ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:御前会議

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 今日は、明治時代前期の1881年(明治14)に、明治十四年の政変が起き、御前会議で立憲政体方針、開拓使官有物払い下げ中止、大隈重信らの参議罷免が決定された日です。
 明治十四年の政変(めいじじゅうよねんのせいへん)は、国会開設・憲法制定をめぐる政府内部の対立から、漸進派の伊藤博文・井上馨らが、開拓使官有物払下事件を契機として、急進派の参議大隈重信らを追放した事件です。1879年(明治12)から翌年にかけての自由民権派の国会開設運動が高まる中で、政府は国会開設の構想づくりに着手し、諸参議が次々に意見書を提出しました。
 1881年(明治14)3月、大隈重信が早期国会開設(1983年)とイギリス流政党政治の実現を左大臣有栖川宮熾仁(たるひと)親王に提出しましたが、その時期をめぐり漸進論の伊藤博文・井上馨とが対立します。このような中で、開拓使官有物払下げ事件が起き、民権派の政府攻撃が高まると、背後に大隈の薩長派打倒の策動があるとしてて対立を深めました。
 その結果、10月11日に明治天皇が帰京すると、早急に御前会議を開いて払下げを再考するべきであると上奏、三条・岩倉の二大臣、伊藤・黒田・山縣・西郷・井上・山田の六参議は有栖川宮左大臣と密談し、大隈罷免について合意します。翌12日には、払下げの中止と「国会開設の勅諭」が公表され、事件は終息しました。
 これにより、伊藤博文・井上馨を中心とする薩長藩閥政府が確立し、明治国家体制形成のその後の方向を決定したとされています。

〇開拓使官有物払下げ事件(かいたくしかんゆうぶつはらいさげじけん)とは?

 明治時代前期の1881年(明治14)に、北海道の開拓使長官だった黒田清隆が、官有の施設・設備を安値で払い下げる決定を行ない、「開拓使官有物払下げ事件」として政治問題化しものです。この事件は、北海道開拓使長官の黒田清隆が、1,400万円余を投じて得た船舶、工場、農園、倉庫、鉱山などの官有物を、開拓使上級官僚の結社や鹿児島出身の政商五代友厚らの関西貿易商会に38万7千余円、無利子30年賦で払い下げようとして起こりました。
 これに対し、薩摩閥が結託して公の財産を私するものだという世論のはげしい非難が起き、自由民権派の攻撃も鋭く、政府内では意見対立も深まったのです。その結果、追い詰められた政府は払下げを中止し、「国会開設の勅諭」を発するとともに、国会早期開設を唱えた筆頭参議大隈重信らの官吏を罷免し、政府部内の結束を固めました。
 この政府の変動を「明治十四年の政変」といい、薩長藩閥体制が確立することになります。またその後、黒田清隆も開拓使長官を辞職し、内閣顧問の閑職に退くことになりました。
 そして、1882年(明治15)2月8日には、開拓使が廃止されることになり、これに伴って、函館県、札幌県、根室県が設置されることになります。

〇国会開設の勅諭(こっかいかいせつのちょくゆ)とは?

 明治時代前期の1881年(明治14)10月12日に、明治天皇が出した勅諭でした。これは、憲法の制定と国会の一刻も早い開設を主張する自由民権運動などに対し、明治のはじめから漸進的に立憲政体を樹立のため、元老院や府県会を設置してきたことに言及し、9年後の1890年(明治23)を期して、議員を招集して国会(議会)を開設すること、欽定憲法を定めることなどを表明したものです。
 官僚の井上毅が起草し、太政大臣の三条実美が奉詔したもので、憲法は政府官僚起草の原案を天皇自身が裁定し公布するとの姿勢が明示され、自由民権運動の尖鋭化を抑えようとしたものでもありました。これによって、1889年(明治22)2月11日の大日本帝国憲法の発布、1890年(明治23)11月29日の帝国議会開設に繋がっていきます。

〇大隈重信(おおくま しげのぶ)とは?

 明治時代から大正時代に活躍した政治家・教育者です。江戸時代後期の1838年(天保9年2月16日)に、肥前国佐賀(現在の佐賀県佐賀市)に、佐賀藩砲術長の父大隈信保、母三井子の長男として生まれましたが、幼名は八太郎といいました。
 7歳で藩校弘道館に入学しましたが、教育方針に不満を持ち、学制改革を試みるものの、退学するに至ります。1856年(安政2)に、蘭学寮に移って西欧の学問に接し、1865年(元治2)には長崎に出て、アメリカ人宣教師フルベッキに英学を学びました。
 また、京都や長崎を往来して、尊王攘夷派として活動し、1867年(慶応3)には脱藩上京して徳川慶喜に政権返還を説こうとしますが、捕らえられて謹慎処分を受けます。明治政府成立時の1868年(明治元)に、参与兼外国事務局判事に登用され、外国官副知事に昇進、翌年会計官副知事、次いで大蔵大輔として手腕を発揮し、1870年(明治3)には参議となりました。
 その中で、秩禄処分、地租改正、殖産興業政策などを推進しましたが、明治十四年の政変で下野することとなります。1882年(明治15)に、立憲改進党を結成して総理となり、同年に東京専門学校(後の早稲田大学)を創立し、青年教育にも当たりました。
 1888年(明治21)に外務大臣となり、条約改正交渉にあたりましたが、反対派に爆弾をなげつけられて右足を失います。1898年(明治31)に板垣退助と憲政党を結成して日本初の政党内閣(隈板内閣)を組織し、総理大臣となったものの、党内抗争と薩長の妨害でわずか4ヵ月で総辞職するに至りました。
 1914年(大正3)に第2次内閣を組織して、再び総理大臣となり、第一次大戦に参戦、翌年には「対華二十一ヵ条要求」を提出、軍備拡張を行ったします。しかし、1916年(大正5)に侯爵に叙せられた後に辞職し、1922年(大正11)1月10日に、東京において83歳で亡くなりました。
 著作には、『大隈伯昔日譚』、『開国五十年史』(編著)、『開国大勢史』、『東西文明の調和』等があります。

☆明治十四年の政変関係略年表

<1878年(明治11)>
・5月 大久保利通が暗殺され、政府の中枢を担う内閣は参議伊藤博文が主導権を握る形となる

<1879年(明治12)>
・国会開設運動が興隆し、政府内でも憲法制定や国会開設について議論が開始される
・12月 参議山縣有朋が立憲政体に関する意見書を提出する

<1880年(明治13)>
・2月 立憲政体に関する意見を黒田清隆が提出する
・7月 立憲政体に関する意見を井上馨が提出する
・12月 立憲政体に関する意見を伊藤博文が提出する

<1881年(明治14)>
・1月~2月 伊藤は熱海の旅館に大隈・井上・黒田を招き、立憲政体等について語り合ったが、合意は行われなかった
・3月 未だ意見書を提出していなかった大隈重信に対し、左大臣有栖川宮熾仁親王から督促が行われる
・7月 伊藤博文が大隈重信の意見書の内容を知り、激怒して出仕を行わなくなる
・7月4日 大隈重信は伊藤博文の元に赴いて弁解する
・7月5日 伊藤博文が再び出仕するようになる
・7月21日 黒田は閣議において、開拓使の官僚によって構成された「北新社」と、五代が参加していた「関西貿易社」への払下げを提議する
・7月26日 『東京横浜毎日新聞』において、「関西貿易商会の近状」と題した記事で払下げの事案が暴露され、黒田が同郷の五代に対して利益供与を行っているという報道が行われる
・7月30日 明治天皇が裁下する
・8月1日 明治天皇が裁下したことが公表されたため、各新聞紙上では大きな批判が繰り広げられる
・10月8日 この日までに東京政府のメンバー内では、大隈の罷免、憲法制定と9年後の国会開設、そして払下げの中止が合意される
・10月11日 天皇が帰京すると、岩倉は千住駅で拝謁し、大隈の謀略によって払下げ問題が批判を受けているため、早急に御前会議を開いて払下げを再考するべきであると上奏、三条・岩倉の二大臣、伊藤・黒田・山縣・西郷・井上・山田の六参議は有栖川宮左大臣と密談し、大隈罷免について合意する
・10月12日 払下げの中止と「国会開設の勅諭」が公表され、事件は終息する

<1882年(明治15)>
・1月1日 黒田が参議および開拓長官を辞職し、内閣顧問の閑職に退き、政府内は伊藤を中心とする長州閥の主導権が確立される
・2月8日 開拓使が廃止され、北海道は函館県、札幌県、根室県に分けられる(三県一局時代)

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1231年(寛喜3)第83代の天皇とされる土御門天皇が、配流先の阿波国で亡くなる(新暦11月6日)詳細
1940年(昭和15)俳人種田山頭火の命日(一草忌)詳細
1945年(昭和20)幣原首相・マッカーサー会談で、GHQから「五大改革指令」が通達される詳細
1950年(昭和25)「新日本観光地百選」が毎日新聞紙上で発表される詳細
医学者三浦謹之助の命日詳細
2000年(平成12)電子工学者猪瀬博の命日詳細
2001年(平成13)日本画家秋野不矩の命日詳細
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 今日は、昭和時代前期の太平洋戦争末期、1945年(昭和20)に、昭和天皇臨席の第14回御前会議において、国体護持を条件として「ポツダム宣言」の受諾を決定した日です。
 御前会議(ごぜんかいぎ)は、「大日本帝国憲法」下の日本において、天皇臨席の下に行われた元老、主要閣僚、軍部首脳の合同で実施された最高会議です。広義には、官制上天皇親臨が定められていた枢密院会議、大本営会議なども含まれますが、狭義には、対外戦争等に際して、天皇臨席の下に開かれる会議を指しました。明治時代の1894年(明治27)6月22日に、第2次伊藤博文内閣の下で、対清開戦(日清戦争)を決定したのが最初とされ、以後、日清講和、三国千渉、対露開戦、日露講和等で開催されます。しかし、それ以後大正時代には開かれず、昭和時代になり、日中戦争に関わって、第1次近衛文麿内閣の下で、1938年(昭和13年)1月11日に復活し、「支那事変処理根本方針」が決定されました。以後、1年に数回のペースで計15回開催され、日独伊三国同盟締結、太平洋戦争の開戦、ポツダム宣言の受諾などの重要方針を決定しています。太平洋戦争後は、開催されませんでした。

〇御前会議一覧

<明治天皇臨席の御前会議一覧>

・第1回 1894年(明治27)6月22日(第2次伊藤博文内閣)対清開戦(日清戦争)
・第2回 1895年(明治28)1月27日(第2次伊藤博文内閣)日清講和に関する方針
・第3回 1895年(明治28)4月24日(第2次伊藤博文内閣)三国千渉に関する処理方針
・第4回 1903年(明治36)6月23日(第1次桂太郎内閣)対露交渉に臨むことが確認される
・第5回 1904年(明治37)2月4日(第1次桂太郎内閣)対露開戦(日露戦争)
・第6回 1905年(明治38)8月28日(第1次桂太郎内閣)日露講和成立方針

<昭和天皇臨席の御前会議一覧>

・第1回 1938年(昭和13)1月11日(第1次近衛文麿内閣)「支那事変処理根本方針」
・第2回 1938年(昭和13)11月30日(第1次近衛文麿内閣)「日支新関係調整方針」
・第3回 1940年(昭和15年)9月19日(第2次近衛文麿内閣)「日独伊三国同盟条約」
・第4回 1940年(昭和15)11月13日(第2次近衛文麿内閣)「支那事変処理要綱」に関する件他
・第5回 1941年(昭和16)7月2日(第2次近衛文麿内閣)「情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱」
・第6回 1941年(昭和16)9月6日(第3次近衛文麿内閣)「帝国国策遂行要領」
・第7回 1941年(昭和16)11月5日(東條英機内閣)「帝国国策遂行要領」
・第8回 1941年(昭和16)12月1日(東條英機内閣)「対英米蘭開戦の件」
・第9回 1942年(昭和17)12月21日(東條英機内閣)「大東亜戦争完遂の為の対支処理根本方針」
・第10回 1943年(昭和18)5月31日(東條英機内閣)「大東亜政略指導大綱」
・第11回 1943年(昭和18)9月30日(東條英機内閣)「今後採るべき戦争指導の大綱」他
・第12回 1944年(昭和19)8月19日(小磯国昭内閣)「世界情勢判断及戦争指導大綱」
・第13回 1945年(昭和20)6月8日(鈴木貫太郎内閣)「今後採るべき戦争指導の基本大綱」
・第14回 1945年(昭和20)8月10日(鈴木貫太郎内閣)「ポツダム宣言」受諾の可否について
・第15回 1945年(昭和20)8月14日(鈴木貫太郎内閣)「ポツダム宣言」受諾

☆ポツダム宣言(ぽつだむせんげん)とは?

 昭和時代前期の1945年(昭和20)7月に開かれたポツダム会談(ドイツのポツダムで開催)で協議の上、7月26日に、アメリカ、イギリス、中国、3ヶ国政府首脳の連名で日本に対して発せられた宣言です。正式名称は、「日本への降伏要求の最終宣言(Proclamation Defining Terms for Japanese Surrender)」といい、日本の戦争終結条件を示した全13項から成っていました。その内容は、軍国主義の除去、領土の限定、武装解除、戦争犯罪人の処罰、日本の民主化、連合国による占領などを規定し、無条件降伏を求めたものです。日本政府は、一端は拒否を通告したものの、広島・長崎への原子爆弾の投下、ソ連の参戦を経て、8月14日の御前会議において、この宣言の受諾を決定しました。

☆ポツダム宣言 (全文) 1945年(昭和20)7月26日

Potsdam Declaration
Proclamation Defining Terms for Japanese Surrender
Issued, at Potsdam, July 26, 1945

We-the President of the United States, the President of the National Government of the Republic of China, and the Prime Minister of Great Britain, representing the hundreds of millions of our countrymen, have conferred and agree that Japan shall be given an opportunity to end this war.
The prodigious land, sea and air forces of the United States, the British Empire and of China, many times reinforced by their armies and air fleets from the west, are poised to strike the final blows upon Japan. This military power is sustained and inspired by the determination of all the Allied Nations to prosecute the war against Japan until she ceases to resist.
The result of the futile and senseless German resistance to the might of the aroused free peoples of the world stands forth in awful clarity as an example to the people of Japan. The might that now converges on Japan is immeasurably greater than that which, when applied to the resisting Nazis, necessarily laid waste to the lands, the industry and the method of life of the whole German people. The full application of our military power, backed by our resolve, will mean the inevitable and complete destruction of the Japanese armed forces and just as inevitably the utter devastation of the Japanese homeland.
The time has come for Japan to decide whether she will continue to be controlled by those self-willed militaristic advisers whose unintelligent calculations have brought the Empire of Japan to the threshold of annihilation, or whether she will follow the path of reason.
Following are our terms. We will not deviate from them. There are no alternatives. We shall brook no delay.
There must be eliminated for all time the authority and influence of those who have deceived and misled the people of Japan into embarking on world conquest, for we insist that a new order of peace, security and justice will be impossible until irresponsible militarism is driven from the world.
Until such a new order is established and until there is convincing proof that Japan's war-making power is destroyed, points in Japanese territory to be designated by the Allies shall be occupied to secure the achievement of the basic objectives we are here setting forth.
The terms of the Cairo Declaration shall be carried out and Japanese sovereignty shall be limited to the islands of Honshu, Hokkaido, Kyushu, Shikoku and such minor islands as we determine.
The Japanese military forces, after being completely disarmed, shall be permitted to return to their homes with the opportunity to lead peaceful and productive lives.
We do not intend that the Japanese shall be enslaved as a race or destroyed as a nation, but stern justice shall be meted out to all war criminals, including those who have visited cruelties upon our prisoners. The Japanese Government shall remove all obstacles to the revival and strengthening of democratic tendencies among the Japanese people. Freedom of speech, of religion, and of thought, as well as respect for the fundamental human rights shall be established.
Japan shall be permitted to maintain such industries as will sustain her economy and permit the exaction of just reparations in kind, but not those which would enable her to re-arm for war. To this end, access to, as distinguished from control of, raw materials shall be permitted. Eventual Japanese participation in world trade relations shall be permitted.
The occupying forces of the Allies shall be withdrawn from Japan as soon as these objectives have been accomplished and there has been established in accordance with the freely expressed will of the Japanese people a peacefully inclined and responsible government.
We call upon the government of Japan to proclaim now the unconditional surrender of all Japanese armed forces, and to provide proper and adequate assurances of their good faith in such action. The alternative for Japan is prompt and utter destruction.
(The Ministry of Foreign Affairs "Nihon Gaiko Nenpyo Narabini Shuyo Bunsho : 1840-1945" vol.2, 1966)
 
<日本の外務省による訳文>

千九百四十五年七月二十六日
米、英、支三国宣言
(千九百四十五年七月二十六日「ポツダム」ニ於テ)

一、吾等合衆国大統領、中華民国政府主席及「グレート・ブリテン」国総理大臣ハ吾等ノ数億ノ国民ヲ代表シ協議ノ上日本国ニ対シ今次ノ戦争ヲ終結スルノ機会ヲ与フルコトニ意見一致セリ
二、合衆国、英帝国及中華民国ノ巨大ナル陸、海、空軍ハ西方ヨリ自国ノ陸軍及空軍ニ依ル数倍ノ増強ヲ受ケ日本国ニ対シ最後的打撃ヲ加フルノ態勢ヲ整ヘタリ右軍事力ハ日本国カ抵抗ヲ終止スルニ至ル迄同国ニ対シ戦争ヲ遂行スルノ一切ノ連合国ノ決意ニ依リ支持セラレ且鼓舞セラレ居ルモノナリ
三、蹶起セル世界ノ自由ナル人民ノ力ニ対スル「ドイツ」国ノ無益且無意義ナル抵抗ノ結果ハ日本国国民ニ対スル先例ヲ極メテ明白ニ示スモノナリ現在日本国ニ対シ集結シツツアル力ハ抵抗スル「ナチス」ニ対シ適用セラレタル場合ニ於テ全「ドイツ」国人民ノ土地、産業及生活様式ヲ必然的ニ荒廃ニ帰セシメタル力ニ比シ測リ知レサル程更ニ強大ナルモノナリ吾等ノ決意ニ支持セラルル吾等ノ軍事力ノ最高度ノ使用ハ日本国軍隊ノ不可避且完全ナル壊滅ヲ意味スヘク又同様必然的ニ日本国本土ノ完全ナル破壊ヲ意味スヘシ
四、無分別ナル打算ニ依リ日本帝国ヲ滅亡ノ淵ニ陥レタル我儘ナル軍国主義的助言者ニ依リ日本国カ引続キ統御セラルヘキカ又ハ理性ノ経路ヲ日本国カ履ムヘキカヲ日本国カ決意スヘキ時期ハ到来セリ
五、吾等ノ条件ハ左ノ如シ
吾等ハ右条件ヨリ離脱スルコトナカルヘシ右ニ代ル条件存在セス吾等ハ遅延ヲ認ムルヲ得ス
六、吾等ハ無責任ナル軍国主義カ世界ヨリ駆逐セラルルニ至ル迄ハ平和、安全及正義ノ新秩序カ生シ得サルコトヲ主張スルモノナルヲ以テ日本国国民ヲ欺瞞シ之ヲシテ世界征服ノ挙ニ出ツルノ過誤ヲ犯サシメタル者ノ権力及勢力ハ永久ニ除去セラレサルヘカラス
七、右ノ如キ新秩序カ建設セラレ且日本国ノ戦争遂行能力カ破砕セラレタルコトノ確証アルニ至ルマテハ聯合国ノ指定スヘキ日本国領域内ノ諸地点ハ吾等ノ茲ニ指示スル基本的目的ノ達成ヲ確保スルタメ占領セラルヘシ
八、「カイロ」宣言ノ条項ハ履行セラルヘク又日本国ノ主権ハ本州、北海道、九州及四国並ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルヘシ
九、日本国軍隊ハ完全ニ武装ヲ解除セラレタル後各自ノ家庭ニ復帰シ平和的且生産的ノ生活ヲ営ムノ機会ヲ得シメラルヘシ
十、吾等ハ日本人ヲ民族トシテ奴隷化セントシ又ハ国民トシテ滅亡セシメントスルノ意図ヲ有スルモノニ非サルモ吾等ノ俘虜ヲ虐待セル者ヲ含ム一切ノ戦争犯罪人ニ対シテハ厳重ナル処罰加ヘラルヘシ日本国政府ハ日本国国民ノ間ニ於ケル民主主義的傾向ノ復活強化ニ対スル一切ノ障礙ヲ除去スヘシ言論、宗教及思想ノ自由並ニ基本的人権ノ尊重ハ確立セラルヘシ
十一、日本国ハ其ノ経済ヲ支持シ且公正ナル実物賠償ノ取立ヲ可能ナラシムルカ如キ産業ヲ維持スルコトヲ許サルヘシ但シ日本国ヲシテ戦争ノ為再軍備ヲ為スコトヲ得シムルカ如キ産業ハ此ノ限ニ在ラス右目的ノ為原料ノ入手(其ノ支配トハ之ヲ区別ス)ヲ許可サルヘシ日本国ハ将来世界貿易関係ヘノ参加ヲ許サルヘシ
十二、前記諸目的カ達成セラレ且日本国国民ノ自由ニ表明セル意思ニ従ヒ平和的傾向ヲ有シ且責任アル政府カ樹立セラルルニ於テハ聯合国ノ占領軍ハ直ニ日本国ヨリ撤収セラルヘシ
十三、吾等ハ日本国政府カ直ニ全日本国軍隊ノ無条件降伏ヲ宣言シ且右行動ニ於ケル同政府ノ誠意ニ付適当且充分ナル保障ヲ提供センコトヲ同政府ニ対シ要求ス右以外ノ日本国ノ選択ハ迅速且完全ナル壊滅アルノミトス
外務省編『日本外交年表並主要文書』下巻 1966年刊より

<現代語訳>

ポツダム宣言

日本に手渡すために用語を定義する宣言
ポツダムに於いて、1945 年 7 月 26 日

われわれ、アメリカ合衆国大統領、中華民国主席、イギリスの総理大臣は、われわれ数億の同胞を代表し、協議の上で、日本はこの戦争を終結する機会を与えられるものと同意した。

アメリカ合衆国、大英帝国と中華民国の陸・海・空軍は、何度も西からの陸軍及び航空編隊の補強を受けて巨大になっており、日本に最終的な打撃を加える態勢を整えている。この軍事力は、日本が抵抗をやめるまで、すべての同盟国の決意により持続されている。

世界の自由の人々が立ち上がった。無駄、無意味なドイツの抵抗の結果は、極めて明快に日本の人々に例として示されている。今日本に集中する可能性がある力は、ナチスの抵抗に適用された場合のもの、すなわちドイツの人々の生活、土地、産業全体を破壊するのに必要だった力に比べても計り知れないほどより大きい。われわれの決意に裏付けられた、軍事力をすべて投入すれば、完全に壊滅された日本軍と同じように、日本本土が必然的に、全く荒廃することを意味するだろう。

日本帝国は、消滅の淵にあり、その頭の悪く身勝手な軍国主義的な顧問によって制御され続けるのか、それとも理性の道に従うのかどうかを決定する時が来ている。

われわれの条件を次に示す。それらから逸脱がないものとする。選択肢はなく、一切の遅延も許さない。

日本の人々を惑わさせて、世界征服に乗り出させた影響勢力や権威・権力は、永遠に除去されなければならない。われわれは、無責任な軍国主義が世界から駆逐されるまでは、平和・安全・正義の新秩序は実現不可能であると主張する。

このような新しい秩序が確立されるまで、日本の戦争遂行能力が破壊されたとの説得力のある証拠があるまで、連合国軍によって指定される日本の領土内の諸地点は、基本的な目的の達成を確保するため占領するものとする。

カイロ宣言の条項は実施されなければならないし、日本の主権は本州、北海道、九州、四国および、われわれの決定する周辺小諸島に限られるものとする。

日本軍は、完全に武装を解除された後、彼らの家に戻し、平和的かつ生産的な生活を営む機会を許可されるものとする。

われわれは、日本人を民族として奴隷または国家として破壊するつもりはない。しかし、われわれの捕虜に残虐行為を行った者を含めて、すべての戦争犯罪者には正義による鉄槌が与えられるものとする。日本政府は、日本人の間での民主主義的傾向の強化、復活にあたり、すべての障害物を除去しなければならない。言論、宗教、思想の自由および基本的な人権の尊重が確立されなければならない。

日本は、その産業を維持し、経済を持続するが、これらは再戦争を可能にするためのものではなく、正当な賠償の取り立てに充てるものとして許可される。このため、支配と区別して原料の入手は許される。世界貿易関係で将来的な日本の参加は許可するものとする。

連合国の占領軍は、これらの目標が達成された後、日本の人々の自由に表現された意志に従って、平和的傾向を帯び、責任ある政府が構築されるにおいては、できるだけ早く日本から撤退するものとする。

われわれは、日本政府に対し、すべての日本軍の無条件降伏の宣言を要求し、そのような行動が誠意をもって行われる適切かつ十分な保証を提供するように求める。日本の他の選択肢は、迅速および完全な破壊だけである。

 *英語の原文より筆者が訳しました。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1232年(貞永元)鎌倉幕府3代執権北條泰時が「御成敗式目(貞永式目)」を制定する(新暦8月27日)詳細
1693年(元禄6)俳諧師・浮世草子作家井原西鶴の命日(新暦9月9日)詳細
1920年(大正9)日本初の近代的な道路整備計画が決定する(道の日)詳細
1950年(昭和25)GHQ指令に基づき、警察予備隊を設置するための「警察予備隊令」が公布・施行される詳細
1956年(昭和31)日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)が結成される詳細
1968年(昭和43)日本初の長距離カーフェリーである阪九フェリー(神戸~小倉)が運航開始する詳細
2003年(平成15)沖縄都市モノレール(ゆいレール)那覇空港~首里が開業する詳細
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 今日は、明治時代後期の1904年(明治37)に、明治天皇臨席の第5回御前会議で、対露開戦が決定された日です。
 第5回御前会議は、1904年(明治37)2月4日午前に、第1次桂太郎内閣は臨時閣議を開き、ロシアとの交渉を打ち切り、外交関係を断絶して独自の軍事行動をとる旨を閣議決定を受け、午後に開催された明治天皇臨席の御前会議でした。この会議で、対露開戦が承認され、翌2月5日に、「陸海軍両大臣ヘ下賜ノ勅語」が下賜され、電報で外務大臣小村寿太郎から栗野慎一郎在ロシア公使に伝えられます。
 2月6日には、栗野公使からロシアのラムスドルフ伯に伝達され、さらに、小村外務大臣はローゼン公使を外務省に呼び、外交関係断絶を通告しました。その後、2月8日に日本陸軍先遣隊が仁川に上陸、2月8日に日本海軍は、旅順港外のロシア艦隊を夜襲、2月9日に仁川沖海戦が行われ、2月10日には、日・露相互で宣戦布告が出されて、日露戦争に突入していきます。
 以下に、「陸海軍両大臣ヘ下賜ノ勅語」を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「陸海軍両大臣ヘ下賜ノ勅語」 1904年(明治37)2月5日下賜

朕ハ東洋ノ平和ヲ以テ朕カ衷心ノ欣幸トスル所ナルカ故ニ清韓ノ両国ニ関スル時局ノ問題ニ付朕カ政府ヲシテ昨年来露国ト交渉セシメタリ然ルニ露国政府ハ東洋ノ平和ヲ顧念スルノ誠意ナキコトヲ確認セシムルノ止ムヲ得サルニ達シタリ盖シ清韓両国領土ノ保全ハ我日本ノ独立自衛ト密接ノ関係ヲ有ス茲ニ於テ朕ハ朕カ政府ニ命シテ露国ト交渉ヲ断チ我独立自衛ノ為メニ自由ノ行動ヲ執ラシムルコトニ決定セリ

 「国立公文書館アジア歴史資料センターホームページ」より

〇御前会議(ごぜんかいぎ)とは?

 「大日本帝国憲法」下の日本において、天皇臨席の下に行われた元老、主要閣僚、軍部首脳の合同で実施された最高会議です。広義には、官制上天皇親臨が定められていた枢密院会議、大本営会議なども含まれますが、狭義には、対外戦争等に際して、天皇臨席の下に開かれる会議を指しました。
 明治時代の1894年(明治27)6月22日に、第2次伊藤博文内閣の下で、対清開戦(日清戦争)を決定したのが最初とされ、以後、日清講和、三国千渉、対露開戦、日露講和等で開催されます。しかし、それ以後大正時代には開かれず、昭和時代になり、日中戦争に関わって、第1次近衛文麿内閣の下で、1938年(昭和13年)1月11日に復活し、「支那事変処理根本方針」が決定されました。
 以後、1年に数回のペースで計15回開催され、日独伊三国同盟締結、太平洋戦争の開戦、ポツダム宣言の受諾などの重要方針を決定しています。太平洋戦争後は、開催されませんでした。

〇日露戦争】(にちろせんそう)とは?

 明治時代後期の1904年(明治37)2月10日~1905年(明治38)9月17日まで、日本と露国の間で、朝鮮(大韓帝国)・満州の支配をめぐって行われた戦争です。
 日本は、1894年(明治27)から翌年にかけての日清戦争の後、朝鮮支配の確立と満州進出をめざし、ロシアは、義和団事件に乗じて満州を占領し、さらに朝鮮進出を企てたため、両国の対立が激化しました。日本はそれに対し、1902年(明治35)1月30日に、日英同盟を締結し、日本の朝鮮・中国における権益、英国の中国における権益を相互に認め、アジアにおけるロシアの膨張に備えることを共同の目的とします。
 翌年6月に元老・主要閣僚の御前会議で開戦覚悟の対露交渉方針を決め、8月以降数次にわたりロシアと交渉したものの、妥協点を見いだせないままに推移しました。とうとう、1904年(明治37)2月8日に、奇襲に出た日本海軍の主力艦隊が旅順港のロシア艦隊を包囲して、戦いの火ぶたが切られ、同日陸軍も朝鮮半島に上陸し、まもなく完全に制圧、2月10日に正式に、「露国に対する宣戦の詔勅」が発せらて宣戦が布告されます。
 日本は、同年8月以降の旅順攻撃、翌年3月の奉天会戦などで有利に戦いを進めましたが、以後戦闘は膠着状態となり、5月の日本海海戦でも勝利を得たものの、戦力の消耗と大きな経済的負担に苦しむこととなりました。ロシアもツァーリズムの矛盾激化に伴う革命勢力が増大、1905年(明治38)1月には、血の日曜日事件がおこり,国内の危機が急迫します。
 そこで、米国大統領T.ローズベルトの講和勧告をもとに、8月10日からアメリカのポーツマスで講和会議が開催され、9月5日に「日露講和条約(ポーツマス条約)」調印に至りました。この結果、日本は朝鮮における優越権、旅順・大連の租借権と長春以南の鉄道に関する諸権利、南樺太を得て、大陸進出の地歩を固めます。
 しかし、賠償金が獲得できないなど講和内容に対する国民の不満が高まり、東京では、内相官邸焼打ちなどの暴動(日比谷焼打事件)が発生することとなりました。この戦争に直接参加した総兵力は108万余人、艦船31.8万t、戦費は約20億円を要し、疾病をも含めた死傷者は37万余人、喪失艦船91隻と大きなものとなります。

☆日露戦争関係略年表

<1903年(明治36)>

・2月7日 ロシアが中国東北部からの撤兵を中止する
・4月21日 京都の山縣の別荘・無鄰菴で伊藤・山縣・桂・小村による「無鄰庵会議」が行われる
・4月 ロシア系企業の「朝鮮木商会社」が韓国側に鴨緑江山林事業の開始を通告する
・5月 ロシア軍は鴨緑江河口の龍岩浦(竜巌浦)に軍事拠点を築きはじめる(龍岩浦事件)
・6月10日 戸水寛人や国際法学者など7名の博士が、日露開戦を唱える意見書を桂内閣に提出する(七博士建白事件)
・6月12日 アレクセイ・クロパトキン陸軍大臣が訪日し、国賓として迎えられる
・6月23日 明治天皇臨席の御前会議に、「満韓交換論」とも言うべき対露方針が提出されて、対露交渉に臨むことが確認される
・6月24日 「日露開戦を唱える七博士意見書」の全文が「東京朝日新聞」紙上に掲載され、新聞「万朝報」紙上で幸徳秋水は「社会が学者を養っているのは開戦の建白を提出させるためではない」と批判する
・6月30日 新聞「万朝報」に、内村鑑三の非戦論が掲載される
・7月23日 林董駐イギリス公使、日露交渉開始についてイギリスの諒解を求める
・8月12日 栗野慎一郎駐ロシア公使、ロシア政府に、6ヵ条の日露協商基礎条項を提出、中国東北部・朝鮮半島に関する交渉を開始する
・10月3日 ロシアが日本の提出した日露協商基礎条項を拒絶、対案を提出とて交渉する
・12月30日 日本が戦争が勃発した際の清国・大韓帝国に対する方針を閣議で決定する

<1904年(明治37)>

・1月17日 週刊「平民新聞」第10号に、「吾人は飽くまで戦争を非認す」(日露戦争への反戦論)が掲載される
・1月24日 週刊「平民新聞」第11号に、幸徳秋水の「戦争と道徳」(日露戦争への反戦論)が掲載される
・2月4日 明治天皇臨席の御前会議で、対露開戦が決定される 
・2月6日 日本の外務大臣小村寿太郎は当時のロシアのローゼン公使を外務省に呼び、国交断絶を言い渡す
・2月7日 週刊「平民新聞」第13号に、幸徳秋水の社説「和戦を決する者」が掲載される
・2月8日 日本陸軍先遣隊が仁川に上陸する
・2月8日 日本海軍、旅順港外のロシア艦隊を夜襲する
・2月9日 仁川沖海戦が行われる
・2月10日 日・露相互で宣戦布告が出される
・2月11日 大本営が設置される
・2月12日 清国が局外中立を宣言する
・2月14日 週刊「平民新聞」第14号に、幸徳秋水の「戦争来」・「兵士を送る」・「戦争の結果」(日露戦争への反戦論)が掲載される
・2月23日 大韓帝国と日韓議定書を結ぶ
・2月24日 第一次旅順口閉塞作戦実施
・3月13日 週刊「平民新聞」第18号に、幸徳秋水の社説「与露国社会党書」(手を携え共通の敵軍国主義とたたかうことを提言する) が掲載される
・3月20日 週刊「平民新聞」第19号に、幸徳秋水の「戦争と小学児童」(日露戦争への反戦論)が掲載される
・3月24日 週刊「平民新聞」第20号に、幸徳秋水の「嗚呼増税!」(日露戦争に反対し、軍国制度・資本制度・階級制度の変改を主張する)が掲載されるが、発禁処分を受ける 
・3月27日 第二次旅順口閉塞作戦実施
・4月1日 「非常特別税法」、「煙草専売法」が公布それる
・5月1日 鴨緑江会戦が行われる
・5月8日 日本軍が遼東半島に上陸開始する
・6月20日 満州軍総司令部を設置する
・7月28日 ロシア国内でヴャチェスラフ・プレーヴェ内務大臣が暗殺される
・8月10日 黄海海戦が行われる
・8月22日 大韓帝国と「第一次日韓協約」を結ぶ
・8月14日 蔚山沖海戦が行われる
・8月19日 第一回旅順総攻撃が行われる
・8月30日 遼陽会戦が行われる
・9月 文芸誌『明星』に、与謝野晶子の反戦詩「君死にたまふこと勿れ」が掲載される
・10月 雑誌『太陽』で、大町桂月が与謝野晶子を“国家的観念を藐視した危険な思想”だと非難する
・10月9日 沙河会戦が行われる
・10月15日 バルチック艦隊が出航する
・11月 文芸誌『明星』に与謝野晶子の「ひらきぶみ」が掲載され、“少女と申す者誰も戦争ぎらいに候”と大町桂月に反論する
・11月26日 第二回旅順総攻撃が行われる
・12月5日 日本軍が旅順口203高地を占領する
・12月31日 第三回旅順総攻撃が行われる

<1905年(明治36)>

・1月 雑誌『太陽』に、大塚楠緒子の厭戦詩「お百度詣」が掲載される
・1月1日 「非常特別税法」改正法、「塩専売法」、「相続税法」を公布する
・1月2日 旅順開城する
・1月22日 ロシア国内で血の日曜日事件が起き、各地でストライキが起きる
・1月25日 黒溝台会戦が行われる
・3月1日 奉天会戦が行われる
・5月27日 日本海海戦が行われる
・6月 ロシア国内各地で反乱・暴動が起きる(ロシア第一革命の始まり)
・6月9日 アメリカのセオドア・ルーズベルトが正式に日露両国へ講和勧告を行う
・6月14日 ロシア国内で戦艦ポチョムキンの反乱が起きる
・6月12日 ロシアが講和勧告を正式に受諾する
・7月7日 日本軍が樺太へ上陸(樺太作戦開始)する
・7月23日 ロシア国内でニコライ2世とドイツ帝国皇帝ヴィルヘルム2世とビヨルケ密約を結ぶ
・7月29日 日本とアメリカ間で「桂・タフト協定」が締結される
・7月31日 日本軍が樺太を占領する
・8月9日 アメリカのポーツマスで日露講和会議が始まる
・8月12日 「日英同盟」が改訂される
・8月28日 明治天皇臨席の御前会議で、日露講和成立方針が決定される
・9月1日 日露両国が休戦議定書に調印(休戦)する
・9月5日 日露両国が「日露講和条約(ポーツマス条約)」に調印、日本で講和に反対する日比谷焼打事件が起きる
・9月6日 日本政府は東京市および府下5郡に戒厳令を敷く
・9月7日 神戸で講和反対の大会が開かれ暴動が起きる
・9月12日 横浜で講和反対の大会が開かれ暴動が起きる
・10月 ロシア国内でゼネラル・ストライキが起きる
・10月14日 日露両国が「日露講和条約(ポーツマス条約)」を批准(終戦)する
・10月17日 ロシアのニコライ2世が十月詔書に署名する
・12月20日 大本営を解散する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1181年(養和元)平安時代末期の武将・公卿平清盛の命日(新暦3月20日)詳細
1604年(慶長9)江戸幕府が街道に日本橋を起点とした一里塚の設置を命ずる(新暦3月4日)詳細
1898年(明治31)日本画家・版画家伊東深水の誕生日詳細
1933年(昭和8)長野県で多数の学校教員などが「治安維持法」違反として検挙(二・四事件)され始める詳細
1966年(昭和41)全日空機羽田沖墜落事故が起こり、乗員・乗客133名全員が死亡する詳細
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 今日は、昭和時代前期の1941年(昭和16)に、昭和天皇臨席の第8回御前会議で「対英米蘭開戦の件」を決定した日です。
 「対英米蘭開戦の件」(たいえいべいらんかいせんのけん)は、同年11月5日の第7回御前会議決定「帝国国策遂行要領」に基く対米交渉はついに成立するに至らず、同月27日の「ハル・ノート」の手交により、日本政府はアメリカとの交渉による事態打開の可能性を断ち切ることとし、昭和天皇臨席の第8回御前会議でアメリカ・イギリス・オランダとの開戦を正式に決定したものでした。この会議は、14時5分から16時にかけて開催され、東条英機内閣総理大臣兼内務大臣陸軍大臣、東郷茂徳外務大臣兼拓務大臣、賀屋興宣大蔵大臣、嶋田繁太郎海軍大臣、岩村通世司法大臣、橋田邦彦文部大臣、井野碩哉農林大臣、岸信介商工大臣、寺島健逓信大臣兼鉄道大臣、小泉親彦厚生大臣、鈴木国務大臣兼企画院総裁、杉山元参謀総長、田辺盛武参謀次長、永野軍令部総長、伊藤整一軍令部次長、原嘉道枢密院議長、星野直樹内閣書記官長、武藤陸軍省軍務局長、岡海軍省軍務局長が出席しています。会議の冒頭、東条首相が天皇に、開戦やむなしに到る経過を説明、続いて東郷外相、永野軍令部総長、東条内相、賀屋蔵相、井野農相がそれぞれ所管事項について説明しました。内相説明で、東条は非常事態に備えて「共産主義者」「不逞鮮人」、一部宗教上の要注意人物の取り締まりを厳しくするなど治安対策の現状と方針を説明します。賀屋蔵相は「財政金融の持久力判断」について、巨額の戦費は「国民が国家の興亡の岐(わか)るる所なることを自覚し極度の忍耐努力を為すに於いては」可能と説明しました。各大臣の説明は、万全ではないが、戦いつつ建設策を進めていけば対米英蘭戦を遂行し得る、というもので、原枢密院議長は、米側の態度は「唯我独尊頑迷不(無)礼であり」開戦はやむをえないと所見を述べています。その上で、アメリカ・イギリス・オランダとの開戦を正式に決定し、12月8日の太平洋戦争開戦へと至りました。以下に、第8回御前会議決定「対英米蘭開戦の件」を全文掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇御前会議とは?

 「大日本帝国憲法」下の日本において、天皇臨席の下に行われた元老、主要閣僚、軍部首脳の合同で実施された最高会議です。広義には、官制上天皇親臨が定められていた枢密院会議、大本営会議なども含まれますが、狭義には、対外戦争等に際して、天皇臨席の下に開かれる会議を指しました。明治時代の1894年(明治27)6月22日に、第2次伊藤博文内閣の下で、対清開戦(日清戦争)を決定したのが最初とされ、以後、日清講和、三国千渉、対露開戦、日露講和等で開催されます。しかし、それ以後大正時代には開かれず、昭和時代になり、日中戦争に関わって、第1次近衛文麿内閣の下で、1938年(昭和13年)1月11日に復活し、「支那事変処理根本方針」が決定されました。以後、1年に数回のペースで計15回開催され、日独伊三国同盟締結、太平洋戦争の開戦、ポツダム宣言の受諾などの重要方針を決定しています。太平洋戦争後は、開催されませんでした。
 
〇ハル・ノートとは?

 昭和時代前期の太平洋戦争直前の日米交渉の際、1941年(昭和16年)11月26日に米国国務長官ハルが提示した覚書です。その内容は、日本軍の中国および仏領インドシナからの全面撤兵要求、蒋介石の中華民国国民政府以外の中国における政府、政権の否認などを主張し、アジアの状態を満州事変前に戻せというものでした。その前に、日本側の北部仏印進駐、日独伊三国同盟の締結、汪兆銘政権の承認との動きがあり、それに対抗して米国側の対日経済制裁が強められる中で日米間での交渉が継続されていましたが、これによって、事実上の最後通牒とみなされ、日本に開戦を決意させるに至ったとされています。この後、12月1日に昭和天皇臨席の第8回御前会議で「対英米蘭開戦の件」を決定、12月8日に日本側が真珠湾奇襲攻撃等を行って太平洋戦争開戦へと突き進むことになりました。

〇「対米英蘭開戦に関する件」1941年(昭和16)12月1日

    十二月一日御前會議決定

十一月五日決定ノ帝國々策遂行要領ニ基ク對米交涉遂ニ成立スルニ至ラス

帝國ハ米英蘭ニ對シ開戰ス

  總理大臣說明

御許シヲ得タルニ依リマシテ本日ノ議事ノ進行ハ私カ之ニ當リマス

十一月五日御前會議決定ニ基キマシテ、陸海軍ニ於テハ作戰準備ノ完整ニ勉メマスル一方、政府ニ於キマシテハ凡有ル手段ヲ盡シ全力ヲ傾注シテ、對米國交調整ノ成立ニ努力シテ參リマシタカ、米國ハ從來ノ主張ヲ一步モ讓ラサルノミナラス、更ニ米英蘭支聯合ノ下ニ支那ヨリ無條件全面撤兵、南京政府ノ否認、日獨伊三國條約ノ死文化ヲ要求スル等新タナル條件ヲ追加シ帝國ノ一方的讓步ヲ强要シテ參リマシタ、若シ帝國ニシテ之ニ屈從センカ帝國ノ權威ヲ失墜シ支那事變ノ完遂ヲ期シ得サルノミナラス、遂ニハ帝國ノ存立ヲモ危殆ニ陷ラシムル結果ト相成ル次第テアリマシテ、外交手段ニ依リテハ到底帝國ノ主張ヲ貫徹シ得サルコトカ明カトナリマシタ、一方米英蘭支等ノ諸國ハ其ノ經濟的、軍事的壓迫ヲ益々强化シテ參リマシテ、我國力上ノ見地ヨリスルモ、又作戰上ノ觀點ヨリスルモ到底此ノ儘推移スルヲ許ササル狀態ニ立チ至リマシタ、事茲ニ至リマシテハ帝國ハ現下ノ危局ヲ打開シ、自存自衞ヲ完ウスル爲米英蘭ニ對シ開戰ノ止ムナキニ立至リマシタル次第テアリマス

支那事變モ旣ニ四年有餘ニ亙リマシタル今日、更ニ大戰爭ニ突入致スコトト相成リ、宸襟ヲ惱マシ奉ルコトハ洵ニ恐懼ノ至リニ堪エヌ次第テコサイマス

然シナカラ熟々考ヘマスルニ國力ハ今ヤ支那事變前ニ數倍シ、國内ノ結束愈々固ク、陸海將兵ノ士氣益々旺盛ニシテ、擧國一體一死奉公、國難突破ヲ期スヘキハ私ノ確信シテ疑ハヌ所テコサイマス就イテハ別紙本日ノ議題ニ付テ、御審議ヲ願ヒ度イト存シマス。尙外交交涉、作戰事項其他ノ事項ニ關シマシテハ、夫々所管大臣及統帥部側等ヨリ御說明申上ケマス

  外務大臣說明

本日ハ主トシテ十一月五日御前會議以後ニ於ケル日米交涉ノ經過ニ付御說明申上ケマスカ其レ以前卽チ十月末ニ於ケル交涉ノ狀況ヲ極メテ簡單ニ要約致シマスルト米側ハ國際關係ノ基礎トシテ

一、一切ノ國家ノ領土保全及主權尊重

二、他國ノ内政不干涉

三、通商上ノ無差別待遇

四、平和手段ニ依ルノ外太平洋ニ於ケル現狀ノ不變更

ノ四原則ヲ堅持シ之カ適用ヲ强要セムトシ、尚帝國ノ平和的意圖ニ關シ疑惑ヲ表示シ、支那ニ於ケル駐兵ニ異議ヲ唱ヘ、通商上ノ無差別原則ヲ無條件ニ支那ニ適用スヘシト主張シ、又三國條約問題ニ付テモ之ヲ事實上死文タラシメムコトヲ求メ、交涉ハ之カ爲メ難關ニ逢著シ遂ニ停頓セル次第テアツタノテアリマス

斯ノ如ク兩國ノ見解對立ヲ來シタル所以ノモノハ、米國カ國際關係處理ニ付其ノ傳統的ニ堅持スル原則的理念ヲ强硬ニ固執シ、東亞ノ實情ヲ顧ミス之ヲ其ノ儘支那其他ニ適用センコトヲ主張シ居ルコトニ起因スルモノテ、米側ニシテ右ノ態度ヲ改善セサルニ於テハ、本交涉ノ妥結ハ極メテ困難ナリト認メタノテアリマス

然シ乍ラ現內閣トシマシテモ公正ナル基礎ニ於ケル日米國交調整ヲ計ルヲ妥當ト認メ、帝國トシテ能フ限リノ讓步ヲ試ミ以テ日米衝突回避ニ最後ノ努力ヲ傾ケルコトニ致シタノテアリマス。卽チ右ノ見地ヨリ當時交涉ノ主要難點タリシ三國條約ニ基ク自衞權ノ解釋、通商無差別原則竝ニ支那及佛印ヨリノ撤兵ノ三問題ニ付從來ノ帝國提案卽チ九月二十五日案ヲ緩和シ、(一)三國條約ニ基ク自衞權問題ニ付テハ米側カ自衞權ノ觀念ヲ不當ニ擴大セサルコトヲ言明セシメ其ノ場合我方ニ於テモ同樣ノ言明ヲナスコトトシ、(二)無差別原則ニ付テハ右原則カ全世界ニ適用セラルルモノナルニ於テハ右カ支那ニモ適用セラルルコトニ異議ナキコトトシ、(三)撤兵問題ニ付テハ支那事變ノ爲メ支那ニ派遣セラレタル日本軍隊ハ北支蒙彊ノ一定地域及海南島ニ關シテハ日支間平和成立後所要期間駐屯スヘク、爾餘ノ軍隊ハ平和成立ト同時ニ日支間協定ニ從ヒ撤去ヲ開始シ、治安確立ト共ニ二年以內ニ撤兵ヲ完了スヘク又佛印ニ付テハ領土主權ノ尊重ヲ約シ、佛印ニ派遣セラレ居ル軍隊ハ支那事變解決スルカ又ハ公正ナル極東平和確立スルニ於テハ直ニ之ヲ撤去スヘシト修正スルコトトシ、右ハ十一月五日ノ御前會議ニ於テ御決定ヲ得マシタ次第テアリマス

政府ハ右ノ御決定ノ次第ニ基キ野村大使ニ對シ事態急迫セル此ノ際破綻ニ瀕セル日米國交ノ局面ヲ轉換スル爲ニハ本案ニ依リ急速妥結スルノ外ナク、帝國ハ難キヲ忍ヒテ最大限ノ讓步ヲ敢テシタルモノナルニ鑑ミ、米國側モ猛省シテ太平洋平和ノ爲メ我方ト協調センコトヲ切望スル旨申入方訓令致シマシタ。爾後交涉ハ華府ニ於テ行ハレタルカ東京ニ於テモ右交涉ヲ促進スル意味ニ於テ本大臣モ屡々在京米英大使ト折衝ヲ遂ケマシタ。而シテ野村大使ハ七日「ハル」國務長官トノ會見ヲ手初メトシ、十日「ルーズヴェルト」大統領十二日及十五日「ハル」長官ト會談ヲ重ネ、銳意交涉進捗ニ努力スル所カアリマシタ、此ノ間政府ハ時局ノ重大ナルニ鑑ミ外交上十全ノ努力ヲ試ミンカ爲メ、五日來栖大使ヲ米國ニ急派スルコトトシ、同大使ハ十五日華府到著十七日ヨリ野村大使ヲ援助シテ交涉ニ參加致シマシタ。交涉ハ當時旣ニ酣ニシテ米側ハ七日以來我方ニ對シ幾多ノ點ニ付質疑ヲ提出シ帝國ノ眞意ヲ探ラントスル樣子ヲ示シマシタ。米側ハ夙ニ所謂「ヒツトラー」主義ノ打倒ヲ標榜シ、帝國ニ對シ武力政策ノ抛棄ヲ要求シテ居リマシタカ、三國條約トノ關係ニ於テ帝國ノ政策ニ對シ依然疑惑ヲ抱キ居リシモノノ如ク、今回モ帝國ノ平和的意圖ニ付前述ノ八月二十八日帝國政府ノ平和的意圖ノ聲明ニ付再確認ヲ要求スルト共ニ、日米協定成立セハ帝國ハ三國條約ヲ保持スルノ要ナカルヘク右ハ消滅若クハ死文トナルコトヲ希望スル旨反覆力說致シマシタ。通商無差別原則ニ付テハ我方ノ提案セル「全世界ニ適用セラルルコト」云々ノ條件除去ヲ希望シ、米國カ由來自由通商回復ノ爲メ努力シ來レル次第ヲ强調致シマシタ。同時ニ米側ハ別ニ「經濟政策ニ關スル共同宣言案」ナルモノヲ提議越シ、兩國協力シテ全世界ニ通商自由ノ回復ヲ計ルコト、日米通商協定ノ締結ニ依リ正常通商關係ヲ回復スルコトノ外、支那ニ於テハ經濟財政通貨ニ關スル完全ナル統制權ヲ支那政府ニ回收スヘキコト列國協同下ニ支那ノ經濟共同開發ヲ行フコト等ヲ提案致シマシタ。尙又支那ヨリノ撤兵問題ニ付テハ特ニ深ク之ヲ論議セス唯永久乃至不確定期間ノ駐兵ニ對シ難色ヲ示スニ止マリマシタカ、帝國カ平和政策ヲ採ルニ於テハ米國ニ於テ日支直接交涉周旋ノ用意アル次第ヲ申出テマシタ。政府ハ右ニ對シ八月二十八日ノ帝國ノ平和的意圖闡明ニ關シ米側カ確認ヲ希望スル點ハ九月二十五日付我提案中ニ包含セラレ居リ、從ツテ現内閣モ其ノ趣旨ニ於テ之カ確認ニ異議ナキコト、又通商上ノ無差別原則ニ付條件ヲ附シタルハ我方ニ於テハ同原則カ全世界ニ一律ニ適用セラルルヲ希望シ、右希望ノ實現ニ順應シテ支那ニ對シテモ同原則ノ適用ヲ承認ストノ意味合ナルコト、共同宣言案ニ付テハ右カ支那ノ現實ヲ無視シ殊ニ支那共同開發ノ提案ハ支那國際管理ノ端諸トナル惧アルヲ以テ受諾シ難キコト、及米側ノ日支和平周旋申入レニハ異議ナキ旨回答セシメタノテアリマス。來栖大使ハ此ノ段階ニ於テ交涉ニ參劃セルモノテアリマシテ、野村來栖兩大使ハ十七日大統領ト、十八日、二十日、二十一日、二十二日、二十六日ト引續キ「ハル」長官ト會見ヲ重ネタノテアリマス。然ルニ十七、十八兩日ノ會見ニ於テハ大統領ハ日米平和ヲ希望スル旨ヲ述ヘ、支那問題ニ付テハ干涉モ斡旋モスル意圖ナク單ニ「紹介者」タラント欲スルモノナリト言ヒ、他方「ハル」長官ハ帝國カ獨逸ト提携シ居ル限リ日米交涉ハ至難ナルヲ以テ、先ツ此ノ根本的困難ヲ除去スル必要アリト縷々力說シ、双方論議ヲ盡セルモ難關ハ依然トシテ三國條約、無差別原則及支那問題ニ在ルコト明カトナリマシタノテ、二十日ニ至リ我方ハ從來交涉ノ基礎タリシ案文カ宣傳的色彩ニ滿チ居タルヲ簡略化シ、且意見容易ニ一致セサル無差別原則問題ヲ除去シ、更ニ三國條約問題ハ先方ヨリノ提案ニ俟ツ趣旨ヲ以テ是又一應我提案ヨリ除去シ、尚又支那問題ハ主トシテ之ヲ日支直接交涉ニ移スノ趣旨ヲ以テ米側ニ於テハ單ニ日支和平妨碍ヲ差控ヘシムルコトトスル新提案ヲ提出致サセマシタ。卽チ同案ノ内容ハ左ノ通リテアリマス

一、日米兩國政府ハ孰レモ佛印以外ノ南東亞細亞及南太平洋地域ニ武力的進出ヲ行ハサルコトヲ確約ス

二、日米兩國政府ハ蘭領印度ニ於テ其ノ必要トスル物資ノ獲得カ保障セラルル樣相互ニ協力スルモノトス

三、日米兩國政府ハ相互ニ通商關係ヲ資產凍結前ノ狀態ニ復歸スヘシ米國政府ハ所要ノ石油ノ對日供給ヲ約ス

四、米國政府ハ日支兩國ノ和平ニ關スル努力ニ支障ヲ與フルカ如キ行動ニ出テサルヘシ

五、日本國政府ハ日支間和平成立スルカ又ハ太平洋地域ニ於ケル公正ナル平和確立スル上ハ現ニ佛領印度支那ニ派遣セラレ居ル日本軍隊ヲ撤退スヘキ旨ヲ約ス

 日本國政府ハ本了解成立セハ現ニ南部佛領印度支那ニ駐屯中ノ日本軍ハ之ヲ北部佛領印度支那ニ移駐スルノ用意アルコトヲ闡明ス

右ニ對シ米側ハ帝國カ三國條約トノ關係ヲ明カニシ平和政策採用ヲ確言スルニ非サレハ援蔣行爲停止ハ困難ナリ、大統領ノ所謂「紹介者」タラントノ提案モ日本ノ平和政策採用ヲ前提トスルモノナル旨ヲ述ヘマシタカ、之ニ對シ我方ハ米側申出ノ趣旨ニ基キ大統領ノ紹介ニ依リ日支直接交涉開始セラルルニ於テハ、和平ノ周旋者タル米國カ依然援蔣行爲ヲ繼續シ、平和成立ヲ妨碍スルハ矛盾ナルヲ指摘シ米側ノ反省ヲ要望致シマシタ。然ルニ其ノ後モ米側ハ日米兩國カ夫々東亞及西半球ニ於テ指導的立場ニ立ツニ異議ナク親善裡ニ太平洋協定ヲ結ヒ度シト述ヘ乍ラモ支那ニ付米國ハ蔣介石援助打切リヲ應諾セサルノミナラス、三國條約ニ關スル從來ノ主張ヲ固執反覆シ、更ニ讓步ノ色ヲ示サナカツタノテアリマス

此ノ間米國政府ハ英濠蘭及重慶代表ト協議スル所アリ、二十二日「ハル」長官ハ右諸國ハ日本カ平和政策ヲ採ルコト明確トナラハ通商常態復歸ヲ實行シ得ヘキモ、差當リ漸進的ニ之ヲ行フ意圖ノ如ク、又南部佛印ヨリノ撤兵ノミニテハ南太平洋方面ノ急迫セル情勢ヲ緩和スルニ足ラストナシ居レリト述ヘ、更ニ大統領ノ日支間「橋渡シ」ハ時機未タ熟セスト思考スル旨ヲ洩スニ至リマシタ然ルニ米國政府ハ其ノ後モ右諸國代表ト協議ヲ重ネツツアツタノテアリマスカ、二十六日「ハル」長官ハ兩大使ニ對シ二十日ノ我新提案ニ付テハ愼重研究ヲ加ヘ關係國トモ協議セルモ遺憾乍ラ同意シ難シト述ヘ、米側六月案ト我方九月案トノ調節ナリト稱シテ第一所四原則(但シ第四項ハ紛爭防止ノ爲ノ國際協力及調停ニ變更セラル)ノ確認ヲ求ムルト共ニ第二別ニ兩國政府ノ採ルヘキ措置トシテ

一、日米兩國政府ハ英帝國、蘭、支、蘇、泰ト共ニ多邊的不可侵條約ノ締結ニ努ム

二、日米兩國政府ハ日、米、英、支、蘭、泰國政府トノ間ニ佛印ノ領土主權ヲ尊重シ佛印ノ領土主權カ脅威サルル場合必要ナル措置ニ關シ卽時協議スヘキ協定ノ締結ニ努ム

右協定締約國ハ佛印ニ於ケル貿易及經濟關係ニ於テ特惠待遇ヲ排除シ平等ノ原則確保ニ努ム

三、日本政府ハ支那及佛印ヨリ一切ノ軍隊(陸、海、空及警察)ヲ撤收スヘシ

四、兩國政府ハ重慶政府ヲ除ク如何ナル政權ヲモ軍事的、政治的、經濟的ニ支持セス

五、兩國政府ハ支那ニ於ケル治外法權(租界及團匪議定書ニ基ク權利ヲ含ム)ヲ抛棄シ他國ニモ同樣ノ措置ヲ慫慂スヘシ

六、兩國政府ハ互惠的最惠國待遇及通商障壁低減ノ主義ニ基ク通商條約締結ヲ商議スヘシ(生糸ハ自由品目ニ据置ク)

七、兩國政府ハ相互ニ資產凍結令ヲ廢止ス

八、圓弗爲替安定ニ付協定シ兩國夫々半額宛資金ヲ供給ス

九、兩國政府ハ第三國ト締結シ居ル如何ナル協定モ本協定ノ根本目的卽チ太平洋全地域ノ平和確保ニ矛盾スルカ如ク解釋セラレサルコトニ付同意ス

一〇、以上諸原則ヲ他國ニモ慫慂スルコト

等ノ各項ヲ包含セル案ヲ爾今交涉ノ基礎トシテ提案致シマシタ、右ニ付兩大使ハ其ノ不當ナルヲ指摘シ、强硬ナル應酬ヲナシマシタカ「ハル」長官ハ讓步ノ色ヲ示サナカツタ由テアリマス。越エテ二十七日兩大使カ更ニ大統領ト會見セル際ニハ大統領ハ今猶日米交涉ノ妥結ヲ希望スト述ヘ乍ラモ去ル七月本交涉進行中日本軍ノ南部佛印進駐ヲ見タル爲メ冷水ヲ浴セラレタルカ、最近ノ情報ニ依レハ復々冷水ヲ浴セラルル懸念アルヤニ考ヘラルト云ヒ、暫定的方法ニ依リ局面打開ヲ計ルモ兩國ノ根本主義方針カ一致セサレハ一時的解決モ結局無效ト思フ旨ヲ述ヘタ趣テアリマス

然ルニ右米側提案中ニハ通商問題(第六、七、八各項)乃至支那治外法權撤廢(第五項)等我方トシテ容認シ得ヘキ項目モ若干含マレテ居リマスカ、支那佛印關係事項(第二、三項)國民政府否認(第四項)三國條約否認(第九項)及多邊的不可侵條約(第一項)等ハ何レモ帝國トシテ到底同意シ得サルモノニ屬シ、本提案ハ米側從來ノ諸提案ニ比シ著シキ退步ニシテ且半歳ヲ越エル交涉經緯ヲ全然無視セル不當ナルモノト認メサルヲ得ヌノテアリマス要之米國政府ハ終始其ノ傳統的理念及原則ヲ固執シ東亞ノ現實ヲ沒却シ而モ自ラハ容易ニ實行セサル諸原則ヲ帝國ニ强要セムトスルモノニシテ、我國カ々幾多ノ讓步ヲ爲セルニ拘ラス七ケ月餘ニ亙ル今次交涉ヲ通シ當初ノ主張ヲ固持シテ一步モ讓ラナカツタノテアリマス

惟フニ米國ノ對日政策ハ終始一貫シテ我不動ノ國是タル東亞新秩序建設ヲ妨碍セントスルニ在リ、今次米側回答ハ假ニ之ヲ受諾センカ帝國ノ國際的地位ハ滿洲事變以前ヨリモ更ニ低下シ、其ノ存立モ亦危殆ニ陷ラサルヲ得ヌモノト認メラレルノテアリマス。卽チ

一、蔣介石治下ノ中國ハ愈々英米依存ノ傾向ヲ增大シ帝國ハ國民政府ニ對スル信義ヲ失シ日支友誼亦將來永ク毀損セラレ延テハ大陸ヨリ全面的ニ退却ヲ餘儀ナクセラレ其ノ結果滿洲國ノ地位モ必然動搖ヲ來スニ至ルヘク斯クノ如クニシテ我支那事變完遂ノ方途ハ根底ヨリ覆沒セラルヘク

二、英米ハ此等地域ノ指導者トシテ君臨スルニ至リ帝國ノ權威地ニ墜チテ安定勢力タル地位ヲ覆滅シ東亞新秩序建設ニ關スル我大業ハ中途ニシテ瓦解スルニ至ルヘク

三、三國條約ハ一片ノ死文トナリテ帝國ハ信ヲ海外ニ失墜シ

四、新タニ蘇聯ヲモ加ヘ集團機構的組織ヲ以テ帝國ヲ控制セントスルハ我北邊ノ憂患ヲ增大セシムルコトトナルヘク

五、通商無差別其他ノ諸原則ノ如キハ其ノ謂フ所必スシモ排除スヘキニ非スト雖モ之ヲ先ツ太平洋地域ニノミ適用セントスル企圖ハ結局英米ノ利己的政策遂行ノ方途ニ過キスシテ我方ニ於テハ重要物資ノ獲得ニ大ナル支障ヲ來スニ至ルヘク

要スルニ右提案ハ到底我方ニ於テハ容認シ難キモノテ米側ニ於テ其ノ提案ヲ全然撤去スルニ於テハ格別右提案ヲ基礎トシテ此ノ上交涉ヲ持續スルモ我カ主張ヲ充分ニ貫徹スルコトハ殆ト不可能ト云フノ外ナシト申サナケレハナリマセヌ

    「日本外交年表竝主要文書 下巻」外務省編より

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 今日は、昭和時代前期の1941年(昭和16)に、東条英機内閣時の第7回御前会議において、「帝国国策遂行要領」で対米交渉の甲・乙二案を決定、交渉決裂の場合は12月初旬に武力行使と決められた日です。
 「帝国国策遂行要領(ていこくこくさくすいこうようりょう)」 は、日本が対米英戦争へ向かう国策を定めた御前会議の決定文書で、1941年(昭和16)9月6日(第6回御前会議)と11月5日(第7回御前会議)のものとがありました。
 9月6日のものは、「戦争ヲ辞セザル決意ノ下ニ概ネ十月下旬ヲ目途トシ戦争準備ヲ完整ス」、対米(英)交渉により「十月上旬頃ニ至ルモ尚我要求ヲ貫徹シ得ル目途ナキ場合ニ於テハ直チニ対米(英蘭)開戦ヲ決意ス」となっています。つまり、英米開戦が不可避であるとの認識により、10月末を目処として戦争の準備を進めること、それと並行して米国との交渉は続け、これが日本の要望する方向で決着しない場合には直ちに開戦に踏み切るという方針が確立されたということでした。しかし、10月上旬になっても日米交渉が考えているようには進展せず、開戦を決意できない第3次近衛内閣は10月18日に総辞職し、この要領の白紙化を条件に東條内閣が成立します。
 その後の11月5日の第7回御前会議では、対米交渉の甲・乙二案を定めるとともに、「武力発動ノ時機ヲ十二月初頭ト定メ陸海軍ハ作戦準備ヲ完整ス」としています。つまり、米国に対する日本の提案として、具体的な点について異なる2種類の案「甲案」と「乙案」が決定され、まず「甲案」を提示して交渉を進め、これがうまくいかない場合は、より譲歩した「乙案」を提示して交渉しますが、12月1日までに決着しないときは武力発動をするという方針が確定したということでした。
 この時の甲案では、(1)日本は、通商の無差別原則が全世界に適用されるという前提の下に、太平洋全域及び中国における通商の無差別原則の適用を求めること、(2)日独伊三国同盟の解釈については、「自衛権」のみだりな拡大をしないことを明確化するとともに、従来通り日本政府独自の解釈に基づくこと、(3)撤兵問題については、中国からの撤退では華北及びモンゴルの一部と海南島に関しては日本・中国間の平和条約成立後およそ25年を目処として駐屯するが、それ以外の地では2年以内の完全撤退を目指し、仏領インドシナからは日中戦争が解決するか極東の平和が確立ししだい直ちに撤退すること、が示されます。また、乙案では、(1)日米両国は仏領インドシナ以外の東南アジア及び南太平洋地域に武力的進出を行なわないこと、(2)両国は蘭領インドシナにおいて物資獲得が保障されるように相互協力すること、(3)両国は通商関係を在米国の日本資産凍結以前の状態に復帰させること、(4)米国は日本・中国の和平の努力に支障を与える行動をしないこと、の4点が成立すれば必要に応じて南部仏領インドシナに駐屯する日本軍は北部仏領インドシナに引き揚げることが示されていました。しかし、対米交渉は進展せず、同年12月8日の大平洋戦争の開戦を迎えることになります。
 以下に、「帝国国策遂行要領」(9月6日と11月5日)の全文を掲載しておきますので、ご参照ください。

〇「帝国国策遂行要領」(全文) 1941年(昭和16)9月6日と11月5日 御前会議決定

<1941年(昭和16)9月6日 第3次近衛内閣時の第6回御前会議決定>

 帝国は現下の急迫せる情勢特に米英蘭各国の執れる対日攻勢、ソ連の情勢および帝国国力の弾撥性に鑑み、「情勢の推移に伴う帝国国策要綱」中南方に対する施策を左記に拠り遂行す
帝国は自存自衛を全うする為対米、(英、蘭)戦争を辞せざる決意の下に、概ね十月下旬を目途とし戦争準備を完整す
帝国は右に平行して米、英に対し外交の手段を尽して帝国の要求貫徹に努む
対米(英)交渉に於て帝国の達成すべき最少限度の要求事項ならびに之に関連し帝国の約諾し得る限度は別紙の如し
前号外交交渉に依り十月上旬頃に至るも尚我要求を貫徹し得る目途なき場合に於ては、直ちに対米(英蘭)開戦を決意す
対南方以外の施策は既定国策に基き之を行ひ、特に米「ソ」の対日連合戦線を結成せしめざるに勉む

別紙

 対米(英)交渉に於て帝国の達成すべき最少限度の要求事項ならびに之に関連し帝国の約諾し得る限度

 第一 対米(英)交渉に於て帝国の達成すべき最少限度の要求事項
一、 米英は帝国の支那事変処理に容喙し又は之を妨害せざること
(イ) 帝国の日支基本条約および日満支三国共同宣言に準拠し事変を解決せんとする企図を妨害せざること
(ロ) 「ビルマ」公路を閉鎖し、かつ蒋政権に対し軍事的ならびに経済的援助をなさざること
(註) 右はN工作に於ける支那事変処理に関する帝国従来の主張を妨ぐるものにあらず 而して特に日支間新政権に依る帝国軍隊の駐屯に関しては之を固守するものとす
但し、事変解決に伴ひ支那事変遂行の為支那に派遣せる右以外の軍隊は、原則として撤退するの用意あることを確言すること支障なし
支那に於ける米英の経済活動は、公正なる基礎に於て行はるる限り制限せらるるものにあらざる旨、確言すること支障なし
ニ、 米英は極東に於て帝国の国防を脅威するが如き行動に出でざること
(イ) 泰、蘭印、支那および極東「ソ」領内に軍事的権益を設定せざること
(ロ) 極東に於ける兵備を現状以上に増強せざること
(註) 日仏間の約定に基く日仏印間特殊関係の解消を要求せらるる場合は、之を容認せざること
三、 米英は帝国の所要物資獲得に協力すること
(イ) 帝国との通商を恢復し、かつ南西太平洋に於ける両国領土より帝国の自存上緊要なる物資を帝国に供給すること
(ロ) 帝国と泰および蘭印との間の経済提携に付友好的に協力すること

第二 帝国の約諾し得る限度
第一に示す帝国の要求が応諾せらるるに於ては
一、 帝国は仏印を基地として支那を除く其の近接地域に武力進出をなさざること
(註) 「ソ」連に対する帝国の態度に関し質疑し来る場合、「ソ」側に於て日「ソ」中立条約を遵守し、かつ日満に対し脅威を与ふる等、同条約の精神に反するが如き行動無き限り、我より進んで武力行使に出づることなき旨応酬す
ニ、 帝国は公正なる極東平和確立後、仏領印度支那より撤兵する用意あること
三、 帝国は比島の中立を保証する用意あること

<1941年(昭和16)11月5日 東條内閣時の第7回御前会議決定>

一、 帝国は現下の危局を打開して自存自衛を完うし大東亜の新秩序を建設する為、比の際対米英蘭戦争を決意し左記処置を採る
1 武力発動の時機を十二月初旬と定め、陸海軍は作戦準備を完整す
2 対米交渉は別紙要領に依り之を行う
3 独伊との提携強化を図る
4 武力発動の直前、泰との間に軍事的緊密関係を樹立す

ニ、 対米交渉が十二月一日午前零時迄に成功せば武力発動を中止す 
別紙 対米交渉要領
対米交渉は、従来懸案となれる重要事項の表現方式を緩和修正する別記甲案あるいは別記乙案を以て交渉に臨み、之が妥結を計るものとす 

 甲案
日米交渉懸案中最重要なる事項は(一)支那および仏印に於ける駐兵および撤兵問題、(ニ)支那に於ける通商差別問題、(三)三国条約の解釈および履行問題および(四)四原則問題なる所、之等諸項に付ては左記の程度に之を緩和す

(一) 支那に於ける駐兵および撤兵問題
本件に付ては米国側は駐兵の理由は暫く之を別とし、(イ)不確定期間の駐兵を重視し、(ロ)平和解決条件中に之を包含せしむることに異議を有し、(ハ)撤兵に関し更に明確なる意思表示を要望し居るに鑑み、次の諸案程度に緩和す
日支事変の為支那に派遣せられたる日本国軍隊は、北支および蒙彊の一定地域および海南島に関しては日支間平和成立後所要期間駐屯すべく、爾余の軍隊は平和成立と同時に日支間に別に定めらるる所に従ひ撤去を開始し、二年以内に之を完了すべし
(註) 所要時間に付米側より質問ありたる場合は概ね二十五年を目途とするものなる旨を以て応酬するものとす
(ニ) 仏印に於ける駐兵および撤兵
本件に付ては、米側は日本は仏印に対し領土的野心を有し、かつ近接地方に対する武力進出の基地たらしめんとするものなりとの危惧の念を有すと認めらるるを以て、次の案程度に緩和す
日本国政府は仏領印度支那の領土主権を尊重す、現に仏領印度支那に派遣せられ居る日本国軍隊は支那事変にして解決するか又は公正なる極東平和の確立するに於ては直に之を撤去すべし
(三) 支那に於ける通商無差別待遇問題
本件に付ては既提出の九月二十五日案にて到底妥結の見込みなき場合には次の案を以て対処するものとす
日本国政府は無差別原則が全世界に適用せらるるものなるに於ては太平洋全地域すなわち支那に於ても本原則の行わるることを承認す
(四) 三国条約の解釈及履行問題
本件に付ては、我方としては自衛権の解釈を濫に拡大する意図なきことを更に明瞭にすると共に、三国条約の解釈および履行に関しては我方は従来屢々説明せる如く日本国政府の自ら決定する所に依りて行動する次第にして、此点は既に米国側の了承を得たるものなりと思考する旨を以て応酬す
(五) 米側の所謂四原則に付ては、之を日米間の正式妥結事項(了解案たると又は其他の声明たるとを問はず)中に包含せしむることは極力回避す 

 乙案
一、 日米両国は孰れも仏印以外の南東亜細亜および南太平洋地域に武力的進出を行わざることを約すべし
ニ、 日米両国政府は蘭領印度に於て其の必要とする物資の獲得が保障せらるる様相互に協力すべし
三、 日米両国政府は相互に通商関係を資産凍結前の状態に復帰せしむべし
米国は所要の石油の対日供給を約すべし
四、 米国政府は日支両国の和平に関する努力に支障を与うるが如き行動に出でざるべし
  備考
一、 必要に応じ、本取極成立せば南部仏印駐屯中の日本軍は仏国政府の諒解を得て北部仏印に移駐するの用意あること、ならびに支那事変解決するか又は太平洋地域に於ける公正なる平和確立の上は前記日本国軍隊を仏印より撤退すべきことを約束し差支無し
ニ、 なお必要に応じては、従来の提案(最後案)中にありたる通商無差別待遇に関する規定および三国条約の解釈および履行に関する既定を追加挿入するものとす

      「国立公文書館アジア歴史資料センター」資料より

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