
金ヶ崎の戦い(かねがさきのたたかい)は、南北朝時代の1336年(延元元/建武3)から翌年3月にかけて、越前国金ヶ崎城(現在の福井県敦賀市)に籠城する新田義貞率いる建武政権残党軍の軍勢と、それを攻撃する斯波高経率いる室町幕府・北朝方の軍勢との間で行われた戦いでした。金ヶ崎城は、中世の山城(標高86m)で、1336年(延元元/建武3)に、後醍醐天皇の命を受けた南朝方の新田義貞が皇太子恒良親王と皇子尊良親王を奉じて北陸路に向った際、気比氏治に迎えられて入城しましたが、北朝方の越前国守護斯波高経に包囲されます。
しかし、日本海に突出した岬の山上にあった堅固な要害だったため、攻めあぐね、兵糧攻めを行いました。翌年に足利尊氏は、高師泰を大将に各国の守護を援軍として派遣し、厳しく攻め立てます。新田義貞らは援軍を求めるため、二人の皇子と新田義顕らを残し、兵糧の尽きたこの城を脱出し、杣山城で態勢を立て直そうとしました。
その後、義貞は金ヶ崎城を救援しようとしますが途中で阻まれ、3月3日には北朝方が金ヶ崎城に攻め込みます。そのため、兵糧攻めによる飢餓と疲労で困憊していた城兵は次々と討ち取られて3月6日に落城、尊良親王は自害、新田一族の十余人、少納言一条行房ほかは殉死、恒良親王は脱出したものの、北朝方に捕らえられました。
尚、現在は城跡に恒良、尊良両親王を祀る金崎宮があり、月見御殿(本丸)跡、木戸跡、曲輪跡、堀切りなどが残り、1934年(昭和9)に国の史跡に指定されました。
金ヶ崎城落城の様子を『太平記』では以下のように描いています。
しかし、日本海に突出した岬の山上にあった堅固な要害だったため、攻めあぐね、兵糧攻めを行いました。翌年に足利尊氏は、高師泰を大将に各国の守護を援軍として派遣し、厳しく攻め立てます。新田義貞らは援軍を求めるため、二人の皇子と新田義顕らを残し、兵糧の尽きたこの城を脱出し、杣山城で態勢を立て直そうとしました。
その後、義貞は金ヶ崎城を救援しようとしますが途中で阻まれ、3月3日には北朝方が金ヶ崎城に攻め込みます。そのため、兵糧攻めによる飢餓と疲労で困憊していた城兵は次々と討ち取られて3月6日に落城、尊良親王は自害、新田一族の十余人、少納言一条行房ほかは殉死、恒良親王は脱出したものの、北朝方に捕らえられました。
尚、現在は城跡に恒良、尊良両親王を祀る金崎宮があり、月見御殿(本丸)跡、木戸跡、曲輪跡、堀切りなどが残り、1934年(昭和9)に国の史跡に指定されました。
金ヶ崎城落城の様子を『太平記』では以下のように描いています。
〇『太平記』金崎城落事(巻第十八)
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瓜生・宇都宮不斜悦て、今一度金崎へ向て、先度の恥を雪め城中の思を令蘇せと、様々思案を回しけれども、東風漸閑に成て山路の雪も村消ければ、国々の勢も寄手に加て兵十万騎に余れり。義貞の勢は僅に五百余人、心許は猛けれ共、馬・物具も墓々しからねば、兎やせまし角やせましと身を揉で、二十日余りを過しける程に、金崎には、早、馬共をも皆食尽して、食事を断つ事十日許に成にければ、軍勢共も今は手足もはたらかず成にけり。爰に大手の攻口に有ける兵共、高越後守が前に来て、「此城は如何様兵粮に迫りて馬をばし食候やらん。初め比は城中に馬の四五十疋あるらんと覚へて、常に湯洗をし水を蹴させなんどし候しが、近来は一疋も引出す事も候はず。哀一攻せめて見候はばや。」と申ければ、諸大将、「可然。」と同じて、三月六日の卯刻に、大手・搦手十万騎、同時に切岸の下、屏際にぞ付たりける。城中の兵共是を防ん為に、木戸の辺迄よろめき出たれ共、太刀を仕ふべき力もなく、弓を挽べき様も無れば、只徒に櫓の上に登り、屏の陰に集て、息つき居たる許也。寄手共此有様を見て、「さればこそ城は弱りてけれ。日の中に攻落さん。」とて、乱杭・逆木を引のけ屏を打破て、三重に拵たる二の木戸迄ぞ攻入ける。由良・長浜二人、新田越後守の前に参じて申けるは、「城中の兵共数日の疲れに依て、今は矢の一をも墓々敷仕得候はぬ間、敵既に一二の木戸を破て、攻近付て候也。如何思食共叶べからず。春宮をば小舟にめさせ進せ、何くの浦へも落し進せ候べし。自余の人々は一所に集て、御自害有べしとこそ存候へ。 ・・・・・・・・