ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:後醍醐天皇

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 今日は、南北朝時代の1337年(延元2/建武4)に、金ヶ崎の戦いにおいて、越前国金ヶ崎城が落城し、恒良親王が捕われ尊良親王が自害、新田義貞が敗走した日ですが、新暦では4月7日となります。
 金ヶ崎の戦い(かねがさきのたたかい)は、南北朝時代の1336年(延元元/建武3)から翌年3月にかけて、越前国金ヶ崎城(現在の福井県敦賀市)に籠城する新田義貞率いる建武政権残党軍の軍勢と、それを攻撃する斯波高経率いる室町幕府・北朝方の軍勢との間で行われた戦いでした。金ヶ崎城は、中世の山城(標高86m)で、1336年(延元元/建武3)に、後醍醐天皇の命を受けた南朝方の新田義貞が皇太子恒良親王と皇子尊良親王を奉じて北陸路に向った際、気比氏治に迎えられて入城しましたが、北朝方の越前国守護斯波高経に包囲されます。
 しかし、日本海に突出した岬の山上にあった堅固な要害だったため、攻めあぐね、兵糧攻めを行いました。翌年に足利尊氏は、高師泰を大将に各国の守護を援軍として派遣し、厳しく攻め立てます。新田義貞らは援軍を求めるため、二人の皇子と新田義顕らを残し、兵糧の尽きたこの城を脱出し、杣山城で態勢を立て直そうとしました。
 その後、義貞は金ヶ崎城を救援しようとしますが途中で阻まれ、3月3日には北朝方が金ヶ崎城に攻め込みます。そのため、兵糧攻めによる飢餓と疲労で困憊していた城兵は次々と討ち取られて3月6日に落城、尊良親王は自害、新田一族の十余人、少納言一条行房ほかは殉死、恒良親王は脱出したものの、北朝方に捕らえられました。
 尚、現在は城跡に恒良、尊良両親王を祀る金崎宮があり、月見御殿(本丸)跡、木戸跡、曲輪跡、堀切りなどが残り、1934年(昭和9)に国の史跡に指定されました。
 金ヶ崎城落城の様子を『太平記』では以下のように描いています。

〇『太平記』金崎城落事(巻第十八)

 ・・・・・・・・
瓜生・宇都宮不斜悦て、今一度金崎へ向て、先度の恥を雪め城中の思を令蘇せと、様々思案を回しけれども、東風漸閑に成て山路の雪も村消ければ、国々の勢も寄手に加て兵十万騎に余れり。義貞の勢は僅に五百余人、心許は猛けれ共、馬・物具も墓々しからねば、兎やせまし角やせましと身を揉で、二十日余りを過しける程に、金崎には、早、馬共をも皆食尽して、食事を断つ事十日許に成にければ、軍勢共も今は手足もはたらかず成にけり。爰に大手の攻口に有ける兵共、高越後守が前に来て、「此城は如何様兵粮に迫りて馬をばし食候やらん。初め比は城中に馬の四五十疋あるらんと覚へて、常に湯洗をし水を蹴させなんどし候しが、近来は一疋も引出す事も候はず。哀一攻せめて見候はばや。」と申ければ、諸大将、「可然。」と同じて、三月六日の卯刻に、大手・搦手十万騎、同時に切岸の下、屏際にぞ付たりける。城中の兵共是を防ん為に、木戸の辺迄よろめき出たれ共、太刀を仕ふべき力もなく、弓を挽べき様も無れば、只徒に櫓の上に登り、屏の陰に集て、息つき居たる許也。寄手共此有様を見て、「さればこそ城は弱りてけれ。日の中に攻落さん。」とて、乱杭・逆木を引のけ屏を打破て、三重に拵たる二の木戸迄ぞ攻入ける。由良・長浜二人、新田越後守の前に参じて申けるは、「城中の兵共数日の疲れに依て、今は矢の一をも墓々敷仕得候はぬ間、敵既に一二の木戸を破て、攻近付て候也。如何思食共叶べからず。春宮をば小舟にめさせ進せ、何くの浦へも落し進せ候べし。自余の人々は一所に集て、御自害有べしとこそ存候へ。 ・・・・・・・・

            流布本『太平記』より

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

803年(延暦22)征夷大将軍・坂上田村麻呂に志波城の築城が命令される(新暦4月1日)詳細
1297年(永仁5)鎌倉幕府により「永仁の徳政令」が出される(新暦3月30日)詳細
1945年(昭和20)「国民徴用令」等5勅令を廃止・統合し、新たに「国民勤労動員令」が公布される詳細
1946年(昭和21)憲法改正過程において、日本政府より「憲法改正草案要綱」 が発表される詳細
2005年(平成17)新交通システムの一つで、日本初の実用磁気浮上式鉄道である、愛知高速交通東部丘陵線が開業する詳細
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 今日は、鎌倉時代の1324年(元亨4)に、六波羅探題が兵を遣し、鎌倉幕府討伐を企てた後醍醐天皇方の土岐頼兼、多治見國長らを殺害し、日野資朝・俊基を捕えた日(正中の変)ですが、新暦では10月7日となります。
 正中の変(しょうちゅうのへん)は、後醍醐天皇の鎌倉幕府討伐計画が発覚し、失敗した政変でした。1318年(文保2)に後醍醐天皇が第96代とされる天皇として即位しましたが、天皇親政を志して、院政を廃止し、日野資朝 、日野俊基、土岐頼兼、多治見国長らと討幕挙兵を計画します。
 近臣を地方に下して兵を集め、1324年(元亨4)に、六波羅探題を襲おうとしたものの、未然に密告によって発覚、9月19日に六波羅探題は兵を遣して、土岐頼兼、多治見国長らを京都で殺害し、日野資朝・俊基を捕えました。鎌倉幕府から工藤高景らが派遣され、10月4日には資朝・俊基を鎌倉へ護送します。
 天皇は、無関係であると釈明してことなきをえたものの、資朝が首謀者として、一人で罪を負い佐渡に配流され、俊基は許されて京都へ帰りました。この後、俊基は再度、1331年(元弘元)の元弘の変で、後醍醐天皇の倒幕の謀議に加わって、幕府に発覚し、首謀者として捕らえられ、鎌倉へ護送されて葛原岡で処刑され、後醍醐天皇は、翌年に隠岐島に配流されています。

〇後醍醐天皇(ごだいごてんのう)とは?

 建武の新政を行なった第96代とされる天皇です。鎌倉時代の1288年(正応元年11月2日)に、後宇多天皇(第91代天皇)の第2皇子(母は談天門院忠子)として生まれましたが、名は尊治(たかはる)と言いました。
 1302年(乾元元)に、親王宣下を受け、1303年(嘉元元)に三品に叙品、1304年(嘉元2)大宰帥となり、帥宮(そちのみや)と呼ばれます。1308年(延慶元)には、持明院統(当時皇統は大覚寺・持明院両統に分裂していた)の花園天皇(第95代天皇)の即位に伴って皇太子に立てられ、1318年(文保2)に花園天皇の譲位を受けて第96代天皇に即位しました。
 1321年(元亨元)から院政を廃して天皇親政を復活し、吉田定房、北畠親房らの人材を登用、記録所を再興するなど、政治改革に努力します。その中で、鎌倉幕府打倒を企て、1324年(元亨4)には、六波羅探題に漏れて、多数の側近が逮捕(正中の変)されました。
 さらに、1331年(元弘元)に、幕府に不満をもつ諸国の武士、寺社勢力などに蜂起を呼びかけたものの、幕府軍に包囲され捕らえられて、翌年隠岐島に配流(元弘の変)されます。1333年(元弘3/正慶2)に、名和長年らを頼って隠岐島から脱出し、伯耆船上山(現在の鳥取県東伯郡琴浦町)で挙兵、追討のため幕府から派遣された足利高氏(尊氏)が後醍醐方に寝返って、六波羅探題を攻略しました。
 一方、東国で挙兵した新田義貞は鎌倉を陥落させて北条氏を滅亡させます。京都に戻って、幕府の擁立した持明院統の光厳天皇を廃し、いわゆる「建武の新政」を行いますが、論功行賞が公家優先で、従来の所領の領有権に介入したり、皇居造営の臨時賦課を強行するなどして、地方武士の不満が急速に高まりました。
 これは、足利尊氏らの離反を招き、2年余で新政は瓦解し、1336年(建武3/延元元)に吉野に移り南朝を立て、以後南北朝併立時代に入ります。諸皇子を各地方に派遣し、地方武士の掌握に努めたものの、これもなかなかうまくいかず、吉野に従う公家も少数派となり、孤立が深まるなかで、1339年(延元4/暦応2)に後村上天皇に譲位しました。
 京都回復の夢を果たせぬまま、同年(延元4年8月16日)に、吉野において、数え年52歳で亡くなりました。

☆後醍醐天皇関係略年表(日付は旧暦です)

・1288年(正応元)11月2日 後宇多天皇(第91代天皇)の第2皇子(母は談天門院忠子)として生まれる
・1302年(乾元元) 親王宣下を受ける
・1303年(嘉元元) 三品に叙品する
・1304年(嘉元2) 大宰帥となり、帥宮(そちのみや)と呼ばれる
・1308年(延慶元) 持明院統の花園天皇(第95代天皇)の即位に伴って皇太子に立てられる
・1318年(文保2)2月26日 花園天皇の譲位を受けて第96代天皇に即位する
・1321年(元亨元) 院政を廃して天皇親政を復活する
・1324年(正中元) 討幕計画が六波羅探題に漏れて、多数の側近が逮捕される(正中の変)
・1329年(元徳2) 中宮の御産祈祷として密かに関東調伏の祈祷を行い、興福寺や延暦寺等の寺社に赴いて寺社勢力と接近する
・1330年(元徳2) 米価・酒価の公定、関所停止令を出す
・1331年(元弘元) 幕府に不満をもつ諸国の武士、寺社勢力などに蜂起を呼びかけたが、幕府軍に包囲され捕らえられる(元弘の変)
・1332年(元弘2) 隠岐島に配流される
・1333年(元弘3/正慶2) 名和長年らを頼って隠岐島から脱出し、伯耆船上山で挙兵する
・1333年(元弘3/正慶2)6月 京都に帰る
・1335年(建武2)7月 関東での北条時行の反乱(中先代の乱)を平定する
・1335年(建武2)10月 足利尊氏が後醍醐天皇に叛いて挙兵する
 ※南北朝の対立が始まる
・1336年(建武3/延元元)5月25日 湊川の戦いで後醍醐天皇方の新田義貞・楠木正成軍が足利尊氏軍に敗れる
・1336年(延元元/建武3)8月 足利尊氏により光明天皇が擁立される
・1336年(延元元/建武3)11月 足利尊氏により「建武式目」が制定される
・1336年(延元元/建武3)12月 後醍醐天皇が吉野へ逃れ、南朝を立てる
・1337年(延元2/建武4)3月 足利尊氏が高師泰に越前金ヶ崎城を攻略させる
・1338年(延元3/暦応元)5月 足利尊氏が北畠顕家を堺の石津浜に敗死さる
・1338年(延元3/暦応元)閏7月 足利尊氏が新田義貞を越前藤島で戦死させる
・1338年(延元3/暦応元)8月 足利尊氏が征夷大将軍に任ぜられ、京都に室町幕府を開く
・1339年(延元4/暦応2) 後村上天皇に譲位する
・1339年(延元4/暦応2)8月16日 吉野において、数え年52歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1870年(明治3)「平民苗字許可令」により平民も苗字を名乗ることが許される(新暦10月13日)詳細
1945年(昭和20)GHQが「日本に与うる新聞遵則(プレスコード)」(SCAPIN-33)を出し言論統制検閲が始まる詳細
1955年(昭和30)原水爆禁止日本協議会(原水協)が結成される詳細
1959年(昭和34)国立青年の家第1号となる「国立中央青年の家」(静岡県御殿場市)が設置される詳細
1978年(昭和53)埼玉古墳群の稲荷山古墳出土鉄剣の金錯銘を解読したと発表される詳細
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 今日は、南北地用時代の1338年(暦応元/延元3)に、御家人・武将新田義貞の亡くなった日ですが、新暦では8月17日となります。
 新田義貞(にった よしさだ)は、鎌倉時代の1301年(正安3)に、上野国新田荘(現在の群馬県太田市周辺)を拠点とする豪族新田朝氏(朝兼)の長子として生まれましたが、小太郎とも言いました。1318年(文保2)に父が亡くなり、家督を継いで新田一族の惣領となります。
 1332年(正慶元/元弘2)に河内(現在の大阪府)の楠木正成攻めの鎌倉幕府の動員令に応じましたが、護良親王の令旨をうけたため、病気を理由に途中で帰国しました。翌年討幕の兵を挙げ、関東各地の反幕府勢力を糾合し、鎌倉街道を武蔵に進撃します。
 小手指原(現在の埼玉県所沢市)・分倍河原(現在の東京都府中市)の合戦に勝ち、同年5月22日鎌倉を落とし、得宗北条高時以下を自殺させて、鎌倉幕府を滅ぼしました。その功により、後醍醐天皇の建武新政では、越後守・上野介などや武者所頭人に任ぜられ、左兵衛佐(のちに左近衛中将)、従四位上の官位を得ます。
 やがて、足利尊氏と激しく対立するようになり、翌年の中先代 の乱を機に足利尊氏が建武政府にそむくと、関東に下った尊氏を追撃しました。箱根竹ノ下の戦いには敗れたものの、その直後、上洛した尊氏を迎撃、京都合戦で勝利を収めて、一時は尊氏を九州に敗走させます。
 しかし、1336年(延元元/建武3)に再起した尊氏に兵庫で敗れて、京都を占領されると、恒良・尊良両親王を奉じて越前金ケ崎城に立て籠ります。落城前に脱出して再挙をはかりますが、1338年(暦応元/延元3年閏7月2日)に、斯波高経との藤島の戦い(現在の福井県足羽郡藤島)において、数え年38歳で討ち死にしました。

〇新田義貞関係略年表(日付は旧暦です)

・1301年(正安3年) 上野国新田荘を拠点とする豪族新田朝氏(朝兼)の長子として生まれる
・1318年(文保2年) 父が亡くなり、家督を継いで新田一族の惣領となる
・1332年(正慶元/元弘2年) 河内(現在の大阪府)の楠木正成攻めの鎌倉幕府の動員令に応じる
・1333年(正慶2/元弘3年) 護良親王の令旨をうけたため、病気を理由に途中で帰国する
・1333年(正慶2/元弘3年5月8日) 討幕の兵を挙げ、鎌倉街道を武蔵に進撃する
・1333年(正慶2/元弘3年5月11日) 小手指原(現在の埼玉県所沢市)の合戦に勝利する
・1333年(正慶2/元弘3年5月15日) 分倍河原(現在の東京都府中市)の合戦に勝利する
・1333年(正慶2/元弘3年5月22日) 鎌倉を落とし、得宗北条高時以下を自殺させて、鎌倉幕府を滅ぼす
・1333年(正慶2/元弘3年8月5日) 従四位上に叙され、左馬助に任官する
・1333年(正慶2/元弘3年10月) 播磨守となる
・1334年(正慶3/建武元年11月) 中先代 の乱を機に足利尊氏が建武政府にそむくと、関東に下った尊氏を追撃する
・1334年(正慶3/建武元年12月) 箱根竹ノ下の戦いには敗れる
・1335年(正慶4/建武2年1月) 上洛した尊氏を迎撃し、京都合戦で勝利を収める
・1336年(延元元/建武3年5月25日) 再起した尊氏に湊川の戦いで敗れて、楠木正成が戦死する
・1336年(延元元/建武3年5月29日) 尊氏方に京都を占領される
・1336年(延元元/建武3年10月13日) 恒良・尊良両親王を奉じて越前金ケ崎城に立て籠る
・1338年(延元3/暦応元年3月6日) 越前金ケ崎城が陥落する
・1338年(延元3/暦応元年閏7月2日) 斯波高経との藤島の戦いにおいて、数え年38歳で討ち死にする
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 今日は、南北朝時代の1336年(延元元/建武3)に、湊川の戦いで足利尊氏が楠木正成を破り、正成は一族と共に自害した日ですが、新暦では7月4日となります。
 湊川の戦いは、摂津国湊川(現在の兵庫県神戸市中央区・兵庫区)で、南朝方の新田義貞・楠木正成軍と北朝方の足利尊氏・足利直義軍との間で戦われた合戦でした。
 同年1月に京都を駆逐されて、翌月九州に敗走した足利尊氏・直義が、4月に大軍を集めて博多を発して東上してきます。後醍醐天皇は勅命で新田義貞・楠木正成に迎撃を命じ、新田義貞は和田岬に、楠木正成はその西の湊川に布陣しました。
 そして、足利尊氏軍の先発として細川軍が和田岬に上陸し、5月25日に戦いが開始され、その結果、新田勢は京都に向かって敗走し、楠木正成は奮戦のすえ一族・配下とともに自刃します。
 その後、足利軍は京都へ入り、建武新政府は崩壊、足利尊氏は、やがて光明院を擁立して、室町幕府を開き、後醍醐天皇は、吉野へ移って、南北朝時代が開始されることとなりました。
 現地には、楠木正成の墓があったのですが、1692年(元禄5)に徳川光圀が「嗚呼忠臣楠子之墓」の石碑を建立して、世に知られるようになります。幕末になって、尊王論が高揚してくると、楠木正成の顕彰が盛んになり、1872年(明治5)、明治政府によって湊川神社が創建されることになりました。
 境内には、殉節地や御墓所などがあって国の史跡になっていますし、宝物殿には、楠木正成着用と伝える段縅腹巻一領(国重要文化財)、1335年(建武2)大楠公自筆の法華経奥書一幅(国重要文化財)などがあります。

〇南北朝関係略年表(日付は旧暦です)

・1333年(元弘3/正慶2)5月 鎌倉幕府が滅亡する
・1334年(建武元)1月 建武の新政が行われる
・1335年(建武2)7月 関東で北条時行の反乱(中先代の乱)を平定する
・1335年(建武2)10月 足利尊氏が後醍醐天皇に叛いて挙兵する
 ※南北朝の対立が始まる
・1336年(延元元/建武3)5月 湊川の戦い(○足利軍×●新田・楠木軍)
・1336年(延元元/建武3)8月 光明天皇が擁立される
・1336年(延元元/建武3)11月 足利尊氏により「建武式目」が制定される
・1336年(延元元/建武3)12月 後醍醐天皇が吉野へ逃れる
・1337年(延元2/建武4)3月 足利尊氏が高師泰に越前金ヶ崎城を攻略させる
・1338年(延元3/暦応元)5月 足利尊氏が北畠顕家を堺の石津浜に敗死さる
・1338年(延元3/暦応元)閏7月 足利尊氏が新田義貞を越前藤島で戦死させる
・1338年(延元3/暦応元)8月 足利尊氏が征夷大将軍に任ぜられ、京都に室町幕府を開く
・1339年(延元4/暦応2)8月 後醍醐天皇が亡くなる
・1341年(延元6/興国2) 足利尊氏が天竜寺船を元に送る
・1348年(正平3/貞和4)1月 四条畷の戦い(○高軍×●楠木軍)
・1349年(正平4/貞和5)9月 足利尊氏が関東管領をおき、足利基氏をこれに任じる
 ※このころ倭寇が中国の沿岸を荒らす
・1350年(正平5/観応元)10月 足利直義・直冬が足利尊氏に叛旗を翻す(観応の擾乱(~52))
・1352年(正平7/観応3) 足利尊氏が鎌倉へ入り、直義を殺害する
・1352年(正平7/観応3)7月 観応半済令が出される
・1358年(正平13/延文3)4月 足利尊氏が亡くなる
・1358年(正平13/延文3)12月 足利義詮が室町幕府第2代将軍に就任する
・1361年(正平16/康安元) 南朝軍が入京する
・1362年(正平17/康安2) 幕府・北朝側が京都を奪還する
・1367年(正平22/貞治6) 足利義詮は死に臨み10歳の義満に家督を譲り、細川頼之を管領に任じて後を託す
・1368年(正平23/応安元) 応安半済令が出される
・1368年(正平23/応安元) 足利義満が室町幕府第3代将軍に就任する
・1371年(建徳2/応安4)以降 足利義満が今川了俊に九州を統一させる
・1378年(天授4/永和4) 室町に新邸(花の御所)を造営して移住する
・1379年(天授5/康暦元) 細川頼之に帰国が命じられ(康暦の政変)、斯波義将が管領となる
・1382年(弘和2/永徳2) 足利義満が左大臣となる
・1386年(元中3/至徳3) 足利義満が五山制度の大改革を断行、南禅寺を「五山の上」とする
・1390年(元中7/明徳元) 美濃の乱で土岐康行が鎮圧される
・1391年(元中8/明徳2) 明徳の乱で山名氏清が鎮圧される
・1392年(元中9/明徳3) 足利義満が南北朝の合一を実現する
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 今日は、南北朝時代の1358年(延文3/正平13)に、室町幕府初代将軍足利尊氏の亡くなった日ですが、新暦では6月7日となります。
 足利尊氏(あしかが たかうじ)は、鎌倉時代の1305年(嘉元3)に、鎌倉幕府に重きをなした足利氏の嫡流だった父・足利貞氏の次男として生まれ、母は上杉清子でしたが、通称は、又太郎といいました。
 1319年(元応元)に元服し、高氏と名乗り、従五位下治部大輔となり、北条久時の女登子と結婚します。1331年(元弘元/元徳3)に、父・貞氏が死去すると足利氏の家督はを継ぐことになりました。
 同年に後醍醐天皇が鎌倉幕府打倒の兵を起こすと、天皇軍討伐の幕命を受けて上洛し、それを平定後、鎌倉に帰ります。
 1333年(元弘3/正慶2)に、後醍醐天皇が隠岐を脱出して、船上山にこもると幕府軍を率いて再度西上しましたが、反旗を掲げ京都に侵攻して、六波羅探題を滅ぼしました。
 その半月後に鎌倉幕府は滅亡し、後醍醐天皇は京都に帰還して、建武新政が開始され、討幕の功臣として天皇の諱の一字を賜って、尊氏と改名します。
 その後、後醍醐天皇との対立が深まり、1335年(建武2)関東で北条時行の反乱(中先代の乱)を平定し、翌年光明天皇を擁立して、北朝を興し、南北朝時代となります。
 そして、「建武式目」を制定し、1338年(延元3/暦応元)には征夷大将軍となり、室町幕府を創始しました。
 しかし、南北朝の騒乱が続き、各地で戦闘が繰り返されます。1352年(正平7/観応3)の観応の擾乱では鎌倉へ入り、弟の足利直義を討ったりしました。
 一方、夢窓疎石に帰依し、後醍醐天皇の冥福を祈るため元に天龍寺船を派遣し、その利益で天龍寺を建立するなどしましたが、1358年(正平13/延文3年4月30日)に、京都において、53歳で亡くなりました。

〇足利尊氏関係略年表(日付は旧暦です)

・1305年(嘉元3) 足利氏の嫡流だった父・足利貞氏の次男として生まれる
・1319年(元応元) 元服して高氏と名乗り、従五位下治部大輔となる
・1319年(元応元) 北条久時の女登子と結婚する
・1331年(元弘元/元徳3)9月 父・貞氏が死去し、足利氏の家督を継ぐ
・1331年(元弘元/元徳3) 後醍醐天皇が鎌倉幕府打倒の兵を起こす(元弘の変)と、上洛して平定する
・1333年(元弘3/正慶2) 後醍醐天皇が隠岐を脱出して、船上山にこもると幕府軍を率いて再度西上する
・1333年(元弘3/正慶2)5月 反旗を掲げ京都に侵攻して、六波羅探題を滅ぼす
・1333年(元弘3/正慶2)5月 鎌倉幕府が滅亡する
・1334年(建武元)1月 建武の新政が行われる
・1335年(建武2)7月 関東で北条時行の反乱(中先代の乱)を平定する
・1335年(建武2)10月 足利尊氏が後醍醐天皇に叛いて挙兵する
 ※南北朝の対立が始まる
・1336年(延元元/建武3)5月 湊川の戦い(○足利軍×●新田・楠木軍)
・1336年(延元元/建武3)11月 「建武式目」を制定する
・1337年(延元2/建武4)3月 高師泰に越前金ヶ崎城を攻略させる
・1338年(延元3/暦応元)5月 北畠顕家を堺の石津浜に敗死さる
・1338年(延元3/暦応元)閏7月 新田義貞を越前藤島で戦死させる
・1338年(延元3/暦応元)8月 足利尊氏が征夷大将軍に任ぜられ、京都に室町幕府を開く
・1339年(延元4/暦応2)8月 後醍醐天皇が亡くなる
・1341年(延元6/興国2) 天竜寺船を元に送る
・1348年(正平3/貞和4)1月 四条畷の戦い(○高軍×●楠木軍)
・1349年(正平4/貞和5)9月 関東管領をおき、足利基氏をこれに任じる
 ※このころ倭寇が中国の沿岸を荒らす
・1350年(正平5/観応元)10月 足利直義・直冬が足利尊氏に叛旗を翻す(観応の擾乱(~52))
・1352年(正平7/観応3) 足利尊氏が鎌倉へ入り、直義を殺害する
・1352年(正平7/観応3)7月 観応半済令が出される
・1358年(正平13/延文3)4月 足利尊氏が亡くなる
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