て二品[42]に申すの処、二品[42]云く、上洛せずんば、更に官軍を敗り難からんか。安保刑部の丞實光以下武蔵の国の勢を相待ち、速やかに参洛[72]すべしてえり。これに就いて上洛せしめんが為、今日遠江・駿河・伊豆・甲斐・相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸・信濃・上野・下野・陸奥・出羽等国々の飛脚[21]、京兆奉書[73]に、一族等を相具すべきの由、家々の長に仰す所なり。その状の書き様、 
 京都より坂東を襲うべきの由その聞こえ有るの間、相模の守・武蔵の守御勢を相具し打ち立つ所なり。式部の丞を以て北国に差し向ける。この趣早く一家の人々に相触れ[74]、向かうべきなりてえり。

*旧字を新字に改めてあります。

【注釈】

[21]飛脚:ひきゃく=馬または徒歩で書類や金銀などの小荷物を運送する脚夫。 
[22]勅喚:ちょっかん=天皇の命令によって呼び出されること。 
[23]未の刻:ひつじのこく=現在の午後二時頃。また、その前後二時間。 
[24]弓場殿:ゆみばどの=宮中で行なわれる射技に天皇が臨席する建物。いばどの。ゆばどの。 
[25]召し籠めらる:めしこめらる=閉じ込められる。押し込められる。 
[26]午の刻:うまのこく=現在の午前12時を中心とした前後2時間。 
[27]按察使:あぜち=地方行政監察官。 
[28]右京兆:うけいちょう=右京職、右京大夫の唐名だが、ここでは北条義時こと。 
[29]宣旨:せんじ=天皇の命令を下達するとき出された文書。 
[30]五幾七道:ごきしちどう=山城、大和、河内、和泉、摂津の五か国(畿内)と、東海、東山、北陸、山陰、山陽、南海、西海の七道。また、日本全国の意。 
[31]註進状:ちゅうしんじょう=古文書の形式の一つで、事物の明細を記して上部機関に提出する文書。勘録状。 
[32]二品亭:にほんてい=二位家政子の屋敷。 
[33]御堂御所:みどうごしょ=勝長寿院内の御所。 
[34]披閲:ひえつ=書状などをひらいて調べて見ること。ひらいて念入りに見ること。 
[35]勅定:ちょくじょう=天皇がみずから定めたこと。また、天皇の命令。勅命。 
[36]勲功:くんこう=国家や君主に尽くした功績。また、その功績に対する褒美。 
[37]同心:どうしん=ともに事にあたること。協力すること。また、味方すること。加勢すること。 
[38]無二:むに=ふたごころのないこと。裏切る心を持たないこと。 
[39]抽んず:ぬきんず=卓越した働きをする。志を人一倍あらわす。 
[40]卜筮:ぼくぜい=卜や筮でうらなうこと。うらない。 
[41]已下:いか=それを始めとしてそれ以外のもの。 
[42]二品:にほん=従二位の政子のこと。 
[43]簾下:れんか=御簾のもと。  
[44]秋田城の介景盛:あきたじょうのすけかげもり=安達景盛のこと。  
[45]故右大将軍:こうだいしょうぐん=源頼朝のこと。 
[46]関東を草創:かんとうをそうそう=鎌倉幕府を開いたこと。 
[47]その恩:そのおん=源頼朝の恩。 
[48]溟渤:めいぼつ=大海。果てしなく広い海。 
[49]報謝の志:ほうしゃのこころざし=源頼朝の恩に報いる気持ち。  
[50]讒:ざん=事実でないことを言って他人をおとしいれること。また、そのことば。 
[51]綸旨:りんじ=天皇の命を受けて蔵人が発行する文書。ここでは、北条義時追放令。 
[52]名を惜しむの族:なをおしむのやから=名誉を重んじる人々。 
[53]秀康:ひでやす=北面の武士藤原秀康のこと。  
[54]胤義:たねよし=大番役勤仕のため在京中の三浦胤義のこと。 
[55]遺跡:ゆいせき=先人ののこした領地・官職など。ここでは、鎌倉幕府を指す。 
[56]全うすべし:まっとうすべし=守り抜くこと。 
[57]涙に溺れ:なみだにおぼれ=涙があふれ。 
[58]酬恩:しゅうおん=恩に報いること。 
[59]天気:てんき=天皇の機嫌。天機。 
[60]舞姫亀菊:まいひめかめぎく=京都の白拍子で、後鳥羽上皇の寵姫であった伊賀局のこと。 
[61]院宣:いんぜん=院司が上皇や法皇の意志を奉じて出す奉書。 
[62]定補:じょうほ=きまってその職に任ずること。 
[63]雑怠:ざったい=特別な不納。 
[64]逆鱗:げきりん=天皇が怒ること。天皇が立腹すること。天皇の怒り。 
[65]晩鐘:ばんしょう=夕方に鳴らす、寺院・教会などの鐘。暮れの鐘。 
[66]意見区々なり:いけんくくなり=意見が色々であった。意見がまちまちであった。 
[67]一旦然るべし:いったんしかるべし=一つの方法であろう。一つの理屈であろう。一つの考えであろう。 
[68]一揆:いっき=おのおのの心を一つにすること。行動を共にすること。一致団結。一味同心。 
[69]日を渉る:ひをわたる=ある日数・期間とぎれずに引き続く。 
[70]天道:てんどう=自然に定まっている道理。天然自然の道理。天の道。天理。 
[71]発遣:はっけん=送りつかわすこと。さしむけること。派遣。差遣。 
[72]参洛:さんらく=地方から都へのぼること。上洛。 
[73]京兆奉書:けいちょうほうしょ=右京兆の下達文書、つまり北条義時の命令書。 
[74]相触れ:あいふれ=広く告げ知らせる。言いふらす。
 
<現代語訳> 

 承久3年(1221年)5月大19日壬寅。大夫尉伊賀光季が先日の15日に出した飛脚が関東へ着いた。報告によると、「最近、院の御所に軍隊を招集されている。それで、前の民部少輔源大江親広は、召喚に従った。光季は右大将西園寺公経のお言葉を聞いていたから、差し障りがあるといったので、後鳥羽院のお叱りを受けそうな形勢だ。」と。 
 午後2時頃、右大将西園寺公経の執事の主税頭三善長衡の先日15日に出した飛脚が到着した。報告によると、「昨日幕下西園寺公経と中納言西園寺実氏は、二位法印尊長に院の命で、弓場殿に閉じ込められた。15日の昼頃に、政府軍を派遣して伊賀光季が攻め殺された。すぐに、按察使葉室光親に命じて、義時を滅ぼせとの院の命令を畿内五ヶ国や七街道に行かせた。」と。 
 関東分の院の命令書が今日同じ様に到着すると。そこで、持って来た人を捜索したところ、葛西谷の山里殿の辺りからこれを見つけて連れてきた。押松丸という名だと。所持している院の命令書ならびに大監物源光行の添え状、同じく関東武士が上皇へ部下として参上した名簿などを取り上げ、二位家政子の屋敷〔勝長寿院内の御所という〕で開いて見た。 
 また、同じ時に三浦九郎廷尉胤義の私的な手紙が駿河前司三浦義村のもとへ到着した。この内容も「朝廷の命令に従って義時を征伐すべし。褒美は望みに任せるの由。」と仰せられているとのことが書かれていた。義村は返事を出さず、その使者を追い返し、その書状を持参して義時の所へ来ていった。「私は、弟の反逆には味方しない。義時に対して二心のない忠節を誓うべきの由。」と。 
 その後、陰陽師の安陪親職・泰貞・清原宣賢・安陪晴吉などを招いて、今日の昼の時刻〔初めて飛脚が到着した時間〕を占わせた。「関東は無事である由。」と、一同が同様の答えだった。 
 相州時房・武州泰時・大官令入道大江広元・前武州足利義氏を始め、みなが集まってきた。二位家政子は、御家人達を御簾の前に呼んで、秋田城介景盛を通して、皆に言うことには、 
 「みなさん、心を一つにして聞いて下さい。これは私の最後の言葉です。頼朝様が朝敵(木曽義仲や平氏のこと)を亡ぼして関東に武士の政権を創ってから後、あなた方の官位は上がり、収入もずいぶん増えた。平家に仕えていた時には裸足で京まで行っていたあなたたちでしたが、京都へ行って無理に働かされることもなく、幸福な生活を送れるようになった。それもこれもすべては頼朝様のお陰だ。そしてその恩は山よりも高く海よりも深いものである。しかし、今その恩を忘れて天皇や上皇をだまし、私達を滅ぼそうとしている者があらわれた。名を惜しむ者は藤原秀康・三浦胤義らを討ち取り、三代将軍の恩に報いてほしい。もしこの中に朝廷側につこうと言う者がいるのなら、まずこの私を殺し、鎌倉中を焼きつくしてから京都へ行きなさい。」といった。 
 集まった侍たちは、全員命令に答えた。ただし、有難さに涙が流れ、言葉にならない者もいた。ただひたすらに、命をなげうち恩に答えようと思った。まさにこれこそ、「忠義な者は国が危うい時にこそ出てくる」とはこれをいうのだと。 
 そもそも、武士が朝廷に反抗する原因は、(後鳥羽上皇寵愛の)舞姫の菊女(伊賀局)の申し出によって、摂津国長江庄・倉橋庄の地頭(義時)を廃止するように、二度もいって来たが、義時は承知しなかった。それは「頼朝様が手柄として与えられた領地は、特別な不納がない限り変更はしないとお決めになっている。」と申し出たので、上皇のお怒りはすさまじいものとなったのだ。 
 夕暮れの鐘が鳴る頃になって、義時の屋敷に相州時房・武州泰時・大江広元・駿河前司三浦義村・城介入道安達景盛等が会議を開いた。意見は色々であった。やはり、足柄峠と箱根山の道の関所を固めて待つべきなのだろうとのこと。大江広元が「みなの議論の趣では、それも一つの方法であろう。しかし、関東武士が一致団結していても、関所を守るのは長い期間となるので、やがてだれて敗北の要因となってしまう。運を天に任せ、早く軍勢を京都へ向けて発進しよう。」といった。 
 義時は、この二案を持って二位家政子のところに行った。二位家政子がいうには、「京都へ行かなければ、朝廷軍を破れないではないか。安保刑部丞実光を始めとする武蔵国の軍勢を待って、速やかに京都へ出発しなさい。」と申された。 
 その命令によって、京都へ上るために、今日、遠江・伊豆・甲斐・相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸・信濃・上野・下野・陸奥・出羽などの国々へ義時の命令書を持って行かせた。一族等を引き連れて来るよう、家長に命じた。その書状の内容は、 
 京都から関東を襲ってくると聞いたので、相模権守北条時房と武蔵守北条泰時が、軍勢を引き連れて出発するところだ。式部丞北条朝時を大将に北陸周りで行く。この内容を早く一族の人々に伝えて、一緒に向いなさい。

☆承久の乱関係略年表(日付は旧暦です) 

<承久元年(1219年)>
・1月27日 第3代将軍源実朝が公暁に暗殺される

<承久3年(1221年)> 
・4月 順徳天皇は皇子の仲恭天皇に譲位し、父後鳥羽上皇の討幕計画に協力する 
・5月14日 後鳥羽上皇は「流鏑馬揃え」を口実に諸国の兵を集め、北面・西面武士や近国の武士、大番役の在京の武士1700余騎が集め、幕府を支持した西園寺公経を捕らえる 
・5月15日 京方の藤原秀康・近畿6か国守護大内惟信率いる800騎が伊賀光季邸を襲撃、光季は討死したが、変事を鎌倉に知らせた。執権北条義時追討の宣旨を出す 
・5月19日 幕府へ西園寺公経の家司三善長衡と伊賀光季からの上皇挙兵の急報が届けられる 
・5月21日 院近臣でありながら挙兵に反対していた一条頼氏が鎌倉に逃れてくる 
・5月22日 幕府の軍勢を東海道、東山道、北陸道の三方から京へ向けて派遣する 
・6月5日 甲斐源氏の武田信光・小笠原長清率いる東山道軍5万騎は大井戸渡に布陣する大内惟信、高桑大将軍が率いる京方2000騎を撃破する
・6月6日 泰時、時房の率いる主力の東海道軍10万騎が尾張川を渡河し、墨俣の陣に攻めかかった時にはもぬけの殻、山田重忠のみが杭瀬川で奮戦するが、京方は総崩れになり、大敗を喫す 
・6月13日 京方と幕府軍が宇治川で衝突、京方は宇治川の橋を落とし、雨のように矢を射かけ必死に防戦する 
・6月14日 佐々木信綱を先頭として強引に敵前渡河し、多数の溺死者を出しながらも敵陣の突破に成功、京方は潰走する 
・6月15日 幕府軍は京都に攻め入り、上皇方の敗北で終わる 
・7月9日 泰時によって、後鳥羽上皇は隠岐島に配流される 
・7月21日 順徳上皇は都を離れて佐渡へ配流となる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1560年(永禄3)桶狭間の戦いで、織田信長が今川義元を急襲して討ち取る(新暦6月12日)詳細
1565年(天文15)室町幕府第13代将軍足利義輝が松永久秀に攻められ自害する(新暦6月17日)詳細
1636年(寛永13)江戸幕府により「寛永十三年五月令」(第四次鎖国令)が出される(新暦6月22日)詳細
1877年(明治10)詩人・随筆家薄田泣菫の誕生日詳細
1946年(昭和21)東京の皇居前広場で食糧メーデー(飯米獲得人民大会)が開催される詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

amanotoukagenohaka01

 今日は、鎌倉時代の文治2年に、鎌倉幕府が九州の御家人統率・軍事統括の為の鎮西奉行を設置した日ですが、新暦では1187年1月21日となります。
 鎮西奉行(ちんぜいぶぎょう)は、鎌倉幕府が九州地方の地頭・御家人を統制するために設置した職制でした。1185年(元暦2/文治元)に、壇の浦の戦いで源義経らが平氏を破り、安徳天皇は入水・死亡し、平氏は滅亡、その後、源義経と源頼朝の対立が始まり、源頼朝が源義経追討のため諸国に守護・地頭を置く勅許を得ましたが、源義経および平氏残党の追捕と鎮西(九州)の御家人統率のため、伊豆国御家人の天野遠景が派遣され、文治2年12月10日(1187年1月21日)に鎮西奉行となります。
 全九州に及ぶ武士統轄権を有し、遠景の後は武藤資頼が就任しました。次いで、その子資能がなって、武藤氏が世襲的に任命されるようになり、同時に大宰少弐(大宰府の在庁官人の長)をも兼任して少弐氏と称します。
 元寇後は、鎮西談議所、1293年(永仁元)の鎮西探題の設置により吸収されました。
 以下に、鎮西奉行設置について書かれた、『吾妻鏡』第六巻の文治2年12月10日の条を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇鎮西探題(ちんぜいたんだい)とは?

 鎌倉時代の元寇後の1293年(永仁元)に、九州の御家人の統率と訴訟裁断を目的に博多に置かれた、鎌倉幕府の出先機関または、その長の職名です。九州の御家人を異国警固番役に専念させるために鎌倉へ行っての訴訟を禁止し、現地において処理できるようにしたものでした。そのために、代々北条氏一族がこの職に任命され、その下に鎮西有力御家人から任命された引付衆がいて、訴訟を裁決します。しかし、1333年(元弘3/正慶2)の鎌倉幕府滅亡とともに消滅しました。

〇『吾妻鏡』第六巻 文治2年12月10日の条

<原文>

文治二年十二月小十日癸未。肥前國鏡社宮司職事。以草野次郎大夫永平被定補。是且任相傳。且被優奉公勞云々。
今日。藤原遠景爲鎭西九國奉行人。又給所々地頭職等云々。

<読み下し文>

文治二年十二月小十日癸未[1]。肥前の國鏡社[2]宮司の職事[3]、草野次郎大夫永平[4]を以て定補せらる。これ、且つは相傳に任せ、且つは奉公の勞に優ぜらると云々。
今日、藤原遠景[5]を鎭西九國[6]奉行人[7]と爲す。又、所々の地頭職[8]等を給はると云々。

【注釈】

[1]癸未:きび= 十干と十二支とを組み合わせたものの第二〇番目。みずのとひつじ。
[2]肥前國鏡社:ひぜんこくかがみしゃ=佐賀県唐津市南城内にある唐津神社で神功皇后が新羅遠征の海路の安全を祈願し、凱旋時に捧げたと伝えられる宝鏡を発見し祀ったのが始まりと伝えられる古社。
[3]宮司職事:ぐうじのしきじ=この場合は宮司を管理する職。
[4]草野次郎永平:くさのじろうたいふながひら=文治二年閏七月二日条に推挙され、文治二年八月六日条で在国司押領使を任命。同七日条で別な褒美をと云ってるので、その結果らしい。
[5]藤原遠景:ふじわらとおかげ=鎌倉時代初期の武将天野遠景のこと。藤原南家工藤氏の一族で、吉川氏と同族、伊豆国田方郡天野に住して、その地名を取り天野氏と称した。
[6]鎭西九國:ちんぜいきゅうかこく=鎭西は九州の異称なので、九州の筑前国・筑後国・肥前国・肥後国・豊前国・豊後国・日向国・大隅国・薩摩国の9ヶ国のこと。
[7]奉行人:ぶぎょうにん=上位者の命を受けて政務を担当し執行する者。
[8]地頭職:じとうしき=全国の荘園・公領に置かれ、土地の管理、租税の徴収、検断などの権限を持つ。

<現代語訳>

文治2年12月小10日癸未。肥前国鏡社の宮司の管理職に、草野次郎大夫永平をもって任命した。これは、一つは先祖代々に受け継いできたことに従い、一つは奉公の労に報いるものとして特に与えられたとのこと。
今日、藤原天野遠景を九州9ヶ国の奉行として任命した。その他に、ところどころの地頭職も与えられたとのこと。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1901年(明治34)田中正造が足尾鉱毒問題について、明治天皇へ直訴しようとする詳細
1943年(昭和18)社団法人日本玩具統制協会から子供向けの「愛国イロハカルタ」が発行される詳細
1948年(昭和23)国連総会で「世界人権宣言」が採択される詳細
1997年(平成9)山陽自動車道(神戸JCT~山口JCT)が全通する詳細


このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

ootananpo01

 今日は、江戸時代後期の1823年(文政6)に、狂歌三大家の一人とされる狂歌師・戯作者・御家人大田南畝の亡くなった日ですが、新暦では5月16日となります。
 大田南畝(おおた なんぽ)は、江戸時代中期の1749年(寛延2年3月3日)に、江戸の牛込中御徒町(現在の東京都新宿区中町)で、御徒の父・大田正智(吉左衛門)と母・利世の嫡男として生まれましたが、本名は覃(ふかし)と言いました。15歳の時、江戸六歌仙の1人でもあった内山賀邸(後の内山椿軒)に入門、国学や漢学のほか、漢詩、狂詩などを学び、17歳の時には、父に倣い御徒見習いとして幕臣となったものの、学問は続けます。
 1766年(明和3)頃に、荻生徂徠派の漢学者松崎観海に師事、作業用語辞典『明詩擢材』五巻を刊行、翌年には、それまでに書き溜めた狂歌が同門の平秩東作に見出され、狂詩文『寝惚先生文集』(平賀源内の序)を刊行しました。1769年(明和6)頃より、「四方赤良」と号し、1779年(安永8)に、高田馬場の茶屋「信濃屋」で70名余りを集め、5夜連続の大規模な観月会を催し、翌年には、黄表紙などの出版業を本格化した蔦屋重三郎を版元として『嘘言八百万八伝』を出版します。
 1783年(天明3)に、朱楽菅江とともに『万載狂歌集』を編纂、1785年(天明5年)には、『徳和歌後万載集』を編し、当時の天明調狂歌の一大集成をなしました。1787年(天明7)に、横井也有の俳文集『鶉衣』を編纂・出版、翌年には、重三郎の元で喜多川歌麿『画本虫撰』として狂歌集を出したりしています。
 寛政改革による粛正政策の台頭を機に、いったん幕吏の仕事に専念、1794年(寛政6)に、幕府の人材登用試験である学問吟味で御目見得以下の首席で合格、1796年(寛政8)には支配勘定に任用されました。1799年(寛政11)に孝行奇特者取調御用、1800年(寛政12)に御勘定所諸帳面取調御用、1801年(享和元)に大坂銅座に約一年間赴任、1804年(文化元)に長崎奉行所へ赴任、1808年(文化5)には、堤防の状態などを調査する玉川巡視の役目に就きます。
 1812年(文化9)に息子の定吉が支配勘定見習として召しだされたものの、自身は心気を患って失職しました。この間、江戸文人の代表格として名声をあげ、晩年の1820年(文政3)には、『杏園詩集』を出版したりしましたが、1823年(文政6年4月6日)に、江戸において、数え年75歳で亡くなっています。
 尚、号を蜀山人、狂歌名を四方赤良、戯作名を山手馬鹿人、狂詩名を寝惚先生などと称しました。

<代表的な狂歌>

・「永代と かけたる橋は 落ちにけり きょうは祭礼 あすは葬礼」
・「世の中は 酒と女が 敵なり どうか敵に めぐりあいたい」
・「一刻を 千金づつに つもりなば 六万両の 春のあけぼの」
・「いまさらに 何をかをしまん 神武より 二千年来 くれてゆくとし」
・「世の中に 絶えて女の なかりせば をとこの心 のどけからまし」
・「昨日まで ひとが死ぬると 思ひしが おれが死ぬとは こいつはたまらん」
・「ほととぎす 鳴きつるかたみ 初鰹 春と夏との 入相の鐘」(辞世)

〇大田南畝の主要な著作

・狂詩文『寝惚先生文集』(1767年)
・洒落本『甲駅新話』(1775年)
・咄本『鯛の味噌津』(1779年)
・洒落本『粋町甲閨』(1779年)
・洒落本『変通軽井茶話』(1780年頃)
・黄表紙『虚言八百万八伝』(1780年)
・黄表紙評判記『菊寿草』(1781年)
・黄表紙評判記『岡目八目』(1782年)
・狂歌集『万載狂歌集』朱楽菅江と共編(1783年)
・狂歌集『徳和歌後万載集』(1785年)
・狂歌狂文集『四方のあか』(1787年)
・随筆『俗耳鼓吹』(1788年序)
・狂歌狂文集『千紅万紫』(1817年)
・狂歌狂文集『万紫千紅』(1818年)
・狂歌狂文集『蜀山百首』(1818年)
・漢詩集『杏園詩集』(1820年)
・随筆『一話一言』全56巻(1820年成立)
・随筆『奴師労之(やっこだこ)』(1821年成立)
・随筆『仮名世説』(1825年) 
・狂歌狂文集『狂歌百人一首』(1843年)

☆大田南畝関係略年表(日付は旧暦です)

・1749年(寛延2年3月3日) 江戸の牛込中御徒町(現在の東京都新宿区中町)で、御徒の父・大田正智(吉左衛門)、母・利世の嫡男として生まれる
・1763年(宝暦13年) 15歳の時、江戸六歌仙の1人でもあった内山賀邸(後の内山椿軒)に入門、国学や漢学のほか、漢詩、狂詩などを学ぶ
・1765年(明和2年) 17歳の時、父に倣い御徒見習いとして幕臣となるが学問を続ける
・1766年(明和3年) 18歳の頃、荻生徂徠派の漢学者松崎観海に師事、作業用語辞典『明詩擢材』五巻を刊行する
・1767年(明和4年) 19歳の頃、それまでに書き溜めた狂歌が同門の平秩東作に見出され、平賀源内に認められて狂詩文『寝惚先生文集』を刊行する
・1769年(明和6年) この頃より自身を「四方赤良」と号する
・1779年(安永8年) 高田馬場の茶屋「信濃屋」で70名余りを集め、5夜連続の大規模な観月会を催す
・1780年(安永9年) 黄表紙などの出版業を本格化した蔦屋重三郎を版元として『嘘言八百万八伝』を出版する
・1783年(天明3年) 朱楽菅江とともに『万載狂歌集』を編纂する
・1785年(天明5年) 『徳和歌後万載集』を出版する
・1787年(天明7年) 横井也有の俳文集『鶉衣』を編纂、出版する
・1788年(天明8年) 重三郎の元で喜多川歌麿『画本虫撰』として狂歌集を出す
・1792年(寛政4年) 「学問吟味登科済」が創設される
・1794年(寛政6年) 幕府の人材登用試験である学問吟味で御目見得以下の首席で合格する
・1796年(寛政8年) 支配勘定に任用される
・1799年(寛政11年) 孝行奇特者取調御用を命ぜられる
・1800年(寛政12年) 御勘定所諸帳面取調御用を命ぜられる
・1801年(享和元年) 大坂銅座に約一年間赴任(旅の日記『改元紀行』を著している)する
・1804年(文化元年) 長崎奉行所へ赴任する
・1807年(文化4年) 隅田川に架かる永代橋が崩落するという事故を目撃し、自ら取材して証言集『夢の憂橋』を出版する
・1808年(文化5年) 堤防の状態などを調査する玉川巡視の役目に就く
・1812年(文化9年) 息子の定吉が支配勘定見習として召しだされる
・1820年(文政3年) 『杏園詩集』が出版される
・1823年(文政6年4月6日) 江戸において、数え年75歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1336年(建武3/延元元)第93代の天皇とされる後伏見天皇(持明院統)の命日(新暦5月17日)詳細
1742年(寛保2)江戸幕府の成文法「公事方御定書」上下2巻が一応完成する(新暦5月10日)詳細
2017年(平成29)「城の日」を記念して、日本城郭協会より「続日本100名城」が発表される詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

イメージ 1

 今日は、南北地用時代の1338年(暦応元/延元3)に、御家人・武将新田義貞の亡くなった日ですが、新暦では8月17日となります。
 新田義貞(にった よしさだ)は、鎌倉時代の1301年(正安3)に、上野国新田荘(現在の群馬県太田市周辺)を拠点とする豪族新田朝氏(朝兼)の長子として生まれましたが、小太郎とも言いました。1318年(文保2)に父が亡くなり、家督を継いで新田一族の惣領となります。
 1332年(正慶元/元弘2)に河内(現在の大阪府)の楠木正成攻めの鎌倉幕府の動員令に応じましたが、護良親王の令旨をうけたため、病気を理由に途中で帰国しました。翌年討幕の兵を挙げ、関東各地の反幕府勢力を糾合し、鎌倉街道を武蔵に進撃します。
 小手指原(現在の埼玉県所沢市)・分倍河原(現在の東京都府中市)の合戦に勝ち、同年5月22日鎌倉を落とし、得宗北条高時以下を自殺させて、鎌倉幕府を滅ぼしました。その功により、後醍醐天皇の建武新政では、越後守・上野介などや武者所頭人に任ぜられ、左兵衛佐(のちに左近衛中将)、従四位上の官位を得ます。
 やがて、足利尊氏と激しく対立するようになり、翌年の中先代 の乱を機に足利尊氏が建武政府にそむくと、関東に下った尊氏を追撃しました。箱根竹ノ下の戦いには敗れたものの、その直後、上洛した尊氏を迎撃、京都合戦で勝利を収めて、一時は尊氏を九州に敗走させます。
 しかし、1336年(延元元/建武3)に再起した尊氏に兵庫で敗れて、京都を占領されると、恒良・尊良両親王を奉じて越前金ケ崎城に立て籠ります。落城前に脱出して再挙をはかりますが、1338年(暦応元/延元3年閏7月2日)に、斯波高経との藤島の戦い(現在の福井県足羽郡藤島)において、数え年38歳で討ち死にしました。

〇新田義貞関係略年表(日付は旧暦です)

・1301年(正安3年) 上野国新田荘を拠点とする豪族新田朝氏(朝兼)の長子として生まれる
・1318年(文保2年) 父が亡くなり、家督を継いで新田一族の惣領となる
・1332年(正慶元/元弘2年) 河内(現在の大阪府)の楠木正成攻めの鎌倉幕府の動員令に応じる
・1333年(正慶2/元弘3年) 護良親王の令旨をうけたため、病気を理由に途中で帰国する
・1333年(正慶2/元弘3年5月8日) 討幕の兵を挙げ、鎌倉街道を武蔵に進撃する
・1333年(正慶2/元弘3年5月11日) 小手指原(現在の埼玉県所沢市)の合戦に勝利する
・1333年(正慶2/元弘3年5月15日) 分倍河原(現在の東京都府中市)の合戦に勝利する
・1333年(正慶2/元弘3年5月22日) 鎌倉を落とし、得宗北条高時以下を自殺させて、鎌倉幕府を滅ぼす
・1333年(正慶2/元弘3年8月5日) 従四位上に叙され、左馬助に任官する
・1333年(正慶2/元弘3年10月) 播磨守となる
・1334年(正慶3/建武元年11月) 中先代 の乱を機に足利尊氏が建武政府にそむくと、関東に下った尊氏を追撃する
・1334年(正慶3/建武元年12月) 箱根竹ノ下の戦いには敗れる
・1335年(正慶4/建武2年1月) 上洛した尊氏を迎撃し、京都合戦で勝利を収める
・1336年(延元元/建武3年5月25日) 再起した尊氏に湊川の戦いで敗れて、楠木正成が戦死する
・1336年(延元元/建武3年5月29日) 尊氏方に京都を占領される
・1336年(延元元/建武3年10月13日) 恒良・尊良両親王を奉じて越前金ケ崎城に立て籠る
・1338年(延元3/暦応元年3月6日) 越前金ケ崎城が陥落する
・1338年(延元3/暦応元年閏7月2日) 斯波高経との藤島の戦いにおいて、数え年38歳で討ち死にする
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

↑このページのトップヘ