ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:後白河天皇

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 今日は、平安時代後期の長寛2年に、後白河天皇(当時は上皇)が、平清盛に造営させた蓮華王院(三十三間堂)の落慶法要が行なわれた日ですが、新暦では1165年1月30日となります。
 蓮華王院(れんげおういん)は、京都府京都市東山区三十三間堂廻り町にある天台宗山門派の寺院です。後白河院の勅願によって、その居住地だった法住寺殿の西側に、平清盛が堂舎、丈六の本尊、等身の千体観音像を造営し、平安時代後期の1165年1月30日(長寛2年12月17日)に落慶法要が行なわれました。
 しかし、1249年(建長元年)の建長の大火で建物や仏像のほとんどを焼失し、1254年(建長6)に湛慶により、木造千手観音坐像(中尊)が完成、1266年(文永3)には、後嵯峨上皇によって、本堂(三十三間堂)のみが再建されます。この建物は、鎌倉時代の代表的な建築様式和様で、1952年(昭和27)に国宝に指定されました。
 その中には、本尊の木造千手観音坐像(寄木造)をはじめ、木造千手観音立像(1,001躯)、木造風神・雷神像、木造二十八部衆立像(いずれも国宝)など、鎌倉時代の仏像が多数並んでいて、圧巻です。また、江戸時代には各藩の弓術家により本堂西軒下(長さ約121m)で矢を射る「通し矢」の舞台となったことで知られてきました。
 尚、1994年(平成6)には、「古都京都の文化財」の構成要素として、世界遺産(文化遺産)に登録されています。

〇蓮華王院(三十三間堂)関係略年表

・長寛2年12月17日(1165年1月30日) 後白河院の勅願を受けて、平清盛が堂舎、丈六の本尊、等身の千体観音像を造営し、落慶法要が営まれる
・建長元年(1249年) 建長の大火で建物や仏像のほとんどを焼失する
・建長6年(1254年) 湛慶により、千手観音坐像(中尊)が完成する
・文永3年(1266年) 後嵯峨上皇によって、本堂(三十三間堂)のみが再建される
・永享5年(1433年) 5年をかけての本堂や仏像の本格的な修復が開始される
・慶長5年(1600年) 豊臣秀頼により、南大門が建立される
・慶長6年(1601年) 豊臣秀頼により、西大門(現在の東寺南大門)が建立される
・貞享3年(1686年) 紀州藩の和佐範遠(大八郎)が総矢数13,053本中通し矢8,133本で天下一となる
・天明8年(1788年) 天明の大火では、三十三間堂の立地する洛東地域は、焼亡を免れる
・寛政10年(1798年) 隣接する方広寺大仏殿に落雷があって方広寺の伽藍が焼失したが、三十三間堂は無事だった
・明治28年(1895年) 西大門が東寺に移築され南大門(重要文化財)となる
・明治30年(1897年) 蓮華王院本堂(三十三間堂)が旧国宝に指定される
・明治33年(1900年) 木造二十八部衆立像(現在は国宝)、南大門(現在は国指定重要文化財)が旧国宝に指定される
・明治41年(1908年) 木造風神・雷神像が旧国宝に指定される
・昭和10年(1935年) 木造千手観音立像(蓮華王院本堂安置)1,001体が旧国宝に指定される
・昭和12年(1937年) 20年計画で責任者の新納忠之介を中心に全1,001体の仏像の修理が行われる
・昭和27年(1952年) 蓮華王院本堂(三十三間堂)が国宝に指定される
・昭和30年(1955年) 木造風神・雷神像、木造二十八部衆立像が国宝に指定される
・昭和36年(1961年) 東大門と回廊が建立される
・昭和48年(1973年) 美術院国宝修理所によって全1,001体の修理が開始される
・昭和63年(1988年) 鐘楼が再建される
・平成6年(1994年) 「古都京都の文化財」の構成要素として、世界遺産(文化遺産)に登録される
・平成29年(2017年) 45年にわたった千手観音立像全1,001体の修復が完了する
・平成30年(2018年) 木造千手観音立像(蓮華王院本堂安置)1,001体が国宝に指定される

〇後白河天皇(ごしらかわてんのう)とは?

 第77代とされる天皇です。平安時代後期の1127年(大治2年9月11日)に、京都において、鳥羽天皇の第四皇子(母は藤原公実の女璋子)として生まれましたが、名は雅仁(まさひと)と言いました。
 1129年(大治4)に曽祖父の白河法皇が亡くなり、鳥羽上皇による院政が開始され、1139年(保延5)に12歳で元服して二品に叙せられます。1143年(康治2)に最初の妃の源有仁の養女・懿子が守仁親王(後の二条天皇)を産んで急死しましたが、1155年(久寿2年7月24日)に近衛天皇が亡くなると、立太子を経ないまま29歳で即位し、第77代とされる天皇となりました。
 1156年(保元元年)に鳥羽法皇が亡くなった後、保元の乱に勝利し、信西(藤原通憲)を重用して政治を取り仕切らせ、新制七ヶ条を制定し、記録所を設置して荘園整理を行い、寺社勢力の削減を図ろうとします。1158年(保元3)には守仁親王(二条天皇)に譲位し、太上天皇となり、上皇として院政(以後、六条天皇、高倉天皇、安徳天皇、後鳥羽天皇と4朝30余年にわたる)を始めました。
 1159年(平治元)の平治の乱に勝利したものの、信西を失ない、平清盛が乱後の実権を握る形で院政は進められます。その後、平氏の全盛期、源平合戦、平氏の滅亡、鎌倉幕府の成立へと進む変革期となりましたが、近臣と共に源平対立を巧みに利用してして対処、王朝権力の維持に努めました。
 一方で、仏道に帰依し、1169年(嘉応元年)に出家して法皇となり、蓮華王院、長講堂等の造寺・造仏、熊野参詣(34回)、高野山、比叡山、東大寺などへの行幸を盛んに行ないます。また、今様を好み歌謡集『梁塵秘抄』 (10巻) 、『梁塵秘抄口伝集』 (10巻) を撰しましたが、1192年(建久3年3月13日)に京都において、数え年66歳で亡くなりました。
 尚、陵墓は京都三十三間堂廻の法住寺陵(現在の京都府京都市東山区)とされています。

〇平 清盛(たいら の きよもり)とは?

 平安時代末期の武将・公卿です。1118年(永久6年1月18日)に、伊勢平氏の棟梁であった父・平忠盛の長男(母・祇園女御の妹?)として生まれ(実父は白河法皇という説あり)ましたが、通称は平相国と言いました。
 1153年(仁平3)父・平忠盛が没し、平氏の棟梁となり、1156年(保元元)に保元の乱が起こると、源義朝と共に後白河天皇側について、勝利を得て播磨守、大宰大弐となります。1159年(平治元)の平治の乱では、源義朝らを追討し、源氏一族を政界から追って、急速にその政治的地位を高め、翌年には正三位、参議、大宰大弐如元となりました。
 1164年(長寛2)に、平氏の繁栄を祈願し厳島神社に『平家納経』33巻 (国宝) を納め、1167年(仁安2)には、従一位太政大臣まで上り詰めます。翌年出家し、1171年(承安元)に娘の徳子を高倉天皇の中宮として入内させると、平氏一門で官職を独占しました。
 日宋貿易や三十余国の知行国、全国に500余りの荘園を持つことによって富を得、栄華を極め、「平氏にあらずんば人にあらず」と言わしめます。1178年(治承2)に娘徳子が高倉天皇の第一皇子(後の安徳天皇)を出産、翌年、後白河法皇を幽閉し、政権を完全掌握(治承三年の政変)し、1180年(治承4)には、外孫の安徳天皇を3歳で即位させました。
 しかし、平氏に対する貴族・寺社の不満が強まり、1180年(治承4)に以仁王が平氏追討の令旨を発すると、伊豆の源頼朝などの反平氏勢力が挙兵します。福原遷都、南都焼討で対抗しようとしましたが、平氏軍不振の中で、1181年(養和元)閏2月4日(5日説あり)に、京都において、熱病に冒されて数え年64歳で亡くなりました。
 
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1701年(元禄14)第114代の天皇とされる中御門天皇の誕生日(新暦1702年1月14日)詳細
1709年(宝永6)第113代の天皇とされる東山天皇の命日(新暦1710年1月16日)詳細
1902年(明治35)小学校教科書の採定をめぐる府県担当官と教科書会社の贈収賄事件(教科書疑獄事件)が発覚する詳細
1938年(昭和13)日本画家小川芋銭の命日詳細
1947年(昭和22)国家地方警察と自治体警察を設置する「旧警察法」が公布(施行は翌年3月6日)される詳細
1957年(昭和32)恩賜上野動物園内に常設では日本初のモノレールが開業する詳細
 
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 今日は、鎌倉時代初期の1192年(建久3)に、第77代の天皇とされる後白河天皇の亡くなった日ですが、新暦では4月26日となります。
 後白河天皇(ごしらかわてんのう)平安時代後期の1127年(大治2年9月11日)に、京都において、鳥羽天皇の第四皇子(母は藤原公実の女璋子)として生まれましたが、名は雅仁(まさひと)と言いました。1129年(大治4)に曽祖父の白河法皇が亡くなり、鳥羽上皇による院政が開始され、1139年(保延5)に12歳で元服して二品に叙せられます。
 1143年(康治2)に最初の妃の源有仁の養女・懿子が守仁親王(後の二条天皇)を産んで急死しましたが、1155年(久寿2年7月24日)に近衛天皇が亡くなると、立太子を経ないまま29歳で即位し、第77代とされる天皇となりました。1156年(保元元年)に鳥羽法皇が亡くなった後、保元の乱に勝利し、信西(藤原通憲)を重用して政治を取り仕切らせ、新制七ヶ条を制定し、記録所を設置して荘園整理を行い、寺社勢力の削減を図ろうとします。
 1158年(保元3)には守仁親王(二条天皇)に譲位し、太上天皇となり、上皇として院政(以後六条、高倉、安徳、後鳥羽と4朝30余年にわたる)を始めました。1159年(平治元)の平治の乱に勝利したものの、信西を失ない、平清盛が乱後の実権を握る形で院政は進められます。
 その後、平氏の全盛期、源平合戦、平氏の滅亡、鎌倉幕府の成立へと進む変革期となりましたが、近臣と共に源平対立を巧みに利用してして対処、王朝権力の維持に努めました。一方で、仏道に帰依し、1169年(嘉応元年)に出家して法皇となり、蓮華王院、長講堂等の造寺・造仏、熊野参詣(34回)、高野山、比叡山、東大寺などへの行幸を盛んに行ないます。
 また、今様を好み歌謡集『梁塵秘抄』 (10巻) 、『梁塵秘抄口伝集』 (10巻) を撰しましたが、1192年(建久3年3月13日)に京都において、数え年66歳で亡くなりました。尚、陵墓は京都三十三間堂廻の法住寺陵(現在の京都府京都市東山区)とされています。

〇後白河天皇関係略年表(日付は旧暦です)

・1127年(大治2年9月11日) 京都において、鳥羽天皇の第四皇子(母は藤原公実の女璋子)として生まれる
・1127年(大治2年11月14日) 親王宣下を受けて「雅仁」と命名される
・1129年(大治4年) 曽祖父の白河法皇が亡くなり、鳥羽上皇による院政が開始される
・1139年(保延5年12月27日) 12歳で元服して二品に叙せられる
・1141年(永治元年12月7日) 崇徳天皇に譲位により、得子所生の体仁親王が即位(近衛天皇)する
・1143年(康治2年) 最初の妃の源有仁の養女・懿子が守仁親王(後の二条天皇)を産んで急死する
・1155年(久寿2年7月24日) 近衛天皇が崩御すると、立太子を経ないまま29歳で即位し、第77代とされる天皇となる
・1155年(久寿2年10月) 藤原公能の娘である藤原忻子が入内する
・1156年(保元元年) 鳥羽法皇が亡くなると保元の乱が発生する
・1158年(保元3年) 守仁親王(二条天皇)に譲位し、太上天皇となる
・1159年(平治元年) 平治の乱が起きて信西を失い、平清盛が乱後の実権を握る形で院政は進められる
・1160年(永暦元年10月) 焼失した三条殿に代わる新たな院政の拠点として、法住寺殿の造営に取り掛かる
・1161年(永暦2年4月13日) 完成した御所に移り住む
・1161年(永暦2年9月3日) 滋子は後白河院の第七皇子(憲仁親王、後の高倉天皇)を出産する
・1161年(永暦2年9月15日) 憲仁立太子の陰謀が発覚し、院政派の平時忠・平教盛・平基盛・藤原成親・藤原信隆らが二条帝により解官される
・1161年(永暦2年12月17日) 藤原育子が入内する
・1162年(応保2年2月19日) 育子が中宮に冊立されると閑院流の藤原実長が中宮権大夫となる
・1162年(応保2年3月) 配流されていた大炊御門経宗が帰京を許される
・1162年(応保2年6月23日) 実長の密告により二条天皇呪詛の容疑で源資賢・平時忠が流罪となる
・1164年(長寛2年12月17日) 多年の宿願により、千体の観音堂・蓮華王院を造営する
・1165年(永万元年6月25日) 子の二条天皇は病状の悪化で順仁親王(六条天皇)に譲位する
・1165年(永万元年7月28日) 子の二条天皇が亡くなる
・1165年(永万元年12月25日) 後白河院は憲仁に親王宣下を行い、平清盛を親王勅別当とする
・1166年(永万2年7月26日) 基実が急死すると、嫡子の近衛基通が幼少のため、松殿基房が新たに摂政・氏長者に任じられる
・1166年(永万2年10月10日) 平清盛の協力を得て、憲仁親王の立太子を実現する
・1167年(仁安2年1月19日) 御所の拡張で法住寺南殿が新しく建て替えられる
・1167年(仁安2年5月10日) 平清盛の長男・平重盛に対して東山・東海・山陽・南海道の山賊・海賊追討宣旨を下す
・1168年(仁安3年2月) 平清盛が病に倒れる
・1168年(仁安3年2月19日) 六条天皇が譲位し、憲仁親王(高倉天皇)が即位する
・1169年(仁安4年1月) 12度目の熊野詣に向かう
・1169年(嘉応元年) 出家して法皇となる
・1169年(嘉応元年12月23日) 延暦寺が藤原成親の配流を要求して強訴する(嘉応の強訴)
・1170年(嘉応2年4月19日) 東大寺で受戒するために奈良に御幸する
・1170年(嘉応2年9月20日) 福原に御幸して宋人と会う
・1170年(嘉応2年10月21日) 参内途中の摂政・松殿基房の車を平重盛配下の武士が襲撃する事件(殿下乗合事件)が起こる
・1170年(嘉応2年12月9日) 藤原基房が太政大臣となる
・1171年(嘉応3年1月3日) 摂政・大臣・公卿・平氏一門が臨席する中、高倉天皇元服の儀式が執り行われる
・1171年(嘉応3年12月14日) 平徳子が後白河院の猶子として高倉天皇に入内する
・1172年(承安2年9月) 宋から後白河院と清盛に供物が届けられる
・1173年(承安3年3月3日) 左大臣・大炊御門経宗の計らいで返牒が出され、答進物が送られることになる
・1173年(承安3年6月25日) 興福寺が多武峯を襲撃して、藤原鎌足の御影堂までも焼き払う
・1173年(承安3年11月3日) 興福寺は強訴と延暦寺攻撃の方針を固めて宇治に向かい、天台座主の配流・覚興の召還・七大寺の所領奪取を図る延暦寺僧の禁獄を要求する
・1176年(安元2年) 建春門院が亡くなると、近臣と平氏の争いが激化する
・1177年(治承元年) 院近臣による平氏打倒の謀議が発覚、近臣数名が平氏によって処罰される(鹿ヶ谷事件)
・1179年(治承3年11月) 平清盛によって鳥羽殿に幽閉される
・1180年(治承4年4月9日) 以仁王が、各地の源氏に平家追討の令旨を出す
・1180年(治承4年4月22日) 高倉天皇の譲位により、安徳天皇(外祖父は平清盛)が即位する
・1180年(治承4年5月26日) 源頼政が以仁王を立てて挙兵するが、平知盛に敗れ、平等院にて敗死する
・1180年(治承4年6月22日) 平氏が福原遷都を強行する
・1180年(治承4年8月17日) 源頼朝が、伊豆で挙兵し山木館を襲撃する
・1180年(治承4年9月7日) 源(木曽)義仲が挙兵する
・1180年(治承4年10月20日) 富士川の戦いが起こり、平氏軍は水鳥の飛び立つ音を源氏の襲撃と間違えて敗走する
・1180年(治承4年11月17日) 源頼朝が、鎌倉に侍所(別当は和田義盛)を設置する
・1180年(治承4年12月28日) 平重衡が、東大寺・興福寺を焼く
・1181年(養和元年閏2月4日) 平清盛が病没する
・1183年(寿永2年5月11日) 倶利伽羅峠の戦いで源(木曽)義仲が平氏を破る
・1183年(寿永2年7月28日) 源(木曽)義仲が、京都に入る
・1183年(寿永2年10月14日) 源頼朝が、寿永宣旨を受け、東国支配権を獲得する
・1184年(寿永3年1月20日) 宇治川の戦いで源義経が源(木曽)義仲を討つ
・1184年(寿永3年1月26日) 平宗盛追討の宣旨を出す
・1184年(寿永3年2月7日) 一ノ谷の戦いで源義経が平氏を破り、平家惣領・平宗盛らは四国・九州に敗走する
・1185年(元暦2年2月19日) 屋島の戦いで源義経らが平氏を破る
・1185年(元暦2年3月24日) 壇の浦の戦いで源義経らが平氏を破り、安徳天皇は入水・死亡し、平氏は滅亡する
・1185年(元暦2年7月9日) 京都を大地震が襲い、多くの建物が倒壊する(文治地震)
・1185年(文治元年8月28日) 八条院や公卿・殿上人を引き連れて東大寺に御幸し、大仏の開眼供養をする
・1185年(文治元年11月28日) 源頼朝が源義経追討のため諸国に守護・地頭を置く勅許を得る(文治の勅許)
・1187年(文治3年2月) 源義経が、藤原秀衡を頼って奥州に落ちのびる
・1189年(文治5年閏4月30日) 衣川の戦いが起き、藤原泰衡が、源義経を討つ
・1189年(文治5年9月18日) 源頼朝が、奥州を平定する
・1190年(建久元年11月9日) 源頼朝と院御所・六条殿で初めての対面を果たす
・1191年(建久2年3月22日) 17ヶ条の新制を発布する
・1192年(建久3年2月18日) 後鳥羽天皇が見舞いのため六条殿に行幸する
・1192年(建久3年3月13日) 京都において、数え年66歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1868年(慶応4)江戸開城を巡って、西郷隆盛と勝海舟が江戸で会談を始める(新暦4月5日)詳細
1988年(昭和63)青函トンネルが開通する詳細
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