ガウスの歴史を巡るブログ(その日にあった過去の出来事)

 学生時代からの大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。その中でいろいろと歴史に関わる所を巡ってきましたが、日々に関わる歴史上の出来事や感想を紹介します。Yahooブログ閉鎖に伴い、こちらに移動しました。

タグ:後小松天皇

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 今日は、室町時代の1377年(永和3)に、第100代の天皇(北朝第6代)とされる後小松天皇の生まれた日ですが、新暦では8月1日となります。
 後小松天皇(ごこまつてんのう)は、京都の押小路殿において、北朝第5代の後円融天皇の第一皇子(母は内大臣三条公忠の女の三条厳子)として生まれましたが、名は幹仁(もとひと)と言いました。1382年(永徳2年)に、乳父日野資教邸で著袴し、父・後円融天皇より譲位を受けて践祚、北朝第6代天皇として即位しましたが、父・後円融上皇による院政が行われます。
 1387年(嘉慶元年)に元服し、1392年(明徳3年閏10月5日)には、南北両朝合体の議によって、南朝の後亀山天皇から神器を受け継ぎ、第100代とされる天皇となり、南北朝合一を果たしました。1393年(明徳4年)に父・後円融上皇が亡くなり、親政を開始、1406年(応永13年)には、生母通陽門院(三条厳子)が亡くなっています。
 和歌・連歌を能くし、1407年(応永14年)には、内裏九十番歌合に出詠、琵琶・立花なども愛好しました。1409年(応永15年)に足利義満の北山第に行幸しましたが、その2ヶ月後に義満が亡くなっています。
 1412年(応永19年8月29日)に、第一皇子の實仁親王(称光天皇)に譲位し、東洞院殿(一条正親町)を御所として院政を執りました。1428年(正長元年)に称光天皇の死後は、伏見宮貞成親王の子の彦仁を猶子とし、後花園天皇として即位させ、引き続き院政を継続します。
 1431年(永享3年)に出家し、法名を素行智としましたが、1433年(永享5年10月20日)に、京都の東洞院御所において、数え年57歳で亡くなり、陵墓はの深草北陵(現在の京都市伏見区深草坊町)とされました。尚、『後小松院御百首』が残され、勅撰入集は『新続古今和歌集』のみ27首となっています。

<後小松天皇の代表的な和歌>

・「あはれなり小田もる庵(いほ)におくかびの煙や民の思なるらむ」(新続古今和歌集)
・「志賀の浦やよせてかへらぬ浪のまに氷うちとけ春は来にけり」(新続古今和歌集)
・「しぐれつつくれてきのふの秋篠やと山の雲のうつりやすさよ」(御百首)
・「又むすぶ契りもしらで消えかへる野上の露のしののめの空」(新続古今和歌集)
・「蘆の芽と見えしかたちをはじめにて国つ社の神のかしこさ」(内裏九十番歌合)

〇後小松天皇関係略年表(日付は旧暦です)

・1377年(永和3年6月27日) 京都の押小路殿において、北朝第5代の後円融天皇の第一皇子(母は内大臣三条公忠の女の三条厳子)として生まれる
・1382年(永徳2年4月7日) 乳父日野資教邸で著袴する
・1382年(永徳2年4月11日) 父・後円融天皇より譲位を受け、践祚する
・1382年(永徳2年12月28日) 北朝第6代天皇として即位するが、父・後円融上皇による院政が行われる
・1387年(嘉慶元年1月3日) 元服する
・1392年(明徳3年閏10月5日) 南北両朝合体の議によって、南朝の後亀山天皇から神器を受け継ぐ(南北朝合一)
・1393年(明徳4年) 父・後円融上皇が亡くなり、親政を開始する
・1406年(応永13年12月) 生母通陽門院(三条厳子)が亡くなる
・1407年(応永14年) 内裏九十番歌合に出詠する
・1409年(応永15年3月) 足利義満の北山第に行幸する
・1409年(応永15年5月) 足利義満が亡くなる
・1412年(応永19年8月29日) 實仁親王(称光天皇)に譲位し、東洞院殿(一条正親町)を御所として院政をとる
・1428年(正長元年) 称光天皇の死後に貞成の子の彦仁を猶子とし、後花園天皇として即位させる
・1431年(永享3年3月24日) 出家し、法名を素行智とする
・1433年(永享5年10月20日) 京都の東洞院御所において、数え年57歳で亡くなる

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

1439年(永享11)飛鳥井雅世が『新続古今和歌集』(二十一代集最後)を撰上する(新暦8月6日)詳細
1582年(天正10)織田信長の後継を決めるための清洲会議が開催される(新暦7月16日)詳細
1850年(嘉永3)新聞記者・小説家小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の誕生日詳細
1900年(明治33)高岡明治33年の大火で、死者7名、負傷者46名、全焼3,589戸、半焼25戸の被害を出す詳細
1909年(明治42)「朝日新聞」で夏目漱石著の小説『それから』が連載開始される詳細
1927年(昭和2)満蒙への積極的介入方針と対中国基本政策決定のため、「東方会議」が開始(~7月7日)される詳細
1936年(昭和11)小説家・児童文学者鈴木三重吉の命日詳細
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 今日は、室町時代の1392年(元中9/明徳3)の閏月に、南朝の後亀山天皇が北朝の後小松天皇に三種の神器を譲って、南北朝動乱が終結して南北朝合一が実現し、北朝の元号「明徳」に統一された日ですが新暦では11月19日となります。
 南北朝動乱(なくぼくちょうどうらん)は、一般には、南北朝時代とも呼ばれてきました。1333年(元弘3/正慶2)の鎌倉幕府の滅亡後、建武の新政を経て、1336年(延元元/建武3)に足利尊氏による光明天皇の践祚、後醍醐天皇の吉野転居により朝廷が分裂してから、南北朝動乱が始まります。
 この時代には、南朝(吉野)と北朝(京都)に2つの朝廷が存在し、近畿地方を中心に全国で南朝方と北朝方による騒乱が続きました。しかし、次第に南朝勢力が衰微し、1392年(元中9/明徳3)に室町幕府第3代将軍足利義満によって、南北朝合一(明徳の和約)に至り、動乱は収まります。
 この過程で、地方の守護は指揮権、所得給与、課税権などの権限を拡大していき、守護大名へと発展していく過程をたどりました。また、農村では、百姓の自治的・地縁的結合による共同組織である惣村が形成されるようになり、土一揆などの民衆の抵抗がおこる基盤となっていきます。
 尚、現在の皇室は南朝を正統としていて、元号も南朝のものが使われてきました。
 
〇南北朝動乱関係略年表 (日付は旧暦です)

<正慶2/元弘3年(1333年)> 
・5月22日 鎌倉を落とし、得宗北条高時以下を自殺させて、鎌倉幕府が滅亡する 

<正慶2/元弘3年(1334年)> 
・1月 後醍醐天皇により建武の新政が行われる 

<建武2年(1335年)> 
・7月 関東で北条時行の反乱(中先代の乱)を平定する 
・10月 足利尊氏が後醍醐天皇に叛いて挙兵する 
・12月11日 箱根・竹ノ下の戦い(○足利軍×●新田軍)が起き、南北朝動乱が始まる 

<延元元/建武3年(1336年)> 
・5月25日 湊川の戦い(○足利軍×●新田・楠木軍)で、楠木正成が戦死する 
・5月29日 尊氏方に京都が占領される 
・8月15日 光明天皇が擁立される 
・10月13日 恒良・尊良両親王を奉じて越前金ケ崎城に立て籠る 
・11月7日 足利尊氏により「建武式目」が制定される 
・12月 後醍醐天皇が吉野へ逃れる 

<延元2/建武4年(1337年)> 
・3月 足利尊氏が高師泰に越前金ヶ崎城を攻略させる 

<延元3/暦応元年(1338年) 
・3月6日 越前金ヶ崎城が陥落する 
・5月 足利尊氏が北畠顕家を堺の石津浜に敗死さる 
・閏7月2日 足利尊氏が新田義貞を越前藤島の戦いにおいて戦死させる 
・8月11日 足利尊氏が征夷大将軍に任ぜられ、京都に室町幕府を開く 

<延元4/暦応2年(1339年)> 
・8月16日 後醍醐天皇が吉野で亡くなり、後村上天皇が即位する 

<延元6/興国2年(1341年)> 
・12月 足利尊氏が天竜寺船を元に送ることを免許する 

<正平2/貞和3年(1347年)>
・11月 楠木正成の子正行、後村山天皇方の武将として、尊氏方をせめる 

<正平3/貞和4年(1348年)> 
・1月5日 四条畷の戦い(○高軍×●楠木軍) 
・6月 直義、尊氏の執事高師直と不和になる 

<正平4/貞和5年(1349年)> 
・9月 足利尊氏が関東管領をおき、足利基氏をこれに任じる 

<正平5/観応元年(1350年)> 
・10月 足利直義・直冬が足利尊氏に叛旗を翻す(観応の擾乱(~1352年)) 

<正平6/観応2年(1351年)> 
・8月 足利尊氏が直義派に対抗するために、子の義詮と共に南朝に降伏する(正平一統) 

<正平7/観応3年(1352年)> 
・2月 南朝軍は約束を破って京都に侵入する 
・2月26日 足利尊氏が鎌倉へ入り、直義を殺害する 
・7月 「観応半済令」が出される 

<正平8/観応4年(1353年)> 
・6月 足利直冬や山名時氏らの攻勢により、足利尊氏らが一時的に京都を奪われる 

<正平10/観応6年(1355年)> 
・1月 再び、足利尊氏らが一時的に京都を奪われる 

<正平11/延文元年(1356年)> 
・8月23日 足利義詮が従三位に昇叙する 

<正平13/延文3年(1358年)> 
・4月30日 足利尊氏が亡くなる 
・12月18日 足利義詮が征夷大将軍に宣下され、室町幕府第2代将軍となる 

<正平16/延文6年(1361年)> 
・細川清氏・畠山国清と対立した仁木義長が南朝へ降り、さらに執事(管領)の清氏までもが佐々木道誉の讒言のために離反して南朝へ降る 
・南朝軍が入京する 

<正平17/康安2年(1362年)> 
・幕府・北朝側が京都を奪還する 
・7月 清氏の失脚以来空席となっていた管領職に斯波義将が任命される 

<正平18/貞治2年(1363年)> 
・1月28日 足利義詮が権大納言に転任する 
・大内弘世、山名時氏を帰服させて中国地方を統一、政権が安定化しはじめる 
・7月29日 足利義詮が従二位に昇叙、権大納言如元 

<正平20/貞治4年(1365年)> 
・2月 足利義詮が三条坊門万里小路の新邸に移る 

<正平21/貞治5年(1366年)> 
・8月 斯波氏が一時失脚すると細川頼之を管領に任命する(貞治の変) 

<正平22/貞治6年(1367年)> 
・1月5日 足利義詮が正二位に昇叙する 
・11月 足利義詮は死に臨み、側室紀良子との間に生まれた10歳の嫡男・義満に家督を譲り、細川頼之を管領に任じて後を託す 
・12月7日 足利義詮が京都において、数え年38歳で亡くなる 

<正平23/応安元年(1368年)> 
・3月11日 南朝の後村上天皇が亡くなる 
・6月17日 「応安半済令」が出される 
・12月30日 足利義満が室町幕府第3代将軍に就任する 

<建徳2/応安4年(1371年)> 
・足利義満が今川了俊に九州統一を命じる 

<建徳3/応安5年(1372年)> 
・11月22日 足利義満が判始の式を行なう 

<天授4/永和4年(1378年)> 
・3月 足利義満が室町に新邸(花の御所)を造営して移住する 

<天授5/康暦元年(1379年)> 
・閏4月14日 細川頼之に帰国が命じられ(康暦の政変)、斯波義将が管領となる 

<弘和2/永徳2年(1382年)> 
・1月26日 足利義満が左大臣となる 
  足利義満が開基として相国寺の建立を開始する 

<弘和3/永徳3年(1383年)> 
・1月14日 足利義満が准三后宣下を受ける 

<元中3/至徳3年(1386年)> 
・7月10日 足利義満が五山制度の大改革を断行、南禅寺を「五山の上」とする 

<元中5/嘉慶2年(1388年)> 
・足利義満が東国の景勝遊覧に出かける 

<元中7/明徳元年(1390年)> 
・閏3月 美濃の乱で土岐康行が鎮圧される 

<元中8/明徳2年(1391年)> 
・12月 明徳の乱で山名氏清が鎮圧される 

<元中9/明徳3年(1392年)> 
・10月27日 足利義満が南北朝の合一(明徳の和約)を実現する 
・閏10月5日 南朝の後亀山天皇が北朝の後小松天皇に三種の神器を譲り、北朝の元号「明徳」に統一される

〇同じ日の過去の出来事(以前にブログで紹介した記事)

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