今日は、戦国時代の1526年(大永6)に、第104代の天皇とされる後柏原天皇が亡くなった日ですが、新暦では5月18日となります。
後柏原天皇(ごかしわばらてんのう)は、1464年(寛正5年10月20日)に、京都において、後土御門天皇の第1皇子(母は贈皇太后源朝子)として生まれましたが、名は勝仁(かつひと)と言いました。1480年(文明12)に親王宣下され、元服の儀も行われ、1484年(文明16)に勧修寺藤子が入内、1497年(明応5)には、その間に第二皇子知仁親王(後の後奈良天皇)が誕生します。
1500年(明応9年10月25日)に、父・後土御門天皇の崩御を受けて践祚し、第104代とされる天皇となったものの、応仁の乱後の混乱のために朝廷の財政は逼迫しており、すぐに即位礼を行うことが出来ませんでした。1507年(永正4)に執政細川政元が暗殺され、兵革連続して洛中不穏の際に、伊勢神宮などをして天下の和平、国家の安全を祈らせます。
経費節約をし、将軍足利義稙や大坂本願寺僧光兼の献金により、1521年(大永元)に即位22年目にして、ようやく即位の礼を執り行うことができました。また、朝儀の再興に努め、学を好み、仏教の信仰が深く、詩歌管絃や書道にも長じ、和歌集『柏玉集』、日記『後柏原天皇宸記』も残しています。
1525年(大永5)の疱瘡大流行時に自ら筆をとって「般若心経」を延暦寺と仁和寺に奉納したりしましたが、1526年(大永6年4月7日)に京都において、数え年63歳で亡くなり、陵墓は深草北陵(現在の京都市伏見区深草坊町)とされました。
<後柏原天皇の代表的な歌>
・「いくたびか 世はうつりても めぐりあふ 昔のままの 月を見るらむ」
・「さやかなる 月の霜夜に 鳴く蟲の こゑのうちにも 秋ぞふけゆく」
・「心だに 西に向はば 身の罪を 写すかがみは さもあらばあれ」
・「はかなしや 夕かげ草に 鳴く蟲(むし)の あすとたのまぬ 露のいのちは」
・「あふぎみむ 人のためにも 悲しきは わが世くもれる 雲の上の月」(柏玉集)
〇後柏原天皇の主要な著作
・和歌集『柏玉(はくぎょく)集』
・和歌集『後柏原院御百首部類』
・日記『後柏原天皇宸記』
☆後柏原天皇関係略年表(日付は旧暦です)
・1464年(寛正5年10月20日) 京都において、後土御門天皇の第1皇子(母は贈皇太后源朝子)として生まれる
・1480年(文明12年12月13日) 親王宣下される
・1480年(文明12年12月20日) 元服の儀が行われる
・1484年(文明16年) 勧修寺藤子が入内する。
・1497年(明応5年12月23日) 勧修寺藤子を母として、第二皇子知仁親王(後の後奈良天皇)が誕生する
・1500年(明応9年10月25日) 後土御門天皇の崩御を受けて践祚し、第104代とされる天皇となる
・1507年(永正4年6月23日) 執政細川政元が暗殺される
・1507年(永正4年8月) 兵革連続して洛中不穏の際に、伊勢神宮などをして天下の和平、国家の安全を祈らせる
・1508年(永正5年) 執政が細川澄元・高国の間で目まぐるしく替わる
・1521年(大永元年3月22日) 即位22年目にして、ようやく即位の礼を執り行う
・1525年(大永5年11月) 疱瘡大流行時に自ら筆をとって「般若心経」を延暦寺と仁和寺に奉納する
・1526年(大永6年4月7日) 京都において、数え年63歳で亡くなる
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
772年(宝亀3) | 法相宗の僧道鏡の命日(新暦5月13日) | 詳細 |
1133年(長承2) | 浄土宗の開祖法然の誕生日(新暦5月13日) | 詳細 |
1947年(昭和22) | 「労働基準法」が公布される | 詳細 |