ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:後白河法皇

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 今日は、平安時代後期の1180年(治承4)に、平清盛が福原(現在の神戸市兵庫区)への行幸(福原遷都)から、都を平安京に戻した日ですが、新暦では12月11日となります。
 福原遷都(ふくはらせんと)は、平清盛が京都から摂津の福原(現在の兵庫県神戸市兵庫区・中央区付近)に一時的に都を移したことでした。1179年(治承3)に、清盛はクーデターを実行し、後白河院を幽閉して実権を握り、自ら軍事的独裁政治を開始しましたが、比叡山延暦寺の衆徒を強く刺激します。
 翌年には、源頼政が以仁王 の令旨を諸国の源氏に伝えて決起を促したものの、宇治川の戦いに敗れ、鎮圧されました。しかし、この影響が広がる中で、突然に安徳天皇、高倉上皇を伴ってみずからの根拠地福原への遷都を強行したものです。
 遷都後は、延暦寺の衆徒の蜂起が起き、平宗盛など一門の主張もあって、都城造営も進まぬうちに、同年11月23日には、再び京都(平安京)に都を戻さざるをえませんでした。この遷都は、平氏政権の威信を下げるものになったとされています。

〇福原遷都関係略年表(日付は旧暦です)

<治承4年(1180年)>

・6月2日 京都から摂津国の福原へ安徳天皇・高倉上皇・後白河法皇の行幸が行なわれ、ここに行宮が置かれる
・6月中旬 新都建設の具体的検討が行われる
・7月中旬 福原をしばらく皇居とし、道路を開通させて親平氏派の一部の人々に限り宅地が与えられることになる
・8月12日 大嘗会は来年に延期と決まる
・8月17日 源頼朝が、伊豆で挙兵し山木館を襲撃する
・8月23日 源頼朝が石橋山の戦いで敗れる
・8月29日 源頼朝は、房総半島へ船で逃れる
・9月7日 源(木曽)義仲が木曽で挙兵する
・10月20日 富士川の戦いが起こり、平氏軍は水鳥の飛び立つ音を源氏の襲撃と間違えて敗走する
・11月11日 安徳天皇が新造内裏に行幸する
・11月17日~20日 新嘗祭の五節のみが行なわれる
・11月23日 安徳天皇・高倉上皇らは京都に帰還を開始する
・11月29日 平清盛も福原より引き上げる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1703年(元禄16)房総半島沖を震源とする元禄地震がおきる(新暦12月31日)詳細
1707年(宝永4) 富士山宝永噴火が始まる(新暦12月16日)詳細
1885年(明治18)自由民権運動激化事件の一つである大阪事件が起きる詳細
1896年(明治29)小説家樋口一葉の命日(一葉忌)詳細
1909年(明治42)大阪・長堀川に石造りの心斎橋が完成し、渡り初め式が行われる詳細
1940年(昭和15)産業報国会の全国連合組織として大日本産業報国会が結成される詳細
2001年(平成13)ハンガリーのブダペストで、「サイバー犯罪に関する条約」に、日本を含む30ヶ国が署名・採択する詳細
2004年(平成16)洋画家吉井淳二の命日詳細
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 今日は、平安時代後期の寿永2年(閏11月18日)に、源平合戦において、平氏追討に失敗し京に帰った源(木曾)義仲が、後白河法皇の御所・法住寺殿を急襲し法皇を幽閉した日ですが、新暦では1184年1月2日となります。
 源平合戦(げんぺいかっせん)は、平安時代後期の源・平両氏の政権争いの戦乱です。1156年(保元元)の保元の乱、1159年(平治元)の平治の乱で源氏は勢力を失い、平氏政権が成立しましたが、1180年(治承4)の後白河法皇の皇子以仁王の挙兵を契機にして、伊豆に流されていた源頼朝が挙兵、日本各地で平氏打倒のための一連の戦いが起こりました。
 同年の富士川の戦い、源(木曽)義仲の挙兵と1183年(寿永2)の倶利伽羅峠戦いなどを経て、義仲がまず入京し、平氏は安徳天皇を奉じて京都を脱出、西国に逃れます。しかし、義仲は源義経・範頼により、宇治川の合戦などにより征討されました。
 その後、一ノ谷の戦い、屋島の戦いなどを経て、1185年(元暦2)には、ついに長門の壇ノ浦の戦いで平氏一門が滅亡したことにより、源氏の源頼朝を中心とした鎌倉幕府の樹立ということになります。この一連の平氏と源氏の戦いの後半部分(以仁王の挙兵~壇ノ浦の戦い)は、治承・寿永の乱とも呼ばれてきました。有名な『平家物語』には、この合戦の模様が詳しく書かれています。

〇源平合戦関係略年表(日付は旧暦です)

<保元元年(1156年)>
・7月11日 保元の乱が起き、崇徳上皇方、後白河天皇方に、源氏・平氏共に一族を二分してついて戦うが、後白河天皇方が勝利する
・7月23日 崇徳上皇は讃岐に流される

<平治元年(1159年)>
・12月9日 平治の乱が起き、源義朝、藤原信頼と結び院御所・三条殿を襲撃する
・12月26日 源義朝、藤原信頼は、平清盛と六条河原で戦うが敗北する
・12月29日 源義朝が、尾張の知多半島の野間で謀殺される

<永暦元年(1160年)>
・3月11日 源頼朝が、伊豆へ流される

<仁安2年(1167年)>
・2月 平清盛が太政大臣に就任する

<嘉応2年(1170年)>
・5月25日 藤原秀衡が、鎮守府将軍に任命される

<承安2年(1172年)>
・2月10日 平徳子が、高倉天皇の中宮となる

<治承元年(1177年)>
・6月 鹿ケ谷の陰謀が起き、藤原成親、俊寛らが平家打倒を計画したが、密告で露見して失敗する

<治承3年(1179年)>
・11月20日 平清盛、後白河法皇を幽閉し、院政は停止となる

<治承4年(1180年)>
・4月9日 以仁王が、各地の源氏に平家追討の令旨を出す
・4月22日 高倉天皇の譲位により、安徳天皇(外祖父は平清盛)が即位する
・5月26日 源頼政が以仁王を立てて挙兵するが、平知盛に敗れ、平等院にて敗死する
・6月22日 平家、福原遷都を強行する
・8月17日 源頼朝が、伊豆で挙兵し山木館を襲撃する
・8月23日 源頼朝が石橋山の戦いで敗れる
・8月29日 源頼朝は、房総半島へ船で逃れる
・9月7日 源(木曽)義仲が挙兵する
・10月20日 富士川の戦いが起こり、平氏軍は水鳥の飛び立つ音を源氏の襲撃と間違えて敗走する
・11月17日 源頼朝が、鎌倉に侍所(別当は和田義盛)を設置する
・12月28日 平重衡が、東大寺・興福寺を焼く

<養和元年(1181年)
・閏2月4日 平清盛が病没する

<寿永2年(1183年)
・5月11日 倶利伽羅峠の戦いで源(木曽)義仲が平氏を破る
・7月28日 源(木曽)義仲が、京都に入る
・10月14日 源頼朝が、寿永宣旨を受け、東国支配権を獲得する
・閏11月18日 平氏追討に失敗し、京に帰った源(木曾)義仲が、後白河法皇の御所・法住寺殿を急襲し法皇を幽閉する

<寿永3年/元暦元年(1184年)
・1月20日 宇治川の戦いで源義経が源(木曽)義仲を討つ
・2月7日 一ノ谷の戦いで源義経が平氏を破り、平家惣領・平宗盛らは四国・九州に敗走する
・10月20日 源頼朝が、鎌倉に公文所、問注所を設置する

<元暦2年/文治元年(1185年)
・2月19日 屋島の戦いで源義経らが平氏を破る
・3月24日 壇の浦の戦いで源義経らが平氏を破り、安徳天皇は入水・死亡し、平氏は滅亡する
・11月 源義経と源頼朝の対立が始まる
・11月28日 源頼朝が源義経追討のため諸国に守護・地頭を置く勅許を得る(文治の勅許)

<文治3年(1187年)
・2月 源義経が、藤原秀衡を頼って奥州に落ちのびる
・10月29日 藤原秀衡が病没する

<文治5年(1189年)
・閏4月30日 衣川の戦いが起き、藤原泰衡が、源義経を討つ
・7月17日 源頼朝が奥州に向けて出兵する
・8月22日 源頼朝軍に攻められて平泉が陥落する
・9月3日 藤原泰衡が殺害される
・9月18日 源頼朝が、奥州を平定する

☆源義仲(みなもと の よしなか)とは?

 平安時代末期の源平合戦で大きな戦功をあげた武将で、「木曽義仲」とも呼ばれています。1154年(久寿1年)に、清和源氏の嫡流源為義の次子義賢の次男として東国に生まれましたが、幼名は駒王丸と言いました。
 1155年(久寿2)に上野・北武蔵に威勢を張っていた父・義賢が鎌倉を本拠とする源義平に武蔵国大倉館で討たれましたが、遁れて信濃国へかくまわれたとされています。木曽谷で成長し、1180年(治承4)に以仁王が、各地の源氏に平家追討の令旨を出すと、伊豆の源頼朝の挙兵後約1ヶ月で平氏討伐の旗を木曽谷に上げました。
 その年の内に、信濃国を手中にして、亡父の故地上野まで進出、1181年(養和元年)には、平氏側の越後の城助茂の大軍を千曲川の横田河原で壊滅し、越後を勢力圏に入れます。1183年(寿永2年)に長子義高を鎌倉に送って頼朝と和睦し、北陸道を進攻してきた平維盛らの大軍を加賀・越中境の倶利伽羅峠の戦いで破りました。
 安宅・篠原の戦いにも勝利して、北陸を支配下に収め、越前国から近江国へ進軍します。その後、比叡山を味方に引き入れて、ついに平氏一門を都落ちさせ、念願の上洛を果たしました。
 西海に走った平氏、東海道諸国を押さえた頼朝と並んで「天下三分の形勢」を示し、従五位下左馬頭兼越後守、次いで伊予守に任じられます。しかし、軍隊の統制がとれずに京都の人心を失い、後白河法皇に平氏追討の院宣を受け平家追討を命じられて西下したものの、備中水島の戦いで敗れ、帰洛してからは、法皇との対立を深めました。
 ついに、クーデタを断行し、法皇を幽閉、近臣を追放して独裁権を握り、1184年(元暦元)には従四位下征夷大将軍となり「旭将軍」と称されます。ところが、頼朝の命を受けて京都へ向かってきた、源義経・範頼軍との決戦に敗れ、同年1月20日に北陸道へ落ちる途中、琵琶湖畔の粟津において、数え年31歳で討ち死にしました。

☆後白河天皇(ごしらかわてんのう)とは?

 第77代とされる天皇です。平安時代後期の1127年(大治2年9月11日)に、京都において、鳥羽天皇の第四皇子(母は藤原公実の女璋子)として生まれましたが、名は雅仁(まさひと)と言いました。1129年(大治4)に曽祖父の白河法皇が亡くなり、鳥羽上皇による院政が開始され、1139年(保延5)に12歳で元服して二品に叙せられます。1143年(康治2)に最初の妃の源有仁の養女・懿子が守仁親王(後の二条天皇)を産んで急死しましたが、1155年(久寿2年7月24日)に近衛天皇が亡くなると、立太子を経ないまま29歳で即位し、第77代とされる天皇となりました。1156年(保元元年)に鳥羽法皇が亡くなった後、保元の乱に勝利し、信西(藤原通憲)を重用して政治を取り仕切らせ、新制七ヶ条を制定し、記録所を設置して荘園整理を行い、寺社勢力の削減を図ろうとします。1158年(保元3)には守仁親王(二条天皇)に譲位し、太上天皇となり、上皇として院政(以後、六条天皇、高倉天皇、安徳天皇、後鳥羽天皇と4朝30余年にわたる)を始めました。1159年(平治元)の平治の乱に勝利したものの、信西を失ない、平清盛が乱後の実権を握る形で院政は進められます。その後、平氏の全盛期、源平合戦、平氏の滅亡、鎌倉幕府の成立へと進む変革期となりましたが、近臣と共に源平対立を巧みに利用してして対処、王朝権力の維持に努めました。一方で、仏道に帰依し、1169年(嘉応元年)に出家して法皇となり、蓮華王院、長講堂等の造寺・造仏、熊野参詣(34回)、高野山、比叡山、東大寺などへの行幸を盛んに行ないます。また、今様を好み歌謡集『梁塵秘抄』 (10巻) 、『梁塵秘抄口伝集』 (10巻) を撰しましたが、1192年(建久3年3月13日)に京都において、数え年66歳で亡くなりました。尚、陵墓は京都三十三間堂廻の法住寺陵(現在の京都府京都市東山区)とされています。

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1840年(天保11)第119代の天皇とされる光格天皇の命日(新暦12月11日)詳細
1901年(明治34)官営八幡製鉄所が操業を開始する詳細
1904年(明治37)作曲家古賀政男の誕生日詳細
1937年(昭和12)「大本営令」(昭和12年軍令第1号)が公布・施行される詳細
1943年(昭和18)小説家徳田秋声の命日詳細
1966年(昭和41)陶芸家・随筆家河井寛次郎の命日詳細
1987年(昭和62)「日本航空株式会社法を廃止する等の法律」により、特殊法人だった日本航空が完全民営化される詳細
2001年(平成13)JR東日本の東京近郊区間で、ICカード式自動出改札システム「Suica」の使用が開始される詳細
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 今日は、鎌倉時代の1187年(文治3)に、藤原俊成が『千載和歌集』(第七番目の勅撰和歌集)を後白河法皇に撰進した日ですが、新暦では10月23日となります。
 『千載和歌集』(せんざいわかしゅう)は、1183年(寿永2)の後白河法皇の院宣で藤原俊成が命を受けて編纂、1187年(文治3年9月20日)に撰進し、翌年4月22日に奏覧した、第七番目の勅撰和歌集で、八代集の一つです。全二十巻で、仮名序があり、四季、離別、羇旅、哀傷、賀、恋、雑、釈教、神祇の部立に分かれ、平安時代中期から当代までの作、約1,290首を収めました。
 俊成編の私撰集『三五代集』(現存しない)を母胎として編纂されたとされ、『万葉集』、『古今和歌集』、『後撰和歌集』の歌人の歌は含まれていません。最多入集歌人は源俊頼(52首)で、藤原俊成(36首)がそれに次ぎ、藤原基俊(26首)、崇徳院(23首)らが上位を占めています。
 『金葉和歌集』、『詞花和歌集』の行過ぎを是正したとされ、古今的伝統への復帰を志し、平明温雅ですが、清新な感覚に支えられた感傷的情緒性が目立つものの、宗教的傾向もありました。

<収載されている代表的な歌>

・「夕されば 野辺の秋風 身にしみて 鶉鳴くなり 深草の里」(藤原俊成)
・「なげけとて 月やは物を 思はする かこち顔なる 我が涙かな」(西行法師)
・「夜もすがら もの思ふ頃は 明けやらで ねやのひまさへ つれなかりけり」(俊恵法師)
・「さくら花 うき身にかふる ためしあらば 生きて散るをば 惜しまざらまし」(源通親)
・「五月雨に 花橘の かをる夜は 月すむ秋も さもあらばあれ」(崇徳院)
・「おほかたの 秋のあはれを 思ひやれ 月に心は あくがれぬとも」(紫式部)
・「月のすむ 空には雲も なかりけり うつりし水は 氷へだてて」(道因法師)

〇勅撰和歌集とは?

 天皇の綸旨や上皇・法皇の院宣下命に基づいて編集、奏覧された和歌集のことです。醍醐天皇の勅命によって編纂され、905年(延喜5)に奏上された『古今和歌集』に始まり、1439年(永享11)成立の『新続古今和歌集』までの534年間で21があり、総称して「二十一代集」と呼ばれました。
 初めの3集(『古今和歌集』・ 『後撰和歌集』・『拾遺和歌集』)を三代集、8集(『古今和歌集』から『新古今和歌集』)までを八代集、残り13集(『新勅撰集』から『新続古今和歌集』)を十三代集ともいいます。平安時代から鎌倉時代初期にかけて最も盛んでしたが、次第に衰え、室町時代に入って跡が絶えました。尚、14世紀末に南朝側で編纂された『新葉和歌集』は準勅撰和歌集とされています。
 勅撰集を作成するには、まず撰和歌所を設置し、勅撰の下命があり、撰者の任命がされました。その後、資料が集成され、撰歌と部類配列が行われ、加除訂正の後、目録や序が作成それて清書されます。そして、奏覧され、祝賀の竟宴という過程によって行われました。
 収載されたのは、ほとんどが短歌でしたが、わずかに長歌、旋頭歌、連歌を加えた集もあります。巻数は最初の『古今和歌集』の20巻が継承されましたが、『金葉和歌集』と『詞花和歌集』は10巻となっています。部立(歌の種類別区分の仕方)は各集ごとに小異がありますが、基本的には、最初の『古今和歌集』の部立が受け継がれました。
 勅撰集に歌が選ばれるのは、歌人にとって最高の名誉とされ、和歌を発達させた文学史的意義は大きいとされています。

〇「二十一代集」(勅撰和歌集)一覧

1.『古今和歌集』905年成立(醍醐天皇下命・紀友則、紀貫之、凡河内躬恒、壬生忠岑撰)20巻・1,100首
2.『後撰和歌集』957-959年成立(村上天皇下命・大中臣能宣、清原元輔、源順、紀時文、坂上望城撰)20巻・1,425首
3.『拾遺和歌集』1005-07年成立(花山院下命・花山院、藤原公任撰)20巻・1,351首
4.『後拾遺和歌集』1086年成立(白河天皇下命・藤原通俊撰)20巻・1,218首
5.『金葉和歌集』1126年(三奏本)成立(白河院下命・源俊頼撰)10巻・650首(三奏本)
6.『詞花和歌集』1151年頃成立(崇徳院下命・藤原顕輔撰)10巻・415首
7.『千載和歌集』1188年成立(後白河院下命・藤原俊成撰)20巻・1,288首
8.『新古今和歌集』1205年成立(後鳥羽院下命・源通具、藤原有家、藤原定家、藤原家隆、飛鳥井雅経、寂蓮撰)20巻・1,978首
9.『新勅撰和歌集』1235年成立(後堀河天皇下命・藤原定家撰)20巻・1,374首
10.『続後撰和歌集』1251年成立(後嵯峨院下命・藤原為家撰)20巻・1,371首
11.『続古今和歌集』1265年成立(後嵯峨院下命・藤原為家、藤原基家、藤原行家、藤原光俊、藤原家良撰)20巻・1,915首
12.『続拾遺和歌集』1278年成立(亀山院下命・二条為氏撰)20巻・1,459首
13.『新後撰和歌集』1303年成立(後宇多院下命・二条為世撰)20巻・1,607首
14.『玉葉和歌集』1312年成立(伏見院下命・京極為兼撰)20巻・2,800首
15.『続千載和歌集』1320年成立(後宇多院下命・二条為世撰)20巻・2,143首
16.『続後拾遺和歌集』1326年成立(後醍醐天皇下命・二条為藤、二条為定撰)20巻・1,353首
17.『風雅和歌集』1349年成立(花園院監修下命・光厳院撰)20巻・2,211首
18.『新千載和歌集』1359年成立(後光厳天皇下命・二条為定撰)20巻・2,365首
19.『新拾遺和歌集』1364年成立(後光厳天皇下命・二条為明、頓阿撰)20巻・1,920首
20.『新後拾遺和歌集』1384年成立(後円融天皇下命・二条為遠、二条為重撰)20巻・1,554首
21.『新続古今和歌集』1439年成立(後花園天皇下命・飛鳥井雅世撰)20巻・2,144首
準.『新葉和歌集』1381年成立(長慶天皇下命・宗良親撰)20巻・1,426首

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1806年(文化3)浮世絵師喜多川歌麿の命日(新暦10月31日)詳細
1852年(嘉永5)囲碁名人・17世および19世本因坊秀栄の誕生日(新暦11月1日)詳細
1903年(明治36)京都市の堀川中立売~七条~祇園で日本初の乗合自動車(バス)が運行される(バスの日)詳細
1943年(昭和18)農芸化学者・栄養化学者鈴木梅太郎の命日詳細
1945年(昭和20)「ポツダム」宣言ノ受諾ニ伴ヒ発スル命令ニ関スル件(勅令第542号)が公布・施行される(ポツダム命令)詳細
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 今日は、鎌倉時代の1185年(文治元)に、源義經追討のため、「文治の勅許」により、諸国に守護・地頭を置くことを許可した日ですが、新暦では12月21日となります。
 「文治の勅許」(ぶんじのちょっきょ)は、京都守護・北条時政による奏請により、朝廷が源頼朝に対して与えられた諸国への守護・地頭職の設置・任免を許可したものでした。同年11月25日に上洛した北条時政が、同月28日に吉田経房と対面して諸国への守護・地頭の設置と権門勢家の荘園・公領を問わず反別五升の兵糧米を充てることを申し入れます。
 経房は、後白河法皇に守護地頭設置を願い出て裁可され、翌日に公布されました。これによって、源義経・源行家を追討するために全国各地に地頭職を設置するこが認められ、鎌倉幕府に託された地方の警察権の行使や御家人に対する本領安堵、新恩給与を行う意味でも幕府権力の根幹をなすものとなります。
 しかし、反発が強く、北条時政が自身の七ヵ国の地頭職成敗権を辞退、その後、翌年5月に源行家が討たれ、源義経はいまだ行方不明とはいっても、無期限に戦時体制を続けるわけにはいかず、6月~7月にかけての源頼朝と朝廷の交渉が持たれ、平家没官領や謀反人所帯跡以外の地頭職は停止されることとなりました。
 以下に、『吾妻鏡』と『玉葉』のこのことを記述した部分を抜粋して、掲載しておきますので、ご参照下さい。

〇「文治の勅許」1185年(文治元年11月28日)

☆『吾妻鏡』より

<原文>

文治元年十一月大十二日辛夘。
(中略)凡今度次第。爲關東重事之間。沙汰之篇。始終之趣。太思食煩之處。因幡前司廣元申云。世已澆季。梟悪者尤得秋也。天下有反逆輩之條更不可斷絶。而於東海道之内者。依爲御居所雖令靜謐。奸濫定起於他方歟。爲相鎭之。毎度被發遣東士者。人々煩也。國費也。以此次。諸國交御沙汰。毎國衙庄園。被補守護地頭者。強不可有所怖。早可令申請給云々。二品殊甘心。以此儀治定。本末相應。忠言之所令然也。

文治元年十一月大廿八日丁未。
補任諸國平均守護地頭。不論權門勢家庄公。可宛課兵粮米〔段別五升〕之由。今夜。北條殿謁申藤中納言經房卿云々。

文治元年十一月大廿九日戊申。
北條殿所被申之諸國守護地頭兵粮米事。早任申請可有御沙汰之由。被仰下之間。師中納言被傳 勅於北條殿云々。

<読み下し文>

文治元年十一月大十二日辛夘。
(中略)凡そ今度の次第[1]、関東[2]の重事たるの間[3]、沙汰の篇[4]、始終の趣[5]、太だ恩食し煩うの処[6]、因幡前司広元[7]申して云く。世已に澆季[8]、梟悪の者[9]尤も秋を得るなり[10]。天下に反逆の輩有るの条、更に断絶すべからず。而るに東海道の内に於いては、御居所[11]たるに依りて、靜謐[12]せしむと雖も、奸濫[13]定めて他方に起らんか。之を相鎮めんがため、毎度東士[14]を発遣せらるるは、人々の煩なり、国の費なり[15]。此次を以て[16]、諸国の御沙汰を交え[17]、国衙・庄園毎に、守護・地頭を補せらるれば、強ち[18]怖るる所有るべからず。早く申し請わしめ給うべしと云。二品[19]、殊に甘心[20]し、此儀を以て治定[21]す。本末の相応[22]、忠言[23]の然らしむる所なり。

文治元年十一月大廿八日丁未。
諸国平均に守護・地頭を補任[24]し、権門勢家[25]庄公[26]を論ぜず、兵粮米[27](段別五升[28])を宛て課すべきの由、今夜、北条殿[29]、藤中納言経房卿[30]に謁し申すと云々。

文治元年十一月大廿九日戊申。
北条殿[29]申さるるところの諸国守護地頭兵粮米[27]の事、早く申す請うに任せて御沙汰あるべきの由[31]、仰せ下さるるの間、師中納言[32]、勅を北条殿[29]に伝えらると云々。

【注釈】

[1]今度の次第:こんどのしだい=後白河法皇が「頼朝追討の宣旨」出したこと。
[2]関東:かんとう=鎌倉幕府のこと。
[3]重事たるの間:じゅうじたるのあいだ=重大事件であるので。
[4]沙汰の篇:さたのへん=どのように扱うべきか。
[5]始終の趣:しじゅうのおもむき=どのように処置するか。
[6]恩食し煩うの処:おぼしめしわずらうのところ=心配していたところ。思い悩んでいたところ。
[7]因幡前司広元:いなばぜんじひろもと=前因幡の守であった大江広元(政所別当)のこと。
[8]澆季:ぎょうき=末の世。末世。
[9]梟悪の者:きょうあくのもの=極悪・非道の者。
[10]秋を得るなり:ときをえるなり=時流にかなう。
[11]御居所:おんきょしょ=幕府(頼朝)の本拠地。
[12]靜謐:せいひつ=おだやかに治まる。鎮静。
[13]奸濫:かんらん=悪賢く、秩序を乱す。
[14]東士:とうし=東国武士。関東御家人。
[15]費なり:ついえなり=無駄である。
[16]次を以て:ついでをもって=機会に。
[17]御沙汰を交え:ごさたをまじえ=命令を出して。
[18]強ち:あながち=一概に。必ずしも。必要以上に。
[19]二品:にほん=二位の称。ここでは源頼朝のこと。
[20]甘心:かんしん=満足する。感服する。
[21]治定:ちじょう=決定。裁定を下す。
[22]本末の相応:ほんまつのそうおう=本と末がつり合うこと。論理が一貫していること。
[23]忠言:ちゅうげん=忠告。
[24]補任:ほにん=任命。
[25]権門勢家:けんもんせいか=権威のある門閥・家柄。
[26]庄公:しょうこう=荘園と公田。私有地である荘園と公領である国衙領を含むすべての土地、所領をいう。
[27]兵粮米:ひょうろうまい=兵糧にあてる米。軍隊動員に際し,兵粮として一般からとりたてる米。
[28]段別五升:たんべつごしょう=田地一段に付き五升の米。
[29]北条殿:ほうじょうどの=北条時政(源頼朝の妻政子の父)のこと。
[30]藤中納言経房卿:とうちゅうなごんつねふさきょう=公卿の藤原経房(1143~1200年)のこと。
[31]御沙汰あるべきの由:ごさたあるべきのよし=申請通りに処置せよと。
[32]師中納言:そちのちゅうなごん=公卿の藤原経房(1143~1200年)のこと。

<現代語訳>

文治元年(1185年)11月大12日辛夘。
  (中略)そもそも今度の経緯は、鎌倉幕府の重大事件であるので、どのように扱うべきか、どのように処置するか、とても思い悩んでいたところ、前因幡の守であった大江広元が次のように申し上げた。「世もすでに末世となり、極悪・非道の者がもっとも時流にかなうようになり。世の中の反逆者が有ることについて、なかなか断絶することができないでしょう。ところで東海道の地域については、幕府(頼朝)の本拠地であることによって、おだやかに治まっているといっても、秩序の乱れは、きっと他方に起こるでしょう。これを鎮圧するために、その都度東国武士を派遣することは、人々の負担となり、国費の無駄でありましょう。この機会に、諸国に命令を出して、国衙領・荘園ごとに、守護・地頭を任命されれば、必要以上に怖れることはありません。早くこれを申請して下さい。」と。源頼朝は、ことに満足し、この提案に対して裁定を下した。論理が一貫した忠告のそうさせた所である。

文治元年(1185年)11月大28日丁未。
  諸国に一様に守護・地頭を任命し、権威のある門閥・家柄、荘園と公田を区別ぜず、兵糧にあてる米を田地一段に付き五升の割合で徴税するように、今夜、北条時政が、公卿の藤原経房に拝謁して申し入れたとのこと。

文治元年(1185年)11月大29日戊申。
  北条時政が申し入れたところの諸国の守護・地頭、兵糧にあてる米の事は、早く申し出に任せて申請通りに処置せよと、裁可されたことを、公卿の藤原経房が、天皇の命令として北条時政に伝えられたとのこと。

☆九条兼実著『玉葉』より

十一月廿八日条
陰晴[33]定まらず。伝え聞く、頼朝の代官北条丸[34]、今夜経房[35]に謁す[36]べしと云々。定めて重事等を示す歟。又聞く、件の北条丸[34]以下の郎従[37]等、相分って五畿・山陰・山陽・南海・西海の諸国を賜はり、庄公[38]を論ぜず、兵糧段別五升[39]を宛て催すべし。啻に兵粮の催しのみに非ず、惣じて以て田地を知行[40]すべしと云々。 凡そ言語の及ぶ所に非ず。

【注釈】

[33]陰晴:いんせい=曇りと晴れ。晴曇。
[34]北条丸:ほうじょうまる=北条時政(源頼朝の妻政子の父)のこと。
[35]経房:つねふさ=公卿の藤原経房(1143~1200年)のこと。
[36]謁す:えっす=身分の高い人に会う。
[37]郎従:ろうじゅう=武者や国司に仕えた従僕の総称。
[38]庄公:しょうこう=荘園と公田。私有地である荘園と公領である国衙領を含むすべての土地、所領をいう。
[39]兵糧段別五升:ひょうりょうたんべつごしょう=兵糧にあてる米、田地一段に付き五升。
[40]知行:ちぎょう=特定の領地を与えられ、支配すること。

<現代語訳>

11月28日の条
曇ったり晴れたりと天気が定まらない。聞くところによると、源頼朝の代官北条時政が、今夜経藤原経房に会ったということだとか。きっと重大事等を示すのであろう。また聞くころでは、あの北条時政以下の従僕たちを、相分って五畿・山陰・山陽・南海・西海の諸国を分け与えられ、荘園と公田の区別なく、兵糧米を田地一段に付き五升の割合で徴収するという。それは単に兵粮米の徴収だけでなく、ひろく田地を支配するとか。全く言語道断のことである。

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