ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:後鳥羽上皇

ccfa55a8.jpg
 今日は、鎌倉時代の1221年(承久3)に、承久の乱で鎌倉幕府に敗れた後鳥羽上皇が隠岐に流された日ですが、新暦では8月2日となります。
 承久の乱(じょうきゅうのらん)は、後鳥羽上皇とその近臣たちが鎌倉幕府討滅の兵を挙げたものの、逆に敗れた兵乱のことでした。この年の4月に、順徳天皇は皇子の仲恭天皇に譲位し、父後鳥羽上皇の討幕計画に協力を示し、5月14日に後鳥羽上皇は「流鏑馬揃え」を口実に諸国の兵を招集、北面・西面武士や近国の武士、大番役の在京の武士1700余騎が集められ、幕府を支持した西園寺公経を捕らえます。
 翌15日に京方の藤原秀康・近畿6ヶ国守護大内惟信率いる800騎が伊賀光季邸を襲撃、光季は討死しましたが、変事を鎌倉に知らせました。この時に、執権北条義時追討の宣旨が出されたものの、5月19日に幕府へ西園寺公経の家司三善長衡と伊賀光季からの上皇挙兵の急報が届けられ、北条政子が御家人たちを集めて、鎌倉創設以来の頼朝の恩顧を訴え、その団結を図ります。
 そして、幕府側は遠江以東15ヶ国の兵を集め、5月22日に東海道は北条泰時・時房、東山道は武田信光・小笠原長清、北陸道は北条朝時・結城朝広らを大将軍として、三道から京へ攻め上がりました。6月5日に東山道軍5万騎は大井戸渡に布陣する大内惟信、高桑大将軍が率いる京方2000騎を撃破、6月6日には主力の東海道軍10万騎が尾張川を渡河し、墨俣の陣に攻めかかり、山田重忠のみが杭瀬川で奮戦するものの、京方は総崩れになり、大敗を喫します。
 6月13日に京方と幕府軍が宇治川で衝突、京方は宇治川の橋を落とし、必死に防戦しましたが、翌14日に佐々木信綱を先頭として強引に敵前渡河し、多数の溺死者を出しながらも敵陣の突破に成功、京方は潰走し、15日には幕府軍は京都に攻め入り、京方の敗北で終わりました。その結果、後鳥羽上皇は隠岐島、土御門上皇は土佐国、順徳上皇は佐渡島に配流、上皇方の公家・武士の所領は没収されます。
 また、新補地頭の設置、朝廷監視のため六波羅探題の設置などにより、公家勢力の権威は著しく失墜し、鎌倉幕府の絶対的優位が確立しました。
 以下に、『吾妻鏡』第廿五巻の承久の乱の後鳥羽上皇遠流の部分を現代語訳・注釈付で掲載しておきますので、ご参照ください。

〇後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)とは?

 第82代とされる天皇で、以後三代にわたって、上皇となって院政を行なっています。平安時代末期の1180年(治承4年7月14日)に、京都において、高倉天皇の第四皇子(母・准后七条院藤原殖子)として生まれましたが、名は尊成 (たかひら) と言いました。1183年(寿永2)に、木曾義仲の軍が京都に迫ると、平家は安徳天皇と神鏡剣璽を奉じて西国に逃れます。
 その後、後白河法皇の院宣を受ける形で践祚し、翌年、神器のないままに即位式が実施され、天皇が二人いる状態となりました。1185年(文治元年)に、平家が壇ノ浦の戦いで滅亡し、安徳天皇も亡くなり、天皇重複は解消されます。
 1191年(建久2)に建久新制が宣下され、1192年(建久3)には、後白河法皇が亡くなり、天皇親政となりました。しかし、1198年(建久9)に土御門天皇に譲位し、上皇として以後三代にわたって院政を行なうようになります。
 一方、歌人としてもすぐれ、1200年(正治2)に、正治初度百首和歌を主宰し、1201年(建仁元)には、30人の歌人に100首ずつ詠進させた「院第三度百首」を結番した千五百番歌合を行わせました。また、1201年(建仁元)に和歌所を再興し、『新古今和歌集』の撰定に関わり、1205年(元久2)には完成記念の宴が後鳥羽院の御所で催されています。
 1219年(建保7)に鎌倉幕府第3代将軍源実朝が暗殺されると、幕府側の混乱を見て取り、1221年(承久3)に北条義時追討の院宣を発して、鎌倉幕府打倒を試みましたが失敗(承久の乱)しました。その結果、土御門・順徳の2上皇と共に配流となり、同年7月に出家して隠岐へ流されます。
 帰京がかなわぬまま、18年を過ごし、歌集『詠五百首和歌』、『遠島御百首』、秀歌撰『時代不同歌合』などを残しましたが、1239年(延応元年2月22日)に、隠岐国海部郡刈田郷の御所にて、数え年60歳で亡くなりました。

〇『吾妻鏡』第廿五巻

<原文>

承久三年七月小十三日乙未。上皇自鳥羽行宮遷御隱岐國。甲冑勇士圍御輿前後。御共。女房兩三輩。内藏頭淸範入道也。但彼入道。自路次俄被召返之間。施藥院使長成入道。左衛門尉能茂入道等。追令參上云々。

<読下し文>

承久三年七月小十三日乙未[1]。上皇[2]鳥羽行宮[3]自り隱岐國[4]へ遷じ御う。甲冑[5]の勇士御輿の前後を圍む。御共は、女房[6]兩三輩[7]、 内藏頭[8]淸範入道也。但し彼の入道、路次[9]自り俄に召返[10]被る之間、施藥院使[11]長成入道、左衛門尉[12]能茂入道等、追て參上[13]令むと云々。

【注釈】

[1]乙未:おつび=十干と十二支とを組み合わせたものの第三二番目。
[2]上皇:じょうこう=後鳥羽上皇のこと。
[3]鳥羽行宮:とばこうぐう=1086年(応徳3)に白河天皇の後院として、洛南の鳥羽(現在の京都市伏見区・南区)に造営された離宮、鳥羽離宮ともいう。
[4]隱岐國:おきのくに=山陰道の一国で、現在の島根県の隠岐島のこと。
[5]甲冑:かっちゅう=戦いのとき身を守るために着用する武具。胴体を覆う甲(よろい)と、頭にかぶる冑(かぶと)。
[6]女房:にょうぼう=部屋を与えられて貴人に仕える女性。
[7]兩三輩:りょうさんぱい=二、三人。
[8]内蔵頭:くらのかみ=内蔵寮(中務省に属し、金銀・珠玉や供進の御服、祭祀の奉幣などをつかさどり、内蔵の管理を担当)の長官。
[9]路次:ろじ=みちすじ。道の途中。みちすがら。
[10]召返:めしかえ=上位の者が、呼びかえす。つれもどす。
[11]施藥院使:せやくいんし= 施薬院(飢え病む者に給食し施療する施設)の長官。
[12]左衛門尉:さえもんのじょう=左衛門府の判官であり、六位相当の官職。
[13]參上:さんじょう=目上の人の所に行くこと。また、人のもとに行くことをへりくだっていう語。

<現代語訳>

 承久3年(1221年)7月小13日乙未。後鳥羽上皇は、鳥羽殿から隠岐国へ移動されました。甲冑に身を固めた勇敢な兵が前後を囲んでいます。供するのは、女官が二、三人と内蔵頭清範入道です。但し、この入道は、道の途中から急に呼び戻されたので、施薬院使長成入道と左衛門尉一条能茂入道が追い駆けてやってきたとのことです。

☆承久の乱関係略年表(日付は旧暦です) 

<承久元年(1219年)>
・1月27日 第3代将軍源実朝が公暁に暗殺される

<承久3年(1221年)> 
・4月 順徳天皇は皇子の仲恭天皇に譲位し、父後鳥羽上皇の討幕計画に協力する 
・5月14日 後鳥羽上皇は「流鏑馬揃え」を口実に諸国の兵を集め、北面・西面武士や近国の武士、大番役の在京の武士1700余騎が集め、幕府を支持した西園寺公経を捕らえる 
・5月15日 京方の藤原秀康・近畿6か国守護大内惟信率いる800騎が伊賀光季邸を襲撃、光季は討死したが、変事を鎌倉に知らせた。執権北条義時追討の宣旨を出す 
・5月19日 幕府へ西園寺公経の家司三善長衡と伊賀光季からの上皇挙兵の急報が届けられる 
・5月21日 院近臣でありながら挙兵に反対していた一条頼氏が鎌倉に逃れてくる 
・5月22日 幕府の軍勢を東海道、東山道、北陸道の三方から京へ向けて派遣する 
・6月5日 甲斐源氏の武田信光・小笠原長清率いる東山道軍5万騎は大井戸渡に布陣する大内惟信、高桑大将軍が率いる京方2000騎を撃破する
・6月6日 泰時、時房の率いる主力の東海道軍10万騎が尾張川を渡河し、墨俣の陣に攻めかかった時にはもぬけの殻、山田重忠のみが杭瀬川で奮戦するが、京方は総崩れになり、大敗を喫す 
・6月13日 京方と幕府軍が宇治川で衝突、京方は宇治川の橋を落とし、雨のように矢を射かけ必死に防戦する 
・6月14日 佐々木信綱を先頭として強引に敵前渡河し、多数の溺死者を出しながらも敵陣の突破に成功、京方は潰走する 
・6月15日 幕府軍は京都に攻め入り、上皇方の敗北で終わる 
・7月13日 後鳥羽上皇は隠岐島に配流となり、京都を出発する
・7月21日 順徳上皇は都を離れて佐渡へ配流となる
・8月5日 隠岐に配流になった後鳥羽上皇が、隠岐の崎の港に着船する

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1596年(文禄5)慶長伏見地震が起き、伏見城天守が倒壊するなど死者1,000人以上を出す詳細
1882年(明治15)洋画家青木繁の誕生日詳細
1886年(明治19)東経135度の時刻を日本標準時と定める勅令を公布(日本標準時制定記念日)詳細
1948年(昭和23)優生手術、人工妊娠中絶等について定めた旧「優生保護法」が公布(施行は同年9月11日)される詳細
1967年(昭和42)歌人・書家・文学研究者吉野秀雄の命日詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

houjyouyoshitokigotobajyouk
 今日は、鎌倉時代の1221年(承久3)に、北條泰時・時房の幕府軍が後鳥羽上皇方を破って京都を占領し、承久の乱が終結した日ですが、新暦では7月6日となります。
 承久の乱(じょうきゅうのらん)は、後鳥羽上皇とその近臣たちが鎌倉幕府討滅の兵を挙げたものの、逆に敗れた兵乱のことでした。
 この年の4月に、順徳天皇は皇子の仲恭天皇に譲位し、父後鳥羽上皇の討幕計画に協力を示し、5月14日に後鳥羽上皇は「流鏑馬揃え」を口実に諸国の兵を招集、北面・西面武士や近国の武士、大番役の在京の武士1700余騎が集められ、幕府を支持した西園寺公経を捕らえます。翌15日に京方の藤原秀康・近畿6ヶ国守護大内惟信率いる800騎が伊賀光季邸を襲撃、光季は討死しましたが、変事を鎌倉に知らせました。
 この時に、執権北条義時追討の宣旨が出されたものの、5月19日に幕府へ西園寺公経の家司三善長衡と伊賀光季からの上皇挙兵の急報が届けられ、北条政子が御家人たちを集めて、鎌倉創設以来の頼朝の恩顧を訴え、その団結を図ります。そして、幕府側は遠江以東15ヶ国の兵を集め、5月22日に東海道は北条泰時・時房、東山道は武田信光・小笠原長清、北陸道は北条朝時・結城朝広らを大将軍として、三道から京へ攻め上がりました。
 6月5日に東山道軍5万騎は大井戸渡に布陣する大内惟信、高桑大将軍が率いる京方2000騎を撃破、6月6日には主力の東海道軍10万騎が尾張川を渡河し、墨俣の陣に攻めかかり、山田重忠のみが杭瀬川で奮戦するものの、京方は総崩れになり、大敗を喫します。6月13日に京方と幕府軍が宇治川で衝突、京方は宇治川の橋を落とし、必死に防戦しましたが、翌14日に佐々木信綱を先頭として強引に敵前渡河し、多数の溺死者を出しながらも敵陣の突破に成功、京方は潰走し、15日には幕府軍は京都に攻め入り、京方の敗北で終わりました。
 その結果、後鳥羽上皇は隠岐島、土御門上皇は土佐国、順徳上皇は佐渡島に配流、上皇方の公家・武士の所領は没収されます。また、新補地頭の設置、朝廷監視のため六波羅探題の設置などにより、公家勢力の権威は著しく失墜し、鎌倉幕府の絶対的優位が確立しました。
 以下に、『吾妻鏡』第廿五巻の承久の乱終結の部分を現代語訳・注釈付で掲載しておきますので、ご参照ください。

〇『吾妻鏡』第廿五巻

<原文>

承久三年六月小十五日戊辰。陰。寅剋。秀康。胤義等參四辻殿。於宇治勢多兩所合戰。官軍敗北。塞道路之上。已欲入洛。縱雖有萬々事。更難免一死之由。同音奏聞。仍以大夫史國宗宿祢爲勅使。被遣武州之陣。兩院〔土御門。新院〕。兩親王令遁于賀茂貴舟等片土御云々。辰刻。國宗捧院宣。於樋口河原。相逢武州。述子細。武州稱可拝院宣。下馬訖。共勇士有五千餘輩。此中可讀院宣之者候歟之由。以岡村次郎兵衛尉。相尋之處。勅使河原小三郎云。武藏國住人藤田三郎。文博士者也。召出之。藤田讀院宣。其趣。今度合戰。不起於叡慮。謀臣等所申行也。於今者。任申請。可被宣下。於洛中不可及狼唳之由。可下知東士者。其後又以御随心頼武。於院中被停武士參入畢之旨。重被仰下云々。盛綱。秀康逃亡。胤義引籠于東寺門内之處。東士次第入洛。胤義與三浦佐原輩。合戰數反。兩方郎從多以戰死云々。巳刻。相州。武州之勢着于六波羅。申刻。胤義父子於西山木嶋自殺。廷尉郎從取其首。持向太秦宅。義村尋取之。送武州舘云々。秉燭之程。官兵宿廬各放火。數箇所燒亡。運命限今夜之由。都人皆迷惑。非存非亡。各馳走東西。不異秦項之災。東士充滿畿内畿外。求出所遁戰塲之歩兵。斬首拭白刄不有暇。人馬之死傷塞衢。行歩不安。郷里無全室。耕所無殘苗。好武勇西面北面忽亡。立邊巧近臣重臣。悉被虜。可悲。當于八十五代澆季。皇家欲絶。」今日。關東祈祷等結願也。屬星祭々文。民部大夫行盛相兼草淸書。及此期。官兵令敗績。可仰佛力神力之未落地矣。

<読下し文> 

 承久三年六月小十五日戊辰[1]。陰り[2]。寅の剋[3]。秀康[4]。胤義[5]等四辻殿[6]に參り、宇治勢多兩所の合戰[7]に於て、官軍敗北す。道路を塞ぐの上、すでに入洛[8]を欲す。縱い萬々の事有りと雖も、更に一死を免かれ難きの由、同音[9]に奏聞す[10]。仍て大夫の史[11]國宗宿祢を以て勅使[12]と爲し、武州[13]の陣に遣はせらる。兩院[14]〔土御門。新院〕、兩親王[15]、賀茂・貴舟等の片土[16]に遁れしめ御うと云々。
 辰の刻[17]、國宗院宣[18]を捧げ、樋口河原に於て、武州[13]に相逢い、子細を述ぶ。武州[13]院宣[18]を拝すべしと稱し、下馬しをはんぬ。共の勇士五千餘輩有り。この中に、院宣[18]を讀むべきの者候すかの由、岡村次郎兵衛の尉[19]を以て、相尋ねるの處、勅使河原小三郎云く。武藏國住人 藤田三郎は、文博士の者[20]なり。これを召し出す。藤田院宣[18]を讀む。その趣、今度の合戰、叡慮[21]に於て起こらず。謀臣[22]等の申し行う所なり。今に於ては、申し請けに任せ、宣下[23]せらるべし。洛中[24]に於て狼唳[25]に及ぶべからざるの由、東士[26]に下知[27]すべしてへり。その後また、御随心[28]頼武を以て、院中に於て武士の參入を停められをわんぬの旨、重ねて仰せ下さると云々。
 盛綱[29]・秀康[4]逃亡す。胤義[5]東寺[30]の門内に引き籠るの處、東士[26]次第に入洛[8]し、胤義[5]と三浦、佐原の輩、合戰數反。兩方の郎從[31]多く以て戰死すと云々。
 巳の刻[32]、相州[33]、武州[13]の勢六波羅[34]に着く。申の刻[35]、胤義[5]父子 西山の木嶋[36]に於て自殺す。
 廷尉[37]の郎從[31]その首を取り。太秦[38]の宅へ持向う。義村[39]これを尋ね取り、武州[13]の舘へ送ると云々。秉燭[40]の程、官兵[41]が宿廬[42]、各に放火し、數箇所燒亡す。
 運命今夜に限るの由、都人[43]皆迷い惑う。存に非ず亡に非ず。各東西に馳せ走る。秦項の災[44]に異ならず。東士[26]畿内[45]・畿外[46]に充滿し、戰塲を遁れる所の歩兵を求め出し、首を斬り、白刄を拭う[47]に暇有らず。人馬の死傷衢[48]を塞ぎ、行歩[49]安かならず。郷里に全く室無し。耕すに所無く苗殘る。武勇を好む西面[50]・北面[51]忽ち亡ぶ。邊に立ち巧む近臣・重臣、悉く虜えらる。悲いむべし。八十五代の澆季[52]に當り、皇家絶へんと欲す。
 今日、關東[53]の祈祷等の結願[54]なり。屬星祭々文[55]、民部の大夫[56]行盛[57]相兼て淸書を草す。この期に及び、官兵[41]敗績[58]せしむ。仏力[59]・神力[60]の未だ地に落ちざるを仰ぐべし。

【注釈】

[1]戊辰:つちのえたつ/ぼしん=十干と十二支とを組み合わせたものの第五番目。
[2]陰り:かげり=太陽や月の光が雲などによって少し暗くなること。
[3]寅の剋:とらのこく=午前4時頃。
[4]秀康:ひでやす=藤原秀康のこと。後鳥羽院の近臣で、西面・北面・滝口の武士などを勤め、承久の乱にあたっては総大将に任ぜられた。
[5]胤義:たねよし=三浦胤義のこと。大番役で在京中、後鳥羽院の誘引を受け、承久の乱では京方についた。
[6]四辻殿:よつつじどの=一条万里小路にあった御所。
[7]宇治勢多兩所の合戰:うじせたりょうしょのかっせん=宇治川の合戦のことで、激戦の末、6月14日に北条泰時率いる幕府軍が渡河に成功し京に入る。
[8]入洛:にゅうらく=京都に入ること。
[9]同音:どうおん=声をそろえて言うこと。
[10]奏聞す:そうもんす=天子に申し上げること。奏上する。
[11]大夫の史:たいふのし=史の大夫。左大史で、五位に叙せられた者。
[12]勅使:ちょくし=勅旨を伝えるために派遣される使者。
[13]武州:ぶしゅう=北條泰時のこと。
[14]兩院:りょういん=土御門上皇と順徳上皇のこと。
[15]兩親王:りょうしんのう=六条宮・冷泉宮の両親王のこと。
[16]片土:へんど=都の近辺。近郊。
[17]辰の刻:たつのこく=午前8時頃。
[18]院宣:いんぜん=院司などが上皇、法皇の意を受けて発行する文書。
[19]岡村次郎兵衛の尉:おかむらじろうひょうえのじょう=諏訪市岡村。諏訪神党。
[20]文博士の者:もんはくじのもの=学識のある者。学者の家の者。
[21]叡慮:えいりょ=天子の考え。天子の気持ち。
[22]謀臣:ぼうしん=はかりごとをめぐらす家臣。計略に巧みな家来。
[23]宣下:せんげ=天皇が宣旨(せんじ)を下すこと。また、宣旨が下ること。
[24]洛中:らくちゅう=みやこの中。京都の市街地の中をさす。
[25]狼唳:ろうれい=狼藉。乱暴なふるまい。
[26]東士:とうし=東国の武士。鎌倉幕府軍のこと。
[27]下知:げじ=上から下へ指図すること。命令。
[28]御随心:みずいじん=上皇や、摂政・関白・大臣・大将・納言・参議などの外出の時に、弓矢を持って警衛する近衛府の官人をいう。
[29]盛綱:もりつな=下総前司小野盛綱のこと。
[30]東寺:とうじ=京都市南区にある真言宗東寺派の総本山、教王護国寺(きょうおうごこくじ)の通称。
[31]郎從:ろうじゅう=郎等。郎党。従者。身分的に主人に隷属する従僕。
[32]巳の刻:みのこく=午前十時頃。
[33]相州:そうしゅう=北条時房のこと。
[34]六波羅:ろくはら=京都市東山区、鴨川東岸の六波羅蜜寺一帯の古称。鎌倉時代には六波羅探題が所在した。
[35]申の刻:さるのこく=午後四時頃。
[36]木嶋:このしま=京都市右京区太秦森ケ東町の木嶋神社のあたりか?
[37]廷尉:ていい=三浦胤義のこと。
[38]太秦:うずまさ=京都市右京区の地名。
[39]義村:よしむら=三浦義村のこと。
[40]秉燭:へいしょく=灯火をつけるころ。ひともしどき。夕暮。
[41]官兵:かんぺい=国家の兵。官軍の兵。
[42]宿廬:しゅくろ=宿所。宿舎。
[43]都人:みやこびと=都に住んでいる人。都の人。都者。
[44]秦項の災:しんこうのわざわい=秦の始皇帝が六国と戦った災難。
[45]畿内:きない=京都に近い国々。山城・大和・河内・和泉・摂津の5か国。
[46]畿外:きがい=京都から遠い国々。畿内以外の地。
[47]白刄を拭う:はくじんをぬぐう=刀の血糊をぬぐうの意味。
[48]衢:ちまた=四方に通じる道。よつつじ。
[49]行歩:ぎょうぶ=あるくこと。歩行。
[50]西面:さいめん=西面の武士のこと。院の御所の西面に伺候して、警固にあたった武士。後鳥羽院の時に設置され、承久の乱以後廃止された。
[51]北面:ほくめん=北面の武士のこと。院の御所の北面に伺候して、警固にあたった武士。白河上皇の時に創設。
[52]八十五代の澆季:はちじゅうごだいのぎょうき=八十五代(仲恭天皇)まで続いてきた天皇家のこと。
[53]關東:かんとう=鎌倉幕府のこと。
[54]祈祷等の結願なり:きとうらのけちがん=戦勝祈願の祈りの満たされた時。
[55]屬星祭々文:ぞくしょうさいさいぶん=属星祭(危難を逃れ、幸運を求めるために、その人の属星をまつる祭)に捧げる誓文。
[56]民部の大夫:みんぶのたいふ=民部省の大丞・少丞で、五位に叙せられた者の称。
[57]行盛:ゆきもり=二階堂行盛のこと。
[58]敗績:はいせき=大敗すること。
[59]仏力:ぶつりき=仏の持つ計り知れない力。
[60]神力:しんりき=神の威力。神の通力。神通力。

<現代語訳>

 承久3年6月小15日戊辰。曇天。午前四時頃、足利秀康・三浦胤義らは、一条万里小路にあった御所四辻殿に参上し、「宇治と勢多の合戦において、官軍が敗北しました。幕府軍は、道路を閉鎖した上で、すでに京都に入ろうとしています。たとえ万が一のことがあったとしても、今さら死を逃れる事は出来ないでしょう。」と、声をそろえて奏上した。よって、大夫の史国宗宿祢を勅使として、北條泰時の陣に派遣した。土御門上皇と順徳上皇、六条宮と冷泉宮は、賀茂・貴舟等の都の近辺に逃走したとということである。
 午前八時頃、国宗は後鳥羽上皇の書を奉って、樋口河原において、北條泰時に面会し、詳しい事情を述べた。北條泰時は後鳥羽上皇の書を拝見しますと言って、下馬した。随伴する勇者は五千余りもあった。この中に、後鳥羽上皇の書を読める者がいないか尋ねたので、岡村次郎兵衛の尉が聞いて回ったところ、勅使河原小三郎が言うことには、「武藏国の住人である藤田三郎は、学識のある者である。」と、そこでこれを呼び出した。藤田は後鳥羽上皇の書を読み上げた。その内容は、「今度の合戦は、後鳥羽上皇の考えによって起こったものではない。計略に巧みな家臣らが申し出て引き起こしたものである。今においては、幕府方の申し出に従って、宣旨を下そうと思う。京都中において、乱暴なふるまいに及ばないようにとのこと、幕府軍に命令してほしい。」と。その後また、警衛担当の近衛府の官人である頼武によって、「院中において武士の参入を停止すること。」重ねて伝えてきたということである。
 下総前司小野盛綱と足利秀康は逃亡した。三浦胤義は東寺(教王護国寺)の門内に立て籠っていたところ、幕府軍は次第に京都に入り、三浦胤義と三浦・佐原の連中は何度も戦い、双方の郎党は多くが戦死したということである。
 午前十時頃、北條時房・泰時の軍勢が六波羅に到着した。午後四時頃、三浦胤義父子は、西山の木嶋において自殺した。
 三浦胤義の郎党はその首を取り、太秦の宅へ持って向かいましたが、三浦義村はこれを探し当てて没収し、北條泰時の宿所へ送ったということである。夕暮の頃、官軍の兵が宿所に、各々に放火し、数か所が焼け落ちた。
 都の運命も今夜で尽きるのではないかと、都の人々は皆迷い惑った。生死の境をそれぞれ東西に走り回っています。秦の始皇帝が六国と戦った災難に異ならず。幕府軍は京都の内外に満ち溢れ、戦場を逃れようとする歩兵を探し出し、首を斬り、刀の血糊をぬぐう暇もないぐらいだ。人や馬の死傷体がちまたを塞ぎ、歩くことも儘ならない。郷里には帰るべき家もない。耕すべき所も荒れ果て、苗が殘されている。武勇を誇りにしていた西面や北面の武士もたちまち亡んでしまった。近隣に住んでいた近臣や重臣も、ことごとく捕えられた。悲しいことである。85代(仲恭天皇)まで続いてきた天皇家についても、絶えてしまうのだろうか。
 今日は、鎌倉幕府の祈祷等の満たされた時である。属星祭(危難を逃れ、幸運を求めるために、その人の属星をまつる祭)に捧げる誓文は、民部の大夫二階堂行盛が前もって清書をしておいた。この期に及んで、官軍は大敗を喫した。神仏の力が未だ地に堕ちていないことを仰ぎ見るものである。

☆承久の乱関係略年表(日付は旧暦です) 

<承久元年(1219年)>
・1月27日 第3代将軍源実朝が公暁に暗殺される

<承久3年(1221年)> 
・4月 順徳天皇は皇子の仲恭天皇に譲位し、父後鳥羽上皇の討幕計画に協力する 
・5月14日 後鳥羽上皇は「流鏑馬揃え」を口実に諸国の兵を集め、北面・西面武士や近国の武士、大番役の在京の武士1700余騎が集め、幕府を支持した西園寺公経を捕らえる 
・5月15日 京方の藤原秀康・近畿6か国守護大内惟信率いる800騎が伊賀光季邸を襲撃、光季は討死したが、変事を鎌倉に知らせた。執権北条義時追討の宣旨を出す 
・5月19日 幕府へ西園寺公経の家司三善長衡と伊賀光季からの上皇挙兵の急報が届けられる 
・5月21日 院近臣でありながら挙兵に反対していた一条頼氏が鎌倉に逃れてくる 
・5月22日 幕府の軍勢を東海道、東山道、北陸道の三方から京へ向けて派遣する 
・6月5日 甲斐源氏の武田信光・小笠原長清率いる東山道軍5万騎は大井戸渡に布陣する大内惟信、高桑大将軍が率いる京方2000騎を撃破する
・6月6日 泰時、時房の率いる主力の東海道軍10万騎が尾張川を渡河し、墨俣の陣に攻めかかった時にはもぬけの殻、山田重忠のみが杭瀬川で奮戦するが、京方は総崩れになり、大敗を喫す 
・6月13日 京方と幕府軍が宇治川で衝突、京方は宇治川の橋を落とし、雨のように矢を射かけ必死に防戦する 
・6月14日 佐々木信綱を先頭として強引に敵前渡河し、多数の溺死者を出しながらも敵陣の突破に成功、京方は潰走する 
・6月15日 幕府軍は京都に攻め入り、上皇方の敗北で終わる 
・7月9日 泰時によって、後鳥羽上皇は隠岐島に配流される 
・7月21日 順徳上皇は都を離れて佐渡へ配流となる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

707年(慶雲4)第42代天皇とされる文武天皇の命日(新暦7月18日)詳細
1242年(仁治3)鎌倉幕府の第3代執権北条泰時の命日(新暦7月14日)詳細
1705年(宝永2)歌人・俳人・和学者北村季吟の命日(新暦8月4日)詳細
1770年(明和7)浮世絵師鈴木春信の命日(新暦7月7日)詳細
1896年(明治29)明治三陸地震による大津波で死者約2万7千人の被害がが出る 詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

houjyoumasakozou01
 今日は。鎌倉時代の1221年(承久3)に、承久の乱に際し、後鳥羽上皇の執権・北条義時追討令を受け、北条政子が御家人に対し「前将軍源頼朝の恩は山よりも高く海よりも深い」と結集を訴えた日ですが、新暦では6月10日となります。
 承久の乱(じょうきゅうのらん)は、鎌倉時代の1221年(承久3)に、後鳥羽上皇とその近臣たちが鎌倉幕府討滅の兵を挙げたものの、逆に敗れた兵乱のことでした。この年の4月に、順徳天皇は皇子の仲恭天皇に譲位し、父後鳥羽上皇の討幕計画に協力を示し、5月14日に後鳥羽上皇は「流鏑馬揃え」を口実に諸国の兵を招集、北面・西面武士や近国の武士、大番役の在京の武士1700余騎が集められ、幕府を支持した西園寺公経を捕らえます。
 翌15日に京方の藤原秀康・近畿6ヶ国守護大内惟信率いる800騎が伊賀光季邸を襲撃、光季は討死しましたが、変事を鎌倉に知らせます。この時に、執権北条義時追討の宣旨が出されましたが、5月19日に幕府へ西園寺公経の家司三善長衡と伊賀光季からの上皇挙兵の急報が届けられ、北条政子が御家人たちを集めて、鎌倉創設以来の頼朝の恩顧を訴え、その団結を図りました。
 そして、幕府側は遠江以東15ヶ国の兵を集め、5月22日に東海道は北条泰時・時房、東山道は武田信光・小笠原長清、北陸道は北条朝時・結城朝広らを大将軍として、三道から京へ攻め上がります。6月5日に東山道軍5万騎は大井戸渡に布陣する大内惟信、高桑大将軍が率いる京方2000騎を撃破、6月6日には主力の東海道軍10万騎が尾張川を渡河し、墨俣の陣に攻めかかり、山田重忠のみが杭瀬川で奮戦するものの、京方は総崩れになり、大敗を喫しました。
 6月13日に京方と幕府軍が宇治川で衝突、京方は宇治川の橋を落とし、必死に防戦しましたが、翌14日に佐々木信綱を先頭として強引に敵前渡河し、多数の溺死者を出しながらも敵陣の突破に成功、京方は潰走し、15日には幕府軍は京都に攻め入り、京方の敗北で終わります。
 その結果、後鳥羽上皇は隠岐島、土御門上皇は土佐国、順徳上皇は佐渡島に配流、上皇方の公家・武士の所領は没収されました。また、新補地頭の設置、朝廷監視のため六波羅探題の設置などにより、公家勢力の権威は著しく失墜し、鎌倉幕府の絶対的優位が確立します。
 以下に、『小松家文書』の北条義時追討令と『吾妻鏡』第二十五巻の北条政子の御家人たちへの訴えを注釈・現代語訳付で掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇『小松家文書』北条義時追討令 

右弁官[1]下す 五畿内・諸国[東海・東山・北陸・山陰・山陽・南海・太宰府] 
應に早く陸奥守平義時朝臣[2]の身の追討し、院の庁に参り裁断[3]を蒙るべき諸国庄園の守護人地頭等の事。 
右、内大臣[4]宣す。勅を奉るに、近曽[5]関東[6]の成敗[7]と称し、天下の政務を乱る。纔に将軍の名を帯ぶと雖も猶以て幼稚の齢に在り[8]。然る間彼の義時朝臣、偏に言詞を教命に仮り[9]、恣に裁断[3]を都鄙[10]に致す。剰己が威を耀し皇憲[11]を忘るるが如し。之を論ずるに、政道謀反[12]と謂ひつべし。早く五畿七道の諸国に下知して、彼の朝臣を追討せしめよ。兼ねて又諸国庄園の守護人地頭等、言上を経べきの旨有らば、各、院庁[13]に参れ。よろしく上奏を経て状に随ひて[14]聴断すべし[15]。抑も国宰[16]ならびに領家[17]等、事を綸綍[18]に寄せ、更に濫行[19]を致すこと勿れ。縡は是厳密なり。違越[20]せざれ者。諸国承知し、宣に依りて之を行へ。 
 承久三年五月十五日    大使三善の朝臣 
 大弁藤原の朝臣

     『小松家文書』(京都の小松美一郎氏所蔵文書)より

*縦書きの原文を横書きにし、旧字を新字に改めてあります。

【注釈】

[1]右弁官:うべんかん=太政官三局の祖一つで凶事の宣旨発布を担当した。 
[2]平義時朝臣:たいらのよしときあそん=北条義時のこと。  
[3]裁断:さいだん=理非、善悪を区別し定めること。どちらかに判断してきめること。裁決。裁定。 
[4]内大臣:ないだいじん=源通光。 
[5]近曽:さきつころ=この頃、近頃。 
[6]関東:かんとう=鎌倉幕府のこと。 
[7]成敗:せいばい=こらしめること。処罰すること。しおき。 
[8]幼稚の齢に在り:ようちのよわいにあり=まだ幼いに過ぎない。  
[9]言詞を教命に仮り:げんじをきょうめいにかり=将軍家の命と称して。将軍家の言葉をかりて。  
[10]都鄙:とひ=都市と田舎。国中。 
[11]皇憲:こうけん=天皇・朝廷の支配下にあるものが従うべきであるとされる法。 
[12]謀返:むへん=律に規定する八虐の第一番目の重罪。天皇を殺害し国家を顛覆しようとする罪。君主に対する殺人予備罪。犯人は斬刑に処される。 
[13]院庁:いんのちょう=後鳥羽上皇の院庁。 
[14]状に随ひて:じょうにしたがいて=実情に応じて。 
[15]聴断すべし:ちょうだんすべし=裁定を下そう。 
[16]国宰:こくさい=国司のこと。 
[17]領家:りょうけ=古代末・中世の荘園領主。 
[18]綸綍:りんふつ=天皇の太い綱。天皇の大綱。天皇の引き綱。 
[19]濫行:らんぎょう=乱暴や不都合な行為などをすること。品行が乱れているさま。また、その行為。 
[20]違越:いおつ=違反すること。法、規定、契約などにそむくこと。違犯。違失。

<現代語訳> 北条義時追討令

右弁官が下す 五畿内(山城・大和・河内・和泉・摂津)・諸国(東海道・東山道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・太宰府)に対して、 
まさに早く陸奥守平の北条義時の身を追討し、院庁に参上して裁定をいただくべき諸国・庄園の守護人や地頭等についてのこと。 
右のように、内大臣が仰せられた。天皇の命令を奉るに、近頃、幕府の仕置きと称して、天下の政治を混乱させている。かろうじて将軍を名乗っていると言っても、まだまだ幼い者に過ぎない。しかし、かの北条義時は、もっぱら将軍家の命と称して、ほしいままに裁定を国中に下している。そればかりか自分の威勢を見せびらかし、天皇・朝廷の支配下にあるものが従うべきであるとされる法を忘れ去っているかのようである。これは言ってみれば、律に規定する八虐の第一番目の重罪に他ならない。早く五畿七道の諸国に命令を下して、かの北条義時を追討せよ。併せてまた、諸国・庄園の守護人や地頭等で、申し出るべき者が有れば、各自で院庁までやってきて、院に上奏しなさい。実情に応じて裁定を下そう。そもそも国司ならびに荘園領主等は、事を天皇の大綱に寄せ集め 、さらに乱暴や不都合な行為をすることがあってはならない。大綱はこれ厳密である。法、規定、契約などにそむかないこと。諸国は承知して、勅旨に基づいてこれを実行せよ。 
 承久3年(1221年)5月15日    大使三善の朝臣 
 大弁藤原の朝臣
 
〇『吾妻鏡』第二十五巻

<原文>

承久三年五月大十九日壬寅。大夫尉光季去十五日飛脚下着關東。申云。此間。院中被召聚官軍。仍前民部少輔親廣入道昨日應勅喚。光季依聞右幕下〔公經〕告。申障之間。有可蒙勅勘之形勢云々。未刻。右大將家司主税頭長衡去十五日京都飛脚下着。申云。昨日〔十四〕幕下并黄門〔實氏〕仰二位法印尊長。被召籠弓塲殿。十五日午刻。遣官軍被誅伊賀廷尉。則勅按察使光親卿。被下右京兆追討宣旨於五畿七道之由云々。關東分宣旨御使。今日同到着云々。仍相尋之處。自葛西谷山里殿邊召出之。稱押松丸〔秀康所從云々〕。取所持宣旨并大監物光行副状。同東士交名註進状等。於二品亭〔号御堂御所〕披閲。亦同時廷尉胤義〔義村弟〕。私書状到着于駿河前司義村之許。是應勅定可誅右京兆。於勳功賞者可依請之由。被仰下之趣載之。義村不能返報。追返彼使者。持件書状。行向右京兆之許云。義村不同心弟之叛逆。於御方可抽無二忠之由云々。其後招陰陽道親職。泰貞。宣賢。晴吉等。以午刻〔初飛脚到來時也〕有卜筮。關東可屬太平之由。一同占之。相州。武州。前大官令禪門。前武州以下群集。二品招家人等於簾下。以秋田城介景盛。示含曰。皆一心而可奉。是最期詞也。故右大將軍征罸朝敵。草創關東以降。云官位。云俸祿。其恩既高於山岳。深於溟渤。報謝之志淺乎。而今依逆臣之讒。被下非義綸旨。惜名之族。早討取秀康。胤義等。可全三代將軍遺跡。但欲參院中者。只今可申切者。群參之士悉應命。且溺涙申返報不委。只輕命思酬恩。寔是忠臣見國危。此謂歟。武家背天氣之起。依舞女龜菊申状。可停止攝津國長江。倉橋兩庄地頭職之由。二箇度被下 宣旨之處。右京兆不諾申。是幕下將軍時募勳功賞定補之輩。無指雜怠而難改由申之。仍逆鱗甚故也云々。晩鐘之程。於右京兆舘。相州。武州。前大膳大夫入道。駿河前司。城介入道等凝評議。意見區分。所詮固關足柄。筥根兩方道路可相待之由云々。大官令覺阿云。群議之趣。一旦可然。但東士不一揆者。守關渉日之條。還可爲敗北之因歟。任運於天道。早可被發遣軍兵於京都者。右京兆以兩議。申二品之處。二品云。不上洛者。更難敗官軍歟。相待安保刑部丞實光以下武藏國勢。速可參洛者。就之。爲令上洛。今日遠江。駿河。伊豆。甲斐。相摸。武藏。安房。上総。下総。常陸。信濃。上野。下野。陸奥。出羽等國々。飛脚京兆奉書。可相具一族等之由。所仰家々長也。其状書樣。 
 自京都可襲坂東之由。有其聞之間。相摸權守。武藏守相具御勢。所打立也。以式部丞差向北國。此趣早相觸一家人々。可向者也。

    『吾妻鏡』第二十五巻より

*縦書きの原文を横書きに改め、句読点を付してあります。

<読み下し文>

承久三年五月大十九日壬寅。大夫の尉光季去る十五日の飛脚[21]関東に下着す。申して云く、この間院中に官軍を召聚めらる。仍って前の民部少輔親廣入道、昨日勅喚[22]に応ず。光季は右幕下(公経)の告げを聞くに依って障りを申すの間、勅勘を蒙るべきの形勢有りと。未の刻[23]右大将家司主税の頭長衡去る十五日の京都の飛脚[21]下着す。申して云く、昨日(十四日)、幕下並びに黄門(實氏)、二位法印尊長に仰せ、弓場殿に召し籠めらる[25]。十五日午の刻[26]、官軍を遣わし伊賀廷尉を誅せらる。則ち按察使[27]光親卿に勅し、右京兆[28]追討の宣旨[29]を五幾七道[30]に下さるるの由と。関東分宣旨[29]の御使は、今日同じく到着すと。仍って相尋ねるの処、葛西谷山里殿の辺よりこれを召し出す。押松丸(秀康所従)と称すと。 
所持の宣旨[29]並びに大監物光行の副状、同じく東士の交名註進状[31]等を取り、二品亭[32](御堂御所[33]と号す)に於いて披閲[34]す。また同時廷尉胤義(義村弟)の私書状、駿河の前司義村の許に到着す。これ勅定[35]に応じ右京兆[28]を誅すべし。勲功[36]の賞に於いては請いに依るべきの由、仰せ下さるるの趣これを載す。義村返報に能わず。彼の使者を追い返し、件の書状を持ち、右京兆[28]の許に行き向かいて云く、義村弟の叛逆に同心[37]せず。御方に於いて無二[38]の忠を抽んず[39]べきの由と。 
その後陰陽道親職・泰貞・宣賢・晴吉等を招き、午の刻[26](初めの飛脚[21]到来の時なり)を以て卜筮[40]有り。関東太平に属くべきの由、一同これを占う。相州・武州・前の大官令禅門・前の武州已下[41]群集す。二品[42]家人等を簾下[43]に招き、秋田城の介景盛[44]を以て示し含めて曰く、皆心を一にして奉るべし。これ最期の詞なり。故右大将軍[45]朝敵を征罰し、関東を草創[46]してより以降、官位と云い俸禄と云い、その恩[47]既に山岳より高く、溟渤[48]より深し。報謝の志[49]これ浅からんか。而るに今逆臣の讒[50]に依って、非義の綸旨[51]を下さる。 
名を惜しむの族[52]は、早く秀康[53]・胤義[54]等を討ち取り、三代将軍の遺跡[55]を全うすべし[56]。但し院中に参らんと欲する者は、只今申し切るべしてえり。群参の士悉く命に応じ、且つは涙に溺れ[57]返報を申すこと委しからず。ただ命を軽んじ酬恩[58]を思う。寔にこれ忠臣国の危うきを見るとは、この謂われか。武家天気[59]に背くの起こりは、舞女亀菊[60]の申状に依って、摂津の国長江・倉橋両庄の地頭職を停止すべきの由、二箇度院宣[61]を下さるるの処、右京兆[28]諾し申さず。これ幕下将軍の時、勲功[36]の賞に募り定補[62]するの輩、指せる雑怠[63]無くして改め難きの由これを申す。仍って逆鱗[64]甚だしきが故なりと。 
晩鐘[65]の程、右京兆[28]の舘に於いて、相州・武州・前の大膳大夫入道・駿河の前司・城の介入道等評議を凝らす。意見区々なり[66]。所詮関を固め足柄・箱根両方の道路に相待つべきの由と。大官令覺阿云く、群議の趣、一旦然るべし[67]。但し東士一揆[68]せずんば、関を守り日を渉る[69]の條、還って敗北の因たるべきか。運を天道[70]に任せ、早く軍兵を京都に発遣[71]せらるべしてえり。右京兆[28]両議を以て二品[42]に申すの処、二品[42]云く、上洛せずんば、更に官軍を敗り難からんか。安保刑部の丞實光以下武蔵の国の勢を相待ち、速やかに参洛[72]すべしてえり。これに就いて上洛せしめんが為、今日遠江・駿河・伊豆・甲斐・相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸・信濃・上野・下野・陸奥・出羽等国々の飛脚[21]、京兆奉書[73]に、一族等を相具すべきの由、家々の長に仰す所なり。その状の書き様、 
 京都より坂東を襲うべきの由その聞こえ有るの間、相模の守・武蔵の守御勢を相具し打ち立つ所なり。式部の丞を以て北国に差し向ける。この趣早く一家の人々に相触れ[74]、向かうべきなりてえり。

*旧字を新字に改めてあります。

【注釈】

[21]飛脚:ひきゃく=馬または徒歩で書類や金銀などの小荷物を運送する脚夫。 
[22]勅喚:ちょっかん=天皇の命令によって呼び出されること。 
[23]未の刻:ひつじのこく=現在の午後二時頃。また、その前後二時間。 
[24]弓場殿:ゆみばどの=宮中で行なわれる射技に天皇が臨席する建物。いばどの。ゆばどの。 
[25]召し籠めらる:めしこめらる=閉じ込められる。押し込められる。 
[26]午の刻:うまのこく=現在の午前12時を中心とした前後2時間。 
[27]按察使:あぜち=地方行政監察官。 
[28]右京兆:うけいちょう=右京職、右京大夫の唐名だが、ここでは北条義時こと。 
[29]宣旨:せんじ=天皇の命令を下達するとき出された文書。 
[30]五幾七道:ごきしちどう=山城、大和、河内、和泉、摂津の五か国(畿内)と、東海、東山、北陸、山陰、山陽、南海、西海の七道。また、日本全国の意。 
[31]註進状:ちゅうしんじょう=古文書の形式の一つで、事物の明細を記して上部機関に提出する文書。勘録状。 
[32]二品亭:にほんてい=二位家政子の屋敷。 
[33]御堂御所:みどうごしょ=勝長寿院内の御所。 
[34]披閲:ひえつ=書状などをひらいて調べて見ること。ひらいて念入りに見ること。 
[35]勅定:ちょくじょう=天皇がみずから定めたこと。また、天皇の命令。勅命。 
[36]勲功:くんこう=国家や君主に尽くした功績。また、その功績に対する褒美。 
[37]同心:どうしん=ともに事にあたること。協力すること。また、味方すること。加勢すること。 
[38]無二:むに=ふたごころのないこと。裏切る心を持たないこと。 
[39]抽んず:ぬきんず=卓越した働きをする。志を人一倍あらわす。 
[40]卜筮:ぼくぜい=卜や筮でうらなうこと。うらない。 
[41]已下:いか=それを始めとしてそれ以外のもの。 
[42]二品:にほん=従二位の政子のこと。 
[43]簾下:れんか=御簾のもと。  
[44]秋田城の介景盛:あきたじょうのすけかげもり=安達景盛のこと。  
[45]故右大将軍:こうだいしょうぐん=源頼朝のこと。 
[46]関東を草創:かんとうをそうそう=鎌倉幕府を開いたこと。 
[47]その恩:そのおん=源頼朝の恩。 
[48]溟渤:めいぼつ=大海。果てしなく広い海。 
[49]報謝の志:ほうしゃのこころざし=源頼朝の恩に報いる気持ち。  
[50]讒:ざん=事実でないことを言って他人をおとしいれること。また、そのことば。 
[51]綸旨:りんじ=天皇の命を受けて蔵人が発行する文書。ここでは、北条義時追放令。 
[52]名を惜しむの族:なをおしむのやから=名誉を重んじる人々。 
[53]秀康:ひでやす=北面の武士藤原秀康のこと。  
[54]胤義:たねよし=大番役勤仕のため在京中の三浦胤義のこと。 
[55]遺跡:ゆいせき=先人ののこした領地・官職など。ここでは、鎌倉幕府を指す。 
[56]全うすべし:まっとうすべし=守り抜くこと。 
[57]涙に溺れ:なみだにおぼれ=涙があふれ。 
[58]酬恩:しゅうおん=恩に報いること。 
[59]天気:てんき=天皇の機嫌。天機。 
[60]舞姫亀菊:まいひめかめぎく=京都の白拍子で、後鳥羽上皇の寵姫であった伊賀局のこと。 
[61]院宣:いんぜん=院司が上皇や法皇の意志を奉じて出す奉書。 
[62]定補:じょうほ=きまってその職に任ずること。 
[63]雑怠:ざったい=特別な不納。 
[64]逆鱗:げきりん=天皇が怒ること。天皇が立腹すること。天皇の怒り。 
[65]晩鐘:ばんしょう=夕方に鳴らす、寺院・教会などの鐘。暮れの鐘。 
[66]意見区々なり:いけんくくなり=意見が色々であった。意見がまちまちであった。 
[67]一旦然るべし:いったんしかるべし=一つの方法であろう。一つの理屈であろう。一つの考えであろう。 
[68]一揆:いっき=おのおのの心を一つにすること。行動を共にすること。一致団結。一味同心。 
[69]日を渉る:ひをわたる=ある日数・期間とぎれずに引き続く。 
[70]天道:てんどう=自然に定まっている道理。天然自然の道理。天の道。天理。 
[71]発遣:はっけん=送りつかわすこと。さしむけること。派遣。差遣。 
[72]参洛:さんらく=地方から都へのぼること。上洛。 
[73]京兆奉書:けいちょうほうしょ=右京兆の下達文書、つまり北条義時の命令書。 
[74]相触れ:あいふれ=広く告げ知らせる。言いふらす。
 
<現代語訳> 

 承久3年(1221年)5月大19日壬寅。大夫尉伊賀光季が先日の15日に出した飛脚が関東へ着いた。報告によると、「最近、院の御所に軍隊を招集されている。それで、前の民部少輔源大江親広は、召喚に従った。光季は右大将西園寺公経のお言葉を聞いていたから、差し障りがあるといったので、後鳥羽院のお叱りを受けそうな形勢だ。」と。 
 午後2時頃、右大将西園寺公経の執事の主税頭三善長衡の先日15日に出した飛脚が到着した。報告によると、「昨日幕下西園寺公経と中納言西園寺実氏は、二位法印尊長に院の命で、弓場殿に閉じ込められた。15日の昼頃に、政府軍を派遣して伊賀光季が攻め殺された。すぐに、按察使葉室光親に命じて、義時を滅ぼせとの院の命令を畿内五ヶ国や七街道に行かせた。」と。 
 関東分の院の命令書が今日同じ様に到着すると。そこで、持って来た人を捜索したところ、葛西谷の山里殿の辺りからこれを見つけて連れてきた。押松丸という名だと。所持している院の命令書ならびに大監物源光行の添え状、同じく関東武士が上皇へ部下として参上した名簿などを取り上げ、二位家政子の屋敷〔勝長寿院内の御所という〕で開いて見た。 
 また、同じ時に三浦九郎廷尉胤義の私的な手紙が駿河前司三浦義村のもとへ到着した。この内容も「朝廷の命令に従って義時を征伐すべし。褒美は望みに任せるの由。」と仰せられているとのことが書かれていた。義村は返事を出さず、その使者を追い返し、その書状を持参して義時の所へ来ていった。「私は、弟の反逆には味方しない。義時に対して二心のない忠節を誓うべきの由。」と。 
 その後、陰陽師の安陪親職・泰貞・清原宣賢・安陪晴吉などを招いて、今日の昼の時刻〔初めて飛脚が到着した時間〕を占わせた。「関東は無事である由。」と、一同が同様の答えだった。 
 相州時房・武州泰時・大官令入道大江広元・前武州足利義氏を始め、みなが集まってきた。二位家政子は、御家人達を御簾の前に呼んで、秋田城介景盛を通して、皆に言うことには、 
 「みなさん、心を一つにして聞いて下さい。これは私の最後の言葉です。頼朝様が朝敵(木曽義仲や平氏のこと)を亡ぼして関東に武士の政権を創ってから後、あなた方の官位は上がり、収入もずいぶん増えた。平家に仕えていた時には裸足で京まで行っていたあなたたちでしたが、京都へ行って無理に働かされることもなく、幸福な生活を送れるようになった。それもこれもすべては頼朝様のお陰だ。そしてその恩は山よりも高く海よりも深いものである。しかし、今その恩を忘れて天皇や上皇をだまし、私達を滅ぼそうとしている者があらわれた。名を惜しむ者は藤原秀康・三浦胤義らを討ち取り、三代将軍の恩に報いてほしい。もしこの中に朝廷側につこうと言う者がいるのなら、まずこの私を殺し、鎌倉中を焼きつくしてから京都へ行きなさい。」といった。 
 集まった侍たちは、全員命令に答えた。ただし、有難さに涙が流れ、言葉にならない者もいた。ただひたすらに、命をなげうち恩に答えようと思った。まさにこれこそ、「忠義な者は国が危うい時にこそ出てくる」とはこれをいうのだと。 
 そもそも、武士が朝廷に反抗する原因は、(後鳥羽上皇寵愛の)舞姫の菊女(伊賀局)の申し出によって、摂津国長江庄・倉橋庄の地頭(義時)を廃止するように、二度もいって来たが、義時は承知しなかった。それは「頼朝様が手柄として与えられた領地は、特別な不納がない限り変更はしないとお決めになっている。」と申し出たので、上皇のお怒りはすさまじいものとなったのだ。 
 夕暮れの鐘が鳴る頃になって、義時の屋敷に相州時房・武州泰時・大江広元・駿河前司三浦義村・城介入道安達景盛等が会議を開いた。意見は色々であった。やはり、足柄峠と箱根山の道の関所を固めて待つべきなのだろうとのこと。大江広元が「みなの議論の趣では、それも一つの方法であろう。しかし、関東武士が一致団結していても、関所を守るのは長い期間となるので、やがてだれて敗北の要因となってしまう。運を天に任せ、早く軍勢を京都へ向けて発進しよう。」といった。 
 義時は、この二案を持って二位家政子のところに行った。二位家政子がいうには、「京都へ行かなければ、朝廷軍を破れないではないか。安保刑部丞実光を始めとする武蔵国の軍勢を待って、速やかに京都へ出発しなさい。」と申された。 
 その命令によって、京都へ上るために、今日、遠江・伊豆・甲斐・相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸・信濃・上野・下野・陸奥・出羽などの国々へ義時の命令書を持って行かせた。一族等を引き連れて来るよう、家長に命じた。その書状の内容は、 
 京都から関東を襲ってくると聞いたので、相模権守北条時房と武蔵守北条泰時が、軍勢を引き連れて出発するところだ。式部丞北条朝時を大将に北陸周りで行く。この内容を早く一族の人々に伝えて、一緒に向いなさい。

☆承久の乱関係略年表(日付は旧暦です) 

<承久元年(1219年)>
・1月27日 第3代将軍源実朝が公暁に暗殺される

<承久3年(1221年)> 
・4月 順徳天皇は皇子の仲恭天皇に譲位し、父後鳥羽上皇の討幕計画に協力する 
・5月14日 後鳥羽上皇は「流鏑馬揃え」を口実に諸国の兵を集め、北面・西面武士や近国の武士、大番役の在京の武士1700余騎が集め、幕府を支持した西園寺公経を捕らえる 
・5月15日 京方の藤原秀康・近畿6か国守護大内惟信率いる800騎が伊賀光季邸を襲撃、光季は討死したが、変事を鎌倉に知らせた。執権北条義時追討の宣旨を出す 
・5月19日 幕府へ西園寺公経の家司三善長衡と伊賀光季からの上皇挙兵の急報が届けられる 
・5月21日 院近臣でありながら挙兵に反対していた一条頼氏が鎌倉に逃れてくる 
・5月22日 幕府の軍勢を東海道、東山道、北陸道の三方から京へ向けて派遣する 
・6月5日 甲斐源氏の武田信光・小笠原長清率いる東山道軍5万騎は大井戸渡に布陣する大内惟信、高桑大将軍が率いる京方2000騎を撃破する
・6月6日 泰時、時房の率いる主力の東海道軍10万騎が尾張川を渡河し、墨俣の陣に攻めかかった時にはもぬけの殻、山田重忠のみが杭瀬川で奮戦するが、京方は総崩れになり、大敗を喫す 
・6月13日 京方と幕府軍が宇治川で衝突、京方は宇治川の橋を落とし、雨のように矢を射かけ必死に防戦する 
・6月14日 佐々木信綱を先頭として強引に敵前渡河し、多数の溺死者を出しながらも敵陣の突破に成功、京方は潰走する 
・6月15日 幕府軍は京都に攻め入り、上皇方の敗北で終わる 
・7月9日 泰時によって、後鳥羽上皇は隠岐島に配流される 
・7月21日 順徳上皇は都を離れて佐渡へ配流となる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1560年(永禄3)桶狭間の戦いで、織田信長が今川義元を急襲して討ち取る(新暦6月12日)詳細
1565年(天文15)室町幕府第13代将軍足利義輝が松永久秀に攻められ自害する(新暦6月17日)詳細
1636年(寛永13)江戸幕府により「寛永十三年五月令」(第四次鎖国令)が出される(新暦6月22日)詳細
1877年(明治10)詩人・随筆家薄田泣菫の誕生日詳細
1946年(昭和21)東京の皇居前広場で食糧メーデー(飯米獲得人民大会)が開催される詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

shinkokinshyuu001
 今日は、鎌倉時代の1205年(元久2)に、『新古今和歌集』が一応成立し竟宴が開かれた日ですが、新暦では4月16日となります。
 『新古今和歌集』(しんこきんわかしゅう)は、鎌倉時代初期に編纂された、第八の勅撰和歌集(八代集の最後)で、『万葉集』(万葉調)、『古今和歌集』(古今調)と並んで、古典和歌様式の一つの頂点「新古今調」を形成しました。制作については、1201年(建仁元)に、後鳥羽上皇の院宣により和歌所を設置、その寄人のうち源通具、藤原有家、藤原定家、藤原家隆、藤原 (飛鳥井) 雅経、寂蓮の6人が撰者とされます。
 しかし、寂蓮は途中で亡くなったので、他の5人により撰歌、部類が進められ、1205年(元久2年3月26日)に一応成立し竟宴が開かれたものの、上皇の意志で、1210年(承元4年9月)頃まで改訂 が行われました。全二十巻で、巻頭に仮名序(藤原良経)、巻尾に真名序(藤原親経)を付し、春・夏・秋・冬・賀・哀傷・離別・羇旅・恋・雑・神祇・釈教に12分類されています。
 『万葉集』以来の歴代歌人による1,979首(流布本)が収められ、優雅で華美な情趣、技巧的・象徴的手法が特色とされ、とりわけ、御子左家を中心とする新風和歌を中核におき、「本歌取り」の技法が多用され、「幽玄体」と称された感覚的な象徴美が追求されました。出典としては、1201年(建仁元)の「千五百番歌合」、1248年(宝治2)の「後嵯峨院百首」、1216年(建保4)の「後鳥羽院百首」、1261年(弘長元)以後の「弘長百首」などで、作者別収載歌数は、多い方から西行(94首)、慈円(92首)、藤原良経(79首)、藤原俊成( 72首)、式子内親王(49首)、藤原定家(46首)となっています。

<収載されている代表的な歌>
「空はなほ 霞みもやらず 風さえて 雪げに曇る 春の夜の月」(藤原良経)
「志賀の浦や 遠ざかりゆく 浪間より 氷りて出づる 有明の月」(藤原家隆)
「帰るさの 物とや人の ながむらん 待つ夜ながらの 有明の月」(藤原定家)
「見わたせば 花ももみぢも なかりけり 浦のとまやの 秋の夕暮」(藤原定家)

〇勅撰和歌集(ちょくせんわかしゅう)とは? 

 天皇の綸旨や上皇・法皇の院宣下命に基づいて編集、奏覧された和歌集のことです。醍醐天皇の勅命によって編纂され、905年(延喜5)に奏上された『古今和歌集』に始まり、1439年(永享11)成立の『新続古今和歌集』までの534年間で21があり、総称して「二十一代集」と呼ばれました。
 初めの3集(『古今和歌集』・ 『後撰和歌集』・『拾遺和歌集』)を三代集、8集(『古今和歌集』から『新古今和歌集』)までを八代集、残り13集(『新勅撰集』から『新続古今和歌集』)を十三代集ともいいます。平安時代から鎌倉時代初期にかけて最も盛んでしたが、次第に衰え、室町時代に入って跡が絶えました。尚、14世紀末に南朝側で編纂された『新葉和歌集』は準勅撰和歌集とされています。
 勅撰集を作成するには、まず撰和歌所を設置し、勅撰の下命があり、撰者の任命がされました。その後、資料が集成され、撰歌と部類配列が行われ、加除訂正の後、目録や序が作成それて清書されます。そして、奏覧され、祝賀の竟宴という過程によって行われました。
 収載されたのは、ほとんどが短歌でしたが、わずかに長歌、旋頭歌、連歌を加えた集もあります。巻数は最初の『古今和歌集』の20巻が継承されましたが、『金葉和歌集』と『詞花和歌集』は10巻となっています。部立(歌の種類別区分の仕方)は各集ごとに小異がありますが、基本的には、最初の『古今和歌集』の部立が受け継がれました。
 勅撰集に歌が選ばれるのは、歌人にとって最高の名誉とされ、和歌を発達させた文学史的意義は大きいとされています。

☆「二十一代集」(勅撰和歌集)一覧

1.『古今和歌集』905年成立(醍醐天皇下命・紀友則、紀貫之、凡河内躬恒、壬生忠岑撰)20巻・1,100首
2.『後撰和歌集』957-959年成立(村上天皇下命・大中臣能宣、清原元輔、源順、紀時文、坂上望城撰)20巻・1,425首
3.『拾遺和歌集』1005-07年成立(花山院下命・花山院、藤原公任撰)20巻・1,351首
4.『後拾遺和歌集』1086年成立(白河天皇下命・藤原通俊撰)20巻・1,218首
5.『金葉和歌集』1126年(三奏本)成立(白河院下命・源俊頼撰)10巻・650首(三奏本)
6.『詞花和歌集』1151年頃成立(崇徳院下命・藤原顕輔撰)10巻・415首
7.『千載和歌集』1188年成立(後白河院下命・藤原俊成撰)20巻・1,288首
8.『新古今和歌集』1205年成立(後鳥羽院下命・源通具、藤原有家、藤原定家、藤原家隆、飛鳥井雅経、寂蓮撰)20巻・1,978首
9.『新勅撰和歌集』1235年成立(後堀河天皇下命・藤原定家撰)20巻・1,374首
10.『続後撰和歌集』1251年成立(後嵯峨院下命・藤原為家撰)20巻・1,371首
11.『続古今和歌集』1265年成立(後嵯峨院下命・藤原為家、藤原基家、藤原行家、藤原光俊、藤原家良撰)20巻・1,915首
12.『続拾遺和歌集』1278年成立(亀山院下命・二条為氏撰)20巻・1,459首
13.『新後撰和歌集』1303年成立(後宇多院下命・二条為世撰)20巻・1,607首
14.『玉葉和歌集』1312年成立(伏見院下命・京極為兼撰)20巻・2,800首
15.『続千載和歌集』1320年成立(後宇多院下命・二条為世撰)20巻・2,143首
16.『続後拾遺和歌集』1326年成立(後醍醐天皇下命・二条為藤、二条為定撰)20巻・1,353首
17.『風雅和歌集』1349年成立(花園院監修下命・光厳院撰)20巻・2,211首
18.『新千載和歌集』1359年成立(後光厳天皇下命・二条為定撰)20巻・2,365首
19.『新拾遺和歌集』1364年成立(後光厳天皇下命・二条為明、頓阿撰)20巻・1,920首
20.『新後拾遺和歌集』1384年成立(後円融天皇下命・二条為遠、二条為重撰)20巻・1,554首
21.『新続古今和歌集』1439年成立(後花園天皇下命・飛鳥井雅世撰)20巻・2,144首
準.『新葉和歌集』1381年成立(長慶天皇下命・宗良親撰)20巻・1,426首

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1489年(長享3)室町幕府第9代将軍足利義尚の命日(新暦4月26日)詳細
1925年(大正14)「衆議院議員選挙法」の全面改正(通称:普通選挙法)が貴族院を通過成立する詳細
1935年(昭和10)小説家与謝野寛(鉄幹)の命日詳細
1962年(昭和37)小説家・詩人室生犀星の命日詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

jyoukyuunoran01

 今日は、鎌倉時代の1221年(承久3)に、鎌倉幕府倒幕の為、後鳥羽上皇が近隣諸国の武士1,700騎を結集、承久の乱が始まった日ですが、新暦では6月5日となります。
 承久の乱(じょうきゅうのらん)は、後鳥羽上皇とその近臣たちが鎌倉幕府討滅の兵を挙げたものの、逆に敗れた兵乱のことでした。1221年(承久3)4月に、順徳天皇は皇子の仲恭天皇に譲位し、父後鳥羽上皇の討幕計画に協力を示し、5月14日に後鳥羽上皇は「流鏑馬揃え」を口実に諸国の兵を集め、北面・西面武士や近国の武士、大番役の在京の武士1700余騎が集め、幕府を支持した西園寺公経を捕らえます。
 翌15日に京方の藤原秀康・近畿6か国守護大内惟信率いる800騎が伊賀光季邸を襲撃、光季は討死しましたが、変事を鎌倉に知らせました。この時に、執権北条義時追討の宣旨が出されましたが、5月19日に幕府へ西園寺公経の家司三善長衡と伊賀光季からの上皇挙兵の急報が届けられ、北条政子が御家人たちを集めて、鎌倉創設以来の頼朝の恩顧を訴え、その団結を図ります。
 そして、幕府側は遠江以東15ヶ国の兵を集め、5月22日に東海道は北条泰時・時房、東山道は武田信光・小笠原長清、北陸道は北条朝時・結城朝広らを大将軍として、三道から攻め上がりました。6月5日に東山道軍5万騎は大井戸渡に布陣する大内惟信、高桑大将軍が率いる京方2000騎を撃破、6月6日には主力の東海道軍10万騎が尾張川を渡河し、墨俣の陣に攻めかかり、山田重忠のみが杭瀬川で奮戦するものの、京方は総崩れになり、大敗を喫します。
 6月13日に京方と幕府軍が宇治川で衝突、京方は宇治川の橋を落とし、必死に防戦しましたが、翌14日に佐々木信綱を先頭として強引に敵前渡河し、多数の溺死者を出しながらも敵陣の突破に成功、京方は潰走し、15日には幕府軍は京都に攻め入り、京方の敗北で終わりました。その結果、後鳥羽上皇は隠岐島、土御門上皇は土佐国、順徳上皇は佐渡島に配流、上皇方の公家・武士の所領は没収されています。また、新補地頭の設置、朝廷監視のため六波羅探題の設置などにより、公家勢力の権威は著しく失墜し、鎌倉幕府の絶対的優位が確立しました。
 以下に、承久の乱の始まりを記した、『吾妻鏡』第二十五巻の承久三年辛巳五月十九日壬寅条を掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇承久の乱関係略年表(日付は旧暦です)

<1219年(承久元)>
・1月27日 第3代将軍源実朝が公暁に暗殺される

<承久3年(1221年)>
・4月 順徳天皇は皇子の仲恭天皇に譲位し、父後鳥羽上皇の討幕計画に協力する
・5月14日 後鳥羽上皇は「流鏑馬揃え」を口実に諸国の兵を集め、北面・西面武士や近国の武士、大番役の在京の武士1700余騎が集め、幕府を支持した西園寺公経を捕らえる
・5月15日 京方の藤原秀康・近畿6か国守護大内惟信率いる800騎が伊賀光季邸を襲撃、光季は討死したが、変事を鎌倉に知らせた。執権北条義時追討の宣旨を出す
・5月19日 幕府へ西園寺公経の家司三善長衡と伊賀光季からの上皇挙兵の急報が届けられる
・5月21日 院近臣でありながら挙兵に反対していた一条頼氏が鎌倉に逃れてくる
・5月22日 幕府の軍勢を東海道、東山道、北陸道の三方から京へ向けて派遣する
・6月5日 甲斐源氏の武田信光・小笠原長清率いる東山道軍5万騎は大井戸渡に布陣する大内惟信、高桑大将軍が率いる京方2000騎を撃破する
・6月6日 泰時、時房の率いる主力の東海道軍10万騎が尾張川を渡河し、墨俣の陣に攻めかかった時にはもぬけの殻、山田重忠のみが杭瀬川で奮戦するが、京方は総崩れになり、大敗を喫す
・6月13日 京方と幕府軍が宇治川で衝突、京方は宇治川の橋を落とし、雨のように矢を射かけ必死に防戦する
・6月14日 佐々木信綱を先頭として強引に敵前渡河し、多数の溺死者を出しながらも敵陣の突破に成功、京方は潰走する
・6月15日 幕府軍は京都に攻め入り、上皇方の敗北で終わる
・7月9日 泰時によって、後鳥羽上皇は隠岐島に配流される
・7月21日 順徳上皇は都を離れて佐渡へ配流となる

〇『吾妻鏡』第二十五巻 承久三年辛巳五月十九日壬寅条

<原文>

承久三年五月大十九日壬寅。大夫尉光季去十五日飛脚下着關東。申云。此間。院中被召聚官軍。仍前民部少輔親廣入道昨日應勅喚。光季依聞右幕下〔公經〕告。申障之間。有可蒙勅勘之形勢云々。未刻。右大將家司主税頭長衡去十五日京都飛脚下着。申云。昨日〔十四〕幕下并黄門〔實氏〕仰二位法印尊長。被召籠弓塲殿。十五日午刻。遣官軍被誅伊賀廷尉。則勅按察使光親卿。被下右京兆追討宣旨於五畿七道之由云々。關東分宣旨御使。今日同到着云々。仍相尋之處。自葛西谷山里殿邊召出之。稱押松丸〔秀康所從云々〕。取所持宣旨并大監物光行副状。同東士交名註進状等。於二品亭〔号御堂御所〕披閲。亦同時廷尉胤義〔義村弟〕。私書状到着于駿河前司義村之許。是應勅定可誅右京兆。於勳功賞者可依請之由。被仰下之趣載之。義村不能返報。追返彼使者。持件書状。行向右京兆之許云。義村不同心弟之叛逆。於御方可抽無二忠之由云々。其後招陰陽道親職。泰貞。宣賢。晴吉等。以午刻〔初飛脚到來時也〕有卜筮。關東可屬太平之由。一同占之。相州。武州。前大官令禪門。前武州以下群集。二品招家人等於簾下。以秋田城介景盛。示含曰。皆一心而可奉。是最期詞也。故右大將軍征罸朝敵。草創關東以降。云官位。云俸祿。其恩既高於山岳。深於溟渤。報謝之志淺乎。而今依逆臣之讒。被下非義綸旨。惜名之族。早討取秀康。胤義等。可全三代將軍遺跡。但欲參院中者。只今可申切者。群參之士悉應命。且溺涙申返報不委。只輕命思酬恩。寔是忠臣見國危。此謂歟。武家背天氣之起。依舞女龜菊申状。可停止攝津國長江。倉橋兩庄地頭職之由。二箇度被下 宣旨之處。右京兆不諾申。是幕下將軍時募勳功賞定補之輩。無指雜怠而難改由申之。仍逆鱗甚故也云々。晩鐘之程。於右京兆舘。相州。武州。前大膳大夫入道。駿河前司。城介入道等凝評議。意見區分。所詮固關足柄。筥根兩方道路可相待之由云々。大官令覺阿云。群議之趣。一旦可然。但東士不一揆者。守關渉日之條。還可爲敗北之因歟。任運於天道。早可被發遣軍兵於京都者。右京兆以兩議。申二品之處。二品云。不上洛者。更難敗官軍歟。相待安保刑部丞實光以下武藏國勢。速可參洛者。就之。爲令上洛。今日遠江。駿河。伊豆。甲斐。相摸。武藏。安房。上総。下総。常陸。信濃。上野。下野。陸奥。出羽等國々。飛脚京兆奉書。可相具一族等之由。所仰家々長也。其状書樣。
  自京都可襲坂東之由。有其聞之間。相摸權守。武藏守相具御勢。所打立也。以式部丞差向北國。此趣早相觸一家人々。可向者也。

<読み下し文>

承久三年(1221)五月大十九日壬寅。大夫の尉光季去る十五日の飛脚関東に下着す。申して云く、この間院中に官軍を召聚めらる。仍って前の民部少輔親廣入道、昨日勅喚に応ず。光季は右幕下(公経)の告げを聞くに依って障りを申すの間、勅勘を蒙るべきの形勢有りと。未の刻右大将家司主税の頭長衡去る十五日の京都の飛脚下着す。申して云く、昨日(十四日)、幕下並びに黄門(實氏)、二位法印尊長に仰せ、弓場殿に召し籠めらる。十五日午の刻、官軍を遣わし伊賀廷尉を誅せらる。則ち按察使光親卿に勅し、右京兆追討の宣旨を五幾七道に下さるるの由と。関東分宣旨の御使は、今日同じく到着すと。仍って相尋ねるの処、葛西谷山里殿の辺よりこれを召し出す。押松丸(秀康所従)と称すと。
所持の宣旨並びに大監物光行の副状、同じく東士の交名註進状等を取り、二品亭(御堂御所と号す)に於いて披閲す。また同時廷尉胤義(義村弟)の私書状、駿河の前司義村の許に到着す。これ勅定に応じ右京兆を誅すべし。勲功の賞に於いては請いに依るべきの由、仰せ下さるるの趣これを載す。義村返報に能わず。彼の使者を追い返し、件の書状を持ち、右京兆の許に行き向かいて云く、義村弟の叛逆に同心せず。御方に於いて無二の忠を抽んずべきの由と。
その後陰陽道親職・泰貞・宣賢・晴吉等を招き、午の刻(初めの飛脚到来の時なり)を以て卜筮有り。関東太平に属くべきの由、一同これを占う。相州・武州・前の大官令禅門・前の武州已下群集す。二品家人等を簾下に招き、秋田城の介景盛を以て示し含めて曰く、皆心を一にして奉るべし。これ最期の詞なり。故右大将軍朝敵を征罰し、関東を草創してより以降、官位と云い俸禄と云い、その恩既に山岳より高く、溟渤より深し。報謝の志これ浅からんか。而るに今逆臣の讒に依って、非義の綸旨を下さる。
名を惜しむの族は、早く秀康・胤義等を討ち取り、三代将軍の遺跡を全うすべし。但し院中に参らんと欲する者は、只今申し切るべしてえり。群参の士悉く命に応じ、且つは涙に溺れ返報を申すこと委しからず。ただ命を軽んじ酬恩を思う。寔にこれ忠臣国の危うきを見るとは、この謂われか。武家天気に背くの起こりは、舞女亀菊の申状に依って、摂津の国長江・倉橋両庄の地頭職を停止すべきの由、二箇度院宣を下さるるの処、右京兆諾し申さず。これ幕下将軍の時、勲功の賞に募り定補するの輩、指せる雑怠無くして改め難きの由これを申す。仍って逆鱗甚だしきが故なりと。
晩鐘の程、右京兆の舘に於いて、相州・武州・前の大膳大夫入道・駿河の前司・城の介入道等評議を凝らす。意見区々なり。所詮関を固め足柄・箱根両方の道路に相待つべきの由と。大官令覺阿云く、群議の趣、一旦然るべし。但し東士一揆せずんば、関を守り日を渉るの條、還って敗北の因たるべきか。運を天道に任せ、早く軍兵を京都に発遣せらるべしてえり。右京兆両議を以て二品に申すの処、二品云く、上洛せずんば、更に官軍を敗り難からんか。安保刑部の丞實光以下武蔵の国の勢を相待ち、速やかに参洛すべしてえり。これに就いて上洛せしめんが為、今日遠江・駿河・伊豆・甲斐・相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸・信濃・上野・下野・陸奥・出羽等国々の飛脚、京兆奉書に、一族等を相具すべきの由、家々の長に仰す所なり。その状の書き様、
 京都より坂東を襲うべきの由その聞こえ有るの間、相模の守・武蔵の守御勢を相具し打ち立つ所なり。式部の丞を以て北国に差し向ける。この趣早く一家の人々に相触れ、向かうべきなりてえり。

<現代語訳>

 承久3年(1221年)5月大19日壬寅。大夫尉伊賀光季が先日の15日に出した飛脚が関東へ着いた。報告によると、「最近、院の御所に軍勢を招集されている。それで、前の民部少輔源大江親広は、召喚に従った。光季は右大将西園寺公経のお言葉を聞いていたから、差し障りがあるといったので、後鳥羽院のお叱りを受けそうな形勢だ。」と。
 午後2時頃、右大将西園寺公経の執事の主税頭三善長衡の先日15日に出した飛脚が到着した。報告によると、「昨日幕下西園寺公経と中納言西園寺実氏は、二位法印尊長に院の命で、弓場殿に閉じ込められた。15日の昼頃に、政府軍を派遣して伊賀光季が攻め殺された。すぐに、按察使葉室光親に命じて、義時を滅ぼせとの院の命令を畿内五ヶ国や七街道に行かせた。」と。
 関東分の院の命令書が今日同じ様に到着すると。そこで、持って来た人を捜索したところ、葛西谷の山里殿の辺りからこれを見つけて連れてきた。押松丸という名だと。所持している院の命令書ならびに大監物源光行の添え状、同じく関東武士が上皇へ部下として参上した名簿などを取り上げ、二位家政子の屋敷〔勝長寿院内の御所という〕で開いて見た。
 また、同じ時に三浦九郎廷尉胤義の私的な手紙が駿河前司三浦義村のもとへ到着した。この内容も「朝廷の命令に従って義時を征伐すべし。褒美は望みに任せるの由。」と仰せられているとのことが書かれていた。義村は返事を出さず、その使者を追い返し、その書状を持参して義時の所へ来ていった。「私は、弟の反逆には味方しない。義時に対して二心のない忠節を誓うべきの由。」と。
 その後、陰陽師の安陪親職・泰貞・清原宣賢・安陪晴吉などを招いて、今日の昼の時刻〔初めて飛脚が到着した時間〕を占わせた。「関東は無事である由。」と、一同が同様の答えだった。
 相州時房・武州泰時・大官令入道大江広元・前武州足利義氏を始め、みなが集まってきた。二位家政子は、御家人達を御簾の前に呼んで、秋田城介景盛を通して、皆に言うことには、
 「みなさん、心を一つにして聞いて下さい。これは私の最後の言葉です。頼朝様が朝敵(木曽義仲や平氏のこと)を亡ぼして関東に武士の政権を創ってから後、あなた方の官位は上がり、収入もずいぶん増えた。平家に仕えていた時には裸足で京まで行っていたあなたたちでしたが、京都へ行って無理に働かされることもなく、幸福な生活を送れるようになった。それもこれもすべては頼朝様のお陰だ。そしてその恩は山よりも高く海よりも深いものである。しかし、今その恩を忘れて天皇や上皇をだまし、私達を滅ぼそうとしている者があらわれた。名を惜しむ者は藤原秀康・三浦胤義らを討ち取り、三代将軍の恩に報いてほしい。もしこの中に朝廷側につこうと言う者がいるのなら、まずこの私を殺し、鎌倉中を焼きつくしてから京都へ行きなさい。」といった。
 集まった侍たちは、全員命令に答えた。ただし、有難さに涙が流れ、言葉にならない者もいた。ただひたすらに、命をなげうち恩に答えようと思った。まさにこれこそ、「忠義な者は国が危うい時にこそ出てくる」とはこれをいうのだと。
 そもそも、武士が朝廷に反抗する原因は、(後鳥羽上皇寵愛の)舞姫の菊女(伊賀局)の申し出によって、摂津国長江庄・倉橋庄の地頭(義時)を廃止するように、二度もいって来たが、義時は承知しなかった。それは「頼朝様が手柄として与えられた領地は、特別な不納がない限り変更はしないとお決めになっている。」と申し出たので、上皇のお怒りはすさまじいものとなったのだ。
 夕暮れの鐘が鳴る頃になって、義時の屋敷に相州時房・武州泰時・大江広元・駿河前司三浦義村・城介入道安達景盛等が会議を開いた。意見は色々であった。やはり、足柄峠と箱根山の道の関所を固めて待つべきなのだろうとのこと。大江広元が「みなの議論の趣では、それも一つの方法であろう。しかし、関東武士が一致団結していても、関所を守るのは長い期間となるので、やがてだれて敗北の要因となってしまう。運を天に任せ、早く軍勢を京都へ向けて発進しよう。」といった。
 義時は、この二案を持って二位家政子のところに行った。二位家政子がいうには、「京都へ行かなければ、朝廷軍を破れないではないか。安保刑部丞実光を始めとする武蔵国の軍勢を待って、速やかに京都へ出発しなさい。」と申された。
 その命令によって、京都へ上るために、今日、遠江・伊豆・甲斐・相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸・信濃・上野・下野・陸奥・出羽などの国々へ義時の命令書を持って行かせた。一族等を引き連れて来るよう、家長に命じた。その書状の内容は、
 京都から関東を襲ってくると聞いたので、相模権守北条時房と武蔵守北条泰時が、軍勢を引き連れて出発するところだ。式部丞北条朝時を大将に北陸周りで行く。この内容を早く一族の人々に伝えて、一緒に向いなさい。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1227年(安貞元)鎌倉幕府第5代執権北条時頼の誕生日(新暦6月29日)詳細
1839年(天保10)蛮社の獄で、渡辺崋山高野長英らが処罰される詳細
1871年(明治4)神道を国家の宗祀と定める「神社の世襲神職を廃し精選補任の件」が布告される(新暦7月1日)詳細
1945年(昭和20)名古屋空襲で名古屋城が焼失する詳細
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

↑このページのトップヘ