
1881年(明治14)3月、大隈重信が早期国会開設(1983年)とイギリス流政党政治の実現を左大臣有栖川宮熾仁(たるひと)親王に提出しましたが、その時期をめぐり漸進論の伊藤博文・井上馨とが対立します。このような中で、開拓使官有物払下げ事件が起き、民権派の政府攻撃が高まると、背後に大隈の薩長派打倒の策動があるとしてて対立を深めました。
その結果、10月11日に明治天皇が帰京すると、早急に御前会議を開いて払下げを再考するべきであると上奏、三条・岩倉の二大臣、伊藤・黒田・山縣・西郷・井上・山田の六参議は有栖川宮左大臣と密談し、大隈罷免について合意します。翌12日には、払下げの中止と「国会開設の勅諭」が公表され、事件は終息しました。
これにより、伊藤博文・井上馨を中心とする薩長藩閥政府が確立し、明治国家体制形成のその後の方向を決定したとされています。
これに対し、薩摩閥が結託して公の財産を私するものだという世論のはげしい非難が起き、自由民権派の攻撃も鋭く、政府内では意見対立も深まったのです。その結果、追い詰められた政府は払下げを中止し、「国会開設の勅諭」を発するとともに、国会早期開設を唱えた筆頭参議大隈重信らの官吏を罷免し、政府部内の結束を固めました。
この政府の変動を「明治十四年の政変」といい、薩長藩閥体制が確立することになります。またその後、黒田清隆も開拓使長官を辞職し、内閣顧問の閑職に退くことになりました。
そして、1882年(明治15)2月8日には、開拓使が廃止されることになり、これに伴って、函館県、札幌県、根室県が設置されることになります。
官僚の井上毅が起草し、太政大臣の三条実美が奉詔したもので、憲法は政府官僚起草の原案を天皇自身が裁定し公布するとの姿勢が明示され、自由民権運動の尖鋭化を抑えようとしたものでもありました。これによって、1889年(明治22)2月11日の大日本帝国憲法の発布、1890年(明治23)11月29日の帝国議会開設に繋がっていきます。
7歳で藩校弘道館に入学しましたが、教育方針に不満を持ち、学制改革を試みるものの、退学するに至ります。1856年(安政2)に、蘭学寮に移って西欧の学問に接し、1865年(元治2)には長崎に出て、アメリカ人宣教師フルベッキに英学を学びました。
また、京都や長崎を往来して、尊王攘夷派として活動し、1867年(慶応3)には脱藩上京して徳川慶喜に政権返還を説こうとしますが、捕らえられて謹慎処分を受けます。明治政府成立時の1868年(明治元)に、参与兼外国事務局判事に登用され、外国官副知事に昇進、翌年会計官副知事、次いで大蔵大輔として手腕を発揮し、1870年(明治3)には参議となりました。
その中で、秩禄処分、地租改正、殖産興業政策などを推進しましたが、明治十四年の政変で下野することとなります。1882年(明治15)に、立憲改進党を結成して総理となり、同年に東京専門学校(後の早稲田大学)を創立し、青年教育にも当たりました。
1888年(明治21)に外務大臣となり、条約改正交渉にあたりましたが、反対派に爆弾をなげつけられて右足を失います。1898年(明治31)に板垣退助と憲政党を結成して日本初の政党内閣(隈板内閣)を組織し、総理大臣となったものの、党内抗争と薩長の妨害でわずか4ヵ月で総辞職するに至りました。
1914年(大正3)に第2次内閣を組織して、再び総理大臣となり、第一次大戦に参戦、翌年には「対華二十一ヵ条要求」を提出、軍備拡張を行ったします。しかし、1916年(大正5)に侯爵に叙せられた後に辞職し、1922年(大正11)1月10日に、東京において83歳で亡くなりました。
著作には、『大隈伯昔日譚』、『開国五十年史』(編著)、『開国大勢史』、『東西文明の調和』等があります。
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