今日は、鎌倉時代の1272年(文永9)に、第88代の天皇とされる後嵯峨天皇が亡くなった日ですが、新暦では3月17日となります。
後嵯峨天皇(ごさがてんのう)は、1220年(承久2年2月26日)に京都において、土御門天皇の第三皇子(母は源通子)として生まれましたが、名は邦仁(くにひと)と言いました。翌年に承久の乱が起き、父の土御門天皇が土佐国に流され、母とも死別しました。その後は母方の大叔父である源通方に養われ、通方の死後は祖母承明門院源在子の土御門第に移ります。
1242年(仁治3)に四条天皇が12歳で急死し、立太子を経ず践祚し、同年3月18日に第88代とされる天皇として即位しました。同年に西園寺実氏の息女(のちの大宮院)を中宮とし、翌年には法華八講を修して父の土御門天皇の霊を慰めます。
在位わずか4年の1246年(寛元4)に皇子の久仁親王(後深草天皇)に譲位、上皇となって院政を開始しました。和歌を好み、1247年(宝治元)に歌合を開催、翌年にも応製百首歌「宝治百首」を主催、1251年(建長3)には、藤原為家に『続後撰集』を撰進させます。
しかし、幕府の朝廷に対する干渉が強まり、幕府の意向を重視して、1252年(建長4)には北条時頼の要請に従い、皇子宗尊親王を最初の宮将軍として鎌倉に下しました。1259年(正元元)に後深草天皇に対し、後深草天皇の弟である恒仁親王(亀山天皇)への譲位を促し、さらに院政を続けます。
1265年(文永2年)に藤原為家・真観・基家・行家らに『続古今集』を撰進させ、1268年(文永5)には、出家して法皇となり、素覚と号して、大覚寺に移りました。諸宗の法理に通じ、しばしば高野、熊野を巡り、また経論を書写供養しましたが、1272年(文永9年2月17日)に京都において、数え年53歳で亡くなっています。
尚、亡くなる前に、御書を幕府に送って、将来の皇位は後深草、亀山両流のいずれとも定めず、幕府の推挙にまかせるとの旨を伝えましたが、これが後の北朝・持明院統(後深草天皇の血統)と南朝・大覚寺統(亀山天皇の血統)の確執の契機となり、それが南北朝騒乱へと至ります。
<代表的な歌>
・「敷島や やまと島ねの あさがすみ もろこしまでも 春はたつらし」(続後撰和歌集)
・「吹く風の さそふにほひを しるべにて 行方さだめぬ 花の頃かな」(続拾遺和歌集)
・「暮れてゆく 春の手向や これならむ 今日こそ 花はぬさと 散りけれ」(新後撰和歌集)
・「もろこしも おなじ空こそ しぐるらめ 唐紅に もみぢする頃」(風雅和歌集)
・「三代までに いにしへ今の 名もふりぬ 光をみがけ 玉津島姫」(玉葉和歌集)
〇後嵯峨天皇関係略年表(日付は旧暦です)
・1220年(承久2年2月26日) 京都において、土御門天皇の第三皇子(母は源通子)として生まれる
・1221年(承久3年5月) 承久の乱が起きる
・1221年(承久3年7月) 承久の乱の結果、父の土御門天皇が土佐国に流される
・1221年(承久3年8月) 母と死別する
・1231年(寛喜3年10月11日) 父の土御門天皇が阿波国で亡くなる
・1242年(仁治3年1月9日) 四条天皇が12歳で急死、順徳天皇の皇子忠成王と共に皇位継承候補と目される
・1242年(仁治3年1月20日) 立太子を経ず践祚する
・1242年(仁治3年3月18日) 第88代とされる天皇として即位する
・1242年(仁治3年8月) 西園寺実氏の息女(のちの大宮院)を中宮とする
・1243年(寛元元年) 法華八講を修して父の土御門天皇の霊を慰める
・1246年(寛元4年1月29日) 皇子の久仁親王(後深草天皇)に譲位、上皇となって院政を開始する
・1246年(寛元4年閏4月) 宮騒動が起き、前将軍・藤原頼経が鎌倉から追放される
・1247年(宝治元年) 歌合を開催する
・1248年(宝治2年) 応製百首歌「宝治百首」を主催する
・1251年(建長3年) 藤原為家に『続後撰集』を撰進させる
・1252年(建長4年) 北条時頼の要請に従い、皇子宗尊親王を最初の宮将軍として鎌倉に下す
・1259年(正元元年) 後深草天皇に対し、後深草天皇の弟である恒仁親王(亀山天皇)への譲位を促す
・1265年(文永2年) 藤原為家・真観・基家・行家らに『続古今集』を撰進させる
・1268年(文永5年) 出家して法皇となり、素覚と号して、大覚寺に移る
・1272年(文永9年2月17日) 京都において、数え年53歳で亡くなる
〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)
1946年(昭和21) | 「金融緊急措置令」(勅令第83号)が発布・施行される | 詳細 |
1955年(昭和30) | 小説家・評論家・随筆家坂口安吾の命日(安吾忌) | 詳細 |